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原民喜全詩集へ
[やぶちゃん注:底本には靑土社一九七八年刊 「原民喜全集 Ⅲ」を用いた。なお、同全集の「杞憂句集」の後には、「歌仙二巻」が続き、これを入れれば全句集を名打てるのであるが、共に歌仙を巻いている「零雨」「大魚」及び「孤舟」の号を持つ三方の著作権が確認できないので、今回は見合わせた。【二〇一一年一月三十日追記】本縦書版を作製、本作が総て戦前・戦中の作であることを鑑み、ここでは句本文を恣意的に正字に換えた。]
原民喜句集(杞憂句集)
杞憂句集 その一
輝ける日向葵の路みつけたり
宮の下に燈は見えて居る雨の月
まつ白の雲の大きさ小六月
枯れのこる蘆の緑は水にあり
かげろふの線路にみえる小春かな
後の月の光は我を突きさすか
霧の中にぽつかりと浮き街はあり
ぱちばちと音たててゐる焚火かな
わが影の人によく似る夜寒かな
枯草のなかに消えゆく徑かな
みどり色の星は霜夜に瞬けり
凍て路の轍は少しぬかるみぬ
月蝕のありといふ夜の月冱える
日輪と枯草の丘と靑空と
昭和十一年
凍りたる松の葉はみな美しき
つもりゆく雪はしみらに匂ふなり
雪降りてもののにほひぞ新しき
うつし身にかぶればけぶる寒の水
春立つや冷水浴の水の色
母の背に寢て眼がさめぬ涅槃像
大空を眩しがる子や涅槃像
囀りに何かうれしき想ひあり
こまやかにふるへる雲雀聽き呆けぬ
春潮の光の粒がをどるなり
トンネルの出口眞靑に陽炎へり
竹林の眞上に春の日はくゆる
山火事の遠くに見えて麓かな
綿菓子のもの戀しさや宵祭
てんとう蟲電車の中に居たりけり
雛罌粟の花がランプに映る朝
靑芝の芽はつぎつぎと土を匐ふ
靑鬼燈の根元に雨のけはひあり
胎内をくぐれば夏の海である
船が浮ぶ太平洋の夏である
日蝕や醉うてトマトの花をみる
地獄繪の畢りて空の涼しさよ
端居して流るるごとき心地かな
夜焚船にひたひたと寄る潮かな
足もとの砂崩れ落つ夜光蟲
炎天の砂に消えゆく水母かな
滴りや瀨戸内海の無人島
干草のにほひと音ともつれけり
白き碍子のかなたに秋の氣圈あり
ひらひらと芙蓉の奧の葉影かな
磨硝子に篠竹寫る秋日和
萩の花うつろに搖れてたゞ自し
白壁のかたへにありぬ夜半の月
秋空に吸込まれゆく雲の迅さ
寢臺車は寒く故郷は近づきぬ
朝寒に蜜柑山は輝けり
甍々霜をいただき現れ來
しんしんと枯木晴れたる天を衝く
人は死ねど牡蠣新しくて香強し
昭和十二年
笹の葉は冬暖かき海邊なり
枯芝の月の光に魘れし
[やぶちゃん注:「魘(うなさ)れし」。]
いぢめられて兒は死にたしといふ虎落笛
[やぶちゃん注:「虎落笛(もがりぶえ)」。]
風花に美しく狂へる眼がむかれ
冬草に來て舞ふ塵の日に透ける
紫の畔の日南の蓬草
晴天にそよぐ音して麥靑し
日は翳り菜の花に日はふりそそぐ
迷子の眼のなかで廻る風車
楠若葉池に觸れて枝搖るる
湖にふくらめる山閑古鳥
乳白の雲ちぎれつつ松の芯
樟若葉後の丘に溶けもする
日歸りの旅の疲れや走馬燈
油照りの松葉烈しく雨を戀ふ
汽車の窓の山の芒は眞晝なり
芒眞晝かなしきことを聯想す
翅立てて啼ける鈴蟲燈のそばに
秋の日の幻よりも細き岬
天地の明るき極み鼻殊沙華
夕霧のふと温かし柿紅葉
昭和十三年
寂光や海のかなたの凍雲の
寒燈は黑きカーテンの部屋にこもる
靑寫眞あはあはと憶ひ出づること
靑寫眞雲ながれ來て日を隱す
手洗の日ざし搖らげり靑寫眞
啓蟄の妖しかぼそき魔法ども
莖立に對(むか)へば澄めり血の音の
[やぶちゃん注:「茎立」は「くくたち」または「くきたち」(ルビを振っていない民喜は恐らく「くきたち」と読んでいる)と読み、薹が立った蕪や油菜等のアブラナ科の植物全般を指す。]
對岸の距離なつかしき櫻かな
春雨や幻住庵道濡れそぼつ
踏み迷ふ茶畑にして風光る
昭和十四年
靑鬼燈靑き光透く夢の庭
滿潮と凪ぎたる夜の嚴島
五月雨に鑿たれてゆく人のかほ
殘像はけふ紫の春の雲
昭和十五年
春曉の水平線の雲うつつ
朝日子のゆらぎてゐるや春の海
強き陽さし犬吠岬は陽炎へり
菜畑をひそめて流る黑き利根
病妻と木瓜の季節はめぐりきぬ
碧天にカンナは聲を放つ花
まながひ見つつ岬の秋の色
[やぶちゃん注:「まながひ」は「目交(まなかひ)」で、目の当たりに、の意。]
海見ゆる榎がもとの曼珠沙華
雨雲の溶けゆく空に石榴の實
冷やかに雨意こもる雲の松林
窪みたるところどころに草紅葉
飛魚や虹の殘せし暗き嵓
[やぶちゃん注:嵓=巖=「巌」で「いは」。]
五月雨の頃とおぼしき硫黄屑
[やぶちゃん注:「硫黄屑」は分解して粘土状になるので、そのような雨に濡れたように光る粘土質の地層を描写するか?]
樹苺の梢きらめき鳥叫ぶ
ある星は墓かと見えて天の川
まろび伏す日南に死せり蟷螂の
草の花草の實となり日はすずろ
黐木に朱き實見えて日は昏し
[やぶちゃん注:「黐木」は「黐木(もちのき)」。]
蜘蛛の巣が靑く見えつつ時雨くる
枯れ散りし枝に纔かの緑うるむ
[やぶちゃん注:「纔かの」は「纔(わづ)かの」。座五の「緑」の読みは詠唱の印象としては「みどり」ではなく「りよく」であろう。]
黑土掘りかへされて薄陽射す
[やぶちゃん注:底本では「黑土」の「黑」と「土」の間の右横にルビ大で「(き)」とあり、更に「掘り」の右横に同じくルビ大で「(打ち)」とある。これについて、底本に注記はなく、また底本全集の校訂凡例には、このような括弧書きの使用についての記載がない。従って、これは原民喜自身の割注ともとれる。一応、以下にそのようなものとして復元した場合の句形を掲げておく。
黑き土打ちかへされて薄陽射す
私見であるが、こちらの方がすっきりとし響きがよい。]
入營の弟と居て我も若し
昭和十六年
椿咲いて干潟に滿てる日の光
灰色の天然色の干潟春
靜臥椅子に頰の火照りを寒の内
[やぶちゃん注:「靜臥椅子」は「せいがいす」と読む。寝椅子のこと。民喜の「苦しく美しき夏」にも現れる。]
靜臥椅子鳥よくよぎる寒の空
靜臥椅子に日數かさなり春立ちぬ
混濁す雪空の下に湖水あり
畔を燒く夕ぐれの焰立ちあがる
春の雨を湛へし壺が樹の下に
光りけりはるけき空の麥畑
蓬草にまじりて小さく靑き花
かたつむり靜かに動き柿の枝
梅雨じめり蚊帳をめぐりて夢うつつ
ポストまでの路がひそまり五月闇
濁りたる緑に映り若緑
ダリヤの花緑の蜘妹をひそめつつ
葭簀越に漲るものは朝の空
地に滲み眼を過ぎぬ蟻の道
杉の根に西日動かず蜩の聲
霧裂けて十藥の花うづく徑
拾遺十四句
城蹟のま白き雲や夏蜜柑
草の戸の炬燵は熱し百千鳥
車井戸きりきり鳴るや梅雨の入り
釘ほのかに打たるるほどの日南かな
あちこちに丘の並べる陽の高さ
林檎の皮愛しと見つつ陽炎や
靑空に隔たる雪の光かな
涙より優しく光るこの濠は
疲れたる幼な心や紋白蝶
ひとりでに戸のあく宵や春の雨
土牛の地藏に燈つきたり霙かな
水ぬるみ童子が石を飛ばすなり
冬山に大禍時の色はえぬ
天井板鈍く光れる寒夜なり
以下は新作(編註・著者但し書)
[やぶちゃん注:この見出し下の括弧内注記は底本編者のもの。])
大雨に倒れて紅し鳳仙花
うす暗き朝をいつまで蟲の聲
惡夢さめてしきりに聞ゆ百舌の聲
童話風の丘あるところ土筆
突風に電線唸る麥畑
露草は光り沈みぬ雨の中
かなしみて視凝めば露の闇を這ふ
活々と露あらはれぬ苔の闇
杞憂句集 その二
月光に魅入られし雲白く細し
ふるさとに近づく山の冬紅葉
紙白し時雨のはれし時
我を呪ふ聲木枯の中にあり
電車降りて月のおぼれる枯野かな
昭和十七年
軒毎に砂嚢ある路春立ちぬ
常盤木は日を吸集し寒明けぬ
《熱海二句》
紅梅にまじりて木々の枝やさし
粉雪の熱海の坂をのぼりゆく
犬の鼻の手ざはりに似て冷やき耳
大雪の躇切の旗あはれなり
海近く雪は暗愁をまじへたり
幽かなる虹ゆらめけり軒の雪
歡びの咒ひつつむ猫柳
[やぶちゃん注:「咒ひ」は「咒(まじな)ひ」。]
白魚と夜の暗がりを想ふ時
白魚やふるさとの水やすらかに
空襲警報木瓜の蕾は小さかりき
貝殼に埋もる露次の白き春
春の星ほのかに變るたたずまひ
褐色の叢かすみ雲雀の巣
豪雨あがり茶畑ゆらぐ靑野原
豪雨あがり靑黑き野の豆の花
南風に低き甍は松の花
麥秋よ電車のあかりあふれゐて
教室の窓にうるほふ田植歌
化けものの少しよぢれし梅雨屏風
はつたいに咽び繪草紙しめりけり
夏燕二つの坂を大きくす
夏眼鏡の中に靜まる父母の墓
光濃く胡瓜の菓はたじろがず
光澱み胡瓜のみどり夢に似る
動きゐる船蟲に視入り心細る
秋雨は靴に眼鏡に今ぞ泌む
月光に冷えし掌のこの輕さ
甍こそ月の光に燃えんとす
芒の穗研がれ研がれて日は沈む
空白の中に徑あり枯石榴
藁屑にしみゐる寒き光あり
木石にゆるき陽ざしは春めけり
昭和十八年
薄氷白くひそまる坂を下る
海岸にうづくまる丘冬霞
雨あがり冬田はたたふ動く水を
あたたかき庭苔となり雨後の朝
たちのぼるもののけはひや梨の花
石菖の花の精ねむる眞砂かな
ガラス戸にうつり搖らげよ若楓
母の日は子供じみたりゆすらうめ
立ちもどり日にうつるなり岩淸水
食べものに飢ゑて子供の里祭
唐黍の野のはてに見ゆ小さき虹
秋梅雨に燕は坂に靜かなり
《所懷二句》
こぼろぎのこゑのかぎりをひとりきけよ
殘燈に我が秋魂は滅ぶなし
秋雨に疲れ電車は杜絶えたり
牛の胴刈蹟の路に見えてあり
日の裡に沈む日輪初しぐれ
コスモスをひつ摑み男痩せ細る
入院患者の顏となりたる妻の羽織
厠凍て子供の軍歌鬨をあぐ
寒さ淸し日沒とともに暗き街
軌道岐れ濡れたる崖の草紅葉
薄の穗枯野ひきよせおののける
木の葉降るすきとほりたる光縺れ
もの云はぬ日の重なりて冬の靄
口寵りそのまま凍てし夢なりき
昭和十九年
かわききつたる枯木の日南天にあり
狹き田のしみじみ光り薄氷
きびしき春を山吹の莖靑みゆく
地の夢の圓々として夏の月
砂冷えてしつかに曇る天の河
われもかう悲しき花と刻みをく
聲澄みて雨夜のこほろぎなほ悲し
秋鬼雨蠟燭の燈を搖るがしぬ
すすきすすきまたも薄の目には見ゆ
ふるさとやアルバムに視入る夜の露
露のまま無花果くれる姉の家
熱にうるむ目の色かなし秋の夢
心呆け落葉のすがた眼にあふる
昭和二十年
マント纏ひ暗がり纏ひ驛の隅
ふるさとの山を怪しむ暗き春
ほのぼのと人馬うつろひ暗き春
腹がへつた腹がへつたと子供ら歌ひ暗き春
暗き春昔の友と語るなし
雲をはぐくみ梅雨の山々うづまけり
水無月の夕ぐれ山はうづまきぬ
雨をふくみ嘆きくぐりぬ木下闇
死に近きものみな默し木下闇
夕ぐれの村をよこぎる夏のにほひ
雨に濡れ眞晝は晴し濠の躑躅
戰慄のかくも靜けき若楓
山梔の花にくだけぬ心ばえ
原子爆彈
夏の野に幻の破片きらめけり
短夜を倒れし山河叫び合ふ
炎の樹雷雨の空に舞上がる
日の暑さ死臭に滿てる百日紅
重傷者の來て呑む淸水生温く
梯子にゐる屍もあり雲の峰
水をのみ死にゆく少女蝉の聲
人の肩に爪立てて死す夏の月
魂呆けて川にかがめり月見草
廢墟すぎて蜻蛉の羣を眺めやる
秋の水燒け爛れたる岸をめぐり
飢ゑて幾日ぞ靑田をめぐり風そよぐ
飢ゑて幾日靑田をめぐり風の音
里とんぼ流れにうごき毒空木
もらひ湯にまた新しき蟲の聲
秋雨に弱りゆく身は晝の夢
薄雲の柿ある村に日は鈍る
小春日をひだるきままに歩くなり
霜月の刈田のはての嚴島
吹雪あり我に幻のちまたあり
こらへ居し夜のあけがたや雲の峰
ある家に時計打ちをり葱畑
山は近く空はり裂けず山近く