道 成 寺 鐘 中 Doujyou-ji Chronicl へ
鬼火へ
鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」
[やぶちゃん注:以下に電子化したのは安永一〇(一七八〇)年に刊行された鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」の「
■ルビ排除字配復元版
道成寺鐘
真那古の庄司が娘
道成寺にいたり安珍が
つり鐘の中にかくれ居たるを
しりて蛇となりその鐘をまとふ
この鐘とけて湯となるといふ
或曰道成寺のかねは今京都
妙満寺にありその銘左の
ごとし
紀州日高郡矢田庄
文武天皇勅願所道成寺冶鐘
勸進比丘別當法眼定秀檀那
源万壽丸幷吉田源頼秀合山
諸檀越男女大工山願道願小
工大夫守長延暦十四年乙亥
三月十一日
■ルビ排除やぶちゃん校訂版
道成寺の鐘
真那古の庄司が娘、道成寺にいたり、安珍がつり鐘の中にかくれ居たるをしりて、蛇となり、その鐘をまとふ。この鐘、とけて湯となるといふ。或いは曰はく、道成寺のかねは、今、京都妙満寺にあり。その銘、左のごとし。
紀州日高郡矢田庄
文武天皇勅願所道成寺冶鐘 勸進比丘別當法眼定秀 檀那源万壽丸 幷 吉田源頼秀 合山諸檀越男女 大工 山願道願 小工 大夫守長 延暦十四年乙亥三月十一日
■総ルビ原典版
□やぶちゃん注
・「真那古の庄司」「真砂の庄司」が正しい。
・「妙満寺」現在、京都府京都市左京区岩倉幡枝町にある顕本法華宗の総本山妙塔山妙満寺。但し、ウィキの「妙満寺」によれば、何度もの移転を繰り返しているので注意が必要。永徳三(一三八三)年に六条坊門室町(現在の京都市下京区内。以下の堀川までの移転先は同区内)に法華堂が建立されたのを草創とするが、応永二(一三九五)年に火災により伽藍が焼失、綾小路東洞院に移転・再建、応仁元(一四六七)年には応仁の乱によって再焼失、四条堀川に移った。天文五(一五三六)年の天文法華の乱(比叡山僧兵集団による都の法華宗を追撃した宗教セクト内の一揆)によってまたしても伽藍が焼失、妙満寺は堺に避難した。天文一一(一五四二)年の後奈良天皇による法華宗帰洛綸旨により、四条堀川の旧地に再建されたが、同年、豊臣秀吉の命によって寺町二条(現在の京都市上京区榎木町)に再移転させられたが、実はこの後に道成寺の鐘はここへ運ばれている。同ウィキには現存するその鐘に就いて『和歌山県道成寺にあったとされる梵鐘で、安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘とされ、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣の仙石秀久が京都に持ち帰ろうとしたが、鐘が重かったために途中で破却し近くの住民の手によって妙満寺に奉納されたもの』とあるが、秀吉の紀州征伐は天正一三(一五八五)年のことだからである。妙満寺の公式サイトの『「安珍・清姫」の鐘由来』も参照されたい。
但し、ここに銘も記されてある鐘というのは、安珍清姫の一件の元の鐘ではなくて二代目のそれ、則ち、まさに能「道成寺」で落下する、あの鐘なのである。
ななかまど氏のサイト内の「神社ふりーく」の『「安珍・清姫の鐘」妙満寺什宝 紀州道成寺』によれば、この鐘のサイズは、高さ約一〇五センチメートル・直径約六三センチメートル・厚さ五・三センチメートルで重さは約二五〇キログラムとあり、道成寺では最初の鐘が延長六(九二八)年の安珍清姫の一件で焼失した後、何度も再鑄を試みるも成功せず、凡そ四百年も経った正平十四(一三五九)年『三月十一日に源万寿丸が施主となり、ようやく二代目の鐘が完成した』。ところが、『その祝儀の席に一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘楼に近づき、蛇身に変わって、鐘を引きずり下ろし、その中に姿を消した。道成寺の僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と必死に祈念して、鐘は上がったのだが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか、鳴る音がおかしく、近隣に悪病災厄が相次いで起こったため、山林に捨てられてしま』い、『その後、二百年あまりを経た天正年間・戦国の世』、『豊臣秀吉の紀州攻めのおり、この戦に参加した侍大将仙石権兵衛秀久の軍勢が、この鐘を戦利品とばかりに拾って持ち去り、陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)にしようと京都まで運ぼうとしたが、行軍の途中、京洛の手前で重い鐘を乗せた台車が坂を登りきれず、やむなく土中に埋められてしまった』(別な情報によれば、この時の紀州攻めでは道成寺も戦災を受けているので、この辺の経緯には何かもっと違った事実があるようにも思える)。『その後、近隣にただならぬことが相次いだため、不審に思った村人たちによって掘り出され』、天正一六(一五八八)年に『経力第一の法華経を頼り、時の妙満寺貫首・日殷大僧正の供養によって、鐘にまつわる怨念は解け、鳴音美しい鐘となって今日に至るまで伝わっている』とあるのである(リンク先には現存する鐘の画像もある)。
・「鐘銘」ゆーちゃん氏のサイト「百姓生活と素人の郷土史」で作者不詳の「熊野獨參記」という元禄二(一六八九)年頃の著作とされる紀行文が載るが(但し、本作の別名と思われる「紀南郷導紀」には作者を児玉荘左衛門とするとある)、そこには本鐘銘も含めて記されてある。この鐘の銘が電子化されてある上に、妙満寺に移される経緯やその後の興味深いエピソードなど、すこぶる貴重なものなれば、「道成寺」の条を全文引用させて戴くことにする。但しその際、改行部を繋げて漢字の一部を恣意的に正字化した。原典への訂正注らしき割注(「芝口」という書写された現代の方によるもの)の位置なども不審な箇所があるので勝手乍ら分かり易い位置に割注または私の注として〔 〕などで組み入れ直し、また、返り点の一部には訓読不能な箇所がある(特に鐘銘の部分)ので総てを省略させて戴いた。相当な改変を入れて申し訳ないが、あくまで全体の統一性と読み易さを目指したものであるのでお許し願いたい。
《引用開始》
道成寺 天曜山道成寺「俗呼之鐘卷寺」ハ文武天皇ノ敕願寺也ト云 本堂造立ノ時橘道成奉行シタルニ依テ寺号トスルトカヤ 寺領五石被寄附 本尊木像ニシテ丈六ノ観音也 是ハ龍宮ヨリ九人ノ蜑出取來ルト云慣ナリ 左右ノ脇立日光・月光也 厨子ノ前ニハ横目〔廣目ノ誤〕・増長・持國・多聞ノ四天王ノ木像之 此堂ムカシヨリ退轉セス ウハフキノ瓦ハ硯ニヨシト云 イツノ比ニカ有ケン 他國ノ者此寺ニ來テ上葺ノ瓦ヲ置替寄進セント云テ 咸取代テ德付タリト聞由 寺内ノ右手ニ鐘樓堂並樓門ノ跡有 共ニ礎計殘レリ 當時ノ鐘ハ今武州ノ妙國寺ニト來由ヲ聞ヌルニ 人皇百八世後陽成帝ノ御宇 天正十六年五月中旬 或人來テ時鐘ヲ寄附セント云ヘリ 僧徒悦テ右處ヲ問 被者云 一年紀州一亂ノ砌寺社民屋咸滅亡ス 故此鐘爰彼ノ手ニワタリ 今ハ新宮ノオク我屋敷ノ藪蔭ニ置タリ 家内ニ惡事有ムトキハ必鳴ウメク 故ニ妻子常ニヲソレ忌嫌テ 之ヲ寺ヘ可送ト云 我是ヲ聞□テ ワサト上京シテ鐘ノナキ寺ヲ尋ヌ 然ニ幸ニ當寺ニ未見シニ故ニ寄進シ候ト 語テ遂ニ紀州ヨリ上シ鐘樓ヲ營 然共此鐘響瑾有テ聲不及遠 爰ヲ以テ後又新ニ別鐘ヲ鑄 彼鐘ヲオロス時衆徒評議シテ何故ニ鳴ウメカム イサ鑄加ヘテ大鐘ニセン シカルヘシト同心シテ既ニ碎カントス時ニ 大霰降鐘ニ煙立ケレバ 皆是ニヲトロキ其マヽニテ捨 其此ハヒビワレテ物ノトヲルバカリアキタリシカ 今ハ癒合鑄鐘ニ同シト云々
[やぶちゃん注:底本では「武州ノ妙國寺」に『〔武州妙國寺ト云フハ京都妙滿寺ノコト(芝)』と訂正注がある。]
彼鐘銘ニ曰
聞鐘聲 智惠長 菩薩生
煩惱輕 難地獄 出火坑
願成佛 度衆生
天長地久 御願國滿
聖明齋日月 叡算等乾抻[やぶちゃん注:「坤」の誤字であろう。]
八方歌有道 君四海樂無爲之化
紀州日髙郡矢田庄
文武天皇敕願 道成寺治鑄鐘
觀進比丘端光 別堂法眼定秀
檀那源萬壽丸並吉田源賴秀
合力諸檀男女
大工山田道願 小工大夫守長
正平十四己亥三月十三日
[やぶちゃん注:「觀進比丘端光 別堂法眼定秀」の部分に「勸進ノ誤(芝)」 及び「別當ノ誤(芝)」という注がある。]
門外ノ石段六十二段有之 四座ノ猿樂亂拍子トテ大事ニスルモ 彼石段ノ數ヲ蹈ムトカヤ 亦左ノ田ノ中ニ蛇塚トテ少シ芝ヲ取殘ス 是レ蛇ノ入タル所也ト云傳タリ 當寺ノ緣起「開帳金 子一歩」「千異院 小松院」ハ画師土佐將監 詞書ハ徹書記カ筆ナリト云ヘリ 奥書ハ將軍靈陽院義昭公 由良興國寺來臨ノ時 照覽有テ加ヘ判形シ玉フト云ヘリ
近年新筆ヲ以テ是ヲ写シ 往還ノ旅人ニ開帳「青銅百文」スル由 亦安珍カ所持トテ小扇一本有之 由緒ハ元亨釋書「十九」ニ詳也 故ニ爰ニ略ク
《引用終了》
「咸」は「ことごとく」又は「すべて」と訓じていよう。
なお、この妙満寺にこの鐘が移された経緯を分かり易く記した「道成寺鐘今在妙満寺和解略縁起」(宝暦九(一七五九)年妙満寺前住持老蚕冬映筆)なるものがあり、これを松浦静山が「甲子夜話」に引用しているらしい。「甲子夜話」は所持しているが、膨大なため、今すぐには当該箇所を発見出来ない。発見出来次第、ここに追加する。
・「法眼定秀」不詳。
・「源万壽丸」逸見万寿丸源清重(元応三年・元亨元(一三二一)年~天授四/永和四(一三七八)年)南北朝期、後村上天皇に仕えて武勲を挙げ日高郡矢田庄を賜わった領主(「百姓生活と素人の郷土史」の『講座「道成寺のすべて」(道成寺小野俊成院代)』の『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』①に拠る)。
・「吉田源頼秀」吉田金比羅丸源頼秀。源清重の娘婿で矢田庄吉田村の領主(八幡山城ヶ峰に城を構えていた)。道成寺本堂を完成させた人物とされる(『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』③に拠る)。
・「合山」妙満寺の総ての、の謂いか。
・「延暦十四年乙亥」西暦七九五年。これは既に見た通り、「正平十四年己亥」(西暦一三五九年)の誤りである。「乙」と「己」は烏焉馬の誤りと言えようが、延暦はひどい。「乙亥」が延暦十四年の正しい干支であるという事実からは、烏山石燕自身か、若しくは、この伝聞過程の中で時代を遡らせようとした誰かの、確信犯的捏造の可能性を感じさせないでもない。