伊良子淸白句集
[やぶちゃん注:ただ一冊の珠玉の詩集「孔雀船」(リンク先は古い私の初版電子化版)で知られる詩人伊良子清白の句集である。彼については、私のブログ・カテゴリ「伊良子清白」のこちらを参照されたい。
底本は所持する二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻を用いた(正字正仮名表記)。一部に私の注を附したが、その中の発表誌の書誌データは同上全集の第二巻の「著作年表」に拠った。踊り字「〱」は正字化した。
本ページは私のサイト「鬼火」開設十四周年を記念して作成した。【二〇一九年六月二十六日 藪野直史】]
○明治二八(一八九五)年(満十八歳)
秋立つや初めて夢のあたらしき
霜寺の松もさびたる時雨かな
[やぶちゃん注:二句ともに九月二十七日発行『もしほ草紙』に掲載。署名は「蝶夢」。]
○明治二九(一八九六)年(満十九歳)
水ちよろちよろ廣き野原をうねりけり
[やぶちゃん注:九月十日発行の『新聲』に掲載。署名は「蘿月」。十九歳。]
叡山や木立はなれぬ秋の雲
うき人の衣更して通りけり
松が根に松蟲なくや南禪寺
蜩やはり日さしこむ寺の門
[やぶちゃん注:「はり日」恐らく「玻璃日」で「はりび」、仏教の七宝の一つである水晶の輝きを陽光に喩えたものであろう。聴覚と視覚相俟って良い句と思う。]
天の河大竹原におちかゝる
式部より優しき紫苑を愛す哉
[やぶちゃん注:「式部」はシソ目シソ科ムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica であろう。高さ三メートルほどまで成長する。花は淡紫色の小花が散房花序をつくり、葉腋から対になって出るが、花期は六月頃。但し、秋に果実(直径三ミリメートルで球形)が熟すと、紫色になる。本邦では各地に自生し、庭木の花卉としても好まれる。「紫苑」は「しをん」(「しをに」とも読む)でキク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン
Aster tataricus。別名は「おにのしこぐさ」(鬼の醜草)・「じゅうごやそう」(十五夜草)・「おもいぐさ」(思い草)。草丈は百八十センチメートルほどになり、秋に開花し、周囲に薄紫の舌状花が一重に並び、中央には黄色の筒状花を咲かせる。九州山間部に少数のみ自生するが、花が好まれ、よく栽培されている。
ここまでの六句は十月五日発行の『靑年文』(第四号第三号)に掲載。署名は「蘿月」。河東碧梧桐選。他に先に掲げたものの孰れか二句(どの句か不明)が選ばれている。]
日一日銀杏の木のおち葉する
冬の山どうどうとして瀧おつる
古寺の萩眞白にちりにけり
猿曳と猿といねたる夜寒かな
うき人に似たる雛を飾りけり
下の句を書かでもらひし扇かな
美くしき灯のともりけり春の夕
大西白月子に別る
夜を寒み小酒盛してわかれけり
[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年発表の詩篇「海士の囀」の中の一篇に「大西日月子へ」があり、その前書に『京にて親くせし大西白月子はまたの號を桂涯といへり。いみじう繪に巧にして、歌詠む業にも秀で給へり。今騎兵となりて讚岐におはするに、まゐらせたるうた。』とある以外の情報は私は有しない。]
よき人の衣うつとて襷かな
風外の妻うせきときゝて
衣更妻なき人のあはれなり
[やぶちゃん注:「風外」人物不詳。]
さる女の扇に書す
うき人の扇わすれて皈りけり
[やぶちゃん注:ここまでの十一句は十一月五日発行の『靑年文』(第四号第四号)に掲載。署名は「蘿月」。]
夕月や波に筏のゆれる見ゆ
白砂一帶靑松連亙水細し
[やぶちゃん注:「連亙」は「れんこう」と読み、連なり
夕月に笛を吹き行く男あり
[やぶちゃん注:以上三句は十一月十日発行の『新聲』(第一巻第五号)に掲載。署名は「蘿月」。]
○明治三〇(一八九七)年(満二十歳)
霜の陣將軍部下に酒を給ふ
飛雲漠々崑崙の山時雨んとす
麗や障子に水の反射する
[やぶちゃん注:以上三句は二月十日発行の『新聲』(第二巻第二号)に掲載。署名は「蘿月生」。高浜虚子選。前の二句は古代幻想の時代詠か。日清戦争としても明治二八(一八九五)年年初か前年末で時期が遅過ぎて違う。よく判らぬ。「麗や」は「うるはしや」。]
○明治三一(一八九八)年(満二十一歳)
ぬかづいて念佛申す寒さ哉
凩に凡それてゆく小鳥哉
[やぶちゃん注:「凡」は「みな」であろう。]
うき人に脊中向けたる踊かな
秋暑し惡疫流行る支那の町
象肥えて櫻を載せ行く春の町
[やぶちゃん注:単なる想像詠か。腑に落ちる史的事実を想起し得ないが、映像として好ましい。]
君去て庭の櫻は散り易き(亡友を傷む)
行春の何を卜ふ陰陽師
戀もせで一人畑打つ男かな
裏町や赤い桃咲く醫者の門
驚破鼠桃たをれけり雛の棚
[やぶちゃん注:「驚破鼠」「驚破」は「きやうは」/「鼠」は「ねず」か。面白い句で個人的には好きである。]
すごすごとわがたけ長し枯野原
錦木の門から出たり鉢叩
墓道や蔓珠沙花さく笹交り
後の月松江の鱸を羹す
永き日や人の寫眞をかりて見る
古店に雛笑ひ給ふ哀れなり
洞庭に蘭舟見えつ雪の朝
雨晴れて赤蜻蛉飛ぶ村の辻
倉の壁に赤蜻蛉とまる日午なり
小春日や矢來立てたる敵討
芍藥や楊家の女眼を病む
[やぶちゃん注:「女」は「むすめ」で、「眼」は「まみ」か。]
たゞよふや混沌として海鼠なり
[やぶちゃん注:佳句。
以上二十一句は三月五日発行の『文庫』(第八巻第六号)に、十九句(署名は「すゞしろのや」)と二句(署名は「蘿月」)に分かれて掲載。]
長安に麹車とゞろく彌生哉
[やぶちゃん注:「麹車」は「きくしや」で酒の原料である
春の夜の金堂見ゆる木立哉
大德の居眠りおはす火桶かな
種蒔くや南にうごくちぎれ雲
慢幕を疊んで歸る櫻かな
耕すや謫せられたる島の畠
蛇多き身延の池や夏木立
柳垂れて周易の門に女立つ
[やぶちゃん注:「周易」ここは易者。]
急流や峨々たる岸に躑躅咲く
櫻散る歌人の家鎖したり
煌として朱門に開く牡丹哉
ぶらぶらと夜店見あるく春の宵
[やぶちゃん注:以上十三句は三月二十日発行の『文庫』(第九巻第一号)に掲載。署名は「すゞしろのや」。高浜虚子選。]
赤茨や村會の窓開きたる
黑塀の柳枯れたり監獄署
實のりすぎて空家の桃の脂多き
[やぶちゃん注:佳句。]
軍勝て小村の南瓜熟したり
棒縞の布圍いやしき旅籠哉
化されて萩に引きこむ車かな
海見えてたのもしき城の若葉かな
秋海棠海棠に似てあはれなり
[やぶちゃん注:「秋海棠」はスミレ目シュウカイドウ科シュウカイドウ(ベコニア)属シュウカイドウ Begonia grandis。「海棠」はバラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ Malus halliana の異名。後者の花期は四~五月頃。二種は全くの別種であるが、孰れも中国からの帰化植物。但し、私は花は似ているとは全く思わない。但し、確かに私もいずれにも「あはれ」を感じはするので、この句は腑には落ちる。]
白き菊赤き菊咲て君登第す(祝)
提灯にしばしばさはる芒かな
[やぶちゃん注:以上十句は九月二十日発行の『文庫』(第十巻第四号)に掲載。署名は「すゞしろのや」。]
○明治三二(一八九九)年(満二十二歳)
羽生えて牛飼の飛ぶ霞かな
午にせまる柳の村や鷄鬪合ふ
[やぶちゃん注:「鷄鬪合ふ」は「とりきそふ」か。]
南は梅に乏しき燈籠かな
[やぶちゃん注:「南は」は「みんなみは」、「燈籠」は「とうろ」と読んでおく。]
梅伐て景色衰ふ寺の庭
接木して晝飯したゝむ勞れ顏
腹黑き人の祠やうめの花
[やぶちゃん注:誰の祠であろう。そそられる。]
生立ちて雛祭る日と成りにけり
熊笹や蛇穴を出る堂の裏
花の雲舞臺に登る人多し(淸水)
花見るに指を啣へて愚なる顏
[やぶちゃん注:以上十句は四月二十五日発行の『よしあし草』(第十三号)に「俳句五目ならべ」の総題で掲載。署名は「すゞしろのや」。]
月蝕して不毛に陳す胡茄の聲
[やぶちゃん注:「胡茄」は「こか」で、原義は、古く中国北方の胡人が吹いた葦の葉の笛を指し、哀調深いものとして詩文に好んで詠み込まれている。本邦では他に篳篥(ひちりき)の類の別名や、七弦琴の曲名で、原義の調べを模したものと伝えるものを指すが、ここは私は古代幻想として原義で採る。
七月二十五日発行の『よしあし草』(第十六号)に掲載。署名は「S S」。底本の俳句パートはこの一句で終わっている。]