やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

鐵面皮   太宰治
[やぶちやん注:昭和十八(1943)年四月発行の『文學界』の「創作特輯」欄に掲載されたもの。なお底本解題によれば、同四月号「創作特輯」欄には、深田久彌の「木かげの話」、永井龍男の「手袋のかたつぽ」、石塚友二の「十年」、眞杉靜枝の「雪」、舟橋聖一の「眉目」、芹澤光治良の「とらはれの人々」、室生犀星の「若い牛」等の小説が掲載されていた。また後に、昭和二十一(1946)年十一月新紀元社刊の『薄明』に収録されたが、その際、執筆当時の戦況を示す文章に削除訂正を施している、とある。底本は昭和五十三(1978)年筑摩書房刊の類聚版「太宰治全集」第六巻を用いた。]

 

鐵面皮

 

 安心し給へ、君の事を書くのではない。このごろ、と言つても去年の秋から「右大臣實朝」といふ三百枚くらゐの見當の小説に取りかかつて、ことしの二月の末に、やつと百五十一枚といふところに漕ぎつけて、疲れて、二、三日、自身に休暇を與へて、さうしてことしの正月に舟橋氏と約束した短篇小説の事などぼんやり考へてゐたのだけれども、私の生れつきの性質の中には愚直なものもあるらしく、胸の思ひが、どうしても「右大臣實朝」から離れることが出來ず、きれいに氣分を轉換させて別の事を書くなんて鮮やかな藝當はおぼつかなく、あれこれ考へ迷つた末に、やはりこのたびは「右大臣實朝」の事でも書くより他に仕方がない、いや、實朝といふその人に就いては、れいの三百枚くらゐの見當で書くつもりなので、いまは、その三百枚くらゐの見當の「右大臣實朝」といふ私の未完の小説を中心にして三十枚くらゐ何か書かせてもらはう、それより他に仕方がなからうといふ事になつたわけで、さて、それに就いてまたもあれこれ考へてみたら、どうもそれは、自作に對する思はせぶりな宣傳のやうなものになりはしないか、これは誰しも私と同意見に違ひないが、いつたいあの自作に對してごたごたと手前味噌を並べるのは、ろくでもない自分の容貌をへんに自慢してもつともらしく説明して聞かせてゐるやうな薄氣味の惡い狂態にも似てゐるので、私は、自分の本の「はしがき」にも、または「あとがき」にも、いくら本屋の人からさう書けと命令されても、さすがに自慢は書けず、もともと自分の小説の幼稚にして不手際なのには自分でも呆れてゐるのであるから、いよいよ宣傳などは、思ひも寄らぬ事の筈であるが、けれども、いま自分の書きかけの小説「右大臣實朝」をめぐつて何か話をすすめるといふ事になつたならば、作者の眞意はどうあらうと、結果に於いては、汚い手前味噌になるのではあるまいか、映畫であつたら、まづ豫告篇とでもいつたところか、見え透いてゐますよ、いかに伏目になつて謙讓の美德とやらを裝つて見せても、田舍つぺいの圖々しさ、何を言ひ出すのかと思つたら、創作の苦心談だつてさ、苦心談、たまらねえや、あいつこのごろ、まじめになつたんだつてね、金でもたまつたんぢやないか、勉強いたしてゐるさうだ、酒はつまらぬと言つたつてね、口髭をはやしたといふ話を聞いたが、嘘かい、とにかく苦心談とは、恐れいつたよ、謹聽々々、などと腹の蟲が一時に騷ぎ出して來る仕末なので、作者は困惑して、この作品に題して曰く「鐵面皮」。どうせ私は、つらの皮が厚いよ。

 鐵面皮、と原稿用紙に大きく書いたら、多少、氣持も落ちついた。子供の頃、私は怪談が好きで、おそろしさの餘りめそめそ泣き出してもそれでもその怪談の本を手放さずに讀みつづけて、ついには玩具箱から赤鬼のお面を取り出してそれをかぶつて讀みつづけた事があつたけれど、あの時の氣持と實に似てゐる。あまりの恐怖に、奇妙な倒錯が起つたのである。鐵面皮。このお面をかぶつたら大丈夫、もう、こはいものはない。鐵面皮。つくづくと此の三字を見つめてゐると、とてもこれは堂々たる磨きに磨いて黑光りを發してゐる鐵假面のやうに思はれて來た。鋼鐵の感じである。男性的だ。ひよつとしたら、鐵面皮といふのは、男の美德なのかも知れない。とにかく、この文字には、いやらしい感じがない。この頑丈の鐵假面をかぶり、ふくみ聲で所謂創作の苦心談をはじめたならば、案外莊重な響きも出て來て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心翼々、臆病無類の愚作者は、ひとり淋しくうなずいた。

 昭和十一年十月十三日から同年十一月十二日まで、一箇月間、私は暗い病室で毎日泣いて暮してゐた。その一箇月間の日記を、私は小説として或る文藝雜誌に發表した。わがままな形式の作品だつたので、編輯者に非常な迷惑をおかけした樣子である。HUMAN  LOST といふ作品だ。すべて、いまは不吉な敵國の言葉になつたが、パラダイス・ロストをもぢつて、まあ「人間失格」とでもいふやうな氣持でそんな題をつけたのであつて、その日記形式の小説の十一月一日のところに左のやうな文章がある。

 

實朝をわすれず。

 

伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。

鹽の花ちる。

うごくすすき。

 

蜜柑畑。

 

 くるしい時には、かならず實朝を思ひ出す樣子であつた。いのちあらば、あの實朝を書いてみたいと思つてゐた。私は生きのびて、ことし三十五になつた。そろそろいい時分だ、なんて書くと甚だ氣障な空漠たる美辭麗句みたいになつてつまらないが、實朝を書きたいといふのは、たしかに私の少年の頃からの念願であつたやうで、その日頃の願ひが、いまどうやら叶ひさうになつて來たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。天神樣や觀音樣にお禮を申し上げたいところだが、あのお光(みつ)の場合は、ぬかよろこびであつたのだし、あんな事もあるのだから、やつと百五十一枚を書き上げたくらゐで、氣もいそいその馬鹿騷ぎは愼しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書き上げると、またすぐ重い鞄をさげて旅行に出て、あの仕事をつづけるのだ。なんて、やつぱり、小學生が遠足に出かける時みたいな、はしやいだ調子の文章になつてしまつたが、仕事が樂しいといふ時期は一生に、さう度々あるわけでもないらしいから、こんな浮はついた文章も、記念として、消さずにそのまま殘して置かう。

 右大臣實朝。

承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、晴、鶴岳宮の御神樂例の如し、將軍家御疱瘡に依りて御出無し、前大膳大夫廣元朝臣御使として神拜す、又御臺所御參宮。十日、庚戌、將軍家御疱瘡、頗る心神を惱ましめ給ふ、之に依つて近國の御家人等群參す。廿九日、己巳、雨降る、將軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡。以下同斷)[やぶちゃん注:底本では、以上の「承元二年戊辰。」以下ここまでの吾妻鏡の引用部分は「右大臣實朝」と同じく、全体が五字下げである。]

 おたづねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。

 といふのが開卷第一頁だ。どうも、自分の文章を自分で引用するといふのは、グロテスクなもので、また、その自分の文章たるや、かうして書き寫してみると、いかにも青臭く衒氣滿々のもののやうな氣がして來て、全く、たまらないのであるが、そこがれいの鐵面皮だ、洒啞々々然と書きすすめる。ひよつとしたら、この鐵面皮、ほんものかも知れない。もともと藝術家つてのは厚顏無恥の氣障つたらしいもので、漱石がいいとしをして口髭をひねりながら、我輩は猫である、名前はまだ無い、なんて眞顏で書いてゐるのだから、他は推して知るべしだ。所詮、まともではない。賢者は、この道を避けて通る。ついでながら徒然草に、馬鹿の眞似をする奴は馬鹿である。氣違ひの眞似だと言つて電柱によぢのぼつたりする奴は氣違ひである、聖人賢者の眞似をして、したり顏に腕組みなんかしてゐる奴は、やつぱり本當の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあつたが、浮氣の眞似をする奴は、やつぱり浮氣、奇妙に學者ぶる奴は、やつぱり本當の學者、酒亂の眞似をする奴は、まさしく本物の酒亂、藝術家ぶる奴は、本當の藝術家、大石良雄の醉狂振りも、あれは本物、また、笑ひながら嚴肅の事を語れと教へる哲人ニイチエ氏も、笑ひながら、とはなんだ、そんな冗談めかしたりして物を言ふ奴は、やつぱり、ふざけた奴なんだ、といふ事になつて、鐵面皮を裝ふ愚作者は、なんの事はない、そのとほり鐵面皮の愚作者なのだ。まことに、身も蓋も無い興覺めた話で、まるで赤はだかにされたやうな氣持であるが、けれども、これは、あなどるべからざる説である。この説に就いては、なほ長年月をかけて考へてみたいと思つてゐるが、小説家といふものは恥知らずの愚者だといふ事だけは、考へるまでもなく、まづ決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに歸郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬまで駄目だと思へ、と大聲叱咤されて、一つ、ものを覺えた次第であるが、

「兄さん、」と私はいやになれなれしく、「僕はいまは、まるで、てんで駄目だけれども、でも、もう五年、いや十年かな、十年くらゐ經つたら何か一つ兄さんに、うむと首肯させるくらゐのものが書けるやうな氣がするんだけど。」

 兄は眼を丸くして、

「お前は、よその人にもそんなばかな事を言つてゐるのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。一生お前は駄目なんだ。どうしたつて駄目なんだ。五年? 十年? 俺にうむと言はせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんといふ馬鹿な事を考へてゐるんだ。死ぬまで駄目さ。きまつてゐるんだ。よく覺えて置けよ。」

「だつて、」何が、だつてだ、そんなに強く叱咤されても、一向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑つて、さながら、蹴られた足にまたも縋りつく婦女子の如く、「それでは希望が無くなりますもの。」男だか女だか、わかりやしない。「いつたい私は、どうしたらいいのかなあ。」いつか水上温泉で田舍まわりの寶船團とかいふ一座の芝居を見たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狹い色男が、舞臺の端にうなだれて立つて、いつたい私は、どうしたらいいのかなあ、と言つた。それは「血染の名月」といふひどく無理な題目の芝居であつた。

 兄も呆れて、うんざりして來たらしく、

「それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。」と言つて座を立つてしまつた。

 けれどもこの時の兄の叱咤は、非常に役に立つた。眼界が、ひらけた。何百年、何千年經つても不滅の名を歴史に殘してゐるほどの人物は、私たちには容易に推量できないくらゐに、けたはずれの神品に違ひない。羽左衞門の義經を見てやさしい色白の義經を胸に畫いてみたり、阪東妻三郎が扮するところの織田信長を見て、その胴間聲に壓倒され、まさに信長とはかくの如きものかと、まさか、でも、それはあり得る事かも知れない。歴史小説といふものが、この頃おそろしく流行して來たやうだが、こころみにその二、三の内容をちらと拜見したら、驚くべし、れいの羽左、阪妻が、ここを先途と活躍してゐた。羽左、阪妻の活躍は、見た眼にも綺麗で、まあ新講談と思えば、講談の奇想天外にはまた捨てがたいところもあるのだから、樂しく讀めることもあるけれど、あの、深刻さうな、人間味を持たせるとかいつて、楠木正成が、むやみ矢鱈に、淋しい、と言つたり、御前會議が、まるでもう同人雜誌の合評會の如く、ただ、わあわあ騷いで怨んだり憎んだり、もつぱら作者自身のけちな日常生活からのみ推して加藤清正や小西行長を書くのだらうから、實に心細い英雄豪傑ばかりで、加藤君も小西君も、運動選手の如くはしやいで、さうして夜になると淋しいと言つたりするやうな歴史小説は、それが滑稽小説、あるいは諷刺小説のつもりだつたら、また違つた面白味もあるのだが、當の作者は異樣に氣張つて、深刻のつもりでゐるのだから、讀むはうでは、すつかりまごついてしまふのである。どうもあれは、趣向としても、わるい趣向だ。歴史の大人物と作者との差を千里萬里も引き離さなければいけないのではなからうか、と私はかねがね思つてゐたところに、兄の叱咤だ。千里萬里もまだ足りなかつた。白虎とてんとう蟲。いや、龍とぼうふら。くらべものにも何もなりやしないのだ。こんど德川家康と一つ取つ組んでみようと思ふ、なんて大それた事を言つてゐた大衆作家もあつたやうだが、何を言つてゐるのだ、どだい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまつてゐるんだ、よく覺えて置け、と兄の口眞似をして、ちつとも實體の無い大衆作家なんかを持出してそいつを叱りつけて、ひそかに溜飮をさげてゐるんだから私といふ三十五歳の男は、いよいよ日本一の大馬鹿ときまつた。

(前略)あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或ひは深い諦觀だのとしたり顏して囁いてゐたひともありましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆつたりしてゐて、のんきさうに見えました。大聲擧げてお笑ひになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだらうと同情しても、その御當人は案外あかるい氣持で生きてゐるのを見て驚く事は此の世にままある例だと思ひます。だいいちあのお方の御日常だつて、私たちがお傍から見て決してそんな暗いふつたうしいものではございませんでした。私が御所へあがつたのは私の十二歳のお正月で、問註所の入道さまの名越のお家が燒けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御所へあがつて將軍家のお傍の御用を勤めるやうになつたのですが、あの時の火事で入道さまが將軍家よりおあづかりの貴い御文籍も何もかもすつかり灰にしてしまつたとかで、御所へ參りましても、まるでもう呆けたやうになつて、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその樣を見て、笑ひを制する事が出來ず、ついクスクスと笑つてしまつて、はつと氣を取り直して御奧の將軍家のお顏を伺い見ましたら、あのお方も、私のはうをちらと御らんになつてニツコリお笑ひになりました。たいせつの御文籍をたくさん燒かれても、なんのくつたくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がつておいでのその御樣子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思ひました。どうしたつて私たちとは天地の違ひがございます。全然、別種のお生れつきなのです。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方の事をあれこれ、推し測つてみたりするのは、とんでもない間違ひのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんといふ淺はかなひとりよがりの考へ方か、本當に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だつたのですが、おからだも充分に大きく、少し、伏目になつてゆつたりとお坐りになつて居られるお姿は、御所のどんな御老人よりも分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。

 老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉

 その頃もう、こんな和歌さへおつくりになつて居られたくらゐで、お生れつきとは言へ、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術はありませんでした。(後略)

 あまり拔書きすると、出版元から叱られるかも知れない。この作品は三百枚くらゐで完成する筈であるが、雜誌に分載するやうな事はせず、いきなり單行本として或る出版社から發賣される事になつてゐるので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまつてゐるのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれども、三百枚の中から五、六枚くらゐ拔書きしても、そんなに重い罪にはなるまいと考へられる。他の雜誌に分載されるのだつたら、こんな拔書きは許すべからざる犯罪にきまつてゐるが、三百枚いちどに單行本として出版するんだから、まあ、五、六枚のところは、笑許、なんて言葉はない、御寛恕を乞う次第だ。どうせ映畫の豫告篇、結果に於いては、宣傳みたいな事になつてしまふのだから、出版元も大目に見てくれるにきまつてゐると思はれる、などとれいの小心翼々、おつかなびつくりのあさましい自己辯解をやらかして、さて、とまた鐵假面をかぶり、ただいまの拔書きは二枚半、ついでにもう二枚ばかり拔書きさせていただく。

(前略)私は御奉公にあがつたばかりの、しかもわずか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく(中略)その時の事をただいま少し申し上げませう。二月のはじめに御發熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拜せられましたが、その頃が峠で、それからは謂はば薄紙をはがすやうにだんだんと御惱も輕くなつてまゐりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋、尼御臺さまは御臺所さまをお連れになつて御寢所へお見舞ひにおいでになりました。私もその時、御寢所の片隅に小さく控へて居りましたが、尼御臺さまは將軍家のお枕元にずつとゐざり寄られて、つくづくとあのお方のお顏を見つめて、もとのお顏を、もいちど見たいの、とまるでお天氣の事でも言ふやうな平然たる御口調ではつきりおつしやいましたので、私は子供心にも、ドキンとしてゐたたまらない氣持が致しました。御臺所さまはそれを聞いて、え堪へず、泣き伏しておしまひになりましたが、尼御臺さまは、なほも將軍家のお顏から眼をそらさず靜かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでした。あのお方のお顏には疱瘡の跡が殘つて、ひどい面變りがしてゐたのです。お傍の人たちは、みんなその事には氣附かぬ振りをしてゐたのですが、尼御臺さまは、そのとき平氣で言ひ出しましたので、私たちは色を失ひ生きた心地も無かつたのでございます。その時あのお方は、幽かにうなずき、それから白いお齒をちらと覗かせて笑ひながら申されました。

 スグ馴レルモノデス

 このお言葉の有難さ。やつぱりあのお方は、まるで、ずば拔けて違つて居られる。それから三十年、私もすでに四十の聲を聞くやうになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になつても四十になつても、いやいやこれからさき何十年かかつたつて到底、得られさうもありませぬ。(後略)

 べつに、いいところだから拔書きしたといふわけではない。だいたいこんな調子で書いてゐるのだといふ事を、具體的にお知らせしたかつたのである。實朝の近習が、實朝の死と共に出家して山奧に隱れ住んでゐるのを訪ねて行つて、いろいろと實朝に就いての思ひ出話を聞くといふ趣向だ。史實はおもに吾妻鏡に據つた。でたらめばかり書いてゐるんぢやないかと思はれてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し拔萃しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとほりではない。そんなとき兩者を比較して多少の興を覺えるやうに案配したわけである、などと、これではまるで大道の藥賣りの口上にまさる露骨な廣告だ。もう、やめる。さすがの鐵假面も熱くなつて來た。他の話をしやうなにせ、Dつて野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢つた時には、足利時代と桃山時代と、どつちがさきか知らない樣子で、なんだか、ひどく狼狽して居つたが、實朝を、ねえ、これだから世の中はこはいと言ふんだ、何がなんだか、わかつたもんじやない、實朝を書きたいといふのは餘の幼少の頃からのひそかな念願であつた、と言つたつてね、すさまじいぢやないか、いやう!だ、氣が狂つてるんぢやないか、あいつが酒をやめて勉強してゐるなんて嘘だよ、「源の實朝さま」といふ子供の繪本を一册買つて來て、炬燵にもぐり込んで配給の燒酎でも飮みながら、繪本の説明文に仔細らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるやうだ。

 このごろ私は、誰にでも底知れぬほど輕蔑されて至當だと思つてゐる。藝術家といふものは、それくらゐで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵も無い。偉い人間は、咄嗟にきつぱりと意志表示が出來て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、さうして深夜ひとり寢床の中で、ああ、あの時にはかう言ひかえしてやればよかつた、しまつた、あの時、颯つと歸つて來ればよかつた、しまつた、と後悔ほぞを嚙む思ひに眠れず轉輾してゐる有樣なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいふやうなところだ。先日も、ある年少の友人に向つて言つた事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思つてゐるらしいが、後代にまで名が殘つてゐる人たちは、もう君くらゐの年齡の頃には萬卷の書を讀んでゐるんだ、その書だつて猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、戀愛小説、そんなもんぢやない、その時代に於いていかなる學者も未だ讀んでいないやうな書を萬卷讀んでゐるんだ、その點だけで君はすでに失格だ、それから腕力だつて、例外なしにずば拔けて強かつた、しかも決してそれを誇示しない、君は劍道二段ださうで、酒を飮むたびに僕に腕角力をいどむ癖があるけれども、あれは實にみつともない、あんな偉人なんて、あるものぢやない、名人達人といふものは、たいてい非力の相をしてゐるものだ、さうしてどこやら落ちついてゐる、この點に於いても君は完全に失格だ、それから君は中學時代に不自然な行爲をした事があるだらう、すでに失格、偉いやつはその生涯に於いて一度もそんな行爲はしない、男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがつたり泣いたりなんかしない、過剩な感傷がないのだ、平氣で孤獨に堪へてゐる、君のやうにお父さんからちよつと叱られたくらゐでその孤獨の苦しさを語り合ひたいなんて、友人を訪問するやうな事はしない、女だつて君よりは孤獨に堪へる力を持つてゐる、女、三界に家なし、といふぢやないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家も謂わば寓居だ、お嫁に行つたつて、家風に合わなければ離縁される事もあるのだし、離縁されたらこいつは悲慘だ、どこにも行くところがない、離縁されなくたつて、夫が死んだら、どうなるか、子供があつたら、まあその子供の家にお世話になるといふ事になるんだらうが、これだつて自分の家ではない、寓居だ、そのやうに三界に家なしと言はれる程の女が、別にその孤獨を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠してゐるぢやないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類の最下等のものだ、君だつて僕だつて全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつといふものと、どれほど違ふかといふ事を、いまのこの時代に、はつきり知つて置かないといけないのではなからうかと、なぜだか、そんな氣がするのだがね、などとその自稱天才詩人に笑ひながら忠告を試みた事もある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興覺めて生眞面目になるばかりだ。默つて蟲のやうに勉強したいなどといふてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから發してゐるのだ。先日も、在郷軍人の分會査閲に、戰鬪帽をかぶり、卷脚絆をつけて參加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立つてぶざまらしく、折敷さへ滿足に出來ず、分會長には叱られ、面白くなくなつて來て、おれはこんな場所ではこのやうに、へまであるが、出るところへ出れば相當の男なんだ、といふ事を示さうとして、ぎゆつと口を引締めて眥を決し、分會長殿を睨んでやつたが、一向にききめがなく、ただ、しよぼしよぼと憐憫を乞ふみたいな眼つきをしたくらゐの效果しかなかつたやうである。私は第二國民兵の、しかも丙の部類であるから、その時の査閲には出なくてもよかつたらしいのであるが、班長にすすめられて參加したのだ。服裝といふものは不思議なもので、第二國民兵の服裝をしてゐると、どんな人でも、ねつからの第二國民兵に見えて來るもので、職業、年齡、知識、財産などのにおいは全然、消えてしまつて、お醫者も職工さんも重役も床屋さんも、みんな同年配の同資格の第二國民兵に見えて來るものである。まづしい身なりをしてゐても、さすがに人品骨柄いやしからず、こいつただものでない、などといふのは、あれは講談で、第二國民兵の服裝をしてゐるからには、まさしくそのとおり第二國民兵であつて、そこが軍律の有難いところで、いやしくも上官に向つて高ぶる心を起させない。私はその日は、完全に第二國民兵以外の何者でもなかつた。しかも頗る、操作拙劣の兵である。私ひとり參加した爲に、私の小隊は大いに迷惑した樣子であつた。それほど私は、ぶざまだつた。けれども、實に不慮の事件が突發した。査閲がすんで、査閲官の老大佐殿から、今日の諸君の成績は、まづまづ良好であつた。といふ御講評の言葉をいただき、「最後に」と大佐殿は聲を一段と高くして、「今日の査閲に、召集がなかつたのに、みづからすすんで參加いたした感心の者があつたといふ事を諸君にお知らせしたい。まことに美談といふべきである。たのもしい心がけである。もちろん之は、ただちに上司にも報告するつもりである。ただいま、その者の名を呼びます。その者は、この五百人の會員全部に聞えるやうに、はつきりと、大きな聲で返辭をしなさい。」

 まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いつたい、どんな環境の人だらう、などと考へてゐるうちに、名前が私の名だ。「はあい。」のどに痰がからまつてゐたので、奇怪に嗄れた返辭であつた。五百人はおろか、十人に聞えたかどうか、とにかく意氣のあがらぬ返事であつた。何かの間違ひ、と思つたが、また考へ直してみると、事實無根といふわけでもない。私はからだが惡くて丙の部類なのだが、班の人數が少なかつたので、御近所の班長さんにすすめられて參加する事になつたのだ。枯木も山の賑はひといふところだつたのだが、それが激賞されるほどの善行であつたとは全く思ひもかけない事であつた。私は、みんなを、あざむいてゐるやうな氣がして、淺間しくてたまらなかつた。査閲からの歸り路も、誰にも顏を合せられないやうな肩身のせまい心地で、表の路を避け、裡の田圃路を顏を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飮んでみたが、ひどく氣分が重かつた。

「今夜は、ひどく默り込んでいらつしやるのね。」

「勉強するよ、僕は。」落下傘で降下して、草原にすとんと着く、しいんとしてゐる。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいさうだ。新聞の座談會で勇士のひとりがさう言つてゐた。そのやうな謂はば古井戸の底の孤獨感を私もその夜、五合の酒を飮みながらしみじみ味つた事である。操作きわめて拙劣の、小心翼々の三十五歳の老兵が、分會の模範としてほめられた事は、いかにも、なんとしても心苦しく、さすがの鐵面皮も、話ここに至つては、筆を投じて顏を覆わざるを得ないではないか。

(前略)さうして、この建暦元年には、やうやく十二歳になられ、その時の別當定曉僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公曉と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが御落飾がおすみになつてから、尼御臺さまに連れられて將軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時はじめて此の禪師さまにお目にかかつたといふわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて來た人に特有の、磊落のやうに見えながらも、その笑顏には、どこか卑屈な氣弱い影のある、あの、はにかむやうな笑顏でもつて、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辭儀をお返しなさるのでした。無理に明るく無邪氣に振舞おうと努めてゐるやうなところが、そのたつた十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたはしく思ひ、また暗い氣持にもなりました。けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は爭はれず、おからだも大きくたくましく、お顏は、將軍家の重厚なお顏だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やつぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御臺さまに甘えるやうに、ぴつたり寄り添つてお坐りになり、さうして將軍家のお顏を仰ぎ見てただにこにこ笑つて居られます。

 その時將軍家は、私の氣のせゐか少し御不快の樣に見受けられました。しばらくは何もおつしやらず、例の如く少しお背中を丸くなさつて伏目のまま、身動きもせず坐つて居られましたが、やがてお顏を、もの憂さうにお擧げになり、

 學問ハオ好キデスカ

 と、ちよつと案外のお尋ねをなさいました。

「はい。」と尼御臺さまは、かはつてお答へになりました。「このごろは神妙のやうでございます。」

 無理カモ知レマセヌガ

 とまた、うつむいて、低く呟くやうにおつしやつて、

 ソレダケガ生キル道デス