――フセヴォーロド・ガルシン 神西清訳
[やぶちゃん注:これは、
Всеволод Михайлович Гаршин(Vsevolod Mikhhajilpvich Garshin)
“ Сигнал ”( Signal )
一八八七年に発表されたフセヴォーロド・ミハイロヴィチ・ガルシンの短篇「信号」の全訳である。底本は岩波文庫一九五九年刊の「あかい花 他四篇」神西清訳(本書は新字新仮名版)を用いた。ルビの拗音と思われる部分(本書は旧来のルビ・システムで拗音表記がなく同ポイント活字を用いている)は拗音表記にした。本公開の現時点ではネット上には本翻訳の電子テクストは存在しないものと思われる。【二〇一四年十一月六日 藪野直史】]
信号
セミョーン・イヴァーノフは鉄道の線路番を勤めていた。彼の番小屋から一方の駅までは十二露里、もう一つの駅までは十露里あった。四露里ほどの土地に去年大きな紡績工場が立った。その高い煙突がはるかの森陰から黒々とのぞいていたが、それより近くには、両隣りの番小屋を別にすると、森番の家ひとつなかった。
セミョーン・イヴァーノフは病身の、生活に疲れ切った男であった。九年前に彼は戦争に出たことがある。ある将校の従卒を勤めて、遠征の辛苦をつぶさに主人と共にしたのである。飢えに苦しみ、寒さに凍え、炎天にやきこがされ、その炎天や寒空をついて、日に四十露里から五十露里の強行軍をしたものである。銃火の下に身をさらしたこともあったが、幸いとかすり傷ひとつ負わずにすんだ。ある時などは彼の連隊が第一線に立ったこともある。そのときは、まる一週間ぶっ通しにトルコ軍と銃火を交じえた。味方が戦線を敷いている場所と、くぼ地一つをはさんでトルコ軍の戦線があり、朝から日暮れまで、ときどき思い出したように弾丸を送ってよこすのだ。セミョーンの付いている将校もその戦線にいた。でセミョーンは日に三度三度、谷間にある連隊
セミョーンが駅長をじろじろ見ていると、向こうでもやはりセミョーンの顔をじっと見ている。
やがてお互いに思い当たった。もといた連隊の将校だったのである。
「お前イヴァーノフじゃないか?」と相手はいった。
「はっ、そうであります、旦那様。私なんであります。」
「なんだってこんな所へやって来たんだね?」
セミョーンはこれこれしかじかでと、身の上をうち明けた。
「でこれからどこへ行こうというのかね?」
「それがわからんのであります。」
「なにをばかな、なぜわからんのか?」
「はてそうであります、旦那様。つまり行くとこがないんであります。何か仕事をみつけなくてはならんのであります。」
駅長はじっと彼を見て、しばらく考えていたが、やがてこう言った。
「なあどうだね、当分この駅にいることにして見ちゃあ。お前たしか女房があるはずだな? 女房はどこに置いてある?」
「はっ、そうであります、女房がありますんで。女房はクールスク市の商人の家に下女奉公に行っております。」
「じゃあ女房に手紙を出して、こっちへ来るように言ってやれ。無賃乗車券をなんとかしてやろう。ここの線路番の小屋が一つあくことになってるんだ。すぐお前のことを保線課長へ申請してやるとしよう。」
「ほんとにありがとうございます、旦那様」とセミョーンは答えた。
彼はそのまま駅に足をとめた。駅長の家の勝手仕事を
必要な物品はのこらず支給された。青旗、赤旗、
それは夏のことだった。仕事はつらくはなかったし、雪をかく世話もいらなかった。それにまたこの線には列車がめったにはいってこないので、セミョーンは一昼夜に二度ずつ自分の受持区間を見回って、そこここの止めねじをあたってみたり、ゆるんでいると見れば締め上げたり、じゃりを平らにならしたり、水管の具合を調べたりして、それから畠の面倒をみに戻って来る、ところが畠のことになると、厄介なことが一つあったというのは、何事にまれやろうと思うことはいちいち、線路監督に願い出なければならなかった。その監督から保線課長へ報告を出すというわけで、願いが許可になって戻ってくる内には、時季が過ぎてしまうのだった。セミョーン夫婦はだんだん退屈にさえなって来た。
二た月ほどの時がたった。セミョーンは両隣りの線路番と顔なじみになりだした。一人はよぼよぼのじいさんで、鉄道の方では前々から更迭をもくろんでいた。ほとんど小屋から出たことはなく、細君が代わりに線路の見回りをしていた。もう一人の、駅に近い方の小屋にいる線路番は、まだ若い男で、やせてこそいるけれど筋骨たくましかった。彼とセミョーンとが初めて顔を合わせたのは、見回りのとき、お互いの小屋の中ほどの線路の上でだった。セミョーンは帽子をとって、お辞儀をして、
「ごきげんよろしう、お隣りさん」と言った。
隣りの男は横目でじろりと彼を見て、
「こんちは」と言った。
そしてくるりと背中を向けると、すたすた向こうへ行ってしまった。そのあとで女房同士も互いに顔を合わせる機会があった。セミョーンの女房のアリーナは、隣りの細君と
「ねえおかみさん、あんたのご亭主はどうしてあんなに無口なんですね?」と言ってみた。
女房はちょっと黙っていたが、やがてこう言った。
「けどね、いったい何をあの人がお前さんとおしゃベりすることがあるの? だれだってみんな自分の仕事があるんだもの……お前さんも帰って仕事をしたがいいでしょ。」
とはいえ、それから一と月もすると、二人は懇意になった。セミョーンとヴァシーリイは線路のうえで落ち合うと、土手の縁に腰をおろして、互いにパイプをふかしながら、めいめいの
「こう見えても」と彼は言うのだった、「おれもずいぶんと苦労して来たものさ。それに老い先ももう長くはねえんだ。つまりおれは、仕合わせを授からなかったのさ。いったん神様がある運勢をその人にお授けなすった以上は、もうそれっきり動かしようもないんだ。まったくよ、なあヴァシーリイ・ステパーヌィチ。」
するとヴァシーリイ・ステパーヌィチは、パイプを線路の端でぽんとはたいて、立ち上がってこう言う。
「うんにゃ、おめえやおれの一生を台なしにしやがるのは、運勢なんてもんじゃあねえ、人間どもなんだ。まったくこの世の中に、人間ほど強欲で
「いいや兄弟、狼は共食いをやるぜ、そんなこと言うもんじゃねえよ。」
「ひょいと口に出たんで言ったまでよ。と荒く人間くれえむごい生き物はねえぜ。これで人間が
セミョーンは考え込んでしまった。
「おれにゃわかんねえけどね、兄弟」と彼は言う、「ひょっとしたらそうかもしんねえ。だがもしそうとすりゃ、それにはそれでちゃんと神様のおぼし召しがあるんだあね。」
「だがもしそうとすりゃ」と、ヴァシーリイは相手の言葉じりをとって、「おいらがこうして話をすることもいんねえわけだ。胸くその悪いこたあ残らず神様に背負わしちまって、お手前はすわり込んでじっと辛抱してるんなら、そいじゃあもう兄弟、何も人間様なこたあいらねえ、畜生で結構だ。おれの言いてえのはそいだけよ。」
と言い捨てて、くるりと背中を向けると、あばよとも言わずに行ってしまった。セミョーンも立ち上がった。
「おおい隣りの人」と大声で、「なんだってそう悪態をつくんだい?」
隣りの男はふり向きもせず、ずんずん行ってしまった。セミョーンはそのまま、ヴァシーリイの姿が切り通しの
「なあ、アリーナ、おいらの隣りのやつあ、ありや悪玉だぜ、人間じゃねえ。」
とはいえ二人は仲たがいをしたのではなかった。そのうちまた顔を合わせると、あいかわらず話をしだしたが、話の題目は同じことだった。
「ええ兄弟、もし人間どもがこうも……なんでなかったら、お互えに番小屋なんぞにくすぶらねえでもすんだんだぜ」とヴァシーリイは言った。
「番小屋がどうだと言うんだね……結構、暮らして行けるじゃねえか。」
「暮らして行ける、ふん暮らして行けるか……。だめだなあ、お前は! いろんな世渡りをして来たくせに、さっぱり世間というものがわかっちゃいねえ。いろんなことを見て来たくせに、さっぱり正体が見えちゃいねえ。貧乏人というものは、ここらの番小屋にいようがいまいが、どっちみち人間らしい暮らしはできねえんだ! そこいらの人食い鬼どもに、お前は食われてるんだぜ。生血のありったけをしぼっちまって、お前が老いぼれになってくると――まるで油かすか何かみたいに、ぽいと豚の餌にくれちまうんだ。お前、給料はいくらもらってるね?」
「うん、大したこともないさ、ヴァシーリイ・ステパーノヴィチ。十二ルーブリだよ。」
「おらあ十三ルーブリと半分だ。そこでお伺い申すが、こりやいったいどうしたわけだね? お
「出て行くってどこへ行くんだね、ステパーヌィチ? あんまり上を見るとろくなこたあないぜ。ここにいりやお前、家もあるし、暖かだしさ、小さいながら畠地もあるんだ。それにおかみさんは働きもんだしさ……。」
「畠地だと! まあおらんとこの畠を見てから言ってくれ。枯れ枝一本立っちゃいねえんだ。この春キャベツを植えたんだがね、するてえとたちまち監督のやつが飛んで来て、『こりゃ何ちゅうことだ?』とこうなんだ、『なぜ願い出んのか? なぜ許可を受けんか? 根こそぎそっくり掘っ返しちまえ。』やっこさん酔っぱらってたんだ。これが
ヴァシーリイは口をつぐむと、パイプを二た吸い三吸いしたが、やがて小声で、
「すんでのことで、あいつ死ぬほどぷちのめしてくれるとこだったよ。」
「なあ、隣りの人、なんぼなんでもお前さんは気が早すぎるよ。」
「気が早いんでもなんでもねえさ、ただ筋の通ったことを言ったり考えたりするまでよ。まあそのうちにきっと返報はして見せるぞ、ゆでだこめ。保線課長へ直訴してやるんだ。今に見ろよ!」
そして実際、彼は直訴をしたのである。
あるとき保線課長が線路の検分にやって来た。もう三日すると、ぺテルブルグのお偉い方々がその線を通過するはずだった。それが検閲という触れ込みなので、その一行の通過に先だって、万事きちんと
万事遺漏のないことがわかった。
「お前は以前からここにおるのか?」と保線課長はきいた。
「五月の二日からであります、閣下。」
「よろしい。ご苦労じゃった。して百六十四番の小屋はだれかな?」
線路監督は同じトロッコで随行していたが、それに答えて、
「ヴァシーリイ・スピリドーノフでございます。」
「スピリドーノフと、スピリドーノフと……。ははあ、去年君が注意人物じゃと言うておった、あの男だな?」
「さようでございます。」
「ふむ、よしよし。そのヴァシーリイ・スピリドーノフの方を見よう。出せ。」
工夫たちはハンドルにしがみついた。トロッコは先へ進んで行った。
セミョーンはその後ろを見送りながら、こう考えた、『こいつああの連中、隣りのやつとひと
それから二時間ほどすると、彼は見回りに出て行った。すると向こうの切り通しのところから、線路づたいにやって来る人影が見えた。頭の辺に何やら白いものがちらちらしているセミョーンが目を凝らしてみると、それはヴァシーリイだった。
「隣りの人、どこへ行こうってんだね?」とセミョーンは呼びかけた。
ヴァシーリイはすぐ鼻先へやって来た。まるで顔色はなく、白墨のように白かった。目は獣のようにぎらついていた。口をききだすと――声はとぎれがちだった。
「
「本省へ……。うん読めた! じゃあ訴えに行くんだね? よしなよ、ヴァシーリイ・ステパーヌィチ、忘れちまえよ……。」
「うんにゃ、兄弟、忘れるわけにゃ行かねえ。忘れるにゃちと手おくれなんだ。見ねえ、あいつおれのつらを張りやがったんだ、こうして血まで出しやがったんだ。生きてる限りは、忘れるわけにゃ行かねえ、このまますますわけにゃ行かねえんだ! 吸血鬼め、思い知らせてやらにゃおさまらねえ!……」
そういう彼の手をセミョーンは取った。
「やめにしろよ、ステパーヌィチ。おらあ悪いこたあ言わねえ、そっとしとくが身のためだぜ。」
「何が身のためだ!そっとしとくが身のためだぐれえ、おれだって育も承知だあ。お前は運勢のことを言ってたっけが、今になってみりゃなるほどと思い当たらあ。みすみす身のためにゃならねえと知りながら、正義のためにゃ、兄弟、やっぱり一歩もひけねえものなあ。」
「だがまあ聞こうじやないか、いったいどうしてそんなことになったんだね?」
「うむどうしてって……。あいつめ何から何まで検査しやがったんだ、わざわざトロッコを降りて、小屋の中までのぞきやがったんだ。てっきり小やかましいことを抜かすだろうとは、こっちも覚悟の前だった。だから万事手抜かりなく整頓しといたのよ。そこでまあ無事にトロッコへお戻りになろうとした矢先に、おれが例の直訴をもち出したというわけさ。いややっこさん、聞くが早いかが鳴り立てたぜ。『いやしくも』って抜かすんだ、『
「で、小屋の方はどうするつもりだい?」
「かかあが残ってらあな。あれが抜け目なくやってくれらあ。それにやつらがどうなろうと、やつらの線路がどうなろうと、おれの知ったことじゃねえしな!」
ヴァシーリイは立ち上がって、身支度をした。
「あばよ、イヴァーヌィチ。訴えが聞き届けてもらえるかどうか、わかんねえけどなあ。」
「お前さん
「停車場で貨車に乗っけてもらうつもりだ。あすはもうモスクヴァさ。」
隣り同士は別れを告げた。ヴァシーリイはそのまま出かけて行って、なかなか戻ってはこなかった。女房は彼の代わりに、昼はもとより夜の日も寝ずに働いた。亭主の帰りを待ちわびて、げっそりやつれてしまった。三日目になると検閲の一行がやって来た。機関車に手荷物車が一
「ご亭主は戻りなすったかね?」ときいてみた。
女房は片手を振って見せると、ひと言も口をきかずに、自分の小屋の方へ行ってしまった。
セミョーンはその昔、まだがんぜない子供のころに、
「ヴァシーリイ・ステパーヌィチ! お願いだ、いい子だから戻って来てくれよう! 鉄挺子を借してくれよう! レールを直すんだ、だれにも知れやしないんだ。戻って来てくれ、畜生道へ落ちないでくれよう。」
ヴァシーリイはふり向きもせずに、森の中へ逃げ込んでしまった。
セミョーンははずされたレールのそばにつっ立っていた。かかえていた枝束をどさりと落とした。今度の列車は貨物ではなくて客車なのだ。停車させようにも手立てがなかった。旗がないのである。レールを元通りに直そうにも、素手では犬釘も打てはしない。こうなったら駆けだすほかはない、何か道具をとりに小屋へ駆けつけるほかはない。神様、お助けください!
セミョーンは自分の小屋をさして走った。息ぎれがする。それでも走った――へたへたと今にも前へつんのめりそうになる。やっと森を駆け抜けて、ありがたや小屋まではもう二町そこそこだと思った途端に、ふと耳に工場の
セミョーンは小屋まで駆けつけぬうちに、くるりと後ろ向きになると、前よりいっそうの速力で駆けだした。ほとんど無我夢中で、この先どうなることやら自分でも知らずに、ひた走りに走った。はずされたレールのところへ駆け戻って見ると、例の枝がうず高く散乱していた。彼は身をかがめて、その一本を引っつかむと、何のつもりかは自分も知らずに、そのまま先へ駆けだした。もう列車の近づく気配がしていた。はるかに汽笛の音がきこえ、レールがかすかに規則正しい震動を伝えはじめていた。もうそれ以上は走る力がなかった。彼は恐ろしい場所から百間あまりの所で立ちどまった。その時ふと、一条の光明がさっと頭にひらめいたのである。彼は帽子をぬぐと、その中からもめんのハンカチを取りだした。それから
その小刀を彼はやにわに、自分の左の二の腕へつっ刺した。血はさっと吹きでて、熱い流れをなしてほとばしった。彼はその血潮にハンカチを浸して、しわをのばしてひろげると、枝の先に結わえつけて、わが血に染めた赤旗をかかげた。
彼はつっ立ったまま、その旗をしきりに打ち振る。汽車はもう見えていた。旗は機関手の目にはいらぬと見え、ぐんぐん汽車は近づいて来る。ここまで来たらもう最後だ――百間あまりの距離では、あの重たい列車が止められるものか!
血はあとからあとから吹きでてくる。セミョーンは傷ぐちを小わきへ押しつけて、口をふさごうと思うのだが、血はいっかな止まらない。どうやら腕を深く切ったと見える。そのうちにめまいがして来た。目のなかに黒い
と思ううちに目のなかは暗くなりだし、心はうつろになって、彼は旗をとり落とした。しかし血染めの旗は地面へ落ちはしなかった。何者かの手がむんずとそれをひっつかむと、
車室からどやどやと飛びだして来た人々が、たちまちまわりに黒山をきずいた。見ると、全身あけに染まった男が、気を失って倒れていた。もう一人の男はそのそばに、血だらけのぼろ布のついた棒を握ってたたずんでいた。
ヴァシーリイはぐるりと一同を見回すと、そのまま首をおとして、
「あっしを縛っておくんなさい」と言った、「あっしがレールをはずしたんだ。」