やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ


短歌雜感   芥川龍之介   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年六月発行の『短歌雑誌』に「芥川龍之助」の署名で掲載された。後の大正一一(一九二二)年五月刊の最初の随筆集「點心」に所収された。執筆当時、満二十六歳。この四月には自信作「秋」を発表、同月十日には長男比呂志が誕生、この六月下旬には「南京の基督」「杜子春」を脱稿している。
 底本は岩波旧全集第四巻を用いた。最後に簡単な注を附した。
 よく見れば、これも立派なアフォリズムである(私は私のサイトでのオリジナルな芥川龍之介のアフォリズム集成を秘かに目論んでいる)。なお、第九章(終わりから二つ目)にある『目くらが展覽會へ行つて、入場料の拂ひ戻しを請求するやうなもの』という比喩表現は侮蔑的差別表現として批判的な読みを忘れずにお読み戴きたい。本作は、公開時現在のネット上では未電子化と思われる。【二〇一四年十一月四日 藪野直史】]

 
短歌雜感

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 何か書けと云ふ尾山君の註文である。が、歌壇の事はよく知らない。歌もわかるのだかわからないのだか、自分ながら怪しいものである。まあ好い加減に思ひついた事を書いたのだと思つて頂きたい。
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 短歌雜誌には生活派の歌と云ふのが出てゐる。甚失禮な申し分だが、僕にはあの派の歌に終始してゐる諸先生の心もちがのみこめない。あんな平俗な、と云つて惡ければ實生活的なとでも、民衆的なとでも云ひ換へるが、兎に角あんな平俗な心もちを歌ふ位なら、何も窮屈な思ひをして、三十一文字を弄してゐなくつても、詩とか小説とか、もつと敍述に便利な形式を選んだ方が好ささうな氣がする。あれぢやいくら善く行つても頭の下がるやうな境致には行けさうもない。況や三行の社會主義的氣焰を擧げてゐるなどは、寧ろ惡い道樂である。
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 僕は歌や俳句は巧拙の問題以外に、言詮を絶した心の動きを捉へようとすべきものだらうと思ふ。それが直下ぢきげに捉へてあればこそ、難有い感じも湧いて來るが、生活派の歌のやうに、散文的な境致を彷徨してゐるのではどう考へても救はれない。
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 生活派の歌でないまでも、一茶などの句が大部分、僕に物足りないのはこの爲である。成程一茶の句は惡くはない。人間らしい感情が横溢してゐると云へば横溢してゐる。しかし元祿の大家にあるやうな蒼古沈痛の趣はない。冷酷な評語を下すと、何處か髮結床の親方が敬服しさうな所さへある。しかも其處が幾分か一茶の聲名を揚げるのに役立つたと云ふ氣もしないではない。
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 僕の觀察だから當てにはならないが、現代の歌は齋藤茂吉氏以後、或は「アララギ」派の擡頭以後、殆面目を一新したやうである。その關係は丁度文壇が、武者小路氏或は白樺派の恩惠を蒙つたのと大差ないらしい。文壇では特に僻見を持つてゐる人の外は、誰でもこの武者小路氏或は白樺派の功績を認めてゐる。しかしどうも歌壇の先生たちは、齋藤氏或は「アララギ」派の功績を認めるのに、聊虛心坦懷でなさすぎる樣な憾もないではない。遠慮なく云ふと齋藤氏或は「アララギ」派の歌壇に與へた影響は、武者小路氏或は白樺派の文壇に興へた影響より一層大きくはないかと思ふ。それなら何も他人の功績を認めた所が、御當人の尊嚴に關らない以上、もつと襟度を寛くしても差支へなささうな心もちもする。(斷つて置くが、僕は白樺派に緣のない如く、未嘗「アララギ」派の恩顧を受けた覺えも何もない。)
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 昔マラルメが Poète des poètes に推された事があるが、あの時はマラルメを薦めた連中の中に、コツペもはひつてゐたやうに思ふ。それ程の素直な心もちが、敢て歌壇ばかりとは云はないが、日本の創作界にあるかどうか、殘念ながら疑問のやうな氣がする。
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 何時か或雜誌を見たら、齋藤氏の歌の惡口が出てゐた。その惡口の中に見本として引いてある歌を見ると
   ふゆの日のうすらに照れば並み竹は寒む寒むとして霜しづくすも
と云ふ歌がはひつてゐる。その惡口の當否は問題ぢやないが、この歌が一土塊の價値もないと云つてゐるのを讀むと、かうまで鑑賞上の評價の差は甚しいものかと驚かざるを得ない。歌なぞでさへこの位評價に違ひが出來るのかと思ふと、小説なぞの評判が當てにならないのも尤もだと云ふ感じがする。こんな惡口は少くとも、緣なき衆生は度し難しと云ふトルイズムを想起させるから、全く益にならない譯ではない。唯惡口を云つてゐる人自身の爲に、妙に氣の毒な心もちがする。
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 僕は歌を澤山も讀んだ事はないが、偉い歌人の中でも赤人や家持にはどうも緣の薄い人間らしい。貫之は勿論、西行法師もどう云ふものか、存外齒ごたへのないと云ふ氣がする。これは山家集の好きな谷崎潤一郎氏に何時か大いに攻擊された。が、その後も時々あけて見るが、やはり恐れ入る所までは行く事が出來ない。西行は芭蕉の先生だが、丁度ヴエルレエヌがテニスンに感服したやうに御弟子の方がちと偉かつたやうな心もちがする。だから芭蕉に感心しながら、同じ樣に西行に感心してゐる先生を見ると、何だか芭蕉に感心してゐるのが本氣かどうか怪しいやうな、甚失禮な事を考へ易い。尤もこれは番附を拵へたがる、素人の心理かも知れないとは思ふが。
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 歌が文壇の中心勢力にならないのは、歌人の罪のやうに思つてゐる人がある。しかし僕に云はせると、實は僕程度にしか歌のわからない連中が、文壇に多いせいらしい。噓だと思つたら、作家や批評家に歌の事を書かせて見れば知れると思ふ。事によると僕のこの雜感なども、その好い讚接證據の一つかも知れない。歌のわからない連中が揃つてゐて、無暗に我々を感心させろと呼號するのは、丁度目くらが展覽會へ行つて、入場料の拂ひ戻しを請求するやうなものである。それぢや如何に大歌人が輩出しても、歌は永久に文壇のまん中へ乘り出せないのに違ひない。
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 くだらない事を長々と書いたが、間違つた事は澤山あつても、自ら僞つた事だけは云はなかつたつもりである。歌の專門家はその點に免じて無用の所はしかるべく大目に見て頂きたいと思ふ。

□やぶちゃん注
■第一章
・「尾山君」国文学者で歌人の尾山篤二郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)。金沢生まれ。窪田空穂に私淑、明治四二(一九〇九)年に上京して前田夕暮・若山牧水らと交わる。大正二(一九一三)年に歌集「さすらひ」を出版、大正六(一九一七)年には松村英一と本『短歌雑誌』の編集に参加した。「大伴家持の研究」など古典研究にも優れた。「降りくらむ雪はこそとの音もなししんしんとして鳴れるわが耳」(引用歌を含め、講談社「日本人名大辞典」に拠った)。龍之介より三つ年上。
・「歌もわかるのだかわからないのだか、自分ながら怪しいものである」これは芥川龍之介の自己韜晦。龍之介は江東尋常小学校高等科卒業から府立第三中学校入学の、凡そ満十三~十四歳頃から作歌を始めており、この大正九年まででも、ものした短歌は相当な量に及ぶ。私のオリジナル編集になる「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。寧ろ、龍之介が大正三年二月に第三次『新思潮』創刊に加わって創作活動に入ったその年の発表作は、
「バルタザアル」(アナトール・フランス)/「ケルトの薄明」(イェイツ)/「春の心臓」(イェイツ)/「クラリモンド」(ゴーチェ)の翻訳四篇
「老年」の小説一篇
「青年と死と」(習作)の戯曲一篇
「大川の水」の随筆一篇(歌誌『心の花』に発表)
「未来創刊号」の書評一篇
であるのに対し、
「紫天鵞絨」(全十一首・『心の花』五月・柳川隆之介名義)/「桐(To Signorina Y. Y.)」(全十一首・『帝国文学』五月・柳川龍之介名義)/「薔薇」(全十二首・『心の花』七月・柳川隆之介名義)/「客中恋」(全十二首・『心の花』九月・柳川隆之介名義)の短歌四篇四十六首(因みに翌大正四年二月の『未来』に発表した「砂上遅日」の十二首を加えると五十八首にも及ぶ)
それに加えて、
「若人」の旋頭歌一篇(私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」にはこれも所収してある)
で、その「鼻」による華々しい文壇デビュー前、その前年の芥川龍之介は恰も二十二歳の青年歌人然とした姿で――それも「柳川隆之介」のペンネームで北原白秋(本名は北原隆吉)を強く意識した装束で――景色の中に佇んでいることに気づかなくてはなるまい。
 この後、龍之介は俳句へと深く誘引されることとなるが、それでも終生、作歌を辞めることはなかった。私は――歌人芥川龍之介――とは、必ずしも底の見えた浅いものではないと考えているのである。

■第二章
・「生活派」広義には近代文芸思潮上の一派で、現実の人間生活を重視して日常生活の体験を核とした創作態度に則る立場をいい、小説に於ける自然主義作家はその典型。ここでは短歌に於ける石川啄木・土岐善麿(哀果)・前田夕暮などを濫觴とし、歌壇では啄木の遺志を継がんとした土岐が大正二年に創刊した『生活と芸術』以降、まさに当時は生活派歌人と呼ばれる歌人らが歌壇の一方で有意な勢力を保持していた。
・「三行の社會主義的氣焰」短歌の三行書やローマ字表記などを試みた啄木や善麿は御存じの通り、同時に明治の社会主義文学から大正のプロレタリア文学への橋渡しの役割を担っていた。

■第三章
・「言詮」「げんせん」と読み(「詮」は手段・方法の意)、言葉で説明すること。言語。

■第四章
・「元祿の大家」言わずもがな乍ら、松尾芭蕉のこと。
・「蒼古沈痛」「さうこちんつう(そうこちんつう)」と読み、古めかしい中にも深い趣きを持ち、そこに深い悲しみや心痛の思いが色濃くあることをいう。

■第五章
・「アララギ」本作公開時の大正九年当時、『アララギ』は歌壇に於ける生活派に対する今一方の隆盛を誇っており、新進気鋭の『アララギ』派歌人として茂吉が「短歌における写生の説」を『アララギ』に連載していた時期とも重なっている。龍之介が既に『アララギ』の編集と経営を一手に握っていた島木赤彦を全く挙げずに、『齋藤氏或は「アララギ」派の功績』と表現している点には着目してよい。
・「襟度」「きんど」と読み、「度量」に同じい。立場や考えの異なる人を受け入れる心の広さを指す語。

■第六章
・「マラルメ」十九世紀フランスでアルチュール・ランボーと並び称せられる代表的象徴派詩人ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé 一八四二年~一八九八年)。後の近現代哲学及び芸術思潮へも強い影響を残した。芥川が述べている、彼を皆が「至高の詩人」と称賛した具体的な時期や場所は私には不詳であるが、ウィキの「ステファヌ・マラルメ」には、『マラルメはマネをはじめ、諸芸術家とたいへん親交が深かったことでも有名である。ローマ街にある自宅で開かれた「火曜会」と呼ばれる会合には、数えればキリがないものの、画家のモネ、ルノワール、そしてドガなどの印象派をはじめゴーギャンやドニ、ホイッスラー、詩人のヴェルレーヌ、ヴァレリー、作家のオスカー・ワイルド、アンドレ・ジッド、作曲家のドビュッシーなど、錚々たる芸術家が集まった』とあり、事蹟の部には『1870年代に入ると、地方の中学を転々と赴任していたマラルメはパリへと赴き、英語教師の職を再び得て、積極的にジャーナリズム活動を始める。1873年ごろ、画家のマネと知り合い、1874年にポーの『大鴉』の散文訳、1876年『半獣神の午後』の挿絵で豪華本のコラボレーションを行う。この作品にインスピレーションを受けてドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を作曲した』。『1880年代以降の後期詩篇は、主に詩にまつわるさまざまな精神的事象を、詩そのもので説明するメタポエムが多』く、『最晩年、『コスモポリス』誌に『骰子一擲』を発表。これは「詩と偶然」について扱われたものだが、さまざまに異なる書体や文字の大きさを用い、それまでの西洋詩のもつ諸概念を根本的に覆した。「賽(サイコロ)の一振りは決して偶然を排さないだろう」"UN COUP DE DÉS JAMAIS N'ABOLIRA LE HASARD"という軸になる一文と、それにまつわる複数の挿入節の文章で構成されている。詩の内容のみならず、その視覚的形態はいまなお革新的で斬新である』とあり、後注するように詩人「コツペ」の没年はマラルメの没後であるから、以下の賞賛の時期も一九八〇年代以降一八九〇年代初め辺りのことかと推察される。
・「 Poète des poètes 」フランスで「詩人の中の詩人」。
・「コツペ」フランスの詩人で小説家のフランソワ・コッペ(François Coppée  一八四二年~一九〇八年)。マラルメと同年であった。筑摩全集類聚版注には、『都会の卑近な現実生活の中にひそむ感情を哀愁と感傷をもって歌った』とあり、まさにメタフジカルな詩人マラルメと同世代同時代の「生活派」的なる詩人であったことが知られる(但し、海外サイトの記載を読むに、彼は反ユダヤ主義の「フランス祖国同盟」に参加した民族主義者でもあるので注意されたい)。

■第七章
・「或雜誌」筑摩全集類聚版注は『不詳』とする。識者の御教授を乞う。
・「ふゆの日のうすらに照れば並み竹は寒む寒むとして霜しづくすも」茂吉の処女歌集「赤光」(大正二(一九一三)年刊・初版八百三十四首所収)の冒頭『自明治三十八年至明治四十二年』中の七番目の連作「苅しほ」(明治四〇(一九〇七)年作)の中の第三首。以下に全首を示す。底本は岩波文庫「赤光」(一九五三年刊)に拠った。
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    苅しほ 明治四十年作

秋のひかり土にしみ照りかりしほにばめる小田をだを馬の來る見ゆ

竹おほき山べの村の冬しづみ雪降らなくにかんに入りけり

ふゆの日のうすらに照れば竹群たかむら寒々さむざむとして霜しづくすも

窓のに月照りしかば竹の葉のさやのふるまひあらはれにけり

霜の夜のさ夜のくだちに戸を押すや竹群たかむらが奥にあけの月みゆ

竹むらの影にむかひて琴ひかば淸搔すががきにしもくべかりけり

月あかきもみぢの山に小猿どもあま領巾ひれなどりしてをらん

猿の子の目のくりくりを面白み日の入りがたをわがかへるなり

   *
 なお、龍之介は、この前年大正八(一九一九)年五月の初めての長崎旅行の折り、長崎医専教授(県立長崎病院精神科部長も兼務)であった茂吉と初めて面会、以後、芥川の知己となり、晩年は龍之介の主治医の一人ともなった。また鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、この初対面の際に龍之介は、歌集「赤光」は自分が詩歌に開眼した衝撃の作品であると茂吉に率直に告白している、とある。これは芥川龍之介自身がその「僻見」(大正一三(一九二四)年三月から九月発行の雑誌『女性改造』に連載)の一章「齋藤茂吉」(同年三月発行分掲載)でも述べている。やや長いが引用しておく(底本は岩波旧全集に拠ったが、底本は総ルビであるのを、読みの振れそうなもののみのパラルビとした)。
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       齋藤茂吉

 齋藤茂吉を論ずるのは手輕に出來る藝當ではない。少くとも僕には余人よりも手輕に出來る藝當ではない。なぜと云へば齋藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下してゐるからである。僕は高等學校の生徒だつた頃に偶然「赤光」の初版を讀んだ。「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顯出けんしゆつした。爾來じらい僕は茂吉と共におたまじやくしの命を愛し、淺茅あさぢの原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の靜脈を愛した。かう云ふ茂吉を冷靜に見るのは僕自身を冷靜に見ることである。僕自身を冷靜に見ることは、――いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を豫想した虛榮心を抱かずにはゐられぬものである。到底行路の人を見るやうに僕自身を見ることなどの出來る筈はない。
 僕の詩歌に對する眼はたれのお世話になつたのでもない。齋藤茂吉にあけて貰つたのである。もう今では十數年以前、戸山の原に近い借家の二階に「赤光」の一卷を讀まなかつたとすれば、僕は未だに耳木兎みみづくのやうに、大いなる詩歌の日の光をかい間見ることさへ出來なかつたであらう。ハイネ、ヴエルレエン、ホイツトマン、――さう云ふ紅毛の詩人の詩を手あたり次第讀んだのもその頃である。が、僕の語學の素養は彼等の内陣へ踏み入るには勿論淺薄を免れなかつた。のみならず僕に上田敏と厨川白村くりやがははくそんとを一ぐわんにした語學の素養を與へたとしても、果して彼等の血肉をくらひ得たかどうかは疑問である。(僕は今もなほ彼等の詩の音樂的效果を理解出來ない。稀に理解したと思ふのさへ、指を折つて見れば十行ぐらゐである。)この故に當時彼等の詩を全然讀まずにゐたとしても、必しも後悔はしなかつたであらう。けれども萬一何かの機會に「赤光」の一卷をも讀まなかつたとすれば、――これも實は考へて見れば、案外後悔はしなかつたかも知れない。その代りに幸福なる批評家のやうに、彼自身の色盲には頓着とんちやくせず、「歌は到底文壇の中心的勢力にはなり得ない」などと高を括つてゐたことは確かである。
 且又茂吉は詩歌に對する眼をあけてくれたばかりではない。あらゆる文藝上の形式美に對する眼をあける手傳ひもしてくれたのである。眼を?――或は耳をとも云はれぬことはない。僕はこの耳を得なかつたとすれば、「無精さやかき起されし春の雨」の音にも無關心に通り過ぎたであらう。が、差當り恩になつたものは眼でも耳でも差支へない。兎に角僕は現在でもこの眼に萬葉集を見てゐるのである。この眼に猿蓑を見てゐるのである。この眼に「赤光」や「あら玉」を、――もし正直に云ひ放せば、この眼に「赤光」や「あら玉」の中の幾首かの惡歌あくかをも見てゐるのである。
 齋藤茂吉を論ずるのはかみに述べた理由により、少くとも僕には余人よりも手輕に出來る藝當ではない。且又茂吉の歌の價値を論じ、歌壇に對する功罪を論じ、短歌史上の位置を論ずるのはをのづから人のゐる筈である。(たとひ今はゐないにしろ、百年の後には一人位、必ず茂吉を賛美するか、或は茂吉を罵殺するか、どのみち眞劍に「赤光」の作者を相手どるものの出る筈である。)かたがた嚴然たる客觀の舞臺に齋藤茂吉を眺めることは少時しばらく他日に讓らなければならぬ。僕の此處に論じたいのは何故に茂吉は後輩たる僕の精神的自敍傳を左右したか、何故なにゆゑに僕は歌人たる茂吉に藝術上の導者だうじやを發見したか、何故に僕等は知らず識らずのうちに一血脈けつみやく相傳さうでんしたか、――つまり何故に當時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。
 けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答の多過ぎるのに茫然たらざるを得ないのである。たとへば天滿てんま紙屋治兵衞かみやぢへゑに、何故に彼は曾根崎の白人はくじん小春を愛したかと尋ねて見るがい。治兵衞は忽ち算盤を片手に、髮が好いとか眼が好いとか或は又手足の優しいのが好いとか、いろいろの特色を並べ立てるであらう。僕の茂吉に於けるのもやはりこの例と同じことである。茂吉の特色を説明し出せば、それだけでも數頁に及ぶかも知れない。茂吉は「おひろ」の連作に善男子ぜんだんしの戀愛を歌つてゐる。「死にたまふ母」の連作に娑婆界の生滅しやうめつを語つてゐる。「口ぶえ」の連作に何ものをも避けぬ取材の大膽を誇つてゐる。「乾草ほしくさ」の連作に未だかつてなかつた感覺の雋鋭せんえいを弄んでゐる。「この里に大山大將住むゆゑにわれの心のうれしかりけり」におほどかなる可笑しみを傳へてゐる。「くろぐろとつぶらに熟るる豆柿まめかきに小鳥はゆきぬつゆじもはふり」に素朴なる畫趣を想はせてゐる。「かうかう」「しんしん」の Onomatope に新しい息吹きを吹きこんでゐる。「父母所生ふもしよしやう」「海此岸かいしがん」の佛語に生なましい紅血こうけつを通はせてゐる。…‥
 かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を數へ盡したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髮はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衞の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髮の特色を具へてゐるのも實は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを摑まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出來る筈のものではない。その又小春なるものを摑まへることは、――治兵衞自身も摑まへたかどうかは勿論千古の疑問である。少くとも格別摑まへた結果を文章に作りなどはしなかつたらしい。けれども僕は僕の好んだ茂吉なるものを摑まへた上、一篇の文章を作らなければならぬ。たとひはつきり摑まへることは人間業には及ばないにもしろ、兎に角義理にも一應は眼鼻だけを明らかにした上、寄稿の約束を果さなければならぬ。この故に僕はもう一度あり餘る茂吉の特色の中へ、「何故に?」と同じ問を投げつけるのである。
 「光は東方より來たる」さうである。しかし近代の日本には生憎この言葉は通用しない。少くとも藝術に關する限りは屢西方しばしばさいはうより來てゐるやうである。藝術――と大袈裟に云はないでもい。文藝だけを考へて見ても、近代の日本は見渡す限り大抵近代の西洋の恩惠を蒙つてゐるやうである。或は近代の西洋の模倣を試みてゐるやうである。尤も模倣などと放言すると、忽ち非難を蒙るかも知れない。現に「模倣に長じた」と云ふ言葉は日本國民にかぶらせる惡名あくみやうの代りに使はれてゐる。しかし何ぴとも模倣する爲には模倣する本ものを理解しなければならぬ。たとひ深淺の差はあるにしろ、兎に角本ものを理解しなければならぬ。その理解の淺い例は所謂いはゆる猿の人眞似である。(善良なる猿は人間の所業に深い理解を持つた日には二度と人眞似などはしないかも知れない。)その理解の深い例は藝術の士のする模倣である。即ち模倣の善惡は模倣そのものにあるのではない。理解の深淺にある筈である。よし又淺い理解にもせよ、無理解にはまさると云はなければならぬ。猿の孔雀や大蛇よりも進化の梯子はしごの上段に悠悠と腰を下してゐるのは明らかにこの事實を教へるものである。「模倣に長じた」と云ふ言葉は必しも我我日本人の面目めんぼくに關はる形容ではない。
 藝術上の模倣はかみに述べた通り、深い理解に根ざしてゐる。況やこの理解の透徹した時は、模倣はもう殆ど模倣ではない。たとへば今は古典になつた國木田獨歩の「正直者」はモオパスサンの模倣である。が、「正直者」を模倣と呼ぶのはナポレオンの事業をアレキサンダアの事業の模倣と呼ぶのと變りはない。成程獨歩は人生をモオパスサンのやうに見たであらう。しかしそれは獨歩自身もモオパスサンになつてゐた爲である。或は獨歩自身の中に微妙なる獨歩モオパスサン組合の成立してゐた爲である。更に又警句を弄すれば、人生も亦モオパスサンを模倣してゐた爲と云はれぬことはない。「人生は藝術を模倣す」と云ふ、名高いワイルドのアフオリズムはこの間の消息を語るものである。人生?――自然でも勿論差支へない。ワイルドは印象派の生まれぬ前にはロンドンの市街に立ちめる、美しい鳶色の霧などは存在しなかつたと云つてゐる。靑あをと燃え輝いた糸杉もやはりゴツホの生まれぬ前には存在しなかつたのに違ひない。少くとも水水しい耳隱しのかげに薄赤い頰を光らせた少女の銀座通りを歩み出したのは確かにルノアルの生まれたのちのち、――つひ近頃の出來事である。
 便宜上もう一度繰り返せば、藝術上の理解の透徹した時には、模倣はもう殆ど模倣ではない。寧ろ自他の融合から自然と花の咲いた創造である。模倣の痕跡を尋ねれば、如何なる古今ここんの作品と雖も、全然新しいと云ふものはない。が、又獨自性の地盤を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然古いと云ふものはない。「正直者」はかみに述べた通り、獨歩モオパスサン組合の製品である。と云ふのは何も署名だけは獨歩であると云ふのではない。全篇に獨歩の獨自性をにじませてゐると云ふのである。すると獨歩の見た人生は必しもモオパスサンを模倣することに終始してゐた譯ではない。これはワイルド自身にしても、人生の藝術を模倣する程度を嚴密に規定はしなかつた筈である。實際又自然や人生はワイルドのアフオリズムを應用すれば、甚だ不正確に複製した三色版しよくばんと云はなければならぬ。就中なかんづく銀座街頭の少女などは最も拙劣なる三色版である。
 近代の日本の文藝は横に西洋を模倣しながら、たてには日本の土に根ざした獨自性の表現に志してゐる。苟くも日本に生を享けた限り、齋藤茂吉も亦この例に洩れない。いや、茂吉はこの兩面を最高度に具へた歌人である。正岡子規の「竹の里歌さとうた」に發した「アララギ」の傳統を知つてゐるものは、「アララギ」同人の一人たる茂吉の日本人氣質にほんじんかたぎをも疑はないであらう。茂吉は「吾等の脈管みやくくわんの中には、祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先がおもひに堪へずして吐露した詞語しごが、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとつて虛僞である。おもふに汝にとつても虛僞であるに相違ない」と天下に呼號する日本人である。しかしさう云ふ日本人の中にも、時には如何にありありと萬里の海彼かいひにゐる先達せんだつたちの面影に立つて來ることであらう。
   あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
   かがやけるひとすぢの道遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
   野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
 ゴツホの太陽は幾たびか日本の畫家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。
   かぜむかふ欅太樹けやきふときの日てりの靑きうづだちしまし見て居り
   いちめんにふくらみまろ粟畑あははたを潮ふきあげし疾風はやかぜとほる
   あかあかと南瓜かぼちやころがりゐたりけりむかうの道を農夫はかへる
 これらの歌に對するのは宛然さながら後期印象派の展覽會の何かを見てゐるやうである。さう云へば人物畫もない譯ではない。
   狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我はあゆめる
   すき透り低く燃えたる濱の火にはだか童子どうじは潮にぬれて
 のみならずかう云ふを描いた畫家自身の姿さへ寫されてゐる。
   ふゆ原に繪をかく男ひとり來て動くけむりをかきはじめたり
 幸福なる何人かの詩人たちは或は薔薇を歌ふことに、或はダイナマイトを歌ふことに彼等の西洋を誇つてゐる。が、彼等の西洋を茂吉の西洋に比べて見るがい。茂吉の西洋はをのづから深處しんしよに徹した美に充ちてゐる。これは彼等の西洋のやうに感受性ばかりの産物ではない。正直に自己をつきつめた、痛いたしい魂の産物である。僕は必ずしもかみに擧げた歌を茂吉の生涯の絶唱とは云はぬ。しかしその中に磅礴はうはくする茂吉の心熱しんねつすさまじさを感ぜざるを得ないのは事實である。同時に又さう云ふ熔鑛爐ようくわうろの底に火花を放つた西洋を感ぜざるを得ないのも事實である。
 僕はかみにかう述べた。「近代の日本の文藝は横に西洋を模倣しながら、豎には日本の土に根ざした獨自性の表現に志してゐる。」僕は又かみにかう述べた。「茂吉はこの豎横たてよこの兩面を最高度に具へた歌人である。」茂吉よりも秀歌の多い歌人も廣い天下にはあることであらう。しかし「赤光」の作者のやうに、近代の日本の文藝に對する、――少くとも僕の命を托した同時代の日本の文藝に對する象徴的な地位に立つた歌人の一人もゐないことは確かである。歌人?――何も歌人に限つたことではない。二三の例外を除きさへすれば、あらゆる藝術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ。これは單に大歌人たるよりも、もう少し壯大なる何ものかである。もう少し廣い人生を震蕩しんたうするに足る何ものかである。僕の茂吉を好んだのも畢竟この故ではなかつたのであらうか?
   あが母のを生ましけむうらわかきかなしきちからおもはざらめや
 菲才ひさいなる僕も時々は僕を生んだ母の力を、――近代の日本の「うらわかきかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる齋藤茂吉に藝術上の導者を發見したのは少しも僕自身には偶然ではない。
   *
以下、禁欲的に注しておく(将来的には「僻見」全篇で注を施す予定である)。
●「もう今では十數年以前、戸山の原に近い借家」これに先立つ一四年前の明治四三(一九一〇)年十月(龍之介十八歳)、芥川一家は本所小泉町から東京府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七十一番地(現在の新宿区新宿二丁目。この近辺は当時戸山ヶ原と呼ばれ、陸軍射撃場や陸軍軍人養成機関であった陸軍戸山学校など、軍事関係の施設が設置されていた)の実父新原敏三の経営する耕牧舍牧場の脇にあった敏三の持ち家に転居し、大正三(一九一四)年十月に田端に家を新築するまで、ここに住んでいた。
●「無精さやかき起されし春の雨」「猿蓑」に所収する芭蕉四十八歳、元禄四(一六九一)年二月頃、伊賀上野の実兄の家での作。初案(珍碩ちんせき宛書簡)では「不性さや抱起さるゝ春の雨」である。私は母の夢(彼の母は芭蕉三十九の時に逝去している)でも見たような初案の方が好みである。
●「あら玉」大正一〇(一九二一)年刊の茂吉の第二歌集。
●「白人」「白人しろうと」を音読みした隠語で、厳密には近世上方で私娼及び公認の遊里以外の地にいた遊女の称である。「しろと」「はく」とも読む。大阪では現在の大阪府大阪市大阪市西区新町にあった新町遊廓のみが唯一の幕府公認遊廓で、小春のいた現在の北新地の南西側にあった大坂堂島新地天満屋は非公認遊廓である。
●「雋鋭」「しゆんえい(しゅんえい)」とも読む。優れて抜きん出ていること。
●「大山大將」政治家で元帥陸軍大将であった大山巌(天保一三(一八四二)年~大正五(一九一六)年)。この「赤光」の「折りに觸れて」の一首は大正元年十二月の作。因みに次の「くろぐろと」(これも「折りに觸れて」)までの茂吉の短歌についての叙述は殆んどが「赤光」のものである。
●「かうかう」例えば「あらたま」の知られた一首に、

かがやけるひとすぢの道遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり

がある。
●「しんしん」例えば「赤光」の「折りに觸れて」の一首。

現身うつしみのわが血脈けちみやくのやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ

因みに、「赤光」では六首に「しんしん」の使用が認められ、オノマトペイアの用字としては特異点と言える。
●「 Onomatope 」オノマトペ。オノマトペイア。擬音語・擬声語・擬態語の総称。標記は英語(正しい英語綴りは“onomatopoeia”で「アナマタピーァ」)であるが、元はフランス語“onomatopee”(オノマトペ)。その更なる語源は古代ギリシア語の「言葉の創造」を意味する“onomatopoiía”(オノマトポイーア)である。
●「父母所生」「あらたま」の大正三(一九一四)年の「一心敬禮」の一首、

父母所生ふもしよじやうまなこひらきてひといろのくらきを見たり遠き松かぜ

を指す。「発菩提心論」の「父母所生ぶもしょしょうしんにすみやかに大覺位に証す」という言葉に基づく。即身成仏を主張する根拠として挙げられる語で、空海の「即身成仏義」に引用されて真言密教のみが即身成仏を遂げるための行法であるなどと説かれ、この世で覚りを得るという聖道門を特徴づける概念として用いられた(「WikiArc」の「父母所生の身」に拠る)。これ自体は、父母が生んでくれたこの一身(を以って世界の総てを悉く真実の相として達観する)という謂いである。
●「海此岸」同じく「あらたま」の大正三年の「海濱守命」の一首、

海此岸かいしがんわらべのこゑすなりうらうらと照り滿みつる光にわれ入らむとす

を指す。なお、この歌群や「続く三崎行」は三浦三崎での吟詠で、前田知津子氏の「茂吉の『梁塵秘抄』受容――白秋作品の介在――」や「茂吉における白秋的語句との離別――『梁塵秘抄』受容を視座に――」によれば、北原白秋と白秋の愛読した「梁塵秘抄」からの影響が色濃い茂吉の作品群とされる。
●「ゴツホ」事実、茂吉はゴッホの絵に心酔していた。彼の短歌がゴッホの絵に似ているのは確信犯だからである。
●「三色版」単色図版を赤・黄・青の三原色(具体的にはマゼンタ(赤紫)・イエロー(黄)・シアン(青緑)のインキ)で刷った版を作り、それを更に刷り重ねて、元の色彩のように複製する印刷法。
●「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」「あらたま」「大正二年 九月より」の連作「一本道」(八首)に載る一首。以下、二首も同じ。
●「かぜむかふ欅太樹の日てり葉の靑きうづだちしまし見て居り」「あらたま」の「大正五年」の「暗綠林」の一首。
●「いちめんにふくらみ圓き粟畑を潮ふきあげし疾風とほる」先に出した「あらたま」の「大正三年」の「三崎行」の一首。
●「あかあかと南瓜ころがりゐたりけりむかうの道を農夫はかへる」「あらたま」の「大正三年」の「遊ぶ光」の一首。
●「宛然」まさにそれ自身と思われるさま。そっくりであるさま。さながら。
●「狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我はあゆめる」「あらたま」の「折りにふれ」(先に出た「赤光」の「折りに觸れて」とは別なので注意されたい)の一首。次の「すき透り」も同じ。
●「ふゆ原に繪をかく男ひとり來て動くけむりをかきはじめたり」「あらたま」の「大正三年」の「冬日」の一首。
●「磅礴」「ばうはく(ぼうはく)」とも読む。混じり合って一つになること、また、広がって満ち渡ること、満ち塞がること。ここは表面上は後者であろうが、原義も孕む。
●「震盪」振盪・震蕩。激しく揺り動かすこと。
●「あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや」「あらたま」の「大正四年」の「雜歌」の一首。下に「大悲二首」とある。もう一首も掲げておく。

ははそはの母をおもへば假物にれこしわれとあにおもはめや

 なお、本注の歌集「あらたま」の短歌は国立国会図書館デジタルコレクションの「あらたま」(大正一〇(一九二一)年春陽堂刊)を視認して確認した。
●「菲才」「非才」に同じい。才能がないこと。才能の乏しいこと。また、自分の才能を遜っていう語。

・「トルイズム」“Truism”(英語)自明の理。公理。分かり切ったこと。

■第八章
・「ヴエルレエヌがテニスンに感服したやうに」イギリス・ヴィクトリア朝を代表する桂冠詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)を、マラルメと同じ象徴派詩人ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine 一八四四年~一八九六年)は高く評価した。