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[やぶちゃん注:底本には青土社一九七八年刊 「原民喜全集 Ⅲ」を用いた。なお、同全集の「杞憂句集」の後には、「歌仙二巻」が続くが、共に歌仙を巻いている「零雨」「大魚」及び「孤舟」の号を持つ三方の著作権が確認できないので、今回は見合わせた。【二〇一六年三月二十五日追記:同底本全集「Ⅰ」「Ⅱ」の拾遺の中にも、ここに載らない句群を発見した。ブログ・カテゴリ「原民喜」で逐次、公開するのでそちらも参照されたい。 藪野直史】]

原民喜句集(杞憂句集)   縦書版正字版へ


杞憂句集 その一


  昭和十年

輝ける日向葵の路みつけたり

宮の下に灯は見えて居る雨の月

まつ白の雲の大きさ小六月

枯れのこる蘆の緑は水にあり

かげろふの線路にみえる小春かな

後の月の光は我を突きさすか

霧の中にぽつかりと浮き街はあり

ぱちばちと音たててゐる焚火かな

わが影の人によく似る夜寒かな

枯草のなかに消えゆく径かな

みどり色の星は霜夜に瞬けり

凍て路の轍は少しぬかるみぬ

月蝕のありといふ夜の月冴える

日輪と枯草の丘と青空と



  昭和十一年

凍りたる松の葉はみな美しき

つもりゆく雪はしみらに匂ふなり

雪降りてもののにほひぞ新しき

うつし身にかぶればけぶる寒の水

春立つや冷水浴の水の色

母の背に寝て眼がさめぬ涅槃像

大空を眩しがる子や涅槃像

囀りに何かうれしき想ひあり

こまやかにふるへる雲雀聴き呆けぬ

春潮の光の粒がをどるなり

トンネルの出口真青に陽炎へり

竹林の真上に春の日はくゆる

山火事の遠くに見えて麓かな

綿菓子のもの恋しさや宵祭

てんとう虫電車の中に居たりけり

雛罌粟の花がランプに映る朝

青芝の芽はつぎつぎと土を匐ふ

青鬼灯の根元に雨のけはひあり

胎内をくぐれば夏の海である

船が浮ぶ太平洋の夏である

日蝕や酔うてトマトの花をみる

地獄絵の畢りて空の涼しさよ

端居して流るるごとき心地かな

夜焚船にひたひたと寄る潮かな

足もとの砂崩れ落つ夜光虫

炎天の砂に消えゆく水母かな

滴りや瀬戸内海の無人島

干草のにほひと音ともつれけり

白き碍子のかなたに秋の気圏あり

ひらひらと芙蓉の奥の葉影かな

磨硝子に篠竹写る秋日和

萩の花うつろに揺れてたゞ自し

白壁のかたへにありぬ夜半の月

秋空に吸込まれゆく雲の迅さ

寝台車は寒く故郷は近づきぬ

朝寒に蜜柑山は輝けり

甍々霜をいただき現れ来

しんしんと枯木晴れたる天を衝く

人は死ねど牡蠣新しくて香強し



  昭和十二年

笹の葉は冬暖かき海辺なり

枯芝の月の光に魘れし
[やぶちゃん注:「魘(うなさ)れし」。]

いぢめられて児は死にたしといふ虎落笛
[やぶちゃん注:「虎落笛(もがりぶえ)」。]

風花に美しく狂へる眼がむかれ

冬草に来て舞ふ塵の日に透ける

紫の畔の日南の蓬草

晴天にそよぐ音して麦青し

日は翳り菜の花に日はふりそそぐ

迷子の眼のなかで廻る風車

楠若葉池に触れて枝揺るる

湖にふくらめる山閑古鳥

乳白の雲ちぎれつつ松の芯

樟若葉後の丘に溶けもする

日帰りの旅の疲れや走馬燈

油照りの松葉烈しく雨を恋ふ

汽車の窓の山の芒は真昼なり

芒真昼かなしきことを聯想す

翅立てて啼ける鈴虫燈のそばに

秋の日の幻よりも細き岬

天地の明るき極み鼻殊沙華

夕霧のふと温かし柿紅葉



  昭和十三年

寂光や海のかなたの凍雲の

寒燈は黒きカーテンの部屋にこもる

青写真あはあはと憶ひ出づること

青写真雲ながれ来て日を隠す

手洗の日ざし揺らげり青写真

啓蟄の妖しかぼそき魔法ども

茎立に対(むか)へば澄めり血の音の
[やぶちゃん注:「茎立」は「くくたち」または「くきたち」(ルビを振っていない民喜は恐らく「くきたち」と読んでいる)と読み、薹が立った蕪や油菜等のアブラナ科の植物全般を指す。]

対岸の距離なつかしき桜かな

春雨や幻住庵道濡れそぼつ

踏み迷ふ茶畑にして風光る



  昭和十四年

青鬼灯青き光透く夢の庭

満潮と凪ぎたる夜の厳島

五月雨に鑿たれてゆく人のかほ

残像はけふ紫の春の雲



  昭和十五年

春暁の水平線の雲うつつ

朝日子のゆらぎてゐるや春の海

強き陽さし犬吠岬は陽炎へり

菜畑をひそめて流る黒き利根

病妻と木瓜の季節はめぐりきぬ

碧天にカンナは声を放つ花

まながひ見つつ岬の秋の色
[やぶちゃん注:「まながひ」は「目交(まなかひ)」で、目の当たりに、の意。]

海見ゆる榎がもとの曼珠沙華

雨雲の溶けゆく空に石榴の実

冷やかに雨意こもる雲の松林

窪みたるところどころに草紅葉

飛魚や虹の残せし暗き嵓
[やぶちゃん注:嵓=巌。「いは」。]

五月雨の頃とおぼしき硫黄屑
[やぶちゃん注:「硫黄屑」は分解して粘土状になるので、そのような雨に濡れたように光る粘土質の地層を描写するか?]

樹苺の梢きらめき鳥叫ぶ

ある星は墓かと見えて天の川

まろび伏す日南に死せり蟷螂の

草の花草の実となり日はすずろ

黐木に朱き実見えて日は昏し
[やぶちゃん注:「黐木」は「黐木(もちのき)」。]

蜘蛛の巣が青く見えつつ時雨くる

枯れ散りし枝に纔かの緑うるむ
[やぶちゃん注:「纔かの」は「纔(わづ)かの」。座五の「緑」の読みは詠唱の印象としては「みどり」ではなく「りよく」であろう。]

黒土掘りかへされて薄陽射す
[やぶちゃん注:底本では「黒土」の「黒」と「土」の間の右横にルビ大で「(き)」とあり、更に「掘り」の右横に同じくルビ大で「(打ち)」とある。これについて、底本に注記はなく、また底本全集の校訂凡例には、このような括弧書きの使用についての記載がない。従って、これは原民喜自身の割注ともとれる。一応、以下にそのようなものとして復元した場合の句形を掲げておく。

き土打ちかへされて薄陽射す

私見であるが、こちらの方がすっきりとし響きがよい。]

入営の弟と居て我も若し



  昭和十六年

椿咲いて干潟に満てる日の光

灰色の天然色の干潟春

静臥椅子に頰の火照りを寒の内
[やぶちゃん注:「静臥椅子」は「せいがいす」と読む。寝椅子のこと。民喜の「苦しく美しき夏」にも現れる。]

静臥椅子鳥よくよぎる寒の空

静臥椅子に日数かさなり春立ちぬ

混濁す雪空の下に湖水あり

畔を焼く夕ぐれの焰立ちあがる

春の雨を湛へし壺が樹の下に

光りけりはるけき空の麦畑

蓬草にまじりて小さく青き花

かたつむり静かに動き柿の枝

梅雨じめり蚊帳をめぐりて夢うつつ

ポストまでの路がひそまり五月闇

濁りたる緑に映り若緑

ダリヤの花緑の蜘妹をひそめつつ

葭簀越に漲るものは朝の空

地に滲み眼を過ぎぬ蟻の道

杉の根に西日動かず蜩の声

霧裂けて十薬の花うづく径



  拾遺十四句

城跡のま白き雲や夏蜜柑

草の戸の炬燵は熱し百千鳥

車井戸きりきり鳴るや梅雨の入り

釘ほのかに打たるるほどの日南かな

あちこちに丘の並べる陽の高さ

林檎の皮愛しと見つつ陽炎や

青空に隔たる雪の光かな

涙より優しく光るこの濠は

疲れたる幼な心や紋白蝶

ひとりでに戸のあく宵や春の雨

土牛の地蔵に灯つきたり霙かな

水ぬるみ童子が石を飛ばすなり

冬山に大禍時の色はえぬ

天井板鈍く光れる寒夜なり



  以下は新作(編註・著者但し書)
  [やぶちゃん注:この見出し下の括弧内注記は底本編者のもの。])

大雨に倒れて紅し鳳仙花

うす暗き朝をいつまで虫の声

悪夢さめてしきりに聞ゆ百舌の声

童話風の丘あるところ土筆

突風に電線唸る麦畑

露草は光り沈みぬ雨の中

かなしみて視凝めば露の闇を這ふ

活々と露あらはれぬ苔の闇



杞憂句集 その二


月光に魅入られし雲白く細し

ふるさとに近づく山の冬紅葉

紙白し時雨のはれし時

我を呪ふ声木枯の中にあり

電車降りて月のおぼれる枯野かな



  昭和十七年

軒毎に砂嚢ある路春立ちぬ

常盤木は日を吸集し寒明けぬ

  《熱海二句》
紅梅にまじりて木々の枝やさし

粉雪の熱海の坂をのぼりゆく

犬の鼻の手ざはりに似て冷やき耳

大雪の躇切の旗あはれなり

海近く雪は暗愁をまじへたり

幽かなる虹ゆらめけり軒の雪

歓びの咒ひつつむ猫柳
[やぶちゃん注:「咒ひ」は「咒(まじな)ひ」。]

白魚と夜の暗がりを想ふ時

白魚やふるさとの水やすらかに

空襲警報木瓜の蕾は小さかりき

貝殻に埋もる露次の白き春

春の星ほのかに変るたたずまひ

褐色の叢かすみ雲雀の巣

豪雨あがり茶畑ゆらぐ青野原

豪雨あがり青黒き野の豆の花

南風に低き甍は松の花

麦秋よ電車のあかりあふれゐて

教室の窓にうるほふ田植歌

化けものの少しよぢれし梅雨屏風

はつたいに咽び絵草紙しめりけり

夏燕二つの坂を大きくす

夏眼鏡の中に静まる父母の墓

光濃く胡瓜の菓はたじろがず

光澱み胡瓜のみどり夢に似る

動きゐる船虫に視入り心細る

秋雨は靴に眼鏡に今ぞ泌む

月光に冷えし掌のこの軽さ

甍こそ月の光に燃えんとす

芒の穂研がれ研がれて日は沈む

空白の中に径あり枯石榴

藁屑にしみゐる寒き光あり

木石にゆるき陽ざしは春めけり



  昭和十八年

薄氷白くひそまる坂を下る

海岸にうづくまる丘冬霞

雨あがり冬田はたたふ動く水を

あたたかき庭苔となり雨後の朝

たちのぼるもののけはひや梨の花

石菖の花の精ねむる真砂かな

ガラス戸にうつり揺らげよ若楓

母の日は子供じみたりゆすらうめ

立ちもどり日にうつるなり岩清水

食べものに飢ゑて子供の里祭

唐黍の野のはてに見ゆ小さき虹

秋梅雨に燕は坂に静かなり

  《所懐二句》
こぼろぎのこゑのかぎりをひとりきけよ

残燈に我が秋魂は滅ぶなし

秋雨に疲れ電車は杜絶えたり

牛の胴刈跡の路に見えてあり

日の裏に沈む日輪初しぐれ

コスモスをひつ摑み男痩せ細る

入院患者の顔となりたる妻の羽織

厠凍て子供の軍歌鬨をあぐ

寒さ清し日没とともに暗き街

軌道岐れ濡れたる崖の草紅葉

薄の穂枯野ひきよせおののける

木の葉降るすきとほりたる光縺れ

もの云はぬ日の重なりて冬の靄

口寵りそのまま凍てし夢なりき



  昭和十九年

かわききつたる枯木の日南天にあり

狭き田のしみじみ光り薄氷

きびしき春を山吹の茎青みゆく

地の夢の円々として夏の月

砂冷えてしつかに曇る天の河

われもかう悲しき花と刻みをく

声澄みて雨夜のこほろぎなほ悲し

秋鬼雨蠟燭の灯を揺るがしぬ

すすきすすきまたも薄の目には見ゆ

ふるさとやアルバムに視入る夜の露

露のまま無花果くれる姉の家

熱にうるむ目の色かなし秋の夢

心呆け落葉のすがた眼にあふる



  昭和二十年

マント纏ひ暗がり纏ひ駅の隅

ふるさとの山を怪しむ暗き春

ほのぼのと人馬うつろひ暗き春

腹がへつた腹がへつたと子供ら歌ひ暗き春

暗き春昔の友と語るなし

雲をはぐくみ梅雨の山々うづまけり

水無月の夕ぐれ山はうづまきぬ

雨をふくみ嘆きくぐりぬ木下闇

死に近きものみな黙し木下闇

夕ぐれの村をよこぎる夏のにほひ

雨に濡れ真昼は晴し濠の躑躅

戦慄のかくも静けき若楓

山梔の花にくだけぬ心ばえ



  原子爆弾

夏の野に幻の破片きらめけり

短夜を倒れし山河叫び合ふ

炎の樹雷雨の空に舞上がる

日の暑さ死臭に満てる百日紅

重傷者の来て呑む清水生温く

梯子にゐる屍もあり雲の峰

水をのみ死にゆく少女蟬の声

人の肩に爪立てて死す夏の月

魂呆けて川にかがめり月見草

廃墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる

秋の水焼け爛れたる岸をめぐり

飢ゑて幾日ぞ青田をめぐり風そよぐ

飢ゑて幾日青田をめぐり風の音

里とんぼ流れにうごき毒空木

もらひ湯にまた新しき虫の声

秋雨に弱りゆく身は昼の夢

薄雲の柿ある村に日は鈍る

小春日をひだるきままに歩くなり

霜月の刈田のはての厳島

吹雪あり我に幻のちまたあり

こらへ居し夜のあけがたや雲の峰

ある家に時計打ちをり葱畑

山は近く空はり裂けず山近く