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鬼火へ

[やぶちゃん注:大正十四(1925)年十二月及び翌十五年一月発行の雑誌『文藝春秋』に掲載、後に『侏儒の言葉』に所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。]

 

澄江堂雜記   芥川龍之介

   ――「侏儒の言葉」の代りに――

 

       一 夏目先生の書

 

 僕にも時々夏目先生の書を鑑定してくれろと言ふ人がある。が、僕の眼光ではどうも判然とは鑑定出來ない、唯まつ赤な贋せものだけはおのづから正體を現してくれる。僕は近頃その贋せものの中に決して贋せものとは思はれぬ一本の扇に遭遇した。成程この扇に書いてある句は漱石と言ふ名はついてゐても、確かに夏目先生の書いたものではない。しかし又句がらや書體から見れば、夏目先生の贋せものを作る爲に書いたのではないことも確かである。この漱石とは何ものであらうか? 太白堂三世村田桃鄰も始めの名はやほり漱石である。けれども僕の見た扇はさほど古いものとも思はれない。僕はこの贋せものならざるに贋せものと呼ばれる扇の筆者を如何にも氣の毒に思つてゐる。因に言ふ、夏目先生の書にも近年はめつきり贋せものが殖えたらしい。(大正十四年十月二十日)

 

       二 霜の來る前

 

 毎日庭を眺めてゐると、苔の最も美しいのは霜の來る前、――まづ十月一ぱいである。それから霜の來る前に「カナメモチ」や「モツコク」などの赤々と芽をふいてゐるのは美しいよりも寧ろもの哀れでならぬ。(同年十一月十日)

 

   三 澄江堂

 

 僕になぜ澄江堂などと號するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁はない。唯いつか漫然と澄江堂と號してしまつたのである。いつか佐佐木茂索君は「スミエと言ふ藝者に惚れたんですか?」と言つた。が、勿論そんな譯でもない。僕は時々本名の外に入らざる名などをつけることはよせば好かつたと思つてゐる。(十一月十二日)

 

       四 雅  號

 

 しかし雅號と言ふものはやはり作品と同じやうにその人の個性を示すものである。菱田春草は年少時代には駿走の號を用ひてゐた。年少時代の春草は定めし駿走らしかつたであらう。さう言へば正宗白鳥氏も昔は白怩ニ號してゐたかと思ふ。これは僕の記憶違ひかも知れない。が、若し違つてゐないとすれば、この號も兎に角年少時代の正宗氏を想はせるのに足るものであらう。僕は昔の文人たちの雅號を幾つも持つてゐたのは必しも道樂に拵へたのではない。彼等の趣味の進歩に應じておのづから出來たものと思つてゐる。(同前)

 

       五 シルレルの頭蓋骨

 

 シルレルの遺骸は彼の歿年、千八百五年以來、ちやんとワイマアルの大公爵家の靈廟の中に收められてゐた。が、二十年ばかりたつた後、その靈廟を再建する際に頭蓋骨だけゲエテに贈ることになつた。ゲエテは彼の机の上にこの啓友の頭蓋骨を置き、「シルレル」と題する詩を作つた。そればかりではない。エエベルラインなどは御苦勞にも「シルレルの頭蓋骨を見守れるゲエテ」とか何とか言ふ半身像を作つた。けれどもこれはシルレルではない、誰か他の人の頭蓋骨だつた。(ほんたうのシルレルの頭蓋骨はやつと近年テユウビンゲンの解剖學の教授に發見された。)僕はかう言ふ話を讀み、悪魔のいたづらを見たやうに感じた。他人の頭蓋骨に感激したゲエテは勿論滑※[やぶちゃん注:※=「稽」の俗字。「ヒ」を「上」に代える。]に見えるであらう。しかしその頭蓋骨がなかつたとしたらば、ゲエテ詩集は少くとも「シルレル」の一篇を缺いてゐたのである。(十一月二十日)

 

       六 美人禍

 

 ゲエテをワイマアルの宮廷から退かせたのはフオン・ハイゲンドルフ夫人である。しかも又シヨオペンハウエルに一世一代の戀歌を作らせたのもやはりこのフオン・ハイゲンドルフ夫人である。前者に反感を抱いた女性は彼女の外になかつたらしい。後者に好感を輿へたのは勿論彼女一人である。兎に角兩天才を惱ませ ただけでも、ただの女ではなかつたのであらう。現に寫眞に徴すると、目の大きい、鼻の尖つた、如何にも一癖ありげな美人である。(二十一日)

 

       七 放  心

 

 僕は教師をしてゐた頃、ネクタイをするのを忘れたまま、澄まして往來を歩いてゐた。それを幸ひにも見つけてくれたのは當年の菅忠雄君である。しかしその後學校へ行つたら、今度は物理の教官が一人、カラアをつけるのを忘れたと見え、ネクタイだけシヤツにぶら下げてゐた。どちらがはた目には可笑しかつたかしら。(二十二日)

 

       八 同  上

 

 僕は菊池と長崎へ行つた時、汽車中大いに文藝論をした。そのうちにふと氣がついて見ると、菊池はいつか兩手の間にパラソルを一本まはしてゐる。僕は勿論「おい、君」と言つた。すると菊池は苦笑しながら、鄰にゐた奥さんにパラソルを返した。僕は早速文藝論の代りに菊池の放心を攻撃した。菊池の降參したのはこの時だけである。が、長崎を立つ段になると、僕自身うつかり上野屋へ雨外套を忘れて來てしまつた。菊池の嬉しがるまいことか、忌々しくも大笑ひをして曰、「君も細心は誇れないね。」(同上)