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   原民喜全詩集

[やぶちゃん注:底本は1978年青土社刊「原民喜全集」のⅢ及びⅡを用いた。Ⅲから「全詩集」分すべて、また「画集」の内、作者によって「美しき詩の岸に」に分類されたために、「全詩集」から省略されⅡに収録された分を、「画集」の後に載せた。これで、昭和31(1956)年刊青木文庫版「原民喜詩集」と等量となる。2006年1月13日公開。【2016年3月17日追記:十年前に作成した本ページは「全詩集」を謳っているが、実は前記全集の「Ⅰ」「Ⅱ」には、「美しき死の岸に」に含まれる散文詩篇群や、初期作品を集めた拾遺集があり、そこにも詩篇類(散文詩と判断し得るものを含む)が現認される。将来的には本ページにそれらを合わせたいと考えているが、暫くはこの度、私のブログ・カテゴリ「原民喜」で逐次、電子化しているのでそちらも参照されたい。藪野直史】【2023年1月15日追記:甚だ見難かったことに今さら気づき、表示法に全体に手を加えた。】]

  画集



 
はつ夏


ゆきずりにみる人の身ぶりのうちから そのひとの昔がみえてくる。垣間みた あやめの花が をさない日の幻となる。胸をふたぐといふのではない、いつのまにかつみかさなつたものが おのれのうちにくるめいてゐる。藤の花の咲く空、とびかふ燕。




 
気 鬱


 母よ、あなたの胎内に僕がゐたとき、あなたを駭かせたといふ近隣の火災が、あのときのおどろきが僕にはまだ残つてゐる。(そんな古いことを語るあなたの記憶のなかに溶込まうとした僕ももう昔の僕になつてしまつたが)母よ、地上に生き残つていつも脅やかされとほしてゐるこの心臓には、なにかやはりただならぬ気鬱が波打つてゐる。




 
祈 り


     私は夏の数日を、その家の留守をあづかつてゐた。広い家ではなかつたが、ひとり暮し
    には閑寂で、宿なしの私には珍しく気分が落着いてきた。ある夜ふけ、窓から月が差し、
   ……すると、お前と暮してゐた昔どほりの家かとおもへた。


 もつと軽く もつと静かに、たとへば倦みつかれた心から新しいのぞみのひらかれてくるやうに 何気なく畳のうへに坐り、さしてくる月の光を。




 



 荒れ野を叫びながら逃げまどつてゐたときも、追ひつめられて息がと絶えさうになつたときも、緑色の星と凍てついてしまつたときも、お前は睡つてゐた 睡つてゐた おほらかな嘆きのやうに。




 
死について


 お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つたとき、焰はパッと透明な球体をつくり 清らかな優しい死の床が浮かび上つた。
 誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつてゐると お前の頰の薔薇は呟いた。小さな かなしい アンデルセンの娘よ。
 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、いつも浮かんでくるのはその幻だ。




 



 いま朝が立ちかへつた。見捨てられた宇宙へ、叫びとなつて突立つてゆく 針よ 真青な裸身の。









  画集

[やぶちゃん注:昭和31(1956)年刊青木文庫版「原民喜詩集」に収録されていたが、青土社版全集では、著者自身の分類により、第Ⅱ巻の「美しき死の岸に」に収録され、第Ⅲ巻から省かれた「画集」の九篇を、以下に掲げる。]




 落 日

 湖のうへに、赤い秋の落日があつた。ほんとに、なごやかな一日であつたし、あんな、たつぷりした入日を見たことはないと、お前も云つた。いつまでも、あの日輪のすがたは残つた、紙の上に、心の上に、そして、お前が死んでからは、はつきりと夢の中に。


 故 園

 土蔵の跡の石に囲まれた菜園、ここは一段と高く、とぼしい緑を風に晒してゐる。わたしはさまざまなことをおもひだす。薄暗い土蔵の小さな窓から灰かに見えてゐた杏の花。母と死別れた秋、蔵の白い壁をくつきりと照らしてゐた月。ふるさとの庭は年老いて愁も深かつたが……。ふしぎな朝の夢のなかでは、ずしんと崩壊した刹那の家のありさまが見えてくるのだ。


 記 憶

 もしも一人の男がこの世から懸絶したところに、うら若い妻をつれて、そこで夢のやうな暮しをつづけたとしたら、男の魂のなかにたち還つてくるのは、恐らく幼ない日の記憶ばかりだらう。そして、その男の幼児のやうな暮しが、ひつそりとすぎ去つたとき、もう彼の妻はこの世にゐなかつたとしても、男の魂のなかに栖むのは妻の面影ばかりだらう。彼はまだ頑に呆然と待ち望んでゐる、満目蕭条たる己の晩年に、美しい記憶以上の記憶が甦つてくる奇蹟を。


 植物園

 はげしく揺れる樹の下で、少年の瞳は、雲の裂け目にあつた。かき曇る天をながれてゆく龍よ……。
 その頃、太陽はギドレニイの絵さながらに、植物園の上を走つてゐた。忍冬、柊、木犀、そんなひつそりとした樹木が白い径に並んでゐて、その径を歩いてゐるとき、野薔薇の花蔭から幻の少女はこちらを覗いてゐた。樹の根には、しづかな埋葬の図があつた。色どり華やかな饗宴や、虔しい野らの祈りも、殆どすべての幻があそこにはあつたやうだ。それは一冊の画集のやうに今も懐しく私のなかに埋れてゐる。


 黒すみれ

 体のすみずみまで、もう過ぎ去つた、お前の病苦がじかに感じられて、睡れない一夜がすぎると、砂埃のたつ生温かい日がやつて来た。かういふ日である、何か考へながら、何も云はず、力ないまつげのかげに、熱い眼がみひらかれてゐたのは。



 真 昼

 うつとりとお前の一日がすぎてゆくほとりで、何の不安もなく伸びてゐたものがある。それは小さな筍が竹になる日だつた。そよ風とやはらかい陽ざしのなかに、縺れてほほゑむ貌は病んでゐたが。


  露

 キラキラと光りながれるものが涙をさそふなら、闇にうかぶ露が幻でないなら、おもひつめた、パセチツクな眼よ。


  部 屋

 小さな部屋から外へ出て行くと坂を下りたところに白い空がひろがつてゐる。あの空のむかふから私の肩をささへてゐるものがある。ぐつたりと私を疲れさせたり、不意に心をときめかすものが。

 私の小さな部屋にはマツチ箱ほどの机があり、その机にむかつてペンをもつてゐる。ペンをもつてゐる私をささへてゐるものは向に見える空だ。


  一つの星に

 わたしが望みを見うしなつて暗がりの部屋に横たはつてゐるとき、どうしてお前は感じとつたのか。この窓のすき間に、あたかも小さな霊魂のごとく滑りおりて憩らつてゐた、稀れなる星よ。









  原爆小景




  
コレガ人間ナノデス


コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス




  
燃エガラ


夢ノナカデ
頭ヲナグリツケラレタノデハナク
メノマヘニオチテキタ
クラヤミノナカヲ
モガキ モガキ
ミンナ モガキナガラ
サケンデ ソトヘイデユク
シュポッ ト 音ガシテ
ザザザザ ト ヒツクリカヘリ
ヒツクリカヘツタ家ノチカク
ケムリガ紅クイロヅイテ


河岸ニニゲテキタ人間ノ
アタマノウヘニ アメガフリ
火ハムカフ岸ニ燃エサカル
ナニカイツタリ
ナニカサケンダリ
ソノクセ ヒツソリトシテ
川ノミヅハ満潮
カイモク ワケノワカラヌ
顔ツキデ 男ト女ガ
フラフラト水ヲナガメテヰル

ムクレアガツタ貌ニ
胸ノハウマデ焦ケタダレタ娘ニ
赤ト黄ノオモヒキリ派手ナ
ボロキレヲスツポリカブセ
ヨチヨチアルカセテユクト
ソノ手首ハブランブラント揺レ
漫画ノ国ノ化ケモノノ
ウラメシヤアノ恰好ダガ
ハテシモナイ ハテシモナイ
苦患ノミチガヒカリカガヤク




  
火ノナカデ 電柱ハ


火ノナカデ
電柱ハ一ツノ蕊ノヤウニ
蠟燭ノヤウニ
モエアガリ トロケ
赤イ一ツノ蕊ノヤウニ
ムカフ岸ノ火ノナカデ
ケサカラ ツギツギニ
ニンゲンノ目ノナカヲオドロキガ
サケンデユク 火ノナカデ
電柱ハ一ツノ蕊ノヤウニ




  
日ノ暮レチカク


日ノ暮レチカク
眼ノ細イ ニンゲンノカホ
ズラリト河岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ頭ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ツテユク 陽ノイロ
シヅカニ オソロシク
トリツクスベモナク



  
真夏ノ夜ノ河原ノミヅガ


真夏ノ夜ノ
河原ノミヅガ
血ニ染メラレテ ミチアフレ
声ノカギリヲ
チカラノアリツタケヲ
オ母サン オカアサン
断末魔ノカミツク声
ソノ声ガ
コチラノ堤ヲノボラウトシテ
ムカフノ岸ニ ニゲウセテユキ




  
ギラギラノ破片ヤ


ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パツト剝ギトツテシマツタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
プスプストケムル電線ノニホヒ



  
焼ケタ樹木ハ


焼ケタ樹木ハ マダ
マダ痙攣ノアトヲトドメ
空ヲ ヒツカカウトシテヰル
アノ日 トツゼン
空ニ マヒアガツタ
竜巻ノナカノ火箭
ミドリイロノ空ニ樹ハトビチツタ
ヨドホシ 街ハモエテヰタガ
河岸ノ樹モキラキラ
火ノ玉ヲカカゲテヰタ 




  
水ヲ下サイ


水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ




  
永遠のみどり


ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焰の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ









  魔のひととき



  
魔のひととき


尾花の白い幻や たれこめた靄が
もう 今にも滴り落ちさうな
冷えた涙のわきかへる わきかへる

この魔のひとときよ
とぼとぼと坂をくだり径をゆけば
人の世は声をひそめ

キラキラとゆらめく泉
笑まひ泣く あえかなる顔




  
外食食堂のうた


毎日毎日が僕は旅人なのだらうか
驟雨のあがつた明るい窓の外の鋪道を
外食食堂のテーブルに凭れて 僕はうつとりと眺めてゐる

僕を容れてくれる軒が何処にもないとしても
かうしてテーブルに肘をついて憩つてゐる
昔、僕はかうした身すぎを想像だにしなかつた
明日、僕はいづこの巷に斃れるのか
今、ガラス窓のむかふに見える街路樹の明るさ




  
讃歌


濠端の鋪道に散りこぼれる槐の花
都に夏の花は満ちあふれ心はうづくばかりに憧れる

まだ邂合したばかりなのに既に別離の悲歌をおもはねばならぬ私
「時」が私に悲しみを刻みつけてしまつてゐるから
おんみへの讃歌はもの静かにつづられる

おんみ最も美しい幻
きはみなき天をくぐりぬける一すぢの光
破滅に瀕せる地上に奇蹟のやうに存在する

おんみの存在は私にとつて最も痛い
死が死をまねき罪が罪を深めてゆく今
一すぢの光はいづこへ突抜けてゆくか




  
感 涙


まねごとの祈り終にまことと化するまで、
つみかさなる苦悩にむかひ合掌する。
指の間のもれてゆくかすかなるものよ、
少年の日にもかく涙ぐみしを。

おんみによつて鍛へ上げられん、
はてのはてまで射ぬき射とめん、
両頰をつたふ涙 水晶となり
ものみな消え去り あらはなるまで。




  
ガリヴァの歌


必死で逃げてゆくガリヴァにとつて
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す 

されど後より後より追まくつてくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐へて
生きながらへん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す




  
家なき子のクリスマス


主よ、あはれみ給へ 家なき子のクリスマスを
今 家のない子はもはや明日も家はないでせう そして
今 家のある子らも明日は家なき子となるでせう
あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き
破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません
明日 ふたたび火は空より降りそそぎ
明日 ふたたび人は灼かれて死ぬでせう
いづこの国も いづこの都市も ことごとく滅びるまで
悲惨はつづき繰り返すでせう
あはれみ給へ あはれみ給へ 破滅近き日の
その兆に満ち満てるクリスマスの夜のおもひを




  
碑 銘


遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻




  
風 景


水のなかに火が燃え
夕靄のしめりのなかに火が燃え
枯木のなかに火が燃え
歩いてゆく星が一つ




  
悲 歌


濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頰笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに









  拾遺詩篇




  詩集その一
  かげろふ断章



       
昨日の雨


 
散歩


誰も居てはいけない
そして樹がなけらねば
さうでなけられば
どうして私がこの寂しい心を
愛でられようか




 



遠くの路を人が時時通る
影は蟻のやうに小さい
私は蟻だと思つて眺める
幼い児が泣いた眼で見るやうに
それをぼんやり考へてゐる 




 



何もしない
日は過ぎてゐる
あの山は
いつも遠いい




 
四 月


起きもしない
外はまばゆい
何だか静かに
失はれてゆく




 
眺 望


それは眺めるために
山にかかつてゐたが
はるか向うに家があるなど
考へてゐると
もう消えてしまつたまつ白のうす雲だ




 
遅 春


まどろんでいると
屋根に葉が揺れてゐた
その音は微けく
もう考へるすべもなかつた 




 



みなぎれる空に
小鳥飛ぶ
さえざえと昼は明るく
鳥のみ動きて影はなし





 



愛でようとして
ためいきの交はる
ここの川辺は
茫としてゐる




 



川の水は流れてゐる
なんといふこともない
来てみれば
やがて
ひそかに帰りたくなる




 
小春日


樹はみどりだつた
坂の上は橙色だ
ほかに何があつたか
もう思ひ出さぬ
ただ いい気持で歩いてゐた




 
秋 空


一すぢの坂は遙けく
その果てに見る空の青さ
坂の上に空が
秋空が遠いい




 
遠 景


幼いのか
山はひらたい
ぼつちりと
陽が紅らんだ




 



こはれた景色に
夕ぐれはよい
色のない場末を
そよそよと歩けば




 
波 紋


すべてはぼんやりとした
ぼんやりとして空も青い
水の上の波紋はかすか
すなほなる想ひに耽ける




 
愛 憐


ひつそりと 枝にはじけつ
はじけつ
空に映れる
青める雪は




 
月 夜


雲や霧が白い
ほの白い
路やそして家も
ところどころにある




 
淡 景


淡い色の
たのしみか
そのままに
樹樹は並んだ




 
疲 れ


雪のなかを歩いて来た
まつ白な路を見て
すやすやしながら
大そう うつかりしてゐた




 
京にて  ――悼詩


眺めさせや
甍の霜
夢のごとおもひつつ
この霜のかくもしき




 
春 望


つれづれに流れる雲は
美しさをまして行く
春陽の野山に
今日は来て遊んだ




 
旅 懐


山水の後には
空がある 
空は春のいたるところに
浅浅と残されてゐる




 



影こそ薄く
思ひは重し
霞のなかの山なれば
山に隠るる山なれば




 



ふと見し梢の
優しかる
みどり煙りぬ
ささやかに




 



私の一つ身がいとしい
雲もいとしい
時は過ぎず
うつうつと空にある




 
川の断章



  1

川に似て
音もない
川のほとり
川のほとりの


  2

空の色
寂び異なるか
水を映して
水にも映り


  3


思ひは凍けて
川ひとすぢとなる


  4


遠かれば
川は潜むか
流るるか
悠久として


  5


現世うつしよの川に
つながるものの
現世の川に
ながれゆくもの




 



ねむれるにあらずや

仄かにしたはしき海
たまきはる命をさなく
我はまことになべてを知り得ず




 
五 月


遠いい朝が来た
ああ 緑はそよいでゐる
晴れ渡つた空を渡る風
なにしに今日はやつて来たのだ

[やぶちゃん注:「遠いい」はママ。]




 
白 帆


あれはゆるい船だが
春風が麦をゆらがし
子供の目にはみんな眩しい
まつ白な帆が浮んでゐる




 
偶 作


旅に来て
日輪の赤らむのを見た
朝は田家の霜に明けそめて
磯松原が澄んでゐる
一色につづく海が寒さうだ




 
春 雨


雨は宵に入つてから
一層 静かであつた
床についてからは
降るさまがよく描かれた




 
冬 晴


冬晴の昼の
青空の大きさ
電車通りを
疲れて歩く




 
春の昼


日向ぼこにあきて
家に帰らうとすると
庭石の冷たさがほろりとふれた
ひつそりとして障子が見える




 
四 月


昼は浅いねむりのなかに
身を微かなものと思ひつつ
しばらくは鳥の音も聴かぬ
そよ風の吹く心地して




 
花 見


桜の花のすきまに
青空を見る
すると ひんやりしてゐるのだ
花がこの世のものと思はれない




 
青 葉


朝露はいま
滴り落ちてくる
いたづらに樹を眺めたとて
空の青葉は深深としてゐる




 
ねそびれて――熊平武二に


障子がぼうと明るんでゐる
廊下に出て見給へ
あんな優しい光だが
どこか鋭い




 
昨夜の雨


青くさはらはかぎりもない
空にきく雲雀の声は
やがて淋しい

うらうらと燃えいでる
昨日の雨よりもえいでる
陽炎が濃ゆく燃えいでる




 
卓 上


牡丹の花
まさにその花
力なき眼に
うつりて居る




 
旅の雨


雨にぬれて霞んでゐる山の
山には山がつづいてゐる
真昼ではあるし
雨は一日降るだらう




 
青 空


うつろにふかき
ながまなこ
ただきはみなくひろがりて
かなしきものをかなしくす




 
小 曲


人に送る想ひにあらず
蓮の花浮べし池は
なみなみと水をたたへつ
小波と風のまにまに




 
冬の山なみ


けふ汽車に乗つて
山を見る
中国の山脈のさびしさ
都を離れて山を見る
山が山にかさなり
冬空はやさしきものなり










  断 章




 
藤の花


ひそかに藤の花が咲いて居り
あさ風の花が揺れて居り
露しとしとと
うすぐらいところに




 



山の上の空が
まつ青だ
雲が一つ浮かんで
まつ青だ




 



菜の花のあたりに
蝶がひらひらして居る
菜の花は沢山ある
蝶はひらひらして居る




 



朝はとつくに来てゐた
雀ばかりが啼いてゐた
桜の花がにほつてゐた
空は青く晴れてゐた




 
夜の秋


きりきり虫が鳴いてゐる
厨の土間で啼いてゐる
あまり間近くで啼いてゐる
きりきりきりと響くその声




 
朝の闇


目にただよひて朝の闇
しろがねいろの朝の闇
静かに聴けば から
からからからと 空車




 
虚 愁


みどり輝く坂の上に
傷ましきかな 空の青
輝くものをいとはねど
空に消え入る鳥を見よ




 
菜 花


川の流れのかたはらに
自らなる菜畑は
ひねもす青き空の下
明るき花を開きけり




 
波の音


今 新しく打ちかへす
はじめてききし波の音
打ちかへしては波の音
潮の香暗き枕辺に




 
冬 苑


動けるものは凍らねど
凍らぬ水の光はや
石を滑りて流れゆく
かぐろき水の光はや




 
二 月


叫びをあげよ 蕗の薹
囁きかはし降る雨の
闇を潤すいとなみに
叫びをあげよ蕗の薹




 
車 窓


桃の花が満開で
小学生が二三人
朝の路にゐるんだ
けれども汽車はとまらない




 
師 走


寒ざらしの空に
おころりおころりと軽気球が
たつた一つ浮かんでゐる
そこから何が見えるのですか




 
六 月


まだ半身は睡つてゐるのに
朝はからきし梅雨晴れだ
いいお天気になりました
ほんとにそれはさうである




 
不眠歌
       
夜耿耿而不寝兮
       
魂営営而至曙


  


眩きものの照るなるべし
夜のすがたぞおろそしき
青ざめはてし魂は
曙にして死ぬるべし

 ⑵


罪咎なれば堪へ得べし
こんこんこんこん あさぼらけ
米をとぐ音 きこえ来る
いかでか我は 睡らざる




 



五月の朝にこだまして
青物市に声はあり
並ぶ車はことごとく
山と積みたる青きもの
青物市に声はあり




 
晩 春


うつつけものが鳥ならば
すういすういと泳ぐべし
けふやきのふやまたあすや
春惜しむ人や榎にかくれけり




 
五 月


渡るごとき心地して
ひなげしの花持ちてゐる
電車のなかの をみなごよ
朝目よく吹く微風に




 
冬の日


紅き焰の日輪の
けふはさびしや鼠色
葱買ふて
枯木のなかを帰りけり




 
夜 想


 ⑴

昼を知つてゐて夜をしらぬか

見給へ 三田の午前一時は
何といふ鈴懸のすがすがしさだ
はきだめの上に露が明るし

 ⑵

雨を吸つて生きてゆく屋根

屋根は夜なかの舌である
その舌はかはききつて
一滴一滴と雨をのむ




 



窓を開けてくれたのは誰だ
空か お前であつたのか
崖のすすきはさうさうと
雲の流れに揺れてゐる



 
月 夜


 ⑴

川の向ふは川か

向ふには何があるのか
空に月は高いし
水も岸も今は遙かだ

 ⑵

月の夜の水の面は

呼吸するたびに変る
たとへば霧となり
闇となり光となる




 
反 歌


うつつより出づるものなるに
なぜにかげろひきらめける
春の夕べに目ざむれば
梢を渡る風さむし




 
回 想


 ⑴

春風にただよつて来る

よもぎぐさのにほひにうたれて
紅茶のなかにミルク注げば
みだれてみだれて溶けゆくおもひ

 ⑵

春の陽のバケツに映りて

天井に照りかへしてゆらゆら
ゆらゆらと床にゐて眺め
幼な児の想ふことを想ふ



後記 ここに集めた詩は大正十二年から昭和三年頃までのものであるが、その頃のありかは既に陽炎の如くおぼつかない。今これらの詩を読返してみるに一つ一つの断章にゆらめくものがまた陽炎ではないかと念へる。附録の散文詩は昭和十一年の作である。
昭和十六年九月二日、空襲避難の貴重品を纏めんとして、とり急ぎ清書す。

[やぶちゃん注:このあとに底本では、編註があり、『文中、「附録の散文詩」云々とあるのは、本巻、第一二三頁「雑誌きりぬき」の項を示す。詳しくは巻末、「初出誌紙一覧」中の編註を参照。』とあるのであるが、この巻の当該ページには「散文詩」とのみあり、「雑誌きりぬき」という記載はなく、更に、『詳しくは巻末、「初出誌紙一覧」中の編注』には、この「散文詩」についての注は存在しない。これは、まず後出する「散文詩」=「雑誌きりぬき」とは同じもので、更に、この不可思議な編註については、散文詩についての詳しい追記ではなく、このすぐ後の「なぜ恐いか(大正十二年頃のもの)」という見出しに対しての、『これは大正十五年「沈丁花」一号に発表されている』という編註のことを指すのであろう。]




  
なぜ怖いか(大正十二年頃のもの)[やぶちゃん注:直前の注参照のこと。]



 1

 影法師は暗い処に居るから嫌です。ひよいと飛び出して私を抱へてつれて行かうと思つて樹や垣根の蔭に隠れて居るのです。

 2

 獅子の笛は金色だからいけないのです。あんなによく慄へる細い音はすぐ私のまつ青の顔を遠くから嗅ぎつけてしまひます。

 3

 猫の眼は美しすぎるのが悪いです。あんまりよく光るものは気味のいいものではないし、その上あの啼き声があんな風に恨めし気なのですもの。

 4

 婆さんのおはぐろや女の人の金歯は虫か何かのやうに見えるからたまらないのです。それに笑ひ出すとその虫がぐちや\/動くのです。

 5

 気違ひ不具などは見ただけで私を憎んで居るのがわかります。あんなへんてこな手つきで殺されると大変だから私は逃げるのです






  散文詩


 
饗 宴


 乾いた星を鏤めて夜空はぴつたりと地上に被さつてゐる。埃まみれの亜鉛屋根は圧潰されたやうになつてゐるので、そのなかにゐる人間も圧潰されたやうな姿で、家の外に出て来る。
 家の外につづいてゐるのは昼間の熱のまだ残つてゐる埃だらけの路である。生温かい道路は茫として白く浮上がつてゐる。この道路は、疲れきつた人間の魂の秘密のやうに、妖しく、懐しく、そして、もはや何ごとも語ろうとしない。疲れきつた人間は暫く立留まつて、埃の路をうち眺め、それからまた狭い家屋に這入つてしまふ。……
 雨はもうこの地上を訪れることを忘れたらしく、狭い屋内にも道路にも呼吸苦しさが一様に漲つてゐる。睡れない人間はもはや睡れないことを諦めてゐる。
 ところが、ふと亜鉛屋根に微かな砂を散ずるやうな音が始まる。ためらひ勝ちに落ちてゐたが、やがて沛然と音をたてゝ勢いのいゝ雨が訪れる。屋根も、樹木も、道路も、みんなが、みんな泣き出す。雨を抱きついて、おいおいと泣くのである。





 
散 歩


 忘れ河の河のほとりを微笑みながら歩いてゐる男がある。もうみんな生きてゐた時の記憶は忘れてしまつたらしい。それなのにその男は相変わらずいゝ機嫌で歩いてゐる。まるでいたづらな小娘のやうに微笑みながら、何かめつけようとしてゐる彼の眼や、たえず喋らうとしてゐる彼の唇がある。凉しい太陽が靄の中を流れ、彼もたつた今目が覚めたばかりなのだ。もう一度睡くなつたら睡るばかりだ。




 
五月闇


 闇の幼女の唇は、あんまり紅くて、真つ黒だ。まつ黒な、茫とした天と地が口をひらいてゐる真夜なか、ぎやぎやぎやぎやぎやと青蛙が命をしぼつて啼いてゐる。何処の国の何時の時刻かもわからなくなり、汽車は夢中で走つて行く。ぎやぎやぎやと追いかけて来る声から逃れるため、汽車は顚覆しさうな速さで走るのだ。




 
酸 漿


 ほほづきの実に雨はばらばらと降りはじめ、ほほづきの葉蔭の薄闇に一疋の蚊の声は消えのこる。ほほづきの実は、薄闇のなかにいて、いよいよ熟れ、枝こそたはめ、ほほづきは今不思議な唸りを放ちて、地面に接れ、殆ど生ける唇と化した。この時天の一隅にさつと緑の閃きが走る。まこと厳しき眼球は光る。




 
秋 雨


雨は夜の野原をびしよ濡れにし、空を動いて行く青白いサーチライトの光も濡れてゐる。闇のなかにサーチライトはゆるく揺れ、少しづつこちらにむけられて来る。まるでこちらを覘つてゐるやうに光の筒が二階の方へ這ひ上つて来る。窓にゐて眺めてゐた男は一瞬息をつまらせてしまつた。




 
喪 中


  
A

 私は何処に睡つてゐるのか不明瞭になつた。朝の光線や物音が漂つてゐて、もう起きなければならない時刻らしかつたが、私の枕頭に妻がゐて黙つて坐つてゐるものだから、もつと放心してゐてもよささうだつた。とにかくひどく神経が疲れてゐるし、魂はまだ号泣を続けてゐた。しかし、何も変つたことなぞない証拠に、妻は影のやうに私の枕頭にゐてくれる。……ところが今階段を誰かが昇つて来る音が、たしかに私の耳に入り、あの跫音は妻が私を起しに来たのだな、と私はぼんやり考へてゐる。すると跫音はもうすぐ部屋の入口に近づき、戸が開けられた。と、同時であつた。私の側に居た影は立上つて、大急ぎで戸口のところの妻へ近寄り、両方が歩み寄ると見るより、忽ち一つの人物に溶け合つてしまつた。そして、私は勿論、妻によつて揺り起されたのである。

  
B

 睡れない闇の中で煙草を吸つた。顔の上にやつて寝たまゝ吸つてゐたが煙草の小さな火の美しさに私は段々見惚れた。はじめ赤い小さな炎のなかに現れて来たのは、何処かの邸と庭であつた。庭には歯朶や芭蕉が繁つて居り、邸の硝子窓に灯がともされてある。その景色はあまりに精密で灼熱であつた。煙草の火が次第に下に燃え移つて行くに随つて、私は今度は顔が浮ぶやうに思へた。ほんとにその次に現れたのは誰ともわからぬ一人の顔であつた。灰の中にあつて、燦然と輝く、生命のまなざしであつた。




 
彷 程


 私はとぼとぼと生れ故郷の公園を歩いて行つた。颱風の余波があつて、空はしんと青かつた。十月の午後の光はいらだたしい植物の葉に触れてゐた。……私は十余年前、銭村五郎とよく訪れた神社の庭に踏込んでゐた。萩の花が咲いてゐた。後の山の松は一つ一つ揺れてゐた。しんかんとして誰もゐさうにない庭に、私は死んだ友達を持つてゐた。むしろ私の方が死んでるやうな気さへする。急に犬の吠える声が耳についた。玩具ほどの仔犬が今私をとがめて吠えて来るのだつた。




 
無 題


 憂悶の涯に辿りつく睡りはまるで祈りのやうであつた。それをいつまでも私は辿つてゐたかつた。慟哭も憤怒もなべてはうつろなる睡りのなかに溶かし去られよ。
 ああ、しかし、この時幽霊は来て、私の髪を摑んだ。現に、現実の生活の逼迫をどうしてくれるのだ、と彼女は激昂のあまり私に挑みかかつて来るのであつた。




 
詠嘆二章


  春の美しい一日

 春の美しい一日はたしかにある。暗い暗い人世に於いてすら、たしかにそんなものはあつた。
 不思議なことに、それを憶ひ出すのは一つの纏つた絵としてである。私について云へば、額縁に嵌められた、春の野山の風景がある。霞んだ空と紫色の山と緑の道路とが、中学生の頭に一つの苦悩にまで訴へて、過ぎ去つた瞬間を追求させた。するとたしかに窓枠が浮んで来た。その窓のほとりで子供の私が悲んでゐた。四月の美しい空を眺めて、その日が過ぎて行かうとするのを恍惚としてゐた。何が一体恍惚に価したかと云へば、その日は桃の節句で、小さな玩具の鍋と七輪で姉が牛肉のきれつぱしを焚いて、焚けると云つて喜んでゐた。しかし、私の頭にはもつと何か美しいものが一杯とその日には満ちてゐた。美しいものとは何か、それは結局何でもないことにちがひない。
 今にして、私は昼寝して、空が真青だ、あんな真青な空に化したいと号泣する夢をみる。荒涼とした浮世に於ける、つらい暗い生活が私にもある。しかし、人生のこと何がはたして夢以上に切実であるか。春の美しい一日はたしかにある。

  雲

 雲にはさまざまの形があり、それを眺めてゐると、眺めてゐた時間が溶け合つて行く。
 はじめ私はあの雲といふものが、何かのシンボルで獣や霊魂の影だと想つた。ナポレオンの顔に似た雲を見つけたり、天狗の嘴に似た雲を見つけたことがある。石榴の樹の上に雲は流れた。
 雲はすべて地図で、風のために絶えず変化してゆく嘆きでもあつた。金色に輝く夏の夕べの雲、濁つてためらふ秋の真昼の雲、それを眺めて眺めてあきなかつた中学生の私がある。
 何時からともなく雲を眺める習慣が止んだ。私の頭上に青空があることさへ忘れ、はしたない歳月を迷つた。けれども雲はやつぱし絶えず流れつづけてゐた。そして今、私が再び雲に見入れば、雲は昔ながらの、雲のつづきだ。




 
青葉の頃


  葉もれ陽

 簷には深々と青梅の葉が茂り、青空は簷のむかふに淵をなし、年老いた母はまぶしい葉もれ陽の縞に眼をしぼたたく。もののかたちがもうよくみえないのだよ、お前がむかふからきたとしてもお前だといふことはわかるのだが顔なんかはつきりしないのだよ。ふるさとの梅は見違へるほど丈も伸びたし、はつなつの陽はかあつと明るいのに。
[やぶちゃん注:「簷」は、ひさし。]

  松の芽

 その島を訪れた。その島はみどりの肩を聳やかし、路といふ路が怒つてゐた。足もとの崖から伸びてゐる松の新芽はひりひりと陽の光にふるへ、油のやうな青空にむかつて伸びてゐた。

  夕ぐれ

 水々しい季節の夕ぐれが、友情を呼んだ。その友に逢ひに行く途中、くねくねうねつた坂を通つた。坂のまはりに青葉はゆれ、やさしい燈もみえてゐた。黒ずんだ崖石や、挨つぽい家産がもつれて、路は自づと袋路に入つた。すると或る軒の玄関から、ひよいと、その友の顔が現れた。
 あの晩は娯しかつたね、と、ずうつと後になつて、その友は云ふのであつた。

  朝昼晩

 心身の疲労がほどよく拭はれてゐて、爽やかな朝といふものがある。これが少しく曲者である。今日ならば何でも出来るぞ、と空白のなかに途轍もない夢が浮上つてくる。だが、顔を洗つて一服するまで、ほんの些細なことから、それは傷けられてしまふ。一たん傷を受けたとなると、夢想はすこぶる怯懦になり、結局は空白のなかに萎縮してしまふ。あんまり爽やかすぎたから却つて一日がむなしく終るのであらうか。

  ○

 どろんとして身も心も重苦しい午後、湿つぽい風をうけて人人は電車を待つてゐる。今日など人を訪ねたところで禄なことはありはしない、一そのこと部屋に帰つて寝転んでゐようかとも思ふのだが、どうも破れかぶれのものが人を訪ねてゆく宿命になるらしい。それにこの模糊とした空気のなかでは、相手の精神もどろんとしてゐるだらうし、いらだたしい気分ながら摩擦は却つておこらないのかもしれない。

  ○

 タバコを吸ひながら読んだ本の一頁が、夜ふけにぐつと脳に喰ひさがつてきた。それには何も素ばらしいことは述べてなかつたのに、ただ頭にはつきり映じたといふことだけで、奇妙に軽い興奮がうづまき、その観念のまはりを寝そびれた思考がいつまでもうろついてゐる。ここからは恐らく何ものも生れて来ない筈なのに、やつばし明確なもののまはりを混沌がとりかこんでゐて、それが明日への疲れを既にもう準備してゐるやうなのだつた。









  千葉海岸の詩



  
a

我れ生存に行き暮れて
足どり鈍くたたずめど
満ち足らひたる人のごと
海を眺めて語るなり 

  
b

あはれそのかみののぞき眼鏡に
東京の海のあさき色を
千葉ここに来て憶ひ出すかと
幼き日の記憶熱をもて妻に語りぬ

  
c

ここに来て空気のにほひを感じる
うつとりと時間をかへりみるのだ
ひなげしの花は咲き
麦の穂に潮風が吹く

  
d

青空に照りかがやく樹がある
かがやく緑に心かがやく
海の近いしるしには
空がとろりと潤んでゐる

  
e

広い眺めは横につらなる
新しい眺めは茫としてゐる
遠浅の海は遠くて
黒ずんだ砂地ばかりだ

  
f

暗い海には三日月が出てゐる
暗い海にはほの明りがある
茫として微かではあるが
あのあたりが東京らしい

  
g

外に出てみると月がある
そこで海へ行つてみた
舟をやとつて乗出した
やがて暫くして帰つた

  
h

夜の海の霧は
海と空をかくし
眼の前に闇がたれさがる
闇が波音をたてて迫る

  
i

日は丘にあるが
海はまだ明けやらぬ
潮の退いた海にむかつて
人影は一つ進んで行く