やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


龝夜讀書の記   芥川龍之介   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年八月一日発行の『國漢』に紹介された芥川龍之介の初期文章。底本は岩波旧全集を用い、一部(注参照)で同一ソース(同発表誌の口絵に掲げられた芥川龍之介自筆原稿全文影印)から起こした新全集版を参考にした。特に文頭の方の「二乙 芥川龍之介」は新全集後記に記された事実を復元した。底本本文末には『(明治三十九年、中學二年)』とある。明治三九(一九〇六)年秋当時、芥川龍之介は満一四歳、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二年生であった。勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」によれば、『国漢担当の岩垂徳憲が「穐の字」を「秋」の「古文字」と話したことから』この「龝夜讀書の記」の題を得たらしいとし、また、庄司達也氏の調査によれば、同明治三九(一九〇六)年十二月二日東京府立第三中学校学友会発行の『学友会雑誌』には「芥川龍之助『秋季運動会の記』(全集未収録)』とともに「二甲 清水昌彦『秋夜読書の記』/二乙 石崎昇『秋夜書を読の記』/二丙 清水憲亮『秋夜読書の記』とあり、この一文も課題に応じたものか」とも推測している。最後に詳細注を附した。本テクストは私のブログの五十万アクセス突破記念として公開した。藪野直史【二〇一三年九月四日】]

 龝夜讀書の記

二乙 芥川龍之介
一しきり靜りてありし虫の音の再雨よりも繁く起りぬ我三坪の草庵をめぐりて筆を置き書を閉ぢつ我は獨り水の如き孤燈に對して座し居りき 目を上ぐれば一痕の月空にあり淸光溶々として上天下地を浸し蒼穹千万空色淡くして碧霞み秋星影よりも微に空を綴る 棕櫚の葉のさやさやと月に囁くを聞かずや 靜に座してあれば月は滿庭の樹を照らして「かくれみの」碧玉の扇と暎え白萩の茂み雪と照れるが上に墨の如き樹影點々として落ちたり初雪の路ふみしだく二の字とや云はむ耳を澄せば蟲聲嗞々又喞々遠く俚歌を歌ふ聲あり我は再び書を開きつ書は日本外史足利氏後記上杉氏之卷曰く「努力復取能州游佐等乞援信長信長方攻長島不能來九月城陷誅游佐等乃休兵二日屬十三夕月色明朗謙信置酒軍中會諸將士」
芙蓉の花ぽたりと落ちぬ 優なる哉英雄の心事やげにげにそれもかゝる夜なりけむ思ひやる月下猛將傑士の會正座なる熊の皮の敷物に朽葉色の直垂著て白綾の袴豐に小鼓うつ武者振り殊に淸げなるは問はねども知る全軍の總大將上杉彈正大弼輝虎入道不識庵謙信其の人一座下りて萌黄縅の腹卷に白檀磨きの脚當したるは軍師宇佐美駿河守定行つゞいて紫すそごの大鐙に澁色の直垂著たる赫顏疎髯の大男は北國武士の隨一と人に知られし直江山城守兼續半首べを傾けて軍扇片手に耳を澄ます猩々緋の陣羽織は剛力無双の甘粕近江守にて早獨り陶然として色をなす紺糸縅の腹卷に白布の鉢卷したるは之ぞこの音に聞く上杉方の剛の者鬼小島の彌太郎乎 見よや月は晝を欺きて劍戟霜白う能州の山河淡くして煙と見ゆめり 仰ぎ見れば一連の悲雁あり 高鳴いて月をかすむげにや之萬里秋風一痕の月輝虎入道つと立て吟ずらく
   霜滿軍營秋氣淸 數行過雁月三更 越山幷能州景 遮莫家郷憶遠征
物ありハラリと我前に落つ 驚て見れば梧桐の落葉なりけり 我空想の幕は破られつ 空に雁聲あり かゝる夜や霜を結ぶと聞く

二乙 芥川龍之介


[やぶちゃん注:私は本作の実景部分は九分九厘、徳富蘆花の「自然と人生」(明治三三(一九〇〇年民友社刊)の「良夜」のインスパイアであると思っている。以下に示す(底本は岩波文庫版一九五八年改版「自然と人生」底本としたが、読みは振れると思われるもののみのパラルビとし、踊り字「〱」は正字化した)。

     良  夜

良夜とは今宵ならむ。今宵は陰曆七月十五夜なり。月淸く、風凉し。
夜業やげうの筆をさしおき、枝折戸しをりど開けて、十五六歩邸内を行けば、栗の大木眞黑まつくろに茂るほとりに出でぬ。
其蔭に潜める井戸あり。凉気水の如く闇中あんちうに浮動す。蟲聲※々じゞ。時々白銀しろがねの雫のポタリと墜つる誰が水を汲みて去りしにや。[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「慈」。]
更に行きて畑の中に佇む。月は今彼方の大竹藪を離れて、淸光溶々せいくわうやうやうとして上天下地じやうてんかちを浸し、身は水中に立つのおもひあり。星の光何ぞ薄き。氷川ひかはの森も淡くしてけぶりふめり。靜かに立ちてあれば、吾側わがそばなる桑の葉、玉蜀黍たうもろこしの葉は、月光を浴びて靑光あをびかりに光り、棕櫚しゆろはさやさやと月にさゝやく。蟲の音滋ねしげき草を踏めば、月影爪先つまさきに散り行く。露のこぼるゝなり。藪の邊りには頻りに鳥の聲す。月のあかきに彼等の得眠えねぶらぬなるべし。
ひらけたる所は月光水の如く流れ、樹下は月光靑き雨の如くに漏りぬ。を返へして、木蔭を過ぐるに、燈火ともしびのかげ木の間を漏れて、人の夜凉やれうに語るあり。
枝折戸閉ぢて、えんきよす程に、十時も過ぎて、徃來全く絶へ、月は頭上に來りぬ。一庭の月影夢つきかげゆめよりも美なり。 月は一ていじゆを照らし、樹は一庭のかげを落し、影とひかり黑白斑々こくびやくはんはんとして庭に滿つ。えんに大なるかへでの如き影あり、金剛纂やつでの落せるなり。月光その滑らかなる葉の面に落ちて、葉はながら碧玉へきぎよくの扇とれるが、其上にまた黑き斑點ありてちらちらおどれり。李樹すもゝの影のうつれるなり。
月より流るゝかぜ梢をわたるごとに、一ていの月光と樹影と相抱あひいだいておどり、白搖はくゆらぎくろさゞめきて、其中をするの身は、是れ無熱池むねつちの藻のに遊ぶのうをにあらざるかを疑ふ。

・「無熱池」阿耨達池あのくだっち。梵語 Anavatapta の音写。清涼・無熱悩などと訳す。ヒマラヤ北方にあるという阿耨達竜王が住む想像上の池。岸は金銀など四宝よりなり、四方に河が流れ出して、人のいる贍部洲せんぶしゅうを潤す生命の源泉。

「かくれみの」バラ亜綱セリ目ウコギ科カクレミノ Dendropanax trifidus (シノニム Textoria trifida)。他にもカラミツデ・テングノウチワ・ミツデ・ミツナガシワ・ミソブタ・ミゾブタカラミツデ等の異名が多い。葉は濃緑で光沢がある卵形の単葉で枝先に互生する。変異が多く、稚樹の間は葉が三~五裂に深裂するが、生長とともに全縁葉(縁が滑らかでギザギザのないもの)と二~三裂の浅裂の葉が一株の中に混在するようになる。花期は六~八月で両性花と雄花が混淆して咲く。果実は長さ約一センチメートル、先端に花柱が残り、晩秋に黒紫色に熟す。鉢植や庭木・神社等によく植えられるが、樹液中にウルシオールを含むため、体質によってはかぶれることがある(以上はウィキの「カクレミノ」に拠る)。この「碧玉の扇と暎え」(「暎え」は「はえ」と読み、「映える」に同じい)は、まさに比較的大きく成長した同樹の特異な葉の茂りを述べているものと思われる。なお、和名カクレミノ(隠れ蓑)は三中裂の葉が、天狗が持っているされ、着ると姿が消える「隠れ蓑」に似ていることに由来するという。

「嗞々」「シシ」と読む。本来は歎き憂える声、鳴きやまない、笑うなどの意であるが、現代中国語で調べると「吱吱」と同義とあり、物が軋る音や鼠などの小動物の鳴き声などの形容とあるので、これも次と合わせて、というよりも、聴こえてくる虫の音の違いを微妙に表わすためのオノマトペイアと考えられる。底本では(つくり)の「茲」の(くさかんむり)が(「慈」-「心」)の字形となっているが、ユニコードで表示出来ず、また「廣漢和辭典」も「嗞」の見出しでのみ載ること、新全集が「嗞」と判読していることから、こちらを採った。

「喞々」「シヨクシヨク」と読む。虫の頻りに鳴く声。オノマトペイア。

「遠く俚歌を歌ふ聲あり」「俚歌」民謡・流行歌。ここは後者か。ここもやはり、徳富蘆花の「自然と人生」に載る「花月の夜」の「何處やらに俚歌を唱ふ聲あり」をインスパイアしているように思われる。以下に示す(底本は先に同じ。読みや踊り字もそれに準じた)。

     花月の夜   德富蘆花

戸を明くれば、十六日の月櫻の梢にあり。空色淡くしてみどり霞み、白雲團々、月に近きは銀の如く光り、遠きは綿の如く和らかなり。
しゆんせい影よりもかすかに空を綴る。微茫月色びばうげつしよく、花に映じて、密なる枝は月を鎖してほのくらく、なる一枝いつしは月にさし出でゝほの白く、風情言ひ盡し難し。薄き影と、薄き光は、落花點々たる庭に落ちて、地をす、ながら天をあゆむの感あり。
濱のはうを望めば、砂洲さしう茫々として白し。何處どこやらに俚歌を唱ふ聲あり。
       又
已にして雨はらはらと降りぬ。やがてまた止みぬ。
春雲しゆんうん月を集めて、夜ほの白く、櫻花澹あうくわたんとして無からむとす。かはずの聲いと靜かなり。

(四月十五日)

・「澹として」風や波によってゆったりと動くさまをいう。

『日本外史足利氏後記上杉氏之卷曰く「努力復取能州游佐等乞援信長信長方攻長島不能來九月城陷誅游佐等乃休兵二日屬十三夕月色明朗謙信置酒軍中會諸將士」』新全集では引用の最初の鉤括弧がない。恐らく親本とした『國漢』影印にはこの始まりの『「』は実はないものと思われる。しかし分かり易いので旧全集の表記を採用した。芥川龍之介の引用は頼山陽「日本外史」の「卷十一 足利氏後記 武田氏 上杉氏」の中の。天正五(一五七七)年の上杉謙信西征の中のクライマックスである能登国七尾城攻めの前後、上杉謙信が以下の有名な七絶「九月十三夜陣中作」を詠んだシークエンスからの引用である。頼成一・頼惟勤訳「日本外史(中)」(岩波文庫一九七七年刊)を参考にした書き下し文を示しておく(前文部分「七月謙信將兵三萬西伐攻長純木船城拔之遂入加賀屠金澤移兵攻七尾以義春爲將」と詩の直前部部分「酒酣自作詩曰」を附した。芥川龍之介は、この「能登」を「能州」としているが、版本の相違であろう)。

七月、謙信、兵三萬に將として西伐す。長純を木船きぶね城に攻めて之を拔き、遂に加賀に入り、金澤をほふり、兵を移して七尾を攻む。義春を以つて將と爲し、努力して復た能登を取る。游佐ゆさ等、たすけを信長に乞ふ。信長、まさに長島を攻めて、來ること能はず。九月、城おちいり、游佐等を誅す。乃ち兵を休むること二日、十三夕にぞくす、月色明朗なり。謙信、軍中に置酒ちしゆして、諸將士を會す。酒たけなはにして、自ら詩を作つて曰はく、

・「木船城」富山県高岡市福岡町木舟にあった石黒氏の居城。
・「義春」謙信の養子で、足利氏一門の名門能登畠山家出身の畠山義春。責めている七尾城の傀儡国主の幼君畠山春王丸は同族である(実権は重臣の親信長派長続連ちょうつぐつらに握られており、春王丸は籠城中に死去した)。

・「游佐」遊佐続光つぐみつ。ここだけ読むと謙信軍に誅殺されたかのように読めるが、実際には彼こそが落城の調本であった。彼はもともと親謙信派で、以前から秘かに受けていた謙信の呼びかけに内応、九月十五夜に城中で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れて城内の長一族は全滅、遊佐は上杉に降って能登の実権を我が物とした。しかし謙信の死後、天正九(一五八一)年に再び信長が能登に攻め込まれる。続光は息子盛光とともに信長に降伏して保身を図ったが、信長は長一族を殺した罪を許さず、続光父子は処刑された、と参照したウィキの「遊佐続光」にはある。

「脚當」「あしあて」若しくは「すねあて」と訓じているか。武具の小具足である「脛当」「臑当」「すねあて」のこと。薙ぎ払われるのを防ぐために脛を覆って保護するもの。鉄や革製。

「霜滿軍營秋氣淸 數行過雁月三更 越山幷能州景 遮莫家郷憶遠征」前掲「日本外史(中)」を参考にしつつ、書き下し文を示す。

 霜は 軍營に滿ちて 秋氣 淸し
 數行すうかう過雁くわがん 月 三更さんかう
 越山ゑつざん あはせ得たり 能州のうしうの景
 遮莫さもあらばあれ 家鄕の 遠征を憶ふを

「三更」午前零時頃。十三夜月であるから、ほぼ満月に近い月が真南の中天に高く懸かっていたはずである。結句は表面上は景観を述べているが、この七尾城陥落によって越後・越中及び能登を支配下にするに至る謙信の自負が窺えるようにもなっている。それは結句の、故郷の者どもが如何に心配しようと、そんなことはどうでもいい、ままよ、この景色を堪能致そうではないか、という武将らしい感傷を排したコーダにも表われているように思われる(但し、残念ながら現在では本詩は上杉謙信の詠ではないとされているようである)。]