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ブログ『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』コメントへ

[やぶちゃん注:大正9(1920)年10月発行の雑誌『夫人倶樂部』創刊号に掲載された。底本は、岩波版旧全集を用いた。但し、底本は総ルビであるが、パラルビとした。なお、本作については上記ブログ・コメントを参照されたい。]

 

僕の好きな女   芥川龍之介

 

 何しろ既に妻帶してゐる人間に、どんな女が好きか話せと云ふ、こりや註文の方が無理なんです。どうせ碌な事は話せないものと、前以て覺悟をして下さい。まづ何よりも先に美人――と云ふ所なんですが、どうもこの人こそ、正銘の美人だと思ふやうな女には遇つた事がないんです。誰(たれ)でもさうぢやないですかね。皆好(い)い加減な所に安住して、美人のレツテルを安賣りに貼つてゐるんぢやないですかね。その邊がどうも判然しないんですが、兎に角一世の美人と云ふのには一度も拝顏の榮を得てゐないんです。そりや一世の美人を得る爲だつたら、すべてを拗つても惜しくはないでせう。少くとも拗つ人の心もちはよくわかると思ひますがね。その代り一世(せい)の美人でなけりや、中々拗つ氣にやなれませんよ。しかし世間には二世か三世位(くらゐ)の美人の爲に、抛つ人だつて大勢ゐます。僕も實はいつ何時、その仲間にはひるかもわからない、と云ふのは一世の美人に惚れる事も眞理(しんり)だが、惚れると一世の美人に見えるのも眞理(だうり)に違ひないですからね、しかしいくら惚れた所で、一世の美人に見えるのは、精々二世か三世位の美人でせう。十世以上の美人がクレオパトラに見える事は、まあ僕には無ささうですね。何時か鎌倉の或自動車の運轉手が土地の藝者に迷つた揚句、女房を殺した事があつたでせう。その藝者を後に酒席で見たんですが、これがまづ十五世か十六世位な美人なんですね。あの位ぢや僕は女房でなくつても、其處にゐる猫でも殺しませんよ。一世の美人なら、文句はないでせうが、二世以下の美人となると、浮世繪風の美人よりは西洋人じみた美人の方がどつちかと云へばすきですね。但し西洋人じみたと云ふのは御化粧を云ふんぢやない、顏立ちを云ふんです。御化粧だけで好きになれるんなら、オペラの女優は皆好きになれますからね。序だから云ひますが、この頃は日本の女の顏が、だん/\西洋人じみて來るやうですね。あれは體格が好くなつたり、御化粧が然らしめたりするんでせうが、その外にも我々の眼の玉が、西洋人じみた美しさを見つける事が出來るやうに教育されて來たんでせう。確にありや外部的な原因ばかりぢやありませんよ。

 それからあまり實際的でない女が好きですが、――さう云ふより實際的でない方面にも理解のある女と云つた方が好(い)い。實際的でない女と云ふものは殆(ほとんど)ないやうですからね。少くとも大抵の女は皆實際的らしいぢやありませんか、或女が或小説家の作品が好きだと云ふから、――何、差支へがある譯ぢやありません。本名を云へば谷崎精二君の作品が好きだと云ふから、その理由を尋ねると、谷崎君は小説もうまいが、同時に又男振りが好(い)い癖に、堅さうな所が好いと云ふんです。つまりその女自身が夫を持つ場合には、谷崎君のやうな藝術趣味のある堅人(かたじん)が好いと云ふ事なんです。こりやほんの一例ですが、仔細に氣をつけて見ると、どうも女は心臓が算盤珠(そろばんだま)の恰好(かくかう)に似てゐさうな氣がするんですね。そりや女が男に欺されると云ふ場合だつて多いでせう。しかしそんな事があつたつて、女が實際的でないと云ふ證據にや全然なりやしません。精々或女が或男より實際的でないと云ふ位ですね。それさへ事によると疑問かも知れませんよ。まあそんな事はどうでも好いが、さう云ふ實際的な女なるものゝ中でも、前に云つた通り實際的以外の方面にも理解のある女が好きなんです。さうかと云つて婦人雜誌の口繪に、短册を持つて立つてゐたり何かする、あゝ云ふ女史は落第なんです。あれ程藥の利きすぎない、森先生の安井夫人と云ふ歷史小説の女主人公のやうな、際物(きはもの)じみない女が好(い)いんですね。殊にさう云ふ人で、しつとり心に沾(うるほ)ひのある、優しい氣立ての人だつたら、何、五世か六世位の美人でも有難く御説を拝聽します。

 今云つたやうな内外(ないぐわい)の美が具(そなは)つてゐる人があつたらそりや僕もきつと惚れるでせう。惚れると云ふんで思ひ出したが、スタンダアルの「愛(ド・ラアムウル)」[やぶちゃん注:(ド・ラアムウル)はルビ。]と云ふ本に惚れ方を大別して、ウエルテル式とドン・ジユアン式と二つ擧げてありますね。勿論ア・ラ・ウエルテルと云ふのは、一人の女に惚れこむので、ア・ラ・ドンジユアンと云ふのは大勢の女を片つ端から征服して行くんです。僕は僕自身考へて見ると、どうも兩方の傾向があるやうなんですが、こりや僕ばかりぢやない、男は大抵さうなのかも知れませんね。尤も僕の友達の久米正雄君なんぞは、可成(かなり)ウエルテル式のやうです。そこでどうでせう。女の讀者に人氣のある小説家は、少くともその作品に現れた作者の惚れ方が、皆ウエルテル式ぢやないですか。(但し日本だけですよ。)どうもさうらしいやうですね。前に女は實際的だと云つたが、――さうなると又話が長くなるから、この邊でやめて置きますがね。ウエルテル式にしても、ドン・ジユアン式にしても、兎に角僕なぞは惚れる事に消化器の狀態が關係してゐるのは、動かすべからざる事實ですよ、少し位惚れたと思つても、腹具合が好くつて、ぐつすり眠られる時は大抵二晩か三晩位すると、けろりと忘れてしまひますからね。そんな事を考へると聊(いさゝ)か寂しくなりますよ。ミユツセやハイネを探したつて、胃袋と戀なぞと云ふ殺風景な詩は、恐らく一つだつてありやしますまい。藝術にも天才が必要なやうに惚れるのにもきつと天才が必要なんでせうね。それなら僕は惚れる方ぢや、どうも下根(げこん)の凡夫のやうです。 (談)