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シチーグロフ郡のハムレット
――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯
[やぶちゃん注:これは
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)の「猟人日記」(1847~1851年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の
“Гамлет Щигровского уезда”(Gamlyet Shchigrovskogo Uyezda)
の全訳である(1849年『同時代人』初出)。底本は昭和31(1956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の下巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。傍点「丶」は下線に代え、巻末にある訳者注を作品末に示し(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した)、一部に他翻訳の注を参照にした私の注も混在させた(記号で明確に区別した)。なお本文中の外国語表記の後の割注は〔 〕を用いて(底本ではただポイント落ち二行である)挿入した。訳者である故中山省三郎先生への私のオードは「生神樣」の冒頭注を参照されたい。なお、一部判読疑問の部分は、同テクストを用いたと思われる昭和14(1939)年岩波書店刊の岩波文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」を参照した。【2008年7月20日】]
シチーグロフ郡のハムレット
いつぞや遠出をしたとき、私は物持の地主で遊獵家であるアレクサンドル・ミハイルィチ・G(ゲー)なにがしのところへ食事に招かれた。彼の村はそのころ私のゐた小村(こむら)から五露里(り)ばかり離れた所にあつた。私は燕尾服――これだけは外へ、たとひ獵に出かけるときでさへも必らず持つて行つたが宜いと、よく人に勧めるけれど――を着て、アレクサンドル・ミハイルィチのところへ出かけて行つた。食事は六時に始まることになつてゐた。向ふへ着いたのは五時であつたが、既に制服や私服、その他、これといつて言ひ表はしにくいやうな服装をした貴族たちが實に夥しく集まつてゐた。主人は慇懃に私を迎へたが、直ぐにまた侍僕の部屋へ駈け込んだ。高官を彼は待ちうけてゐたので、彼くらゐの獨立した社會上の地位と富とをもつた人には全く不似合ひな程そはそはしてゐた。アレクサンドル・ミハイルィチはまだ結婚したこともなく、女を愛したこともなかつた。また彼のところへ集まる連中は獨身者ばかりであつた。彼は豪奢な暮らしをし、先祖傳來の邸宅(やしき)を更に取り擴げて、莊麗を加へ、年々、モスクワから取り寄せる酒だけでも一萬五千ルーブリに達するといふくらゐで、人々からはおよそ絶大な尊敬をうけてゐた。アレクサンドル・ハイルィチは疾うの昔に職を退いて、一向に顯職に就かうなどとはしなかつた……。そんなら、何だつてわざわざ好き好んで高貴の方をお客に招待したり、嚴かな振舞の日に、朝起きる早々からそはそはしてゐるのか? といふことになると、それは私の知合ひの或る辯護士が、自發的に贈られる賄賂を取るかどうかと聞かれたとき、よくいつてゐた言葉をもつてすれば、『暗々裡』に葬られてゐるのである。
私は主人に別れてから、あちこちの部屋をぶらつき始めた。お客は殆んど全部が見知らぬ人ばかりであつた。二十人ばかりの人は、もう骨牌の卓子に着いてゐた。これらの骨牌の好きな人々の中には、貴公子風ではあるが、いくらか憔悴した顏をした軍人が二人と、狹く高いネクタイをつけて、果斷な、しかも保守的な人たちにしか見られないやうな、垂れさがつた染め髭をした高官が幾人かゐた。(かういふ保守的な人たちは勿體ぶつて骨牌をとり、頭を振り向けもせずに、近寄つて來る人たちを横目でちらと見る)また小さな太鼓腹をして、ふくれた汗ばんだ手に、控へ目に足をじつと動かさずにゐる郡の役人も五人か六人ゐた。(これらの諸君は物やさしい聲で話をし、愛想よく四方八方へ微笑みかけ、襯衣の胸もとへ引き付けて札をもつてゐた。そして切り札を投げるときにも、卓子に叩きつけるやうなことはなく、それどころか、緑いろの卓子の上に、しなやかに撒いて、勝札を集めるにも、極めてお品がよく、成るべくきつい音を立てないやうに氣をつけてゐた)そのほか貴族たちは長椅子に腰をかけてゐたり、戸口や窓ぎはにかたまつてゐた。もう若くなく、見かけは女のやうな地主が一人、隅つこの方に立つて、誰一人として氣にとめる者もないのに、身を慄はし、顏を赧らめ、もぢもぢしながら腹のところで時計の飾りの認印(みとめ)をいぢり廻してゐた。また別の紳士連は、親代々のモスクワの仕立屋で、フィルス・クリューヒンといふ名人が仕立てた圓味のある燕尾服に、碁盤縞のズボンを穿いて、脂ぎつた禿げ頭を無遠慮に振り立てながら、極めて氣樂さうに、威勢のよい議論をしてゐた。足のさきか頭まで黑づくめで、かなり近視の、薄色をした二十歳ばかりの青年は、たしかに怖ぢ氣づいてゐたが、一癖ありげな微笑を洩らしてゐた……。
ところで、私がいくらか退屈しかけてゐたとき、不意に、ヴォイニツィンそれがしといふ、未だ大學を卒へてゐない若い男がやつて來た。何といつていいか一寸はつきりいへないが……とにかく一つの仕事をもつて、アレクサンドル・ミハイルィチの家に暮らしてゐる男である。彼は射撃の名人で、犬を飼ひ馴らすことにも妙を得てゐた。私はモスクワにゐる時分から知つてゐた。彼は試験ごとに『あつけらかんの藝當』をやつた。すなわち、教授の質問に一言(ひとこと)も答へなかつた若い連中の一人であつた。かういふ諸君はまた、わざわざ音節の美しい言葉を用ひて、「バケンバルヂスト」(髭書生)といふ名を頂戴に及んでゐた。(御承知のやうに、これはずつと昔の話である)一寸その當時の模様を話して見よう。先づヴォイニツィンが呼ばれたとする。頭から足の先まで熱い汗でぐつしよりになつて、徐ろにあてどもなく、あたりに眼を配りながら、身じろぎもせずに、しやんと自分の腰掛に坐つてゐたヴォイニツィンが立ちあがつて、そそくさと制服の釦を上まで掛け、試驗官の卓子のところへ横歩きに、やつとのことで進み出る。『さあ、試驗票を取りなさい』と教授は朗らかにいふ。ヴォイニツィンは手をさし伸べて、ふるへる指さきで、重ねてある試驗票に触つて見る。『そんなに選(よ)つてはいけません』と他の科の教授で、直接に関係はないのであるが、極めて怒りつぽい老人が、この哀れな髭書生の樣子を見て、急に憎らしくなつて、ふるへ聲でどなりつける。ヴォイニツィンは、今はこれまでと諦めて、一枚の試驗票を取り、番號を見せ、窓のところへ行つて腰をおろす。その間に先の者が質問に答へてゐる。窓ぎはでヴォイニツィンは、依然として徐ろにあたりを見まはす以外は試驗票から眼を少しも離さない。それに手一つ動かさないのである。やがて、先の者は濟んで、成績に應じて、『宜しい、お歸んなさい』とか、『よく出來ました、まことによく出來ました』などと、丁寧な言葉さへも受けてゐる。今度はヴォイニツィンが呼ばれる。ヴォイニツィンは立ちあがつて、しつかりした足どりで、卓子に近づく。『問題を讀んで!』といはれる。ヴォイニツィンは兩手で試驗票を鼻のさきまで差し上げ、ゆつくりと讀んで、ゆつくりと手を下げる。『さあ、答へて』と同じ教授が、ぐつと反りかへつて、腕を組んだまま、懶げにいふ。あたりは墓場のやうに、ひつそりする。『君はどうしたの?』ヴォイニツィンは默つてゐる。介添の老人はいらいらし始める、『さあ、何とか言つて!』それでも我がヴォイニツィンは氣が遠くなつたかのやうに默つてゐる。短かく刈つた後ろ頭はしっかりと、動きもせずに、仲間の物好きな目を惹いてゐる。介漆の老人の眼は今にも飛び出さんばかりである。老人はヴォイニツィンが憎くて憎くてたまらないのである。『はて、これは不思議だ』と他の試驗官がいふ、『何だつて君は啞みたいに默つてるんです? さあ、分かりませんか、え? 分からなければ分からないつて言ひなさい』『どうぞ別の問題をやらして下さい』『それぢや、さうして』 手を振つて、主席の試驗官が答へる。またヴォイニツィンは別の、問題の紙をとつて、再び窓のところへ行き、再び卓子のところへ歸つて、又しても殺された人のやうに默つてゐる。介添の老教授は彼を生きてゐるまま食ひ切り兼ねない勢ひである。たうとう彼は追ひ返されて、零點をつけられる。諸君はお思ひになるであらう、『もういくら何でも歸るだらう』と。ところがいやはやどうしてどうして! 彼は自分の席に歸つて、相變らず身動きもせず試驗が濟むまでは、じつと坐り込んでゐるのである。やがて席を去るときになると、『あゝ、煮湯のまされちやつた! 酷い目に遭つちやつた!』と叫ぶ。こんな工合で、その日一日といふものは、時をり頭をつかんでは、痛烈に不遇な自己の運命を呪ひながらモスクワの街を歩きまはる。勿論、本などに觸りもしない。そしてまた翌る朝、同じことが繰り返される。
さて、私のところへ、このヴォイニツィンその人がやつて來たのである。私たちはモスクワの話や獵の話をした。
「いかがでせう」と彼はだしぬけに囁いた、「こちらで一番の頓智屋に御紹介しませうか?」
「どうぞお願いひします」
ヴォイニツィンは、肉桂色の燕尾服に花模樣のネクタイをつけ、額の上の髮の毛が高く縺れ上つて、口髭のある小柄な人のところへ私を連れて行つた。この人の黄ばんだ落ちつきのない顏だちはたしかに機智と皮肉とを感じさせる。ふつと浮かべる辛辣な微笑みに、唇は絶えず歪んで、細目にあけた黑い小さな眼は、あたりに人なきが如く厚かましく、不揃ひな睫毛の下から覗いてゐる。彼のわきには、鷹揚な、柔味があつて、甘つたるい――サァハル・ミェドオヰッチそのままの――片目の地主が立つてゐる。彼は小柄な男がまだ洒落を言はないうちから笑つてゐて、身をも心をも樂しさに忘れ果ててしまつたかのやうに見える。ヴォイニツィンは頓智屋に私を紹介したが、彼の名はピョートル・ペトローヰッチ・ルピーヒンといつた。私たちは互ひに名乘り合つて、懇ろに最初の挨拶を交はした。
「ところで、私の無二の親友を紹介さしていただきませう」と不意にルピーヒンが例の甘つたるい地主の手をつかまへながら、鋭い聲でいひ出した。更に附け加へて、「キリーラ・セリファヌィチさん、そんなに意地を張んなさんな」といつて、「何もあんたに嚙みつくんぢやあるまいし。そこででございます」と言葉を續けた。一方、キリーラ・セリファヌィチの方は當惑顏に、まるで腹のところが落ちてでもしまつたかのやうに、難儀さうにお辭儀をしてゐるのに、「そこででございますな、御紹介申し上げますが、これなるは豪い貴族。五十の御年までは、いたく御壯健でいらつしやいましたが、俄かに御眼の療治を思ひ立たれ、その結果、獨眼となられました。その後、御自分の百姓どもを療治なすつて居られまするが、これまた御同樣の首尾にて、……さて、百姓どもは勿論それ相當の敬意を拂つて……」
「いやはや、どうも」キリーラ・セリファヌィチは口ごもつて、――そして笑ひ出した。
「おしまひまで言ひ給へよ、君、え、言ひ給へ」とルピーヒンが後を引きとる、「あんたは裁判官に選ばれるかも知れないよ、いや、きつと選ばれるかも知れないよ、いや、きつと選ばれるから、見たまへ。さうなつたところで勿論、あんたのかはりに陪審官の方でいろんなことを考へてくれるに決まつてる。しかし、たとひ他人樣の意見にしろ、とにかく喋ることだけは自分で喋れなくちやならん。萬が一にも、縣知事でもやつて來て、『どうしてこの裁判官は吃るんだらう?』と訊いたと思ひたまへ。さあ、さうなると、みんなが『中風に罹つて居りまして』といふに決まつてるね。すると知事は『ぢや惡い血を取つてやれ』つていふだらう。そんなことになつたら、あんたの地位からいつて、見つともないぢやないか、ね、さうだらう」
甘つたるい地主は、腹をかかへて笑つてゐる。
「どうです、あんなに笑つて」とルピーヒンはキリーラ・セリファヌィチの、波を打つてゐる腹を人惑惡さうに見やりながら續ける、「なあに、いくら笑つたつて構はないけど」と私の方を振りかへつて附け加へる、「この人は食べるに不自由はなし、身體(からだ)は丈夫だし、子供はなし、百姓たちを質に入れて置きもしないし、それに百姓たちを療治してもやる――この人のお内儀さんは頭が足りない。(キリーラ・セリファヌィチは聽きとれなかつたかのやうに、幾分わきの方を向いたが、それでもなほ聲を立てて笑ひつづけてゐた)私もやはり笑つてつてはゐますが、手前の細君には測量師と一しよに駈落ちされちまつたんですよ。(彼は苦笑した)あなたは御存じなかつたですかな? そりや、その筈だ! それはさうと、男を連れて駈落ちをして、私には置き手紙をして行きましてね、『なつかしきピョートル・ペトローヰッチ樣、お許し下さい。情にほだされて、氣の合つた人と遠くへ行きます』なんて……。ところで測量師と來たら、爪を切らないで、おまけにズボンのきちきちのやつを穿いてるつていふ、たつたそれだけのことで彼女(あいつ)の氣に入つたんですよ。あなたは呆れてらつしやるんですね? 『何ていふざつくばらんの奴……』つて。いやはや、とんでもないことを! 私どもは野育ちですから何でも眞正直に育つてしまふんでして。しかしまあ、わきへ退(ど)いてませう……。未來の裁判官樣のお側に立つてゐるのもどうかと思ひますからね……」
彼は私を引つぱつて窓の方へ行つた。
「私はこの邊で頓智屋といふ評判をとりました」と話をして行くうちに、彼はいつた、「こいつ當てにしないで下さいよ。私はただ怒りん坊で、がみがみと人の惡口をいひます。だからこそ、こんなに氣樂なんですね。何も格式張る必要はないぢやありませんか、實際のところ? 私は他人(ひと)さまの意見なんぞに三文の値打も認めちやゐませんし、何一つ物事に執着をもつてなんか居りません。私は意地が惡い、――だつて仕樣がない。意地の惡い人間には少くとも細魚智慧は要らない。意地の惡いつてことは、どんなに清々したことだか、まさかと貴方はお思ひになるでせう……まあ、そこで、早い話が、まあ、こちらの主人な御覽なさい? 何だつてまあ、驅けずりまはつてるんだらう、冗談ぢやありやしない――しよつちゆう時計を見ては、にこにこしたり、汗をかいては、勿體ぶつた顏附をしたり、さんざん腹を減らさしたり。滅多に御座らつしやらない――高官だつて! そら、そら、また駈け出した、――御覧なさい、跛まで引き出して」
かういつてルビーヒンは金切聲で笑ひ出した。
「ただ惜しいことに、一人の婦人もゐやしない」と彼は深い歎息をしながら續ける、「全く獨身者(ひとりもん)の振舞だ。これぢやあ、御馳走も何もあつたもんぢやない。あれ、あれ?」と彼はいきなり叫んだ、「コゼリスキイ公爵が來ました。そら、あの車の髯の生えた、黄いろい手袋をはめた背の高い人です。外國(あちら)にゐた方だつてことは直きに分かります……。あの人はいつもこんなに遅れて來る。なあに、阿呆で、正直いやあ、馬鹿も馬鹿も大馬鹿と來てる。まあ、ちよつと御覧なさいよ、手前どもと話をするのに、その御謙遜なこと、淺ましい女子供の狎れ狎れしい仕草に微笑みかけるときの鷹揚なことつたら!……御自分でも時をり洒落を言ふんですけれど、それもほんの通りすがりの御滯在のうちにでしてね、――それはさうと、その洒落といつたら! 何のことはない、なまくら刀で船の大綱を引つ切るやうなもんです。あの方はどうしても私をお氣に召さない……、けど兎に角、挨拶して來ませう」
それからルビーヒンは公爵の方へ走つて行つた。
「あれ、私の一身上の敵がやつて來た」と直きに私のところへ引き返して來ていふ、「そら、月に焦けた顏の、頭の毛のごはごはした肥つちよが見えるでせう、――それ、向ふに帽子を鷲づかみにして、壁について、こつそり歩きながら、狼みたいに四方八方を見渡してる奴ですよ。私は千ルーブリもする馬を四百ルーブリで彼奴に賣つてやつた、あの畜生め、今では平氣で私を輕蔑してるが、それにしたつて、あんな譯のわからん奴つたらありませんね。殊に朝、お茶を喫む前か、午餐(おひる)が濟んだ直ぐ後ででも、『今日(こんにち)は』つていひますね、さちすると彼奴は『なんでございますか?』つて。これですからね。あれ閣下がおいでになる」とルピーヒンは言葉をついで、「退職した文官の方の勅任官で、落ちぶれ閣下。あの人には甜菜砂糖(あまなざとう)みたいな娘がありますし、瘰癧にかかつたやうな工場があります……、や、失禮、言ひ間違へたです……、しかしまあ、お分かりでせう。あゝ! 建築家もやつて來てる! 獨逸人で、髭をはやしてるが、自分の仕事なんか分かりもしない、へんてこれんな奴ですよ!……尤も分かつたつて仕樣がない、賄賂をとつて、圓柱を、柱を、つまり、我國の古い家柄の貴族どもに、できるだけたくさん建ててやりやいいんで!」
ルビーヒンはまた大聲で笑ひ出した……しかし、急にあわただしいざわめきが家中に擴がつた。高位のお方がお着きになつたのである。主人はあたふたと玄關へ走り出た。續いて主人を心から慕つてゐる召使と御熱心なお客とが數人走つて行つた。……今までのさわがしい話し聲は生まれた巣の中の蜜蜂の春の唸りごゑのやうに、物柔らかな、快よい話し聲に變つて行つた。ただやかましい胡蜂のルピーヒンと、見事な雄蜂のコゼリスキイとだけは相變らず高い聲で話してゐた……。と見る間に、いよいよ女王蜂――高位のお方が入つて來た。人々は取るものも取りあへず歡び迎へ、坐つてゐた人は直ぐに立ち上つた、ルピーヒンから安く馬を買つた地主すら、その地主すらも顎を胸につけてお辭儀をした。高位のお方は、誰にだつてそれ以上には出來さうもないほどの威嚴つてゐた。會釋をするやうな恰好を見せて、頭を後ろにゆすぶりながら、一言一言(ひとことひとこと)のはじめに、長く引つぱつて鼻にかけて發音する『あゝ』といふ字を附け加へながら、滿足に思ふ皆の言葉を少しばかり述べた。そして、心の底から憤慨して、コゼリスキイ公爵の髯を見、例の工場と娘とをもつた落ちぶれ勅任文官には右手の人差指だけを差し出した。それから四五分經つうちに高官は晩餐に遅刻をしなかつたのは甚だ欣幸とするところであると二度までいつたが、やがて人々は有力な人を先立てて、いづれも食堂へと出かけて行つた。
こんなことをお話しするがものはないと思ふが、まづ高位の人は一番の上座、勅任文官と縣の貴族團長との間に据ゑられた。このの團長といふのは大らかな威嚴のある顏附をした人で、糊の利いたワイシャツの胸、尨大なチョッキ、佛蘭西煙草を入れた丸い煙草入れなど、實によくその表情に合つてゐた、――主人は主人で大いに斡旋に努め、あちこちと駈けずり廻り、あくせくして、客に御馳走をふるまひ、高位の人に後ろから通りすがりに微笑みかけ、それから小學生のやうに、部屋の隅に立つたまま、そそくさとスープの皿や、一片の牛肉の皿をボーイから引つたくつた。家令が長さ一アルシン半もある大魚の口に花束を差して搬んで來る。お仕着せを着た顰め面の下僕たちはマラガ産の葡萄酒やドライ・マデーラ酒なもつてお客の一人一人に不愛想に附き纏つてゐた。そして大ていの貴族たち、わけても年輩の連中はいやいやながらおつき合ひをするといつた樣子を見せながら、酒杯を重ねてゐた。あげくの果ては三鞭酒(シヤンパン)の口が、ぽんぽんと開けられて、祝辭が述べられた。こんなことはすべて讀者諸君はあまりにもよく御承知のことと思ふ。しかし、私には一同が喜んで傾聽してゐる中で高官自身が物語つた逸話は時に注目すべきもののやうに思はれた。誰であつたか、――例の落ちぶれ閣下だつたやうな氣がするが――最近の文學に通じた人が一般の人、特に若い人たちに及ぼす女性の影響に就いて話をした。すると「さやう、さやう」と高位のお方は調子を合はして、「それはほんたうだ。けれども若い者は、巖重に言ふことを聽かせて置かにやあならん。さうでないと、奴等は女を見さへすれば相手かまはず現(うつつ)をぬかさんとも限らん」(子供らしい嬉しさうな微笑みがあらゆるお客の層にさつと浮かんだ。或る地主のごときは、眼に感謝の色をさへうかべた)「何となあれば、若い者は馬鹿だからである」(高位のお方は恐らく勿體をつけるためであらうが、時をり、普通一般に通用する言葉とちがつた妙なところへ力點(アクセント)つけた)「まあ例へて見れば、私の息子のイワンぢやが」と彼は話を進めた、「あの頓馬も丁度二十歳(はたち)になりました、ところが不意にやつて來て言ふには、『お父さん、結婚さして下さい』つて。私は『この頓馬野郎、それよか先に勤めにでも出ろ……』つていひました。……さあ、失望する、涙を流す、……しかし私には……そのその……」(この「そのその」といふ言葉を高官は唇でといふよりは寧ろ腹でいつた。ここで暫く口を噤んで、さも尤もらしく隣りの勅任文官をちらと見て、おまけに途方もなく眉を釣りあげた。高等官は愉しさうに、頭をいくぶん横に傾げて、高官の方に向いた一方の目をおそろしく早く瞬いた)「さあ、それでどうでせう?」と高官はまた話し出した、「今になつて、忰は私のところへかう書いてよこしましてな、お父さん、馬鹿であつた私の眼を覺まして下すつて有難いと……やはり、ああしてやらなけや、いかんのぢやのう」客は勿論、一も二もなく、この祝に心から同意し、面白くて爲になるこの話を聞いて元氣づいたかのやうに見えた……。食事が濟んでから、人々は一せいに立ちあがつて、がやがやと、しかも絶えず禮儀を重んじて、恰もこの場合にのみ限つて許されたかのやうなざわめきを立てながら客間に移つた。……人々は骨牌の席に着いた。
どちにかかうにかして私は日の暮れるまでゐてしまつた。駁者には明日の朝五時に馬車の仕度をしてくれと賴んでおいて、自分はあてがはれた部屋へと引き取つた。ところが、なほその日のうちに、ゆくりなくも一人の注目すべき人物と知合ひになつた。
來客が多かつたために、誰しも一部屋(ひとへや)もち切りで眠るわけには行かなかつた。私がアレクサンドル・ミハイルィチの家令に案内された大きな緑いろがかつた濕つぽい部屋には、もうすつかり着物を脱いでゐる客がゐた。私を見ると、彼は急いで毛布の下へもぐりこんで、鼻の先まで毛布を被つて、暫くは柔らかい羽根蒲團のうへに、むくむくと動いてゐたが、やがて靜かになつた、と思つたら、木綿の夜帽子(ナイト・キヤツプ)の丸い縁のかげから、眼を光らして覗いてゐた。私はもう一つの寢臺(ベツド)(この部屋には寢臺は二つしかなかつた)に近づいた。そして着物を脱いで、濕つぽい敷布のうへに横になつた。隣りの男が自分の寢床で寢がへりを打つた。……私は彼に、おやすみなさいといつた。
半時間はど經つた。しきりに眠らうとは努めたけれど、どうしても私は寢つけなかつた。どうにもならない、ぼんやりした考へが、後から後からと水揚げ機械の桶のやうに、執拗に、單調に、はてしもなくつづいてゐた。
「どうやら、あなたは眠つてらつしやらないやうですね」と隣りの男が口を切つた。
「ええ、御覧のとほり」と私は答へた、「あなたも眠れないんですか?」
「いつも私は眠れないので」
「それはまた、どうしてです?」
「どうしてって、やつぱりさうなんで。眠るには眠りますけれども、どうして眠るんだか分かりません。床に入つて、寢てゐる、そのうちに、つい眠つてしまふ」
「眠くもならないのに、どうして床へお寢みになるんですか?」
「ぢや、どうしろつて仰つしやるんです?」
私は隣りの男の質問には答へなかつた。
「不思議ですね」と、しばらく默つてゐてから話し出した、「どうして、ここに蚤がゐないのか。ここにゐなくて、どこにゐるんでせうね?」
「蚤を可哀さうに思つてらつしやるやうですね、あなたは」と私はいつた。
「いいえ、可哀さうになんか。尤も私は何ごとによらず徹底することを好いてますんで」
『ははあ』と、私は考へた、『妙な言葉を使つてるぞ』
隣りの男は又しばらく默りこんだ。
「どうです、一つ私と賭をしませんか?」
と不意に彼は實に高い聲でいひ出した。
「何の賭です?」
私にはこの隣りの男が面白くなつて來た。
「ふむ……何の賭? さうさう、これがいい、實は、あんたが私のことな馬鹿だと思つてらつしやると、私は信じてるんですが」
「冗談ぢやありませんよ」私はびつくりして、口ごもつた。
「野育ちだ、明盲だ……とね、さうでせう、白状してごらんなさい……」
「私はつひぞ、お目にかかつたこともないんですから……」と私はやり返した、「どうしてそんな結論をなさるんです……」
「どうしてつて! そりあ、貴方の聲色からですよ。あなたは上(うは)の空(そら)で返事してるから……。けれども、私は全くあなたがお思ひになるやうな人間ぢやありませんよ……」
「失禮ですが……」
「いや、まあ、私のいふことを聞いて下さい。第一に、私は佛蘭西語ならば、あなたと同じくらゐに話しますし、獨逸語ならば、あなた以上にやれます。第二に、私は外國で三年も暮らしました。伯林にだけでも八ケ月ゐました。ヘーゲルを研究しましてね、貴方、ゲェテは暗記してゐますよ。おまけに私は永い間、獨逸の教授の娘に懸想してたんですが、國へ歸つてから肺病やみの令孃(ミス)と結婚しちやいましてね。頭は禿げてゐるが、なかなか人物は偉い女でしたよ。かう話して來ると、あなたと毛色は變つてゐないでせう。私はあなたがお考へになるやうな野育ちぢやありませんよ……。私だつて、やつぱり反省といふやつに惱まされて來た人間で、私には衝動的なところは少しもありません」
私は頭をあげて、な一そうの注意を拂ひながら、この奇妙な男を見た。仄暗い燈火(ともしび)の光りに彼の容貌をはつきりと見ることは殆んど出來なかつた。
「そら、あなたは今わたしを見てゐますね」と彼は夜帽子(ナイト・キヤツプ)を眞直ぐに直しながら、言葉を續けた、「そして、きつと不思議に思つてらつしやるでせう、(どうして今日、あいつに氣がつかなかつたらう?)と。どうして氣づかれなかつたのかお話しませう、實は私が聲を立てないからですよ。他人(ひと)の蔭にかくれて、戸口の後ろに立つてゐて、誰とも話をしませんし、家令がお盆をもつて私の前を通るときは、私の胸と同じ高さに肘を上げるからですよ……。では、何故そんな眞似をしたのか? つて申しますと、二つのいはれがあるんです。第一に自分が貧乏なこと、第二には私が世を諦めてしまつたからです。本當に、あなたは私を見うけなかつたんでせうね?」
「ほんたうに。私はつい……」
「まあ、さうでせう、さうでせうとも」と彼は私を遮つた、「よく分かつてますよ」
彼は起きあがつて、腕を組んだ。帽子の長い影が、壁から天井へかけて折り曲る。
「それから正直にいつて下さい」横目で私をちらと見て、彼は附け加へた、「きつとあなたの眼には私は大の變人、いはゆる畸人(オーギナル)、いや、ひよつとしたら、或ひはそれ以上に變てこな奴と見えたでせう。事によると、あなたは私が變人の振りをしてゐるとお思ひになるでせう?」
「さつきも申し上げた通り、私は全くあなたを知らなかつたんですから……」
彼は一瞬間、眼を伏せた。
「どういふ譯で、あなたと、全く見ず知らずのお方と、こんなに思ひがけなく話をしたのか――全く、不思議だ、不思議だ! (彼は歎息をもらした)別に氣が合つたといふ間柄でもなし、あなたも、私も、どちらも相當の人間だ、いはばエゴイストだ。あなたは私にはちつとも用がないし、私もあなたには用がない。さうぢやありませんか? ところが、二人とも睡れない……、だからお喋りをするのに何の不思議もないでせう? 私は興奮してゐますが、こんなことは滅多にないことです。私は何でしてね、別に自分が田舍者だからとか、位(くらゐ)がなくて、貧乏だからつていふ譯ではないんですが、ただおそろしく氣位が高いもんですから、實に内氣でしてね。尤も、何時、どんな場合と、はつきりはいへませんし、また豫め見通しもつきませんが、時と場合さへよければ、臆病氣なんかは丁度、今夜のやうにすつかり消し飛んでしまふんです。今なら達賴喇嘛(ダライラマ)に顏を突き合はしても平氣で、嗅ぎ煙草を一服とねだつて見せますよ。それはさうと、多分あなたはお寢みになりたいでせうね?」
「どういたしまして」と私は急いで言ひ返した、「それどころか、あなたとお話してるの笑は大へん愉快です」
「つまり、私の話があなたに面白いつていふんですね……。そんなら至極結構です。それででございますね、唯今申しましたやうに私はここいらで畸人だつて言はれましてね、いはば、つまらぬ世間話の合間に、どうかして、ひよつこり私のことでも出ると、實にすつかり畸人扱ひにされるんでしてね。『更にわが運命に心を碎く人なし』ですよ。あの連中は私を辱かしめるつもりなんです……。あゝ、いまいましい! ところが、焉んぞ知らん……。私には、ちつとも變つたところはなし、かうして今あなたとお話してるやうに、ひよいと氣が向いて話し始めるといふやうなこともあるにはありますが、こんなことを除けたら何も癖なんかありやしない。だからこそ私は酷い目に遭ふんです。しかも今いつたやうな氣まぐれは一文の價値だつてありやしないし。こんなものは極めて安つぽい、極めて低級な變り振りなんですからね」
彼は私の方へ向き直つて、手を振つた。
「あなた」と彼は叫んだ、「私はこんな説を有つてるんです、この世の生括は概して、畸人にのみ價値がある。ひとり畸人のみが生存權を有つてると……と。Mon verre n’est pas grand,mais je bois dans mon verre〔わが盃は大ならず、しかもなほわれはわが盃をもつて飲まん〕。誰かが言ひましたね。どうです」と彼は低い聲で附け加へた、「私は佛蘭西語をきれいに發音するでせう。いかに頭腦が大きく、廣々してゐよとも、またあらゆるものを理解し、多くを識り、時代に追從しようとも、何一つ自身のもの、独自のもの、固有のものを有たなかつたならば、それが何の役に立ちませうか! それこそ、この世の陳腐なものを收める藏をもう一つ建て増したやうなものです――それによつて誰がどんな滿足を得るものでせう? いや、たとへ愚かであつても、汝自身であれ! 自分の匂ひ、自分自身の匂ひを持つことだ、それが大切だ! ――しかも私のこの匂ひについての要求が大きいと思はれては困ります……。そんなことは眞つ平です! 私のいふやうな畸人は無數にゐる、どこを見渡しても、畸人はゐる。生きた人間は悉く畸人である。しかも私はその數には入つてゐない!」
暫く默つてゐたが「それにしても」と彼はまた話を續ける、「若い頃は、どんなに大きな抱負をもつてゐたことでせう! 自分自身といふものをどんなに高く買ひ被つてゐたことでせう、外國へ行く前、いや、歸つてからも最初の頃は! さて、外國へ行つて、一生懸命に耳を欹ててゐました。しかし、私どものやうに、何でも獨り合點をしてゐて、しまひには、さつぱり、いろはのいの字も分からないでゐるといふやうな連中にはよくあることですが、いつも私は獨りぼつちで澄ましてゐたものです!」
「畸人、畸人!」と彼は咎めるやうな調子で頭を振りながら、言葉を繼いだ……、「畸人だと私はいはれる……確かに小生ごとき者が畸人であつた日には、この世には畸人でないものはゐなくなつてしまふ。私は多分、他人の眞似でもして生まれて來たのでせう……きつと! 私はまた、これまでに學んだいろんな作家の眞似でもして生きてるやうなものです。顏に汗して生きてゐる。勉強もしたし、戀もした。つひには女房も貰つた、しかも自分の意向からではないかのやうに、まるで何等かの義務か、でなけれは教訓を守るとでもいつたかのやうに、――そんなことが誰に見わけがつくものか!」
彼は夜帽子(ナイト・キヤツプ)を頭から摑みとつて、寢床の上に投げつけた。
「私の身の上話を聞いて下さいますか」と彼は聲も絶え絶えに私に訊ねた、「いや、身の上話なんかといふよりは、私の身の上で變つたところを少し?」
「え、どうぞ」
「いや、それよりもどうして結婚したか、それをお話した方がいいでせう。結婚といふことはなかなか重大なことぢやありませんか、一個の人間全體を試驗する試金石ですからね。これにかけると、鏡に物が映ると同じやうなもので……、しかしこんな比較は甚だ古くさいですね……。ちよつと失禮ですが、嗅ぎ煙草を一服やらして下さい」
彼は枕の下から煙草入れを取り出して、それを開けて、開けた煙草入れを振りまはしながら、また話し出した。
「あなた、あなたがまあ、私の身になつて御覽なさい……。これは御自分で判斷して見て下さい、いかなる、さて、いかなる、いいですか、いかなる利益を私はヘーゲルの百科全書から引き出し得たでせうか? この百科全書と露西亞人の生活との間にですね、何の共通點がありませうか? そして、我々の生活にそれを、いや、その百科全書ばかりではない、一體に獨逸哲学といふものを、……もう一歩すすんでいへば、科學といふものをどんな風に適用したらいいのでせうか?」
彼は床の上に跳ねあがつて、恨めしさうに齒ぎしりをしながら、常低く早口に話し出した。
「あゝ、それだ、それだ!……それならば、何しにお前は外國なんかを、ぶらついたんだ? 何だつて故郷(くに)にじつとして、お前な取り卷いてる生活を落ちついて研究しなかつたんだ? お前は生活の要求を見きはめ、その行くべきところをも見きはめて、自分自身の、いはゆる使命についても、はつきり理解することができただらうに、……とおつしやられるかも知れませんが、とんでもないことだ」と、怖る怖る自己辯護でもしてゐるかのやうに、またもや聲色(こわいろ)を變へて言葉を繼いだ、「まだ一人の才士も本に書かなかつたやうなことを、われわれはどこへ行つて研究したらいいのか! 私はあれから、すなはち露西亞の生活から、教へ受けたかつた。しかも、憐れむべし、あれは默つてゐる。われを捉へよといふ、けれども私の力には及ばないことだ。私は推論を與へて貰ひたい、結論を示して貰ひたい……。結論? ここに結論があるといふ、われらがモスクワ人に聽くがいいと、モスクワ人は――夜うぐひすのやうに流暢に話するではないか? と。しかも悲しいことには、彼等はクゥルスクの夜うぐひすのやうに、囀るけれど、すこしも人間らしい話をしないのです……。そこで私は考へた、考へぬいた。霞は、どちやらどこへ行つても一つらしい、眞理は一つだ、――さう考へて、故郷(くに)を離れ、知らぬ異郷の異教徒のもとに投じた……、何のいいことがあるのか! 若氣、己惚れにとりつかれ。世の中の人は、肥るのは健康だからだといふけれど、私は時が來ないのに、己惚れによつて肥らうと思はなかつた。もとより、自然に肉がつきもしないうちに、肥える筈はないが!」
「それはさうと」とちよつと考へてから彼は附け加へる、「私は、どうして結婚をしたか、それをお話しする約束をしましたね。ぢや、聞いて下さい。第一に、申して置かなければなりませんのは、家内がもう、この世にはゐないといふことです、第二には……第二には、まあ、私の青年時代のことをお話しなければならんと思ひます。でないと、何が何やら、さつぱりお分かりになりますまい、でも、あなたはほんとに眠たかないんですか?」
「いいえ、眠たかありません」
「そんなら結構です。まあ、お聞き下さい……。ほら、隣りの部屋で、カンタグリューヒン氏がいびきをかいて、あのげすなこと! 私はあまり裕かでもない兩親から生まれました、殊さら私が兩親といひますのは、言ひ傳へによると、私には母親のほかに父親もあつたさうですから。私は覺えては居りませんが、父はあまり利口な人間ではなく、鼻が大きく、雀斑(そばかす)があつて、赤つ毛で、片方の鼻で嗅ぎ煙草をやつてゐたさうです。おつ母さんの寢室には黑い襟を耳まで立てて、赤い制服を着た、とても見つともない親父の肖像畫がかかつでゐました。よく、その前へ連れて行かれて、たたかれたものです。そんなときには、いつでもおつ母さんは親父の肖像畫を指して、『お父さんがおいでになつたら、これ式のことでは濟まないよ』といひましてね。これがどんなに私を激勵したか、御想像がつくでせう。私には兄弟(あにおとうと)も、姉妹(あねいもうと)ともありませんでした、いや、本當に言ふと、舍弟つていふやうなものがゐたんですが、後頭部の脊髓炎で永いこと臥てましたが、どうした譯か、ひどく早死しちやいまして……。一體どうして英吉利渡りの脊髓炎なんていふものが、クゥルスク縣のシチーグロフ郡まで入りこんで來れるのかと思ひますよ。しかし、これは別の話です。私の養育はおつ母さんが、野育ちの女の身一つに一生懸命ひきうけてくれて、生まれ落ちたその大事な日から、私が十六になるまでやつてくれたのです……。あなたは私の話をずつと聞いてて下さいますか?」
「むろん、さ、どうぞ」
「そんなら、ようござんす。それで、私が十六になると、おつ母さんは待つてゐましたとばかりに、ニェージンの希臘區から來た獨逸人でフィリポォヰッチといふ私の佛蘭西語の家庭教師(せんせい)を追ひ出してしまって、私をモスクワへやつて大學へ入れました。ところが、間もなく伯父の手に私を殘して、歸らぬ旅路についてしまつたのです。伯父はシチーグロフ郡ばかりではなく、他所にも名の聞こえた凄腕の辯護士で、コルトサン・バブーラといひました。この親身(しんみ)の伯父で辯護士のコルトサン・バブーラは、よくあることですが、私の財産をきれいさつばりに横領してしまひました……。しかし、こんなことも餘計な詣です。大學に入つた私は――母親の本當の有難昧がわかりますが――かなりな素養がありました。けれども獨創力の足りないことは、その時分にさへも、はつきり氣づかれたことです。私の少年時代は他の連中の少年時代と少しも違つてはゐなかつた。私もやつぱり羽根蒲團にくるまつて育てられた者みたいに、ぼんやりと、意氣地なしに育つて、やはり早くから詩の諳誦などをやり出して、元氣がなくなりました。空想的な嗜好にかこつけて……。ええと、何に對してつて?――さうですね、美しいものとか……何とかに。大學へ入つてからも、何も別の道を通つたわけではありませんでした。私は直きに學會(クルジヨーク)へ入りました。その頃の時代は今とは違つてゐました……尤も、あなたは愈らく御存じないでせうね、學會(クルジヨーク)つてどんなものだか? シルレルはどこかでこんなことを言つたやうに思ひますが、
危ふきは獅子の眼りをさますこと、
怖ろしきは虎の齒や牙、
さらさらに怖ろしきは
身のほども辯へぬ人!
シルレルはきつと、かういふつもりではなく、Das ist ein 《Krujok》……in der StadtMoskau〔怖ろしきはモスクワの町の――學會〕といふつもりだつたのです」
「しかし、學會の何がそんなに怖ろしいんです?」と私は聞いた。
隣りの人は夜帽子(ナイト・キヤツプ)を引つ摑んで、鼻の上まで引き下ろした。
「何がそんなに怖ろしいつて?」と彼は叫んだ。「そりや、つまりかういふことです、學會は凡ゆる獨創的發達を破綻に導くからです。學會は實に社會や、女性や、生活を醜く置き換へたもの、學會は……あゝ、一寸お待ち下さい、私は學會つてどんなものかお話しませう! 學會といふのは、外からは尤もらしく考へられ、合理的な仕事をしてゐるかのやうに思はれながら、のらりくらりと寄り合つてゐるだけなんです。この學會は普通の話を議論に代へてしまつて、何の足しにもならない漫談の練習をし、獨り靜かに役に立つ仕事をするのに邪魔になる。文學的疥癬(ひぜん)を植ゑつける。遂には、魂の清新さや、みづみづしい力を奪ひとつてしまふのです。また學會は兄弟分だとか、友情だとか體裁のいいことを看板にして、實は馬鹿げた、退屈なものです。胸襟を披くとか、同情を寄せるとかいふ事にかこつけて、思ひ違ひや屁理窟の連續なんです。學會では、有難くも明友の 權利として、各自が何時(いつ)なんどきでも、仲間の内心深く汚れたままの手を突つ込むのを許されてゐるめで、誰一人として、心に純潔な汚れのないところなんかは持つてゐない。學會では、けちなお喋りだの、己惚れの強い才士だの、若いくせに年寄り振る奴等を崇拝し、才能はなくとも、『深味がありさうな』思想なもつた詩人(うたよみ)を大切にかけてゐるんです。學會ではわづか十七くらゐの青二才でも、やれ女がどうの、戀がどうのと生意氣に知つたかぶりをして喋り立てる。そのくせ女の前へ出ると、默り込んだり、本にでもあるやうなことをいつたりする。けれども、どうせ高は知れてゐる! 學會では生意氣な雄辯が繁昌する。學會ではお互ひが、まるで警察官みたいに探り合ふ……。あゝ、學會よ、爾は學會(クルジヨーク)ではなくして相當の人物を一人ならず滅亡に陷し入れた循環圈(クルーグ)だ!」
「まあ、それは、ちと大げさぢやありませんか、失禮ですが」と私は口を插んだ。
隣りの人は默つて私を見た。
「さあ、多分、さうかも知れません。私どもに、たつた一つの悲しみといつたら、大げさに言ふことが殘つてゐるだけです。さて、でございますね、私はこんな工合でモスクワに四年暮らしました。そりやあ、あなた、この間の年月(としつき)がどんなに早く、どんなに素早く過ぎて行つたか、とても私に書けたもんぢやありません。思ひ出しては悲しくもなれば忌々しくもなります。朝起きたかと思へば、橇に乘つて山を下るやうに……。ひよつと氣がつくと、もういつの間にか麓へ來てゐる、さうしてもう日が暮れる。睡たさちな召使が上衣を着せる。それを着て、友だちのところへ出かけて行く。煙草を喫んで、淡いお茶をがぶがぶ飮んで、獨逸の哲學のことや、戀愛のこと、魂の永遠の光明(ひかり)のことや、その他いろんなあまりにも縁遠い問題を論じてゐたものです。しかし、こんな風にしてゐても、私は獨創的な、獨自性をもつた人たちに逢ひました。こんな人になると、自分といふものを、どんなに滅却し、どんなに壓迫したところで、やはり未來の性質がおのづからにして顯はれる。ところが哀れなるかな、私と來たら、柔らかな蠟みたいに自分自身を捏ねあげたところで、生まれつきがやくざですから、捏ねたら捏ねたなりになつてゐる! さうかうしてゐるうちに私は二三歳になりました。そこで、親からの遺産を相續しました。遺産といつたところで正確に言ふと、後見人が、これくらゐは殘しといてやつた方がよからうと勝手に決めたほんの一部分の遺産を手に入れたまでです。私はこの世襲財産の管理を全部、農奴の位置から解放きれたワシーリイ・クドリヤーシエフに委任して、遠くベルリンへ出かけました。外觀には、前にも申し上げました通り、私は三年居りました。さてどうしたか? やつぱり、あちらでも私は獨創力のない人間でした。第一に、いふまでもないことですが、私は歐羅巴についても、歐羅巴人の生活についても全く毛の先はども學びはしなかつた。私は獨逸人の教授の講義を聽いて、獨逸語の書物を本場で親んだ……。強ひて人と異なる點を求めたら、これくちゐのものです。私は坊さんみたいに、孤獨の生活を送りました。わづかに懇意になつた人といつては、退職の陸軍中尉くらゐのもので、この男も私のやうに貪るやうな知識欲に苦しんでゐましたが、血のめぐりの鈍い、生まれつき口のまはらない男でした。また、ベンザやその他の地の肥えた田舍から來たぼんやりな家族たちと附合つたり、カフェーへ出入りをしたり、雜誌を讀んだり、晩になると芝居へ行つたりしました。土地の人とはあまり附合ひをせず、話をするのも何となく氣骨(きぼね)が折れて、家へは誰も寄せつけませんでした。ただ二三人の猶太系のしつこい若者だけは、引つきりなしにやつて來て、金を借りて行きました、――der Russe〔露西亜人〕が他人の話を眞にうけをのをいいことにして。そのうちに思ひがけない妙なことから私は一人の教授の家へ出入りするやうになりました。といふのはかういふ譯なんです。私が講義に出席したいからと賴に行つたのです。ところが、どういふ風の吹きまはしか、先生はさつそく、私を自分の家へ晩餐に招んでくれましてね。この教授には二人の娘があつて、年はどちらも二十七くらゐでしたが、ずんぐりしてゐて、――實際、その通りで――鼻は立派で、髮の毛はきれいに渦を卷いてゐて、眼は薄青く、それに赤らんだ手に、白い爪をしてゐて。一人はリンヘンといひ、もー人はミンヘンといひました。私は教授の宅へ出入りするやうになりました。實を申しますと、この教授は別に愚物といふのでもありませんが、何だか拔けてゐるやうな人でした。講壇に立つては、實にてきぱきと筋道を立てて話しますが、家へ歸ると舌の廻らないやうな口の利き方をして、いつも眼鏡を額のうへに上げてゐました。とはいつても、かなり博識の人でした……。さて、どうでせう? ふと氣がついて見ると、私はどうやらリンヘンに思ひ焦れてゐるやうなんです。そしてまる六箇月の間といふもの、いつもさういふ氣がしてゐました。あの娘と話をすることなんかは、實際、めつたになかつたのです、――話をするよりは顏を見てる方が多かつたのです。しかしいろんな身に沁みるやうな文章を聲高らかに讀んでやつたり、こつそり女の手を握つたり、毎晩、娘と並んで、じつと月を眺めながら、若し月がなけれはただ單に空を見上げながら、空想を恣にしてゐました。おまけに、娘は珈琲を入れるのがとても上手でしてね! これ以上に何の望むところがあらうか?……といふ氣がします。ただ二つ私の胸を亂すものがあつた。いはゆる『云ひ知れぬ幸福のその瞬間』に於いて、私はどういふ譯か胸を押しつけられるやうな氣がして、ぞくぞく寒氣(さむけ)がするのでした。たうとう私はこんな事に辛抱し切れなくなつて、逃げ出しました。それから猶ほまる二年といふもの私は外國で暮らしました。伊大利へ行つては、ローマの『基督變貌』の前に、フロレンツィヤの『ヴュネレ』の前に立つて、忽ちにして限り知られぬ歡喜に我を忘れ、まるで怨靈にでも憑かれたやうでした。夜になると、詩も書きましたし、日記にも手を著けました。いつて見れば、ここでも人並のことをやつてゐたのです。それにしても、こんなことで畸人だといふなら、畸人になるのは、いとも易しいことですね。私は早い話が、繪だの彫刻だののことは、さつぱり譯がわからない……。それならそれと、あつさり言つてしまへばいいんですが……いや、どうしてなかなか! だから案内人(チエチエローネ)を賴んで壁畫を見にゆく始末でした……」
彼はまた俯向いて、再び夜帽子(ナイト・キヤツプ)を脱ぎすてた。
「さて、たうとう故郷(くに)へ歸りました」と疲れた聲で續ける、「私はモスクワに着きました。モスクワでは私の身の上に驚くべき變化が起こつた。外國にゐるときは私は殆んど默つてゐたところが此處へ歸つて來ると、急に自分ながら不思議なほど威勢よく話すやうになつて、同時に怪しからんことには、自分はど偉いものはないと己惚れてゐました。私を殆んど天才のやうに思つてゐた甘(あま)い人たちもゐました。婦人たちは私の無駄話を乘り氣になつて傾聽しました。しかし、いつまでも高い名聲を保つてゐることはできなかつた。ある晴れた朝のことですが、私の噂が立ちました、(誰がこんなことをいひ出したのか分かりません、恐らく女の腐つたやうな奴でせう、――モスクワにはこんな奴らは無數にゐますから)この噂がおこると、まるで苺みたいに見る見るうちに芽を吹いて、卷鬚が出て來ました。私は絡まれてしまつて、どうにかして逃げ出さう、この縺れつく絲を斷ち切らうとしましたが――どうにもならない。……遂に私はそこを逃げ出しました。さて此處でも私はやはりやくざな人間だつたのです、それこそ苛蕁麻疹の癒るのでも待つやうに、おとなしく災難の去るのを待つてゐればよかつたのです。さうすると、例の甘(あま)い御連中がまた手をひろげて私を迎へ、御婦人がたは再び私の話に笑顏を向けて來るに相違なかつたのです……。ところが何といつても、私が獨創的な人間でなかつたことが、いけなかつた。まあ、お察し下さい。私は急に眞面目な氣持になつたのです。喋つてることが、休みもなしに喋つてることが、昨日はアルバートで、今日はトルーバで明日は……シフツェフ・ヴラージョークで、といふやうに喋ることが何だか氣恥かしくなつて來ました……。しかしですね、それでも世間の人が聞きたいつていふのなら? まあ、この方面の本當のつはものを御覧なさい、こんなことは屁とも思はない。それどころか却つて必要とさへ思つてゐる、だから或る者は二十年一日のごとく、しかも、やり方も變へずに喋り續けてゐます……。自己に對する信念と自負心は畏るべきものがあります! 私にだつても、それは、自負心はありました。さうして、今でもすつかり影なひそめてしまつた譯ではありません……。しかし、いけなかつたのは、もう一度いひますが、私が獨創的な人間でなかつたために、何ごとでも中途半端で止めてしまつたことです。どうせ生まれつき自負心を持つてるくらゐなら、もつとうんと持つてた方がよかつたし、さもなけや、ちつとも持つてなかつた方がよかつたのです。それにしても私は初めのうちは實際、ひどい目に遭ひましたよ。おまけに外國にゐたために、すつかり自分の資産も磨つてしまひ、さればといつて、若いとはいへ、身體(からだ)がもうゼリーみたいにぶよぶよした商人の娘なんかと一緒にゐる肚もありませんでしたし、――それで私は自分の村へ引つ込んでしまひました。ここで」隣りの人は又もや私を横目でちらと見て、附け加へた、「田舍生活の最初の印象、自然の美だとか、孤獨生活の靜かな魅力だとかの感じ、さういつたやうなものは拔いてもいいと思ひますが……」
「ええ、いいですとも、いいですとも」と私は言葉を返した。
「それに」と話し手は續ける、「そんなことはいづれも詰らんですからね、少くとも私に關する限り。私は田舍では、まるで閉ぢこめられた仔犬のやうに、寂しがつたものです。なるほど正直のところ、初めて田舍へ歸る途中、なつかしい春の白樺の林を通るときなんかは、頭が變になつて、胸はぼんやりした甘い期待に、ときめいてゐました。けれども、こんなぼんやりした期待は、あなたも御存じやせうが、實現した例しがない。むしろ反射に、ちよつとも思ひがけなかつたやうな別のことが起こる。例へば瘟疫(おんえき)だの、未納だの、競賣だの、何だの彼(かん)だのと。私は毎日毎日、支配人のヤーコフに助(す)けてもらつて、どうにかかうにか細い煙を立ててゐました。この男は前の管理人のかはりに賴んだのですが、時の經つにつれて、前のよりはひどい強盜でないまでも、やつぱり似たり寄つたりの奴になつてしまつて、そのうへ、奴の樹脂(タール)を塗つた長靴の匂ひに朝から晩まで私は苦しめられてゐたのです。とにかく、細々と暮してゐるうちに、ある時わたしは近所に以前親しくした一家があることを思ひ出しました。家族は退職陸軍大佐の未亡人と二人の娘 とでしたが、私は馬車の用意をさせて、この家へ出かけて行きました。その日は永久に忘れてはならない日です。六箇月の後、この未亡人の二番目の娘と私は結婚したのです!……」
話す方は頭を垂れて、空に兩手をさし上げた。
「それにしても」と彼は熱心に話を進めた、「私は亡くなつた者に對する厭な氣持を仄めかしたくはありません。そんなことは御免です。あれはこの上もなく高尚な、氣だての善い人間でした。情愛の濃やかな、どんな犠牲にでも耐へられる人間でした。尤も、ここだけの話ですが、打明けて申しますと、私が若し彼女(あれ)を失くすやうな不幸な目に遭つてゐなかつたら、恐らくは今日あなたとお話しすることなんかはできなかつたでせう。といふのは、今でも私の家の霜除け小舍には、その頃の梁がその儘に殘つてゐますが、一度ならず、私はあれで首を縊らうとしたものです!」
「梨によつては」と、暫く言葉を切つてから、またいひ出した、「いはゆる『持ち味』が出るまでは、室(むろ)にしばらく土をかぶせて寢かして置かなければなりません。たしかに私の亡くなつた家内はさういつたやうな性質(たち)の女でした。今になつて私はやつと彼女(あれ)の本當の價値(ねうち)がわかります。
今になつて、例へば結婚前に一緒に過ごした夜々のことなどを思ひ出しても、少しも悲痛な氣持などは起こらず、そればかりではなく却つて涙ぐまれる程になりました。あの家の人達は裕福ではありませんでした。家は誠に古風な木造で、居心地だけはよい家で、寂びれた中庭と草木の生ひ茂つた外庭(そとには)との間の丘の上に立つてゐました。丘の裾を川が流れてゐて、茂つた葉の間から水がちらちら見えてゐました。大きな露臺(テラス)が家から中庭の方に續いて、露臺(テラス)の前には、薔薇の花に包まれた長い花壇が美を誇つてゐました。花壇の兩端(りようはし)には亡くなつた主人が若木のうちに螺旋形に枝を絡ませた二本のアカシヤの木が生えてゐました。も少し行くと、手も入れずに伸びるがままに繁らせた蝦夷苺の茂みのまん中に、小亭(あずまや)が立つてゐましたが、内側は實に巧妙に装飾されてゐるのに、外側はちよつと見ただけでも氣味惡くなるほど青くなつて朽ちはててゐる。露臺(テラス)から硝子戸を開けると客間になる。さて、客間に入ると、見る者の物珍しさうな眸にこんなものが目に入る。先づ隅々に据ゑつけた化粧煉瓦(タイル)の煖爐、右手にある調子の狂つたピアノ、そのうへに積みあげた手冩しの樂譜、色の褪めた空色の綾絹に白ちやけた花模樣のついたのを張つた安樂椅子、固い卓子、エカテリナ朝時代の磁器や硝子珠で作つた玩具を並べた二つの棚、壁には薄色の髮の少女が胸に鳩を抱いて、冷やかな眼をしてゐるありふれた肖像畫、卓子の上には鮮やかな薔薇の花をさした花瓶……。いかがです、ずゐぶん描冩が細かいでせう。この客間で、この露臺(テラス)で、私の戀の悲喜劇は演じられたのです。未亡人は意地の惡い婆でした。いつも邪慳に嗄れ聲をしてゐて、實に人泣かせの喧譁好きな奴でした。娘は一人はヴェーラといひ、田舍のあたりまへのお孃さんと少しも違つたところはありませんでした。もう一人はソフィヤといつて、實に私はこのソフィヤに熱くなつたのです。この二人の姉妹には、別に一つの小さな部置がとつてありました。共通の寢室で、可愛らしい木造りの寢臺が二つありました。また黄いろく古ぼけたアルバムや、木犀草や、鉛筆で甚だ拙く描いた男女(をとこをんな)の友達の肖像畫があり(このなかでは、精力絶倫な顏つきをして、更にもつと精力的な署名をした一人の紳士が眼立つてゐました。彼も若い頃には背負ひきれぬ程の希望を懷いてゐたのですが、落ちるところは矢つ張り私たち同樣、何にもならずにしまつたのです)、またゲェテやシルレルの半身像、獨逸語の書物、乾枯らびた花環や、そのほか記念に取つて置く色んなものがありました。しかしこの部屋へはめつたに出入りしませんでしたし、氣も進まなかつた。私はこの部置にゐると、なぜかしら息詰るやうな氣がしたのです。おまけに、奇妙な話です! 私はソフィヤの方に背を向けて坐つてゐる時、たまらなく好きになりました。いや、それよりもソフィヤのことを思つてゐるとき、或ひは更に、殊に夕方など露臺(テラス)の上で、彼女(あれ)のことを空想してゐるときに。そんなときには夕燒を眺め、樹を眺め、もう既に暗くなつてゐるのに、猶ほくつきりと薔薇色の空に浮き出してゐる緑の細かな葉を眺めてゐました。客間ではソフィヤがピアノの前に坐つて、ベートーヴェンの曲のうち何かしら自分の氣に入りの、情熱のこもつた悲壯な一節を絶えず繰り返し繰り返し彈いてゐます。意地の惡い婆さんは安樂椅子に腰をおろして、いと安らかに鼾をかいてゐます。夕方の紅い光りが一杯に溢れてゐる食堂では、ヴューラが頻りにお茶の仕度をしてゐます。サモワールは何か嬉しいことでもあるやうに、面白さうにシューシューと音を立ててゐる。輪麺麭(クレンデリ)は陽氣にポリポリと音をたてて折れる。スプーンは音(ね)も爽やかに茶碗にあたる。日が一日、激しく囀り暮らしたカナリヤは、急におとなしくなつて、ただ時をり、何かを求めるかのやうに、ちちと鳴く。透き通るやうな、輕い雲の中から、通り雨の雫がぱらぱらと落ちる……。私はじっと坐つて、しきりに耳を傾け、あたりを眺める。私の心は廣々として、またもや自分が戀をしてゐるのだなといふ氣がして來る。さて、このやうな夕方の夢心地に誘はれて、あるとき、わたしは老婦人にその娘を貰ひたいと所望しました。それから二箇月ばかり經つて、私は結婚しました。私は彼女(あれ)を可愛がつたやうな氣がしてゐました……。ところが今となつては、もう分かつてもいい頃なんですが、本當のところは未だにソフィヤを可愛がつてゐたかどうか、實際わからないんです。あれは氣だてのいい、利口な、口數をきかない、温い心の女でした。けれどどういふ譯か神樣でなければ分かりませんが、田舍に長くゐたせゐか、他に何か仔細があつてか、あれの心の底には(苦し心に底といふものがあるならば)一つ傷が隠されてゐたのです。或ひは、もつとはつきり言へば、どうしても癒すことのできない、それに、彼女(あれ)自身、にも何とも名のつけやうのない小さな傷が血をにじましてゐたのです。もちろん、この傷のあることは結婚してから思ひ當つたことです。私はこれについて何んなに煩悶しましたか、しかし全くどうにもならなかつたのです! 私は子供の頃、鶸を飼つてゐましたが、あるとき、猫が爪を立てて捕まへてしまひました。鶸は救ひ出されて、治療もして貰ひましたが、可哀さうに癒り切ることはできませんでした。氣が拔けたやうになつて、痩せ細つて、歌は唄はなくなりました……。やがて遂には、ある晩のこと、開いてゐた籠の中へ鼠が忍び込んで、鶸を嚙み切りました。それが元で、鶸は死を免れられなかつたのです。いかなる猫が爪を立てて私の妻を捕まへたのか分かりませんが、兔に角、あれもあの可哀さうな鶸のやうに、氣が拭けたやうになつて痩せ細つたのです。時折は自分でも羽ばたきをして、新鮮な空氣のなかに陽ざしを一杯に浴びて、心のままに遊び興じたかつた樣子です。やつては見たが、また元にかへつて、小さくなつてしまふのです。それでも、あれは私を愛してくれました。もうこれ以上なんにも望むところはないと、何度わたしに言つたか分かりません。――それだのに、困つたことに! あれの眼は曇つて來る。過去に於いて何もなかつたか? と私は考へました。そこで、ずゐぶん穿鑿もして見ましたが、何一つ、はつきりしませんでした。まあ、この邊は貴方に判斷していただきませう。獨創的な人間ならば、ちよつと肩を竦めて、恐らく二度ほど溜息をして、後は自分に即した生活を始めたでせう。ところが私と來ては、もともと獨創的な人間ではないので、梁なんかに見とれるやうになつたんです。私の妻にはオールド・ミスの癖といふ癖が――やれベートーヴェンだ、夜の散歩だ、木犀草だ、男の友達との文通、アルバムだ、何だの彼(かん)だのといふ癖が沁み込んでゐて、ほかの暮らし向きの方のことには、殊に一家の主婦としての暮らしには全く馴染めなかつたのです。それにしても、人妻がそこはかとない愁ひに惱んで、毎晩のやうに『良き人よ、あけぼのの夢をさますな』なんかと歌ふのは可笑しなものですねえ」
「さて、こんな工合で、私たちは兔も角三年の間は幸福に暮らしました。四年目にはソフィヤは初産で亡くなりました。しかも妙な話ですが、――私はどうも前から、彼女(あれ)には娘とか息子とかを産んでくれられさうにもない、この世に新しい住人を産みつけられさうにもないといふ氣がしてゐました。私は今だに葬式の時のことを覺えてゐます。それは春のことでした。私たちの教區の寺は小さな古ぼけた寺で聖帷(イコノスタス)は黑くなり、壁は剥げ落ちて、煉瓦の床(ゆか)はところどころ窪んでゐました。兩側の唱歌席には大きな古めかしい聖像が置いてありました。柩はここへ持ち込まれて、聖門の前の中央に置かれ、色褪せた覆ひをかけられ、そのまはりに三つの燭臺が置かれました。そのうちに式がはじまりました。後ろに下げた髮も少く、低く緑いろの帶を締めた老いぼれの役僧が見臺(けんだい)の前で物悲しげに、もぐもぐと呟いてゐる。黄いろい花模樣のある薄むらさきの法衣を着て、人のよささうな、眼の惡い、やはり年をとつた導師が、自分の分と役僧のする分と二人前のお勤めをしました。開け放した窓の外には、枝を垂れた白樺の瑞々しい若葉がそよいでささやき交はし、庭からは草の香ひが吹きこんで來る。春の日の陽氣な光りのなかに蠟燭の赤い焰が蒼白く、寺のうへには雀が絶えず囀り、時をり圓屋根の下に飛び込んでくる燕の聲が澄んで聞こえる。金粉のやうにちらちらする陽の光りの中に、死者のために熱心に祈禱をあげてゐる數も少い百姓たちの亞麻いろの頭が、忙しげに上つたり下がつたりしてゐる。細い、青味がかつた流れをなしで煙が香爐の孔から立ちのぼる。私は妻の死顏を眺めました。……悲しいかな! 死すらも、死そのものすらも彼女(あれ)を自由にはしなかつた。あれの傷を癒さなかつた。柩の中にゐてさへも、なほ打ちとけないかのやうに、やつぱり病み疲れたやうな、おどおどした、啞のやうな表情をしてゐる……。私は痛々しさで一ぱいになりました。あれは氣だてのいい、ほんたうに氣だてのいい人間だつた。しかし死んだのは彼女(あれ)にとつては長かつたのです!」
話し手の顏は紅くなり、眼は曇つて來た。
「妻が死んでからといふもの」と彼はまた話し出した、「すつかり失望落膽して居りましたが、遂に氣を取り直して、私はいはゆる事業といふものに取りかからうと決心しました。そこで縣廰のある町へ出て、お役人になりました。しかし、官廰の大きな部屋にゐると頭はひどく痛み出し、眼もまた惡くなりました。そこへ持つて來て、いろんな事件にぶつかりまして……、私は役所を退(の)きました。それからモスクワへ行きたいと思ひました。ところが第一に金は足りないし、第二に……、既にお話しましたやうに、私は諦めてゐました。この諦める氣持は突然やつて來たやうに見えますが、又さうでもなささうです。精神的には疾うの昔から諦めてゐたのですが、いざとなるとまだまだ頭を下げる氣にはなれなかつたのです。控へ目な感情や思想を、私は田舍の生活、身の不幸のせゐにしてゐました。一方では初めのうちこそ、私の學問のあること、外國を歩いて來たこと、私の教育の餘德なんかに驚いてゐた近所近邊の若者も年寄も、誰もが後では私にすつかり馴れ切つてしまつたばかりではなく、私と附合ふにしても何だか白々しくさへなつて來て、口をきいても、『御座います』なんかとは最早いはなくなつてゐることは、かなり前からもう氣づいてゐたのです。お話しすることをやつぱり忘れてゐましたが、結婚した初めの年に、私は文壇に乘り出さうと思ひまして、ある雜誌へ原稿を送りました。若しも私の記憶に間違ひがなければ、一篇の物語でしたが。ところが暫くすると、編輯者から丁寧な手紙が來ました。その中には、色んなことを書いた中に、あなたには叡智がないとはいへない、しかし才能がないことは言はなけ ればならない、才能がなければ文學は駄目である、とありました。もう一つ、お話しておきたいことは、或る旅のモスクワ人が、――これは氣だての極くいい男でした、尤も若造でしたが、この男が縣知事の家の夜食で、私を氣の拔けた中味のない人間だと、さりげなく片づけたといふ話を聞きました。しかも、私のお目出たい盲目は、依然として續いてゐたのです。まあ、自分の『横つ面を擲る』氣がなかつたんですね。ところが、つひに或る照らかな朝のこと、私ははつきりと眼がさめたのです。それはつまりかういふことが起きたのでした。私のところへ郡の警察署長が、私に全く修理の道がつかないでゐた自分の地内の落ちかかつてゐる橋に注意を促しにやつて來ました。火酒(ウオトカ)を一杯やつて、蝶鮫の燻製で口直しをしながら、この鷹揚な警官は、まるで父親が子に物を教へるやうに私の粗忽なのを責め立てました。尤も私の境遇に同情して、何か不用な材木でも使つて、百姓どもに繕はしたらよからうと勸めました。それから煙草に火をつけて、將に來らんとしてゐる選擧の話をはじめました。その頃、縣の貴族團長たるべき名譽ある候補者になつてゐたのは、オルバッサーノフなにがしといふ男で、これは淺薄な、口のやかましい、おまけに賄賂などを取る男でした。そのうへ彼は富の點からいつても、名肇の點からいつても大した男ではありませんでした。私はこの男についての意見を述べました。が、これには實に何の氣もなく、ついうつかりと言つてしまったのです、私は正直のところ、オルバッサーノフ氏を見下げてゐたのだと。する署長は私の顏を見て、愛想よく私の肩なたたきながら、氣輕にかう言ひました、『まあ、きあ、ワシーリイ・ワシーリヰッチ、貴方にしろ私にしろ、あんな人のことを、どうのかうのと言へる身ぢやありませんよ、飛んでもないことでせう?…‥身の程を知らなきやいけませんよ』『冗談ぢやない』と私はいらいらして反駁しました、『僕とオルバッサーノフ氏との間にどんな違ひがありますね?』署長は口からパイプをとつて、眼を圓くして、やがて吹き出してしまひました。『まあ、面白い人だ』と遂には涙まで浮べながら、『何ていふ冗談をいふ人だらう……あゝ! 變つた人だ!』かういつて、時をり脇腹を臂でこづいたり、私を『君』などと言ひながら、いよいよ歸るときまで散々からかつて行きました。やがて、たうとう行つてしまつた。今までこの一滴が足りなかつた、私の盃はこの一滴によつて溢れてしまひました。私は幾度か部置の中を歩きまはつて、鏡の前に立ちどまり、いつまでも、いつまでも途方に暮れた顏を見守り、ゆるゆると舌を出して、苦笑ひをしながら頭を振りました。眼の曇りはすつかり晴れてしまひました。私ははつきりと、鏡にうつる自分の顏よりもはつきりと、自分がどんなに淺薄な、取るにも足らない、役にも立たない、獨創のない人間であつたかが分かつたのです」
話し手はしばらく口を喫んだ。
「ヴォルテールの或る悲劇の中に」と彼はがつかりしたやうな調子で話しつづけた、「或る紳士が極度の不幸に陷つたことを喜ぶところがありますね。私の運命には悲劇的なところは、ちつともありませんが、私はありのままに申すと、やはりそれに似たやうなものな經驗しました。私は冷やかな絶望の毒々しい法悦を知りました。朝のうち、ずつと床の中に落ち着いて、構になりながら、自分の生まれた日と時とを呪ふことがどんなに心地のよいものかを經驗しました、――私は一いきに諦めをつけることはできませんでした。しかし實際のところ、まあお察し下さい、私はお金がなかつたばつかりに憎むべき田舍へ閉ぢこもらなければならなかつたのです。土地の經營も、役所勤めも、文學も――何もかも身にはつかなかつた。地主たちとは遠ざかり、本を讀むのも厭になつた。捲毛をふり立てて、熱病やみのやちに『人生』といふ言葉を繰りかへしてゐる水ぶくれしたやうな、病的に感傷的なお孃さま方にも、私がお喋りをしたり有頂天になつたりしなくなつてからといふものは、さつばり興味を感じなくなつた。さうかといつて全く孤獨になることも忍びがたく、出來もしなかつたのです……。私は始めました、一段何を始めたとお思ひになります? 私は近所の人たちのところを、ぶらつき始めたのです。まるで自分といふものを全く輕蔑し切つたかのやうに、私は故意にあらゆる人々のけちな凌辱を招いたのです。食卓に著けば誹謗せられ、人からは冷やかに横柄な態度で迎へられ、つひには見向きもされなくなつて、世間話の相手にさへもされなくなりました。そこで私はモスクワにゐた時分には私の足の塵にも、外套の端にも接吻しかねないはど私を有難がつてゐた或る極めて馬鹿なお喋りに、わざと隅の方から『然り(ダア)、然り(ダア)』と相槌をうつてやりました。……それにしても、自分はこんな皮肉なことをして苦い滿足に耽つてゐるのだとは夢にも思へなかつたのです……。とんでもない、獨りぼつちでゐるのに、何の皮肉ぞやです! まあ、こんな工合で何年かを相も變らず身過ぎをして來まし た。そして今に到るまで、こんな工合にやつてゐる譯です……」
「いや、不都合きはまる」と隣りの部屋からカンタグリューヒン氏が睡さうな聲でぶつぶつ言ふのが聞こえる、「なんて馬鹿野郎だらう? 夜(よる)よなかに話をするなんて」
話し手は大いそぎで毛布の中へもぐり込んで、おどおどと外を覗きながら、指を出して私をおどかした。
「しつ……しつ……」と囁いて、恰も謝(あやま)るかのやうに、カンタグリューヒンの聲のした方へお辭儀をしながら、恭しく言つた、「畏まりました、畏まりました、どうも相濟みませんで御座います。彼(あれ)も眠る資格があるんです、眠らなきやなりません」と、又ひそひそ話になつて話しつづける、「あの男も元氣をつけなくちやなりません、まあ、明日(あした)の食事をうまく食ふためにでも。私どもはあの男を邪魔する權利はありません。それに私は言ひたいだけのことはみんなお話したやうな氣がしますし、貴方もきつとお寢みになりたいでせう。お寢みなさい」
彼はひよいと熱病やみのやうに素早くむかふを向いて、枕に頭を埋めた。
「せめて貴方の」と私は訊ねた、「お名前だけでも聞かしていただきたいものですが……」
彼はすぐに頭をあげた。
「いや、どうぞ後生ですから」と私を遮つて、「私にも、他の人にも私の名だけは訊かないで下さい。ただ、運命に傷められた身許不明の男、ワシーリイ・ワシーリヰッチとして憶えてゐて下さい。それにまた獨創のない人間ですから、自分だけの名をもつ値打なんかありませんし……。それでもぜひ、何とか呼び名をつけたいと仰つしやるんでしたら……、シチーグロフ郡のハムレットといつて下さい。かういふハムレットはどこの郡にもたくさん居ります。尤もあなたは恐らくほかの連中にはぶっからなかつたでせうね……。では御機嫌よう」
彼はまた羽根蒲團の中にもぐり込んだ。翌る朝、人が來て私を起こしたとき、彼はもう部置の中にはゐなかつた。夜の明ける前に彼は立ち去つたのである。
■訳者中山省三郎氏による「註」(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)及びやぶちゃん注(私の注は新字・現代仮名遣とし、冒頭に「◎」を附して全体を〔 〕で括った)
・サァハル・ミエドォヰッチ:日本語で言ふと、「砂糖蜜雄」ともいふべき甘つたるい名。
・コゼリスキイ公爵の髯:貴族ともあろうものが、平民的な見苦しい髯などを生やしてゐるといつて憤慨する。勿論、その頃の風習によるのである。
・アルシン:〇・七一一米強。わが二尺八寸にあたる。舊ロシヤの尺位單位。
〔◎『更にわが運命に心を碎く人なし』:昭和33(1958)年岩波文庫版の佐々木彰訳注によれば、これはレールモントフの1840年作の詩「遺言」からの引用であるとする。〕
〔◎後頭部の脊髓炎:昭和27(1952)年新潮文庫版の米川正夫訳でも佐々木訳でも後頭部佝僂(クル)病と訳している。「後頭部」というのがやや奇異だが、細菌感染症である骨髄炎と、慢性低カルシウム低リン血症、特にビタミンDの不活性化に由来する佝僂病(=骨軟化症)は全く別個な病気であり、続いてハムレットは「英吉利渡りの」と言っているから、これは当時「英国病」と呼ばれた佝僂病のことである。霧と煤煙のロンドンでは太陽光の照射が限られ、ビタミンD欠乏から生じる骨軟化症と関わると考えられたためである。〕
・學會:一八二五年十二月、いはゆる「デカブリスト」(十二月黨)の反乱があつて、最も進歩的な思想を論ずる者には大斷壓が加へられたるにも拘らず、新しい知識階級の知的生活を暴力的壓迫によつて破壞することは出來なかつた三十年代になると、その當時の新しい思想の中心地たるモスクワの大學には各種の學會が生まれた。特に注目すべきものはスタンケーヰッチ(一八一三-一八四〇)を中心とするスタンケーヰッチ會とゲルツエン(一八一二-一八七〇)を中心とするゲルツエン會であつた。前者はドイツ觀念論哲學(殊にシエリング、後にはヘーゲルの)に共鳴し、ドイツロマンチクの「藝術をとほしての自我と世界精神との融合」――この思想を奉じて、主觀的な自己完成念とする大學生によつて形づくられ、後者はフランスの空想的社會主義者サン・シモンの思想に動かされて、多數のものの共存共榮を望み、全く觀念的にロシヤの現實を否定して、空想的社會主義者の限りない社會理想に燃えてゐる青年學生によつて成り立つてゐた。ツルゲーネフは、かなり後にではあつたが前者に加はつてゐた。後者は三四年に解散を命ぜられた。そこでこのハムレットの言葉を見ると、彼が嘗てはスタンケーヰッチ會に屬し、審美的な理想主義的傾向とロシヤの現實との背馳に絶望した四十年代の進歩的な貴族であつたことが窺はれる。
〔◎危ふきは獅子の眼りをさますこと、
怖ろしきは虎の齒や牙、
さらさらに怖ろしきは
身のほども辯へぬ人!
:このシラーの詩は、以下のように原文ではドイツ語原詩が示されている。
Gefährlich ist's den Leu zu wecken,
Und schreklich ist des Tigers Zahn,
Doch das schrecklichste der Schrecken―
Das ist der Mensch in seinnem Wahn!
米川正夫訳・佐々木彰訳共に訳詩の前にこれを示している。米川訳では二行目の“Zahn”が“z”と小文字となっているが、恐らく大文字が正しいものと思われる。〕
・循環圈(クルーグ):クルジョークはクルーグの指小であるが、共に英語の circle であつて、圓、圈、集團、學會、黨などのいろんな意味がある。循環圈()は哲學上の用語で、また「循環論理」とも譯されてゐる。[やぶちゃん補注:「指小」とはロシア語の「指小語」又は「指小辞」又は「指小形」と呼ばれるもので、その単語に小さな印象や可愛らしい感じを与える変化形を指す。「愛称形」というものも別にあるが、厳密に使い分けられているとは言い難いようである。]
・ベンザ:モスクワの東南に位する都會。穀物の大集散地、種種々の工場がある。
〔◎瘟疫:これは一般には漢方で、ヒトの高熱を発する急性伝染病を言うのだが、不審に思って他の訳を見ると、米川訳が「獸瘟」、佐々木訳が「家畜の病気」と訳している。家作の家畜類の伝染病の感染やその防疫の面倒を言うのであろう。〕
〔◎『良き人よ、あけぼのの夢をさますな』:昭和33(1958)年岩波文庫版の佐々木彰訳注によれば、これはワルラーモフのロマンスの少し変えられた呼び名で、フェートの原詩による、とある。アレクサンドル・ワルラーモフАлександр Варламов(1810~1848)は有名な「赤いサラファン」の作曲者で、「ロマンス」はその曲名である。アファナーシィ・フェートАфанасий Фет(1820~1892)は、日本では殆んど知られていないが、彼の評伝を書かれた大月晶子氏の書籍紹介文によれば、ロマン派と象徴派を繋ぐ19世紀ロシアの唯美的傾向を代表する最も戦闘的な純粋芸術派の詩人、とある。〕
・聖帷(イコノスタス):寺院において内陣と分部との仕切りになる帷で、聖像を飾りつけてある。[やぶちゃん補注:この「内陣」は聖堂の一番奥の聖職者とその介添えのみが入れる聖なる場所「至聖所」を指し、「分部」はそのイコノスタスの手前の「聖所」、一般信者の礼拝所を言っているものと思われる。]
・妻の死骸:柩はいよいよ葬る時まで蓋をせずにおくので、その時までは誰でも死人の顏を覗くことが出來る。