[やぶちゃん注:明治42(1909)年、東京府立第三中学校(現都立両国高校)五年生、17歳の折の作品である。底本は岩波版旧全集の第十二巻補遺(この1972年版の全集の掉尾を飾る作品である)を用いた。]
墨陀の櫻 芥川龍之介
歌あはせのつどひ完りて長命寺のほとりなる姉の家を折から降り出でたる春雨に獨り油、黄なる傘かたむけつゝ立出しは川邊の蘆の芽に夕潮の音もなく滴つる頃なりき。
しめやかなる蛙の聲をきゝつゝ、うかれ人や去りたる、墨陀の堤の櫻のみ白う雨に立てるあはだを行けば何處の寺の鐘か杳々と夕を傳へて落花の二ひら三ひらこぼるゝもあはれなり。
靜なる夕や。古の歌人が「花の下に我死なむ」と云ひけむもかゝる夕かゝる櫻の下に立ちつゝ、ふりかゝる落花に云ひ難き春愁の胸を壓する覺えしにやあらむ げに花の下にて死するこそよけれ。美しき花の精は臈たけき春の歌を我耳に囁くべければ。
仰げば雨はいつかやみぬ 薄絹を映えたる雲そここゝに捲けて薄紫の夕空夢の如く見え渡りつ 五日あまりの月、光淡ううかび出でて星影けうとげにまたゝけり。
月の光に花はいよいよ白うなりぬ。耳をすませば遠くして俚歌の聲あり。
げにげに花の下にて死するこそよけれ。我はかく呟きつゝ散りかゝる花の下に夕月の光をあびて たそがれの底に 時うつる迄たゝづみくらしぬ。
五甲 芥川龍之介