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Сигнал   Всеволод Михайлович Гаршин

信号

    ――フセヴォーロド・ガルシン 神西清訳

[やぶちゃん注:これは、

Всеволод Михайлович Гаршин(Vsevolod Mikhhajilpvich Garshin)

“ Сигнал ”( Signal )


一八八七年に発表されたフセヴォーロド・ミハイロヴィチ・ガルシンの短篇「信号」の全訳である。底本は岩波文庫一九五九年刊の「あかい花 他四篇」神西清訳(本書は新字新仮名版)を用いた。ルビの拗音と思われる部分(本書は旧来のルビ・システムで拗音表記がなく同ポイント活字を用いている)は拗音表記にした。本公開の現時点ではネット上には本翻訳の電子テクストは存在しないものと思われる。【二〇一四年十一月六日 藪野直史】]

   
信号

 セミョーン・イヴァーノフは鉄道の線路番を勤めていた。彼の番小屋から一方の駅までは十二露里、もう一つの駅までは十露里あった。四露里ほどの土地に去年大きな紡績工場が立った。その高い煙突がはるかの森陰から黒々とのぞいていたが、それより近くには、両隣りの番小屋を別にすると、森番の家ひとつなかった。
 セミョーン・イヴァーノフは病身の、生活に疲れ切った男であった。九年前に彼は戦争に出たことがある。ある将校の従卒を勤めて、遠征の辛苦をつぶさに主人と共にしたのである。飢えに苦しみ、寒さに凍え、炎天にやきこがされ、その炎天や寒空をついて、日に四十露里から五十露里の強行軍をしたものである。銃火の下に身をさらしたこともあったが、幸いとかすり傷ひとつ負わずにすんだ。ある時などは彼の連隊が第一線に立ったこともある。そのときは、まる一週間ぶっ通しにトルコ軍と銃火を交じえた。味方が戦線を敷いている場所と、くぼ地一つをはさんでトルコ軍の戦線があり、朝から日暮れまで、ときどき思い出したように弾丸を送ってよこすのだ。セミョーンの付いている将校もその戦線にいた。でセミョーンは日に三度三度、谷間にある連隊庖厨ほうちゅうから、しゅんしゅん沸いたサモヴァルと食事を運んで来てやるのだった。サモヴァルをさげて暴露地帯を歩いて行くと、弾丸がひゅうひゅう鳴ってそこらの石にぴしっぴしっとぶつかる。セミョーンはこわくて、思わず涙が出るけれど、それでもからだは進んで行く。隊の将校連はこの彼に大満足だった。彼のおかげで二六時ちゅう熱い茶を欠かしたことがないからである。彼は無事に戦地から戻っては来たが、ただ手足にリューマチの痛みを覚えるようになった。それからこっち、彼のなめた苦労はひと通りではなかった。家に帰ってみると――年とった親父おやじはなくなっていた。餓鬼も四つの歳で、のどの病でやはり死んでいた。セミョーンは女房とたった二人きりになった。暮らし向きもうまく行かなかったし、第一あの浮腫むくみの来た手足で地面を耕すのはもともと無理だった。二人は自分の村に居たたまれないことになって、新しい土地へいいことを捜しに出かけた。セミョーンは女房を連れて、国境の方へも行ってみたし、ヘルソーンにも、ドン地方にもしばらく足をとめてみた。どこへ行ってもいい芽は出なかった。とうとう女房は下女奉公に出て、セミョーンはあいかわらずそこらを流れ回っていた。あるとき汽車で旅をすることになったが、とある駅に停車したとき、そこの駅長がどうやら見覚えのある人のような気がした。
 セミョーンが駅長をじろじろ見ていると、向こうでもやはりセミョーンの顔をじっと見ている。
 やがてお互いに思い当たった。もといた連隊の将校だったのである。
 「お前イヴァーノフじゃないか?」と相手はいった。
 「はっ、そうであります、旦那様。私なんであります。」
 「なんだってこんな所へやって来たんだね?」
 セミョーンはこれこれしかじかでと、身の上をうち明けた。
 「でこれからどこへ行こうというのかね?」
 「それがわからんのであります。」
 「なにをばかな、なぜわからんのか?」
 「はてそうであります、旦那様。つまり行くとこがないんであります。何か仕事をみつけなくてはならんのであります。」
  駅長はじっと彼を見て、しばらく考えていたが、やがてこう言った。
 「なあどうだね、当分この駅にいることにして見ちゃあ。お前たしか女房があるはずだな? 女房はどこに置いてある?」
 「はっ、そうであります、女房がありますんで。女房はクールスク市の商人の家に下女奉公に行っております。」
 「じゃあ女房に手紙を出して、こっちへ来るように言ってやれ。無賃乗車券をなんとかしてやろう。ここの線路番の小屋が一つあくことになってるんだ。すぐお前のことを保線課長へ申請してやるとしよう。」
 「ほんとにありがとうございます、旦那様」とセミョーンは答えた。
 彼はそのまま駅に足をとめた。駅長の家の勝手仕事をけたり、まきを割ったり、構内やプラットフォームの掃除そうじをした。二週間すると女房もやって来たので、セミョーンは手押しのトロッコに乗って、自分の番小屋へ行った。番小屋はまだ新しくて、暖かで、薪ときたら望み放題あるし、野菜畑も小さいながら前の線路番の残して行ったのがあったし、半町歩からの耕地も線路の両側にあった。セミョーンはうれしくなってしまった。どんな具合に世帯しょたいをもって行こうか、牝牛めうしや馬の一匹も買おうか、などと考えはじめた。
 必要な物品はのこらず支給された。青旗、赤旗、手提灯てぢょうちん、呼子、ハンマー、止めねじを締めるスパナー、鉄挺子かなてこ、シャベル、ほうき、ねじくぎ、犬釘、それからまた鉄道規則ののっている薄い本が二冊に、列車時間表も渡された。はじめのうちセミョーンは夜の目も寝ずに、時間表をすっかり暗記するのだった。列車が通るまでまだ二時間も間があるのに、自分の受持区間をひと巡りしたり、番小足の前のベンチに腰かけて、レールが震動して来はしないか、汽車の音はまだしないかと、たえず眼や耳を働かせていた。規則もすっかりそらで覚えてしまった。読む方は不得手で、どうにかつづりをたどりたどり読む程度だったが、それでもちゃんと暗記してしまった。
 それは夏のことだった。仕事はつらくはなかったし、雪をかく世話もいらなかった。それにまたこの線には列車がめったにはいってこないので、セミョーンは一昼夜に二度ずつ自分の受持区間を見回って、そこここの止めねじをあたってみたり、ゆるんでいると見れば締め上げたり、じゃりを平らにならしたり、水管の具合を調べたりして、それから畠の面倒をみに戻って来る、ところが畠のことになると、厄介なことが一つあったというのは、何事にまれやろうと思うことはいちいち、線路監督に願い出なければならなかった。その監督から保線課長へ報告を出すというわけで、願いが許可になって戻ってくる内には、時季が過ぎてしまうのだった。セミョーン夫婦はだんだん退屈にさえなって来た。
 二た月ほどの時がたった。セミョーンは両隣りの線路番と顔なじみになりだした。一人はよぼよぼのじいさんで、鉄道の方では前々から更迭をもくろんでいた。ほとんど小屋から出たことはなく、細君が代わりに線路の見回りをしていた。もう一人の、駅に近い方の小屋にいる線路番は、まだ若い男で、やせてこそいるけれど筋骨たくましかった。彼とセミョーンとが初めて顔を合わせたのは、見回りのとき、お互いの小屋の中ほどの線路の上でだった。セミョーンは帽子をとって、お辞儀をして、
 「ごきげんよろしう、お隣りさん」と言った。
 隣りの男は横目でじろりと彼を見て、
 「こんちは」と言った。
 そしてくるりと背中を向けると、すたすた向こうへ行ってしまった。そのあとで女房同士も互いに顔を合わせる機会があった。セミョーンの女房のアリーナは、隣りの細君と挨拶あいさつをかわしたが、向こうはやはりあまり口数をきかないで、さっさと行ってしまった。セミョーンもある時その細君を見かけたので、
 「ねえおかみさん、あんたのご亭主はどうしてあんなに無口なんですね?」と言ってみた。
 女房はちょっと黙っていたが、やがてこう言った。
 「けどね、いったい何をあの人がお前さんとおしゃベりすることがあるの? だれだってみんな自分の仕事があるんだもの……お前さんも帰って仕事をしたがいいでしょ。」
 とはいえ、それから一と月もすると、二人は懇意になった。セミョーンとヴァシーリイは線路のうえで落ち合うと、土手の縁に腰をおろして、互いにパイプをふかしながら、めいめいの身上話みのうえばなしをするのだった。ヴァシーリイの方はどっちかと言うと聞き役で、セミョーンが自分の村のことや戦地のことを、話してきかせた。
 「こう見えても」と彼は言うのだった、「おれもずいぶんと苦労して来たものさ。それに老い先ももう長くはねえんだ。つまりおれは、仕合わせを授からなかったのさ。いったん神様がある運勢をその人にお授けなすった以上は、もうそれっきり動かしようもないんだ。まったくよ、なあヴァシーリイ・ステパーヌィチ。」
 するとヴァシーリイ・ステパーヌィチは、パイプを線路の端でぽんとはたいて、立ち上がってこう言う。
 「うんにゃ、おめえやおれの一生を台なしにしやがるのは、運勢なんてもんじゃあねえ、人間どもなんだ。まったくこの世の中に、人間ほど強欲でしょうの悪い獣はねえよ。おおかみが共食いなんかしねえが、人間ときた日にゃ生き身の人間をぼりぼり食うんだ。」
 「いいや兄弟、狼は共食いをやるぜ、そんなこと言うもんじゃねえよ。」
 「ひょいと口に出たんで言ったまでよ。と荒く人間くれえむごい生き物はねえぜ。これで人間が性悪しょうわるでも強欲でもなかったら、おいらの暮らしも立とうになあ。見ねえ、どいつもこいつもお前の生き身につめを立てようとねらってるんだ、肉をへぎとってくらいつこうときばをといでるんだ。」
 セミョーンは考え込んでしまった。
 「おれにゃわかんねえけどね、兄弟」と彼は言う、「ひょっとしたらそうかもしんねえ。だがもしそうとすりゃ、それにはそれでちゃんと神様のおぼし召しがあるんだあね。」
 「だがもしそうとすりゃ」と、ヴァシーリイは相手の言葉じりをとって、「おいらがこうして話をすることもいんねえわけだ。胸くその悪いこたあ残らず神様に背負わしちまって、お手前はすわり込んでじっと辛抱してるんなら、そいじゃあもう兄弟、何も人間様なこたあいらねえ、畜生で結構だ。おれの言いてえのはそいだけよ。」
 と言い捨てて、くるりと背中を向けると、あばよとも言わずに行ってしまった。セミョーンも立ち上がった。
 「おおい隣りの人」と大声で、「なんだってそう悪態をつくんだい?」
 隣りの男はふり向きもせず、ずんずん行ってしまった。セミョーンはそのまま、ヴァシーリイの姿が切り通しのがりかどに見えなくなるまで、長いことじっと見送っていた。家へ帰って来ると、女房にこう言った。
 「なあ、アリーナ、おいらの隣りのやつあ、ありや悪玉だぜ、人間じゃねえ。」
 とはいえ二人は仲たがいをしたのではなかった。そのうちまた顔を合わせると、あいかわらず話をしだしたが、話の題目は同じことだった。
 「ええ兄弟、もし人間どもがこうも……なんでなかったら、お互えに番小屋なんぞにくすぶらねえでもすんだんだぜ」とヴァシーリイは言った。
 「番小屋がどうだと言うんだね……結構、暮らして行けるじゃねえか。」
 「暮らして行ける、ふん暮らして行けるか……。だめだなあ、お前は! いろんな世渡りをして来たくせに、さっぱり世間というものがわかっちゃいねえ。いろんなことを見て来たくせに、さっぱり正体が見えちゃいねえ。貧乏人というものは、ここらの番小屋にいようがいまいが、どっちみち人間らしい暮らしはできねえんだ! そこいらの人食い鬼どもに、お前は食われてるんだぜ。生血のありったけをしぼっちまって、お前が老いぼれになってくると――まるで油かすか何かみたいに、ぽいと豚の餌にくれちまうんだ。お前、給料はいくらもらってるね?」
 「うん、大したこともないさ、ヴァシーリイ・ステパーノヴィチ。十二ルーブリだよ。」
 「おらあ十三ルーブリと半分だ。そこでお伺い申すが、こりやいったいどうしたわけだね? おかみの規則じゃだれかれ問わず一律に、月十五ルーブリの手当に、薪や油がつくことになってるんだ。いったいだれが、お前が十二ルーブリでおれが十三ルーブリ半だと、そんな決め方をしやがったんだ? ええ、伺いてえもんだね?…だのにお前は、暮らして行けるとおっしゃるんだ! 断わっておくけど、高が一ルーブリ半だの三ルーブリだののことを、かれこれいうんじゃないんだぜ。十五ルーブリまるまるくれたにしたって同じことなんだ。おれは先月、停車場に行ったっけがね、そこへ局長が汽車で通りかかったのを、おれはこの目で見たんだ。まあ拝んだというわけかな。やっこさん別仕立ての客車くるまに納まってたが、やおらプラットフォームに降り立って、そっくり返っていやがった。下っ腹によ、金鎖かなんかちゃらつかせやがってよ、ほっぺたなんざ、まるではちきれそうに、いい色してやんのさ。……おれたちの血をたんと召し上ったってわけさ。……えい、くそ、力とご威光がありさえすりゃ!……まあさ、おれがここにいるのも長いことじゃねえぜ。出て行くんだ、足の向く方へな。」
 「出て行くってどこへ行くんだね、ステパーヌィチ? あんまり上を見るとろくなこたあないぜ。ここにいりやお前、家もあるし、暖かだしさ、小さいながら畠地もあるんだ。それにおかみさんは働きもんだしさ……。」
 「畠地だと! まあおらんとこの畠を見てから言ってくれ。枯れ枝一本立っちゃいねえんだ。この春キャベツを植えたんだがね、するてえとたちまち監督のやつが飛んで来て、『こりゃ何ちゅうことだ?』とこうなんだ、『なぜ願い出んのか? なぜ許可を受けんか? 根こそぎそっくり掘っ返しちまえ。』やっこさん酔っぱらってたんだ。これが素面しらふのときだったら、見て見ぬふりですましたに違いねえのに、その時は妙にえこじになりやがってね……『三ループリの罰金だ!……』と来た。」
 ヴァシーリイは口をつぐむと、パイプを二た吸い三吸いしたが、やがて小声で、
 「すんでのことで、あいつ死ぬほどぷちのめしてくれるとこだったよ。」
 「なあ、隣りの人、なんぼなんでもお前さんは気が早すぎるよ。」
 「気が早いんでもなんでもねえさ、ただ筋の通ったことを言ったり考えたりするまでよ。まあそのうちにきっと返報はして見せるぞ、ゆでだこめ。保線課長へ直訴してやるんだ。今に見ろよ!」
 そして実際、彼は直訴をしたのである。
 あるとき保線課長が線路の検分にやって来た。もう三日すると、ぺテルブルグのお偉い方々がその線を通過するはずだった。それが検閲という触れ込みなので、その一行の通過に先だって、万事きちんと整頓せいとんしておく必要があったのだ。砂利バラスを敷き足し、きれいにならし、まくら木をいちいち検査し、犬釘を打ち直し、止めねじを締めなおし、くいは塗りかえ、踏切りには黄色い砂をまき足すようにとのお達しが出た。隣りのおかみさんまでが、例のじいさんを草取りに追っ立てる騒ぎだった。セミョーンはまる一週間せっせと働いた。線路の方がすっかり片づくと、自分の長上衣カフタンのほころびも繕い、きれいにブラシをかけて、真鍮しんちゅう徽章きしょう煉瓦れんがでもって、ぴかぴかになるまで磨き上げた。ヴァシーリイも働いた。課長がトロッコでやって来た。工夫が四人がかりでハンドルを回して、歯車がぶんぶんうなっていた。そのトロッコで一時間に二十露里もぶっ飛ばすので、ただもう車輪がごうごう鳴っていた。セミョーンの小屋の前へすっ飛んで来た。セミョーンはそこへとんで出て、軍隊式に報告をした。
 万事遺漏のないことがわかった。
 「お前は以前からここにおるのか?」と保線課長はきいた。
 「五月の二日からであります、閣下。」
 「よろしい。ご苦労じゃった。して百六十四番の小屋はだれかな?」
 線路監督は同じトロッコで随行していたが、それに答えて、
 「ヴァシーリイ・スピリドーノフでございます。」
 「スピリドーノフと、スピリドーノフと……。ははあ、去年君が注意人物じゃと言うておった、あの男だな?」
 「さようでございます。」
 「ふむ、よしよし。そのヴァシーリイ・スピリドーノフの方を見よう。出せ。」
 工夫たちはハンドルにしがみついた。トロッコは先へ進んで行った。
 セミョーンはその後ろを見送りながら、こう考えた、『こいつああの連中、隣りのやつとひと悶着もんちゃくおこすぞ。』
 それから二時間ほどすると、彼は見回りに出て行った。すると向こうの切り通しのところから、線路づたいにやって来る人影が見えた。頭の辺に何やら白いものがちらちらしているセミョーンが目を凝らしてみると、それはヴァシーリイだった。つえを片手に、小さな包みを肩にかけて、片頰かたほおには布ぎれを巻きつけている。
 「隣りの人、どこへ行こうってんだね?」とセミョーンは呼びかけた。
 ヴァシーリイはすぐ鼻先へやって来た。まるで顔色はなく、白墨のように白かった。目は獣のようにぎらついていた。口をききだすと――声はとぎれがちだった。
 「まちへ行くんだ」と彼は言った。「モスクヴァへ行くんだ……本省へな。」
 「本省へ……。うん読めた! じゃあ訴えに行くんだね? よしなよ、ヴァシーリイ・ステパーヌィチ、忘れちまえよ……。」
 「うんにゃ、兄弟、忘れるわけにゃ行かねえ。忘れるにゃちと手おくれなんだ。見ねえ、あいつおれのつらを張りやがったんだ、こうして血まで出しやがったんだ。生きてる限りは、忘れるわけにゃ行かねえ、このまますますわけにゃ行かねえんだ! 吸血鬼め、思い知らせてやらにゃおさまらねえ!……」
 そういう彼の手をセミョーンは取った。
 「やめにしろよ、ステパーヌィチ。おらあ悪いこたあ言わねえ、そっとしとくが身のためだぜ。」
 「何が身のためだ!そっとしとくが身のためだぐれえ、おれだって育も承知だあ。お前は運勢のことを言ってたっけが、今になってみりゃなるほどと思い当たらあ。みすみす身のためにゃならねえと知りながら、正義のためにゃ、兄弟、やっぱり一歩もひけねえものなあ。」
 「だがまあ聞こうじやないか、いったいどうしてそんなことになったんだね?」
 「うむどうしてって……。あいつめ何から何まで検査しやがったんだ、わざわざトロッコを降りて、小屋の中までのぞきやがったんだ。てっきり小やかましいことを抜かすだろうとは、こっちも覚悟の前だった。だから万事手抜かりなく整頓しといたのよ。そこでまあ無事にトロッコへお戻りになろうとした矢先に、おれが例の直訴をもち出したというわけさ。いややっこさん、聞くが早いかが鳴り立てたぜ。『いやしくも』って抜かすんだ、『政府おかみの検閲があるというのじゃぞ、それをなんというやつだ、野菜畠の不服なんぞを持ちだすとは!』と、こうなんだ、『三等官の方がたがお見えになるというんじゃぞ、それをお前はキャベツのことなんぞをつべこべ言いおる!』おれは腹を据え兼ねて、ついいやがらせを言っちまった。なあに別に大したことじゃないんだがね、それが妙にやっこさんの気にさわったんだな。いきなりぶうんと拳固げんこが飛んで来た。おれたちの我慢なんぞ、くそいまいましい! これでもこらえろってのか……おれはじっと歯を食いしばっていた、そうされるのが理の当然だといったふうにな。やつらが行っちまうと、おれははっと気がついて、顔の血をふくと、こうして出かけて来たのよ。」
 「で、小屋の方はどうするつもりだい?」
 「かかあが残ってらあな。あれが抜け目なくやってくれらあ。それにやつらがどうなろうと、やつらの線路がどうなろうと、おれの知ったことじゃねえしな!」
 ヴァシーリイは立ち上がって、身支度をした。
 「あばよ、イヴァーヌィチ。訴えが聞き届けてもらえるかどうか、わかんねえけどなあ。」
 「お前さん徒歩てくで行くつもりかい?」
 「停車場で貨車に乗っけてもらうつもりだ。あすはもうモスクヴァさ。」
 隣り同士は別れを告げた。ヴァシーリイはそのまま出かけて行って、なかなか戻ってはこなかった。女房は彼の代わりに、昼はもとより夜の日も寝ずに働いた。亭主の帰りを待ちわびて、げっそりやつれてしまった。三日目になると検閲の一行がやって来た。機関車に手荷物車が一りょう、それに一等車が二輛ついていた。だがヴァシーリイの姿はあいかわらず見えなかった。四日目にセミョーンは、彼の女房を見かけた。顔を泣きはらして、まっ赤な目をしていた。
 「ご亭主は戻りなすったかね?」ときいてみた。
 女房は片手を振って見せると、ひと言も口をきかずに、自分の小屋の方へ行ってしまった。

 セミョーンはその昔、まだがんぜない子供のころに、猿柳さるやなぎの枝で笛を作ることを習い覚えていた。柳の枝のしんを焼きぬいて、要所要所にきりで穴をあけ、一方の端に歌口をこしらえると、見事に音色をととのえて、なんなりとお望みの曲が吹けるように仕上げるのだった。彼は役目の暇々にそうした笛をたくさんつくって、懇意な貨物列車の車掌にたのんで、町の市場へ出してもらっていた。一本あたり二コペイカのおあしになった。あの検閲があって三日目に、彼は夕方六時の汽車の見張りに女房を小屋にのこして、自分は小刀をもって、柳の枝を仕入れに森へ出かけた。受持区域のはずれまで来ると――そこで線路は急カーヴをしていた――彼は土手を降りて、森の木の間をだらだらとおりて行った。半露里ほど先に大きな沼があっで、そのほとりに例の笛の材料にはおあつらえむきの見事な猿柳のやぶがあった。彼は一かかえほども枝を切ると、そのまま家路についた。森の中をわけて行く。日はもう西に傾いて、あたりはひっそりと死んだような静けさ。聞こえるのはただ、チチと呼びかわす鳥の声と、足もとに踏みしだいてゆく枯れ枝の響きだけだった。それから少し行って、間もなく線路の土手に出るというあたりで、何かほかの物音が聞こえるような気がした。どこかそこらで、鉄と鉄とがかすかに打ち合うような音だった。セミョーンは足を早めた。その日ごろ彼らの受持区間に修理は行われていなかった。『あの音は何だろう?』と心に思った。やがて森のはずれへ出ると、目の前は見上げるような鉄道の土手だった。その土手の上に一人の男がしゃがみ込んで、しきりに何かやっていた。セミョーンはそっとその男の方へ登って行った。どこかのやつが止めねじを盗みに来たんだなと思ったのだ。じっと見ていると、やがて男は立ち上がった。手には鉄挺子かなてこを握っていた。つまり鉄挺子でもってレールの床をゆるめて、はずれるようにしたわけだ。セミョーンは目のなかが暗くなってしまった。わめこうとしたが、声が出なかった。それがヴァシーリイだと見てとると、彼はいっさんにかけあがったが、相手は鉄挺子とねじ回しをかかえたまんま、土手の向こう側からまりのようにころげ降りてしまった。
 「ヴァシーリイ・ステパーヌィチ! お願いだ、いい子だから戻って来てくれよう! 鉄挺子を借してくれよう! レールを直すんだ、だれにも知れやしないんだ。戻って来てくれ、畜生道へ落ちないでくれよう。」
 ヴァシーリイはふり向きもせずに、森の中へ逃げ込んでしまった。
 セミョーンははずされたレールのそばにつっ立っていた。かかえていた枝束をどさりと落とした。今度の列車は貨物ではなくて客車なのだ。停車させようにも手立てがなかった。旗がないのである。レールを元通りに直そうにも、素手では犬釘も打てはしない。こうなったら駆けだすほかはない、何か道具をとりに小屋へ駆けつけるほかはない。神様、お助けください!
 セミョーンは自分の小屋をさして走った。息ぎれがする。それでも走った――へたへたと今にも前へつんのめりそうになる。やっと森を駆け抜けて、ありがたや小屋まではもう二町そこそこだと思った途端に、ふと耳に工場の汽笛ぼおの鳴るのが聞こえた。六時だ。六時二分には列車が来る。ああ神様! 罪なき人々の命をお救い下さい! 祈るひまにもセミョーンの目にまざまざと浮かぶのは、機関車が左の車輪をレールの切れ目に引っかけて、ぐんと一と揺れ、たちまち横へかしいで、まくら木をやぶり、木っぱみじんにはね散らす光景だ。おまけにあすこはカープだ、がりかどなのだ、それに高い土手と来ている。列車はあわやという間もなく、十二三間もの谷底へ逆落としだ。その三等車には、ぎっしりとすしづめの客、なかにはいたいけな子供もいよう……。それがみんな今、一寸先の危難も知らずにすわっているのだ。神様、どうすればいいのかお教え下さい!……ああもう遅い、小屋へ駆けつけてそれから現場へ戻ったんじゃ、とても間に合わない……。
 セミョーンは小屋まで駆けつけぬうちに、くるりと後ろ向きになると、前よりいっそうの速力で駆けだした。ほとんど無我夢中で、この先どうなることやら自分でも知らずに、ひた走りに走った。はずされたレールのところへ駆け戻って見ると、例の枝がうず高く散乱していた。彼は身をかがめて、その一本を引っつかむと、何のつもりかは自分も知らずに、そのまま先へ駆けだした。もう列車の近づく気配がしていた。はるかに汽笛の音がきこえ、レールがかすかに規則正しい震動を伝えはじめていた。もうそれ以上は走る力がなかった。彼は恐ろしい場所から百間あまりの所で立ちどまった。その時ふと、一条の光明がさっと頭にひらめいたのである。彼は帽子をぬぐと、その中からもめんのハンカチを取りだした。それから長靴ながぐつの胴へ手を入れて、小刀を取り出した。そして十字を切った、――『主よ、恵みたまえ!』と。
 その小刀を彼はやにわに、自分の左の二の腕へつっ刺した。血はさっと吹きでて、熱い流れをなしてほとばしった。彼はその血潮にハンカチを浸して、しわをのばしてひろげると、枝の先に結わえつけて、わが血に染めた赤旗をかかげた。
 彼はつっ立ったまま、その旗をしきりに打ち振る。汽車はもう見えていた。旗は機関手の目にはいらぬと見え、ぐんぐん汽車は近づいて来る。ここまで来たらもう最後だ――百間あまりの距離では、あの重たい列車が止められるものか!
 血はあとからあとから吹きでてくる。セミョーンは傷ぐちを小わきへ押しつけて、口をふさごうと思うのだが、血はいっかな止まらない。どうやら腕を深く切ったと見える。そのうちにめまいがして来た。目のなかに黒いの影がちらちらし出したかと思うと、やがて真のやみになってしまった。耳の中ではがんがんとしきりに鐘が鳴る。彼にはもう汽車の姿も見えず、そのとどろきも聞こえない。頭に渦まく考えはただ一つ――『もう立ってはおられぬ、おれは倒れる、ああ旗が落ちる。あの汽車はおれのところを走り抜けるんだ……お助け下さい、主よ、だれか代わりを早く……。』。
 と思ううちに目のなかは暗くなりだし、心はうつろになって、彼は旗をとり落とした。しかし血染めの旗は地面へ落ちはしなかった。何者かの手がむんずとそれをひっつかむと、轟々ごうごうと近ついてくる列車に向かって高く振り上げたのだった。機関手はそれを認めて、調整器の弁をとじると、蒸気を切りかえた。列車は止まった。
 車室からどやどやと飛びだして来た人々が、たちまちまわりに黒山をきずいた。見ると、全身あけに染まった男が、気を失って倒れていた。もう一人の男はそのそばに、血だらけのぼろ布のついた棒を握ってたたずんでいた。
 ヴァシーリイはぐるりと一同を見回すと、そのまま首をおとして、
 「あっしを縛っておくんなさい」と言った、「あっしがレールをはずしたんだ。」