都會で 芥川龍之介
――或は千九百十六年の東京―
[やぶちゃん注:昭和二(1927)年三月・四月・五月に発行された雑誌『手帖』の三号分に連載された。底本は岩波版旧全集を用いた。なお、一部を底本のスキャン画像とした。]
都會で
――或は千九百十六年の東京――
一
風に靡いたマツチの
二
如何に都會を愛するか?――過去の多い女を愛するやうに。
三
雪の降つた公園の枯芝は何よりも砂糖漬にそつくりである。
四
僕に中世紀を思ひ出させるのは嚴めしい赤煉瓦の監獄である。若し看守さへゐなければ、馬に乘つたジアン・ダアクの飛び出すのに遇つても驚かないかも知れない。
五
或女給の言葉。――いやだわ。今夜は
註。
六
並み木に多いのは
七
令孃に近い藝者が一人、僕の五六歩前に立ち止まると、いきなり擧手の禮をした。僕はちよつと狼狽した。が、後ろを振り返つたら、同じ年頃の藝者が一人、やはりちやんと擧手の禮をしてゐた。
八
最も僕を憂欝にするもの。――カアキイ色に塗つた煙突。電車の通らない線路の錆び。屋上庭園に飼はれてゐる猿。…………
九
僕は午前一時頃或町裏を通りかかつた。すると泥だらけの土工が二人、瓦斯か何かの工事をしてゐた。狹い路は泥の山だつた。のみならずその又泥の山の上にはカンテラの火が一つ靡いてゐた。僕はこのカンテラの爲にそこを通ることも困難だつた。すると若い土工が一人、穴の中から半身を露したまま、カンテラを側へのけてくれた。僕は小聲に「ありがたう」と言つた。が、何か僕自身を憐みたい氣もちもない譯ではなかつた。
十
夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出來ない。――「羊羹のやうに流れてゐる。」
[やぶちゃん注:「詩人S・M」は室生犀星。]
十一
「××さん、遊びませう」と云ふ子供の聲、――あれは音の高低を示せば、×× である。あの音はいつまで殘つてゐるかしら。
十二
火事はどこか祭禮に似てゐる。
十三
東京の冬は何よりも漬け菜の莖の色に現れてゐる。殊に場末の町々では。
十四
何かものを考へるのに善いのはカツフエの一番隅の卓子、それから孤獨を感じるのに善いのは人通りの多い往來のまん中、最後に靜かさを味ふのに善いのは開幕中の劇場の廊下、……