やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

[やぶちゃん注:昭和十三(1938)年六月号の雑誌『俳句研究』に掲載され、後に随筆集『阿帯』に所収された。底本は昭和五十二(1977)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十一巻を用いた。]

 

小説家の俳句   萩原朔太郎

――俳人としての芥川龍之介と室生犀星

 
 芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので[やぶちゃん注:このような題名の芥川龍之介作品はない。「わが俳諧修業」又は「發句私見」等を指すか。]、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて讀んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと樂しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されてるものを合計して、僅かにやつと八十句位しかない。[やぶちゃん注:現今、私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集」で蒐集した句數は千を遥かに越えている。]これではどうにも評論の仕方がない。しかしこの少數の作品を通じて、大體の趣味、傾向、句風等、及び俳句に對する氏の主観態度等が、朧げながらも解らないことはない。

 前にも他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一體に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では眞劍になつて人生と取組み合ひ、全力を出しきつて文學と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流氣を出し、小手先の遊び藝として、綺麗事に戲はれてゐるといふ感じがする。室生犀星氏がいつか或る随筆の中で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら、静かに句想を練る氣持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする氣持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、眞の打ち込んだ文學的格鬪がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の餘技」と言ふだけの價値に過ぎず、単に趣味性の好事ごととしか見られないのである。

 芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書畫のあらゆる文人藝に練達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人藝の上乘のものにしかすぎなかつた。僕は氏の晩年の小説(齒車、西方の人、河童等)を、日本文學中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文學であるアフオリズム(侏儒の言葉)と共に、友情の割引を以てしも讚辭できない。むしろこの二つの文學は、彼のあらゆる作品的缺點を無恥に暴露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を單に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、眞の打ち込んだ人生熱情や生活體感が何處にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭腦の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文學で才人としての彼の病所と缺點とを、露骨に恥出したやうな文學であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神經的の凝り性と趣味性とを、文學的ヂレツタンチズムの衒學で露出したやうなものであつた。その代表的な例として二三の作品をあげてみよう。

 

 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

 暖かや蕊に蠟ぬる造り花

 臘梅や雪うち透かす枝のたけ

 

「蝶の舌」の句は、ゼンマイに似てるといふ目付け所が山であり、比喩の奇警にして観察の細かいところに作者の味噌があるのだらうが、結果それだけの機智であつて、本質的に何の俳味も詩情もない、単なる才氣だけの作品である。次の二つの句も、やはり同じやうに観察の細かさと技巧の凝り性を衒つた句で、末梢神經的な繊鋭さはあるとしても、ポエヂイとしての眞實な本質性がなく、やはり頭腦と才氣と工夫だけで造花的に作つた句である。彼は芭蕉の俳句中で、

 

  ひらひらと上る扇や雲の峯

 
 を第一等の名作として推賞してゐたが、上例の如き自作の句を観照すると、芥川氏の芭蕉観がどのやうなものであつたかが、およそ想像がつくであらう。つまり彼は、芭蕉をその末梢的技巧方面に於て、本質のポエヂイ以上に買つてゐたのである。

 いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局氣質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と數十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文學の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、眞の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を缺いてる。つまり言へば彼の詩文學は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才氣だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文學なのだ。そしてかかる文學的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的性格とは、常に「燃燒する」ところのものであり、高度の文化的教養の中にあつても、本質には自然人的な野性や素朴をもつものなのに、芥川氏の性格中には、その燃燒性や素朴性が殆んど全くなかつたからだ。そこで彼が自ら「詩人」と稱したことは、知性人のインテリゼンスに於てのみ、詩人の高邁な幻影を見たからだつた。それは必しも彼の錯覺ではなかつた。だがそれにもかかはらず、彼の宿命的な悲劇であつた。

 室生犀星氏は、性格的にも、芥川氏の對照に立つ文學者である。彼は知性の人でなくして感性の人であり、江戸ツ子的神經の都會人でなくして、粗野に逞しい精神をもつた自然人であり、不断に燃燒するパツシヨンによつて、主観の強い意志に生きてる行動人である。そこで室生犀星氏は、生れながらに天稟の詩人として出發した。しかし後に小説家となり、その方の創作に専念するやうになつてからは、彼のポエヂイの主生命が、悉く皆散文の形式の中に盛り込まれて、次第に詩文學から遠ざかるやうになつてしまつた。彼は今でも、時に尚思ひ出したやうに詩を書いてる。しかし彼が自ら言ふ通り、今の彼が詩を書く氣持は、昔のやうに張り切つたものではなくつて、飽食の後に一杯の紅茶をすすり、勞作の後に机を淨めて、心の餘裕を樂しむ閑文字の風雅にすぎない。そしてこの詩作の態度は、彼の他の詩文學であるところの、俳句の場合に於ても同樣である。即ち他の多くの小説家の例にひとしく、彼の俳句もまた「文人の餘技」である。

しかしながら彼の場合は、芥川氏等の場合とちがつて、餘技が単なる餘技に止まらず、餘技そのものの中に往往彼の人物を躍如とさせ、生きた詩人の肉體を感じさせるものがある。すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち餘技に於ては、單に趣味性のみを抽象的に遊離して享樂する。室生氏の場合も亦これと同じく、彼の句作の態度には、趣味性の遊離した享樂(ヂレツタンチズム)が多分にある。だがそれにも拘らず、彼はその趣味性の享樂を生活化し、ヂレツタンチズムを肉體化することによつて、不思議な個性的藝術を創造するところの、日本茶道精神の奥義を知つてる。例へば彼が陶器骨董を愛玩する時、その趣味性の道樂が直ちに彼の文學となり、陶器骨董の觸覺や嗅覺が、それ自ら彼の生きた肉體感覺となるのである。そして彼が石を集め、苔を植ゑて庭を造り樂しむ時、しばしばその自己流の道樂藝が専門の庭園師を嘆息させるほど、眞にユニイクな藝術創作となるのである。

 そこで彼の俳句を見よう。

 

凧のかげ夕方かけて讀書かな

夕立やかみなり走る隣ぐに

沓かや秋日にのびる馬の顏

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな

秋ふかき時計きざめり草の庵

石垣に冬すみれ匂ひ別れけり

 
 彼の俳句の風貌は、彼の人物と同じく粗剛で、田舎の手織木綿のやうに、極めて手觸りがあらくゴツゴツしてゐる。彼の句には、芭蕉のやうな幽玄な哲學や寂しをりもなく、蕪村のやうな繪畫的印象のリリシズムもなく、勿論また其角・嵐雪のやうな伊達や洒落ツ氣もない。しかしそれでゐて何か或る頑丈な逞しい姿勢の影に、微かな蟲聲に似た優しいセンチメントを感じさせる。そして「粗野で逞しいポーズ」と、そのポーズの背後に潛んでゐる「優しくいぢらしいセンチメント」とは、彼のあらゆる小説と詩文學とに本質してゐるものなのである。

 俳人としての室生犀星は、要するに素人庭園師としての室生犀星に外ならない。そしてこのアマチユアの道樂藝が、それ自らまた彼の人物的風貌の表象であり、併せて文學的エスプリの本質なのだ。故にこれを結論すれば、彼の俳句はその道庭術や生活樣式と同じく、ヂレツタントの風流であつて、然も「人生そのもの」の實體的表現なのだ。彼がかつて風流論を書き、風流即生活、風流即藝術の茶道精神を唱道した所以も此處にあるし、句作を餘技と認めながら、しかも餘技に非ずと主張する二律反則の自己矛盾も、これによつて疑問なしに諒解できる。