やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ


創作   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正5(1916)9月発行の雑誌『新思潮』に掲載された。この時、「猿――或海軍士官の話」(後に「猿」のみで副題は削られる)も併載されている。一部に後注を附した。]

 

創作

 

 僕に小説をかけと云ふのかね。書けるのなら、とうに書いてゐるさ。が、書けない。遺憾ながら、職業に逐はれてペンをとる暇がない。そこで、人に話す、その人が、それを小説に書く。僕が材料を提供した小説が、これで十や二十はあるだらう。勿論、有名なる作家の作品でね。唯、君に注意して置きたいのは、僕の提供する材料が、大部分は、僕の創作だと云ふ事だよ。勿論、これは、今まで、人に話した事はない。さう云ふと、誰も、僕の話を聞いて、小説にする奴がないからね。僕は、何時でも、小説らしい事實を想像でつくり上げて、それを僕の友だちの小説家に、ほんとうらしく話してやる。すると、それが旬日ならずして、小説になる。自分が小説を書くのも、同じ事さ。唯、技巧が、多くの場合、全然僕の氣に入らないがね、それは、まあ仕方がないさ。

 尤も、ほんとうらしく見せかけるのには、いろんな條件が必要だよ。僕自身、僕の小説の主人公になる事もある。或は、僕の友だちの夫婦關係を粉本に、ちよいと借用する事もある。が、決して、モデル問題は起こらない。起らない筈さ。モデル自身は、實際、僕の提供する材料のやうな事をしてはゐないんだし、僕の友だちの小説家も、それが姦通とか、窃盜とか、シリアスな事になればなる程、コ義上、モデルの名は出さないからね。そこで、その小説が活字になる。作家は原稿料を貰ふ。どうかすると、僕をよんで、一杯やらうと云ふやうな事になる。實は、僕の方が、作家に禮をすべき筈なのだが、向ふで、嬉しがつて、するのだからさせて置くのさ。

 所が、この間、弱つた事があつた。なに、Kの奴を、小説の主人公にして見たのさ。何しろ先生あの通り、トルストイヤンだから、あいつが、藝者に關係してゐる事にしたら、面白からうと思つて、さう云ふ情話を、創作してしまつたのだね。すると、その小説が出て、五六日すると、Kが僕の所へやつて來て、恨がましい事を並べたぢやあないか。いくら、あれは君の事を書いたのではないと云つても、承知しない。始めから、僕の手から出た材料ではないと云つてしまへば、よかつたのだが、それをしなかつたのが、こつちの落度さ、僕がKの話をした小説家と云ふのは、氣の小さい、大學を出たての男で、K君の名譽に關る事だから位、おどかして置けば、決して、モデルが誰だなぞと云ふ事を、吹聽する男ぢやあない。そこで、怪しいと思つたから、に、何故君がモデルだと云ふ事がわかつたと、迫窮したら、驚いたね、實際Kの奴が、かくれて藝者遊びをしてゐたのだ。それも、箒[やぶちゃん後注1]なのだらうぢやあないか。仕方がないから、僕は、表面上、Kの私行を發いたと云ふ罪を甘受して、Kに謝罪したがね。まるで、冤罪に伏した事になるのだから、僕もいゝ迷惑さ、しかし、それ以來、僕の提供する材料が、嘘ではないと云ふ事が、僕の友だちの小説家仲間に、確證されたからね。滿更、莫迦を見たわけでもないと云ふものさ。

 だが、たまには、面白い事もあるよ。僕は、いつかMが、他人の細君に戀してゐると云ふ話を創作した。尤も一切の社會的覊絆[やぶちゃん後注2]を蹂躙して、その女と結婚する事が男らしい如く、自分の戀を打明けずにおくのも男らしいと云ふ信念から、依然として、童貞を守りながら、その女ときれいな交際をしてゐると云ふ筋なのだがね。すると、それを聞いた僕の友だちの小説家は、それ以來、大にに推服してしまつたぢやあないか。實は、位、誘惑に負け易い、男らしくない人間はないのだがね。それを見てゐると、いくら僕でも、笑はずにはゐられないよ。

 君は、いやな顏をするね。僕を、罪な事をする男だとでも、思つてゐるのだらう。隱したつて、駄目だよ、商賣がら、僕の診察に間違ひはない。醫者と云ふものは、病状の診斷を、患者の顏色からも、拵へるものだからね。それは、君のモラアルも、僕にはよくわかつてゐるさ。しかしだね、僕が、さう云ふ事をしたからと云つて、どれだけ他人に迷惑を與へるだらう。唯、甲が乙に對して持つてゐる考へを、少し變更するだけの事だ。善くか、惡くかは、場合々々でちがふがね。え、僞を眞に代へる惧がある? 冗談云つちやあいけない。甲が乙に對して持つてゐる考に、眞僞の別なんぞ、あり得ないぢやあないか。自分を知つてゐる者は、自分だけさ。もう一つあれば、自分を造つた、自分の上の實在だけさ。

 尤も、その爲に、甲と乙との問に、不和でも起れば、僕の責任だが、そんな事は、絶對にないと云つても、まあいゝね。それだけの注意は、僕でも、ちやんとしてゐるのだから。

 第一僕のやうな眞似をした人間は、昔から澤山ゐたらうと思ふね。それは、僕程、明白な自覺を以て、した奴はないかも知れないさ。が、ゐた事は、確にゐたよ。たとへばだね、僕が、實際、何か經驗して、それを、僕の友だちに話したとする。君は、その時、嚴密な意味で、僕が嘘をつかずに、ありのままを話せると思ふかね。よし、出來るにしても、むづかしい事には、ちがひなからう。さうすると、嘘の材料を提供すると云ふ事と、實際のそれを提供すると云ふ事との差が、一般に考へてゐるよりも、小さくなつてくる。それなら、昔から、出たらめを、小説家や詩人に話した奴が、澤山ゐたらうぢやあないか。出たらめと云ふと、人聞きが惡いがね。實は、立派な想像の産物さ。

 まあ、そんなむづかしい顏をするのは、よし給へ。それよりその珈琲でものんで、一しよに出かけよう。さうして、あの電燈の下で、ベエトオフエンでも、聞かう、ヘルデン・レエベン[やぶちゃん後注3]は、自働車の音に似てゐるから、好きだと云ふ男が、ジアン・クリストフの中に、出て來るぢやあないか。[やぶちゃん後注4]僕のべエトオフエンの聞き方も、あの男と同じかも知れない。事によると、人生と云ふものの觀方もね。………… (一九、八、五)

 

■やぶちゃん後注

1 箒:「はうき」。花柳用語。手当たり次第に複数の女(芸妓)と関係を持つ浮気遊びの行為、またはその男。箒(ほうき)は畳の上を掃(は)くので、『うへをはくもの』が『うへはきもの』、『うはきもの』=『浮気者』と転訛したものと言う。

2 覊絆:「きはん」。「覊」は「おもがい」という馬の頭の上から轡(くつわ)にかける革紐で、「絆」は「きずな=ほだし」で馬の足を繋ぐ紐を言う。「束縛」の意。

3 ヘルデン・レエベン:HeldenLeben”ドイツ語で「英雄の生涯」の意。

自働車の音に似てゐるから、好きだと云ふ男が、ジアン・クリストフの中に、出て來る:筑摩書房類聚版全集注釈によると、『この男はクリストフの知人でシルヴァン・コーンというユダヤ人。第五章「広場の市」に出てくる。』とある。