やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

[やぶちゃん注:底本は1984年平凡社刊「南方熊楠選集 第三巻 南方随筆」を用いた。冒頭「一」の章題の下部には、ポイント落ち二行で、以下の記載がある。『谷津直秀「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」参照(『東京人類学雑誌』二五巻二八九号二八二頁)』。【2022年5月20日追記】「南方隨筆」所収「俗傳」パート「睡眠中に靈魂拔出づとの迷信」底本正字化版・オリジナル注附(PDF縦書版)を公開した。]

 

睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信   南方熊楠

 

     一

 

 本邦にこの迷信を記せるもの多きうち、顕著なる一例、南溟の『続沙石集』(寛保三年自序あり)一巻六章に、中京のある家の婢、主人の親属なる男と情を通ぜるが、かの男本妻を迎えんとすと聞き、しきりに怨み臥したる夜半、にわかに叫び起き、双(なら)び臥したる女どもに語る。某街の門を出でんとするに、向うより人来たるを見て、隠れんとするを、かの人剣を抜いてわれを斬りつくると夢見て寤(さ)むる、と。明朝、人来て告ぐ、今日は珍しきことあって、只今までそのことに係りて往反せり。昨夜更けてわが相識れる医者、某街の門を通り過ぎんとする時、髪を乱し、恨めし気なるさましたる若き女、行き違わんとしてまた立ち帰り隠れんとす。影のごとくにて進退に脚音なし、声掛けしも応えず、身の毛いよいよ立って恐しかりければ、剣を抜いて斬りつけたり。たちまち消えてその人なし。医者剣を捨てて帰りしを今朝その街に往って乞うに、かりそめに還すまじと、むつかしくなって、ようやく只今事済みけり、と。その所その町の名もたしかに聞きたれども、なお十年にもならぬことゆえ、わざと記さず。この女、男を恨み、思い寝の一念、影のごとく人目に見ゆるばかり現われ、男の許に往かんとせしこと疑いなし、と。

 七年前厳冬に、予、那智山に孤居し、空腹で臥したるに、終夜自分の頭抜け出で家の横側なる牛部屋の辺を飛び廻り、ありありと闇夜中にその状況をくわしく視る。みずからその精神変態にあるを知るといえども、繰り返し繰り返しかくのごとくなるを禁じえざりし。その後 Frederic W. H. Myers, Human Personality1903, vol. ii, pp. 193, 322 を読んで、世にかかる例尠なからぬを知れり。されば蒙昧の民が、睡中魂抜け出づと信ずるは、もっともなことにて、ただに魂が人形を現わして抜け出づるのみならず、蠅、蜥蜴、蟋蟀、鴉、鼠等となりて、睡れる身を離れ遊ぶという迷信、諸方の民間に行なわる(Frazer, The Golden Bough 1890, vol. I, p. 126)。したがって急に睡人を驚起せしむれば、その魂帰途を誤り、病みだすとの迷信、ビルマおよびインド洋諸島に行なわれ、セルビア人は、妖巫眠中、その魂蝶となって身を離るるあいだ、その首足の位置を替えて臥せしむれば、魂帰って口より入るあたわず、巫ために死すと伝え、ボンベイにては、眠れる人の面を彩り、睡れる女に髭を書けば罪殺人に等し、と言えり(同書一二七頁)。二十年前、予広東人の家に宿せし時、彼輩の眠れる顔を描きて鬼形にし、またその頰と額に男根を画きなどせしに、いずれも起きてのち、鏡に照らして大いに怒れり。その訳を問いしに、魂帰り来たるも、自分の顔を認めず、他人と思って去る虞(おそれ)あるゆえとのことなりし。

 また按ずるに、義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻二七、多足食(たすうじき)王子、仮父に殺さるるを慮り、鞞提醯国に奔る。途中樹下に困睡す。たまたまその国王殂(そ)して嗣なく、大臣ら、しかるべき人を求むるに、この王子非常の相あるを見て、触れてこれを寤(さ)ます。王子覚めていわく、王を覚ますに然くすべけんや。諸人その法を問う。答えていわく、「まず美音を奏し、ようやく覚寤(めざ)めしむ」と。「群臣いわく、これは貧しき子にあらず、定めて高門に出でしならん、と」。よって質(ただ)してその先王の甥たるを知り、立てて王となす。これにて、インドに古く、突然貴人を済まさず、音楽を奏し徐々(そろそろ)これを起こす風ありしを知る。『和漢三才図会』巻七一に、伊勢国安濃郡内田村、長源寺の堂の縁に、土地の人と日向の旅人と、雨を避けて眠れるを、倉卒(にわかに)呼び起こされ、二人の魂入れ替わり、おのおのその家に還りしも、家人承引せず。再び堂の縁に熟眠中、魂入れ替わり復旧せりと述べ、ある紀を引いて、推古帝三十四年、件(くだん)の両国の人死して蘇生せしに、魂入れ替わりしゆえ、二人を交互転住せしめし由言えり。このある紀とは、有名の偽書、『先代旧事本紀』なりしと記臆す。全くの妄語なり。ただしこれに似たること、『紀伊続風土記』巻八五に出づ。いわく、東牟婁郡野竹村民弥七郎、元文中七十歳ばかり、病んで悶絶し、しばらくして人々に呼ばれて超りしも、言語態度とみに変わり、妻子を識らず、木地引の語をなす(木地引者近江の詞多し。本年一月の『文章世界』、柳田国男氏の「木地屋物語」参看)。そのころ、当村の奥山に住みし木地引弥七郎死し、その覗いまだ消失せざるに、同名を呼ばれ、来てこの老人と入れ替わりたるなるべし、蘇生後十余年経て死せり、と。    (明治四十四年八月『人類学雑誌』二七巻五号)

 

           二

 

『人類学雑誌』二七巻五号三一二頁に拙文[やぶちゃん注:前の章「一」を指す。]出でてのち、石橋臥波君その著『夢』の一篇を贈らる。その五三、九一、一〇七、二〇〇等諸頁に、本題に関する例多く載せたり。今少しく引いて管見を添えんに、まず『伊勢物語』に、情婦の許より、今霄夢になん見え給いつると言えりければ、男、

  思ひ余り出でにし魂(たま)のあるならん、夜深く見えば魂結びせよ

と詠みし、とあり。和泉式部が、男の枯れ枯れになりにけるころ、貴船に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、

  物思へば沢の螢もわが身なり、あくがれ出づる魂かとぞ見る

と詠めり、と『古今著聞集』に見えたる(『沙石集』巻五には、沢の螢を沢辺の螢とせり。彼女の家集には全く載せず)。また、『拾芥抄』に、「玉は見つ主は誰とも知らねども結び留めつ下かへの裙」、「人魂を見る時、この歌を吟じ、著るところの衣裙(男は左、女は右)を結ぶべし」とあるなどと攷合して、中古本邦に、霊魂夢中、また心労はなはだしき時、また死亡前に身を離れて他行するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる俗習ありしを知り得。

 式部の歌の外に、苦悶極まる時、火の玉外出すと信ぜるを証すべきもの、『義残後覚』巻三、「人ごとに人玉というもののある由を、歴々の人歴然のようにの給えども、しかと受けがたく侯いしが、北国の人申されしは、越中の大津の城とやらんを、佐々内蔵介攻め申されしに、城にも強く禦ぐといえども、多勢の寄せて手痛く攻め申さるるほどに、城中弱りて、すでにはや明日は打死せんと、おいおい暇乞いしければ、女童部(わらんべ)泣き悲しむこと類いなし。まことに哀れに見え侍りし。かかるほどに、すでにはや日も暮れかかりぬれば、城中より天もくほどなる光り玉、いくらという数限りもなく飛び出でけるほどに、寄せ衆これを見て、すわや城中は死に用意しけるぞや、あの人玉の出づることを見よとて、われもわれもと見物したりけり。かかるによりて、降参して城を渡し、一命を宥(なだ)め候様にとさまざまあつかいを入れられければ、内蔵介この義に同じて事調うたり。さてはとて上下悦ぶこと限りなし。かくてその日も暮れければ、昨日飛びし人玉またことごとくいずくよりかは出でけん、城中さして飛び戻りけり。これを見る人幾許という数を知らず、不思議なることどもなり」とあり。

 死する前に人玉出づること、『和漢三才図会』巻五八に見ゆ。欧州にもしかく言う由、例せば Hazlitt, Faiths and Folklore, 1905, vol. ii, p.580’に見ゆ。デンマークにて、小児の人玉は小さくて赤く、大人のは大なれど淡(うす)赤く、老人のは青しと言い、ウエールスでは、大人のは大にして赤く、小児のは小さくして淡肯しと言う(拙文“Life-Star Folklore,Notes and Queries, July 13, 1907, p. 34を見よ)。ギリシア海島には、火の玉を、空中の鬼が死人の魂天に上るを妨ぐる現象とする民あり(Bent, The Cyclades,1885, p. 48)支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戻すの義なり。死人の衣を更うるに先だち、浄衣を持って屋棟に上り、北に向かって還りたまえと三呼し、かくて魂を包める衣を持ち下り、絹紐もて括りて魂去るを防ぎ、飲食を奉ずること生時のごとくし、日数経て尸(しかばね)を葬る。この法今も行なわるる所ありとぞ。『日本紀』巻一一、大館鶴鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして乗じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず。ホス人、バンクス島人、フィジー島人らも、死人の魂を呼び戻して葬りし由なれど、今も然るや否を知らず(予の“On Chinese Beliefs about the North,Nature, vol. li, p. 32, 1894)。Geo. Brown, Melanesians and Polynesians,1910, p.399 に、南洋のヨルク公島人、人玉を幽霊とすとあれど、魂結びなどのことを記せず。本邦に嫉妬酷(ひど)き妻の生魂、火の玉となって、夫の亡妾の墓に赴き、その火の玉と闘い勝ちし談ありしと記臆すれど、出所を忘れたり。また『晋書』に、「東海王越死す。帝哀痛す。越の枢は焚(や)かれ、すなわち魂を招いて、越を丹徒(たんと)に葬る。中宗もって礼にあらずとなし、すなわち詔を下していわく、それ冢(つか)はもって形を蔵す、廟はもって神を安んず、今の世の招魂葬なるものはこれ神を理むるなり、それこれを禁ぜよ、と」と見ゆ。

 石橋君、『古今集』の歌に「思ひやる境遥かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき」とあるを、「これ遠ければ夢に入らずとするものにて、近ければ霊魂肉体を離れて、夢に入るとするものなり」と評せり。一両年前歿せし英国稀有の博言家ゼームス・プラットいわく、支那人は、その幽霊が支那領土と他邦における居留地の外に現ぜずと信ず、と。『五雑俎』巻一五にもいわく、「江北には狐魅多く、江南には山魈(さんしょう)(人の宅に拠り婦女に姪する鬼)多し。鬼魅のことは、なしと謂うべからざるなり。余の同年の父、安丘の馬大中丞、浙・直を巡按する時、狐の惑わすところとなる。万方これを禁(はら)えども、得べからず。日に尫瘵(おうさい)に就(つ)き、ついに病(やまい)と謝(もう)して帰る。魅もまた相随えり。淮(わい)を渡って北すれば、すなわちまた至らざりき」。これ妖怪もおのずから縄張りあって、その外に往きえざるなり。日本にも『江談抄』に、唐人、吉備公を密室に幽殺せんとせし時、阿部仲麿の亡魂現われ、一族子孫が故郷における近況を聞かんとて、現わるるごとに、会う人驚死すと語り、公より阿部氏七、八人、当時の官位形勢を聞き知って大悦し、公に秘事を伝えて、その厄を脱せしめし由を筆せるは、幽霊もあまり遠方に到りえずとせる証にて、石橋君の評説に照らして興味あり。

 欧州にも古え夢中に魂抜け出づるとせる例、スコットランドにて、二人暑を避けて小流辺に憩い、その一人眠りけるに、口より黒蜂ほどの物出でて、苔を踏んで、流れが急下する上に横たわれる枯草茎を歩み、対岸の廃舎に入るを、今一人覩(み)て驚き揺り起こせしに、その人寤(さ)めて面白き夢を破られつる、われ眠中沃野を過ぎ、宏河の辺に出で、滝の上なる銀の橋を渡り、大宮殿裏金宝堆積せるを取らんとせるところを起こされきと怨めり、という譚あり。また六世紀にバーガンジー王たりしゴンドラン、狩に憊(つか)れて小流側に睡りしを、一侍臣守りけるうち、王の口より一小獣出で、河を渡らんとしてあたわず。侍臣刀を抜いて流に架すれば、小獣すなわち渡って、彼岸の小丘麓の穴に入り、しばらくしてまた出で、刀を踏んで還って王の口に入る。ここにおいて王寤めて語るらく、われ稀代の夢を見つ。たとえば磨ける鋼の橋を踏んで、飛沫四散する急流を渡り、金宝盈足せる地下宮に入りしと覚ゆ、と。よって衆を集め、その所を掘っておびただしく財物を獲、信神慈善の業に施せりという(Chambers, The book of days, 1872, vol. I, p. 276)。

 人の魂死して動物と現ずる例、『日本紀』巻一一、蝦夷(えみし)、田道(たじ)を殺して後、その墓を掘りしに、田道大蛇となって彼らを咋(く)い殺す、と載せ、『今昔物語』等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し。『新著聞集』二篇に、下女死して貯金に執着し、蠅となって主人の側を離れざりし談あり。英国に、蛾を死人の魂、また魅(フェヤリー)とする地あり。ギリシア語に、城も魂も同名なるに似通えり(keightley,The Fairy Mythology,ed. Bohn, 1884, p. 298, n.)。

 グリーンランド人、霊魂、睡中体を脱し、狩猟、舞踏、訪交すと言うは、正しくかかる夢を見るに出づ。北米インジアン、夢に魂抜け出でて、物を求むることあらんに、覚めてのち力めてその物を手に入れずば、魂ついに求め煩うて全く身を去り終わる、と言う。ニュージーランド人は、魂、夢に死人郷に入り、諸亡友と話すと信じ、カレンスは、夢に見ること、ことごとく魂が親しく見聞するところ、と信ず。濠州土人、コンド人等、その巫祝、夢に神境に遊ぶとす。アウグスチン尊者の書に、人あり、一儒士に難読の書の解釈を求めしも、平素応ぜざりしが、ある夜その人就牀に先だち、儒士来てこれを解きくれたり。後日に及び、そのゆえを問い、甫(はじ)めて儒士の魂が、夢に体を出で問う人の室に現じ、そのいまだ眠らざる間にこれを教えたるを知れり、と載せたり(Tylor, Primitive Culture, New York, 1888, vol. I, 437, 441)。ニューブリツン島人は、霊魂、人形を具し、常にその体内に棲み、眠中また気絶中のみ抜け出ると信じ、眠たき時、予の魂他行せんと欲すと言う(和歌山市の俗、坐睡を根来(ねごろ)詣りと称す。寐と根、国音近きに出づる酒落ながら、もと睡中魂抜け出ると想いしに出づるや疑いを容れず)。サモア島民の信、ほぼこれに同じく、夢中見るところ、霊魂実にその地に往きそのことを行なえりとす(Brown, op. cit.,pp. 192, 219)。

 熊楠按ずるに、霊魂不断人身内に棲むとは、何人にも知れ切ったことのようなれど、また例外なきにあらず。極地のエスキモーは、魂と身と名と三つ集まりて個人をなす。魂常に身外にありて、身に伴うこと影の身を離れざるごとく、離るれば身死す、と信ず(Rasmussen, the People of the polar North,1908, p. 106)。神道に幸魂、奇魂、和魂、荒魂等を列し、支那に魂魄を分かち、仏典に魂識、魄識、神識、倶生神等の名あり。古エジプト人は、バイ(魂)の外にカ(副魂)を認めたり(第一一板『大英類典』九巻五五頁)。これらは、魂の想像進みて、人身に役目と性質異なる数種の魂ありと見たるにて、その内に眠中死後体に留まる魂と、抜け出づる魂とありとせるやらん。近代まで、多島洋民中には、死後貴人の魂のみ残り、下民の魂は全く消失すと信ぜる者ありたり(Waitz und Gerland, Anthropologie der Naturvöker, 1872, , S. 302)。

 アフリカのイボ族の人いわく、祖先来の口碑の外に、霊魂が睡眠中抜け出づるを証するは、夢もっとも力あり、と(A. G. Leonard,The lower Night snd its Tribes, 1906, p. 145)。トマス氏が『大英類典』一一板八巻に筆せる夢の条にいわく、下等人種、夢の源由を説くに二様あり。一は魂が外出して、身外の地処、生人、死人を訪うとし、一は死者等の魂が来てその人に会うとするなり、と。いずれにしても、荘周が「その寐(い)ぬるや魂の交わり、その覚(さ)むるや形の開く」と言えるに合えり。またいわく、デカルツの徒は、生存は考思に憑るとす。したがって心は常に考思すれば、睡中夢実に絶えず、と説く。これに反して、ロックは人、夢中のことを常に知るなし。覚醒中の魂、一考過ぐればたちまちこれを記せず。無数の考思、跡を留めず消失するほどなるに、睡中みずから知らざる際、なお考思すとは受け取れず、と難ぜり。ハミルトン等またこれを駁して、睡遊者、睡遊中確かにその識ありながら、常態に復ればただちにこれを忘る。故に睡中不断夢あるも、済むれば多く忘失するなりと論ぜり、と。下等人種も、ハミルトン同様の見解より、睡中常に夢断えず。したがって睡るごとに必ず魂抜け出づと信ぜるもあり。また睡中必ずしも不断夢見ざれども、睡人があるいは夢みあるいは夢みずにおるを、傍人正しく識別しあたわず。ただし、夢見る時は必ず魂が抜け出づるものと心得たるもありて、両説いずれより考えても、急に睡人を攪乱揺起するは、霊魂安全に身に還るを妨ぐるわけと、戒慎するに及びしならん。かくてこそ二七巻五号[やぶちゃん注:前の章「一」を指す。]に、唐訳の仏教律より引きたる、古インド人、睡れる王を急に呼び寤(さ)まさず、音楽を奏してようやく覚悟せしめたる風習(この譚F. A. von Schiefner, Tibetan Tales, trans. Ralston, 1906, ch. Viii にも出でたれど、「ようやく覚悟せしむ」とはなくて、歌謡、銅鈸子(どうばつし)、大鼓をもって寤ます、とあり。それでは安眠を暴(にわ)かに擾(みだ)す訳にて、王者に対する作法に背く。チベット訳経の不備か、訳者の麁漏か、何に致せ唐訳の方、正義を得たりと思わる)、往年英国官吏がビルマ人を訪ねて、しばしば睡眠中とて謝絶され、魂の還らざるを惧れて揺り起こせざるという理由に気づかず、むやみに家人の無礼を憤りしこと(‘Hints to Travellers, Royal Geographical Society, London, 1889, p. 389)、フィリッピン島のタガル人の、睡中魂不在とて、睡人を起こすを忌む俗(Tylor, op. cit., vol. I, p. 441)等が生じたるなれ。

(追記)わが邦の魂結びに似たること、ハーバート・スペンセルの『社会学原理』三板七七七頁に出でたり。南洋ヤルチイ島の古風に、人病重くなれば、魂医(ソール・ドクトル)をして病体を脱せる魂を取り戻さしむ。その医二十友を随え、二十女とともに、病家の墓地に赴き、男は鼻笛吹き、女は嘯(うそぶ)きて遊魂を誘い出し、時を経て、吹嘯行列して遊魂を病家に伴れ帰る。衆掌を開き、穏やかにこれを扇ぎて家に向かわしめ、家に入るやたちまち一斉に呵して、病人の身に入らしめし、という。予の現住地紀伊田辺に、古来四国の船多く来たる。二、三十年前までみずから見しとて、数人語りけるは、その船員この地で病死し、葬事終わり商売済みて出立に際し、船に踏板を渡し、乗込人を待つ振りすることやや久しくて後、死者の名を高く呼んで早く乗れと催(うなが)し、さてその者すでに乗りたりとて人数を算え、乗員の現数を一人多く増して称えて解纜せり。かくせずば亡魂安処せず、船に凶事あり、と伝えたりとぞ。

『人類学雑誌』二七巻五号の拙文[やぶちゃん注:前の章「一」を指す。]差し立てて後、三重県木本町近村の石工来たり、予の悴五歳なるが夜分顔に墨塗り眠りに就(つ)くを見、かくすれば必ず魔(おそ)わると語りて去る。その夜件しばしば寝言いい安眠せず。妻、大いに困れり。田辺近傍ではかくすれば、阿房になると言う由。   (大正元年八月『人類学雑誌』二八巻八号)