やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ
ブログコメントへ


新年  松村みね子

[やぶちゃん注:昭和6(1931)年1月刊の雑誌『若草』新春特集号に松村みね子名義で掲載された。底本は2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」を用いたが、底本は新字であり、私のポリシーから恣意的に正字に変換した。また、傍点「ヽ」は下線に換え、踊り字「/\」の濁点付は正字に直した。なお、二段落目の「寒むさうな」はママである。【2008年1月7日】

2007年月曜社刊の正字版の片山廣子「新編 燈火節」を入手したため、再校訂を行った(結果、ミスはなかったが、底本が「編」としていたのを私が恣意的に「篇」としていた部分が原本でも「編」であることが分かり、補正、前掲のそれを述べた注の一部を削除した)。但し、ルビについては編集者が適宜処理したものであり、私が不要と判断したことから、採用しなかった。一部の記号の不使用は私が肯んずることが出来ないという理由から採用していない。【2010年12月26日】]

 

新年

 

 凡(すべ)てのものゝブランクになる時を新年といふのか?

 ふだんはぎゆう/\記事をつめこんで充實してゐる新聞はのせる事柄がないのに困つたあげく、きよとんとした「名士」の寫眞をごた/\にかゝげるし、山の木(き)の葉(は)は去年のうちにすつかり落ちて、今年の葉はまだありはしない。さうして、人間までが暮にすつかり使つちやつたと見えてひどく寒むさうな顏をしてゐる。

 新年なる現象は私のちひさい時分には一月いつぱい續いたと思ふけれど、だん/\短かくなつて、今では元旦一日にちゞまつたやうだ。

 これは今になくなつてしまふかもしれない。

 なぜかと云へば、ほかが凡て充滿してゐる場合には、そしてその充滿の壓力がなほ増してくる場合には、彼等は――物でも人間でもが――自分の居場所を探しはじめる。そしてブランクの場所はどん/\ふさがつて行(ゆ)く。郊外が發展したのも、ビルヂングが建つたのも、そして「新年」が短かくなつたのも、みんな同じ理窟だ。

 「新年」がもうすでになくなつた世界が可成ある。

 勤人(つとめにん)とつてはそれは二三日つゞく休日にすぎない。そして、荷馬(にうま)も新年をもたない。彼等はこのごろ、初荷のぴらしやらした飾りをつけなくなつた。

 それから、をかしなことには、封建時代を描いてゐる筈の劍劇映畫に新年の場面がろくにないことだ。あつても大岡政談の續編のやうに、それが必らず新年であるのを必要としない程度なのだ。ちよんまげに大小さした時代はたしかに「新年」のひどく貴重な時代だつたに違ひない。だから、原作者の、あるひは脚色者の、筋の取扱ひ方がどんな方法だつたにしても、「新年」なる場面がもつと堂々と出てきても少しも變ではないのだが、彼等はたぶんそんなものゝ存在を忘れてゐるんだ。そしてもし彼等が何かの拍子にそれを思ひ出したら、そんなものを彼等の作品の中に入れるのは取つてつけたやうだなと思ふかもしれないし、入れる勇氣のある人はそれを添へものにしてしまふのだ。

 それでなければ、讀者や觀客が承知しないからだ。作者たちはまことによくそれを心得てゐるから、封建時代の新しい解釋とともに現代に不用な部分はどん/\切り捨てられてゆく。そして正しくその一つに、新年も數へられてゐると見える。

 だけれど、「新年」がどんなに變化して來ても、それがある以上、新年についてまはつてゐるのは、すくなくとも日本では、寒さだ。これは、當分變りさうもない。

 私の住んでゐるところにはまだ雀が澤山ゐる。彼等はふだんあまりはつきりした存在でないのだが、新年は彼等の存在をひどく鮮かにする。人間どもが寒さでいぢけてゐるとき、その耳には雀どものぴいつく/\が日光の反射のやうに賑やかにきこえて來る。木の枝や土の上をうぢや/\歩いてる彼等は、ねずみ色の一向つまらない奴等なんだが。

 そして、第一、暮のうちは何處にゐるのかちつとも見えないのに、新年になつて出てくるのは、彼等はもしや、新年の幽靈なんだらうか?