やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

 

絹帽子(シルクハツト) 附別稿   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:本文底本は岩波版旧全集を、別稿は新全集を底本として(但し、こちらは私のポリシーに則り、恣意的に多くを正字に直した)。本作についてのデータは旧全集後記には一切ないので、新全集後記を参考にして以下に記す。原稿表題の傍らには『柳川隆之介』と署名したものを消して『芥川龍之介』と改められている。原稿には割り付けの跡が残り、表題の前にも編集者の手になると推測される『中公小説第四』などと記され、全ての原稿用紙の欄外に『中央公論小説四』という印が捺されている、とある。更に、その文末に『(編者しるす)』」とあって、以下のように記されている、とある(これも私のポリシーから正字に直してある。底本とした新全集後記では全体が二字下げである)。

著者芥川龍之介氏が、急遽其年來の素志たる支那漫遊の途に上らるゝことゝなりたるにつき、一切の文債を悉く歸國の際まで斷はられたるが、本誌の懇望最も切なりし爲めか、獨り本誌にのみ創作を發表すべきことを約せられ、出發の十數日前より「雛」と云ふ短篇の執筆に取りかゝられたるが、著者の藝術精進慾は例によつて日を經るに隨つて熾烈を極め、洗練又洗練、改作又改作、此作に於ても描寫法に一新機軸を出さんとの意氣込より、つひに或は客を謝し、或は用務を廢し、出立の日の午前四時に至つて、兎に角纏まりをつけられたるも、中途につい一箇所どうしても著者の藝術心を滿足せしめざる所ありとて、此苦心作の發表は斷然歸國の時まで見合はすことゝなし、代りに大正五年より筐底に藏したる「絹帽子」に多少の修正を加へて、之を發表せらるることゝなれり。こゝに此篇を發表するに至れる顛末の概略を記して、一つには以て、敬嘆すべき著者の藝術的努力を讀者に報告すると共に、一には以て、本誌に對する特別の好意の爲めに拂はれたる多大なる犧牲を著者に向つて深謝するもの也

以下、『事実、原稿には「多少の修正」を施した痕が認められる』とある。この『出立の日の午前四時に至つて』以下の叙述が真実であるとすれば『修正』(別稿?)を加えて、中央公論社に送られたのは、大正10(1921)年3月19日午前ということになる。本作が何故、『中央公論』に発表されなかったのか、その原稿が何処から出来し、旧全集に齎されたのか、一切は不明である。新全集で初めて加えられた本稿の別稿については、その後記で『再び手を加えて発表することを意図した原稿と推測される』とある。何れにせよ、上記の中央公論社編集部の書き入れからも、これは芥川龍之介の未定稿の中でも極めて完成品に近い、公開直前にまで至ったものであることが分かる。本文篇の私の注を本文篇末尾に「■やぶちゃん注」として施した。なお、本作題名は本文中の表記を見ても「絹帽子」と書いて「シルハツト」と読ませる積りであったものと思われるので、敢えて底本群にはない読みを振った。【2010年1月10日】]

 

絹帽子(シルクハツト)

 

 その頃自分は、S――と云ふ海水浴場のある町から二三町はなれた、或素人家に宿をとつてゐた。この近所にはめづらしい瓦葺の二階建で、家の前は丁度S――から、停車場のあるN――へ行く、砂の多い街道である。後は芋や豆を植ゑた畠の間を十歩ばかり行くと、一列につゞいた黍(きび)を境にして、向ふは割合になぞへな崖になる。その崖を下りさへすれば、すぐに海岸の砂濱で、それから波打際を海水靜場まで行くには、十分とかゝらない。勿論、海は家の中からも、黄ばんだ豆の葉の上に、一目に見渡す事が出來るのである。

 宿の家族は、年より二人きりで、二人とも元は東京に住んでゐたとか云ふ事である。これは自分にこの宿の世話をした、S――にゐる友だちが話してくれた。亭主は脊の低い、猫背の男で、N――から乘合馬車で、こゝへ着いた時にも、細引きでからげた荷物を解くのに、うるさい程世話をやいたが、上さんはそれと反對に、どこか尊大な所のある、でつぷり肥つた婆さんで、一言で形容しようとすると、どうしてもまづ、「老皮嚢」と云ふ漢語でも借りるより外に仕方がない。自分はこの上さんの、始終彼女自身の鼻を見てゐるやうな、倣慢な態度が氣に入らなかつた。實は小さなおばこに結つて、洗ひざらした藍鼠の帷子の紋附きを着て、叮嚀な東京辯で、初對面の挨拶をされた時から、何となく夫を剋(こく)してゐさうな、面憎い氣もちがしてゐたのである。

 この先入はその後間もなく、「老皮嚢」が髮結ひをしてゐるのを見てから、一層肯定を與へられたやうな氣がし出した。殊に亭主はこれと云つて、きまつた商賣も持たないらしい。大抵晝間は長羅宇の煙管で、漫然と莨をのみながら、髮を結ひに來る近所の上さんたちと、氣樂な饒舌を弄してゐる。これでは「老皮嚢」に一目(もく)でも、二目でも置くやうになつたのは、別段不思議でも何でもない。だからここへ來た三日目に、亭主が頭を掻きながら、のそのそ二階へ上つて來て、宿料を兎も角も半月分、先拂ひにしてくれと云つた時も、自分はこれも「老皮嚢」の指圖にちがひないと臆測した。

 亭主は莨をふかせるのと、無暗に舌を動かすのとを何よりも樂しみにしてゐるらしい。外の徃來を通る人でも、隣の軍鷄屋へ來た人でも、人の顏を見さへすれば、何かしらきつと話しかける。さうして向ふが返事さへしてゐれば、何時までも獨りで饒舌つてゐる。もし「老皮嚢」が何か用をたのまなければ、長い夏の一日中、駄辯ばかり振つてゐるかも知れない。所が上さんは風呂を沸かす時になると、亭主が髭を剃りかけてゐても、必裏にある井戸から、何杯でも水を汲みこませる。それでも亭主は唯、「おい來た」とか何とか云つて、別に腹を立てる容子もない。晒木綿の繻袢を着た亭主が、半分髭を剃りかけたま~、豆畠の中にある据風呂へ、忙しさうに水を汲み出すのを見ると、自分は何時でも氣の毒と云ふよりは、滑稽な感じが先に立つた。

 「夫婦と云ふものは、妙なものだね。」――自分はこの話をS――にゐる友だちに話した後で、かう云つて笑つた事がある。

 所が一週間ばかりする内に、亭主がだんだん二階へ上つて、饒舌つて行く事が多くなつた。自分が少しでも暇だと思へば、何時でも手のついた莨盆をさげて、狹い猿梯子を上つて來る。それから始は此方の話を聞くやうな態度で、駒込へも市内電車が通じたさうですななどと云つてゐるが、少したつと對手には全然無頓着で、饒舌りたい丈根氣よく饒舌つて行く。殊にこの男は忌々しさうに、「老皮嚢」のかげ口をよく云つた。

 「うちの婆あのやうな奴にかゝつちやあ、たまりませんや。手前さへよければ、人はどうでもいいつて云ふやうな奴ですからね。」

 まるで水を汲まされてゐる時とは、別人のやうな口吻である。その時自分はよく亭主の顏に、卑しい、しかも狡猾さうな侮蔑の表情の浮ぶのを見た。さうしてこの駄辯家の亭主が、老妻の頤使に甘んじながら、肚の底ではその老妻を莫迦にしてゐる事を知つた。

 すると或日の午前、自分が何時もの通り空気枕の上へ頭をのせて、持つて來た書物を讀んでゐると、階下(した)で亭主が「老皮嚢」と、何か言合つてゐる聲がした。勿論自分は憐むべき亭主の平生を知つてゐるから、又何か餘計な事をして、上さんに油を取られてゐるのに違ひないと思つてゐた。すると、暫くたつてから、急にどたばた取組合ひが、始まつたやうな音がしたと思ふと、何時になく亭主が一調子張上げて、惡態をつく聲が聞えた。それからどつちかが何かで一方を打つたらしい音がした。自分は彼是五分ばかり、半分頭をもちあげたまま、階(した)下の容子を窺つてゐたが、あまり騷ぎが大きいので、そつと梯子の中段まで下りて見ると、もう隣りの軍鷄屋の親方が來て手と頭とを振り立てながら、しきりに兩方を宥めてゐる。唯意外に思つたのは、打たれたのが強い「老皮嚢」の方で、その時もまだ入口の土間へ跣足でしよんぼり佇んだまゝ帷子の袂に顏をかくして、娘のやうにしくしく泣いてゐた。自分があの尊大な「老皮嚢」を可哀さうに思つたのは、この時が正に始である。

 それから二階へ引き返して、又本を讀んでゐると、やがて亭主が莨盆と將棋盤とを兩手に持ちながら、恬然と猿梯子を上つて來た。折角養生にやつて來たのに、本ばかり讀んでゐたのでは、毒になるに違ひないから、一つ將棋でもおさしなさいと云ふのである。自分は今この亭主と、將棋をさすと云ふ事が、階下に泣いてゐた老妻の爲に、何故かある善行をしてやるやうな心もちがした。そこで何も知らないやうに、さしたくもない將棋を二番さした。亭主は見慣れない鉈豆の煙管で、悠々と莨をのみながら、時々お手はなどと云つてゐたが、それでも流石に落着いてはゐられないやうな調子だつた。將棋は、二番とも飛車取王手で、造作なく自分が勝つてしまつた。

 その日の午後海水浴に行くので、芋畑の中の干物棹にかけて置いた猿股をとりに行くと、上さんが縁側に腰をかけながら、軍鷄屋の親方と話してゐた。亭主は留守の容子である。猿股は紐が絡んでゐるから、ほどくのに中々手間がとれる。その間に自分は「老皮嚢」が、親方に喧嘩の顛末を話してゐるのが耳にはひつた。何でも亭主がこの間から洗つておけと云つた梅干の瓶を洗はずにゐたものだから、とうとう亭主が腹を立てたのださうである。親方はお上さんの話を聞きながら、そのあひ間に兎角亭主が亂暴すぎるのを攻撃してゐた。

 「何だつてお前、煙管の羅宇が折れる程、人を毆ると云ふ法があるもんぢやねえ。」

 すると、不思議にも「老皮嚢」は、反つて熱心に、彼女を打つた亭主の立場を辯護し始めた。うちのお爺さんは昔から弱い者にはやさしいが、強い者には意地になつて、楯をつくと云ふ癖がある。それを承知で強く出たのは、私の方が惡かつた。その外にお爺さんはこれと云つて、惡氣なぞある人ではない。――自分は又この老妻が可哀さうに感じられた。「老皮嚢」は亭主を頤使しながら、しかもその亭主を肚の底ではちやんといとしんでゐるのである。自分は頤使に甘んじながら、内心上さんを輕蔑してゐる亭主の事を考へた。さうして、前とは全く逆な意味で、夫婦と云ふものは妙なものだと思つた。

 その翌日は亭主が又、手のある莨盆をぶらさげて、例の通り二階へ上つて來た。今度は自分で、昨日やつた夫婦喧嘩の話をしに來たのである。

 「時時こらしてやらないと、つけ上りやあがるんでね、始末におへない婆あです。」

 亭主は、話の續きとして、今のお上さんには子がないと云ふ事、先妻の子は銀座の時計屋で番頭をしてゐると云ふ事、老より二人の生活費はその仕送りから出ると云ふ事を話した。その時自分の同情は、ひとり「老皮嚢」に向つて動いたばかりではない。かう云ふ下等な親父を養ふ爲にせつせと働いてゐる息子にさへ、氣の毒な心もちがした位である。

 しかし四五日たつてから、又亭主がいつもの樣に、晒木綿の繻袢一枚で、風呂へ水を汲んでゐるのを見ると、自分は「老皮嚢」に同情したのが多少莫迦げてゐるやうな氣にもなつた。

 亭主が好んで話題にするのは、宮内省の内情と華族仲間の生活とだつた。しかもそれを聽き手から、或程度の尊敬を當然拂つて貰ふつもりで、あひ間あひ間に人の顏を見ながら、得意らしく話すのである。自分は亭主の駄辯の中でも、これに一番まゐらされた。しかし又或點ではこれが自分の好奇心を挑撥する事もないではなかつた。一體かう云ふ話をするこの男は、東京では何を商賣にしてゐたらうと思つたからである。自分はさう思ふ度に、あの「老皮嚢」が着用してゐる、帷子の紋附きを眼に浮べた。けれども勿論それだけでは、確な推測を下しやうもない。亭主自身は、何時でも面と向つて御商賣は何ですと訊かれると、いやはや、どうも御話にもならないやうな事をしてゐましたとか何とか云ふ丈で、それ以上は此方で何と云つても、きつと話をそらしてしまふ。尤も一つには不快な方が、好奇心よりも強いものだから、自分も大抵それよりは立入つて訊(き)かうともしなかつた。

 所が自分の滯在も終りに近くなつた或日、亭主は豆畠と芋畠との間へ、二枚續きの蓆を敷いて、その上へ絹帽子(シルクハツト)を幾つもならべて、土用干をし始めた。絹帽子の數は勘定すると、丁度みんなで十一ある。自分は二階のてすりによりかゝつて、黄色い豆の葉と暗い緑色の芋の葉との中に、合計十一個の絹帽子(シルクハツト)が、土用の日の光に照らされながら、油を塗つたやうに光つてゐるのを見ると、思はず笑はずにはゐられなかつた。しかも亭主は猫背を屈めて、蓆のまはりを歩きながら、時々絹帽子の一つをとつては、わざわざ頭へのせて見てゐる。もし自分が亭主の饒舌をさほど不快に思はなかつたら、恐らく自分は階下へ下りて、亭主と一しよにその絹帽子を頭にのせて見たかも知れない。

 しかしその又一方では、何故この亭主が十一の絹帽子を持つてゐるか、それが自分は知りたかつた。そこでこの頃割合に好意を持つてゐる「老皮嚢」が、晩飯の膳を持つて來た時に、なる可く當らずさはらずに、亭主の商賣を尋ねて見た。すると、

 「なにあなた、駁者をして居りましたのさ」と云ふ答があつた。

 自分は落語の落ちを聞いた時のやうな、可笑しさをこらへなければならなかつた。駁者と云ふ單語一つで、帷子の紋附きと華族と宮内省と絹帽子との間に、今まで摸索して得なかつた連絡が、訣なく出來上つてしまつたからである。

 それから二三日の間曇天がつゞいた。さうして、その頃から海水浴場には、だんだん海月(くらげ)が多くなつた。泳ぎさへすれば、必刺される。刺された痕が自分は又、亞鉛軟膏をつけても癒らない。そこで愈、東京へ引上げる事に決心した。道化(バフウン)じみた亭主の顏を見なくなるだけでも惡くはない。――さう思ふと、俗惡な仕事が待つてゐる殘暑の東京へ歸るのさへ、可成うれしい心もちがした。

 愈、歸ると云ふ一日前に、ちやんと荷造りをすませてから、自分はS――にゐる友だちの家へ、暇乞ひに行く事にした。階下(した)では亭主も上さんも、今日はめづらしく日が出たから、虫干のあと片づけに忙しい。梯子を下りると、縁側にならべたフロツクコオトに目がついた。これも、絹帽子と同じやうに、駁者をしてゐた頃の紀念であらう。自分は事によると今夜は、泊(とま)るかもしれないと云つて宿を出た。

 友だちの家に一晩厄介になつて、翌朝海岸の砂濱を獨りで歸つて來たのは、丁度五時少しすぎであつた。N――S――間を連絡する乘合馬車の時間の都合で、朝早く宿へ歸つてゐる必要があつたからである。空を見ると昨日とはちがつて、一面にどんより曇つてゐる。海にも今日は靑い色が見えない。唯一面に見渡す限り、緑がかつた灰色の波が、退屈さうな呟きを送つてゐる。自分は爪先へ眼をやりながら、大股にすたすた歩いて來た。

 しばらくしてふと顏を上げると、五六間向うの砂の上に、一人の男が立つてゐる。絹帽子をかぶつて、フロツクコオトを着た、脊の低い、猫背の男である。男は鋏(がさみ)を立てたやうに、唯一人まつすぐに佇んだ儘、灰汁のやうな海を眺めてゐる。氣がつくと自分は何時の間にか、宿の前の砂濱に來てゐたのである。

 自分は默つて、亭主に近づいた。

 「お早う。」

 亭主は、何時になく口數を少く、自分の「お早う」に返事をした。

 「大へん立派ななりをしてゐますね。」

 「へえ、なに、昔こんな物をきた事があるもんですから。」

 亭主はフロツクコオトに絹帽子をかぶつて、自分に遇ふと云ふ芝居じみた事を少しも恥しいとは思つてゐないらしい。自分も亦この間だけは、この卑しい亭主に對する、何時もの反感を忘れてゐた。それ程この時の亭主の顏は、ふだんの卑しい、狡猾さうな表情を失つてゐたのである。自分たちは一列の黍がそよりともせずに立つてゐる、なぞへな崖を後にして、並びながら海を見た。徒に疲勞のみ多い、日常生活のやうに退屈な、曇つてゐる海を見た。さうして――別れた。

 それぎり自分はまだ一度も、この亭主と「老皮嚢」とに顏を合せた事がない。夏毎にS――の海岸を記憶にばかり浮べるのが、もう三年あまりになる。何故亭主が、さう云ふなりをして、獨り海岸に立つてゐたか、何故その時それが自分を動したか、それは自分の知る所ではない。唯自分は偶然が、たとひ短い時間だけでも、あの下等な亭主に對して、不可解な同情を抱かせた事を感謝したいと思ふのである。

(大正五年-同十年補筆)

■やぶちゃん注

・「その頃自分は、S――と云ふ海水浴場のある町から二三町はなれた、或素人家に宿をとつてゐた」芥川龍之介満21歳の大正2(1913)年、7月1日に第一高等学校一部乙類を卒業(既に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学が決まっていた)、8月6日から約2週間、同月22日まで、静岡県安倍郡富士見村(現在、静岡県静岡市清水区北矢部町)に避暑静養に出かけた(「S」は清水の頭文字か)。但し、宿泊地は本作とは異なり、新定院という臨済宗の寺院であったし、更にこの間、最低でも一週間は友人の西川英二郎と一緒であったとも推測されている。ここは、前年にここに滞在した一高の友人――本文の「S――にゐる友だち」のモデルの可能性が高いか――による紹介であったらしい。参考にした鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(1992年河出書房新社刊)のコラム『新定院での二週間』によれば、この寺の住職は『サイダーも知らない超俗の人』であったとあり、当地での芥川の生活を以下のように描写されている(『帰園田居』の詩題には「園田の居に帰る」の訓点が施されているが省略した)。

 《引用開始》

 目的は読書と体力づくりでだいたい日課は次のようであった。

 朝六時に起きて床をあげ、掃除をして朝食。それから読書。昼食後に昼寝をするか、新聞を読む。新聞は『国民新聞』で、連載中の鈴木吉の「桑の実」を愛読していた。

 時計が一時をうつと手拭をさげ、帽子をかぶって江尻の海岸まで泳ぎに行く。寺からは約二キロ。海岸は見晴らしは余りよくはないし、設備も鎌倉や鵠沼には劣るが、ここには「靴をはいて泳ぐ」ようなものはいなかった。

 泳ぎ疲れると熱い砂の上に寝て海の声を聞きながら心地よくうとうととする。

 日が傾くと手拭とパンツをぶらさげて帰り、トウモロコシ畑で行水して、夕食となる。夕方の散歩に出かけ、高山樗牛の墓のある龍華寺や鉄舟寺へ寄ったり、清水の町へ出かけたりする。そして畑の道を歩くときには陶淵明の「帰園田居」の一節を口ずさんだりして「田園詩の気分」を満喫する、というものであった。

 《引用終了》

以下、滞在中の読書傾向として、洋書のほか、森鷗外の短編集『分身』『走馬灯』『意地』『十人十話』が面白いと感じ、特に歴史小説集『意地』を「何度もよみかへし候」と書簡で記している、とある。完全なモデル小説ではないものの、本作の映像的リアルさは、ここでの何らかの実体験や聴聞によるものであることは間違いないものと思われる。ビジネス・ホテル「玉川楼(リバーサイドイン玉川)」HP「芥川龍之介のこと」に、田口英爾氏の2002年(と思われる)930日附『静岡新聞』掲載「芥川龍之介と清水」の記事によれば、芥川は『明治42年の春、龍之介は高山樗牛の墓のある竜華寺に訪れたこと。そこで龍之介は竜華寺の風情をみて夏目漱石の「草枕」の一節を思い出したこと。龍之介が一高から東大に進む年の夏、北矢部の新定院に逗留したこと』(記号の一部を変更、脱字と思われる「節」を「一節」に直した)が書かれており、芥川はこの新定院の住職と意気投合、『和尚と本堂の廊下に一緒に座り、蚊を追いながら和尚の雲水時代の話を聞いたこと。近所の子供たちと一緒に海水浴に行ったこと。新定院には17日間逗留して、その逗留中出した書簡が8通あって、その中には、当時の清水の風景、富士見橋や湊橋、巴川、江尻の町、軽便鉄道、美普教会の尖った塔などが描かれている一節があること』などが記載されているとのことである。「停車場のあるN」は若しかすると東海道本線下りの清水駅の次の草薙駅のことを指しているのかも知れない。

・「なぞへな崖」斜面の崖の意。ここでは海浜の海岸に向かって相応な坂になった部分を指している。

・「おばこ」結髪の一種。おばこ結び。幕末の江戸に起こり、明治期にかけて結われた主婦の髪型の一つ。参照した理容業の方のHP「髪いじり」の「おばこ結び」(イラスト有り)によれば、『髻の毛をひとねじりして右回りに髪を前の方へ撓め(たわめ)(ちょうど片外しを作るときのごとく)一回転して、髪先を根の周囲にぐるぐると蛇のとぐろを巻く様に巻き上げ、根に笄(こうがい)「また中挿し」をさして輪の上に出して留める。一名遣手(つかいて)結びともいった』とある。

・「老皮嚢」全集類聚版脚注には、これを中国語とし、『老皮袋と同じ。老いた人の身体。』と注する。但し、この文字列は何れも現在の中文では一般的なそのような謂いではないように思われる。

・「帷子」これは「かたびら」と読み、裏をつけないひとえものの中で、生絹や麻布で仕立ててある、夏に着る着物のことを言う。

・「剋してゐさうな」支配しているような。従わしめているような。打ち負かしているような。

・「猿梯子」ごく一般的なはしごのこと。手足を猿のように動かして登ることから。

・「頤使」これは「頤指」とも書き、「いし」と読む。文字通り、人を顎(あご)で指図すような高慢な態度で使役することを言う。

・「恬然」物事に拘りを持たずに平然としているさま。

・「亞鉛軟膏」亜鉛華(あえんか)軟膏。亜鉛華(酸化亜鉛)を1020%含有する軟膏で、湿疹などの皮膚疾患に用いる。

・「道化(バフウン)」“bouffon”。フランス語で「道化役者」。発音は「ボゥフォン」という表記音に近い。

 

■絹帽子(シルクハツト) 別稿

 

[やぶちゃん注:底本では先の本文を未定稿『Ⅰ―a』とし、以下を未定稿『Ⅰ―b』として全体二字下げで表示されている。底本にある原稿の改頁記号は省略した。但し、文末の断ち切れている「のみならず」で無理なく接合出来る箇所が本文にはないことから、この原稿はまだ続きがあることを推測させる。何れにせよ、この改稿版の方が、本来の元原稿に比べ、筋運びに無理がなく、映像もより鮮明になっている。]

 

層圓くして、時々「御手は」などと云つてゐたが、さすがに何處か落着かない、そはそはした所を隱せなかつた。將棋は二番とも飛車取王手で、造作なく自分が勝つてしまつた。

 その日の暮方、自分は郵便切手を買ふべく、向うの荒物屋の店へ行つた。すると其處には老皮嚢が泰然と上り框に腰をかけて、今朝の喧嘩の一條を荒物屋の亭主に話してゐた。何でも喧嘩の原因は、亭主が洗つて置けと云ひつけた、梅干の壺を二つとも洗つて置かなかつたとかにあるらしかつた。人の好ささうな荒物屋の亭主は、上さんの話を聞きながら、頻に彼女の喧嘩の相手が亂暴すぎる事を攻撃した。

 「何だつて御前、煙草盆で人を歐ると云ふ法があるもんぢやねえ。」

所が不思議にも上さんは、亭主の攻撃が始まると、反つて辯護の位置に立ち勝ちであつた。

 「何、うちの御爺さんは昔から勝氣なんだよ。弱いものには優しいけれど、強いものには何時でも楯をつくのさ。」

自分は蟹の多い往來の薄明りを踏んで歸りながら、愈上さんに好意を持つやうになつた。少くともその頤使に甘んじながら、暗に老皮嚢を侮蔑してゐる、あの能辯な亭主よりどの位上等だか知れないと思つた。

 その翌日亭主は又煙草盆を下げて、のこのこ離れ座敷へやつて來た。今度は彼自身、昨日の喧嘩の話を披露しに足を運んだのであつた。

 「時々懲らしてやらねえと、つけ上りやがるんでね、始末に了へねえ婆でがす。」

彼は得々とこんな氣焰を擧げた後、今の上さんには子がない事、先妻の息子は横濱の或時計屋へ奉公してゐる事、老人夫婦の生活費は大部分その仕送りによつてゐる事などを話した。自分はやはり佛頂面をした儘、返事も碌々しずにゐた。獨り老皮嚢ばかりでなく、こんな俗惡な親父を養ふ爲に、せつせと働いてゐる息子の事を思ふと、氣の毒な氣さへしないではなかつた。

 が、二三日經つて見ると、亭主は又何時もの通り、晒し木棉の繻袢一つで、せつせと風呂の水を汲み始めた。その憫然な姿を見ると、自分は上さんに同情したのが、多少莫迦げてゐたやうな心もちになつた。しかし亭主の薄唇が、のべつ幕なしに動く所は、やはり下等で堪らなかつた。殊に彼が上流社會の話から、宮内省の事情などをしやべり出す時は、下等以上に不快であつた。亭主はさう云ふ話になると、當然或程度の尊敬を聽き手から期待する心算だと見えて、合ひ間々々には自分の顏を得意らしく眺めたりした。その癖「何故宮内省の事情なぞ知つてゐるんです」と云つても、彼は妙な苦笑を洩らしながら、「いやもう、御話にもならねえ商賣をしてゐた代りにね」と答へるだけで、決してそれ以上の事は明さなかつた。

 自分は亭主が歸つた後、ぼんやり明き地の鳳仙花や鬼灯へ眼を漂はせながら、一體あの老爺は若い時に、何商賣をしてゐたのだらうと、想像を逞くする事が時々あつた。すると老皮嚢がよく着用してゐる、古風な紋附きの帷子が、その度に自分の心に浮んだ。しかしそれだけでは想像以外に、格別確な推測を進ませる根據にもならなかつた。その上一つには不快の方が、好奇心よりも更に強かつたから、自分は更に立入つて、尋ねようと云ふ氣にもならずにゐた。

 所が暦の秋に入る頃、亭主は空き地へ蓆を敷いて、土用干を始める心算か、その上に古い絹帽子を十ばかり並べて立てた。絹帽子は殘暑の日の光に、所々消え殘つた往年の光澤を仄かせながら、白い鳳仙花や靑い鬼灯と、不思議な調和を作つてゐた。自分は例の如く寐ころんだ儘、折々讀書の眼を擧げて、この多くの絹帽子を眺めた。勿論亭主がどう云ふ譯でこんなに絹帽子を持つてゐるのか、その邊は皆目わからなかつた。が、さう云ふ疑問と一しよに、何となく滑稽な心もちもした。亭主は何度も明き地へ出て、絹帽子の上へ止まらうとする、鹽辛蜻蛉を追ひ拂ひなどした。時々は又叮嚀に、その絹帽子を頭の上へ頂いて見る事もあつた。自分はしかし見ないふりをして、何とも言葉をかけなかつた。

 その翌日は母屋の椽側に、羊羹色のフロツク・コオトが何着となく並べられた。自分はとうとう、亭主の商賣を知らないでは氣がすまなくなつた。そこで夕方上さんが、膳を離れ座敷に運んで來た時、早速この疑問を持ち出して見た。すると存外飽つ氣なく、

 「何、あなた、駁者をして居りましたのさ」と云ふ答があつた。

 自分は落語の落ちを聞いた時のやうな、可笑しさを堪へずにはゐられなかつた。實際駁者と云ふ單語さへあれば、今まで謎だと思はれたものは、皆苦もなく解けるのであつた。老皮嚢はそれから自慢らしく、亭主が何とかの宮殿下の厩を預つてゐた事や、駁者仲間では彼を呼ぶのに先生の稱を以てする事や、彼等が夫婦になつたのも、彼女が長らく奉公してゐた何とか子爵の御聲がかりだつた事や、――その外まだいろいろの事を、何時になく氣輕に話してくれた。自分は鯵の煮びたしを突つきながら、この老妻の愛すべき囘舊談に快く耳を傾けてゐた。が、その間もやはり微笑だけは、どうしても洩らさずにはゐられなかつた。

 その後二三日の間、曇天が續いた。さうして冷たい潮と共に、海には海月が多くなつて來た。自分は東京へ歸りたくなつた。

 愈明日歸るとなつた時、自分は鞄の始末をしてから、一ケ月分の宿料の外に、多少の志を持つて、母屋へ行つた。亭主は何處かへ行つたと見えて、母屋の茶の間には老皮嚢が、たつた一人仕事をしてゐた。上さんは茶をすすめながら、疊の上の紙包みの禮を、昔風に長々と繰返した。殆一夏座敷を借りてゐても、自分はまだこの母屋の茶の間へ、坐りこんだ事は一度もなかつた。しかし今此處に尻を据ゑて見ると、成程亭主の駁者趣味は、馬の石版畫を硝子に嵌めた鴨居の額にも明かであつた。のみならず