[やぶちゃん注:以下の詩及びそれに付随する文章は、昭和五十五(1980)年刊人文書院刊「定本 伊東靜雄全集」の「詩」以外の「散文」「日記」「書簡」部分に現れた、韻文とそれに関わる文章と認め得ると私が判断したものを集めた。基本的に、日記は該当韻文を含む当日分全部、書簡は該当韻文を含む該当書簡全文を所収した。適宜、年譜上の情報を絡めた補注を付けた。補注では昭和四十六(1971)年新潮社刊 小高根二郎著「詩人伊東靜雄」等を参考にした。]
□「散文」より
★[やぶちゃん注:この「★」が見出しである。]
庄野君の書いた文章が、「雪・ほたる」と題して、最初にこの「まほろば」に載るのは喜ばしい。君が一番敬愛してゐる友人らの雜誌だから。
君は九州の大學の途中から最近海軍には入つた。「雪・ほたる」は同窓の友を海軍におくる文章だが、自身も亦急に入隊することになつた。大阪の自宅で、出發前のしばらくの間に書いた。原稿で私も見せて貰つて、これまでに君が書いたもので一番いいものだと思つた。さう言ふと君も大へんうれしさうであつた。ただ私だけでなく、「まほろば」の友人達も皆愛讀してくれることをわたしは願つてゐる。君と私とはそんな風の友人である。
最初に文章を雜誌に出すといふことは、色々楽しくもまた氣がかりでもあるだらう。まして、今は直接友人らの批評や感想を聞けないところにゐるのだから、一層だらう。
先夜君の歓送會に出て後で私は次のやうな詩を書いた。(それは新女苑といふ雜誌に出したが、その後數ケ所、重要な訂正をしたのでここにのせて貰ふのである。)
うたげ
神にささげてさてのむ御酒(みき)に
われらゑひたり
二めぐり三めぐり
軍立(いくさだち)すがしき友をみてのめば
はやもゆたかに
われらゑひにけり、
座にあるひとりの老叟(をぢ)
わが友の眉をいだきて
ゑみこぼれいふ言(こと)は
「かくもよき
賴もしきをの子に
あなあはれ
あなあはれ美しき妻も得させで……」
われら皆共にわらへば
わが友の眉羞ぢらひて
うたひ出(づ)るふる歌ひとつ
「ますらをの
屍(かばね)草むすあらのらに
咲きこそ匂へ
やまとなでしこ」
さはやけき心かよひの
またひとしきりわらひさざめき
のむ御酒(みき)や
門出(かなとで)をうながす聲を
きくまでは
(『まほろば』昭和十九年三月號)
[やぶちゃん注:冒頭の「庄野君」は小説家、庄野潤三。「雪・ほたる」は彼の処女作である。『まほろば』は林富士馬の戦中の同人誌。]
[やぶちゃん注:以下の詩は底本全集の「散文」の最後に「雜」として集められたものである。便宜上、「※」を付して、コアを示した。]
琴は語る菊は頷づく籬かな
かかる夜の幾夜なりけむ
遊學の日近しと聞きて
昭和十六年除夜 伊東靜雄
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、これは庄野潤三所蔵の詩集『夏花』の扉に墨書されたもの。「頷づく」は「うなづく」。この昭和十六(1931)年の一月、靜雄は『四季』同人となっている。]
※
君によりて相會へたり
一舊友と遠く行く友
静雄
雨ありて
よき夜なり
しか
静雄
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、友人富士正晴が勤務していた七丈書院の招待で、東北大学に赴任することとなった桑原武夫(靜雄の大学の後輩に当たる友人。後の靜雄と三好達治との確執の、仲介役ともなった)の送別会が京都北野神社境内の北野茶寮で催された。その際の、寄書の中にみとめられたもので、「君」は富士を、「一舊友」は大山定一を、「遠く行く友」は桑原を指すとある。桑原は昭和十八(1943)年、東北帝国大学法文学部助教授に就任している。]
※
手にふるゝ花摘みゆき
わがこゝろなほかり
静雄
昭和十九年五月十七日 いよいよ
君大陸に出でゆかむ別すと
大阪に歸り來し日偶ゝ三島君
と共に訪ふことを得て
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、富士正晴のために書かれたもので、「君大陸に」の「君」は富士を指し、「三島君」とあるのは三島由紀夫を指す。以下、日記より引用する。
十七日 學校に電話かかつて、二時頃平岡公威來る。その前富士正明〔正晴の異名〕いよいよ大陸(中支)に出征するといふので休暇貰つて歸つたといつて學校に來る。大へん肥えてゐて、かねがねその健康を危ぶんでゐたので驚いた。平岡と一緒に富士を訪問、晩めしの馳走になる。富士の妻君來る。朝早くついたのに奧さんが來たのが七時頃、家の者が(妻君の。妻君は目下別居中とのこと)知らせてくれるのがおくれたのだと云つて何とも云へぬ悲しい、辨解の餘地がないと云つたやうな哀れな表情で挨拶する。富士は「おれは戰爭に行くんやで」と大きな聲で云つただけで千代紙を切つてゐた。平岡の本の裝幀の圖案である。座にゐた妹は何とも口をきかぬ。妻君も何とも云はずに下に行つた。やがて母が、乾物取入れに二階に上がると、自分も上がつて來て、竿の端を持つてゐた。下ではどんな表情をしてゐるのであらうと思ふ。富士君の家に行つた時先づ最初に「奧さんは」と自分がきいたら「別れるんです」「何故」「僕が大切にしてゐたハッピや筆(だつたと思ふ)(紙だつたかも知れん)を勝手に里に持つてかへつてゐるんですからね」とただそれだけ言つた。妹が二人、弟が一人。(その下の妹が妻君の學校友達で、それでまとまつた縁である)。それに母に當る人がまだ若く、大へんな働き手。いろんな事情があるのだろう。
十一時頃平岡と北畠で別れる。夜ねぐるしい、二時頃までねむれぬ。
日記本文中の、〔 〕表記は底本編者の注。三島の来訪は作品集『花ざかりの森』の序文を私淑する靜雄に依頼するためであった(文中、富士の「本の裝幀の圖案」というのもそれで、富士はこの本の出版に尽力した。但し、実際の装丁者は徳川義恭)。当時、三島は十六歳、学習院中等科学生であった。しかし、再三の三島の懇請にも、靜雄は首を縦に振らなかった。日記には、同月二十二日の条に「學校に三時頃平岡來る。夕食を出す。凡人。」と記し、二十八日の条には「平岡から手紙、面白くない。背のびした無理な文章。」とそっけない。]
※
君はよく力めた
そしてその仕合せな報いを
味つた
しかしいつもかういくだらうか
それは誰にもわかりはしない
ただわれらが生涯は
力め力めるより他に仕方は
ないのだ
よし縦令うまくいかうと
いくまいと
静雄
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、昭和二十(1945)年の秋に、教え子の吉村弘が非常な努力をして伊東の母校である佐賀高等学校の入学試験に合格した時に、書いて与えた色紙の詩。]
※
これが枇杷の實か
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、伊東が京都大学の学生時代、小中学校時代の一年後輩で同志社高等商業の学生であった市川一郎らと句会を催し、「枇杷」の季題で伊東が詠んだ句。]
※
あゝ雲の何處かで弓弦の切れる音がする
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、昭和五(1930)年十二月十三日、熊野神社の森枡楼に於ける西鶴輪読会の忘年句会で詠んだ句。この年の五月、住吉中学校嘱託から教諭に任ぜられ、また、福田清人や蒲池歡一が始めた同人誌『明暗』に参加している。]
※
わかくさのわかき心がみたりける
ゆめなつかしきみがありなれ
[やぶちゃん注:底本全集の編註によると、則武三雄が昭和十七(1933)年五月私版「鴨緑江」を発行して伊東に贈呈した時に貰った歌。「ありなれ」は鴨緑江の異名とある。ちなみに、この異名(古名)は、「日本書紀」の巻九、神宮皇后摂政前紀の仲哀天皇九年十月の記事に登場する新羅王の言葉にある、「阿利那礼河」からついたようであるが、最近では新羅の国都慶州付近の北川、古名閼(アリナル)川とする説が有力である。]
□「日記」より
[やぶちゃん注:便宜上、「※」を付して、コアを示した。]
昭和十四(1939)年九月二日
二日 昨夜熱き風呂に入つたため、かなり頭清爽を覺える。
永い永い夏
中庭は白く乾ききつてゐる
おれの洋服の紺色も燒けた
あゝ 永かつた夏
鬱々と黒ずんだ木々だけが
相かはらずゆれてゐる
子供らの聲は遠くまで透り
何か考へねばならぬことが
おれにはあるやうな氣がする
しづかに後頭部がいたむ
あゝ北輕井澤の人の丈を越えた
高原の夏草
おれは永く我慢をした
いろんなことを
そして家でも苦しかつた
木崎の湖のほとりを
走つた自動車
おれはまだゆれてゐるのを覺える
あゝ永かつた夏
午後宿泊訓練のため學校に殘る。勞働はわが心をつつましくする。しかし身體の疲勞は堪へられぬ。左足神經氣味なり。
※
昭和十四(1939)年九月十九日
十九日 昨日よりやや爽涼、齒醫者で五時に寒暖計みたら二十七度、先達中三十二、三度あつたのだ。今日いよいよ爽快、久し振り身體がしつとり感じ、皮膚がしづかに呼吸するをおぼゆる。美しし詩が書きたい。
永い永い夏
わが服の紺色あせ
人生と和解出來ぬ男
そんなにみつむるな若い友、ふかい瞳に自然が與へる暗示は、それがいかに光耀にみちてゐるものであつても、つまるところ(それは)悲しみだ。自然は、變化だからだ、そして又僕らも欒化。
そんなにみつむるな若い友、自らを停めることによつて、自然へのまどはしの暗示をうくるな、歩きつつ道の花をつめ、多樣のよろこびにほほゑめ、ほほゑみは、自然と汝とを支へる唯一つのものだ。
ほほゑみは受けることと與へることとの調和だ。
風と光の中に身を粉々にせよ、自ら持するところあるな。
詩を釣る勿れ。
※
昭和十六(1941)年四月十一日
十一日 疲勞甚し。酒欲し。
をさながくれし草の花
きい花 白花 名はしらず
「あゝくら」と まみをひそめて
わがをさない(き)ものは へやにいりくる
あゝくら と へやにいりくる
わがをさなきものは(の) まみひそみたり
ひとはむかしのひとにして
「あゝくら」と へやにいりくる
わがをさなきものをみれば
そのまみ ひそめたり
あゝくらと まみをほそめて をさなきものの しつにいりくる
いつのまに くれししつない(くらきつくゑのあたり) のはいまだ
あゝくらと めほそめて をさなきものの しつ-に―いりくる
いつのまに―くれし つくゑのほとり のはいまだひかりありてや
ひとりつみて來し くさ
夏の庭
ひとやむかしのひとにして
ひらめきいづる朝の雲
池に眠むれる鯉のかげ
薔薇はさきつぎ
われやむかしのわれならず
ひとはむかしのひとにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる魚のかげ
われはむかしのわれならず
[やぶちゃん注:文中の( )表記については、底本全集に凡例も注記もない。靜雄自身による括弧表記ととるしかない。この一月に、靜雄は『四季』同人となっている。]
※
昭和十七(1942)年一月二十四日
二十四日土曜 午後四時頃より阪急ホテル別館に田中克己君を訪問。同君は徴用令にて、南方出發前を同ホテルに宿泊中なり。此度徴用せられし人々中われの知る者は、外に神保光太郎、北川冬彦らなり。ビルマへ派せらるると云へど確かならず。立野利男君も來る。後に田中繁君も來る。田中君よく喋る。同君の手帖に
神人が虚空にひかりみしといふ
みんなみのいくさ
きみもみにゆく
といふ歌一首かきておくる。神人云々は同君の詩句をとれる也。
その前に二時頃より生徒津田を見舞ふ。三月迄は静養し、原級にとどまることにきむ。
[やぶちゃん注:田中克己は『コギト』の詩人。靜雄は彼をライバル視した。歌に関わる田中繁については不詳。]
※
昭和十七(1942)年一月二十七日
二十七日 二日程前より風邪にて臥床中なりしまき子熱ひきしが、身體いまだだるげなり。われも氣分わるし、早くいぬ。
みささぎにふるはるのゆき 以下詩なかなか成らず。
學校のかへり東驛によりてりつの紛失荷物のこと問ひただす。
みささぎにふる春のゆきえだ透きてあかるき
木々につもるともえせぬけはひはまなこ閉ぢ
百ゐるとりのはねに消えかつは消ゆらむ
ながめゐしわれのおもひに下草のしめりも
かすかはるこむとふるけさの雪
みささぎにふる春のゆき
えだ透きてあかるき樹々に
つもるともえせぬけはひは
まなこ閉ぢももゐる鳥の
はねにきえかつは消ゆらむ
ながめゐしわれのおもひや
下草のしめりもかすか
はる來むとふるけさの雪
春の雪
みささぎにふる春のゆき
枝透きてあかるき樹々に
つもるともえせぬけはひは
まなこ閉ぢももゐる鳥の
はねにきえかつは消ゆらむ
ながめゐしわれのおもひや
下草のしめりもかすか
春來むとふるけさの雪
〔自校防護(昭和十七年度)としてその人員組織表あり。略〕
偶感
かげぐさの なもなきはなに なをいひし
むかしのひとの あはれをぞ おもふ
[やぶちゃん注:文中の〔 〕内は、底本全集編者による。ちなみに靜雄は、この後の同年三月、「春の雪」を雑誌『文藝文化』に発表し、五月には詩集『夏花』が第五回透谷賞を受賞する。]
※
昭和十七(1942)年七月八日
八日 爽快なる烈しき夏日 一一二度。この一學期間苦しかつた。身心ともにまいつた。しかし昨日、今日やや鎭静、詩書きたいと思ふ。ほんとにくるしかつた、いよいよどんづまりになつた氣がしてた。
ひとはむかしのひとにして
薔薇(さうび)さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
われはむかしのわれならず
われはむかしのわれにして
薔薇さきつぎ
ひらめきいづる朝の雲
池にねむれる鯉のかげ
ひとやむかしのひとならず
やはり疲れてゐる。竹のまばらにはえた明るい庭(赭土の地面)に面した縁でねたい。
ぽつと小さい音して、覆うてゐた蓋がやぶれて、情感が生のままに空氣にあたるここち、そしてしづかにあたりを見廻してつぶやいてゐる。
※
昭和十八(1943)年十二月二十六日
二十六日 今日から講習。午前中四時間、點数計算。夜は明日のまきの誕生日を祝して、赤飯、おぜんざい等する。留守中加納の祖母來る、茶、こんぶ等くれる。
花、まき、夏樹ら鍼に行つた由。夏樹それから醫者にいつたさうな、肺に痰たまつてゐるとのこと。夜濕布してやる。庄野、荒木より軍事郵便來る。
うたげ
神にささげてのむ御酒に
われらゑひたり
二めぐり三(み)めぐり
軍立(いくさだち)すがしき友をみてのめば
はやもゆたかに
われらゑひにけり
座にあるひとりの老叟(をぢ)
わが友の眉をいだきて
ゑみこぼれいふ言(こと)は
「かくもよき
賴もしきをのこに
あなあはれ
あなあはれうつくしき妻も得させで」
われら皆共にわらへば
わが友の目見(まみ)(眉)はぢらひて
うたひ出(で)しふる歌ひとつ
「ますらをの
屍(かばね)草むすあらのらに
咲きこそにほへ
やまとなでしこ」
さはやけき心かよひの
またひとしきりわらひさざめき
のむ神酒(みき)や
門出(かなとで)をうながす聲を
きくまでは
[やぶちゃん注:「わが友の目見(まみ)(眉)はぢらひて」の「(まみ)」は底本ではルビである。「(眉)」は底本表記通りで、靜雄自身による括弧表記ととるしかない。「庄野」は庄野潤三で、「荒木」は靜雄が可愛がった教え子の荒木生(せい)かと思われる。底本の年譜によれば、この年は八月に長男夏樹が誕生、九月に第三詩集『春のいそぎ』出版、十月には親友であった蓮田善明が再度の応召、西下する善明を大阪駅に迎え、新著の詩集『春のいそぎ』と、善明の著書「神韻の文学」(この序文は靜雄が執筆)を形見として交換している。蓮田善明は昭和二十(1945)年八月十九日、転戦したインドネシアのジョホールバルで敗戦を迎え、「敗戦の責は天皇にあり、日本精神は壊滅した」と訓辞した新任の聯隊長を射殺、自身も直後にピストル自決した。四十二歳であった。]
□「書簡」より
[やぶちゃん注:底本の書簡番号とその下の書簡情報を、また書簡間に※を付した。]
四 大正十五(1926)年十月二十四日
〔京都市寺町より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
美はしい秋陽が、まばゆいほど室の内にさしこんで來ます。ぼんやりねそべっ[やぶちゃん注:小文字表記。ママ。]て、煙草をふいてゐますと、ほんたうに樂な氣持です。昨夜、雨の音をききながら書きつけた日記をとり出して讀みなほしてみますと、まるでひとごとがかいてある樣な變な氣持になりました。
物に寄り泣きたき心わびしくも
我がうたたねは夜ふけにさめて、
サヤサヤに棕梠の細葉の震ひをり、
そが我が祖父の手にてあはれ。
頰にあて、そのつめたさに驚けり、
かくも冷えしか、いとほし我が手。
Konogoro ikaga okurashi desuka?
日曜日朝
[やぶちゃん注:宛名人、酒井安代は、酒井小太郎の長女。酒井小太郎は佐賀高等学校の英語教授で、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、八雲賞を受賞した秀才で、靜雄は授業を受けたことはなかったが、私淑し、この大正十五(1926)年、京都帝国大学文学部国文科に入学後も交際を続けていた。この年の七月の夏休みには、帰省の途中、姫路の酒井家に立ち寄り、酒井小太郎の娘達との交際の契機となった。この時、靜雄21歳、安代も同年であった。また、妹の百合子(17歳)とも親しくなり、底本の年譜を見ると、昭和三(1927)年頃には、百合子の方に強く惹かれるものを持つようになったようである。小高根二郎氏も「詩人 伊東靜雄」(新潮選書)でその説をとっておられる。]
※
五 大正十五(1926)年十一月二十八日
〔京都より、姫路、酒井安代宛(はがき)〕
今日は、夕方から黒谷に行きました。吉田山の裏側にあるなつかしい山中の靈場です。法然とか、親鸞とか云ふ名が、もう私からひきはなすことの出來ないなつかしいものになつてしまひました。敦盛や直實(なほざね)の墓もそこにあります。ロマンチィック[やぶちゃん注:「ィッ」小文字表記。ママ。]な氣分になつて三層の山門を仰ぐと浄土眞宗發初門と云ふ古い額がかかつてゐます。そしてその山門のあたりで、子供が無心におはじきをしてゐます。
黒谷の山門の蔭の石段で
子供が二人おはじきをしてゐる
夕まけて、誰れもおとづれない御堂の中に端坐瞑目すると私の心もおちついて來ます。
倍ありて今ぞ御帳をとざすらし
夕去ればきさびし黒谷
くらくなつた中をかへつて來ると、ああ、ああと大きなためいきが出ます。三年間のはげしい苦しみだつた、さう思ふと、自分を自分でいとしい樣な感傷がやつて來ます。
※
六 昭和二(1927)年一月-推定-
〔京都より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
安代さん。ふだんでもあんなにお忙しいのに、一時のお客さんで安代さんがどんなにお疲れになつたことであらう。それに腦貧血におなりになつたとのこと、私はしみじみとした憂欝にとらはれてしまひました。この間中私は阿呆陀羅庵に坐(ゐ)て、私なりの考へごとにふけつたりつぶやいたりしてゐました。
然し、今朝目さめぎはに枕元においてあつたあのお葉書は、殊にあの美しい物語のことは、私を充分喜ばせました。
充分静かに御草生なさいます樣。
百合子さんはもう京都なんですね。私もひどく安心しました。その心配も、私を近頃は重苦しい心持にしてゐました。ほんたうによかつた。あんなに心を勞してをられたのに。お手紙のついでがあつたら百合子さんによく云つておいて下さい。
來月の二十三日から試験が初まるので、ぼつぼつ教科書など出してみてゐます。缺席ばかりだつたので人一倍勉強せねばなりますまい。
安代さん。
今日は京都は、ほんたうにいい天氣ですよ。暖い陽が阿呆陀羅庵の障子にぽつかり枇杷の木の影をうつしてゐます。
障子を
させば
枇杷の影
これで、少しは、私の近頃の心境がおわかりになるだらうか。この室を一ケ月許り安代さんに貸して上げたいな――。
大き牛の炭引き牛よ白々と山の雪をばいただいて來る。
これはどうでせう。私のもののうちではすきなものです。
先生やおかあ樣に呉々もよろしく申して下さい。
姫路五軒邸九〇 阿呆陀羅庵の正午 伊東生
安代さん
[やぶちゃん注:底本の年譜によれば、この年の正月には諫早に帰省せず、姫路の酒井小太郎宅に逗留している。靜雄は、寺町の自分の下宿を阿呆陀羅庵と戯称した。]
※
七 昭和二(1927)年二月四日
〔京都市寺町より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
安代さん。
お手紙有難う。
あの小さい書齋で書いてをられる樣子がはつきり浮かんで來る樣です。風邪でもひかれたのですか、ほんたうに御大切になさい。風邪と云ふと、私もつい二三日前一寸やられて一日床に就いてしまひました。すべての故障には睡眠が一番いい樣です。近頃ほんたうによくねむります。一昨日あたりは夕方の六時から翌朝の八時までねつづけました。
安代さん。
世の中がひどく退くつになる樣です。淋しさはどうやら退却しましたけど、一層惡い退くつと云ふ魔物が私の胸に這ひよつて來たらしうございます。青年らしい目のかがやきも自然と曇つて行くのが自分でもわかる樣です。大欒危険な思想の變轉期に立つてゐるのですね。(こんなことは書いても何にもなりませんからや
めます。)
安代さん。あなたの上京の御希望がかなひます樣に! 又御自身の信仰にしつかりした自信が一日も早くやつて參ります樣に!(上京のことは思ひ切つて、小さいことにこだはらずに御斷行なさいませ。)
安代さんは、私が、あなたの日記を見た樣に思つてをられる樣ですが、それはあなたの誤解です。私は、決して決して見てはゐません。明かに誓ふことが出來ます。
上京の日取がきまりましたら汽車の時間を一寸お知らせ下さい。かぎやのもなかを持つて驛まで參上しますから。(これは確かに御約そくいたします。お忘れにならない樣に。)
蒲池君のことはこれ以上御心配なさらない樣に。
校友會誌のことは、そんなに御自身をお責めになつてはいけません。
私の隣にゐる哲學士も相攣らず三疊に音も立てずにこもつてゐます。一つも話したことはありません。兩方とも變な男と來てゐますから始末が惡うございます。夜一時頃になると、ドシンドシンといはせて、床を展べます、さうすると、私も、雨戸を繰つてやすみます。かういふ風な男ですよ。(よく似てゐます)〔挿繪略〕
今度のお便りの時には御面倒ながら先日の寫眞を一枚貰つて送つて下さいませんでせうか。
二伸
西洋に留學してゐる人達は、出合ふとよく喧嘩をするさうです。非常に仲のいいくせに喧嘩せずにはをられないのださうです。それを、岡田三郎と云ふ小説家は一種のノスタルジヤだと云つてゐます。なるほどと私は一人うなづいてゐます。人生と云ふものではないでせうか。
火を吹けばたのしかりけり孤居(ひとりゐ)の
さびしさもしばし忘れ居しかな
もちも燒かむコーヒーも立てむと
小さなるくはだてをもつ我となりにし
火桶得て近頃我はなまけをり
膝にかこめばうれしきかもよ。
百合子さんに、しつかり精出しておやりになる樣に申して下さい。
先生によろしく。
その内に、長い愉快なる手紙を書かうと思ひます。
安代さん。私は今夜かうして手紙を書きながら、私の手紙に一種何とも云へない物足らなさを感じます。お讀みになる安代さんもきつとそれをお感じになることでせう。この物足らなさを沒却出來たら大變愉快になれさうですけれど、私には、どうにも仕樣がありません。(夜十二時、我がらくばくの小室の圖)〔略〕
外は暗澹たる空模樣です。きつと今夜は雪になりさうです。
安代さんは、時々は例の樣に私のすきな子供らしい身ぶりをしてをられることでせうか。
靜雄拝
God be with you till we meet again
[やぶちゃん注:文中の二つの〔 〕の略の注は底本編者によるもの。最後の「私たちが再び逢えるまで、神が貴女とましますように」といった意味の英文は、実際には、縦書きの手紙の最後に、各単語ごとに横書で記されている。また、底本では二つの編註がある。それによれば、「蒲池君」は蒲池歡一。大村中学の同期生、詩人。この春に國學院大學に入学、とある。もう一つは、「私の隣にゐる哲學士」で、青木敬麿。兵庫県生まれ、第三高等学校を経て、大正十五(1926)年京都大学哲学科卒。著書に歌集『坂の上』『念佛の形而上學』がある。伊東が居たこの寺町の下宿は青木の母が経営していた。青木は、当時の伊東を、「きたない男だつた。押込みのなかにねるなどと云ふ話もきいた。ぼくらは長いことものを言はなかつた。或時歌を見せた」と懐旧している。昭和七(1932)年六月、伊東は大谷女子専門学校の職にあった青木と同人雑誌『呂』を創刊している。伊東はドイツ浪漫派は青木に啓示されたと述べている。青木敬麿は昭和十八(1943)年二月大山行きの途中、吉岡温泉で急死した、とある。]
※
一〇 昭和二(1927)年五月
〔京都市より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
安代樣
毎朝、人の起きない内に、上大路の屋敷町をぬけ、椎の木の暗い青田山を越えて、眞如堂とか黒谷とかの静かなお寺まで散歩する樣になりました。
朝の、青田山を越えながらの默想や祈念は、私の生活にいちじるしい緊張を與へて呉れます。
私が今日一日小さな感情にとらはれません樣に、
私が今日一日中樞で動いたり考へたり出來ます樣に、
そんなことを口の中でつぶやくこともあります。
安代さん。この手紙も、丁度その散歩をおへて静かに机によつて書いたものです。いつもよく來て騒ぐこの邊の子供達も未だねむつてゐるのでせう。然し、もうすぐ、窓の下の街路で聲をあげて、かけまはるでせう。それまでにと思つてこの手紙を書いてゐます。
安代さんは相變らずお忙しいことだらうと思ひます。五軒邸のことを想ひ出し、あのピアノのことを想ひ出してみると、やつぱり行つてみたい氣持になります。
近頃、私の歌も大分變つて來る樣でございます。
君が汲みしお茶をしばらく前に置き
ほほづきに似し月の出を見る
何處より集る兄等ならむ夕影の
ここの小路に聾あげ騒ぐ
やうやく一道の光を見出しかけた樣に思はれます。
百合子さんにはお手紙を上げては惡いだらうと思つて遠慮してゐます。あなたからよろしく申して下さい。
兄貴も相變らずださうです。
馬場の所には未だ行きません。何だかおつくうになつて行きたくありません。
二三日前、友達と二人で幼稚園に行きました。その男は子供達の前で童話をしたり、踊つたりしました。私はその樣子をくすぐつたい心持でながめ、先生、先生と云つて、私共に甘へかかつて來る子供達に當わくしてしまひました。もうあんな所には行くまいと思ひました。まだまだ私にはそんな資格はないらしうございます。
おかあさんも先生も、御丈夫でせうか、よろしく。
もう何度、安代さんに手紙を書いては破つてしまつたかしれません。書いてみてから、一つも私の氣に入らないのです。勿論この手紙も破つてしまはうと思ひましたが、あまり長く御無沙汰してゐることを思ひ出して、出してみる氣になりました。
五軒邸で忙しく働いてゐられる 青田にて 伊東生拝
安代樣玉机下
時計がこはれてしまひましたので、時間を知りたいと思ふ時には大學の時計臺を仰ぎに行きます。何度も何度もさうしてゐる内に、時計董に對して、生きる者に對する樣な親身な心持を感ずる樣になりました。そして、夕方とねる前には、大概時間の見當はついてゐてもわざわざ時計臺の下まで行つてみます。さうしないでは済まない心持がするのです。私は暇の多い自分の妙な興味ををかしく思つて苦笑することもあります。
今日はお晝から大文字山に登ります。
[やぶちゃん注:底本では「兄貴も相變らずださうです。」の「兄貴」に編註がある。伊東英一。昭和三(1928)年九月、三十五歳で沒、とある。また、妹の百合子への言及があるが、この時、彼女は同志社女子専門学校に入学して、構内のプリンプトン寮にいた。書簡八(五月日付不明)で路上で偶然百合子と出逢い、驚いた由の記述がある。また、この手紙に先立つ晩春、下宿を寺町から吉田に変えた。]
※
一一 昭和二(1927)年六月三日
〔京都より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
安代さん。三日夜、一時前。
もうおやすみでせう。私は明日の夕方の汽車で京都を立たうと思つて、この夜更に小さな荷を一人でこしらへてゐます。かうして、出立の用意をしてゐますと、心が一人でにしみじみとして來ます。妹に浴衣を買つて土産に持つて行きます。さぞ喜ぶことだらうと想像しますと、微笑が浮んで來ますよ。大丸から今夜求め
て來ました(少々氣まりが惡うございました)。
この手紙が安代さんの所に行く前に、私はもう姫路をとほりすぎてゐることだらうと思ふと、變に徒然ない樣な氣持になります。山口に寄つて、近所にある湯田といふ温泉で十日ばかり遊んでから家にかへらうと思つてゐます。身體が衰弱いしてゐますので、保養が第一と思はれますから。
安代さん。
相變らずお忙しいでせう。然し忙しいのがいいのですね、私ももう少し忙しかつたらと思ふことがあります。二三日風邪でねてゐました。去年の秋にあなたから送つていただいた、うがひ藥や風邪藥を、今度も机のひき出しからとり出して、なつかしい氣持で用ひました。安代さんはおぼえてゐますか、あのうがひ藥の入れてある状袋の表にはかう書いてありますよ。
クロール酸カリウム ウガヒ用
一袋を大コップ[やぶちゃん注:「ッ」の小文字表記。ママ。]一杯位にといて用ひます。 はじめ熱湯少し入れてとき、後、微温湯にします。
私がわざわざ、こんなことを思ひ出して書く氣持を安代さんはおわかりですか? 暇(ひま)人だとお笑ひ下さいますな。
先生やおかあさんは御丈夫ですか、ごぶさたばかりしてゐますから宜敷申しておいて下さい。スヰートピーが椅麗に花を持つたでせう。花屋の店先に、その名を書いた札と一緒にならべてある花を見て、お内の庭のことを思ひ出します。
日隈が泊りに來てゐます、すやすやねてゐますよ、今日は、しばらくのお別れだと云つて、夏蜜柑やリンゴを買つて來て、いろんなことを話しながら食べました。
妖のごと遠(おん)天はるかに湧く雲に
驅け入る鳥は何の鳥ぞも
病熱(ねつ)ゆゑにうつそみに湧くほとの汗を
ぬぐひて我は淋しかりけり
百合子さんにもよろしく。あれから又一度も合ひません。
山口に行つたら、大塚に山口の風景を寫生させてお送りしませう。大塚も毎日毎日待ちくらしてゐるさうです。私もゆつくり泊つて行かれるのがたのしみです。
京都に築地が來ました。昨日見に行きました。感心してかへつて來ました。
伊東生拝
安代さん机下
[やぶちゃん注:詩三行目の「病熱」は二字で「ねつ」と読ませている。編註では、「徒然ない」というのが「徒然(とぜん)ない」と読み、佐賀地方の方言で、所在ないの意、とある。また、同じ行の「ほと」の本文右側に「(ママ)」注記がある。これについて、小高根二郎氏は昭和四十六(1971)年新潮社刊「詩人伊東靜雄」で、父を敬愛する教え子である靜雄に接するに、弟に対するような好意の域を出なかった安代に対して、『靜雄の方は、いささか度がすぎた感情を露呈している。』として、この「病熱(ねつ)ゆゑにうつそみに湧くほとの汗をぬぐひて我は淋しかりけり」を引用し、その後に『ただし、この「ほと」とは、身体のどの部位に当たるかを、ごく最近まで、彼女たちが知らなかったことはさいわいだった。』と記しておられる。「築地」は劇団、築地小劇場のこと。]
※
一三 昭和二(1927)年十月十七日
〔京都市聖護院西町一元岡方より、市内寺町今出川上ル二二丁目西入ル川合方、宮本新治宛(はがき)〕
宮本さん。有難う。只今、ひめぢからかへつたばかりのところです。お葉書は大變うれしうございました。(早く試けん濟め! すめ! すんだらすぐおいで)「鼻の頭」の歌はすきです。「グリード」と「パヒニー」の歌は不可解。「人は皆」「秋の日」はいまだしい所がある樣に思ひました。姫路に行つてなんにもなつた。只歌が二首出來たばかりです。やや自信があります。
(播磨 穏(おだ)つづく山脈(なみ)彼方(おち)の空あかり
國原) やがてひそかにきゆるなりけり
(草原) 赤はだの小山の上の人二人
手に取るごとく?(話し聲きこゆ)
[やぶちゃん注:宛名人の靜雄の親友宮本新治は、編註によると、同志社高等商業学校の生徒。佐賀県人の学友を通して伊東を知り、文学上も私生活上も、もっとも深い交渉があった、とある。歌は、底本では「播磨」「國原」が大きな括弧で一緒に括られている。一首目の「彼方」はこれで「おち」と読ませている。底本の年譜によると、この年の九月に吉田から聖護院西町の離れに移し、そこを寒枇庵と名付けた。]
※
一四 昭和二(1927)年十月十九日
〔京都市聖護院元岡方より、川合方、宮本新治宛(はがき)〕
冠省。第一首、移らふ日。第二首、一時うれし。第四首、君ならぬおとづれ等今考下さればいいなと思ひました。「見えければ」の歌不可解。「見ずとこそ」の下の句やや強すぎて(名詞どめ)、作者の氣分が通じにくい。「かはらざる」の歌が一番すぐれてゐると思ひました。妄言多謝々々。(意味は充分にはわかりませんけれど讀んで大變氣持のいい歌ですね。)
おちやま くるる
はりまぬ かげる
いのる子は たれの子
[やぶちゃん注:底本では以下の文は、前の三行詩の下にポイントを落として、次のような行組で記されている。]
どんな女も女は冷めたいも
のをもつてゐるんですね。
ある男にはその冷たさが女
に對する戀情をあふり、あ
る男には戀なぞといふこと
にうんざりさせる。
[やぶちゃん注:底本では冒頭の三つの部分の下線部は波線。]
※
一六 昭和二(1927)年十一月二十三日
〔京都より、姫路、酒井安代宛(封書)〕
安代樣机下。紙がないのでこんなもので失禮いたします。
今日、學校が休みだつたので、ルソーの懺悔録を金にかへて博物館に信實の三十六歌仙を見に行きました。皆、大變感心した樣にしてゐましたが、私は、有態に云ひますと一つもわかりませんでした。仕方がないので、女子専門學校のあたりから阿彌陀峰の方をあるいて來ました。その頂に豐太公[やぶちゃん注:底本に「太公」右側に(ママ)注記あり。]の墓があるのです。恐ろしく高い石段が、のしかかる樣にしてゐる老松の間をとほつて、上に登つて行きます。田舎から來たらしいおばあさんの群がはしやいでのぼつて行きます。そばにゐる男にきくと五百五十段あると云ひます。私は煙草をふいて悠然として見上げました。上ることはよしてかへりました。かへりかけると、女専の生徒らしい女達が、じろじろみて、意識してやつてゐる樣な輕はくな笑ひ聲を立てました。人の心をひく笑ひ聲です。私はいやになつて、いそいでかへりました。うしろで又一しきり笑ひました。私はいまいましくさへなりました。
近頃私は出家になつた樣な氣持で萬葉の筆寫をしてゐます。昔の聖が、經文をうつす心持と同じだらうと思ひます。誦しても誦してもあきません。
安之比奇能 夜麻治古延牟等 須流君乎 許許呂禰毛血弖
夜須家久母奈之
(アシビキノ ヤマジコエムト スルキミヲ ココロニモチテ
ヤスケクモナシ)
[やぶちゃん注:万葉仮名は底本ではルビであるが、読みにくくなるので後ろに別掲した。「万葉集」第三七二三番歌。歌意は『山道を越えてゆこうとするあなたを思うと、私は不安で不安でたまりません』。禁男子であった斎宮寮(いつきのつかさ)の蔵司(くらつかさ)に奉仕した女官、狹野弟上娘子(さぬのおとがみのをとめ)が、中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり)と恋に陥り、宅守は越前国に流罪となった。その折、宅守の身を案じ、慟哭の中、弟上娘子が詠んだ惜別歌四首の冒頭の歌。他の三首は以下のページ等を参照。⇒訓読万葉集]
下宿の主婦が二三日旅行してゐて、私二人がこの家の主になつてゐます。訪ふ人は勿論、便一つ來ません。都の中にすむ有髪の僧そのままです。然し、心はともすると亂れようとします。若い者は澄してゐるつもりでもやはり駄目です。すぐ思索の土臺がくづれて、ささいな感情にとらはれ勝です。末梢神経ばかりが鋭敏になりすぎて、中樞が思ひどほりに、はたらいてくれません。
近頃は、家のことも、大塚や馬場のこともめつたに思ひ出しません。どこにもここにも無沙汰ばかりです。日記もしばらくやめてゐます。睡眠時問も一つも定めないで、ねむたい時にね、起きたい時に起きると云ふ風です。自然に參入すること、ただそれだけが私ののぞみです。雲の動き方。雨だれの音、冬の蟲の聲。電車の雜音、八手の微動、消ゆる烟。自分の髪が夜風に吹かれる音。そんなものに耳を立てたり、じつとみつめたり、それが私の仕事です。ともすると私を責めさいなみ勝な獣慾や、情慾が一寸の間でもじつとしづまるのを感ずるのは、ほんたうに安い心持になります。重荷が去つて、自由になれた樣な氣になります。三ケ年半私はもがいてもがきぬいて來ました。然し、もがくことは結局人間を浮び上げてくれません。今になつて、法然や、親鸞の他力の教をありがたく、身にしみておぼえます。『歎異抄』などを、古い箱の底から取り出して讀む氣持にもなります。高等学校に居た頃、調(シラベ)先生の家に參禅してから、これで丁度二年になります。そしてやつと、他力の曙光をみる樣な氣持になりました。只このままの姿で救はれること、このことが、自分に力のあまり少ない私にとつては一ばんの有難い教です。こんな心が、私を子規に親しませ、良寛を尊敬させる樣になりました。
もうしばらくするとこのあたりもくらくなります。そして、きまつた樣に建禮門の上に一つ大きな星が出ます。
宵を淺み建禮門の上に出し
明星いまだ光放たず
二三日前、御所をあるいてゐて、そんな歌を讀みました。
昨夜は雨の夜でおまけに風さへも出て、流石に、家の中に一人ゐることは淋しい氣になりました。
雨やむと摘もやがてけどうなり
そをかぞへつつせんすべもなし
サウサウと木の葉しづくの音みだし
門の老木に風すぐるらし
この家の主となりて二日目の
夜は雨なりき人戀ひてをり
二年前に、私が若者らしい苦惱のまつさい中にあつた頃不知火寮でよんだ
近頃の淋しき人は皆來れ
一つ火かこみて語りあかさん
又、歸省中、御館山に毎日のぼつて、あの岩の上に立つて
日に一度御館の山に祈るこそ
二十の我の日課にてありき
などと感傷と共に口ずさんでゐた頃としますと私の心も、従つて私の歌も次第にかはつて參りました。
末梢神経をたかぶらすことのみがほんたうの苦惱でない。中樞に沈せんして、それでゐて、はなれない人間としての惱ばかりが尊い。世紀末的の放縦はきらひです。
荻原井泉水『遍路となりて』は一讀をおすすめします。
二十七日から帝展が京都でもひらかれます。おいでになりませんか。
百合子さんや、安代さんはどうしておくらしでせう。何でもかまひません、こまごまと書いて送つて下さい。それが何よりも、私を喜ばすことでせう。
先生やおかあ樣によろしく。
御からだ大事になさい。
(特にゆりこさんにはお手紙を下さる樣にたのんで下さい。)
姫路五軒邸の 京都の下宿で
あの小さい書齋で 二十三日、電燈のつく頃したたむ
安代樣机下 靜雄
今日は金のあまりで、モナカを貫つてたべました。おかげで風呂錢がなくなりました。日隈君に今夜は風呂をおごつてもらふことにしました。もうだいぶふろにもはいりませんでしたから。髪が大分伸びましたよ。今度の冬休にお目にかかる時はどの位になつてゐるだらうと、それたのしみにしてゐます。
まあ二十日ばかりもしましたら、又御面會できますね。
[やぶちゃん注:引用の万葉集の歌に編註があり、この頃、安代は縁談が決まった、とある。最後の「あの小さい書齋で」の最後の「で」の右に「ママ」注記がある。荻原井泉水『遍路となりて』は初出を調べきれていないが、後の昭和九(1934)年三月創元社より発行された井泉水の「遍路と順禮」の中にある作品である。なお、この手紙について、小高根二郎氏は前掲書で、次のように語っておられる。まず、縁起でもない弟上娘子の惜別歌を選んだ理由を、『恐らく一ヶ月前の姫路訪問の際、急に他人行儀となった安代の態度で、縁談がすすんでいる事実を察知した彼は、惜別の情をそれとなくこの歌に託したに相違ない。』とし、その証拠として、末尾の「特にゆりこさんにはお手紙を下さる樣にたのんで下さい。」を引用し、『靜雄は、溶融しつつ愛とも恋とも確定しがたい厄介な心情の相手役を、姉から妹へ引き継いでくれ……と、申し入れているわけである。』と捉えておられる。]
※
二五 昭和三(1928)年五月三十日
〔京都より、市内今熊野南日吉町二〇〇(交番下)、酒井安代宛(はがき)〕
家の外(と)に柿の花咲き
その柿に雀ゐる故
そのことを心にもちて
寂しけど寂しきままに
うらやすう夕(ゆふ)の座(ざ)にゐる
[やぶちゃん注:編註によれば、この四月、酒井家は、小太郎のみが赴任先の姫路高等学校に留まり、夫人と安代が京都今熊野に移転、同志社女子専門学校に入学して、構内のプリンプトン寮にいた百合子もこちらに移っていた。]
※
二六 昭和三(1928)五月三十日
〔京都より、東京市京橋区東港町一ノ二五石原方、蒲池歡一宛(はがき)〕
家の外(と)は柿の花咲き
その柿に雀居る故え
そのことを心にもちて
さびしけど さびしきまゝに
うら安う 夕(ゆう)の座(ざ)にゐる
[やぶちゃん注:最終行の「うら安う」の後の一字空きと、「夕(ゆう)」のルビ表記は、ママ。底本では「故え」に「(ママ)」注記あり。]
※
二九 昭和三(1928)年七月二十八日
〔京都市聖護院より、門司市谷口方、宮本新治宛(はがき)〕
おやおやいいことばかりで恐れ入りますね。氷柱ものですね。しかしいいことです。
私の樣にしやうすゐし切つてはだちかん。四五日したら京にもお別れ。もうとつくに古い自分の心にはアデユーを言つてゐますから、もうぼつぼつおかあさんのところでねころんでみたいと思ふ願ひばかりです。門司で一寸でいいから會つて呉ませぬか、あなやの御都合はどうです。しかし二三日前から
童話「お坊さんと蟾(ひき)」が出來上つて心が少しは樂しんでゐます。こんなものが一と月に五篇も出來たら私もほんものだとうぬぼれてゐますよ。
ブリッジ下の泳ぎ場
みてをれば子等の泳ぎのうつつなさ
電車も人も用なし子等には
ひさしぶりのものですからなつてゐますかどうか。みなさんによろしう。
[やぶちゃん注:底本では、「しやうすゐ」の下線は傍点「ヽ」。]
※
四一 昭和四(1929)年十月十一日
〔大阪住吉中学校より、京都市今熊野、酒井百合子宛(封書)〕
かういふ風の家に、かりて住むことになりました。[やぶちゃん注:借家間取り図が描かれているが、省略。]妹は明日の夜來るさうです。然し私は思ひます。この新しい生活は、私にも妹にも、きつとそんなに愉快なものではないだらう。私もぼつぼつ人生苦を沁みじみと味はされるのでありませう。
家賃は拾八圓五拾錢 敷金は四拾圓
私はこの始まらうとする私の典型的小市民生活を、獨りで苦笑してゐます。
目に見えて絲瓜搖れゐる夕かな
ゆり子樣
[やぶちゃん注:宛名人酒井百合子は、酒井小太郎の次女、安代の妹である。この年の四月に靜雄は、大阪府立住吉中学校に就職している。]
※
五八 昭和六(1931)年四月二十八日
〔大阪市阪南町中三の一〇より、神戸市古河方、宮本新治宛(はがき)〕
先日爲替送つておいたのですが、とどきましたか、二三日前の葉書そのうけとりぢやないかと思うたのですが、なにぶん字わからず。
よぞらをとりのわたるよりなほひそけしといふべけむ
ねむりゆさむるねむばなのにほひににるといふべしや
わたしはとなりの乙女にほのかな戀情をささげてゐます。
[やぶちゃん注:「となりの乙女」は不詳。翌年四月に結婚する山本花子ではないように思われる。]
※
六一 十一月十六日
〔大阪市共立通一ノ四三織田方より、姫路、酒井ゆり子宛(封書)〕
先生が御病氣の由、どうぞよろしく申し上げて下さい。ゆり子さんもお骨折のことでせう。私の方こそごぶさたばかりしてゐます。「よく覺えているな……」どころではないのですが、何のかはつたこともなく、相變らずの孤獨單純な生活なので、手紙を書く機會もついなくなるのです。どうぞ、おかあさんにもよく申して下さい。
お家の裏の庭も、もう、ずゐぶんきれいになつてゐることだらうと思ひます。先日は、お内のまはりもよく見ず、ゆり子さんのお室も拝見せず、殘念なことしました。相變らず京都には出てゐますが、お内がないと、中心點がない樣で、會が終つても、はて、どこに行つたものかなあとぼんやりする次第です。先週の土曜には、仕方がないので、丸山公園に出ました所が、無料の菊の陳列があつたものですから、それみてゐる内に夜になり、電燈がともつたりすると妙に淋しくなつて來て、こんな菊などみてる自分がかはいさうになつたりして微苦笑しました。
こんなに孤獨でゐますと、周囲のこと皆單純にみえて熱中する氣もおこらず、それが又、私を孤獨にするのでありませう。然し、こんな私ですが、妹の縁談の世話をやつてゐるのですよ。えらいでせう、どうかしたら、うまくゆきさうで、私も喜んでゐますが、どうなりますか。
もう種が盡きましたましたから、私のノートから詩を一つ拔き出して近頃の心境のご報告にいたしませう。
では今日はこれで、
十六日 學校にて。(今夜は宿直です) 静雄
私が泉のそばに坐つた時
噴水は白薔薇の花の影を寫した
私はこの自然の反省を愛した
私が青空に身を委(ゆだ)ねた時
縫ひつけられた幾條(すじ)もの銀糸が光つた
私は又この自然の表現を愛した
さうして 私の詩が出來た
[やぶちゃん注:詩の第二連の「幾條」のルビ「(すじ)」の表記は、ママ。末尾「さうして」の後の一字空きも、ママ。この手紙の次の酒井百合子宛の六四書簡では、既に靜雄自身の結婚のことが語られている。]
※
九七 昭和十(1935)年十二月二十一日
〔住吉中学校より、東京市アイヴイルコート内、酒井ゆり子宛(封書)〕
お手紙有難う、病氣なのですか。大切にして下さい。近頃は私はめつたに病氣もしません。詩よんで下さつて本望です。雜誌送ればいいのですが、ちよつと氣はづかしくなつてやめるのです。店頭で立ちよみしたり、又は買つたりして下さるのを想像するのが、私の流儀です。
子供は仲々生れません、今年中には駄目かとも存じます。
近頃は「疾風」と云ふ詩を書いてゐます。
この前お逢ひしたとき私の哀歌はモルゲンに似てゐる。又拒絶といふ題は獨逸のリードに似てゐるといはれましたが、あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです。身近かな人はやはり正しいと感心し、滿足ました。『コギト』の一月號に私の詩集の評がかなりのります、まちがつたところをさがし出して私に教へて下さい。方々で私の評が近頃のりますが、まちがひが多いと思つてゐます。
近頃、シューベルト[やぶちゃん注:小文字「ュ」表記、ママ。]の曲についた「冬の旅」といふ詩をみて感心し、音樂の先生にレコードをかりて忠實きいてみて、やはり感心しました。音樂の先生は、あれに感心した私を輕べつしました。中でも三つの太陽のことを歌つたのと白髪のことを歌つたのは感心しました。いい詩ですね、あれは。近頃は、ヘッセとレーナウの詩をよんでゐます。あなたに譯して送つてあげたい程です。私より少しうまいです。
疾 風
わが足はなぜか躊躇ふ
疾風よ いづこに落ちしぞ
かの暗き生活(たつき)の巷(ちまた)をすぎつ
わが心たじろがざりし
汝は地を襲ひ砂を飛ばせしが
またわれを抗し難く騙りぬ
疾風よ いづこに落ちしぞ
わが足のすすむ術(すべ)なし
わが髪に氷りし雪は
また わが道を埋み果てつ
願はざる月さへ
やがて虚空(こくう)のうちに浮びぬ
おからだ大切にして下さい
二十一日
ゆり子さん 伊東生
[やぶちゃん注:シューベルトの歌曲集「冬の旅」の詩は、ヴィルヘルム・ミューラーによる。静雄の掲げたものは、第14曲の「白髪の頭」及び第23曲の「幻の太陽」を指すと思われる。歌詞については私がドイツ語に暗いため、以下のサイト等を参照されたい。《⇒参照リンク(原語の詩及び訳詩、楽曲詳細な解説あり):「冬の旅」のページ》レーナウは、19世紀前半のオーストリア=ハンガリーのドイツ語圏の詩人。叙事詩「ファウスト」等。メンデルスゾーンの「春の歌」やリストの「レーナウのファウストによる二つのエピソード」といった歌曲もある。]
※
一〇四 昭和十一(1936)年四月十三日
〔大阪市松原通より、市内今宮中学校、池田勉宛(封書)〕
五日附のお葉書女中の不注意にて本日拜見、すみませんでした。ご親切に云つて下さつてうれしくありました。やつと本日頃よりいくらか元氣になりました。ニイチエの詩などを讀んでをります。
シルス・マリア
私はこゝに坐り、待つてゐる、待つてゐる……然し何といふあてもなく
善と惡の彼方、或は光をたのしみ
或はかげをたのしみ、ただ三昧
たゞ海、ただ眞晝、たゞ窮極もなき時
と、忽ち、妹よ一つのものは二つとなつた――
そして超人(ツアラトストラ)が私のかたへを歩みすぎる…
SILS-MARIA
Hier sass ich, wartend, wartend, doch auf nichts,
Jenseits von Gut und Böse, bald des Lichts
geniessend, bald des Schattens, ganz nur Spiel,
ganz See, ganz Mittag, ganz Zeit ohne Ziel.
Da, plötzlich, Freundin! wurde Eins zu Zwei-
-und Zarathustra ging an mir vorbei …
シルス・マリアと云ふのは地名ださうです。ニイチエはこゝで時々狂氣の發作の習慣におそはれ始めたのださうです。妹の看病をうけてゐたのださうです。妹よ! といふのは原文は女友達よ! となつてゐるのです。この詩はおそろしい詩ぢやありませんか。一つのものが二つになつた! 私もこの頃この分離の幻想を如實に感じてをるのです。そしてその分散のために自重の白晝の電光を待つてをるのです。
新しき海の彼方に
彼方へ―と私は願ふ、そして私は信ず
進みゆくわれを、わが把握を、
海は横はる、そは藍青の中へ
わがゲヌアの舟を驅る
あらゆるものは私に新しく、更に新しく輝く
眞晝は時、空の上にねむり
只汝の日のみ―永遠よ!
汝の廣大なる目のみわれをみつむ
NACH NEUEN MEEREN
Dorthin-will ich ; und ich traue
mir fortan und meinem Griff.
Offen liegt des Meer, ins Blaue
treibt mein Genueser Schiff.
Alles glänzt mir neu und neuer,
Mittag schläft auf Raum und Zeit-:
nur dein Auge-ungeheuer
blickt michs an, Unendlichkeit!
現代の若者には然しはや新しいものはないのであります。然し只前進する自分を――はてはどうならうと――信ずるより外に生き方のないことはニイチエの時代と同じなのでありませう。
[やぶちゃん注:宛名人池田勉は伊東の友人で、蓮田善明、栗山理一、清水文雄らと同人「国文学試論」を成していた。ちなみにこの池田、栗山、及び田中克己の三人は1959年に田中が成城大学文芸学部教授になったときの同僚として、揃い踏みしている。両詩共に、ニーチェの詩集『「楽しき知識」のために』の中の最後の方の詩で、原詩集では「新しき海の彼方に」の直後に「シルス・マリア」が配され、「ミストラルに寄せて」でこの詩集を閉じている。「シルス・マリア」はスイスのシルヴァプラナ湖とシルス湖の間に位置する保養地。ニーチェは晩年の数年を、ここで過ごし、永劫回帰の思想の霊感を得たとされる。「ゲノア」はゼノア=ジェノバで、造船業等、中世ヨーロッパにおける海の覇権を握った海運都市国家として知られた。]
※
一〇九 昭和十一(1936)年十二月
〔住吉中學校より、姫路、酒井ゆり子宛(封書)〕
ゆり子さんお手紙有難う。私共も毎日平凡無爲な生活です。妹は會社勤めがいやになつて、先日から諌早に保養に行きました。弟は東京のP・C・Lといふ會社にひき拔かれて行きました。東京に行く前の日京都で、西宗さんと、先生にお會ひし、ご馳走をいただいたと言つてよこしました。兄弟が、ちりぢりになつて、この頃、私の家はひつそりさびしいです。こちらの赤ん坊物につかまつて立つ程度になりました。子供が居るといろんなものがごまかせます、人間三十以上にもなると、もう何かにごまかされんと生きて行きにくいらしく、神樣は、そんな時期に、赤ん坊を授けるのだらうと存じます。私はこの頃はめつたに詩書きません。覺悟が激しくなると、さうさう安易に物書くことが出來にくくなります。それに、大阪には友人が少いことが、物かくには不便です。この頃はゲーテの詩をよんでをります。
又新しい詩集出版のことを心の中で考へてをります。
先日はこんな詩を書きました。
朝顏
一日中陽差の落ちて來ることのない町なかの、我が家
の庭に、一莖の朝顏が生ひ出でたが、それが、夕にな
るまで凋むことを知らず咲きつづけて私を悲しませた。
そこと知られぬ吹上の
終夜(しゆうや)せはしき聲ありて
この明け方に見出しは
遂ひにさめ居し我が夢の
朝顏の花咲けるさま
さはれ、御空にま晝すぎ
人の耳には消えにしを
かの吹上の魅惑(まどはし)に
己(わ)が時逝きて朝顏の
なほ賴みゐる花の夢
[やぶちゃん注:「P・C・L」は1931年、東京砧に設立された写真化学研究所 Photo Chemical Laboratoryであるが、1933年にはPCL映画製作所で映画製作にもとりかかった。ちなみに、この会社には私の私淑する瀧口修造、円谷英二等が足跡を残している。「朝顏」は昭和十五年刊となる詩集『夏花』に所収。但し、そこでは題名の下に「辻野久憲氏に」の献辞がある。昭和二十二年刊となる詩集『反響』での再録時にも、この献辞は削られている。それぞれの詩形は、行頭揃えの点で共通しており、この書簡掲載詩型と大きく異なる。しかし、冒頭の「吹上」及び、終行から二行目の「逝きて」にルビがない点では実は、行揃え及び詞書にルビがない点を除くと、むしろ後の詩集『反響』での再録時とほぼ等しい。]
※
一三四 昭和十四(1939)年五月十八日
〔堺市北三国ヶ丘より、中支部隊稻葉部隊坪島部隊河野隊、蓮田善明宛(封書)〕
お手紙有難う。元氣なのですね、この上も元氣祈ります。たゞそれだけです。こちらは栗山君も池田君も達者で勉強してゐます。夏の休みに東京で清水君、齋藤さんに會ひました。清水君と一緒に、祖師ケ谷の驛のそばのキツサ店でビール六、七本のんで醉ひました。齋藤さんは丁度腦貧血を起してをられたところでしたが、顏みてはつとしました。田中克己君はコギトの後記であなたが詩集を戰場に持つて行つてくれたこと大へん喜んでゐました。わたしの詩集も是非そちらに送りたいと思ひながら、出版のことやはり迷つてゐます。今迄の自分の詩の發想法が氣にくはぬ點が多いからです。
栗山君は文人論といふのを書いてゐます。池田君は近來書くものが大いに沈着になつてわたしは愛讀してゐます。中島君はいゝ鬼貫論をコギトに書きました。
日本のこのごろの風物を一寸書きますと卯の花のさかりがやゝすぎたところです。花シヨーブが紫色に小さく咲いてゐます。えにしだの黄色い花もきれいです。野茨も咲き初めてゐます。やがて野に滿ちるでせう。燕を二、三日前一羽みつけました。家の前の電線で、かんだかい、單調な聲で數聲なくと、ついと矢のやうに飛んで行きましたが、わたしは、それを見て、近來にないすこやかな新しい心持を味ひました。
汝、この國に至り着きし最初の燕!
詩人の立原道造君が死にましたが山岸外史が、詩を書いて曰く
人死せるとき、人等、皆、口々に、その屍を喰はん。されど、
此の人、死せるとき、屍を殘さで唯、薄き衣のみを、路傍に
遺せり。
長い手紙はいりません。詩的短句を書いて送つて下さい。
元氣を祈ります。
十八日 伊東靜雄
蓮田善明少尉殿
[やぶちゃん注:「清水君」は蓮田が同人であった「国文学試論」の清水文雄であろう。齋藤は不詳なるも、やはり同人の一人であろう。「中島君」は『コギト』同人の齋藤榮次郎。ちなみに、この齋藤榮次郎を介して、田中克己は靜雄と初めて会っている。昭和八(1933)年のことである。底本の編註では「汝、この國に至り着きし最初の燕!」に「燕」の結句の原型、とあるが、厳密に言うならば、詩集『夏花』の冒頭を飾る「燕」の、第四行及び終行にリフレインで現れる「あゝ いまこの國に 到り着きし 最初の燕(つばめ)ぞ 鳴く」の原型である。立原道造は同年三月二十九日、結核のため二十四歳の若さで亡くなった。折から、東京への転勤を考えて上京していた靜雄は、中野江古田の東京市立療養所に駆けつけて、その死を悼んでいる。同時期の『コギト』五月号に靜雄は、立原への追悼詩、「沫雪」(後に『夏花』所収)を発表している。山岸外史は評論家。太宰治の友人として知られる。]
※
一六〇 昭和十五(1940)三月十八日
〔堺市北三国ヶ丘より、京都府宇治町、小高根二郎宛(封書)〕
お手紙有難う。御元氣のご樣子で何よりです。昨日、『昭和詩鈔』送つて來ましたが、御作品載つてゐて、當然のことながら、私もうれしかつたです。このごろ御快調のご模樣にて結構です。ますます御健筆願ひます。
いつものことながら、呆然として暮してゐます。詩は中々書きにくい状態です。みな註文も斷つてゐる始末。『夏花』の出版記念會、いまのところいつになるか、又果して、そんなものがあるかどうかも未定です。あまり期待しないでゐて下さい。しかしもし開催する時はあなたは出席していただきたい第一の方です。
どうぞお氣付きの雜誌には、適當に、御高評いただきますれば光榮です。又賣行もそれだけきつとよくなると思ひます。『夏花』割に好評にて、初版千五首部殆んど賣切れ、目下第二版準備中です、喜んでゐます。
宇治にも行きたいと思ひます。しかし、家の中に寢てゐたい氣分も大へん強いのであります。いつも疲れてばかりゆゑ。
先日、河井醉名氏來阪、歡迎會に出ました。關西の詩人諸氏だいぶ來てゐましたが、顏みてたらいやな氣がして、もう以後こんな會は閉口と、今更らしく思ひました。然し河井さんは『夏花』よんでゐてくれて、懇切な質問などしてくれて人中で名譽でした。
大阪に出られること少いのでせうね。そんな機會があつたら是非會つて下さい、神納君、あまり親切にして上げなかつたのでこのごろは、ちつとも顏見せません。
このごろ、方々で拜見するあなたの御作品は、先の通天閣の、完成に近い同系列のものと思つて拜見してゐます。出來、不出來は少い書き方と愚考します。とにかく、特異の新しい詩と思ひます。たしかに、あなたの詩と思ひます。段々エピゴーネンも出ることでありませう。
大へん疲れてゐる夜。
昨日は六里の遠足あ
りしゆゑ
十八日 伊東生
小高根二郎樣
[やぶちゃん注:最後の「大へん疲れてゐる夜。/昨日は六里の遠足/ありしゆゑ」を詩と判断した。少々迷ったが、本文から四字下げ、二行を同字数で揃える等、彼の一部の詩の形態を感じさせるので、敢えて採った。「昭和詩鈔」は萩原朔太郎編で、昭和十五(1940)年三月十五日、富山房百科文庫として富山房から刊行された。第二詩集『夏花』は昭和十五(1940)年三月十五日に子文書房から文藝文化叢書4として刊行された。]
※
一六七 昭和十五(1940)年六月中旬
〔堺市北三国ヶ丘より、東京市祖師谷池田勉宛(封書)〕
昨日はお見舞のお手紙有難うございました。〔九十二字略〕[やぶちゃん注:省略注記は底本のもの。]いろいろのこと知りました。そしていよいよ明らかになつたことは則天去私といふことが大切といふことと、文學は決して直接、個人の生活と體驗をのみ土臺としてはいけないといふ覺悟であります。それと同時に、各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさをしみじみと感じるのです。
あなたの今日の御文章、ほのぼのとしてゐて、いいと思ひました。よくわかりました。わたしはいま看病の傍ら、古い歌謠の本をよんでゐます。隆達や、地唄などです。これは自分の鎭魂のためと、自分の文學の模索のためであります。私はこのごろ他から題をあたへられて詩作つてみたい氣持が濃厚です。これはせめてもの私の謙虚の表情でありませうか。
螢
かすかに花のにほひする
くらい茂みの庭の隅
つゆの霽(は)れ間の夜の靄が
そこはかとなく動いてて
しづかなしづかな木々の黒
今夜は犬もおとなしく
ことりともせぬ小舍(こや)の方(はう)
微温(ぬる)い空氣をつたはつて
ただをりをりの汽車のふえ
道往くひとの咳(しはぶき)や
それさへ親しい夜のけはひ
立木の闇にふはふはと
ふたつ三つ出た螢かな
窓べにちかく寄るとみて
差しのばす手の指の間(ま)を
垂火(たりび)逃げゆく檐(のき)のそら
思ひ出に似たもどかしさ
[やぶちゃん注:「のみ」の下線は、底本では傍点「ヽ」。「螢」は昭和十八(1943)年刊の詩集『春のいそぎ』所収のものと、「つゆの霽(は)れ間」のルビの有無と、「しづかなしづかな木々」が「しづかなしづかな樹々」、「窓べにちかく寄る」が「窓辺にちかくよる」となっている以外では、同じである。]
※
一七一 昭和十五(1940)年七月二十三日
〔堺市北三国ヶ丘より、福島県白河町、大谷正雄宛(はがき)〕
「天性」の原稿、ずつと病院にゐましたのでおくれました。
螢
かすかに花(はな)のにほひする
くらい茂(しげ)みの庭(には)の隅(すみ)
つゆの霽(は)れ間(ま)の夜(よ)の靄(もや)が
そこはかとなく動(うご)いてて
しづかなしづかな木々(きぎ)の黒(くろ)
今夜(こんや)は犬(いぬ)もおとなしく
ことりともせぬ小舍(こや)の方(はう)
微温(ぬる)い空氣(くうき)をつたはつて
ただをりをりの汽車の(きしや)ふえ
道往(みちゆ)くひとの咳(しはぶき)や
それさへ親(した)しい夜(よ)のけはひ
立(た)ち木(き)の闇(やみ)にふはふはと
ふたつ三(み)つ出(で)た螢(ほたる)かな
窓邊(まどべ)にちかく寄(よ)るとみて
差し伸(の)ばす手(て)の指(ゆび)の間(ま)を
垂火(たりび)逃(に)げゆく檐(のき)の空(そら)
思(おも)ひ出(で)に似(に)たもどかしさ
御判讀、よろしくお組み下さい。くるしいくるしいこの半歳でありました。
『天性』のお世話少しも出來ないこと、いろいろ言はねばわかりますまいが、最も善意にとつて下さい。その内に説明出來る時くると思ひます。
[やぶちゃん注:「天性」というのは宛名人大谷正雄の編になる雑誌で、「非情派」という誌名から、この昭和十六(1941)年頃に「天性」と改名している。この年の、この書簡以降のことと思われる同年発行の「天性」の19号(八月号と思われる)と20号(十月号と思われる)の標題には、それぞれ伊東靜雄詩一篇とある。この「螢」はこの八月号に掲載された。なお、十月号の掲載詩は、同じ詩集『春のいそぎ』の「羨望」であった。この「螢」は総ルビという点で、詩集『春のいそぎ』所収のものとは全く違う。表記上は、一六七書簡とは(即ち『春のいそぎ』所収の詩とも)異なるのは、終りから四行目の「窓べ」の漢字表記である。]
※
一九三 昭和十六(1941)年七月七日
〔堺市北三国ヶ丘より、大阪市北田邊、富士正晴宛(封書)〕
庭の蝉
旅からかへつてみると
この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
おれはなんだか詩のやうなものを
書きたく思ひ
紙をのべると
水のやうな平明な幾行もが出て來た
そして
おれは書かれたものをまへにして
突然それとはまるで異樣な
古心と
かすかな暈ひをともなふ吐氣とで
蝉をきいてゐた
七日 伊東生
富士正晴樣
[やぶちゃん注:詩集『春のいそぎ』所収の詩とは、終行から三行目「古心と」の詩句全体が、「一種前生(ぜんしやう)のおもひと」となって大きく異なる。また、終行から二行目の「かすかな暈ひを」にも「かすかな暈(めま)ひを」とルビがある。]
※
一九五 昭和十六(1941)年八月九日
〔堺市北三国ヶ丘より、香川県小豆島四海村小江森国夫方、富士正晴宛(封書)〕
小豆島からのお手紙有難う。いいところのやうですね。鮮しい魚たべたいですね。私はかぼちやばかりたべてゐます。東京行きはおつくふになつてよしました。女中さんにも一ケ月の休暇をやつて、たのしい三人の家庭生活をやつてゐます。そして讀書してゐます、小泉八雲の全集買つて來て飽かずよみます。又春夫の『掬水譚』(法然上人傳)をよみます。これは歸阪されたら、あなたに猛烈に廣告してよんで貰ひます。殊に春夫先生にはこの一書で尊敬の念いやますのをおぼえます。八雲をよむと蝉や蝶々が、いままでより一層形而上的感興をひくのが、私の趣味に合ひます。怪談も同じ根柢からのものではあつても、自分にはあまり目下興味ありません。詩をつくることは考へません。詩の雜誌のことは勿論です。しかし詩はやがて出來さうです。〔二十七字省略〕
この休みには文學青年の來訪が少いので、大へん助かります。
夏の夕方はいいですね。出來るだけ散歩します。夏は一年中つづいてもいいやうに私には思はれます。この充溢した季節感は私には大へん必要です。夏には、感傷的にはなつても、弱り果てた氣持がおこらぬのは、いいことです。物をみつめる氣持になれるのも助かります。
先日書いた詩一つ、御らんに供します。
七月二日 初蝉
あけがた
眠りからさめて
初蝉をきく
はじめ
地蟲かときいてゐたが
やはり蝉であつた
六つになる女の子も
その子のははも
目さめゐて
おなじやうに
それを聞いてゐるので
あつた
軒端のそらが
ひやひやと見えた
何かかれらに
言つてやりたかつたが
だまつてゐた
これは、擬古文の飜譯風の文鰻で出來てゐるものです。その點一寸、獨りで得意になつてゐるのです。然して詩としては小乘的なもの。例によつてたいへん唐突な言葉だが、私は一つ大乘詩を書きたいと思つてゐます。(これは山岸外史先生の示唆によるもの。)
又書きます。
九日 伊東靜雄
富士正晴樣
[やぶちゃん注:省略注記は底本のもの。佐藤春夫の「掬水譚」は、春夫の歴史小説の試みとしては最初期のもので、昭和十六年刊。小泉八雲の蝶や蝉云々は、「虫の研究」及び「蝉(シカダ)」等を指している。「七月二日 初蝉」の詩は、詩集『春のいそぎ』では、「やはり蝉であつた」と「六つになる女の子も」の詩句のまに「思ひかけず」が挿入される。]
]
※
二〇七 昭和十七(1942)年五月二十日
〔堺市北三国ヶ丘より、東京市世田谷区祖師谷二ノ四四九、池田勉宛(封書)〕
池田勉兄わが詩集夏花の透谷賞といふものを得しそのよろこびをいふて歌たまひしゆふべ 靜雄
くさかげのなもなきはなになをいひし
はじめのひとのこころをぞおもふ
[やぶちゃん注:奇しくも、この時の透谷賞の同時受賞は、田中克己「楊貴妃とクレオパトラ」であった。]
※
二二三 昭和十七(1942)年八月十八日
〔長崎県雲仙芳仙館より、京都市大将軍、潁原退藏宛〕
新妻にして見すべかりし
わがふるさとにけふ來つつ
なつかしきこの山と川とに
汝(ナレ)とかくむかひてあれば
言はねども同じ想ひか
見やらるる面輪はいつか
げにかたみに老ひしわれらかな
急に思ひ立ち、十年振りに歸郷、始めて妻子に、故郷を見せてまはつてゐます。諌早、長崎、小濱、雲仙、島原。さうしてゐる内に先生とお約束の原稿、たうとう不義理することになつてしまひました。どうぞ御諒察下さい。それでも芭蕉の句文集ずつと持ちあるきました。私は『笈の小文』のことを考へてゐたのでございます。
[やぶちゃん注:潁原退藏は俳諧研究の第一人者であるが、靜雄の京都大学国文科における恩師であった。靜雄の卒論「子規の俳論」には当時としては異例の最高点であった82点が与えられているが、これは主任教授の吉澤義則教授に対する、当時、講師であった潁原退藏の強力な推輓があってのものという。詩の四行目、「汝(ナレ)」はルビではなく、表記の通りの括弧表記。また、詩の最終行の「老ひ」は、ママ。この詩は、詩集『春のいそぎ』の「あれとわれ」の原型である。これが一連四行、三連の詩へとなった。]
※
二二七 昭和十七(1942)年九月二十五日
〔堺市北三国ヶ丘より、群馬県磯部町イソベカン本館、池田勉宛(はがき)〕
前便の通り、昨日は水無瀨に行きました。橋本の遊女は、あそこが遊廓だけの町なので人に氣がねなき態度でゆつたりしてゐました。それに、家の下の流れや、二階屋の高さの土堤の夏草など情趣がありました。淀の渡しはこのごろ六錢、水無瀨神宮で寶物拜觀したら、うす茶とお菓子出ていゝ氣持、そこの書庫には保田君の著も竝んでゐました、境内でべんとうたべ、ウヰスキーのんでねたら、二時間もぐうぐうねてしまひました。七草の天井見ましたか。今年の十月は順徳院六百年祭の由
…………………………
故郷でつくつたもの
なれとわれ
新妻にして見すべかりし
わがふるさとに
汝(ナレ)を伴ひけふ來れば
十歳を經たり
いまははや汝が傍らの
童(ワラベ)さび愛(カナ)しきものに
わが指さしていふ
なつかしき山と河の名
走り出る吾子(アコ)におくれて
夏草の道往く なれとわれ
歳月(サイゲツ)は過ぎてののちに
たゞ老の思に似たり
[やぶちゃん注:詩の三行目の「汝(ナレ)」のみ、ルビではなく、表記の通りの括弧表記で、それ以外のカタカナはルビ表記。詩集『春のいそぎ』の「あれとわれ」と比しても、若干のルビ表記の異同以外は同一。]
※
二三〇 昭和十七(1942)年十月二十四日
〔堺市北三国ヶ丘より、京都府宇治町、小高根二郎宛(封書)〕
速達拝見、お会ひ出來かつたのが残念でした。この一年、あなたは美しい文章を沢山書かれた。あなたとしては思ひ残すことも、ひとに比べて少いことと思ひます。身体をいたはつて、専心、御奉公下さい。
『コギト』は頓にさびしくなります。私もこのごろいくらか身体よろしい故、出来るだけ書いてみようと思ひます。あなたが歸られる日までどうか、『コギト』つづいてゐるやうにしたいものです。あなたの速達ついた日、同じやうに私の若い文学の友人が他に二人、応召の知らせがありました。身邊ますますさびしいやうな氣がします。――いつもひとり離れて暮してゐる癖に――。
私は、この夏の休みに十年振に、妻子をつれて歸郷、その風景を美しいと心にしみて感じて歸りました。この旋行は私に大へんいい影響をもたらしたやうです。そして次のやうな詩一つを手帖の端にかきつけて歸りました。
なれとわれ
新妻にして見すべかりし
わがふるさとに
汝(ナレ)を伴ひけふ來れば
十歳を經たり
いまははや 汝(ナ)が傍らの
童(ワラベ)さび愛(カナ)しきものに
わが指さして いふ
なつかしき 山と 河の名
走り出る吾子(アコ)に おくれて
夏草の道往く なれとわれ
歳月(サイゲツ)は過ぎてののちに
たゞ老の思に似たり
九州旅行からかへつたら、絶えず身體動かしてゐたい氣持になつて、休み毎に、あちらこちらあるいてゐます。靜かな變化と推移とを味つてをります。
軍隊に入つたら時々手紙下さい。私も書かうと思ひます。
萬歳。 伊東靜雄
小高根二郎樣
[やぶちゃん注:本詩のカタカナはすべてルビである。こちらはルビ表記をすべてひらがなにすれば、詩集『春のいそぎ』の「あれとわれ」と、全く同一となる。]
[やぶちゃん注:底本全集では、これ以降の書簡に詩と認められるものはない。]