やぶちゃん 恣意的原稿推定版太宰治「右大臣實朝」
[やぶちゃん注:太宰の第三番目の書き下ろし歴史小説で、昭和十八(1943)年九月、錦城出版社から『新日本文藝叢書』の一冊として刊行され、戦後、昭和二十一(1946)年三月に増進社から再刊され、昭和二十三(1948)年の作品集『ろまん燈籠』に再録もされている。底本は昭和五十三(1978)年筑摩書房刊の類聚版「太宰治全集」第六巻を用いた。
なお底本では、本文中の「吾妻鏡」の引用部及び最後から二つ目の「承久軍物語」はすべて、五字下げであるが、ここではブラウザの表示を鑑み、正楷書太字とした(丸括弧引用表示部分も含む)。
なお、太宰治が「吾妻鏡」の底本として引用した岩波書店昭和十六(1941)年刊の龍肅訳注「吾妻鏡(四)」(岩波文庫)の訓読は、私には一部疑義がある。将来的にはその校訂を注したいと思っている(彼が、これを引用底本としたことは、全集の解題に以下の記載に、本作品では最後の「吾妻鏡」引用の終わりに、『(以上吾妻鏡)とあるのみだが、題一稿[やぶちゃん注:原稿のこと。]においては「(以上龍肅氏譯吾妻鏡)」とあ』ることから知られる)。
それ以外、作品途中に表れる御教書の字下げ等は、そこで注した。また、最後の「増鏡」の引用のみは本文と同じ書式で、字下げになっていないので、正楷書太字としていない。注意されたい。
さらに本テクストの大きな特徴は、「御ところ」と太宰が表記しているものを、すべて恣意的に「御所」と変えたことである。その意図は以下の通りである。
高校二年の折、私がこの作品を鎌倉史研究の一環として読んだ際(実は当時の私にとっては太宰はさほど興味がなく、あくまで源実朝個人への史学的興味の一環としてこれを読んだことを告白しておく)、若年ながら「御ところ」という表記に、激しい違和感を覚えたことを記憶している。それは、今回のテクスト化作業でも同様で、語としてのリズムの不快ささえ覚えた。これについて、底本解題には以下の記載がある。
『この作品には原稿が残っており、句讀点その他の校訂にあたって參照にした。なお、本巻所收の「鐵面皮」によっても推定されるように、本巻本文において「御ところ」とある語句は、原稿では本來「御所」と書かれてあったものを時局を慮ってのちに改めたものであり、「御所」と校訂することも考えられたが、戰後の再刊本も「御ところ」のままであり、また、「御所」がすべて「御ところ」と改められたのではなく、「御ところ」が必ずしも「御所」であったわけでもないので、本全集は初版本に從った。第一稿の「御所」が「御ところ」以外の語句に改められた例としては、「御宴」、「御屋敷」、「お奥」、「御前」、「幕府」、「鎌倉」、「幕府」、「里」[やぶちゃん注:以上の語句例示の前には頁行が示されるが、省略した。]等があり、また[やぶちゃん注:頁行が示されるが、省略した。]「御ところ」は第一稿において、「小御所東面」とあったものである。』
ところが、この底本の「右大臣實朝」の校異には、原稿の「御所」と初出等との異同の表示が全くない。これは、解題によって既に述べているため、排除したものと思われるが、これは非常に不十分な校異と言わざるを得ない。容易に原稿を管見し得ぬ我々が、この虫唾が走る「御ところ」でずっと「右大臣實朝」を読まねばならないというのは、大いなる苦痛である。そこで、私はとりあえず一つ一つの「御ところ」について、「御所」と置き換えて不自然でないかを検証した。その結果、そのすべてを「御ところ」→「御所」と置き換えて齟齬はないという結論に達した(置き換えた箇所は一目瞭然なので特に注していない)。但し、解題中に、『「御所」がすべて「御ところ」と改められたのではなく、「御ところ」が必ずしも「御所」であったわけでもない』と編者が述べている以上、私の操作は我儘な物謂以外の何ものでもないことも明白である。原典を操作していることに疑義がある方は、他の複数のサイトの正統なテクストたる「御ところ」版をお読み戴ければよい(なお、「御所」として問題があるところを発見された方はご一報頂けると有難い)。引用解題中に現われる「御ところ」以外の語句への改変部分及び最後の「小御所東面」の部分については(「等」とあるので、他にもあることを示しており、網羅していないことは明白であるから、不完全な仕儀となるが、仕方がない)、当該部分の後に〔○○←御所〕という注記を入れた。
更に、原稿との大きな差異が認められると私が判断した異同の最初の部分を、本文に※で示し、異同パートの最後に〔←●●〕で原稿の本文(●●)を挿入した。
なお、實朝の直接話法や和歌の詞書(どちらも漢字カタカナ交じり)が二行目に及ぶ場合は、底本では、二行目以降も一字下げとなっている。]
右大臣實朝 太宰治
承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、晴、鶴岳宮の御神樂例の如し、將軍家御疱瘡に依りて御出無し、前大膳大夫廣元朝臣御使として神拜す、又御臺所御參宮。十日、庚戌、將軍家御疱瘡、頗る心神を惱ましめ給ふ、之に依つて近國の御家人等群參す。廿九日、己巳、雨降る、將軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡。以下同斷)
おたづねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。間違ひのないやう、出來るだけ氣をつけてお話申し上げるつもりではございますが、それでも萬一、年代の記憶ちがひ或ひはお人のお名前など失念いたして居るやうな事があるかも知れませぬが、それは私の人並はづれて頭の惡いところと輕くお笑ひになつて、どうか、お見のがし下さいまし。
早いもので、故右大臣さまがお亡くなりになられて、もうかれこれ二十年に相成ります。あのとき、御薨去の哀傷の餘りに、御臺所さまをはじめ、武藏守親廣さま、左衞門大夫時廣さま、前駿河守季時さま、秋田城介景盛さま、隱岐守行村さま、大夫尉景廉さま以下の御家人が百餘人も出家を遂げられ、やつと、はたちを越えたばかりの私のやうな小者まで、ただもう悲愁斷腸、ものもわからず出家いたしましたが、それから、そろそろ二十年、憂き世を離れてこんな山の奧に隱れ住み、鎌倉も尼御臺も北條も和田も三浦も、もう今の私には淡い影のやうに思はれ、念佛のさはりになるやうな事も無くなりました。けれども、ただお一人、さきの將軍家右大臣さまの事を思ふと、この胸がつぶれます。念佛どころでなくなります。花を見ても月を見ても、あのお方の事が、あざやかに色濃く思ひ出されて、たまらなくなります。ただ、なつかしいのです。人によつて、さまざまの見方もあるでせうが、私には、ただなつかしいお人でございます。暗い陰鬱な御性格であつたと言ふひともあるでせうし、また、底にやつぱり源家の強い氣象を持つて居られたと言ふひともございませう。文弱と言つてなげいてゐたひともあつたやうでございますし、なんと優雅な、と言つて口を極めてほめたたへてゐたひともございました。けれども私には、そんな批評がましいこと一切が、いとはしく無禮なもののやうに思はれてなりませぬ。あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或ひは深い諦觀だのとしたり顏して囁いてゐたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆつたりして居られて、のんきさうに見えました。大聲あげてお笑ひになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだらうと同情しても、その御當人は案外あかるい氣持で生きてゐるのを見て驚く事はこの世にままある例だと思ひます。だいいちあのお方の御日常だつて、私たちがお傍から見て決してそんな暗い、うつたうしいものではございませんでした。私が御所へあがつたのは私の十二歳のお正月で、問註所の善信入道さまの名越のお家が燒けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御所へあがつて將軍家のお傍の御用を勤める事になつたのですが、あの時の火事で入道さまが將軍家よりおあづかりの貴い御文籍も何もかもすつかり灰にしてしまつたとかで、御所へ參りましても、まるでもう呆けたやうにおなりになつて、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその樣を見て、笑ひを制する事が出來ず、ついくすくすと笑つてしまつて、はつと氣を取り直して御奧の將軍家のお顏を伺ひ見ましたら、あのお方も、私のはうをちらと御らんになつてにつこりお笑ひになりました。たいせつの御文籍をたくさん燒かれても、なんのくつたくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がつておいでのやうなその御樣子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思ひました。どうしたつて私たちとは天地の違ひがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測つてみたりするのは、とんでもない間違ひのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんといふ淺はかなひとりよがりの考へ方か、本當に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だつたのでございますが、おからだも充分に大きく、少し伏目になつてゆつたりとお坐りになつて居られるお姿は、御所のどんな御老人よりも、分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。
老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉
その頃もう、こんな和歌さへおつくりになつて居られたくらゐで、お生れつきとは言へ、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術がございませんでした。お歌の事に就いては、また後でいろいろとお知らせしなければならぬ事もございますが、十三、四歳の頃からもうあのお方は、新古今集などお讀みになり、さうして御自身も少しづつ和歌をお作りになられて、その十七歳の頃には、もう御指南のお方たち以上の立派なお歌人におなりになつて居られたのでございます。ひどく無雜作にさらさらと書き流して、少し笑つて私たちに見せて下さるのですが、それがすべてびつくりする程のあざやかなお歌なので、私たちは、なんだか、からかはれてゐるやうな妙な氣持になつたものでございます。まるでもう冗談みたいでございました。けれども和歌のお話は後程ゆつくり申し上げる事と致しまして、私が御所へあがつて間もなく、あれは二月のはじめと覺えて居りますが、將軍家には突然發熱せられて、どうやら御疱瘡らしいといふ事になり、御所の騷ぎは申すまでもなく、鎌倉の里人の間には將軍家御臨終といふ流言さへ行はれた樣子で、伊豆、相模、武藏など近國の御家人も續々と御所に駈けつけ、私は御奉公にあがつたばかりの、しかもわづか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく、いまもなほ夢寐にも忘れ得ぬ歴々たる思ひ出として胸に灼きつけられてゐるのでございますが、その時の事をただいま少し申し上げませう。二月のはじめに御發熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拜せられましたが、その頃が峠で、それからは謂ばば薄紙をはがすやうにだんだんと御惱も輕くなつてまゐりました。忘れも致しませぬ、二十三日の午剋、尼御臺さまは御臺所さまをお連れになつて御寢所へお見舞ひにおいでになりました。私もその時、御寢所の片隅に小さく控へて居りましたが、尼御臺さまは將軍家のお枕元にずつとゐざり寄られて、つくづくとあのお方のお顏を見つめて、もとのお顏を、もいちど見たいの、とまるでお天氣の事でも言ふやうな平然たる御口調ではつきりおつしやいましたので私は子供心にも、どきんとしてゐたたまらない氣持が致しました。御臺所さまはそれを聞いて、え堪へず、泣き伏しておしまひになりましたが、尼御臺さまは、なほも將軍家のお顏から眼をそらさず靜かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでございました。あのお方のお顏には疱瘡の跡が殘つて、ひどい御面變りがしてゐたのでございます。お傍のお方たちは、みんなその事には氣附かぬ振りをしてゐたのですが、尼御臺さまは、そのとき平氣で言ひ出されましたので、私たちは色を失ひ生きた心地も無かつたのでございます。その時あのお方は、幽かにうなづき、それから白いお齒をちらと覗かせて笑ひながら申されました。
スグ馴レルモノデス
このお言葉の有難さ。やつぱりあのお方は、まるで、づば拔けて違つて居られる。それから三十年、私もすでに四十の聲を聞くやうになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になつても四十になつても、いやいやこれからさき何十年かかつたつて到底、得られさうもございませぬ。なんといふ秀でたお方でございませう。融通無碍とでもいふのでございませうか。お心に一點のわだかまりも無い。本當に、私たちも、はじめはひどく面變りをしたと思つてゐたのでございますが、馴れるとでも言ふのでせうか、あのお方がだいいち少しも御自身のお顏にこだはるやうな御樣子をなさいませぬし、皆の者にもいつのまにやら以前のままの、にこやかな、なつかしいお顏のやうに見えてまゐりました。お心の優れたお方のお顏には、少しばかりの傷が出來ても、その爲にかへつてお顏が美しくなる事こそあれ、醜くなるなどといふ事は絶對に無いものだと私は信じたいのでございますが、でも、夜のともしびに照らされたお顏には、さすがにお氣の毒な陰影が多くて、それこそ尼御臺さまのお言葉ではないけれども、もとのお顏をもいちど拜したい、といふ氣持も起つて思はず溜息をもらした事も無いわけではございませんでした。けれども、そんな氣持こそ、凡俗のとるにも足らぬ我執で、あさはかの無禮な歎息に違ひございませぬ。
同年。五月大。廿九日、丁卯、兵衞尉淸綱、昨日京都より下著し、今日御所に參る、是隨分の有職なり、仍つて將軍家御對面有り、淸綱相傳の物と稱して、古今和歌集一部を進ぜしむ、左金吾基俊書かしむるの由之を申す、先達の筆跡なり、已に末代の重寶と謂ひつ可し、殊に御感有り、又當時洛中の事を尋ね問はしめ給ふ。
疱瘡が御平癒とは申しても、あれほどの御大病でございましたので、さすがに御餘氣が去らぬらしく時々わづかながらお熱も出ますので、そのとしは、鶴岳宮の一切經會、放生會、またその他のお祭りにも將軍家のおいでは無く、もつぱら御所の御奧におひきこもりでございました。いや、そのとしばかりではなく、翌年、御餘氣が全く去つて、お熱が出なくなつてからでも鶴岳宮へのお參りはなさいませんでした。その翌々年も、代參ばかりで御自身のおいではございませんでした。三年目の、將軍家が二十歳におなりのとしの二月二十二日に、はじめてお參りなされたのでございますが、當時の人たちは、將軍家がそのお顏の御疱瘡のお跡をたれかれに見せたくなくて、お宮にも、おでましにならなかつたのだらう等と下品な臆測をしてゐたやうでございました。けれどもそれは違ひます。あのお方が永く御奧にひきこもつて居られたとは言へ、決してその間ぢゆう鬱々としてお暮しなさつてゐたわけではなく、お熱の無い時にはお傍の人たちとお歌を作り合つてたのしげにお笑ひになり、また廣元入道さまや相州さまとは絶えずお逢ひなされて幕府のまつりごとを決裁なされ、以前となんの變つたところも無く、御自分のお顏の事を氣になさる素振りなどはそれこそ露ほども塵ほども見受けられなかつたのでございます。本當に、下賤の當推量は、よしたはうがようございます。あれは、ただ、將軍家が鶴岳宮の御靈に御遠慮なさつただけの事だと私どもは考へて居ります。御父君右大將さまと御同樣に、まことに敬神の念のお篤いお方でございましたから、御大患後の不淨の身を以て御參詣などは思ひもよらぬ事、身心の潔くなるのをお待ちになつてお參りしようと三年の間、御遠慮をしてゐただけの話で、まことに單純な、また、至極もつともの事ではございませぬか。かへすがへす、したり顏の御穿鑿はせぬことでございます。そのとしの五月二十九日、まだ將軍家の御大患の御餘氣も去らぬ頃の事でごさいましたが、久しく京都へおいでになつてゐた御臺所のお侍の兵衞尉淸綱さまが、京のお土産として、藤原の基俊さまの筆になる古今和歌集一卷を御所へ御持參に相成り將軍家へ獻上いたしましたところが、將軍家に於いては殊のほかお喜びなされて、
末代マデノ重寶デス
とまでおつしやいました。のちに京極侍從三位さまから相傳の私本萬葉集一卷を獻上せられた時にも、ずゐぶんお喜びなさいましたが、この日、古今和歌集をお手にせられて、その御機嫌のおよろしかつたこと、それは、あのやうに學問のお好きなお方でございましたから、その以前にも新古今和歌集はすでに十三、四歳の頃に通讀せられてゐた御樣子で、また古今和歌集にしても、或ひは萬葉集にしても、それぞれ寫本の斷片くらゐにはお目を通され、ちやんと内容の大體を御承知だつた事とも思はれますが、なにせそのとしのお正月に、問註所入道さまのお文庫におあづけになつて居られた御愛讀の歌集をことごとく燒かれて、あの時こそあのやうに美しくお笑ひになつて何もおつしやいませんでしたが、さすがにその後お讀みになる文籍にも事缺き御不自由御退屈の思ひをなさつて居られたらしく、さればこそ、その日、淸綱さまの古今和歌集は、將軍家にとつてはまさに旱天の慈雨とでも申すべきものであつたのでございませう。淸綱さまをお傍ちかく召され御頰を染めて、末代の重寶と仰せられ、また京の御樣子など、それからそれとお尋ねなさるのでございました。將軍家のおたのしみは、お歌、蹴鞠、繪合せ、管絃、御酒宴など、いろいろございましたけれども、何にもまして京の噂を聞く事がおたのしみの御樣子でございました。京都の風をなつかしみ、※またかしこくも、御朝廷の尊い御方々に對し奉つては、ひたすら、嬰兒の如くしんからお慕ひなさつて〔←またかしこくも仙洞御所さまを御自身の尊い御手本となされて、しんからお慕ひなさつて〕居られたらしく、お傍の人たちを實にしばしば京へのぼらせ、その人たちが歸つて來てからの土産話を待ちこがれていらつしやる御有樣は、お傍の私たちまでひとしく待ち遠がつたほどでございました。その日も淸綱さまから京の土産話をさまざま御聽取になつて一日打ち興じて居られましたが、都に於いて去る九日、新日吉小五月會、上皇御幸、その時の美々しくにぎやかな御有樣など淸綱さまは、ありありと眼前に浮ぶくらゐお上手にお話申し上げて、競馬、流鏑馬、的等の番組は記憶ちがひのないやうに、ちやんとこのやうに紙にしるしてまゐりましたと言つて懷中から卷紙を取り出し、御前にさらさらとひろげて、この時競馬の一番目の勝負は誰と誰、二番目は誰と誰、鼓の役は親定朝臣、鉦鼓は長季、いやもうさかんなものです、などと淸綱さまもそれは心得たものでございました。またその折の流鏑馬に峰王といふ綺麗な童子も參加いたして、きりりと引きしぼつて、ひやうと射た矢が的をはづれて恥づかしのあまりただちにその場から逐電なし、たちまちもつて出家したとの事、これには御臺所さまをはじめお傍の人たち一樣に笑ひ崩れてしまひました。
都ハ、アカルクテヨイ。
と將軍家も微笑んでおつしやいました。この淸綱さまは、もともと御臺所さまのお附きのお侍で、御臺所さまはご存じのとほり前權大納言坊門信淸さまの御女子、十三歳の御時に鎌倉へ御輿入に相成り、その時には將軍家も同じ十三歳、さぞかしお可愛らしい御夫婦でございましたでせう。前權大納言さまは、仙洞御所の御母后の御實弟で、京都に於いても指折りの御名門、ひとの話に依りますと、はじめ北條家の近親、足利義兼氏のお娘を御臺所にと執權方からの推薦がございましたのださうで、けれども當時十三歳とは言へ、勘のするどいお方でございますから、
將軍家ノ御臺所ハ京都ニヰマス
ときつぱり御申渡しになつたのださうで、それで周圍のお方たちも餘儀なく京都の公卿さまの御女子あれこれと詮議なされて、また京都に於いても斡旋の勞をとつて下されたお方などもあり、やつと坊門淸信さまの御女子ときまつたといふやうな經緯もあつた御樣子で、この事に就いても、世上往々、將軍家はおませの浮いたお心から足利の田舍の骨太のお娘よりも都育ちの嬋娟たる手弱女を欲しかつたのだらう等と、けがらはしい、恥知らずの取沙汰をしてゐるのを耳に致した事もございますが、とんでもない事で、將軍家はただ、例のおほどかなお心から都のあかるさを、あづまへも取入れたいと、それだけのお氣持から御臺所は京都の人を、とお言ひ渡しなされたのではなからうかと私には思はれるのですが、しひてまた考へまするならば、これも將軍家の無邪氣の靈感でございまして、無邪氣の靈感といふものは、その時には、たわいなく見えながらも、あとあと、月日の經つにつれて、不思議に諸事にぴつたり的中いたしまして、萬人の群議にはるかにまさる素直な適切の御處置であつたといふ事がわかつてまゐりますやうな工合ひのもので、もしも、その時に御臺所さまを遠い京都より求めず、あづまの御家人のお娘の中から御選定なされたならば、この關東にまた一つ北條氏に比肩し得べき御やくかいの御外戚を作るやうな結果になり、同じ土地の御外戚のわづらはしさは、將軍家もお小さい頃から、例の北條氏と比企氏との對立などにつけても、よくご存じの筈で、そのやうな無益の騷擾を御見透しなさつた上の御處置かも知れぬ、とこれさへもまあ、下衆の言ふ、贔屓の引きたふしのやうなものでございまして、無理に意味をつけるとしても、本當に、それくらゐのところのものを或る人はまた仔細らしく、この時すでに將軍家に於いては朝幕合體、さらにすすんで大政奉還の深謀さへあつて御臺所を院の御外戚より求められたのだといふひどく大袈裟な當推量をなさるお方もあつたやうでございました。それもまた思ひ過しの野暮な言ひ草で、私の親しく拜しました將軍家は、決してそんな深い祕密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同樣に、その場の氣配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ靈感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本當に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、
平家ハ、アカルイ。
ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五條橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、淸盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑(かぶと)を取つて逆樣に著給へば、侍共『おん冑逆樣に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆樣には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音讀せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは樂しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戰など最もお氣にいりの御樣子で、「新中納言知盛卿、小船に乘つて、急ぎ御所の御船へ參らせ給ひて『世の中は今はかくと覺え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覽ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお齒をちらと覗かせてお笑ひになり、
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。同じ平家琵琶でも、源家の活躍のところはあまりお求めにならないやうでございました。いちど、那須與一の段をお聞きになり、「與一鏑を取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。小兵といふ條、十二束三伏、弓はつよし、鏑は浦響くほどに長鳴して、過たず扇の要ぎは一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞあがりける。春風に一もみ二もみ揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷を叩きて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり」といふところ迄は、うつとりお耳を傾けて居られましたが、それに續けて、「あまりの面白さに、感に堪へずや思はれけん、平家のかの船の中より齡五十ばかりなる男の、黑革威の鎧著たるが、白柄の長刀杖につき、扇立たる所に立つて舞ひすましたり。伊勢三郎義盛、與一が後に歩ませ寄つて『御諚にてあるぞ。これをも亦仕れ』といひければ、與一今度は中差取つて番ひ、能つ引いてひやうと放つ。舞ひすましたる男の、眞只中をひやうつと射て、舟底へ眞逆樣に射倒す。ああ射たりといふ者もあり、いやいや情なしといふ者も多かりけり。平家の方には、靜まり返つて音もせず。源氏は又箙を叩いてどよめきけり」と法師の節おもしろく語るのを皆まで聞かず、ついとお座をお立ちになつてしまひました。いつたいにあのお方は、御叔父君の九郎判官さまを、あまりお好きでないらしく見受けられました。將軍家の、しんから尊敬して居られた方は、御先祖の八幡太郎義家公、それから御父君の右大將さま、そのお二方のやうに私には見受けられました。
調子に乘つてとりとめの無い事ばかり申し上げて恐れいりましたが、とにかく、お若い頃の將軍家の御日常は決して暗いものではございませんでした。むしろ和氣靄々、とでも言つていいくらゐのものでございまして、その頃お作りになつたお歌で、あまり人の評判にはならなかつたやうでありますが、綺麗なお歌がございます。
ハルサメノ露ノヤドリヲ吹ク風ニコボレテ匂フヤマブキノ花
天眞爛漫とでも申しませうか。心に少しでも屈託があつたなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ。
承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、和田左衞門尉義盛、上總の國司に擧任せらる可きの由、内々之を望み申す、將軍家、尼御臺所の御方に申合せらるるの處、故將軍の御時、侍の受領に於ては、停止す可きの由、其沙汰訖んぬ、仍つて此の如き類、聽されざる例を始めらるるの條、女性の口入に足らざるの旨、御返事有るの間、左右する能はずと云々。
同年。十一月大。四日、甲午、小御所東面の小庭に於て、和田新左衞門尉常盛以下の壯士等切的を射る、是弓馬の事は、思食し棄てらる可からざるの由、相州諫め申すに依りて、興行せらるる所なり、故に勝負有る可しと云々。五日、乙未、相模國大庭御廚の内に、大日堂有り、本尊殊に靈佛なり、故將軍の御歸依等閑ならず、而るに近年破壞の由聞食し及ばるるに就いて、雜色を召し、修造を加ふ可きの旨、今日相州に仰せらると云々。七日、丁酉、去る四日の弓の勝負の事、負方の衆所課物を獻ず、仍つて營中御酒宴亂舞に及び、公私逸興を催す、以其次、武藝を事と爲し、朝廷を警衞せしめ給はば、關東長久の基たる可きの由、相州、大官令等諷詞を盡さると云々。十四日、甲辰、相州年來の郎從の中、有功の者を以て、侍に准ず可きの旨、仰下さる可きの由、之を望み申さる、内々其沙汰有りて、御許容無し、其事を聽さるるに於ては、然る如きの輩、子孫に及ぶの時、定めて以往の由緒を忘れ、誤りて幕府に參昇を企てんか、後難を招く可きの因縁なり、永く御免有る可からざるの趣、嚴密に仰出さると云々。
同年、同月。廿七日、丁巳、和田左衞門尉義盛、上總の國司所望の事、内々御計の事有り、暫く左右を待ち奉る可きの由仰を蒙り、殊に抃悦すと云々。
下々の口さがない人たちは、やれ尼御臺が專横の、執權相模守義時が陰險のと騷ぎ立ててゐた事もあつたやうでございますが、私たちの見たところでは、尼御臺さまも相州さまも、それこそ竹を割つたやうなさつぱりした御氣性のお方でした。づけづけ思ふとほりの事をおつしやつて、裏も表も何もなく、さうして後はからりとして、目下のものを叱りながらもめんだうを見て下さつてさうして恩に着せるやうな勿體を附ける事もなく、あれは北條家にお生れになつたお方たちの特徴かも知れませぬが、御性格にコツンと固い几帳面なところがございまして、むだな事は大のおきらひ、隅々までお目がとどいて、そんなところだけは、ふざけたい盛りの當時の私たちにとつて、ちよつとけむつたいところでございました。さうして、それから、どうもこれは申し上げにくい事でございますが、思ひ切つて申し上げるならば、下品でした。私どもには、このやうな事をかれこれ申し上げる資格も何も無いのはもちろんの事で、私だつて當時は、ひとかたならず尼御臺さまや相州さまの御世話になり、甘えて育つて來たのでございますから、本當に、こんな事を申し上げては私の口が腐る思ひが致しますけれども、どうも、北條家のお方たちには、どこやら、ちらと、なんとも言へぬ下品な匂ひがございました。さうして、そのなんだかいやな惡臭が少しづつ陰氣な影を生じて來て、後年のいろいろの悲慘の基になつたやうな氣も致します。いいえ、決して惡いお方たちではございません。まじめな、いいお方たちばかりでございました。二心なく將軍家にお仕へ申して居られまして、將軍家との間も極めて御圓滿の御樣子に見受けられました。あの、和田左衞門尉さまの上總の國司所望の事から、將軍家と尼御臺さまが御爭論をなされ、いよいよお二人の間が氣まづくなつてしまつて、これがまた將軍家の孤獨、厭世の思ひを深める原因となつた等と、もつともらしく取沙汰してみた人たちも少くなかつたやうで、もとより之は根も葉もない事ではなかつたのですが、でも、御爭論などとは、とんでもない捏造で、あのやうな貴い御身分のお方たちが、それも實の御母子の間で、そんな輕々しい爭論など、なさるわけのものではございません。おそらく一生、お二人の間にそんな爭論などといふいやしい事はなかつたでございませう。あれは、五月のなかば、いいお天氣の日でございましたが、尼御臺さまは御奧へお越しなされて、將軍家と靜かに御物語をなされ、私も謹んでお傍に控へて居りましたが、まことにのどかな、合掌したいくらゐの御立派な御賢母と御孝子、仕へるわが身のさいはひをしみじみ思ひ知りました。
和田ガ上總ノ國司ヲ望ンデヰマスガ
「いけませぬ。」
尼御臺さまは輕く即座におつしやいました。けれどもそのお口元には、いかにも、お若い將軍家がお可愛くてならぬといふやうな優しい笑みをたたへていらつしやいました。
和田モ老イマシタカラ
將軍家は老忠臣の和田左衞門尉さまを、それまでも何かとごひいきになさつて居られました。殊にも先年、やはり内々ごひいきだつた畠山の御一族を心ならずも失ひなされてからは、この唯一の生きのこりの大功臣をいよいよ大事においたはりなされ、このたびの上總の國司所望の事もなるべくは御許容なされたいやうな御樣子が私たちにさへほの見えてゐたのでございます。その日、尼御臺さまと、よもやまのお話のついでに、ふいとその事にお觸れなさつたのでございますが、尼御臺さまは、將軍家のそのやうなお心もちやんとお察しになつて居られたらしく、微笑んで、いいえ、やつぱりいけませぬ、故右大將の御時、すでに侍の受領は許さぬ方針に決して居りますから、と故右大將家の御先例をおだやかにお聞かせ申されたところが、將軍家には幾度もまじめに御首肯なされて、それから尼御臺さまにあらたまつて御禮を申して居られました。
「いいえ、しかし、」尼御臺さまには、そのやうに素直な將軍家を、おいとしくてならぬのでございませう、將軍家のお氣をお引きたてなさるやうに殊更に高くお笑ひになつて、「御父君は御父君、和子には和子の流儀もあらうに、ま、それからさきは女子の差出口など無用になされ。」とおつしやいましたが、これがなんであの、御爭論なものか、お二人お力を合せて故右大將家の御先例をさぐり、之に違ふこと無からんやうにお心を用ゐさせられ、ひたすら御善政にお努めになつて居られる證據にこそはなれ、お仲がまづくなつてそのために將軍家の厭世のもとなど、なんといふたはけたせんさく、いや、つい興奮のあまり口汚くなりまして恥づかしうございますが、一事が萬事、相州さまとのお仲も、俗世間の取沙汰のやうに、へんな重苦しい險惡なところなど少しも私には見受けられませんでした。貴い、謂はば靈感に滿ちた將軍家と、あのさつぱりした御氣性の上に思慮分別も充分の相州さまとの間に、まさか愚かな對立など起る道理はございませぬ。それはお二人の間に時々は御意見の相違が起ることも無いわけではございませんでしたが、いづれも、これから何百年經つてまたこの國にあらはれるかどうかと思はれるくらゐのづば拔けた御手腕の人物同志の事でございますから、俗にいふ呑み込みのお早いこと、颯つと御自分を豹變なされてあつさり笑つてうなづき合ふ御樣子は、傍で拜見してゐて子供心にも爽快な感じが致しました。世間の愚かな男同志のいつまでも、くどくどと言ひ爭つてはては毆るの切るのとあさましく騷ぎたてる有樣と較べて、まるでそれこそ雲泥の差がございました。十一月の四日に、御所〔御所←小御所東面〕のお庭に於いて弓の大試合がございましたけれど、これは相州さまがたつた一言、お歌も結構ですが、とおつしやつたところが將軍家はすぐに、弓の試合を仰出され、相州さまはかしこまつてそのお支度におとりかかりになつたといふだけの事でしたのに、これをまた例の如く惡推量する者があつて、將軍家が相州さまからきつく諫言されてしぶしぶ弓の試合を仰出されたといふ噂が一部に行はれたやうでございました。本當に、御當人同志はなんでもないのに、はたでわいわいあらぬことを騷ぎ立てるので、つい妙な結果になつてしまふ事がこの世にはままあるものでございます。弓の試合は將軍家も心から樂しさうに御覽になつて居られました。その翌る日、相州さまは御奧へおいでなされて、將軍家に昨日の御禮を申し上げ、いかがでございました、と少し笑ひながらお伺ひ申し上げたところが、
弓ノ勝負モ結構デスガ
と將軍家もお笑ひになりながら昨日の相州さまの一言をそつくり眞似ておつしやつて、それから、故右大將家の御歸依淺からざりし相模國の大日堂がひどく荒れはててゐるやうですから即刻修理させるやうお取計ひ下さい、とちよつと方面のちがつた事を優しい口調で仰出されました。武道も大事だが敬神崇佛の念もなほざりにせぬやうとの、いましめのお心からおつしやつたのかも知れません。相模守さまは、あはははと愉快さうにお笑ひになり、おそれいりました、と言つて退出なさいましたが、下々の言葉でいへば、あざやかに一本やられた、といふところでもございませうか。ご自身その國の國司たる相模國の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。お二人の應酬は、いつもこのやうに輕く、水際立つて罪が無く、巷間に言ひ傳へられてゐるやうな陰鬱な反目など私たちにはさつぱり見受けられませんでした。翌々日の七日には、御所に於いて御酒宴がございました。將軍家は、賑やかな事がお好きでございましたから、何かにつけて宴をおひらきなされて、皆の遊びたはむれる樣をしんから樂しさうに、にこにこ笑つて眺めて居られます。その日は、四日の弓の試合で負けたはうの人たちが、勝つた人たちにごちそうするといふ事になつてゐて、將軍家もそれは面白からうと御自身も皆に御酒肴をたまはり宴をいよいよさかんになさいましたので、その夜の御宴〔御宴←御所〕は笑ふもの、舞ふもの、ののしるもの、或ひはまた、わけもなく醉ひ泣きするもの、たはむれの格鬪をするもの、いつものお歌や管絃の御宴とは違つて活氣横溢して、將軍家には、このやうな狼藉の宴もまた珍らしく、風變りの興をお覺えになるらしく、常に無くお酒をすごされ、かたはらの相州さま廣元入道さまを相手に輕い御冗談なども仰せられてたいへん御機嫌の御樣子でございました。
「それにつけても、」とあまりお酒のお好きでない廣元入道さまは、きよろりとあたりを見廻し、「弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ、少し狼藉がすぎますな。」と品よく苦笑しながらおつしやいました。
「これくらゐでいいのです。」と相州さまは、大きくあぐらをかいて盃をふくみながら一座の喧騷のさまを心地よげに眺めて居られました。「これでいいのです。」
「どうも私は宴會は苦手で、」と入道さまはちらと將軍家のはうを見て、「武藝のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出來るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と老いの愚痴みたいな調子で眉をひそめておつしやるのでした。けれども將軍家は、何もお氣づかぬ御樣子で、ただにこにこ笑つておいででした。
「しかし、」と相州さまはひとりごとのやうに、ぼんやりおつしやいました。「婦女子を相手の酒もまた、やめられぬものです。」
「さうでせうか、」と入道さまは頰にかすかな笑ひを浮べて一膝のり出しました。いつもそのお言葉に裏のある入道さまのことでございますから、その時にもいつたいどんな事をおつしやりたい御本心だつたのか、私には見當もつきませんでした。「あなたも、ひどく御風流になられましたな。酒は士氣を旺盛にするためのものとばかり、私は聞いて居りましたが、いろいろとまたその他にも、酒の功德があるものらしい。」
その時、將軍家は靜かに獨り言のやうにおつしやいました。
酒ハ醉フタメノモノデス。ホカニ功德ハアリマセヌ。
さうして、よろよろとお立ちになつて奧へお引上げになられ、相州さまと入道さまとは、互ひにちらりと、けれども鋭く眼くばせをなさいました。それだけの事が、後になつてひどく大袈裟に喧傳されて、なんでも將軍家は相州さまと入道さまに、風流を捨て武藝にお心を用ゐられるやう、こんこんといさめられたさうだ等といふ噂のもとになつてしまつたのでございます。入道さまはともかく、相州さまは將軍家のすぐれたお生れつきを、誰よりもよくご存じの筈で、將軍家がわづか十二歳のお若さを以て關東の長者となられ征夷大將軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へを聞き、それはもちろん相州さまや入道さまがお傍に仕へて御助言なさつたからでもございませうが、後年にいたつても、お心をまづもつて人民の訴訟に用ゐられ、奉行を督して裁判の留滯を避けしめ、また奉行たちをおのおのその領國に派遣して所在に人民の訴訟を聽き出訴の煩を無からしめようと計り、さらに將軍家への直訴をもこのお方の御時にはじめてお許しに相成り、いちいちその訴へをあざやかにお裁きになつたといふほどの天稟の御英才を相州さまともあらうお方がわからぬなどといふ事はございませぬ。こんこんと諫言、などといふ噂を當の相州さまがお耳にしたら、驚き苦笑ひなさる事でせう。將軍家の天衣無縫に近い御人柄に對しては、あれほどの相州さまも何とも申し上げる餘地がなかつたのではなからうかと私には思はれるのでございます。こんこんと諷諫どころか、その大宴會から七日すぎて、十一月の十四日に、こんどはあべこべに相州さまが將軍家にそれこそ本當にこんこんと教へさとされたのでございますから、妙なものでございました。五十に近い分別盛りの相州さまが、まだ十八歳の將軍家に、おだやかにさとされて一言も無いといふ圖はなんともうれしく有難く、いま思つてもこの胸がせいせい致します。それも決して將軍家が相州さまに對して御自身の怨をはらさうなどといふ淺墓なお心からではなく、ただ正しい道理を凛然と御申渡しになつただけの事で、その事に就いては、前にも幾度となく繰返して申し上げましたが、將軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御樣子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御擧止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御靈感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。
相州さまがその年來の郎從の中で、特に功勞のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく參上いたしましたと氣輕に將軍家へ申し上げたところが、將軍家はにつこりお笑ひになつて、
考ヘテミマシタカ
「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。
ダメデス
「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。
子孫ガソノ上ノ欲ヲオコシマス
凛乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。將軍家はさらにお言葉を續けられ、郎從をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎從なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御所へも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混亂の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。
コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。
お聲もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、
管絃ノハウガイイヤウデス
とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら聲高くお笑ひになつて、
「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髮をいれず、
ソレモアリマス
あざやかなものでございました。もちろんそれは冗談で、先日ちよつと相州さまや入道さまから遠まはしに何か言はれたからといつて、それを根にもつてこんな機會に強く返報なさるなどの下司らしい魂膽はみぢんも無く、また、無いからこそ、あんなに平然と、それもありますなどと笑つておつしやる事も出來るわけで、もしわづかでもお心にわだかまつてゐるものがあつたとしたら、とてもあんなにあつさりお答へ出來るものではございませぬ。相州さまも流石にそこは見拔いておいでの御樣子で、將軍家のその御返事をうけたまはつてかへつて大いに御安心の面持ちになられ、お傍にはべつてゐる私たちに向つて、
「お互ひに仕合せなことです。」とまんざらお世辭でもないやうな、低いしんみりした口調でおつしやいました。
そのやうな事がございましてから、將軍家はいよいよ御濶達に、謂はば御自身の靈感にしたがひ、のびのびと諸事を決裁なされ、相州さまにも廣元さまにも、また尼御臺さまにも、以前のやうに何かと御相談なさるといふ事も無くなり、いよいよ獨自の御仁政をおはじめになつたやうに私たちには見受けられました。例の和田左衞門尉さまの國司所望の件も、その後、左衞門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて國司懇望の事、和田家の治承以來の數々の勳功をみづから列擧なされて、後生の念頭ただこの國司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、將軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覽になり、前にその事に就いては尼御臺さまから故右大將家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衞門尉さまをお召しになり、
ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。
と事も無げにおつしやいました。左衞門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られましたが、私はそのとしの五月なかば、あのお天氣のよい日に、のどかに御物語をなされてゐた御母子の美しく尊い御有樣を忘れてはゐませんでしたので、子供心にもちよつとはらはら致しました。けれども、そのやうな事こそ凡慮の及ぶところではないので、あのお方の天與の靈感によつて發する御言動すべて一つも間違ひ無しと、あのお方に比すれば盲龜にひとしい私たちは、ただただ深く信仰してゐるより他はございませんでした。
承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、將軍家、廣元朝臣の家に渡御、相州、武州等參らる、和歌以下の御興宴に及ぶと云々、亭主三代集を以て贈物と爲すと云々。廿一日、戊申、將軍家、三浦三崎に渡御、船中に於て管絃等有り、毎事興を催す、又小笠懸を覽る、常盛、胤長、幸氏以下其射手たりと云々。廿五日、壬子、陸奧國平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等の例に任せて、沙汰致す可きの旨、御置文を殘さるるの處、寺塔年を追ひて破壞し、供物燈明以下の事、已に斷絶するの由、寺僧各愁へ申す、仍つて廣元奉行として、故の如く懈緩の儀有る可からざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると云々。
同年。十月小。十五日、庚午、聖德太子の十七箇條の憲法、並びに守屋逆臣の跡の收公の田の員數在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重寶等の記、將軍家日來御尋ね有り、廣元朝臣相觸れて之を尋ね、今日進覽すと云々。
同年。十一月大。廿二日、丙午、御持佛堂に於て、聖德太子の御影を供養せらる、眞智房法橋隆宣導師たり、此事日來の御願と云々。
あくる承元四年には、ただいま私の記憶に殘つてゐる事もあまりございませんが、將軍家の御日常はいよいよのどかに、昨年より更におからだも御丈夫になられた御樣子で、御多病のお方でございましたが、このとしには、いちどもおひき籠りになつた事が無かつたやうに覺えて居ります。例の和歌、管絃などの御宴會は、誰に遠慮もなさらずたびたび仰出されて、いまではもう將軍家も、すつかりおとなになつておしまひの事でございますから、入道さまも相州さまも、やや安心なさつた御樣子でかれこれこまかい取越苦勞の御助言をなさる事も少くなり、御自分たちのはうから將軍家をお遊びにお誘ひ申し上げる事さへあるやうになりました。まことに御高德の感化の力は美事なものでございます。幕府は安泰、國は平和、時たま將軍家は、どこかの社寺が荒廢してゐるといふ訴へなどをお聞きになると、すぐさまその社寺に就いての故實をお調べになり興隆せしむべきすぢのものならば、相州さまを召して御ていねいなお言ひつけをなさつて、敬神崇佛の念のあまりお篤いお方とは申されませぬ相州さまがその度毎に閉口なさる御樣子が御所の輕い笑ひ話の種になるくらゐの、いかにも無事なその日その日が續いてゐました。この右大臣さまの御時は、源家存亡の重大時期で、はじめから終りまでただもう、反目嫉視陰謀の坩堝だつたなどと例の物知り顏が後にいたつて人に語つてゐたのを耳にした事もございますが、それは實際にその奧深く住んでみなければわからぬ事で、このとしなどは、お奧のお庭の八重櫻まで例年になく重く美しく咲いて高く匂ひ、御所にはなごやかな笑聲が絶えま無く起り、御代萬歳の仕合せにみんなうつとり浸つてゐました。このとしにはまた將軍家は、ずゐぶんと御學問にいそしまれ、御政務のわづかな餘暇にもあれこれと御書見なされて居られました。
厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ
と口癖のやうにおつしやつて、聖德太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、廣元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手傳ひさせて、數知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。
古今無雙、マコトニ御神佛ノ御化身デス。
と嗄れたやうなお聲でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御樣子に見受けられた日もございました。
海ノカナタノ諸々ノ國ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ
ともおつしやつて居られました。そのかみの、眞に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を稱し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有樣で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出來るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御靈感に滿ちた御言動、ねんごろな崇佛の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、淺墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神佛の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも將軍家は住吉神杜に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに從つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河國建福寺の鎭守馬鳴大明神の別當神主等から御注進がございまして、酉歳に合戰有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと將軍家にお伺ひ申したところが、將軍家は淋しげにお笑ひになり、
廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。
と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顏を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戰が鎌倉に起り御所も炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、またお夢ばかりではなく、御酒宴最中にお傍の人の顏をごらんになつて不意にその人の運命を御豫言なさる事もございました。さうしてそれが必ず美事に的中してゐるのでございますから、どうしてもあのお方は、私たちとはまるで根元から違ふお生れつきだつたのだと信じないわけには參りませぬ。人の話に依りますと、おそれおほくも厩戸の皇子さまは、神通自在にましまして、御身體より御光を發して居られましたさうで、私どもにはただ勿體なく目のつぶれる思ひでその尊さお偉さに就いてはまことに仰ぎ見る事も何も叶ひませぬが、右大臣さまほどのお人になると流石に何か一閃、おわかりになるところでもあるのでございませうか、お口を極めて皇子さまの御頭腦、御手腕、御德の深さをほめたたへて居られました。皇子さまの御治蹟こそ日本國の政治の永久の模範、ともおつしやつて居られましたが、御自身の御政策とも思ひ合せ、將來に於いてさまざま期するところがございましたのでせうけれども、あのやうな不運な御最期、たつた二十八歳、これからといふお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本國の大きな損失と申し上げて至當かとも存ぜられます。
承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、霽、寅剋大地震、今朝日に光陰無し、其色赤黄なり。
同年。二月小。廿二日、乙巳、晴、將軍家鶴岳宮に御參、朝光御劍を役す、去る承元二年已來、御疱瘡の跡を憚らしめ給ふに依りて御出無し、今日始めて此儀有り。
同年。五月小。十五日、丙寅、未剋地震。十九日、庚午、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衞尉義村の代官と喧嘩の事有り、今日沙汰を經らる、此の如き地下職人に對し、奉行と稱して恣に張行せしむるの間、動もすれば、喧嘩に及ぶ、偏に公平を忘るるの致す所なり、早く義村の奉行を改む可きの由仰出され、佐原太郎兵衞尉に付せらると云々。
同年。六月小。二日、壬午、陰、申剋、將軍家俄かに御不例、頗る御火急の氣有り、仍つて戌剋、御所の南庭に於て、屬星祭を行はる。三日、癸未、晴、寅剋御不例御減、御夢想の告嚴重と云々。七日、丁亥、越後國三味庄の領家雜掌、訴訟に依つて參向し、大倉邊の民屋に寄宿せしむるの處、今曉盜人の爲に殺害せらる、曙の後、左衞門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と稱して、件の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に屬し、内々尼御臺所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々。
同年。七月大。三日、壬子、晴、酉剋大地贋、牛馬騷ぎ驚く。
同年。八月大。十五日、甲午、晴、鶴岳宮放生會、將軍家聊か御不例に依りて御出無し。廿七日、丙午、晴、將軍家御不例の後、始めて鶴岳八幡宮に詣で給ふ。
同年。九月小。十五日、甲子、晴、金吾將軍の若君、定曉僧都の室に於て落餝し給ふ、法名公曉。廿二日、辛未、霽、禪師公登壇受戒の爲に、定曉僧都を相伴ひて上洛せしめ給ふ、將軍家より、扈從の侍五人を差遣はさる、是御猶子たるに依りてなり。
將軍家が二十歳におなりになつた承元五年は、三月九日から建暦元年と改元になりましたが、このとしは、しばしば大地震があつたり、ちかくに火事が起つたり、夏には永いこと雨が續いて洪水になつたり、また將軍家の御健康もすぐれ給はずとかくおひき籠りがちだつたものでございますから、それやこれやで、お奧におつとめの人たちも一樣に浮かぬ顏をしてゐて笑聲もあまり起らず、なんだか不吉な、いやな年でございました。
もつとも、おひき籠りがちとは言つても、御氣分のおよろしい時には、例の御酒宴に興じなされ、お歌のはうも相變らず、湧いて出る泉のやうに絶える事なくお美事にお出來になつて、また、あれは四月の末の事でございましたでせうか、皆をお連れになつて永福寺へおいでになり、お寺の林の中に永いこと童の如く無心に佇みなされて郭公の初聲を今か今かとお待ちになつてゐたり等した事もございました。その時には、數剋もお待ちになつたのに、つひに郭公の一聲も聞かれず、むなしくお歸りになられまして、まあその事くらゐが、わづかにお奧の笑ひ話の種になつたやうなもので、他にはこのとしには樂しい思ひ出もあんまりございませんでした。將軍家の御政務の御決裁も、このとしあたりから、いよいよ凛然と、いや、峻嚴と申してもよろしいかと思はれるほど不思議に冴えてまゐりまして、それにつけても、その前年のやうな長閑な氣色が次第に御所から消えて行くやうな心もとなさを覺えるのでございました。五月なかばの事でございましたが、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衞尉さまのお代官との私鬪がございました時に、それはなんと言つても三浦さまはあのやうな御大身ではあり、そのお代官に對して、たかが牧士などの地下職人の分際で手向ひするとはもつての他、ばかな事をしたものだと誰もみな呆れて居りましたが、將軍家はそれに對してまことに霹靂の如き、意想外の御裁決を仰出されたのでございます。
三浦ガワルイ。牧士ナドニ反抗サレルヤウデハ奉行ノ威德ガナイノデス。奉行ヲヤメサセナサイ。
例の平然たる御態度で、さりげなくおつしやるのでした。その時は、末座に控へてゐる私まで、ひやりと致しました。眞に思ひ切つたる豪膽無比の御裁決、三浦さまほどの御大身も何もかも、いつさい、御眼中に無く、謂はば天理の指示のままに、さらりと御申渡しなさる御有樣は、毎度の事とは申しながら、ただもう瞠若、感嘆のほかございませんでした。なるほど、そのお代官が牧士などの地下職人を相手に喧嘩をはじめるとは奉行としても氣のきかない話で、將軍家からさうおつしやられてみると、いかにも、もつとも、理の當然の御裁決には違ひございませぬが、でもまた、私たち凡俗のものにとつては、いやしくも三浦平六兵衞尉義村さまともあらうお人を、このやうに無造作に、しかもやや苛酷と思はれるほどに御處置なされては、あとでどんな事になるだらうかとそれが心がかりでないこともございませんでした。さらにまた、六月のはじめ、和田左衞門尉さまが三味庄の地頭代を捕縛なされ、それに就いて少しややこしい事が起りました。越後國三味庄の領家の雜掌が盜賊の爲に殺害せられ、その盜賊は逐電して何者とも判明しなかつたので、左衞門尉さまは、とにかくその庄の地頭代を召取らせ詮議を加える事に相成つたところが、その地頭代の親戚の者たちが不服を稱へ、内々手をまはして尼御臺さまに訴へ申し上げたので妙に氣まづい事になつてしまひました。その頃、將軍家は御病後の、まだお床につかれて居られましたが、たとひ御病床にあつても、まつりごとを怠るやうな事の決して無いお方でございましたので、その日もおやすみのままで相州さまから、諸國の訴訟の事など、さまざま御聽取になつて居られましたが、そのところへ、おつきの女房の駿河の局さまが口を引きしめてそろそろと進み出て、改めて一禮の後、
「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後國は三味庄の、――」と言びかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさつて、
「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衞門尉どのの處置至當なりとの將軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだつて、あんな事件に。」とおつしやつて、少し不機嫌になられた御樣子でお眉をひそめ、お口をちよつと尖らせました。
「尼御臺さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに聲をふるはせて申し上げました。つねから、お氣性の勝つたお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとへにお願ひ申し上げまする。このたびの和田左衞門尉さまの御處置は、まつたくもつて道理にはづれ、無實の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依つて、尼御臺さまにもいたく御懸念の御樣子にございまする。」
尼御臺さま、と聞いて相州さまは幽かにお笑ひになられました。さうして、ふいと何か考へ直したやうな御樣子で、御病床の將軍家のお顏をちらりとお伺ひなさつた間一髮をいれず、
事ノ正邪デハナイ
お眼を輕くつぶつたままで、お口早におつしやいました。
さすがの相州さまも虚をつかれたやうに、ただお眼を丸くして將軍家のお顏を見つめて居られました。
和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヤウニ騷ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。
駿河の局さまは、一瞬醜い泣顏になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のやうに悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかつたのですが、けれどもその澱みなくさらりとおつしやるお言葉の底には、御母君の尼御臺さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷嚴な孤獨の御決意が湛へられてゐるやうな氣が致しまして、幼心の私まで等しく戰慄を覺えました。幼心とは言つても、もう私もその頃は十五歳になつてゐまして、あのお方のお歌のお相手くらゐは勤まるやうになつてゐましたが、それにしてもあのお方の、よろづに大人びたお心持に較べると、實にその間に天地の差がございまして、あのお方はこの建暦元年にはまだ二十歳におなりになつたばかりでございましたのに、このとしの七月、關東一帶大洪水の折、既にあの御立派な、
時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大龍王雨止メ給ヘ
といふ和歌などもお作りになられ、名實ともに關東の大長者たる堂々の御貫祿をお示しになつて居られたのでございます。まことに、お生れつきとは申しながら、何事によらず、どこまで高く美事にお出來になるお方であつたか、私たち凡俗の者には、まるで推量も及びませぬ。
お歌の事などは、またのちほどお話申し上げることと致しまして、さて、もうそろそろ、あの、若い禪師さまに就いてお話する事にいたしませう。誰しもご存じの事に違ひございませぬが、故右大將さまには、お二人の男のお子さまがございまして、お兄君は賴家公すなはち後の二品禪室さま、お弟君は千幡君すなはち後の右大臣さま、この他にも御同胞がございましたやうですが、皆お早くおなくなりになられ、故右大將さまが正治元年正月十三日、御年五十三を以て御他界なされた後は、源家嫡々のお兄君、當時十八歳の賴家公が御父君の御遺跡をお襲ぎになられましたが、このお方に就いては私などは、殆ど何も存じませぬ。御病身で、癇癖がお強く、御鞠の御名人で、しかも世に例のなかつたほどの美貌でいらつしやつたとか、そんな事くらゐを人から聞かされてゐる程度でございますが、いづれは非凡の御手腕もおありになつたお方に違ひございません。けれどもその頃は御時勢が惡かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が續出して諸事このお方の意のままにならず、また、例の御癇癖から、いくぶん御思慮の淺い御行状にも及んだ御樣子で、御身内からの非難もあり、天もこのお方をお見捨てになつたか、御病氣も次第に重くおなりになつて、建仁三年の八月つひに御危篤に陷り、ここに二代將軍賴家公も御決意なされ、御家督をその御長子一幡さまと定め、これに總守護職及び關東二十八ケ國の地頭職をお讓りになり、また賴家公のお弟君の千幡さまには關西三十八ケ國の地頭職をお讓りになられたのですが、これが、ごたごたの原因になりまして、たちまち一幡さまの外祖にあたる比企氏と千幡さまの外祖の北條氏との間に爭端が生じ、比企氏は全滅、そのとき一幡さまもわづか御六歳で殺されました。御病床の左金吾將軍賴家公はそれをお聞きになつてお怒りになり、ただちに北條氏の討伐を和田氏、仁田氏などに書面を以てお言ひつけなさつたけれども、それも北條氏の逸早く知るところとなり、かへつて賴家公の御身邊さへ危くなつてまゐりましたので御母君の尼御臺さまは、賴家公の御身に危害の及ばぬやう無理矢理出家せしめ、一方お弟君の千幡さまの將軍職たるべき宣旨を乞ひ、賴家公はその御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆國修善寺に下向なされ、さしもの大騷動も尼御臺さまのお働きにてまづは一段落となつたとか、人から聞いた事がございます。左金吾禪室さまは、修善寺に於いて鬱々の日々をお送りになり、つひに翌年の元久元年七月十八日に御年二十三歳でおなくなりになられました。おなくなりになつた事に就いて、これも北條氏の手に依つて殺害せられたのだといふ不氣味な噂が立つたさうでございますが、それは私がやつと七つか八つになつたばかりの頃の事でございますし、またそのやうな事に就いての穿鑿は氣の重いことで、まあ、そんな事はございますまいと私は打ち消したい氣持でございます。さてその二代將軍賴家公すなはち後に出家して二品禪室さまには、一幡、善哉、千壽などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の亂の折に比企氏の御一族と共に北條氏に殺され、御三男の千壽さまも、のちに信濃國の住人泉小次郎親平などの叛謀に卷き込まれ、まもなく出家し榮實と號して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舍に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御臺さまの御指圖に依り鶴岳八幡宮寺別當尊曉さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御臺さまのお計ひに依り、將軍家の御猶子にならせられたのださうでございます。さうして、この建暦元年には、やうやく十二歳になられ、その時の別當定曉僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公曉と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが、御落飾がおすみになつてから尼御臺さまに連れられて將軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時始めてこの若い禪師さまにお目にかかつたといふわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて來た人に特有の、磊落のやうに見えながらも、その笑顏には、どこか卑屈な氣弱い影のある、あの、はにかむやうな笑顏でもつて、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辭儀をお返しなさるのでした。無理に明るく、無邪氣に振舞はうと努めてゐるやうなところが、そのたつた十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたはしく思ひ、また暗い氣持にもなりました。けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は爭はれず、おからだも大きくたくましく、お顏は、將軍家の重厚なお顏だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やつぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御臺さまに甘えるやうに、ぴつたり寄り添つてお坐りになり、さうして將軍家のお顏を仰ぎ見てただにこにこ笑つて居られます。
そのとき將軍家は、私の氣のせゐか幽かに御不快のやうに見受けられました。しばらくは何もおつしやらず、例の如く少しお背中を丸くなさつて伏目のまま、身動きもせず坐つて居られましたが、やがてお顏を、もの憂さうにお擧げになり、
學問ハオ好キデスカ
と、ちよつと案外のお尋ねをなさいました。
「はい。」と尼御臺さまは、かはつてお答へになりました。「このごろは神妙のやうでございます。」
無理カモ知レマセヌガ
とまた、うつむいて、低く呟くやうにおつしやつて、
ソレダケガ生キル道デス
尼御臺さまは、すつと細い頸をお伸ばしになり素早くあたりを見廻しました。なんのためにお見廻しなさつたのか、私などに分らぬのは勿論の事でございますが、尼御臺さま御自身にしてもなんの爲ともわからず、ただふいと、あたりを見廻したいやうなお氣持になつたのではないでせうか。御落飾の後は、御學問または御讀經に專心なさつて、それだけが禪師たるお方の生きる道と心掛けること、それは當然すぎるほど當然のことで、將軍家のお言葉には何の奇も無いやうに私たちにはその時、感ぜられたのでございますが、でも後になつて、將軍家と禪師さまとの間にあのやうな悲しい事が起つて見ると、その日の將軍家の何氣なささうなお諭しも、なんだか天のお聲のやうな氣がして來るのでございます。
同年。十月大。十三日、辛卯、鴨社の氏人菊大夫長明入道、雅經朝臣の擧に依りて、此間下向し、將軍家に謁し奉ること度々に及ぶと云々、而るに今日幕下將軍の御忌日に當り、彼の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙頻りに相催し、一首の和歌を堂の柱に注す、草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂フ山風
同年。十一月大。廿日、戊辰、將軍家貞觀政要の談議、今日其篇を終へらる、去る七月四日之を始めらる。
同年。十二月大。十日、戊午、和漢の間、武將の名譽有るの分御尋ね有るに就いて、仲章朝臣之を注し出して獻覽せしむ、今日、善信、廣元等、御前に於て讀み申す、又御不審を尋ね仰せられ、再三御問答の後、頗る御感に及ぶと云々。
また、そのとしの秋、當時の蹴鞠の大家でもあり、京の和歌所の寄人でもあつた參議、明日香井雅經さまが、同じお歌仲間の、あの、鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを將軍家のお歌のお相手として御推擧申し上げたのでございましたが、この雅經さまの思ひつきは、あまり成功でなかつたやうに私たちには見受けられました。入道さまは法名を蓮胤と申して居られましたが、その蓮胤さまが、けふ御所においでになるといふので私たちも緊張し、また將軍家に於いても、その日は朝からお待ちかねの御樣子でございました。なにしろ、鴨の長明さまと言へば、京に於いても屈指の高名の歌人で、かしこくも仙洞御所の御寵愛ただならぬものがあつたとか、御身分は中宮敍爵の從五位下といふむしろ低位のお方なのに、四十七歳の時には攝政左大臣良經さま、内大臣通雅さま、從三位定家卿などと共に和歌所の寄人に選ばれるといふ破格の榮光にも浴し、その後、思ふところあつて出家し、大原に隱棲なされて、さらに庵を日野外山に移し、その鎌倉下向の建暦元年には既におとしも六十歳ちかく、全くの世を捨人の御境涯であつたとは申しながら、隱す名はあらはれるの譬で、そのお歌は新古今和歌集にもいくつか載つてゐる事でございますし、やはり當代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも廣く聞えて居りました。その日、入道さまは、參議雅經さまの御案内で、御所へまゐり將軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、將軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舍ぢいさんで、お顏色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お齒も拔け落ちてしまつてゐる御樣子で、さうして御態度はどこやら輕々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた將軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、
チト、都ノ話デモ
と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも對するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、
「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお聲で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども將軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、
世ヲ捨テタ人ノオ氣持ハ
と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、
「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顏をお擧げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の氣持も全く同樣、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども將軍家は、一向に平氣でございました。
一切ノ放下
と微笑んで御首肯なされ、
デキマシタカ
ややお口早におつしやいました。
「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に應ぜられました。「物欲を去る事は、むしろ容易に出來もしまするが、名譽を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名聲ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名譽心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懷をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名譽の慾を未だ全く捨て去る事が出來ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騷ぎ、すみかを山中に營むといへども人を戀はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから惱ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念佛ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顏には、いささかも動搖の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。
遁世ノ動機ハ
と輕くお尋ねになる將軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。
「おのが血族との爭ひでござります。」
とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顏に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或ひは、それは、私の氣のせゐだつたかも知れませぬ。
ドノヤウナ和歌ガヨイカ
將軍家は相變らず物靜かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。
「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く氣取つた意味など持たせるものでないやうな氣も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を獨り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ參議雅經どのより御垂教を得て、當將軍家のお歌數十首を拜讀いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな氣が致しまして、雅經どのからのお誘ひもあり、老齡を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀拔の歌人の御身邊に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御樣子が心許なく、かくては眞珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ氣持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。
ヲサナイ歌モ多カラウ
「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無賴の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」
ウソトハ、ドノヤウナ事デス。
「眞似事でございます。たとへば、戀のお歌など。將軍家には、恐れながら未だ、眞の戀のこころがおわかりなさらぬ。都の眞似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする戀、雲によする戀、または、衣によする戀、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その酒落の手振りをただ形だけ眞似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舍の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才將軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身邊に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、將軍家は笑ひながらお立ちになり、
モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。
とおつしやつて、お奧へお引き上げになられました。私もそのお後につき從つてお奧へまゐりましたが、お奧の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども將軍家はおだやかに、
ナカナカ、世捨人デハナイ。
とおつしやつただけで、何事もお氣にとめて居られない御樣子でございました。
その翌日、參議雅經さまが少し恐縮の態で御所へおいでになられましたが、その時も、將軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歡談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御所へ參るやうにとのお言傳さへございました御樣子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出來になつたか、その後兩三度、御所へお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、將軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。
信仰ノ無イ人ラシイ
そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ將軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大將家の御忌日に法華堂へお參りして、讀經なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、草モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ拂フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを發足して歸洛なさつた御樣子でございますが、わざわざ故右大將さまの御堂にお參りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、當將軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、當將軍家のお心があまりにお若く無邪氣すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月經つか經たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油斷のならぬ世捨人で、あのやうに淺間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、當將軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが發して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の將軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな氣がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齡を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお氣持で、將軍家にお目にかかりにやつて來られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滯在もなさらず、故右大將さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に歸洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ經緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。
鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも將軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或ひは之は私の愚かな氣の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お變りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その惡業深い體臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。將軍家は、戀のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども將軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顏をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお齒をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、
コノゴロ和歌ガワカツテ來マシタ
などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御學問にもいよいよおはげみの御樣子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお讀みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御樣子で、末は故右大將家にまさるとも劣らぬ大將軍と、御所の人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拜されました。
建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、晴、辰刻、將軍家並びに尼御臺所、二所に御進發、相州、武州、修理亮以下扈從すと云々。八日、乙酉、將軍家以下二所より御歸著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の國々の事、之を尋ね聞召さるるの後に就いて、今日其沙汰有り、向後に於ては、一ケ月も故無くして不參せしめば、三ケ月懃め加ふ可きの由、諸國の守護人等に仰せらる、義盛、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模國相漠河の橋數ケ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、廣元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の爲に、故將軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を經ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの處、仰せて云ふ、故將軍の薨去は、武家の權柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と稱す可からず、彼橋有ること、二所御參詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顚倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々。
同年。五月小。七日、辛酉、相模次郎朝時主、女事に依りて御氣色を蒙る、嚴閤又義絶するの間、駿河國富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御臺所の官女たり、而るに朝時好色に耽り、艷書を通ずと雖も、許容せざるに依り、去夜深更に及びて、潛かに彼局に到りて誘ひ出すの故なりと云々。
あくる建暦二年の二月に、私は、はじめて二所詣のお供をさせていただきました。承元元年正月以來五年振りのお詣りでございましたが、承元元年には將軍家は十六歳、その時には私はまだ御所の御奉公にあがつてゐませんでしたので、このたびはそれこそ本當に、生れてはじめてのお供でございました。將軍家はこのとしから、ほとんど毎年、缺かさず二所詣をなさいまして、建保二年には正月と九月と二度もお參り致しました程で、その敬神のお心の深さは故右大將さまにもまさつて居られるやうに思はれました。故右大將さまも、なかなかに御信心深く、敬神崇佛をその御政綱の第一に置かれて、擧兵なされて間もない壽永元年には、その重だつた御家來たちに御慫慂なさつて、おのおの神馬砂金を伊勢の大廟に奉獻せさせ、また伊勢別宮たる鎌倉の甘繩神社にはそれから程なく御自身、御臺所さまと共に御參詣なされたとか、そのうへ、御幼時から觀音經や法華經を御日課として讀誦なされて居られたお方だつたさうで、その御信心の深さのほどに就いては、いろいろと承つて居りますけれども、當將軍家もまた御襲職以來、伊勢内外宮を始め鶴岳、二所、三嶋、日光その他あまたの神社に神馬を奉納仕り、御參拜も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に對する忠誠の念も巖の如く不動のものに見受けられました。この事に就いてはまたのちほども申し上げたいと存じて居りますが、このとしの二月、二所詣からお歸りになつて間もなくのこと、京都を守護し奉つてゐる諸國の侍たちがこのごろ役目を怠りがちだといふ事をお聞きになつて、大いに恐懼なされ、もつてのほかの事、今後は、一箇月間つとめを休んだ者にはさらに三箇月勤務を強ひるやう、と諸國の守護人にきつく申し渡されたやうな事もございました。もはや將軍家も御年二十一、次第に、莊嚴と申してよいほどの陰影の深い尊さがその御言動にあらはれるやうになつて居りまして、同じ月の二十八日にも、實にお見事なる御裁決をなさいました。二所詣の途次、相模川の橋がところどころ破損してゐて、私たちが渡る時にもひどく危い思ひを致しまして、その時、將軍家はお傍の人に、多くの人が難儀をするから早く修理させたらよからうとおつしやつて居られましたが、そのお言ひつけに就いて、けふ三浦兵衞尉さまからお話が出て、相州さま、前大膳大夫さま、善信入道さまなど打寄つて協議なさいましたところ、なかなか御意見がまとまらず、數剋後、その修理はしばらく見合せませうといふ事に落ちついた模樣でございました。その理由としては、どうもあまり、おとなげのない話でございますが、その橋には氣味の惡い因縁があるのださうで、もともとその橋はあの稻毛の三郎重成入道さまが新造なされましたものださうで、その橋の出來た時に故右大將家が供養に出むかれ橋をお渡りになつて、それが例の建久九年の十二月、その供養がおすみになつてお歸りの途中で御落馬なされ、それがもとで御病床におつきになつて翌年の正治元年の正月に御年五十三でおなくなりになられたのはどなたもご存じの事でございませう、その因縁がある上に、橋の本願人の重成入道さまは、すぐ後に牧の方さま等と惡逆の陰謀をたくらみ、これまたかんばしからぬ死に方をなさいましたし、あれと言ひこれと言ひ、どうも不吉だ、あの橋には、まことにいやな怨靈がつきまとつてゐるといふ事が主なる理由で、修理見合せと衆議一決いたしまして、それを將軍家の御前に於いて披露いたしましたところが、將軍家はその時には、あのいつものお優しい御微笑もなさらず、一座の者に襟を正さしむるほどの嚴肅なお態度で、それは違ひます、故將軍の薨去は、武家の權柄を執ること二十年、官位を極めしめ給うて後の御事にして謂はば天壽、それとも何か、あの橋のために奇々怪々の御災厄に逢ひあさましき御最期をとげられたとでも申すのか、まさかさうとも思はれませぬ、また重成法師の事などは論外、あのやうな愚かしき罪をなして殃に逢ふは當然、すなはち天罰、いづれも橋建立のためのわざはひではありませぬ。以後、不吉などといふ輕々しき言葉は一切用ゐぬやう、あの橋を修理すれば往來の旅人ども、どのやうに助かるかわかりませぬ、何事も多くの庶民のためといふ、この心掛けを失つてはならぬ、一刻も早く橋の修理に取りかかるやう、とそれまで例のなかつた幾分はげしいくらゐの御口調で、はつきり御申渡しになりました。御重臣たちは色を失ひ、こそこそ御退出なさいましたが、相州さまだけは御退出の際もにこにこ笑つて、さうして舌をお出しなさいました。けれども、それは決して將軍家を侮蔑なさるやうな失禮なお氣持からではなく、やられたわい、と御自身にてれて、そのやうな仕草をなさつたやうに見受けられ、私もつられて、つい微笑んでしまひました。ずゐぶんお意地がお惡いといふ評判が、專らでございましたけれど、その相州さまにも、またこんな明るい氣さくな一面があつたのでございます。いつたいこの相州さまは、故右大臣さまのお小さい御時分から、どういふものか右大臣さまを贔屓で、俗にいふ蟲が好いたとでもいふのでございませうか、なんでもかでも、千幡さまにかぎるといふお工合のお熱のあげかたでございまして、この千幡さまに將軍家をお襲がせ申したいばかりに、御父君の時政公とお力を合せて御政敵の比企氏と爭ひこれを倒し、建仁三年、千幡さまはそのお蔭か首尾よく征夷大將軍の宣旨を賜り、實朝といふ諱もこのとき御朝廷からいただいたのださうでございますが、それからすぐに御父君の時政公が、牧の方さまにそそのかされ、このお幼い將軍家を弑し奉らんと計つた時には、相州さまは逸早くその御異圖を感知なされ、こんどはみづからの御父母君とさへ爭ひ、將軍家を御自身のお宅にお迎へ申し、御家來衆と共に嚴重に護衞いたし、御義母の牧の方さまには御自害を強ひ、御實父の時政公には出家をすすめて、幼い將軍家をからくも御災厄からお救ひ申し上げたといふ大手柄もございましたさうで、それから後も相州さまは蔭になりひなたになり當將軍家の御育成にのみお心を用ゐ、自らは執權として御政務の第一の後見者となり、今に故右大將家をも凌ぐ大將軍になし奉らんとそれを樂しみにして朝夕怠らずお仕へ申して居られたやうにも見受けられましたが、どうしたものか、さらに後にいたつては少し御樣子がお變りになりましたやうでございます。一つには、當將軍家の比類を絶した天稟の御風格が、さすがの相州さまのお手にもあまるやうになつて來たからではないかと、まあ、下賤の愚かな思案でございますが、なんだかそんな事も、後のさまざまの御不幸の原因になつてゐるやうな氣が私には致しますのでございます。まことにその建暦二年の頃から、將軍家に於いては、ひとしほ森嚴の大きい御風格をお示しなさるやうになつて、相模川の橋の件では居並ぶ御重臣たちの顏色を失はしめ、また政務の方面ばかりではなく、れいの和歌の方面に於いても、このとしあたりから更に異常の御上達をなされた御樣子で、ほとんど神品に近いお歌が續々とお出來になつたのでございました。そのとしの三月九日に、將軍家は、尼御臺さま、御臺所さま、それから相州さまや武州さま、前夫膳大夫廣元さま、鶴岳の別當さま、私たちまでお連れになつて、三浦三崎の御屋敷〔御屋敷←御所〕にお渡りになりまして、一日、船遊びに打興じましたが、その時、將軍家のおよみになつたお歌は、ほとんど人間業ではなく、あまりの美事に、お心のお優しい御臺所さまなどは、兩三遍拜誦してお涙を御頰に走らせて居られました。
アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル
大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
一言の説明も不要かと存じます。
御臺所さまの御事でも申し上げませう。前にもちよつと申し上げましたが、この御臺所さまは、かしこきあたりとも御姻戚關係がおありになる京の御名家、坊門信淸さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして當將軍家へ御輿入に相成りました由にございます。人の話に依りますと、そのとしの十月十四日には關東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血氣の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病氣でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保さまは京の宿舍の御亭主たる平賀の右衞門朝雅さまとささいの事から大喧嘩をはじめてそれが畠山御一族滅亡の遠因になつたなどの騷ぎもございましたが、まあ、それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの關東御下向の御行列を警衞なさつて、その時の御行列の美々しかつたこと、今でも人の語り草になつてゐるやうでございます。京を御進發の十二月十日は、一天晴れて雲なく、かしこくも上皇さまは法勝寺の西の小路に御棧敷を作らせそれへおのぼりになつて、その御行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の關東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれの美丈夫、次には騎馬の者二人、次に雜仕二人、次にムシ笠の女房六人、それから姫さまの御輿、次に力士十六人、次に仲國さま、秀康さま、いづれも侍のこしらへ、次に少將忠淸さまの私兵十人、その次がまた、例の關東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服調度ことごとく金銀錦繍に非ざる無く、陽を受けて燦然と輝き、拜する者みな、うつとりと夢見るやうな心地になつてしまひましたさうで、けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお聲のもれたのを、たしかに聞いたと言ひ張る人もございましたさうで、まさか、そのやうな事のあるべき筈はございませぬが、でも御年わづか十三歳、見知らぬ遠いあづまの國へ御下向なさるのでございますから、ずゐぶんお心許なく思召したに違ひございませぬ。將軍家に於いても、それを御明察なさらぬわけはなく、何かと優しくおいたはりになつた事と存ぜられます。私が御所へあがつた時には、御臺所さまもすでに御年十七歳、あづまの水にも言葉にも、すつかりお馴れの御樣子で、京をお戀ひなさるやうな御氣色はみぢんもお見せになりませんでした。さうして故右大臣さま御在世中は、ただの一度も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期なされたその翌日、莊嚴房律師行勇さまの御戒師にて、ほとんど御家人のどなたよりもさきに御剃髮なさいました。風にも堪へぬやうな、弱々しく臈[やぶちゃん字注:(くさかんむり)は全体に。]たけたお方ではごさいましたが、やはり尊いお生れつきのお方はなんといつても違ふもので、征夷大將軍源實朝公の御臺所に恥ぢぬ凛乎たる御自負と御決意とをつねにそのお胸の内にお收めなさつて居られたやうに日頃、私たちにも拜されました。そのやうにお心ばえのうるはしい御臺所さまでございましたから、あのお強い御氣性の尼御臺さまも、この御臺所さまをお可愛がりなさる事ひとかたでなく、どこへおいでになるにもお連れになつて、お互ひ實の御親子以上にお打解けられ末しじゆう御睦じくして居られたやうでございました。將軍家の御臺所さまを御大切になさることもまた、それに劣らず、承元四年の六月の事でございましたが、御臺所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への歸途、駿河國宇都山に於いて群盜に逢ひ、所持の財寶ならびに、御臺所さまの御實家、坊門さまより整へ下された御臺所さまへの御土産の御晴衣など悉く盜み取られたといふ事件がございまして、將軍家はそれをお聞きになり、御臺所さまをお氣の毒に思召したからでもございませう、直ちに駿河以西の海道の驛々に夜番を立たせ、これからも嚴重に旅人の警固につとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。將軍家のこのやうな深い御愛情には、御臺所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御臺所さまをお誘ひになり、殊にも和歌會や繪合せの折には、御臺所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、將軍家に京風の粹をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも變らず御圓滿でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出來にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出來ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無禮の當推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出來るのですが、故右大臣さまは、お酒を飮み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奧〔お奥←御所〕の女房たちに對して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。戀のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで繪そらごと、長明入道さまの言ひ方に從へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、將軍家は戀といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御斷言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拜讀しただけで將軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見拔いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事實は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御淸潔になさつて居られましたので、御所の人たちに對しても、お酒をのんで亂醉に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさいましたが、好色のあやまちには、つねに嚴罰をもつておのぞみになられました。その建暦二年の五月にも、執權相州さまの御次男朝時さま、このお方は色の白い、立派に御肥滿の美男でございましたが、御兄君の修理亮泰時さまのあの御發明に似ず、どうも何事もあまりお出來にならないやうでございました。日頃、色を好まれるお方らしく、私もくはしい事は存じませぬが、なんでも御臺所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひを寄せた、とでも申すのでございませうか、その邊の機微は武骨の私どもにはわかりませぬ、とにかく艷書などの御工夫もあれこれなさいました御樣子で、まことに、ばからしいお話で恐縮でございます。その艷書も極めてお手際のまづいものだつたのでございませう、一向にききめが無く、いまはこれまでと滅茶苦茶におなりになつて風流の御工夫も何もお棄てになり、深夜、その女房どののお局に忍び込み、ぐいぐいひつぱり出したとか、どうとか、それもまたお手際の極めてまづいところがございましたやうで大騷ぎになりまして、たちまち近習に召捕られてしまひました。御運のお惡いお方でございます。けれども、いまをときめく執權相州さまの次男若君の事でございますし、またその罪も、まあどちらかと言へば、御所のお笑ひ草の程度で、そんなに憎むべき大惡業でもないやうに私たちには思はれて、翌日早々お許しの出る事と噂をして居りましたところが、その翌日、將軍家は事のあらましをお聞きになり一議に及ばず、鎌倉追放を御申渡しになりました。
仕へル者ノハリツメタ心モ知ラヌ。親ニモ同胞ニモワカレテ仕ヘテヰルノデス。
と、お顏を横に向けて中庭の樹々の青葉にお眼をそそぎながら靜かにおつしやいました。その兩親とも兄弟姉妹ともわかれて、ひとり御所に奉公してゐる者の朝夕ひたすら緊張してゐる心も知らず、おのれの色慾の工夫ばかりしてゐる人の愚かしさを、つよくおとがめになつたのだといふ御深慮の程が、私たちにもはじめて納得出來ました。相州さまも、その場に控へて居られましたが、さすがに御賢明の御人物だけあつて、この正しい道理に今は抗すべからずと即座に御觀念なさつた御樣子で、次郎朝時をただいまより勘當いたすべき旨、未練氣もなく將軍家に言上なさいましたので、朝時さまも、あてがはづれて泣きながら駿河國富士郡の片田舍に落ちて行かれた由にございます。好色の念のつつしむべきはさる事ながら、將軍家が、御所に奉公してゐる女房、童たちを、どのやうに愼重に正しくいつくしんで居られたか、このやうなお笑ひ草にも似た小さい例證に依つても明々白々におわかりの事と存じます。かへすがへす無禮千萬の、あの憎むべき下賤の取沙汰の如き事實は、まことに、みぢんも見受けられなかつたといふ事をここに繰り返して申し上げて置く次第でございます。
同年。六月大。廿二日、丙申、御持佛堂に於て、聖德太子の聖靈會を行はる、莊嚴房以下、請僧七人と云々。廿四日、戊戌、將軍家和田左衞門尉義盛の家に入御、御儲基だ丁寧なり、和漢の將軍の影十二鋪を以て、御引物と爲すと云々。
同年。七月小。九日、癸卯、賀茂河堤の事、難儀たりと雖も、勅諚の上は、早く彼の所々を除く可きの由、仰出さる。
同年。八月大。十八日、辛卯、伊賀前司朝光、和田左衞門尉義盛、北面の三間所に候す可きの由、今日武州傳へ仰せらる、彼所は、近習の壯士等を撰びて結番祗候せしむと云々、而るに件の兩人は、宿老たりと雖も、古物語を聞召されんが爲、之に加へらるる所なり。十九日、壬辰、鷹狩を禁斷す可き事、守護地頭等に仰せらる、但し信濃國諏訪大明神御贄の鷹に於ては、免ぜらるるの由と云々。
同年。九月小。二日、乙巳、晴、筑後前司賴時、去夜京都より下向す、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を進ず。
同年。十月大。廿日、壬辰、午剋、鶴岳上宮の寶前に羽蟻飛散す、幾千萬なるかを知らず。廿二日、甲午、奉行人等を、關東御分の國々に下し遣はし、其國に於て、民庶の愁訴を成敗す可きの由、其沙汰有り、參訴の煩を止められんが爲なり。
同年。十一月大。八日、庚戌、御所に於て、繪合せの儀有り、男女老若を以て、左右に相分ち、其勝負を決せらる、此事、八月上旬より沙汰有るの間、面々に結構尤も甚し、或は京都より之を尋ね、或は態と風情を圖せしむ、廣元朝臣獻覽の繪は、小野小町の一期の盛衰の事を圖す、朝光の分の繪は、吾朝の四大師の傳なり、數卷の中、此兩部頻りに御自愛に及ぶ、仍つて左方勝ち訖んぬと云々。十四日、丙辰、去る八日の繪合の事、負方所課を獻ず、又遊女等を召し進ず、是皆兒童の形を摸し、評文の水干に紅葉菊花等を付けて、之を著し、各郢律の曲を盡す、此上藝に堪ふる若少の類延年に及ぶと云々。
同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持參す、將軍家從二位に敍せられ給ふ。廿八日、庚子、晴、戌剋、鎌倉中聊か騷動す、道路其故無くして鼓騷す、是歳末の忩劇に非ず、謀叛を發すの輩有るかの由、其疑有りと云々。
女房、童の端々にまで、そのやうに人知れぬ嚴肅のお心づかひをなさつて居られたほどのお方でございますから、幕府の御重臣や御家人を大事になさることもまた、ひとかたでなく、諸人ひとしくその厚いお惠みに浴し、このお若い將軍家になびきしたがふこと、萱野の風になびくさまにも似て、まことに山よりも高く海よりも深き御恩德の然らしむるところとは言へ、その御勢力の隆々たるさまは、御父君右大將さまにもまさる心地が致しました。まさにこの御年二十一歳、さらに翌年の御年二十二歳の頃が、將軍家御一身に於かれましても最もお得意の御時期ではなかつたらうかと、私には思はれてなりませぬ。甚だ失禮の推量で、まことに申し上げにくい事でございます。けれども、どうも、それから後は、暗い、と申しても言ひ過ぎで、御所には陽氣な笑聲も起り、御酒宴、お花見、お歌會など絶える事もなく行はれて居りましたが、どこやら奇妙な、おそろしいものの氣配が、何一つ實體はないのに、それでもなんだか、いやな、灰色のものの影が、御所の内外にうろついてゐるやうに思はれて、時々ゆゑ知らず、ぞつとする事などもございまして、その不透明な、いまはしい、不安な物の影が年一年と、色濃くなつてまゐりまして、建保五、六年あたりから、あの悲しい承久元年にかけては、もうその譯のわからぬ不安の影が鎌倉中に充滿して不快な惡臭みたいなものさへ感ぜられ、これは何か起らずにはすまぬ、驚天動地の大不祥事が起る、と御所の人たちひとしく、口には言ひませぬけれども暗默の裡にうなづき合つてゐたほどでございまして、人の心も解け合はず、お互ひ、これといふ理由もなしに、よそよそしく、疑ひおびえ、とてもこの建暦二年の御時勢の華やかさとは較べものにも何もならぬものでございました。この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪氣にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東國武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道廣元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛將お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤燒けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお氣持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て來て、御所のお歌會はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの繪合せも興行され、お奧の女房、近習にまじつて、れいの猛將御歌人連もそろつて御參加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお繪が拔群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして數日後にはその繪合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御所にお召しになつて舞へ歌への大陽氣で末座の私たちまで藝を強ひられ、眞に駘蕩たるものがございました。けれども將軍家はいつもかうして遊び呆けて居られるといふわけでは決して無く、御政務のはうもいよいよあざやかに決裁なされ、また、かねて御尊崇の厩戸の皇子さまの御治蹟に就いては、その頃さらに深く御究明なされたところもございました御樣子で、ほとんど御心醉に近いほどの御傾倒振りでございまして、そのとしの六月二十二日にも御持佛堂に於いて、皇子さまの御聖靈會をねんごろに取り行はせられました。厩戸の皇子さまに對する御心醉振りには、また他にいろいろと御理由もございました事と存じますが、もともと御皇室のお方々に對しては、誰から教へられるともなく謂はば自然の御本能に依り恭謙の赤心をお持ちになつて居られましたお方で、仙洞御所への絶對の御心服のほども、事あるごとにいよいよ歴然としてまゐりまして、そのとしも御朝廷からの御言ひ附けにより京の賀茂川堤の修築に取りかかりましたが、七月に幕府のその賦役の割當に就いてごたごたが起り、そのとき御朝廷のはうで新しく割當を定められ、それを幕府にお示しになりましたところ、こんどはその新しい割當に對して、これでは幕府のはうが非常な難儀な事になる、とただもう幕府大事の相州さまなど御所へまゐつて苦情を申し上げる始末で、またもや紛糺しかけた時に、俗にいふ鶴の一聲とでも申すものでございませうか、
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス
一座はしんとなりました。謂はば天意、いかなる難儀があらうとも必ず速かに勅諚の御旨を奉ずべきものであると、威儀を正してお諭しになられました。決して和歌管絃にのみお心を奪はれてゐたお方ではございませぬ。やつぱり相州さまなどとは、そのお心の御誠實と言ひ、御視界の廣さと言ひ、御着想の高さと言ひ、御氣品と言ひ、まるで數十段のお差があると私たちには拜せられました。繪合せ、御酒宴に打ち興ぜられると共に、このやうな嚴たる御決裁もなさいますし、また、御自身は風流をお好みなされても、それを御家臣にやたらにお強ひなさつて、和歌を作る者だけを特に御寵愛なされ、さうして和歌も出來ず繪合せも不調法といふ根つからの武骨者をうとんじなされたかといふと、全くそのやうな依怙の御沙汰はなさらず、たとへば和田左衞門尉義盛さま、このお方こそ鎌倉一の大武骨者、和歌は閉口、繪合せはまつぴら、管絃はうんざり、ほととぎすの聲も浮かぬお顏で聞いて、ただ侍所別當のお役目お大事、忠義一徹の御老人でございましたが、將軍家にはこの野暮の和田さまが大の御贔屓で、御父君右大將さま御擧兵以來の至誠の御勇士いまに生き殘れる者わづかに義盛、朝光と數へて五指にも足らぬ有樣、殊にも元久二年、將軍家御年十四歳の折に、誠忠廉直の畠山父子が時政公の奸策により、むじつの罪にて悲壯の最期をとげられて以來、いよいよこのやうな殘存の御老臣を御大切になされ、大野暮の和田さまをもいろいろとおいたはりになつて、この和田左衞門尉さまの居られる前では、和歌のお話などあまりなさらず、もつぱら故右大將家幕府御創設までの御苦心、または義盛さま十數度の合戰の模樣など熱心にあれこれとお尋ねになり、左衞門尉さまも白髮のお頭を振つて訥々と當時の有樣を言上し、天晴れ御宿老たるのお面目をほどこして御退出なさるのが常のことでございました。しかもこの建暦二年の頃から、さらにひとしほ此の老忠臣に對する御愛顧が深まつた御樣子で、六月の二十四日には義盛さまのお宅へわざわざお遊びに出むかれましたほどで、和田氏御一門にとつては無上の光榮、またその折の將軍家のお手土産は、そこは御如才もなく、老勇士の一ばん喜びさうな和漢の猛將軍たちの肖像畫といふわけでございまして、左衞門尉さまのその日のお喜びは、どのやうに深いものでございましたでせう。御所の人々も、ひとりのこらず御老人のまさに末代までの御面目を慶賀し、かつは、おうらやみ申しました。光榮はそればかりでなく、八月十八日には、さらにこの義盛さまへ、同じ御氣に入りの老勇士、結城の朝光さまと共に北の三間所、すなはち將軍家の御身邊ちかくに、いつも伺候してゐるやう仰出されまして、この三間所は、私たちのやうな若年の近習がほんの少數、かはり番に伺候してゐるところで、謂はば御所のお奧でございまして、失禮ながら野暮のむさくるしい御老體など、まごつく場所ではないのでございますが、古いお物語なども隨時聞きたいから、との仰せで特に三間所伺候に、さし加へられる事になつたのでございます。老いの面目これに過ぎたるは無く、そのお優しくこまかい、おいたはりには、他人の私どもでさへ、涙ぐましい思ひが致しました程でございます。老齡と雖もさらに奮起一番して粉骨碎身いよいよ御忠勤をはげみ、餘榮を御子孫に殘すべきところでございましたのに、まことに生憎のもので、この御寵愛最も繁かりしその翌年、あの大騷動にて御一族全滅に相成りました。或ひは四月に御所の御部屋の丸柱から、ひこばえが萌え出て、小さい白い花が咲いたり、或ひは十月、鶴岳上宮に幾千萬とも知れぬ羽蟻の大群が襲來したり、或ひは歳末、鎌倉中の道路が異樣の響きで鳴り出したり、この建暦二年といふとしは御所太平とは申しながら、その底には、どこやら、やつぱり不吉な鬼氣がただよひ、おそろしい天災地變でも起るのではなからうかと、ひそかに懸念してゐた苦勞性の人も無いわけではなかつたのでございますが、まさか、あの和田さまが。
建暦三年癸酉。正月小。十六日、戊午、天晴、將軍家二所の御精進始なり。廿二日、甲子、天晴、二所に御進發、相州、武州等供奉し給ふ。廿六日、戊辰、晴、將軍家二所より御歸著と云々。
同年。二月大。一日、壬申、幕府に於て和歌御會有り、題は梅花萬春を契る、武州、修理亮、伊賀次郎兵衞尉、和田新兵衞尉等參入す、女房相まじる、披講の後、御連歌有りと云々。二日、癸酉、昵近の祗候人の中、藝能の輩を撰びて結番せらる、學問所番と號す、各當番の日は、御學問所を去らず參候せしめ、面々に時の御要に隨ふ、又和漢の古事を語り申す可きの由と云々。十五日、丙戌、天霽、千葉介成胤、法師一人を生虜りて、相州に進ず、是叛逆の輩の中使なり、相州即ち此子細を上啓せらる。十六日、丁亥、天晴、安念法師の白状に依りて、謀叛の輩を、所々に於て生虜らる、凡そ張本百三十餘人、伴類二百人に及ぶと云々、此事、濫觴を尋ぬれば、信濃國の住人泉小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、輩を相語らひ、故左衞門督殿の若君を以て大將軍と爲し、相州を度り奉らんと欲すと云々。
同年。三月大。二日、癸卯、天晴、今度叛逆の張本泉小次郎親平、建橋に隱れ居るの由、其聞有るに依りて、工藤十郎を遣はして召さるる處、親平左右無く合戰を企て、工藤並びに郎從數輩を殺戮し、則ち逐電するの間、彼の前途を遮らんが爲、鎌倉中騷動す、然れども、遂に以て其行方を知らずと云々。六日、丁未、天霽、彈正大弼仲章朝臣の使者、京都より到來す、去月廿七日閑院遷幸、今夜即ち造營の賞を行はる、將軍家正二位に敍し給ふ、仍つて其除書を送り進ず。八日、己酉、天霽、鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞するの間、遠近の御家人群參すること、幾千萬なるかを知らず、和田左衞門尉義盛は、日來上總國伊北庄に在り、此事に依りて馳せ參じ、今日御所に參上し、御對面有り、其次を以て、且は累日の勞功を考へ、且は子息義直、義重等勘發の事を愁ふ、仍つて今更御感有りて、沙汰を經らるるに及ばず、父の數度の勳功に募り、彼の兩息の罪名を除かる、義盛老後の眉目を施して退出すと云々。
さて、つづく建暦三年、このとしは十二月六日に建保と改元になりましたが、なにしろ、事の多いとしでございました。正月一日から地震がございまして、はなはだ縁起の惡い氣持が致しましたが、果して陰謀やら兵亂やら、御所の炎上、また大地震、落雷など、鎌倉中がひつくり返るやうな騷ぎばかりが續きました。けれども將軍家の御一身上に於いては、御難儀、御心痛の事もそれは少からずございましたでせうが、それと同時に、このとしあたりが最も張り合ひのございました時代のやうに見受けられぬ事もないわけではございませんでした。神品に近い秀拔のお歌も、このとしには續々とお出來になりました御樣子でございますし、のちに鎌倉右大臣家集とも呼ばれ、または金槐和歌集とも稱せられた千古不滅の尊くもなつかしい名歌集も、このとしの暮にひそかに御自身お編みになられたものらしく、鎌倉右大臣家集或ひは金槐和歌集といふ名前などは、もちろん將軍家のおなくなりになつて後に附せられたものでございませうが、ついでながら、金槐の金は鎌倉の鎌の偏をとつたものの由で、槐は御承知のとほり大臣を意味する言葉ゆゑ、金槐とは鎌倉右大臣の事でございますさうで、私たちには思ひ出も悲しくさうして今ではあのお方の御俤をしのぶ唯一のお形見ともなつたあの御歌集が、御年わづか二十二歳で完成せられたとは、あのお方の、やつぱり、ただ人でないといふ事の何よりの證據ともならうかと存ぜられます。そのとしのお正月にも、例の二所詣をなさいまして、私などもお供の端に加へていただき、御出發して程なく、ひどい吹き降りになつて難儀をいたしましたが、將軍家はお氣輕なもので、
春雨ニウチソボチツツアシビキノヤマ路ユクラム山人ヤ誰
などといふおたはむれのお歌をおよみになつて、お供の人たちを大笑ひさせて居られました。本當に、この毎年の二所詣は、將軍家の深い御敬神のお心から取行はせられたとは言へ、滅多に遠く御他出などなさらなかつた將軍家にとつては、これが唯一のお氣晴しの御遊山であつたのかも知れませぬ。まづ箱根權現に參籠して謹んで祈誓の誠を致され、それから伊豆山權現に向つて出發いたしましたが、その前日あたりから一片の雲もなく淸澄に晴れて、あたたかい日が續き、申しぶんの無いたのしい旅が出來ました。箱根を進發してすぐに峠にさしかかり、振りかへつてみると箱根の湖は樹間に小さくいぢらしげに碧水を湛へてゐるのが眼下に見えました。
タマクシゲ箱根ノ水海ケケレアレヤ二ク二カケテ中ニタユタフ
と將軍家のおよみなされたのもこの時でございまして、間然するところなき名描寫のやうに私たちには思はれました。既にご存じでございませうが、心のことを東言葉でケケレと申す事もございまして、また二クニといふのは相模と伊豆の事かと存ぜられます。相模伊豆の國ざかひに、感じ易いものの姿で蒼くたゆたうてゐるさまが、毎度の事でございますが、不思議なくらゐそのまんま出てゐるやうに思はれます。將軍家のお歌は、どれも皆さうでございますが、隱れた意味だの、あて附けだの、そんな下品な御工夫などは一つも無く、すべてただそのお言葉のとほり、それだけの事で、明々白々、それがまたこの世に得がたく尊い所以で、つまりは和歌の妙訣も、ただこの、姿の正しさ、といふ一事に盡きるのではなからうかとさへ、愚かな私も日頃ひそかに案じてゐるのでございますが、あまり出すぎたことを申しあげて、當世の和歌のお名人たちのお叱りを受けてもつまりませぬゆゑ、もうこれ以上は申し上げませぬけれど、とにかく、この箱根ノミウミのお歌なども、人によつては、このお歌にこそ隱された意味がある、將軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思ひまどつてゐる事を箱根ノミウミに事よせておよみになつたやうでもあり、あるいは例の下司無禮の推量から、御臺所さまと、それから或る若い女人といづれにしようか、などとばからしい、いろいろの詮議をなさるお人もあつたやうでございましたが、私たちにはそれが何としても無念で私自身の無智淺學もかへりみず、ついこんな不要の説明も致したくなつてまゐりますやうなわけで、私たちは現に將軍家と共にそのとしの二所詣の途次ふと振りかへつてみたあの箱根の湖は、まことにお歌のままの姿で、生きて心のあるもののやうにたゆたうて居りまして、御一行の人たちひとりのこらず、すぐに氣を取り直して發足できかねる思ひの樣子に見受けられました、ただ、その思ひだけでございます、見事に將軍家はお歌にお現しになつて居られます。箱根の湖を振りかへり振りかへり峠をのぼり、頂上にたどりつきましたら、前方の眼界がからりとひらけて、
箱根ノ山ヲウチ出デテ見レバ浪ノヨル小島アリ供ノ者ニ此ウミノ名ヲ知ルヤト尋ネシカバ伊豆ノ海卜ナン申スト答ヘ侍リシヲ聞キテ[やぶちゃん注:底本では、この詞書は二行目も二字空け。]
箱根路ヲ我コエクレバ伊豆ノ海ヤ沖ノ小島ニ浪ノヨル見ユ
まことに神品とは、かくの如きものと思ひます。あづまには、あづまの情がある筈でござりますなどと、ぶしつけな事を申し上げたあの鴨の長明入道さまも、この名歌に對しては言葉もなくただ低頭なさるに違ひございませぬ。ついでながら、このとしの三月、彈正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造營の賞が行はれ、將軍家正二位に陞敍せられた事の知らせがございまして、昨年の暮、從二位に敍せられたばかりのところ、今また重なる御朝恩に浴し、これすでに無上の光榮、かたじけなさにお心をののいて居られる御樣子に拜されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御氣配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寢なさらず、はるかに西の、京の方の空を拜し、しきりに御落涙なさつて居られました。
百ノ霹靂一時ニ落ツトモ、カクバカリ心ニ強ク響クマイ。
と蒼ざめたお顏で、誰に言ふともなく低く呻かれるやうにおつしやつて、その夜、三首のお歌を謹しみ愼しみお作りになられました。
太上天皇御書下預時歌
オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ
ヒンガシノ國ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ
山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ
御説明もおそれおほい事でございますが、ハコヤノ山とは藐姑射之山、仙洞と同義で、すなはち仙洞御所をそのやうに稱し奉る御ならはしのやうでございます。このお歌に就いても、いつたいその時の御書の御内容はどういふものであつたのか、さうして將軍家はそれに依つて如何なる決意をなさつたのか、などと要らぬ不敬の探索をなさるお方もございますやうですが、別にそのやうな御苦勞の御詮議をなさるまでもなく、何もかもそつくり明白にそのお歌に出てゐるではございませぬか。かたじけなくも御親書を賜り百雷一時に落ちる以上の強い衝動を覺えられ、その素直なる御返答として、大君への純乎たる絶對の恭順のお心をお歌におよみになつたのでございますから、御書の御内容もおのづから推量できる筈でございます。すなはち將軍家に對して、さらに朝廷への忠勤をはげむやう、との極めて御當然の御勅諚であられたといふより他には何も考へられないではございませぬか。前にもくどいくらゐ申し上げましたが、將軍家のお歌はいつも、あからさまなほど素直で、俗にいふ奧齒に物のはさまつたやうな濁つた言ひあらはし方などをなさる事は一度もなかつたのでございます。この時お二方の間に、何か御密約が成立したのではなからうか、などとひどく凝つた推察をなさるお人さへあつたやうでございますけれど、それなら、將軍家の方からも機を見てひそかに御返書を奉るべきでございまして、何もことさらに堂々とお歌を作り、御身邊の者にも見せてまはるなどは、とんでもない愚かな事で、ばからしいにも程がございます。そのやうな、ややこしい理由など、一つも無いのでございます。大君への忠義の赤心に、理由はございません。將軍家に於いても、ただ二念なく大君の御鴻恩に感泣し、ひたすら忠義の赤誠を披瀝し奉らん純眞無垢のお心から、このやうなお歌をお作りになつたので、なんの御他意も無かつたものと私どもには信ぜられるのでございます。御胸中にたとひ幽かにでも御他意の影があつたら、とても、このやうに高潔淸澄の調べが出るものではございませぬ。將軍家はこの時は御年わづかに二十二歳でごさいましたが、このとしの暮に、例の、鎌倉右大臣家集または金槐和歌集とのちに稱せられた御自身の和歌集を御みづからお編みになつてその折に、この三首のお歌を和歌集の卷軸として最後のとどめの場所にお据ゑになり、やがてその御歌集を仙洞御所へも捧げたてまつつた御樣子でございました。私どもの日常拜しましたところでは、あの將軍家でさへ、決して普通のお生れつきではなく、ただ有難く尊く目のくらむ思ひがするばかりでございましたのに、その將軍家を御一枚の御親書によつて百の霹靂に逢ひし時よりも強く震撼せしめ恐懼せしめ感泣せしめるお方の御威德の高さのほどは、私ども蟲けらの者には推しはかり奉る事も何も出來ず、ただ、そのやうに雲表はるかに高く巍然燦然と聳えて居られる至尊のお方のおはしますこの日本國に生れた事の有難さに、自づから涙が湧いて出るばかりの事でございます。ただもう幕府大事であくせくしてゐるあの相州さまなど、少しは將軍家を見習ひ、この御皇室の洪大の御恩德の端にでも浴するやうに心掛けてゐたならば、後のさまざまの悲慘も起らずにすんだのでございませうが、そこは將軍家と根本から違つて、膽力もあり手腕もあり押しも押されもせぬ大政治家でございましたのに、御自身御一家の利害のみを考へ、高潔の獻身を知らぬお方でございましたので、次第に人から憎まれるやうになり、つひには御自分から下品の御本性を暴露なさるやうにさへなりました。このとしの二月にも信濃國の住人、泉小次郎親平といふ人が、相州さまを憎んで亡きものにしようと内々謀逆を企ててゐたのが、未然に露顯して鎌倉中が大騷動になつたといふ事件がございました。この泉小次郎親平といふ人は、前將軍左金吾禪室さまの三男若君、千壽さまを大將軍に擁立して、いまは時を得顏の北條一族を殲滅せんとの大陰謀を企て、建暦元年頃よりひそかに同志を募つて居りましたのださうで、直接、當將軍家に對しては逆意がなかつたやうでございますが、何せそのお傍に控へて權力を振ふ相州さまが憎くて、それにまたこの泉親平に劣らず、かねてより相州さまをこころよからず思つてゐた御家人もなかなか多かつた樣子で、たちまち同志がふえて一大勢力になりかけた時、二月十五日、千葉介成胤さまが、安念坊といふ擧動あやしき法師を捕へて、相州さまのお手許に差し出しました。これが大陰謀露顯の端緒で、その安念坊といふ法師は、謀逆の遊説使のやうなものでございましたさうですから、大いにその法師は責めたてられ、つひにその自白に依り、同志百三十餘人、伴類二百人ことごとく召しとられ、相州さまの下知で、ただちに斷罪あるいは流罪に處せられた樣子でございますが、叛逆の張本人たる泉小次郎親平だけは、いづかたへともなく逃れ去つておしまひになつたさうで、相當の豪傑でしかも機敏のお方だつたらしく思はれます。將軍家に於いては、この異變をお耳になさつても別にお驚きになるやうな御樣子も無く、ずつと以前からご存じのやうなお落ちつき振りで、ただその、泉親平といふ人の氏素性をずゐぶんこまかにお尋ねになつて居られました。反徒たちに對してお怒りになつて居られるやうな御樣子も見受けられず、反徒のひとり、薗田七郎成朝といふ人が召しとられて北條三郎時綱さまのお宅に預けられてゐたのを、まんまと脱走して、知人の敬音とかいふお坊さんのところへ行き、そのお坊さんが成朝に出家をすすめたところが、冗談言つてはこまる、私はこれからまた出直して大いに出世をするんだ、と放言して酒をのんで、それではまた、と言ひ殘して行方知れずになつたとか、二、三日後にその坊さんは召し出されて、逐一その夜のことを陳述いたしましたが、あとで將軍家はそれをお聞きになつて聲を立ててお笑ひになり、それは感心なこころがけだ、早くその者を見つけ出してゆるしておやりなさい、とおつしやつたのでございます。それからまた同じ囚人の澁河刑部六郎兼守といふ人が、斷罪に處せられる前日に、十首の和歌を荏柄の聖廟に進じたとか、それをまた物好きにも御所へ持つて來たお方がありまして、將軍家は、それを御覽になり、なかなか上手な歌です、この者をもゆるしておやりなさい、と氣輕にお言ひつけになりました。すべてこのやうな調子で、このたびの異變に就いては一向になんともお感じになつて居られない御樣子でございました。お傍で澁いお顏をなさつてゐる相州さまに對してお氣がねなさるやうな事もなく、まことに天衣無縫、その御度量のほどは私どもにはただ不思議と申すより他はございませんでした。またこの陰謀の伴類の中に和田さまの御子息、四郎義直さま、五郎義重さまも、甚だまづい事でございましたが、はひつて居りまして、おのおのお預けの身になつてゐたのでございます。御父、和田左衞門尉義盛さまは、その頃、上總國伊北庄に御滯在でございましたさうで、鎌倉に兵起るの風聞に接しとるものも取りあへず鎌倉に駈けつけてみたら、御子息お二人捕へられてゐるので仰天して、ただちに御所へ參り、拜謁のほどを願ひいれましたところ、御機嫌よくお許しに相成りすぐに御對面なさいました。その時、和田左衞門尉さまは、はつと平伏なさいましたきりで、額の皺に汗をにじませ、しばらくは何も言上できぬ御樣子でございましたが、やがて、例の訥々たる御口調で、甚だ唐突に、故右大將家御擧兵以來の義盛さま御自身の十數度にわたる軍功を一つ一つならべ立てたのでございます。それも、考へ考へぽつりぽつりと申し上げるのでございますから、その長つたらしい事、將軍家もたうとう途中に於いてお笑ひになり、
ワカリマシタ。子息ハ宥免ノツモリデヰマシタ。
「身に餘る面目。義盛づれの老骨を、――」と言ひかけて、たまらづわつと手放しでお泣きになつてしまひましたが、この主、この臣、まことにお二方の間の御情愛は、はたで見る眼にも美しい限りのものでございました。
同年。三月大。九日、庚戌、晴、義盛今日又御所に參ず、一族九十八人を引率して南庭に列座す、是囚人胤長を厚免せらる可きの由、申請ふに依りてなり、廣元朝臣申次たり、而るに彼の胤長は、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞食すの間、御許容に能はず、即ち行親、忠家等の手より、山城判官行村の方に召渡さる、重ねて禁遏を加ふ可きの由、相州御旨を傳へらる、此間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡し、行村に之を請取らしむ、義盛の逆心職として之に由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奧國岩瀨郡に配流せらると云々。廿一日、和田平太胤長の女子、父の遠向を悲しむの餘、此間病惱、頗る其恃少し、而るに新兵衞尉朝盛、其聞甚だ胤長に相似たり、仍つて父歸來の由を稱して訪ひ到る、少生聊か擡頭して一瞬之を見、遂に閉眼すと云々、同夜火葬す、母則ち素懷を遂ぐ、西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。廿五日、丙寅、和田平太胤長の屋地、荏柄の前に在り、御所の東隣たるに依りて、昵近の士、面々に頻りに之を望み申す、而るに今日、左衞門義盛、女房五條局に屬して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、之を拜領せしむ可きかと云々、忽ち之を達せしむ、殊に喜悦の思を成すと云々。
同年。四月小。二日、癸酉、相州、胤長の荏柄の前の屋地を拜領せられ、則ち行親、忠家に分ち給ふの間、前給の人を追ひ出す、和田左衞門尉義盛、代官久野谷彌次郎、各卜居する所なり、義盛鬱陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し、仍つて再び子細を申す能はずと云々、先日一類を相率ゐて、胤長の事を參訴するの時、敢て恩許の沙汰無く、剩へ其身を面縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さるること、列參の眉目を失ふと稱し、彼日より悉く出仕を止め畢んぬ、其後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰せんと欲するの處、事を問はず替へらる、逆心彌止まずして起ると云々
いつたいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。右大臣さまがおなくなりになられ、私ども百餘人は出家をいたし、その翌年、承久の亂とやらにて北條氏は氣が狂つてさへ企て及ばぬほどの大逆の罪を犯しましたさうで、本當にどうしてまたそんな愚かしい暴虐をなさつたのか、亂臣逆賊と言つてもまだ足りぬ、まことに言語に絶した日本一の大たはけのなり下つた御樣子でございますが、それまでには別に、これといふ目立つた惡業のなかつたお方でしたのに、それでも、どういふものか、人にはけむつたがられ、評判のよろしくないお方でございました。はじめにもちよつと申し上げて置きましたやうに、私たちの見たところでは、人の言ふほど陰險なお方のやうでもなく、氣さくでへうきんなところもあり、さつぱりしたお方のやうにさへ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂ひがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもでさへ、ぞつとするやうなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはひつて來ると、さつと暗い、とても興覺めの氣配が一座にただよひ、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申してゐるやうでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがつてゐる故ではなからうかとさへ私たちには思はれました。父君の時政公でさへ、この相州さまに較べると、まだしもお無邪氣な放膽の明るさがあつたやうでございます。それほどの陰氣なにほひが、いつたい、相州さまのどこから發してゐるのか、それはわかりませぬが、きつと人間として一ばん大事な何かの德に缺けてゐたのに違ひございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の亂などで、はしなくも暴露してしまつたのでございませうが、そのやうな大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはつきり看破する事も出來ず、或ひは將軍家だけはお氣づきになつて居られたかと思はれるふしもないわけではございませぬけれども、當時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌ひして、けむつたがつてゐたといふのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言へず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとつても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかつたのでございますが、將軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出來になるやうになつてから、目立つて下品に陰氣くさくなりました。それまでは何一つ御失態もなく、故右大將家の頃から、それこそコツンと音のするほど生眞面目に御主人大事に勤めて來られたお方のやうで、これは古老から聞いたお話でございますが、故右大將家御壯年の頃、その嬖姫の事から御臺所の政子さまとごたごたが起り、御臺所は牧のお方の御父、牧三郎宗親さまにお言ひつけになり、姫の寄寓して居られる家をどしどし取毀させてしまつたので姫は驚き、大多和義久とかいふ人のお家へ逃げて行かれて、その時には右大將家も御自身のお立場があまり有利ではございませんでしたので默つて何事もおつしやらず、やがて、御用事にかこつけなされて、何氣ないお顏で義久のお宅へ姫をお見舞ひにおいでになり、ただちに牧の宗親さまをお召しになつて、なぜあのやうな亂暴を働いたか、ばか者め、と大いに罵倒なされ、むずと宗親さまの髻をお摑みになり、お刀でその髻を切り落して坊主にしておしまひになりましたさうで、そのお噂が御臺所のお耳にはひつて御臺所はいよいよ怒りかつは泣き、牧のお方まで、共にわめきなされ、御臺所の父君の時政公も、娘たちには同情したいが、將軍家にも恐縮ですし、閉口し切つて、右大將家には何も告げずに一族を連れて北條の里へ歸つておしまひになつて、その時、右大將家は梶原の景季さまに向つておつしやるには、たかが婦女子の事から一族を引き連れてその里に歸り謹愼するなどとは、時政も大袈裟な男だ、けれども江馬だけはあの一族でもそんな馬鹿な事はしない、父に從はず鎌倉の家にひとり殘つてゐるにちがひないから見て來なさい、とおつしやつたとか。江馬とは時政公の嫡子、すなはちのちの相州さまのことで、梶原の景季さまはさつそく樣子を見にまゐりまして、やがてにこにこ笑ひながら歸つて來て、仰せのとほり、義時ひとりぽつんと家に殘つて居りました、と申し上げたさうで、右大將家もよろこび、すぐさまお若い義時さまを御前〔御前←御所〕にお召しになつて、汝はわが子孫を託すべき者、と仰せられたとか、この時はその義時さまの實直なお態度のおかげで、すぐに四方八方圓滿にをさまつたのださうでございますが、お若い時からこのやうに妙にまじめな、お調子には絶對に乘らぬお方であつたやうでございます。またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀り、當時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮しようとなさつた時にも、相州さまは、平氣な顏をして御父君に對し、およしなさい、あれは逆臣ではありません、と興覺めな事を言つて、少しも動かうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛り立つて興奮すればするほどいよいよ冷靜におなりになつて、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな眞似はおやめなさい、何をそんなに血相をかへて騷いでゐるのです、みつともない、などとづけづけいやな事を申すので、牧の方さまはたうとう泣き出して、なんぼう私が繼母だからとてそんなに私をいぢめなくてもいいではないか、繼母といふものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだらう、憎いであらう、これまでも何かにつけて私ひとりを惡者にして、いつたいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の眞似事でもいいから見せておくれ、と變な事を口走る始末になつたので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、ぢやまあ、こんど一度きりですよ、と言つて畠山御一族討伐に參加なされたとかいふお話でございます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言つても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと斷つて置きましたのに、仕樣がないな、などと言ひながらも澁々また應ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのやうな事はなく、一度きりと言へばまさにそのとほりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお斷りになるのでございます。その證據には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、當時將軍家弑逆の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめつから父君、義母君を敵として戰ひ、少しの情容赦もなくそのお二人の御異圖を微塵に粉碎し、父君をば鎌倉より追放なされ、繼母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまひになりました。その御性格には優柔不斷なところが少しもなく、こはいくらゐに眞面目に正確に御處置なさつてしまふのでございます。故右大將家のあの時に、ひとりぽつんとお家に殘つて居られたといふ事も、また畠山御一族を逆臣に非ずと事もなげに言ひ切つて、さうして御繼母に泣きつかれて、この度いちど限りとおつしやつて立ち上り、その次の御父母の惡逆の陰謀には、はつきり對立して將軍家を御守護申し上げたといふ事も、少しも間違つた御態度ではなく、間違ひどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御擧止のやうに見えながらも、なんだか、そこにいやな陰氣の影があるやうな心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はつきり言へませぬが、本當の正しさと似てゐながら、どこか全く違ふらしい、ひどく氣味の惡いものがあるやうな氣がするのは、私だけでございませうか。その頃、鎌倉の諸處に於いて、北條家横暴といふ聲が次第に高くなつて來て居りましたのは、事實でございますが、それでは北條家のどなたがどのやうな專權を用ゐたかといふ事になると、まことに朦朧としてまゐりまして、尼御臺さまだつて、將軍家が立派に御成人されてすべてあざやかに御政務を決裁なさつて居られるのにいちいちお口出しをなさる必要もなく、その頃はもつぱら故二品禪室さまの御遺兒のお世話やら、また北條家御一族間の御交際、または御臺所さまと連れ立つて鶴岳御參宮、將軍家の船遊び等にもお氣輕にお供をなさるし、どこにもそんな專横の影は見受けられませんでした。相州さまはまた、ひたすらお役目お大事で、朝から晩まで幕府のこまごましたお仕事に追はれて、例の異常の正しさを以て怠らず律儀にお働きになり、その頃は將軍家の御意にさからふやうな事もほとんどなく、いまさら御一族と謀つて何かたくらむなどそんなおひまも野心もお持ち合せにならぬやうな御樣子でございました。また御長子の修理亮泰時さまは、あのやうに御品性高く、將軍家のお覺えもめでたく、この建暦三年の二月に藝能の際立つてすぐれた近侍のお方たちばかりを集めて學問所番といふものをお作りになつた時にも、この修理亮泰時さまは、その御首席に選定せられたほどで、御所の人氣をおひとりで背負つて居られたやうな有樣で、まさかあの、次男若君の朝時さまが專横といふわけでもございませんでせうし、專横どころか好色のあやまちのため御勘當になつたりなどしたのですからこれは問題外、ほかに相州さまの御弟の武州時房さまも居られますが、このお方はただ温厚のお方のやうで二念なく御實兄の相州さまのお下に控へていらつしやいましたし、結局、誰がどのやうに横暴なのか、どんな工合に出しやばるのか甚だ漠然たるものになつてしまふのでございます。相州さまが執權として幕府の首座に居られるのが氣に食はぬとは言つても、それは無理な話で、故右大將家をまづまつさきにお助け申したのはこの北條家でございまして、和田左衞門尉義盛さまなど、よく御擧兵以來の御自身の軍功を御自慢なさいますが、伊豆の流人の賴朝公を、一目見てその非凡の御人物たることを察知いたし、わが長女との御親交をもあらはに怒り、ひそかに許容し、今を時めく平家の御威勢も恐れずこれをかくまひ申し、百人にも足らぬ一族郎黨をことごとく獻じて、伊豆の片隅に敢然と源家の旗をひるがへさせたお方は、餘人ではございませぬ、この相州さまのお父君時政公でございました。その頃の北條氏には、たいした勢力もございませんでしたでせうに、いくら故將軍家の御人物を見込んだとて、時政公もまことに無謀な御決意をなさいましたもので、治承四年、以仁王よりの平家討伐の御令旨を賜つて勇氣百倍、まづ戰の門出に伊豆の目代、平の兼隆を血祭りにあげようといふ事になり、お若いながらも御如才のない故將軍家は、出發に先立ち北條氏の一族郎黨を煩をいとはずひとりひとり順々に別室へお招きになつて、汝ひとりが賴みだ、とおつしやいましたさうで、おのおのご自分ひとりが特に賴朝公の御信任を得てゐるのだと思ひ込み士氣大いにあがり、けれども、たつた八十五騎とは心細いやうなもので、馬は毛深いよぼよぼの百姓馬、鎧は色あせて片袖の無いのがあつたり、毛沓は蟲に食はれて毛が脱落いたし、いづれを見ても滿足の武裝ではなく、中には頰被りするものなどもあつて、ひどい軍勢でございましたさうですが、時政公の乾坤一擲の御意氣ものすごく、すすめやすすめと戰法も何もあつたものでなく、ただどやどやと目代のお宅にあがり込み、寄つてたかつて兼隆の首級を擧げ、さいさきよしと喜び合つたこれこそ、そもそもの眞の御擧兵とも申すべきで、和田左衞門尉さまなどは、その後、時政公からの使者を受けて三浦さま御一族と共にこれに御助勢申し上げたので、あの畠山御一族などはそのころは平家方にお仕へしてゐて、その三浦和田の軍勢と一合戰なさつた事さへあるさうで、はじめの八十五騎の心細くもあり、またけなげの御擧兵はただ北條家御一族にのみよつてなされたといふのは、たしかな事のやうでございまして、それ以來、故將軍家幕府御創設までの北條家御一族のお働きは、ご存じないお方など、ひとりも無い筈でございます。また當將軍家に對しては、ちやうど時政公が故右大將家をひとめで見込んだやうに、その御嫡子の義時さまが非常な力のいれ方で、前にも申し上げましたが當將軍家御襲職のために比企氏と戰ひこれを倒し、またのちに實の御父君と爭つてまで當將軍家のお身を御守護なされ、それからも蔭になり日向になりお世話申してまゐりました、謂はばこれも當將軍家にとつては第一の功臣、先代の時政公は故右大將家の第一の功臣、このやうに親子二代つづいてそれぞれの將軍家におつくしなさつたのでございますから、外戚とか何かの御縁を求めなくとも當然、執權におなりになるべき御人物で、そこに不思議は無い筈でございますが、けれども、どういふものか北條氏專横の不平の聲が御所の内にも巷にも絶えませんでした。なにもかも、あの相州さまの奇妙な律儀が、いけないので、あれが人の心にいやな暗い疑ひや憎しみを抱かせるのではないかと私には思はれてなりませぬ。正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な惡臭が湧いて出るとは、まことに不思議な御人柄のお方もあつたものでございます。そのとしの三月にも相州さまは極めて當然の或る御處置をなさつたにもかかはらず、それが他人の私共にさへ、なんだかむごく、憎らしく思はれ、たうとう和田さま御一族を激怒させ、鎌倉中が修羅の巷に化するほどの大騷動が起つてしまひました。泉小次郎親平の異變のあと始末もすんで、和田左衞門尉さまのお二人の御子息もめでたく御赦免にあづかり、これで一段落かと思つて居りましたところが、三月九日、すなはち和田左衞門尉さまがお二人の御子息の宥免のお沙汰に感泣なさいましたそのすぐ翌日、こんどは義盛さまの甥の和田平太胤長さまが、やはりこのたびの陰謀に加はり捕へられてお預けの身になつてゐるのを御赦し下さるやう、義盛さまからの重ねての御歎願がございました。私はその時お奧に伺候して居りましたので、その有樣を拜見できませんでしたが、なんでも、義盛さまは木蘭地の水干に葛袴といふ御立派のいでたちで、御一族九十八人を引き連れ、みんな御一緒にずらりと南庭に列座して、胤長さま御放免の事をひとへに御歎願あそばしたとか、あまりのものものしさに、廣元入道さまはお顏色を變へてお奧へ御注進にまゐりました。この廣元さまは、建保五年に出家なされて法名覺阿と申し上げる事になりましたのでございますけれども、そのずつと前からもお頭のお禿げ工合ひなどで、御出家さまのやうな感じが致して居りまして、大官令さま、大膳大夫さま、または陸奧守さまなどとお呼びするよりも、入道さまとお呼びするのが今の私には一ばんぴつたりしてゐるやうな氣が致しまして、また、ついでながら、相州さまの事をお呼び申し上げるにしても、相州さまはその後に右京權大夫にもおなりになるし、また陸奧守をもお兼ねになつたのでございますから、右京兆さまとか奧州さまとお呼び申さなければならぬ場合もございますのですが、どうも、相州さまとお呼びするはうが、自然の氣持が致しますので、まあ、こまかい事にはあまりこだはらず、入道さま、相州さま、とお呼びしてお話をすすめることがございましても、そこはおとがめなく、お聞き捨て下さるやうお願ひ申し上げます。さて、その時に、廣元入道さまの息せき切つての御注進を將軍家は靜かに御聽取になり、うつむいてしばらくお考への御樣子でございましたが、やがて、ふいとお顏を擧げ何か言ひ出さうとなされた途端、
「おゆるしなさいますか。」
とお傍に居合せた相州さまが、輕く無雜作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、將軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが變つた御樣子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。
「なにしろ、」と廣元入道さまは、將軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御樣子で、つるりとお顏を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この廣元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな眞似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四圍の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも齒がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大將家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの榮譽を持ちつづけることの出來た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同樣に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一應お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと蟲がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。廣元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、將軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顏で、「それでは私が申渡してまゐりませう。」と氣輕くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、將軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」
將軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御樣子でございまして、默つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで廣元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平氣でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顏をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有樣を、私はお奧に居りましたので拜見出來ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は當然の、それこそ「正しい」御處置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて來るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騷擾が、ここに端を發したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衞門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の兩人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの兩人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して聲もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に嚴重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奧へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に對する正しい御處置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷靜で生眞面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな氣が致しましたほどでございますから、當の和田左衞門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出來るやうな氣がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奧國岩瀨郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。胤長さまの六つになるおむすめが、父君とのながのお別れを悲しみ、そのおあとをお慕ひのあまり御病氣になつて、その月の二十一日には全く危篤に陷り、それでもなほ、苦しい息の下から父君をお呼びする始末なので御一族のお方々も見るに忍びず、御一族の新兵衞尉朝盛さまの御樣子が、胤長さまにちよつと似て居りましたので、一つその朝盛さまに父君の振りをしていただかうといふ事になり、もともとこの朝盛さまは武家のお生れに似合はぬほどにお氣持が優しく、さうして將軍家のお覺えも殊にめでたかつたお方でございまして、こころよくその悲しいお役をお引受けになつて、危篤のおむすめの枕頭にお坐りになり、心配なさるな、父はこのとほり無事に歸つてまゐりました、と涙をのんでおつしやつたところが、おむすめは、あ、と言つて少し頭をもたげて幽かにお笑ひになり、それつきり息をお引取りになつたさうで、當時二十七歳のお若い母君もその場に於いて御剃髮なされ、その話を聞いて御所の人々も御同情申さぬは無く、さうしてひそかに、相州さまのあまりの御仕打をお憎み申し上げたものでございました。和田左衞門尉義盛さまは、あの九日の御一族の歎願も意外の結果になり、御長老たる御面目を失ひましたので、その日から御所へも出仕なさらず、鬱々と籠居の御樣子でございましたが、ここにまた一つ、相州さまと火の發するほどに強い御衝突が起りまして、つひに爭端必至のどうにもならぬ險惡の雲行きになつてしまひました。和田平太胤長さまの御屋敷は荏柄の聖廟の眞向ひにございまして、それは胤長さまの御配流と共に沒收せられ、なにしろ御所のすぐ近くの土地でございまして御所へ伺候するのに便利なものでございますから、皆がそのお屋敷を内々お望みの御樣子でございましたけれども、左衞門尉義盛さまは、いまはせめて最後の一つの願ひとして、そのお屋敷を拜領いたしたいと、五條のお局さまを通して將軍家にこつそり御申入れなさつたのでございます。その時、將軍家は、お局さまのお言葉をみなまで聞かず、つづけて二、三度せはしげに御首肯なされて、即座に御聽許のお手續きをなされ、それからぼんやり全く他の事をお考への御樣子で、しばらく默つてうなだれて居られました。あのやうにお力無い將軍家を拜したのは、私にとつて、御奉公以來まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顏をなさつて居られたのでございます。それから四、五日經つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、
「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、
アレハ和田ニ
とうつむいたまま低くおつしやいました。
相州さまは眞面目になつて、
「それだけはお取消しを願ひます。ひどく惡い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお聲をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」
和田ガ喜ンデヰルサウデス
將軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。
「お心の程は拜察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」
ソレホド大キナ事トモ思ヘヌ
「大事です。反逆の徒輩の處置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。將軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」
將軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。
胤長さまのお屋敷は、さらに左衞門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家來衆が力づくで追ひ立てたとか、左衞門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上總の國司擧任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの將軍家よりの内々のお言葉もあり、愼んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衞尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、將軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御氣色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辭、思へばあの頃より、この左衞門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御所の南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聽許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府〔幕府←御所〕に相州、大膳大夫の兩奸蟠踞するがゆゑなり、將軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に兩奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の專横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執權時政公のかずかずの惡事に加擔せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顏でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、兩者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切齒扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壯にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。
同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衞門尉、筑後四郎兵衞尉等、屏の中門の砌に徘徊す、將軍家簾中より御覽じ、兩人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、各怖畏の氣有りて、盃を懷中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、將軍家年來の御素願なり、今日京畿内の御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衞尉公氏、將軍家の御使として、和田左衞門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依りて、其實否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と爲し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所なり、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河國より參上す、將軍家の御氣色並びに嚴閤の義絶にて、彼國に籠居するの處、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。
同年。五月小。二日、壬刁[やぶちゃん字注:「刁」=「寅」]、陰、筑後左衞門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を發して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、獨り座を起ちて御所に奔り參ず、次に三浦平六左衞門尉義村、同弟九郎右衞門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改變せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に參入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州圍碁の會有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の氣無く、心靜に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を裝束きて幕府に參り給ふ、御所に於て敢て警衞の備無し、然れども兩客の告に依りて、尼御臺所並びに御臺所等營中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別當坊に渡御と云々、申刻、和田左衞門尉義盛、伴黨を率ゐて、忽ち將軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の兩門を圍む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壯士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と爲して攻戰す、義兵多く以て傷死す、次に廣元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を發ちて攻め戰ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を圍み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に亂れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剩へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を殘さず燒亡す、之に依りて將軍家、右大將軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を攝するのみに匪ず、其士率一以て千に當り、天地震怒して相戰ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勸めて、調禦するの間、曉更に臨みて、義盛漸く兵盡き箭窮まり、疲馬に策ちて、前濱邊に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乘馬に疲るるの處、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下數十人の親昵從類等を引率し、腰越浦に馳せ來るの處、既に合戰の最中なり、仍つて其黨類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新覊の馬に當るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戰し給ひ、町大路は、上總三郎義氏、名越は、近江守賴茂、大倉は、佐々木五郎義淸、結城左衞門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに據無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戰時を移す、凡そ昨日より此晝に至るまで、攻戰已まず、軍士等各兵略を盡すと云々、酉剋、和田四郎左衞門尉義直、伊具馬太郎盛重の爲に討取らる、父義盛殊に歎息す、年來義直を鍾愛せしむるに依り、義直に祿を願ふ所なり、今に於ては、合戰に勵むも益無しと云々、聲を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衞門尉能範の所從に討たると云々、同男五郎兵衞尉義重、六郎兵衞尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに數率等海濱に出で、船に掉して安房國に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衞門尉常盛、山内先次郎左衞門尉、岡崎餘一左衞門尉、横山馬允、古郡左衞門尉、和田新兵衞入道、以上大將軍六人、戰揚を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無爲に屬す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を實檢せらる、假屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黑に及ぶの間、各松明を取る、又相川、大官令仰を承り、飛脚を發せられ、御書を京都に遣はす。
いきほひの赴くところ、まことに、やむを得ないものと見えます。五月二日の夕刻、和田左衞門尉義盛さまは一族郎黨百五十騎を率ゐて反旗をひるがへし、故右大將家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵亂が勃發いたしました。和田さまほどの御大身が、たつた百五十騎とは、案外の無勢と不審に思召されるかも知れませぬが、和田さま御謀叛の噂は、あの三月の胤長さまの配流、四月の荏柄のお屋敷の騷動以來、御所の内にも、また鎌倉の里人の間にも、もつぱらでございまして、武勇に於いては、關東一の和田さま御一族も、はかりごとを密かに行ふといふ巧智には乏しかつた御樣子で、大つぴらに兵具をととのへ、戰勝の祈願なども行ひ、さうしてそのやうな叛逆の動かぬ證據を次々と御所のお使ひの人に依つて糺明せられ、とても、たまらなくなりまして、有合せの軍兵をかき集めて氣早やに烽火をお擧げになつてしまつたといふお工合のやうでございました。たのみにしてゐた御一族の三浦さまには裏切られ、翌朝、かねて打合せて置いたとほりに横山馬允時兼さまの三千餘騎が腰越浦に馳せ參じて和田さまの陣に加はりましたが、もうその頃には、將軍家の御教書もひろく行きわたり、和田勢の逆賊たることが決定せられてしまつて居りましたから、それまで去就に迷つて拱手傍觀してゐました諸將も續々と北條勢に來り投じ、つひに和田氏御一族全滅のむざんな結末と相成りました。その兵亂の一箇月ほど前、四月七日に、將軍家は何といふ理由も無く、女房等をお集めになつて華やかな御酒宴をひらかれ、之まで例のなかつたほどに、したたかにお酒を召され、女房等にもお氣輕の御冗談を仰せになつて、
我宿ノマセノハタテニハフ瓜ノナリモナラズモ二人ネマホシ
などといふ和歌を作られて一座を和やかに笑はせ、ふいと前庭を御覽になつて、お庭の門のあたりを山内左衞門尉さまと、筑後四郎兵衞尉さまが、御警護のためぶらぶら歩いて居られるのにお目をとめられ、あの二人の者をこれへ呼び寄せるやう仰せられ、やがて御縁ちかく伺候したお二人に御盃酒をたまはり、御機嫌よろしくにこにこお笑ひになりながら少しお首を傾け、そのお二人のお顏をつくづくと見まもり、いづれも近く命を失ふ、ひとりは敵方、ひとりは味方、と案外の不吉の御豫言を、まるで御冗談みたいに事もなげにおつしやつて、平然として居られました。果して、それからひとつき經つて、山内左衞門尉さまは、和田勢に加はり、筑後四郎兵衞尉さまは御所方にて、敵味方にわかれて戰ひ、共に討死をなさいましたが、それにつけても思ひ出される事がございます。むかし、厩戸の皇子さまも、御二十一歳の折、大臣馬子の無道をお見事に御豫言あそばしたとか、天壤と共に窮りの無き、伊勢大廟の尊き御嫡流の御方の御事は纔かに偲び奉るさへ、おそれおほい極みでございますが、將軍家に於いては、早くより厩戸の皇子さまに御心醉と申し上げてよろしいほどに強く傾倒なされ、私どもには、まるで何もわかりませぬけれど、かの、和を以て貴しと爲すとかいふお言葉にはじまる十七箇條の御憲法など、まことに萬代不易の赫奕たるおさとしで、海のかなたの國々の者たちにも知らせてやりたい、とおつしやつて居られた事もございまして、せめてその御錦袖の端にでも、おあやかり申したいと日頃、念じて居られた御樣子で、そのせゐか、まあこれは愚かな私どもの推參な氣の迷ひに違ひないのでございませうけれども、ほんの少し、相通ふやうな影が、感ぜられてなりませぬ。御豫言とはいへ、ただ出鱈目に放言なさつたのがたまたま運よく的中したといふやうなものではなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずさうなるべき根據をお見拔きなさつて仰出されるのに違ひございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根據をつかんでゐながらもなほ、豫斷を躊躇し、或ひは間違ひかも知れぬ、途中でまたどのやうに風向きが變らぬものでもない、などと愚圖愚圖してあたりを見廻してゐるものでございまして、それが厩戸の皇子さま、または故右大臣さまのやうなお方になると、ためらはず鮮やかに斷言なされて的中なさらぬといふ事はないのでございますから、これはやはり、御明察と申すよりは、御靈感と名づけたはうがよろしいやうに私たちには考へられます。相通ふとは申しても、もちろんその間には天地以上の絶對の御距離があり、このやうな事はすべて愚かな私どもの子供じみた夢に過ぎないのでございまして、厩戸の皇子さまもやはり御幼少の頃から御政務の御手助けをなされて居られた御樣子で、まあそれ故にこそ故右大臣さまも、いつそう皇子さまをお慕ひなされたのでございませうが、共に崇佛の念篤く、また皇子さまのお傍には蘇我馬子といふけしからぬ大臣が居られたやうに、故右大臣さまには、相州さまといふ暗いお方が控へて居りまして、馬子といひ、またあの承久年間の相州さまといひ、まことに日本國はじまつて以來の二のみ三無き大惡事を行ひ、しかもその政治上の手腕はあなどりがたく、わけなく之をしりぞける事も出來なかつたといふところなど、いづれも、ほんの偶然の事にちがひないとは萬々承知いたしながら、その、わづかに一小部分の相通ふ匂ひだけでも、あの私どものお可哀さうな右大臣さまへの、お手向の花としたいと思ふ無智な家來の一すぢの追慕の念を、どうぞお見のがし下さいまし。厩戸の皇子さまの御事は眞におそれおほく、ただ烈日を仰ぐが如く眼つぶれる思ひにて、いかなる推察も叶ふものではございませぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に對してはあれほどの御赤心、また幕府の御政務に對してはあれほどの御英才と御手腕をお示しになりながら、あの承久の大惡事を犯すに至つた相州さまを、なぜ早くよりよろしく御教導出來なかつたかと、これも私どもの、慾の深すぎる話にきまつて居りますけれども、それだけがたつた一つの無念のところでございます。御政務に於いても、以前は、相州さまであらうが何であらうが、それが間違つて居りますならば、ひどく手きびしくはねつけたものでごさいましたが、この和田さまの事件あたりから、さすがの將軍家も、時々、とても、もの憂さうな御樣子をお見せになりまして、
關東ハ源家ノ任地デシタガ、北條家ニトツテハ關東ハ代々ノ生地デス。氣持ガチガヒマス。
と、謎のやうなお言葉を私たちお傍の者におもらしなさつた事さへございました。さうして、その頃から、お酒の量も、めつきりふえたやうに拜されました。このとしの五月の兵亂も、すでに三年前の承元四年十一月二十一日にお夢のお告げに依つて察知なされてゐたといふ事はまへにも申し上げて置きましたけれども、その時のお夢は、ただ、合戰あるべしといふのみにて、どなたの反亂であるか、その主謀者の名まではおわかりになつてゐなかつたのではなからうかと思はれます。さうして一年經ち、二年經ちしてゐるうちに、勘のするどい將軍家のことでございますから、或ひは和田氏あたりが老いの一徹から短慮の眞似をしでかすのではあるまいか、との御懸念も生じてまゐりました御樣子で、まさか、それだけの理由からでもございませんでせうけれども、この建保元年のまへのとしあたりから、急に目立つて和田氏御一族を御寵愛なされ、わけても左衞門尉義盛さまをば、いつもお傍からはなさずに何かとこの武骨の御老人をおいたはりなさるやうになりまして、それから建保元年の二月に、れいの泉小次郎親平の陰謀があらはれ、和田氏の御一族のお方たちもそれに加擔して居られて、もうその時すでに、將軍家も、いまはこれまで、とお見極めをつけておしまひになつたのではないでせうか、あの頃から、御政務の御決裁に當つても以前ほどの御熱意は見受けられず、まるで御冗談のやうに矢鱈に謀逆の囚人たちを放免させてお笑ひになつてゐるかと思ふと、急にがくりとお疲れの御樣子をお示しになつたり、それまで固く握りしめなされてゐた何物かを、その時からりと投げ出しておしまひなさつたやうな、ひどい御氣拔けの態に拜されました。和田氏御一族九十八人の御請願の時にも、また胤長さまのお屋敷の處置の時にも、これまで見受けられなかつたやうな御氣力の無いお弱い御態度で相州さまのおつしやるままになつて居られましたが、この前後に於いて將軍家の御心境に何か重大の轉機がおありになつたのではなからうかと、下賤の臆測で失禮千萬ながら、私たちには、どうもそのやうに思はれてなりませんでした。前にも申し上げましたやうに和田さま御一族のお方たちは揃つて武勇には勝れて居られましたが、陰謀の智略に於いては缺けてゐるところがおありの御樣子で、その御謀叛も、すでに二箇月も三箇月も前から取沙汰せられて居りまして、御所の人たちも前々から覺悟をきめて、各々ひそかに武具をととのへ、夜も安らかには眠らずに警衞をさをさ怠らず、異常の御緊張を以て一日一日を送り迎へして居りましたのに、將軍家に於いては、わけもない御酒宴などお開きになり、その四月七日には御警護の山内左衞門尉さまと筑後四郎兵衞尉さまをお召しになつて不思議の御豫言をなされ、お二人とも、颯つとお顏色を變へて拜受の御酒盃を懷にねぢこみ早々に退出なされるのを、おだやかにお笑ひになりながら御目送あそばして、
浮キシヅミハテハ泡トゾ成リヌベキ瀨々ノ岩波身ヲクダキツツ
といふ和歌を一首、いたづら書きのやうに懷紙に無雜作におしたためになり、またもお酒をおすごしなさるのでございました。またひきつづいて、十五日には、折からの名月に對して和歌の例會をおひらきになり、この頃すでに和田さま御一族の方は御所に出仕なさる事も少くなつてゐたのでございますが、その夜、義盛さまの御嫡孫、和田新兵衞尉朝盛さまが、珍らしく、ひよつこり御會においでなさいましたので、將軍家はいたくお喜びなされ、もともとお氣にいりの朝盛さまでもございましたので、その場に於いて地頭職をいくつもいくつも一枚の紙に列記なされて、直々にお下渡しになり、
行キメグリ又モ來テ見ンフルサトノ宿モル月ハ我ヲワスルナ
といふお歌までお作りになつて朝盛さまに披露なされ、朝盛さまはその御恩德に涙を流して御退出なさいましたが、その夜、朝盛さまは出家なされたとか、さうして御父祖に宛て、叛逆のお企はおやめになりませぬか、一族に從つて主君に弓射る事も出來ず、また御所方に候して御父祖に敵する事も出來ず、やむなく出家いたしまする、といふ御書置を殘して京都へその夜のうちに御發足になつたとか、翌る日その書置を御祖父の左衞門尉義盛さまが御覽になつて、激怒なされ、ただちに追手をさしむけ、朝盛さまを連れかへらせたとか、のちに人から承りましたが、將軍家はそのやうな騷ぎにも驚きなさる御樣子はなく、連れかへられた朝盛さまが、十八日に墨染の衣の御出家のお姿のままで御所へおわびに參りました時にも、深い仔細をお尋ねなさるでもなく、またその打つて變つた入道姿を珍らしがるわけでもなく、何もかも前から御見透しだつたやうな落ちついた御態度で、
歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奧モ住ミウシト云ヘリ
といふ和歌をお下渡しになり、ただ靜かにお笑ひになつて居られました。ついでながら、この將軍家の最も御寵愛なされてゐた新兵衞尉朝盛さまさへ、この五月の兵亂には、やつぱり和田氏御一族に從ひ、黑衣の入道の姿で御所へ攻め入つたのでございました。さて、四圍の氣配が、なんとなく刻一刻とけはしくなつてまゐりましても、將軍家おひとりは、平然たるもので、二十日には、非人に施行を仰出され、これ年來の御素願の由にて、また二十七日には、ふいと思ひ出されたやうに、ちかごろ和田が何かたくらんでゐるさうだが、どんな事をしてゐるのか見て來るやうに、といまさらの如くお使ひを和田左衞門尉さまのお宅にさしむけ、そのお使ひの歸つてまゐりまして、やはり謀叛の御樣子に見受けられます、とはつきり言上いたしましても、將軍家はお顏色もお變へにならず、それはつまらぬ事だから、やめるやうに言つて來なさい、とさらに別のお使ひをなんの御熱意も無くお出しなされたりなど致しまして、お傍で拜見してゐてもはなはだ齒がゆく、まことに春風駘蕩とでも申しませうか、何事にもお氣乘りしないらしく、失禮ながら、ただ、呆然として居られ、さうしていつも御酒氣の御樣子で、あの眼ざめるばかりの凛乎たる御裁斷は、その時分には片鱗だも拜する事が出來ませんでした。相州さまも、どういふわけか、その頃の將軍家の御政務御怠慢をば見て見ぬ振りをなさつて、いや、それどころか、將軍家とお顏をお合せになるのを努めて避けていらつしやつたやうでございました。そのうちに五月二日、夕刻に至つて大膳大夫廣元さまは、ころげるやうに御所へ駈込んでまゐりまして、和田氏一族擧兵の由を御注進申し上げました。その時ちやうど廣元入道さまは、お宅にお客さまがあつてお酒盛をはじめていらつしやつたところに、和田左衞門尉さまのお宅に軍兵競ひ集るといふ報がはひり、入道さまは、お客さまも何も打捨て、衣服も改めずに御所へ馳せ參じたのださうで、やがて後から相州さまも、三浦さま御一族からの内報に依りただいま和田氏擧兵の事を聞き及びましたと言つて、實に落ちつき拂つて御所へ參入いたしましたが、御承知のとほり三浦さまは、もともと和田さまとは御一族で、このたびの和田氏の謀逆にも御一族のよしみを以て加盟を致し、起請文までお書きになりながら、この日にはかに和田氏を裏切り、こつそり相州さまのお宅へ行つて和田氏の今日の蜂起を言上いたしましたのださうで、この三浦氏御一族の裏切さへ無かつたならば、或ひは、この合戰も和田氏の勝利となり北條氏全滅の憂目に逢つたかも知れず、それほど大事なところなのに、相州さまは、その時お宅でお客と圍碁の最中で、さうして三浦左衞門尉さまの手柄顏なる密告に接しても、ちよつと振り向いて輕く左衞門尉さまに會釋をしただけで一言のお禮もおつしやらなかつたさうで、やがて靜かに立ち上りながらも碁盤からお眼をはなさず、ゆつくりと圍碁の御勝負の結果を目算なされ、どうやらこちらが二目の勝ちのやうです、と低く呟いて、それからお客に失禮を詫び、素早く衣服を着換へ、折烏帽子を立烏帽子に改めて、馬を飛ばして御所に駈けつけたとか、入道さまの見苦しい狼狽振りと較べて、いかに相州さまが武人の故とは言へ、なかなか、ただものの出來る藝當ではないと、これはのちのちの評判でございました。とかくするうちに和田勢は御所に押し寄せ、日沒の頃には、はや四面賊兵、あまつさへ御所に火を放つものがあつたのでたちまちめらめらと八方に燃えひろがり、將軍家は、相州さまや入道さま、それから私たちお傍の者數人を引連れて故右大將家の法華堂へ御避難あそばす事になりまして、その時も將軍家は、お酒を召し上つた御樣子はございませんでしたのに、御酒氣のやうに拜され、お顏も赤く光り、さうして絶えずにこにこお笑ひになつて、時々立ちどまつては、四方の兵火を物珍らしげにお眺めになつて、こんなところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本當に氣が氣でございませんでした。
將軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。
とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめてその萬分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて來られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の不德をはつきり知つたとでもいふやうなお氣持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顏は、お痛はしいと申すよりは、もつたいない言草ながら、おそろしく異樣奇怪のものでございまして、將軍家御發狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがございました。そのやうなうちにも御所の周圍に於いては兩軍亂れ戰ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鐵の棒を振りまはして阿修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎭西八郎さまの再來の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに歸參なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鐵棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬところが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辭を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出來ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでなくその百五十騎ことごとく一騎當千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは廣元入道の宅、さうして一手は御所に參入して將軍家を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早く御所に駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御所に攻め入る事になつたとか、御所方に於いては匠作泰時さまが御大將となつて一族郎黨を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戰につとめて、終夜相戰ひ、曉に及んで無勢の和田方はさすがに疲勞し、ひとまづ、さつと海邊まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戰でございました。翌る三日の寅剋には、和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千餘騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御所方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髮を入れず智者の相州さまは、諸方に將軍家の御教書を發した爲に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸國の軍勢も一度にどつと御所方について、ここに全く大勢が決せられた御樣子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、將軍家はその御教書の文章をざつと御一讀なされ、聲を立ててお笑ひになられ、
コレハ誰ノ文章デス
と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拜見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御文脈で、そのくせ變に野暮つたい狡猾なところもあり、將軍家が無邪氣にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覺えに記憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。
[やぶちゃん注:底本では、以下の御教書はすべてが一字下げ、従って「五月三日 巳剋」は三字下げで、「大膳大夫」と「相模守」は三十四字下がった位置に並ぶ。]
きん邊のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衞、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
五月三日 巳剋 大 膳 大 夫
相 模 守
けれども相州さまは、にこりともなさらず、
「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。將軍家には、戰ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御樣子をいちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大聲で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戰となると、御平常とがらりと變つて、いかめしく猛り立つもののやうでございます。將軍家も流石に御不興氣のお顏をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、
相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。
とあとで、誰にとも無くおひとりで呟いて居られました。將軍家と相州さまが爭論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきりで、つねに御衝突が絶えなかつたらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉も無い事でございまして、將軍家の御濶達と無類の御氣品はもとよりの事、相州さまにしても當時拔群の大政治家でございますし、そのやうなお方たちが、決してあらはな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いたやうに思ひますが、いつも、お互ひの御胸中を素早くお見透しなさつて、瞬時に御首肯し合ひ、笑つておわかれになるといふやうな案配でございましたのに、この時に限つて、それは相州さまが合戰のためにお氣が立つて居られたせゐかと思はれますが、少しおだやかならぬものがただよひ、相州さまはその頃すでに五十の坂を越して居られまして、なほまた北條家存亡の大合戰の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかつたやうに覺えて居られたかも知れませぬが、生れてこのかた御父母君にさへ、大聲で叱られるなどといふことの無かつたお若い將軍家にとつては、なかなかに忘れられぬ思ひもおありではなからうかと、その日うす暗い御堂の隅に控へてゐた當時十七歳の私まで、胸苦しく拜察申し上げたことでございました。
同年。同月。四日、甲辰、小雨降る、古郡左衞門尉兄弟は、甲斐國坂東山波加利の東競石郷二木に於て自殺す矣、和田新左衞門尉常盛並びに横山右馬允時宗等は、坂東山償原別所に於て自殺すと云々、時兼は横山權守時廣の嫡男なり、伯母は、義盛の妻となり、妹は又常盛に嫁す、故に今此謀叛に與同すと云々、件の兩人の首今日到來す、凡そ固瀨河邊に梟する所の首二百三十四と云々、辰剋、將軍家法花堂より東御所に入御、其後西の御門に於て、兩日合戰の間に、疵を被る軍士等を召聚められて、實檢を加へらる、山城判官行村奉行たり、行親、忠家之に相副ふ、疵を被るの者凡そ九百八十八人なり。五日、乙巳、天霽、義盛、時兼以下の謀叛の輩の所領美作淡路等の國の守護職、横山庄以下の宗たるの所々、先づ以て之を收公し、勳功の賞に充てらる可しと云々、相州、大官令之を沙汰し申さる、次に侍別當の事、義盛の闕を以て相州に仰せらると云々。六日、丙午、天霽、申剋、將軍家前大膳大夫廣元朝臣の亭に入御、是去る二日、御所燒失せるに依るなり、御臺所、又南御堂より其所に入御、尼御臺所、本所に渡御。九日、己酉、天晴、廣元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官令連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士參向す可からず、關東に於ては、靜謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衞門尉廣綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奧國岩瀨郡鏡沼の南邊に於て誅せらる。
五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて號泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戰もいやになつた、と嬰兒のむつかる如く泣きに泣いて戰場をさまよひ歩き、つひに江戸左衞門尉能範の所從に討たれ、つづいて御一族も或ひは討死、或ひは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戰も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に假屋を設け、波の音を聞きつつ、數百の松明の光のもとで左衞門尉義盛さま以下の御首を實檢せられたとか、將軍家は首實檢をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども流石にその夜はお氣輕の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御樣子でございました。
焰ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ佛トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
などといふ和歌のお出來になつたのもその夜の事でございまして、五月雨がやまず降り續き、どこからともなく屍臭がその御堂の奧にまで忍び込んでまゐりまして、それから二十數年經つた今でも私はその夜の淋しい御堂の有樣をまざまざと夢に見るほどでございます。翌る四日には、將軍家は法華堂から、燒け殘つた尼御臺さまの御邸宅にお移りなされ、やがて西の御門に幔幕を曳いて將軍家のお座をまうけ、疵ついた軍士を召集めておいたはりの閲を給ふ事になりまして、手負ひの將士九百八十八人が續々と御前に集り、れいの相模次郎朝時さまも御兄君の匠作泰時さまに背負はれてその場に參りまして、あの時の朝夷名三郎義秀さまの大鐵棒がよほどこたへたと見え、その呻き聲のお高いこと、ことさらに御苦痛をお裝ひなのではなからうかと思はれたほどに大袈裟にお顏をゆがめ、無念、無念、とお叫びになるので、お庭のここかしこから輕い失笑の聲さへ起りまして、けれども將軍家は終始、嚴肅のお態度を變へず、いちいち重く御首肯なされて居られました。ついで將軍家は、このたびの合戰に於いて拔群の勳功をいたした者をお尋ねに相成り、諸將士はこれに對して異口同音に、敵方に於いては朝夷名三郎、御所方に於いては匠作泰時さまをお擧げになつて、匠作泰時さまはただちに御前ちかく召されておほめの御言葉を賜りましたが、その時、匠作さまは恥ぢらふ如く内氣の笑ひをお顏に浮べ、勳功などとは、もつてのほか、匠作このたびの合戰に於いては、まことにぶざまの事ばかり多く、實はついたちの夜にばかな大酒をいたしまして、二日にはひどい宿醉、それ和田氏の御擧兵と聞きましても夢うつつ、ほとんど手さぐりにて、とにかく甲冑をつけ馬に乘つてはみましたが、西も東も心許なく、ああ大酒はいかん、もののお役に立ち申さぬ、爾後は禁酒だ、と固く心に誓ひ、なほも呆然たるうちに敵兵と逢ひ、數度戰つて居りまするうちに喉がかわいてたまらなくなり、水を、と士卒に言ひつけましたところ、こいつまた氣をきかして小筒に酒をつめて差し出しまして、一口のんですぐに酒だと氣がつきましたものの、酒飮みの意地汚なさ、捨てるには惜しく、ついさつきの禁酒の誓を破つてごくごくと一滴あまさず飮みほして、これからが本當の禁酒だなどと、まことにわれながらその薄志弱行にはあいそがつきまして、さう言ひながらも昨夜はまた戰勝の心祝ひなどと理窟をつけて少しやつてゐるやうな有樣なのでございますから、まだまだ修行はいたらず、とても、おほめにあづかるほどの男ではございませぬ、この後は努めて、大酒をつつしむやうに致しまするから、どうか、このたびの失態は御寛恕のほどを願はしく存じます、としんから恐縮し切つて居られる御樣子で汗を流して言上なさいましたが、將軍家をはじめ滿座の諸將士ひとしく、この匠作さまの功にほこらぬ美しいお心に敬服なされたやうでございました。この匠作泰時さまは、その翌日、拔群の勳功により陸奧國遠田郡を賜りましたけれども、固く之を御辭退申し上げ、そもそもこの度の合戰は和田左衞門尉、將軍家に對して逆心をさしはさまず、ただ相州を討たんとして擧兵なされたのであつて、自分は相州の子として父の敵を迎へ撃つたまでの事、しかも自分の用兵拙劣にして多くの御所の將士を失ひ罪萬死に價すと雖も幕臣として一の勳功も無し、とおつしやつたとか、いよいよ匠作さまのお名があがつて、しばらくは、どこへまゐりましても匠作さまの御評判で持ち切りの有樣でございました。さて、匠作さまの禁酒のしくじり話の御披露がございました四日の、手負ひの軍士の集りました席上で、裏切者の三浦左衞門尉義村さまが、またも御卑怯の振舞ひに及び、心ある將士にいたく顰蹙せられましたが、合戰の後にはとかくこのやうなごたごたが起るものと見えます。波多野中務丞忠綱さまの米町ならびに政所に於いて兩度ともに、まつさきかけて進みましたといふ申立てに對して、三浦左衞門尉さまはやをら御前に進み出て、米町の先陣は知らず、政所に於いて先登を承つたのはこの左衞門尉義村にちがひございませぬ、と異議をさしはさみましたので、たちまち御前に於いてお二人の醜い激論が生じ、相州さまは、忠綱さまに耳打ちして幔幕の陰にお連れになつて、これは私も後で人からうかがつた話でございますが、なんでもその折、相州さまのおつしやるには、あなたも落ちついてお考へになつたらどうです、このたびの合戰が、まあまあ無事にをさまつたのも三浦氏の忠義な密告のおかげです、米町の先陣はあなたときまつてゐるのだから、その功一つで我慢なさつて、もう一つの政所のはうは三浦氏に潔くおゆづりになつたはうが御賢明かと思ひますが、どうでせう、また、あとあと、いい事もありますから、といふ事だつたさうで、忠綱さまはそれを承つてせせら笑ひ、冗談言つてはいけません、勇士の戰場に向ふに當つては、ただ先登に進まんと念ずるのみ、武人の榮譽これに過ぎたるはなく、忠綱いやしくも父祖代々の家業を繼いで弓馬の事にたづさはる上は、たとひ十度、二十度の先陣も敢へて多しとせず、いよいよ萬代に武名を輝かさんと志してゐるのに、一つでたくさん、もう一つのはうは三浦氏にゆづれなどと、あなたはそれでも武士か、忠綱は恩賞も何もほしくござらぬ、ただ先陣の譽れを得たいだけです、と見事に言ひ切つたので、さすがの相州さまも二の句が繼げず、いよいよ忠綱さまと義村さまを藤御壺の内に於いて對決せしむる事に相成り、その場には將軍家と私たち少數の近習の他に、相州さま、入道さま、民部大夫行光さまだけが伺候して餘人は遠ざけられ、將軍家御直々のお裁きが行はれました。忠綱さまと義村さまは、お庭の簀子の圓座におすわりになつて、まづ義村さまが、このたび和田左衞門尉義盛の政所襲來と同時に、義村、政所の前の南側に馳せ向ひ、まつさきに敵勢に矢を射込みましたが、塵ひとつ義村の眼前を駈け行くものは見受けられませんでした、といかにも實直さうに申し述べました。忠綱さまはせき込んで、いやいや忠綱ひとり、忠綱ひとり先登に進みました、南側も北側もありません、まつさきかけて進みました、うしろには自分の子の經朝、朝定がつづき、三浦氏は、そのまたうしろではなかつたでせうか、あまりかけ離れてゐると塵ひとつも見えない道理で、或ひはまた三浦氏も實は盲目なのかも知れず、盲目は相手になりませぬゆゑ、どうかあの場に居合せた士卒たちを搜し出してそれにお尋ねのほどをお願ひ申し上げまする、とお顏を眞赤になさつてどもりどもりおつしやいましたが、あまりお口汚いので、相州さまは片手を擧げて忠綱さまを制し、將軍家にちらと目くばせをなさいました。忠綱さまを御譴責なさいませと將軍家におすすめなさるやうな目くばせの仕方でございましたが、將軍家はこのやうな御裁判には少しもお氣がすすまぬらしく、先刻から時々わき見などなさつて、ひどくもの憂げの御樣子で、相州さまの目くばせにも一向お感じなさらず、
士卒ヲ搜スガヨイ
とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拜領の片淵と號する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや爭論の餘地も無く、將軍家は、興覺め顏に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奧國名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに兩度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乘つて盲目だのなんだの勝手の惡口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衞門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたとは、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御所に於ける不評判はまことに絶頂を極めました。
同年。六月大。廿六日、乙未、大霽、相州、武州、大官令等參會し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戰の時、燒失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌例會有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造營、重ねて其沙汰有り。廿日、己未、故和田左衞門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豐受太神宮七社禰宜度會康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚人と爲る、而して件の領所と謂ふは、神宮一圓の御廚たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剩へ恩赦に預る、是御敬神の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指圖少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風靜なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群參す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の畫圖の風情の事、先々の繪御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍從三位、二條中將雅經朝臣に付し、和歌文書等を將軍家に獻ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、將軍家南面に出御、時に燈消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌數首、御獨吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乘らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風靜なり、將軍家新御所に移徙なり、御車京都より遲く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫廣元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の寶殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、將軍家火取澤邊に逍遙せしめ給ふ、是草花秋興を覽るに依りてなり、武藏守、修理亮、出雲守、三浦左衞門尉、結城左衞門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西國の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、廣元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍從三位、相傳の私本萬葉集一部を將軍家に獻ず、御賞翫他無し、重寶何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、將軍家壽福寺に御參、佛事を修せしめ給ふ、是左衞門尉義盛以下の亡卒得脱の爲と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸國の守護人等に仰せらる、事度々嚴命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所處の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。
五月六日には將軍家は、廣元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを假の御所に定め、つづいて御臺所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉近邊の人心はなかなかに靜まらぬ樣子で、五月、六月、ふたつきは何やら御所の内外もざわめいて、御所の人たちすべて落ちつかず、安からぬ氣持でございました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御所のあちこちを走りまはつて居られましたが、將軍家は相變らず、ぼんやりなされて、一日ぢゆうお奧でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御樣子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に對し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることなく、この合戰直後の九日にも在京の御家人に宛て、關東はすでに平穩に歸したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ參ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の殘黨が西方に遁走したとの説もあることゆゑ、專心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を廣元入道さまにお言ひつけになつて送付せしめられ、また、このとしの十月三日に、京の御所より幕府に對し臨時の公事を課せられ、幕府もその頃は兵火の災厄をかうむつた後ではあり、御所の新造なども行ひ、だいぶお懷がお苦しかつたらしく、廣元入道さまなどは、とんでもない、とても應じ切れるものでない、まつぴらごめん、とただひたすらに幕府大事の心から淺墓にもお斷りしようとして、入道さま御一存でもつてしかるべく御返辭のお手續きにとりかかつて居られるとの事の由を、お聞きになつた將軍家は、お眠りから覺めてむつくり起き上られたお人のやうに全く別人の如き峻嚴のお態度をお示しになり、入道さまを召して、かたじけなくも御公家より御徴收の御沙汰を拜し、逡巡するとは大不忠、どのやうな場合に於いても、必ず、すみやかに應ずべきです、今後も同樣、と激しい御口調で仰せられ、入道さまは手續きのやり直しに大まごつきにまごついた御樣子でございました。まことにこの京都の御所に對し奉る御赤心と、それから敬神崇佛のお心の深さは、その御一生をつらぬいて不變のもののやうでございました。その時分から少しづつ御政務をお怠りなさるやうになつたとはいふものの、事、御朝廷に關するとお眠りから覺めたやうにおなりになると同樣に、神佛に關してもまた、必ず、すすんで獨自の御決裁をなさいましたやうでございます。そのとしの七月二十日に、故左衞門尉義盛さまの御内室が所領も沒收され囚人として押し込められて居りましたのを、その身は御赦免にあづかり、あまつさへ領地もお返しに相成るといふ重なる御恩德に浴しまして、それは勿論、將軍家がかねがね和田氏御一族を御憐憫なされてゐたからでもございませうが、さらに重大の理由としては、その御内室は豐受太神宮七社の禰宜のお娘で、その御領地といふのも太神宮七社の御經營に當てられてゐて、それを沒收せられては神宮一圓の維持も困難になりますといふ禰宜等の訴へがございましたので、將軍家に於いては一議に及ばず所領返付を仰出され、事のついでに、御内室のお身柄をも御放免なされたといふ御事情のやうでございました。また、將軍家は鷹狩のむごたらしい遊戲を極度にお厭ひなされ、建暦二年の八月にも、またその後にもたびたび之の禁止すべき旨を仰出されて居りましたが、このとしの十二月七日には、さらに嚴重に鷹狩停止の事を諸國の守護人に御發令なされ、但し全國の神社がその貢税のために鷹狩を行ふのは一向さしつかへない、と神社の御儀式を重んじ、貢税の便宜をはからしむる思召しから、特別に御除外の例をお設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸國の神社佛閣の事になるとお眠りからお覺めになるのでごさいましたが、あとはもう、相州さまや入道さまにお任せ切りで、御自身は、ただ、のんびりと遊び暮して居られたやうなお工合でございました。五月の合戰で御所が全燒いたしまして、六月、七月、八月の三箇月間は、將軍家に於いては、もつぱら新造の御所の御設計に夢中の御樣子でございまして、實にしばしば工事の現場に御渡りなされ、ああでもない、かうでもないとさまざまに御工夫あそばされて、せつかく出來上りかけてゐる門を、またはじめから作り直させたり、お襖の繪のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖繪を調べて來させたり、なかなかの凝り樣で、相州さまも今は何事もさからはず、將軍家の御設計のとほりに新しい御所の工事を督促なされ、その京風の御新築をかへつて物珍らしげに拜見してゐるといふやうなふうでございました。相州さまも、その頃は故左衞門尉義盛さまのお跡を襲つてこのたびは侍別當をも兼ね、いきほひ隆々たるもので、けれども決してあらはには高ぶらず、かへつて頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒き、將軍家に對しては、また別段と、不自然に見えるくらゐに慇懃鄭重の物腰で御挨拶をなされ、將軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに應對なさるやうになり、うはべだけを拜見するとお二人の間は、まへにもまして御圓滿、お互ひにおいたはりなされ、お睦げでございまして、そのとしの七月七日に、假御所に於いて、合戰以來はじめての和歌御會がひらかれました時にも、めづらしく相州さまがその御會に御出席なされ、松風は水の音に似てゐるとか何とかいふ、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさつたりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、將軍家だけはそのやうなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出來てゐるお方はお歌もしつかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなささうな眞面目の御口調でおほめになりまして、なるほどさうおつしやられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉が鳴いて月が傾いたとかいふ歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないやうな氣もいたしまして、まことに相州さまといふお人は、あやしいお人柄の方でございます。將軍家のお歌も、このとしあたりが最も眞劍に御勞作なされた御時期でございまして、その翌年あたりからは、御歌道にもおこたり、時たま御酒宴の御座興にたはむれのお歌をおよみになるくらゐのもので、まじめに御思案なされてお作りになる事は年に二度か三度、ほとんど數へるくらゐに少くなつてしまひました。
何事モ十年デス。アトハ、餘生ト言ツテヨイ。
その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或ひは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、その建保元年あたりには、もうそろそろ將軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古寫本の斷片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衞尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一卷を獻上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大將家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御所の風流人を召集めて和歌の御會などもおひらきになり、たまたま御氣色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に淸綱さまから相傳の古今和歌集の獻上があり、末代までの重寶とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中將定家朝臣に御初學以來のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお點をつけて返進してまゐりまして、それ以來、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに從ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大龍王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今獨歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稻妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奧儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御樣子でございまして、御詠歌の數もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寢なさらずにお歌を御勞作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顏の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精靈を拜する思ひが致しまして、精靈が精靈を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の將軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの聲を發するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に將軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に對してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司賴時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を將軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を數々御獻上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相傳の私本の萬葉集だつたので、あの承元二年に淸綱さまから相傳の古今和歌集を獻上せられた時よりも更に深くおよろこびの御樣子に拜され、將軍家にとつては、古今和歌集も、また萬葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら寫本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、萬葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずゐぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戰で御所の文庫の書籍も大半は燒失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相傳の私本の萬葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出來るやうな氣が致します。新しい御所も御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御所の御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御樣子で、お奧の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衞門尉さま、結城左衞門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取澤邊に秋草を御興覽においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御樣子でごさいましたが、數ある御家人の中には、その頃の將軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御樣子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御所に於いて大聲を張り擧げ思ふさま將軍家の惡口を申し上げたといふ、まことに氣まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御所に於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎭壓のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野國さして御進發、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意氣揚々と歸つてまゐりました。將軍家はその折すこしく御酒氣だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御參着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衞門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聽取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて歸るとは、なんたる粗忽者、神佛も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御氣色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお傳へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の證據歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉〔鎌倉←御所〕に連れ歸らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顏にて御宥免を願ひ出づるは必定、將軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聽許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を盡す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも當將軍家は、故右大將家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御氣風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辭に醉ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、沒收の地は勳功の族に當てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五條の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下總の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武藝は廢れ、異形の風流武者のみ氾濫し、眞の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御氣色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蠻聲でございましたから、將軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに將軍家の御度量は非凡でございました。
武將ハ、アレデヨイノデス。
とまじめなお顏でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに靜かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相成りましたが、けれども、將軍家に於いては以前と少しも變らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお氣にとめていらつしやらない御樣子で、ただ、御朝廷と神佛に關する事になると、にはかに別人の如く凛乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎黨の事は、さめても寢ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう將軍家御自身で壽福寺へお參りになり、故左衞門尉義盛さまをはじめその御一族郎黨の御冥福をお祈りになつたほどでございました。
建保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥、晴、將軍家聊か御病惱、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵醉の餘氣か、爰に葉上僧正御加持に候するの處、此事を聞き、良藥と稱して、本寺より茶一盞を召進ず、而して一卷の書を相副へ、之を獻ぜしむ、茶德を譽むる所の書なり、將軍家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、晴、寅剋大地震。十四日、己酉、霽、將軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待ち、孤舟に棹して、由比濱より還御と云々。
同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、將軍家俄かに永福寺に御出、櫻花を御覽ぜんが爲なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震。
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸國炎旱を愁ふ、仍つて將軍家、祈雨の爲に八戒を保ち、法花經を轉讀し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に將軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、關東の諸御領の乃貢の事、來秋より三分の二を免ぜらる可し、假令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二條中將雅經朝臣寫し進ず、將軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震。
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。廿五日、乙酉、晴、六波羅の飛脚到著して申して云ふ、和田左衞門尉義盛、大學助義淸等の餘類洛陽に住し、故金吾將軍家の御息を以て大將軍と爲し、叛逆を巧むの由、其聞有るに依りて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人等、件の旅亭を襲ふの處、禪師忽ち自殺す、伴黨又逃亡すと云々。
同年。十二月大。四日、甲午、晴、亥剋、由比濱邊燒亡す、南風烈しきの間、若宮大路數町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。
建保三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆國の飛御參ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守時政、北條郡に於て卒去す、日來腫物を煩ひ給ふと云々。十一日、辛未、晴、若宮辻の人家燒亡す、酉戌兩時の間、廿餘町悉く灰燼と爲る。
同年。二月大。廿四日、癸丑、晴、戌刻、雷電數聲。
同年。三月大。五日、甲子、快霽、將軍家、花を覽んが爲、三浦の横須賀に御出。廿日、己卯、今日仰下されて云ふ、京進の貢馬のことは、其役人面々に、逸物三疋を以て、兼日用意せしめ、見參に入る可し、選び定むることは、御計ひ有る可きなりと云々。
同年。六月小。廿日、戊寅、今夜子剋、御靈社鳴動す、兩三度に及ぶと云々。
同年。七月大。六日、癸巳、晴、坊門黄門、去る六月二日仙洞歌合の一卷を將軍家に進ぜらる、是内々の勅諚に依りてなりと云々。
同年。八月小。十八日、乙巳、甚雨、午剋大風、鶴岳八幡宮の鳥居顚倒す。十九日、丙午、陰、地震矣。廿一日、戊申、晴、巳剋、鷺、御所の西侍の上に集る、未剋地震と云々。廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの處、重變の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々。
同年。九月小。六日、壬戌、晴、丑刻大地震。八日、甲子、陰、寅刻大地震。十一日、丁卯、晴、寅刻大地震、未剋又少し動ず。十三日、己巳、晴、未剋地震。十四日、庚午、晴、酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴す。十六日、壬申、晴、卯剋地震。十七日、癸酉、晴、戌剋三度地震。廿一日、丁丑、晴、連々の地震に依りて、御祈を行はる。廿六日、壬午、亥刻、雷鳴數聲、降雹の大なること李子の如し。
同年。十月大。二日、丁亥、晴、寅刻地震。
同年。十一月小。八日、癸亥、快晴、將軍家相州御亭より御所に還御、鷺の怪に依りて、御旅宿已に七十五日を經訖んぬ。廿五日、庚辰、幕府に於て、俄かに佛事を行はしめ給ふ、導師は行勇律師と云々、是將軍家去夜御夢想有り、義盛已下の亡卒御前に群參すと云々。
同年。十二月大。十五日、己亥、晴、亥刻地震。十六日、庚子、霽、終日風烈し、連々の天變等の事、將軍家殊に御謹愼有る可きの變なりと云々。
建保四年丙子。正月小。十七日、辛未、霽、將軍家の御持佛堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として其沙汰有り。廿八日、壬午、晴、姶めて御本尊を御持佛堂に安置す、即ち供養の儀有り。
同年。三月大。七日、庚申、海水色を變ず、赤きこと紅を浸せるが如しと云々。廿五日、戊刁[やぶちゃん字注:「刁」=「寅」]、御臺所嚴閤の薨去に依りて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀なりと云々。
同年。四月小。九日、壬辰、常の御所の南面に於て、終日諸人の愁訴を聽斷し給ふ、各藤の御壺に候して、子細を言上す。
同年。五月大。廿四日、丙子、將軍家山内邊を歴覽せしめ給ふ、期せざるの間、諸人追つて馳せ參ると云々。
同年。六月大。八日、庚刁[やぶちゃん字注:「刁」=「寅」]、晴、陳和卿參著す、是東大寺の大佛を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大將家結縁し給ふの次に、對面を遂げらる可きの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云ふ、貴客は多く人命を斷たしめ給ふの間、罪業惟重し、値遇し奉ること其憚有りと云々、仍つて遂に謁し申さず、而るに當將軍家に於ては、權化の再誕なり、恩顏を拜せんが爲に參上を企つるの由、之を申す、即ち筑後左衞門尉朝重の宅を點ぜられ、和卿の旅宿と爲す、先づ廣元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。十五日、丁酉、晴、和卿を御所に召して、御對面有り、和卿三反拜し奉り、頗る涕泣す、將軍家其禮を憚り給ふの處、和卿申して云ふ、貴客は、昔宋朝醫王山の長老たり、時に吾其門弟に列すと云々、此事、去る建暦元年六月三日丑剋、將軍家御寢の際、高僧一人御夢の中に入りて、此趣を告げ奉る、而して御夢想の事、敢て以て御詞を出されざるの處、六ケ年に及びて、忽ち以て和卿の申状に符合す、仍つて御信仰の外他事無しと云々。
同年。閏六月小。十四日、丙寅、廣元朝臣、今月一日大江姓に遷り訖んぬ。
同年。九月小。十八日、戊戌、相州廣元朝臣を招請して仰せられて云ふ、將軍家大將に任ずる事、内々思食し立つと云々、右大將家は、官位の事宣下の毎度、之を固辭し給ふ、是佳運を後胤に及ばしめ給はんが爲なり、而るに今御年齡未だ成立に滿たず、壯年にして御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずして、面々に顯要の官班に補任すること、頗る過分と謂ひつ可きか、尤も歎息する所なり、下官愚昧短慮を以て、縱ひ傾け申すと雖も、還つて其責を蒙る可し、貴殿盍ぞ之を申されざる哉と云々、廣元朝臣答申して云ふ、日來此の事を思ひて、丹府を惱ますと雖も、右大將家の御時は、事に於て下問有り、當時は其儀無きの間、獨り腸を斷つて、微言を出すに及ばす、今密談に預ること、尤も以て大幸たり、凡そ本文の訓する所、臣は己を量りて職を受くと云々、今先君の遺跡を繼ぎ給ふ計なり、當代に於ては、指せる勳功無し、而るに啻に諸國を管領し給ふのみに匪ず、中納言中將に昇り給ふ、攝關の御息子に非ずば、凡人に於ては、此儀有る可からず、爭か嬰害積殃の兩篇を遁れ給はんか、早く御使として、愚存の趣を申し試む可しと云々。廿日、己亥、晴、廣元朝臣御所に參じ、相州の中使と稱して、御昇進の間の事、諷諫し申す、須らく御子孫の繁榮を乞願はしめ給ふ可くば、御當官等を辭し、只征夷將軍として漸く御高年に及びて、大將を兼ねしめ給ふ可きかと云々、仰せて云ふ、諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相繼ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帶し、家名を擧げんと欲すと云々、廣元朝臣重ねて是非を申す能はず、即ち退出して、此由を相州に申さると云々。
同年。十月大。五日、甲刁[やぶちゃん字注:「刁」=「寅」]、將軍家、諸人の庭中に言上する事を聞かしめ給ふ。
同年。十一月小。廿四日、癸卯、晴、將軍家先生の御住所醫王山を拜し給はんが爲、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依りて、唐船を修造す可きの由、宋人和卿に仰す、又扈從の人六十餘輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奧州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の沙汰に及ぶと云々。
同年。十二月大。一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々。
御耽溺とは申しても、下衆の者たちのやうに正體を失ふほどに醉ひつぶれ、奇妙な事ばかり大聲でわめきちらし、婦女子をとらへてどうかうといふやうな、あんなものかとお思ひになると、とんでもない間違ひでございまして、將軍家に於いては、その頃お酒の量が多くなつたとは申しながら、いつも微醺の程度で、それ以上に亂醉なさるやうな事は決して無く、お膝さへお崩しにならず、さうして、女房たちを召集めておからかひになるとは言つても、ただ御上品の御冗談をおつしやつて一座を陽氣に笑はせるといふくらゐのもので、あさましい御享樂をなさつて居られたわけでもないのでございますが、いやしくも征夷大將軍、武門の總本家のお方が、武藝を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたはむれていらつしやる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく目立つ事でもございますから、やつぱり御耽溺と申し上げなければならぬやうな結果になり、私たちお傍の者も、終始變らず將軍家を御信賴申し、お慕ひ申してゐながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。あくる建保二年のお正月には、れいの二所詣に御進發になり、私たちもお供を致しましたが、二月三日には、御一行無事に鎌倉へ御歸着に相成り、その夜は、お供の者のこらず御所に參候して御盃酒を賜り、たいへん結構の御馳走ばかりつぎつぎと出て、夜の更けるにつれて飮めや歌への大騷ぎになり、將軍家も、夜明け近くまで皆におつき合ひ下され、その時ばかりは、さすがに御正座も困難に見受けられたほどにいたくお醉ひの御樣子でございました。さうして、その翌る日は、お床におつきになられたきりで、ひどくお苦しみの御模樣に拜され、大勢の御家人たちが續々とお見舞ひに駈けつけて、御所にただならぬ不安の氣がただよひ、けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さまが、その御容態の御宿醉に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名藥を取りよせて一盞獻じましたところが、たちまち御惱も薄らぎ、僧正さまは頗る面目をほどこしましたが、その名藥といふのは、ただのお茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用ゐられてゐなかつたし、全く、珍らしかつた時代でございまして、僧正さまは、その場に於いて、その名藥のお茶である事をお明し申し、お茶の德をほめたたへるところの書一卷をついでに獻上なさいました。それは、僧正さまが御坐禪の餘暇に御自身でお書きになつた御本だとか、めづらしい本をお書きになつたものだと、けげんさうにお首を傾けて居られたお方もございました。この葉上僧正榮西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち傳教大師このかたの天台宗と弘法大師を御祖師とする眞言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお氣持から離れて御加持御祈禱專門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の御渡宋より御歸朝以來、達磨宗すなはち禪宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黑谷の御上人が念佛宗すなはち淨土宗を稱へられたのもその頃の事でございましたが、兩宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまして、榮西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、壽福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を稱へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元氣は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでございませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈禱もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお德をほめたたへる御本などと、珍奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。さて、將軍家に於いては、僧正さまの所謂お茶のお德によつて、御病氣がおなほりになると、すぐに、れいの風流武士の面々を召集めて、お船遊びやらお花見やらにおでかけになり、たまには、おひとりでこつそり御所を脱け出し裏山などにおいでになつて、あとで大騷ぎをしてお搜し申す事もございましたほどで、この建保二年から三年にかけて、ほとんど連日の大地震、それに火事やら、大風やら、或ひは旱魃に惱むかと思ふと、こんどは大雨洪水、また實に物凄い雷鳴もしばしばございまして、天體に於いてさへ日蝕、月蝕の異變があり、關東の人心恟々たるもので、それにつけても將軍家のそのやうな御風流の御遊興は非難せられ、この天變地異は、すべて將軍家御謹愼有るべしとの神々のお告げなりと御占ひを立てるものさへ出てまゐりまして、或ひはまた、御所のお屋根におびただしい鷺の群が降り立つたのを見て、これただ事に非ず、御所に重變起るの兆なりといふおそろしい豫言をする者もございまして、その時には、將軍家は相州さまにすすめられて御所をのがれ、相州さまのお宅にお移りになり、それから七十五日間も相州さまのお宅で窮屈な御暮しをなさつたのでございましたが、重變も何も起りませんでしたので、また御所へお歸りになつたなどといふ、何がなんだか、わけのわからぬ騷ぎもございましたほどで、これといふのも、すべて、將軍家の御趣味に御惑溺の御日常が、ひどく皆の目ざはりになつてゐるせゐではなからうかとお傍の私たちにも思はれました。けれども、呆けてお遊びになつてゐるやうでも、やはり、將軍家のお力でなければ、どうしても出來ない事もございまして、建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には、鶴岳宮に於いて諸僧が大勢で連日雨乞の御祈を致しましたが、わづかに白雲が流れて幽かな遠雷が聞えただけで、一滴の雨も降りませんでしたのに、六月三日、將軍家が御精進御潔齋なされて法華經を一心に讀誦いたしましたところが、翌朝から、しとしとと慈雨が降りはじめまして、むかし皇極女帝の御時、天下炎旱に惱み、諸方に於いて雨乞の祈禱があつたけれども何の驗も無きゆゑ、時の大臣、蘇我蝦夷みづから香爐を捧げて祈念いたしましたさうで、それでも空はからりと晴れ渡つたままで、一片の白雲もあらはれず、蝦夷は大いに恥ぢて、至尊に御祈念下されるやうお願ひ申しましたので、すなはち玉歩を河邊に運ばせられ、四方を御拜なされるや、たちまち雷電、沛然と大雨あり、ために國土の百穀豐稔に歸したとか、一臣下たる將軍家の事などは、もちろんその尊い御治蹟とは較べものにも何も、もつたいなくて出來るものでございませぬが、純正無染の心で祈願いたしたならば必ずや天に通ずるものがあるらしく、それは不德の僧侶や蝦夷大臣などには出來ぬ道理で、風流の御遊興に身をやつして居られても、やはり將軍家には高い御品性がそなはつていらつしやるのだらうと、急に御評判がよろしくなつて、同じ月の十三日には、將軍家がその頃の頻々たる天變地異に依る關東一帶の不作をお見越しなされて、年貢の減免を仰出され、いよいよ御高德を讚嘆せられ、また、時々は、ふいと思ひ出されたやうに前庭に面してお出ましなされ、さまざまの下民の直訴に、終日、默々とお耳を傾けて居られる事などもございましたけれども、しかし、すぐにまたお遊びの御計畫をおはじめになり、もとはお口の重いお方でございましたのに、やや御多辯になられたやうでもあり、お顏も以前にくらべてすこしお若くなつたやうにさへ見受けられました。いつかお傍の者が、このごろめつきりお太りになられたやうに拜せられますが、と申し上げたら、
男ハ苦惱ニヨツテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦惱デス。
と御冗談めかしておつしやいましたけれども、或ひは、御陽氣に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず藏して居られたのでもございませうか、その邊の事は私どもには推量も及ばぬところでございまして、
ナンニモ、スルコトガナイ。
と幽かにお笑ひになつておつしやつて居られた事もございますし、また、
政所、侍所ナドト等シク、都所トイフモノヲ設ケタラドウカ。ソノ都所ノ別當ニダケハ、ナツテモヨイ。
とお酒のお席で誰にともなくおつしやつて、おひとりで大笑ひなさつて居られた事もございました。派手な京風ばかりを眞似るゆゑ、都所別當が御適任といふ御自身をおからかひの意味でおつしやつたのかも知れませぬが、私たちの日常拜しましたところでは、決してそんな事だけではなく、別のもつと嚴肅な意味に於いても、その都所別當が首肯できる氣持でございました。まことに、當時、御朝廷との御交通は、ただこの御方おひとりに依つてのみなされてゐたやうな御有樣でございまして、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一卷が將軍家に下し送られ、將軍家もまた、そのとしには、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に當つて、お役人の面々に、それぞれ逸物三匹づつを用意せしめ、御自身いやしき伯樂の如くお手づから馬の口の中まで綿密にお調べになつたくらゐで、建保五年の七月から八月にかけての仙洞御所の御惱の折には、すぐさまお見舞ひの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を獻上いたし、また御修法を仰出され院の御惱御平癒を祈念なされるなど、その御朝廷に對し奉る恭順の御態度は、萬民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下向の御勅使をおもてなしなさるに當つても、誠心敬意を表し、莫大の贈物を捧げ、ひたすら忠君の御赤心を披瀝なされ、かの御母君尼御臺所さまが、建保六年に二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滯在中、院の特別のお思召しにより尼御臺さまを從三位に敍せしむべき由の宣下がその御旅亭に達し、さらに、かしこくも仙洞御所御直々の御對面をも賜ふべき由仰下され、その破格の御朝恩に感泣いたすべきところを尼御臺さまは、田舍の薄汚い老尼でございます、龍顏に咫尺し奉るなど、とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺參拜のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御發足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに較べると、實の御母子でありながら、まさに雲泥の差がございまして、院も、このお若い將軍家の一途に素直な忠誠の念をおいつくしみ下され、官位の陞敍もすみやかに、建仁三年九月七日敍從五位下、任征夷大將軍、同十月二十四日任右兵衞佐、元久元年正月七日敍從五位上、三月六日任右近少將、同二年正月五日正五下、同二十九日任右中將、兼加賀介、建永元年二月二十二日敍從四下、承元々年正月五日從四上、同二年十二月九日正四下、同三年四月十日敍從三位、五月二十六日更任右中將、建暦元年正月五日正三位、同二年十二月十日從二位、建保元年二月二十七日正二位、このころから將軍家に於いても官位の御昇進を無邪氣にお樂しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同じく建保四年の六月二十日には、わづか御二十五歳のお若さを以て權中納言に任ぜられ、七月二十日には左近中將を兼ね、同六年正月十三日には任權大納言、三月六日にいたつて左近大將、十月九日、内大臣、十二月二日、右大臣。然して、左近大將の時、ならびに右大臣の時にはその拜賀の御儀式に用ゐるべき御裝束御車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司無禮の輩は之に就いてもまた、けしからぬ取沙汰を行ひ、院に於かせられては將軍家を官打ちに致される御所存ではなかつたらうか、と愚かしき疑ひなどをさしはさみまして、御承知でもございませうが、もともとそれに價せぬ身分のものが、にはかに高位高官に昇ると、その官位に負けて命を失ふとも言はれて居りますから、憎むべき者の官位を急速に進めてその一命を奪はんと圖る事を官打ちと申しますのださうで、その官打ちの御所存ではなかつたらうかといふつまらぬ疑ひを抱いて心配顏をしてゐた人も無いわけではなかつたのでございまして、けれどもそれは、仙洞御所と將軍家との間に於いて、つねに天眞爛漫の麗はしい君臣の情が交流してゐたといふ事實をご存じないからであつて、共にすぐれた御歌人ではあり、承久元年の正月に將軍家があのやうな御最期を遂げられ、院におかれては内藏頭忠綱さまを御使として鎌倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申傳へしめあそばしましたさうで、しかも將軍家がおなくなりになると直ちに、あの不吉の兵亂がはじまりましたところから考へても、將軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、眞に都所の大別當であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて來るやうな氣が致します。けれども、當時、將軍家に對する御所内外の誤解は甚しく、建保四年の九月に、廣元入道さまは、しさいらしく將軍家に御諫言を試み、かへつて大いに恥をおかきになつたなどといふ事もございました。九月十八日に、相州さまがそのお宅に廣元入道さまをこつそりお招きになり、どうも困りました、いや將軍家の事ですが、和歌管絃の御風流にも、もういい加減厭きて來たと見えて、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、實にどうも、みつともなく、あれでは京都の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ上からも、面白くない事です、故右大將家はさすがに御聰明で官位の宣下のある度毎に固く御辭退申上げたもので、これはここだけの話ですが、正二位も大納言も、幕府の私どもにはいそいで頂戴の必要もなく、名よりは實ですから、征夷大將軍一つでたくさんな筈なのに、どういふものですか、當代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない樣子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道樂は、たちが惡い、私から將軍家に申し上げてもいいのですが、どうも私は口不調法の短氣者と來てゐるので、まづい事を言つて、ただ將軍家を怒らせてしまつてもつまらないし、ここは一つ、あなたのれいの上品な遠廻しの御辯舌におたよりしたいところのやうです、とにこりともせず、廣元入道さまのお顏を射るやうにまつすぐに見つめながら申しまして、入道さまは狼狽の氣味、いや恐縮です、とおつしやつて二つ三つ空咳をなさつて、その事に就いては、と大袈裟に膝をすすめ、私も日頃ひとしれず惱んでゐない譯ではございませんでした、とやつぱり煮え切らないやうな言ひ方で、まことに之は困つたやうな事でございまして、故右大將家に於いては、いやしくも京都に關する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして、私も及ばずながら何かと愚見を開陳いたしたものでございましたが、當代に於いては、さつぱり私に御下問なさいません、さうして御自分のお考へだけでどしどし京と御交通なさいますので、私は、ただお傍ではらはらして拜見してゐるばかりでございましたところへ持つて來て、今日のあなたのお言葉、いや有難う存じました、よろしうございます、必ずおいさめ申しませう、ただし之は、とふいとお聲を落して、お首を傾け、どうしたものでございませう、あなたの御使として御諫言申し上げた方が、ききめもよろしいかと存ぜられますが、とれいの御責任をおのがれになる御工夫、相州さまは、平氣でうなづき、ここに御密談がまとまつたやうな次第で、もちろん之は私が、のちにいろいろの人から聞いて、たぶんかうでもあつたらうかと思はれるままにお話申し上げたのでございますから、その邊はよろしく御斟酌の程をお願ひ申し上げます。さて、その翌々日、入道さまは相州さまからの御使として御前に參り、いたづらに官位をお望みなさる事のよろしからざる理由を、なかなか美事に御申述べに相成りました。日頃あいまいの言ひ方ばかりしていらつしやる入道さまには似合はず、堂々たる御言論で、まづ故右大將家が、あれほどの大功をお立てになりながらも佳運を子孫に殘さうといふ思召しからその御一代に於いては官位を望まず、ただ征夷大將軍たるを以て滿足して居られたといふ事から説き起し、當代に於いては、さしたる勳功も無くして既に中納言中將に昇り給ふ、かかる事例は攝關の御子息の場合に於いてのみ見受けられる事で、それ以外の者には許されるものではないのでございます、このやうな無理をあくまでも押して行きましたならば、或ひは、わざはひその身に及ぶかも知れない、もし御子孫の餘榮を願ふおつもりがあつたならば、須らく御當官を辭し、御父君の如くただ征夷大將軍を以て足れりとなし、漸く御高年に及びて然るべき官位を拜受なされたはうがよろしいかと存じます、と淀みなく巧みに諷諫申しましたけれども、將軍家は爽やかに御微笑なされ、
官位ヲ望ンデワルイ理由ハ他ニモアラウ。子孫ノタメトハ唐突デス。子孫ハ、ドコニモ居リマセヌ。
とれいの御冗談めかしておつしやいましたので、入道さまも拍子拔けがした樣子で、ぼんやり將軍家のお顏を見上げて、何もおつしやらずに、やがて靜かに一禮して、そのままあつけなく御退出に相成りました。けれども、この時の將軍家の、子孫は無い、といふお言葉が、それは別段あやしむにも足らぬ事で、將軍家にはお子さまも無いし、輕く入道さまをおからかひになつたお言葉にちがひないのでございますが、それでも、どうも奇妙に私どもの胸に悲しく響いて、めつさうもない不吉な御豫言のやうにさへ感ぜられ、すべて私たちの愚かな氣の迷ひにきまつてゐるとは知りながらも、それから三年目のお正月に、あんな恐しい事が起つてみますると、やつぱり、この時の將軍家のお言葉をも不思議の一つに數へ上げたいやうな氣がしてまゐりますのでございます。渡宋の御計畫を仰出されたのも、このとしの事でございまして、この御計畫も將軍家にとつては別に深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿は造船も巧みとお聞及びになつて、ふいと渡宋を思ひ立つた御樣子で、私ども貧しい身上の者にとつてこそ大船を作り宋に渡るといふのは、とても企て及ばぬ事でございますが、いやしくも關東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然の御計畫ではなく、おとしのお若いうちに變つた土地を御覽になつて來るのも、なかなか有益の事とも思はれますし、かねがね將軍家の御傾倒申上げてゐる、あの厩戸の皇子さまなどは、その六百年も前にもう、隋と御交通なさつて居られた程でございまして、また鎌倉の壽福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて來られたお方ですし、無學の田舍者が、ただ遠い遠い唐天竺を夢見てゐるのとは違つて、將軍家のやうに廣く御學問なさつて居られると、渡宋もさしたる難事でないと御明察なされ、お氣輕に御計畫なされたのではなからうかと、私などには思はれましたが、これがまた、幕府〔幕府←御所〕の御視界の狹いお方たちには、ほとんど氣違ひ沙汰と思はれたらしく、實に烈しい反對がございまして、或る者は、將軍家が北條家の壓迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺でもなさる氣であらうと言ひ、或る者は、宋に渡ると見せて實は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乘せ申して北條家討伐のために再び鎌倉へひきかへして來るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者は、こんな事をして幕府にむだなお金を使はせ幕府も將軍家も北條家も何もかもみんな一緒に倒れるやうに仕組んで、以て上皇さまへの最後の忠誠の置土産になさらうといふ深いお考へがあるのかも知れないと言ひ、また或る者は、なあに、すねてゐるのさ、渡宋なんて、でたらめだよと言ひ、また、いやいや、そのやうにただ惡くばかり推量するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の醫王山に御參詣なさるための渡宋で、その他には何の御異圖もないのだ、まことに將軍家の御信仰の篤いこと、恐れいるばかりだ、などと妙な感懷をもらす者もありまして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戰でも起るやうな騷ぎ方でございました。けれども、さすがに相州さま、入道さま、また尼御臺さまに於いてはお考へも愼重で、同じ反對をするにしても、そのやうな紛々たる諸説の如く淺はかな疑念を抱いて反對なさるのではなく、尼御臺さまは、やつぱり生みの母御らしく、だいいちに將軍家の御健康を御案じなされて、この御計畫はおやめになるやう仰出され、將軍家はそれにお答して、なに、永くてたつた一年で歸つて來ます、六百年もむかしの厩戸の皇子さまの頃だつて氣樂に隋と往來をしてゐたものです、御心配には及びません、と事もなげにおつしやつてお聞きいれの色は無く、また相州さま、入道さまがそろつてお諫め申し、
「たとひ一年間でも、將軍家が幕府をお留守になさるとは、先例の無い事で、おだやかでございません。」
タツタ一年ノオ留守番モデキヌヤウデハ、重臣ノ甲斐ガアリマセヌ。
「どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。」
日本ノ旅人デス
「案内役が陳和卿では不安でございます。」
知ツテヰマス。異人ハタヨルベカラズ、就イテ少シク學ブダケデス。
取りつくしまも無く、相州さまと入道さまは互ひにお顏を見合せて溜息をおつきになるばかりのやうでございました。將軍家も未だ二十五歳、前にも申上げたとほり、お若いうちに異國に渡り、その御見聞をおひろめになられるのは決して惡い事ではなく、たつた半歳か一箇年のお留守番は相州さまにしても入道さまにしても出來ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滯在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕府にとつても安全の事ではあり、相州さまたちは、このたびの外遊の御計畫は、あの官位陞進の御道樂に較べると、まだしも、たちがいいとお思ひになつてゐたやうでもございましたが、しかし、あの陳和卿といふ人物を信賴する氣にはどうしてもなれなかつた御樣子で、あの者が案内役をつとめるといふならば、この御計畫にはあくまでも反對しなければならぬ、といふお考へのやうに見受けられました。この陳和卿といふのは甚だ不思議な人物で、異國の人の氣持といふものは、私どもにはなかなかわかりにくいものでございますが、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、當將軍家は御佛のお生れ變りでいらつしやると奇妙な事を言ひふらして歩きましたさうで、やがて將軍家のお耳にもはひり、かねて將軍家御尊崇の厩戸の皇子さまは、たしかに御神佛の御化身だつたさうでございますし、そのやうな事からも興をお覺えになつたのでございませうか、十五日には、和卿を御所に召して御對面に相成りました。この和卿といふお方は、その當時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から數へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大將家再度の御上洛の折、東大寺の大佛殿に御參りになつて、たまたま宋朝の來客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が總指揮をして鑄造したといふ盧舍那佛の修飾のさまを拜するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失禮にも、將軍多く人命を斷ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大將家はお使の上人からその無禮の返辭を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御樣子で、奧州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造營の釘と爲し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鑄造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた樣子で、次第に周圍の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の氣概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大將家の御實子を御佛の再誕と稱してその御温顏をひとめ拜したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人氣取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大將家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、將軍家にとつては、何せ、御佛の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら氣になる御樣子で、十五日に御所へお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、將軍家のお顏をひとめ仰ぎ見て、大聲擧げて泣いておしまひになりました。異人といふものは、そんなに悲しくなくても、自由にどんどん涙を流す事が出來るものかも知れませぬが、痩せこけた醜い老爺が身悶えして泣き叫んでゐる有樣には、ただごとで無いやうな氣配も感ぜられ、將軍家もこれにはお眉をひそめ、途方に暮れた御樣子をなさいまして、やがて、陳和卿の泣く泣く申し上げる事には、將軍家はその御前身に於いて宋朝醫王山の長老たり、我はその時、一門弟としてお仕へ申して居りました、おなつかしう存じます。
ソレハ、夢デ見タコトガアリマス。
將軍家は少しも驚かずに即座にお答へになりました。六年前の建暦元年六月三日丑剋、將軍家御寢の際、高僧一人御夢の中にあらはれて、汝はもと宋朝醫王山の長老たり、とお告げになつたのださうで、
誰ニモ言ハズニ居リマシタガ、ソナタノ物語卜符合シテヰルトハ面白イ。
とお首を振つて、しきりに興じて居られました。陳和卿も、これほど事が、うまく行くとは思ひまうけなかつたでございませう。それから御信任を得て、たびたび御所に召されて宋朝の事情など御下問に預り、そのうちに將軍家は陳和卿のお話だけでは滿足できなくなつた御樣子で、たうとう御自身渡宋の御計畫を思ひつき、陳和卿には唐船の修造をお言ひつけになり、また正式に渡宋の案内役に任命なされ、周圍の反對も何も押切つて、そのとしの十一月二十四日には、さらに渡宋のお供として、れいの風流武者六十餘人を御指定に相成り、私などもその光榮の人數の端にさし加へられ、御指定にあづかつた風流武者の面々は、もともと豪傑のお方ばかりでございますし、いつもの船遊びの少し大がかりのものくらゐに考へて居られたらしく、何事も將軍家を御信賴しておまかせ申し、のんきに唐の美人の話など持ち出して、早くも浮かれてゐるやうな有樣で、いまはただ和卿の唐船の完成を待つばかりとなりました。將軍家も、いそいそと落ちつかぬ御樣子で、宋へ御出發前にどうしても見て置かなければならぬ御政務は、片端から精出して御覽になつて、また、いままで御決裁をお怠りになつてゐたために、諸方の訴訟がずゐぶんたまつてしまつてゐるといふ事をお聞きになつて、それも必ず年内に片づけるやうにしたいと仰せになつてお役人を督勵してどしどしお片づけに相成り、今はなんとしても渡宋せずにはやまぬといふ御意氣込みのやうで、このやうに將軍家を異樣にせきたてるものは、いつたい、なんであらうと私は將軍家のその頃の日夜、そはそはと落ちつかず御いそがしさうになさつて居られるのを拜して、考へた事でございましたが、御目的は、勿諭醫王山ではない、陳和卿のいやしい心をお見拔き出來ぬ將軍家ではございませんし、何でもちやんとご存じの上で和卿をほんの一時、御利用なされてゐるだけの事に違ひないので、行先きは宋でなくてもいいのだ、御目的は、たつた一年でも半歳でも、ただこの鎌倉の土地から遁れてみたいといふところにあるのだ、建保三年十一月の末、和田左衞門尉義盛以下將卒の亡靈が、將軍家の御枕上に、ぞろりと群をなして立つたといふ、その翌朝、にはかに、さかんな佛事を行ひましたけれど、心ならずもその寵臣の一族を皆殺しにしてしまつた主君の御胸中は、なかなか私どもには推察できぬ程に荒涼たるものがあるのではございませんでせうか、これ必ず一つの原因と私には思はれてならなかつたのでございます。
建保五年丁丑。三月小。十日、丁亥、晴、晩頭將軍家櫻花を覽んが爲、永福寺に御出、御臺所御同車、先づ御禮佛、次に花林の下を逍遙し給ふ、其後大夫判官行村の宅に入御、和歌の御會有り、亥の四點に及び、月に乘じて還御。
同年。四月大。十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日數百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に隨ひ、諸人筋力を盡して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の爲體は、唐船出入す可きの海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々。
同年。五月大。十一日、戊子、晴、申剋、鶴岳八幡宮の別當三位僧都定曉、腫物を煩ひて入滅す。廿七日、甲辰、去る元年五月亡卒せる義盛以下の所領、神社佛寺の事、本主の例に任せて興行せしむ可きの由、今日彼の跡拜領の輩に仰せらると云々。
同年。六月小。廿日、丙刁[やぶちゃん字注:「刁」=「寅」]、晴、阿闍梨公曉、園城寺より下著せしめ給ふ、尼御臺所の仰に依りて、鶴岳別當の闕に補せらる可しと云々、此一兩年、明王院僧正公胤の門弟となりて、學道の爲に住寺せらるる所なり。
同年。七月大。廿四日、己亥、晴、京都の使者參著す、去る十日より上皇御瘧病、毎日發らしめ給ふ、内外の御祈禱更に其驗見えずと云々。廿六日、辛丑、晴、山城大夫判官行村、使節として上洛す、院御惱の事に依りてなり。
同年。九月大。十三日、丁亥、將軍家海邊の月を御覽ぜんが爲、三浦に渡御、左衞門尉義村殊に結構すと云々。卅日、甲辰、永福寺に始めて舍利會を行はる、尼御臺所、將軍家並びに御臺所御出、法會の次第、舞樂已下美を盡し、善を盡す。
同年。十月大。十一日、乙卯、晴、阿闍梨公曉鶴岳別當職に補せらるるの後、始めて神拜有り、又宿願に依りて、今日以後一千日、宮寺に參籠せしめ給ふ可しと云々。
建保六年戊寅。二月小。四日、丙午、快霽、尼御臺所御上洛。
同年。四月小。二十九日、庚午、晴、申剋、尼御臺所御還向、去る十四日、從三位に敍せしむる可きの由宣下、上卿三條中納言即ち淸範朝臣を以て、件の位記を三品の御亭に下さる、同十五日、仙洞より御對面有る可きの由仰下さると雖も、邊鄙の老尼龍顏に咫尺すること其益無し、然る可からざるの旨之を申され、諸寺禮佛の志を抛ち、即時下向し給ふと云々。
同年。六月小。廿日、庚申、霽、内藏頭忠綱朝臣勅使として下向す、先づ御車二兩、已下御拜賀料の調度等、之を舁かしむ、疋夫數十人歩列す。廿一日、辛酉、晴、午剋、忠綱朝臣件の御調度等を御所に運ばしむ、御車二兩、九錫彫の弓、御裝束、御隨身の裝束、移鞍等なり、是皆仙洞より調へ下さると云々、將軍家、忠綱朝臣を簾中に召して御對面有り、慇懃の朝恩、殊に賀し申さると云々、凡そ此御拜賀の事に依りて、參向の人已に以て數輩なり、皆御家人等に仰せて、毎日の經營、贈物、花美を盡す、是併しながら、庶民の費に非ざる莫し。廿七日、丁卯、晴、陰、將軍家大將に任ぜられ給ふの間、御拜賀の爲、鶴岳宮に參り給ふ、早旦行村の奉として、御拜賀有る可きの由を、下向の雲客等に觸れ申す、申の斜に其儀有り。
同年。七月大。八日、丁丑、晴、左大將家御直衣始なり、仍つて鶴岳宮に御參、午剋出御、前驅並びに隨兵已下、去月廿七日の供奉人を用ゐらる。
同年。八月大。十五日、癸丑、晴、鶴岳放生會、將軍家御參宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる。十六日、甲寅、晴、將軍家御出昨の如し、流鏑馬殊に之を結構せらる。
同年。九月小。十三日、辛巳、天晴陰、酉刻快霽、明月の夜、御所にて和歌の御會なり。
同年。十月大。廿六日、乙丑、晴、京都の使者參ず、去る十三日、禪定三品政子從二位に敍せしめ給ふと云々。
同年。十二月小。五日、癸卯、霽、鶴岳の別當公曉、宮寺に參籠して、更に退出せられず、數ケの祈請を致され、都て以て除髮の儀無し、人之を恠しむ、又白河左衞門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが爲、進發せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々。廿日、戊午、晴、去る二日、將軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。廿一日、己未、晴、將軍家大臣拜賀の爲に、明年正月鶴岳宮に御參有る可きに依つて、御裝束御車已下の調度等、又仙洞より之を下され、今日到著す、又扈從の上達部坊門亞相已下參向せらる可しと云々。
公曉禪師さまは、その翌年の建保五年六月に京都よりお歸りになり、尼御臺さまのお計ひに依つて鶴岳宮の別當に任ぜられました。前の別當職、定曉僧都さまはそのとしの五月に御腫物をわづらひ、既におなくなりになつてゐたのでございます。公曉禪師さまは、それまで數年、京都に於いて御學問をなさつて居られたのでございますが、あまり永く京都などに置くと、また謀叛の輩に擁立せられたりなどして榮實禪師さまの二の舞ひの、不幸な最期をとげられるやうな事が起らないとも限らぬといふ尼御臺さまの御孫いとしのお心から、お使をつかはして、公曉禪師さまをむりやり鎌倉へ連れ歸らしめ、鶴岳宮の別當職に補せられたのが、あの、關東はおろか、京、西國、日本中を震撼させた凶事のもとになつたのでございます。その六月の末に、公曉禪師さまは御所へも御挨拶にお見えになりましたが、もはやその時は十八歳、筋骨たくましい御立派な若者になつて居られました。身の丈も將軍家よりは、はるかにお高く、花やかなお顏立ちで色も白く、まことに源家嫡流の御若君に恥ぢぬ御容儀と拜されましたが、けれども、御幼少の頃からのあの卑しく含羞むやうな、めめしい笑顏はもとのままで、どこやら御輕薄でたより無く、赤すぎるお口元にも、またお眼の光にも、不潔なみだらなものさへ感ぜられ、將軍家の純一なおつとりした御態度に較べると、やつぱり天性のお位に於いて格段の相違があるやうに私たちには見受けられました。その日も禪師さまは、御奧の人たち皆に、みつともないほどの叮嚀なお辭儀をなされて、さうして將軍家に對してはさらに見るに忍びぬくらゐの過度のおあいそ笑ひをお頰に浮べて御挨拶を申し、將軍家はただ默つて首肯いて居られまして、京から下著の人にはたいてい京の御話を御所望なされ、それが將軍家の何よりのお樂しみの御樣子でございましたのに、この時、公曉禪師さまにはなんのお尋ねもなく、そのうへ少しお顏色がお曇りになつて居られるやうにさへ拜されました。ふいとそのとき思ひましたのでございますが、將軍家は、この卑しいつくり笑ひをなさる禪師さまをひどくお嫌ひなのではなからうか、滅多に人を毛嫌ひなさらず、どんな人をも一樣においつくしみなされてまゐりました將軍家が、この公曉禪師さまの事になると奇妙に御不快の色をお示しになり、六年前に、禪師さまが御落飾の御挨拶にお見えになつた時にも、將軍家は終始鬱々として居られたし、それから後も御前に於いてこの禪師さまのお噂が出ると急に座をお立ちになつたり、何かお心にこだはる事でもございますやうな御樣子で、その日も禪師さまが、おどおどして、きまりわるげなお態度をなさればなさるほど、いよいよ將軍家のお顏色は暗く、不機嫌におなりのやうに拜されましたので、これはひよつとしたら將軍家はこの禪師さまをかねがね、あきたらず思召しなされて居られるのではなからうかと、私も當時二十一歳にもなつて居りまして、まあ身のほど知らずの生意氣なとしごろでもございますから、そのやうな推參な事まで考へたやうな次第でございました。その日、禪師さまが御退出なされて後も、將軍家はしばらくそのまま默つてお坐りになつて居られましたが、ふいとお傍の私たちのはうを振りかへられ、あれには仲間も無くて淋しからう、これから時折、僧院へお話相手に伺ふがよい、と仰せられ、そのお言葉を待つまでも無く、私にはあのお若い禪師さまの兢々たる御遠慮の御樣子がおいたはしく、そのお身の上にも御同情禁じがたく、いつかゆつくりお話相手にでもお伺ひしたいものと考へてゐた矢先でございましたので、それから十日ほど經つて七月のはじめ、御所の非番の日に、鶴岳宮の僧院へ、何か義憤に似た氣持さへ抱いてお伺ひ申し上げたのでございます。晝のうちは御讀經、御戒行でおひまもございませぬ由、かねて聞き及んで居りましたので、夜分にお訪ね申しましたが、禪師さまは少しも高ぶるところの無い、いかにも磊落の御應接振りをお示し下され、部屋の中は暑い、海岸に出て見ませうと私をうながして、外へ出ました。月も星も無く、まことに暗い夜でございました。禪師さまは、何もおつしやらずにどんどんさきにお歩きになり、そのお早いこと、私はほとんど走るやうにしておあとについてまゐりました。由比浦には人影も無く、ただあの、ことしの四月以來なぎさに打ち拾てられたままになつてゐる唐船の巨大な姿のみ、不氣味な魔物の影のやうに眞黑くのつそりと聳え立つてゐるだけで、申しおくれましたがこの唐船は、れいの陳和卿の設計に依り、そのとしの四月には出來上つて、十七日これを海に浮べんとして、午の剋から數百人の人夫が和卿の采配に從ひ、力のあらん限りをつくして曳きはじめましたものの、かほどの大船を動かすのは容易な事ではないらしく、また和卿のお指圖にもずゐぶんいい加減なところがございましたやうで、日沒の頃にいたつてやつと浪打際に、わづかに舳を曳きいれる事が出來ただけで、しかも、この遠淺の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出來ないのはわかり切つてゐると、その頃になつて言ひ出す者もあり、さう言はれてみるとたしかにそのとほり、大船の出入できる浦ではなく、陳和卿にはまた獨特の妙案があり、かならずこの浦に船を浮ばせて見せるといふ確信があつてこの造船を引受けたに違ひないものと思はれるし、とにかく和卿に、當初からの見とほしをあらためて問ひただしてみよう、といふ事になつて和卿を搜しましたところが、陳和卿はすでに逐電、けふの日をたのしみに、早くから由比浦におでましになつて大船の浮ぶのを今か今かと餘念なくお待ちになつて居られた將軍家もこの逐電の報をお聞きになつて、もはや一切をお察しなされたやうで、興覺めたお顏でお引上げになつてしまひまして、將軍家の御渡宋に烈しく反對なされて居られたお方たちは、この時ひそかにお胸を撫で下されたに違ひございませぬが、をさまらぬのは、お供に選び出された風流武者の面々で、せつかくあれだけの大船を造り上げたのにこのまま中止とは殘念だ、ひとつ我々の手でもういちど海へ曳きいれてみようではないか、などと言ひ出すお方もあつた程でございましたけれども、海の深淺を顧慮する法さへ知らぬ大馬鹿者の造つた船なら、たとひ、はるか沖まで曳き出してみたところで、ひつくり返るにきまつてゐる、と分別顏の人に言はれて、なるほどと感服して引下り、あれほど鎌倉中を騷がせた將軍家の御渡宋も、ここに於いて、まことにあつけなく、綺麗さつぱりとお流れになり、船は由比浦の汀に打捨てられ、いたづらに朽損じて行くばかりのやうでございました。御度量のひろい將軍家に於いては、もちろん、御計畫の頓挫をいつまでも無念がつていらつしやるやうな事は無く、あの、大かたり者の陳和卿に對してもいささかもお怒りなさらず、
醫王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。
と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませんでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、やつぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して權門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。
「この船で、」と禪師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本當に宋へ行かうとなされたのかな。」
「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御樣子に拜されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。
「でも、あの醫王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」
「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございますし、たとひ信じないにしても醫王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお氣もなさるまいと思はれます。」
「うまい事を言ふ。」禪師さまは笑つて、「ここへ坐らう。濱は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ來て、蟹をつかまへては燒いて食べます。」
「蟹を。」
「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな亂暴な法師も無いだらうが。」
「いいえ、亂暴どころか、かへつて、お氣が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」
「それは、將軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見えて來て、たまらない。どうも、あの人は、まへから苦手だ。あの人は私を、ひどく嫌つてゐるらしい。」
私はなんともお答へできませんでした。
「あの人たちには、私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦勞をして來た男といふものが薄汚く見えて仕樣が無いものらしい。私はあの人に底知れず、さげすまれてゐるやうな氣がする。あんな、生れてから一度も世間の苦勞を知らずに育つて來た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も變つたな。」
「お變りになりましたでせうか。」
「變つた。ばかになつた。まあ、よさう。蟹でもつかまへて來ようか。」うむ、と呻いてお立ち上りになつて、「あの唐船の下に、不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。陳和卿も、公曉のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。しかし、あれも馬鹿な男だ。」
禪師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに續いて海へはひつて禪師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる樣子で、禪師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂濱へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顏をそむけました。
「殘忍でございます。およしになつたら、いかがです。」
私は砂濱へ引上げて來てしまひました。
「とらない人には、食べさせないよ。」禪師さまは平氣でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂濱へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」
それが五匹になつた時に、禪師さまは、低く笑ひながら砂濱へ上つて來られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、
「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手傳つて下さい。」
私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を淺く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を點じ、やがてその薪の燃え盡きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、
「食べなさい。」
「いや、とても。」
「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」
「え?」私は、はつとして暗闇の中の禪師さまの顏を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと嚙んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御樣子で、さうして、しばらくして、またふいと、
「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ來たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」
「京都がそんなにお好きですか。」
「まだ私の氣持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見榮坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持つてゐません。だから私の住むのに、ちやうどいいところなのです。輕薄な野心家には、都ほど住みよいところはありません。」
「そんなに御自身を卑下なさらなくとも。」
「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」
「それは、故右大將家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大將さまさへ、たつた二度御上洛なさつたきりで、――」
「しかし、思ひ立つたら宋へでも渡らうとする將軍家です。」
「邪魔をなさるお方もございませうし、――」
「それもある。へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。けれども、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」
「まさか。あれほどお慕ひしていらつしやるのに。」
「いや、こはいんだ。京都の人たちは輕薄で、口が惡い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。將軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舍者、言葉は關東訛りと來てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた將軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。將軍家は微塵もそんな事をお氣にしてはいらつしやらない。失禮ながら、禪師さまとはちがひます。」
「さうですか。將軍家が氣にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大將だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭將軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。けれども右大將家は、やつぱり偉い。京都の人から馬鹿にされようがどうされようが、ちつとも氣にしてはゐないんだ。關東の長者の實力を信じて落ちついてゐたんだ。ところが、失禮ですけれども、當將軍家は、さうではないのです。とても平氣で居られない。田舍者と言はれるのが死ぬよりつらいらしいので、困つた事になるのです。野暮な者ほど華奢で纖細なものにあこがれる傾きがあるやうだが、あの人の御日常を拜見するに、ただ、都の人から笑はれまいための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこはくて仕樣がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行つても、京都の人に笑はれないくらゐのものになつてから、京都へ行きたいと念じてゐるのだ。それに違ひないのだ。やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもつたいをつけてから、京都へ行きたいのだらうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。せいぜい、まあ、田舍公卿、とでもいふやうな猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出來上るだけだ。田舍者のくせに、都の人の身振りを眞似るくらゐ淺間しく滑稽なものは無いのだ。都の人は、そんな者をまるで人間でないみたいに考へてゐるのだ。私も、京都へはじめて行つた時には、ずゐぶんまごついた。くやし泣きに泣いた事もある。けれども私の生來の輕薄な見榮坊の血が、京の水によく合ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。私は山師だ。山師は絶對に田舍では生きて行けない。また田舍の人も、山師を決して許さない。田舍の人は冗談も何も無く、けちくさくて、ただ固い。けれども、あれはまた、あれでいいのだ。ただ默つて田舍に住んでゐる人の中に、本當の偉い人間といふものが見つかるやうな氣もする。いけないのは、田舍者のくせに、都の人と風流を競ひ、奇妙に上品がつてゐる奴と、それから私のやうに、田舍へ落ちて來た山師だ。私は、まさか陳和卿のやうに將軍家の前でわあわあ泣きはしないけれども、どうしてだか、つい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて、自分で自分がいやになつていやになつてたまらない、いけない、いけない。このままぢやいけない。死ぬんだ。私は、死ぬんだ。」別の蟹の甲羅をむいて、むしやむしや食べて、「叔父上は私の山師を見拔いてゐる。陳和卿と同類くらゐに考へてゐる。私は、きらはれてゐる。さうして私だつて、あの田舍者を、冠つけた猿みたいに滑稽なものだと思つてゐるんだ。あはは、お互ひに極度に、さげすみ合つてゐるのだから面白い。源家は昔から親子兄弟の仲が惡いんだ。ところで將軍家は、このごろ本當に氣が違つてゐるのださうぢやないか。思ひ當るところがあるでせう。」
私は、ぎよつと致しました。
「誰が、いや、どなたがそのやうなけしからぬ事を、――」
「みんな言つてゐる。相州も言つてゐた。氣が違つてゐるのだから、將軍家が何をおつしやつても、さからはずに、はいはいと言つてゐなさい、つて相州が私に教へた。祖母上だつて言つてゐる。あの子は生れつき、白痴だつたのです、と言つてゐた。」
「尼御臺さままで。」
「さうだ。北條家の人たちには、そんな馬鹿なところがあるんだ。氣違ひだの白痴だの、そんな事はめつたに言ふべき言葉ぢやないんだ。殊に、私をつかまへて言ふとは馬鹿だ。油斷してはいけない。私は前將軍の、いや、まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく北條家の人たちは根つからの田舍者で、本氣に將軍家の發狂やら白痴やらを信じてゐるんだから始末が惡い。あの人たちは、まさか、陰謀なんて事は考へてゐないだらうが、氣違ひだの白痴だのと、思ひ込むと誰はばからずそれを平氣で言ひ出すもんだから、妙な結果になつてしまふ事もある。みんな馬鹿だ。馬鹿ばつかりだ。あなただつて馬鹿だ。叔父上があなたを私のところへ寄こしたのは、淋しいだらうからお話相手、なんて、そんな生ぬるい目的ぢやないんだ。私の樣子をさぐらうと、――」
「いいえ、ちがひます。將軍家はそんないやしい事をお考へになるお方ではございませぬ。」
「さうですか。それだから、あなたは馬鹿だといふのだ。なんでもいい。みんな馬鹿だ。鎌倉中を見渡して、まあ、眞人間は、叔父上の御臺所くらゐのところか。ああ、食つた。すつかり食べてしまつた。私は、蟹を食べてゐるうちは何だか熱中して胸がわくわくして、それこそ發狂してゐるみたいな氣持になるんだ。つまらぬ事ばかり言つたやうに思ひますが、將軍家に手柄顏して御密告なさつてもかまひません。」
「馬鹿!」私は矢庭に切りつけました。
ひらりと飛びのいて、「あぶない、あぶない。鎌倉には氣違ひがはやると見える。叔父上も、いい御家來衆ばかりあつて仕合せだ。」さつさと歸つておしまひになりました。
闇の中にひとり殘されて、ふと足許を見ると食ひちらされた蟹の殘骸が、そこら中いつぱいに散らばつてゐるのがほの白く見えて、その掃溜のやうな汚なさが、そのままあの人の心の姿だと思ひました。翌る日、御所へ出仕して、昨夜、僧院へお話相手にお伺ひした事を言上いたしましたところが、將軍家に於いては、ただ輕く首肯かれただけで、別にその時の樣子などを御下問なさるやうな事もなく、かへつて私のはうから、
「禪師さまには、ふたたび京都へおいでになりたいやうな御樣子でございました。」と要らざる出しやばり口をきいたやうな次第でございましたけれども、將軍家はちよつとお考へになつて、それから一言、
ドコヘ行ツテモ、同ジコトカモ知レマセン。
と私の氣のせゐかひどく悲しさうな御口調で呟やかれました。やつぱり將軍家は、何もかも御洞察になつて居られるのだ、と私はただ深い溜息をつくばかりでございました。さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、將軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御佛事に當つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇佛の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外觀のみをいたづらに華美に裝ひ、結構を盡して盛大に取行はせられ、尼御臺さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御臺さまに於いては、世上往々その專横を傳へられながらこの將軍家に對してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禪師さまの言ふやうに、將軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前將軍家左金吾禪室さまの御時やら、當將軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また當將軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼將軍などと言はれるやうになつたのも、實にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この將軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禪室さまの御遺兒をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、當將軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の將軍家の御奢侈をさへ嚴しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を盡した絢爛の御法要などに御臺所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模樣に拜され、それは決して當將軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信賴あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出來るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました。建保六年の三月には、將軍家かねて御囑望の左近大將に任ぜられ、六月二十七日にはその御拜賀のため鶴岳宮にお參りなさいましたが、その折の御行列の御立派だつたこと、まさに鎌倉はじまつて以來の美々しい御儀式でございまして、すでに御式の十日ほど前から京の月卿雲客たちが續々とその御神拜に御列席のため鎌倉へお見えになつて居られまして、二十日には、御勅使内藏頭忠綱さまの御參著、かしこくも仙洞御所より御下賜に相成りましたところの、御拜賀の御調度すなはち檳榔、半蔀の御車二輌、御弓、御裝束、御隨身の裝束、移鞍などおびただしく御所におとどけになられ、將軍家はいまさらながら鴻大の御朝恩に感泣なされて、御勅使忠綱さまに對して實に恭しく御禮言上あそばされ、御饗應も山の如く、この日にはまた池前兵衞佐爲盛さま、右馬權頭賴茂さまなども京より御下著になり、このお方たちにもまたお手厚い御接待を怠らず、御式の日に至るまで連日連夜、御饗宴、御進物など花美を盡し、ために費用も莫大なるものになりました御樣子で、關東の庶民は等しくその費用の賦課にあづかり、ひそかに將軍家をお怨み申した者も少からずございました由、風のたよりに聞き及んで居ります。けれども將軍家に於いては、御費用の事など一向にお氣にとめられぬ御樣子で、その二十七日にめでたく御拜賀の式がおすみになると、さらに七月八日、左大將御直衣始の御儀式を擧げられ、先月二十七日の御拜賀の折と全く御同樣の大がかりな御粧ひの御行列にて鶴岳宮へ御參拜に相成り、いまはもう、御家人といひ土民といひ、ほとんどその財産を失ひ、愁歎の聲があからさまに隨處に起る有樣でございましたのに、さらに、そのとしの十二月二日、將軍家いよいよ右大臣に任ぜられ、二十日、右大臣政所始の御儀式を行はせられ、二十一日、將軍家右大臣御拜賀のためその翌年の正月二十七日鶴岳八幡宮に御參詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、御裝束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異樣に物騷がしくなり、しかもこのたびの御拜賀の御式は、六月の左近大將拜賀の式よりも、はるかに數層倍大規模のものになる樣子で、ただごとではない、と御所の人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如く、將軍家の御運もここ一兩年のうちに盡きるのであるまいかといふ悲しい豫感にさへ襲はれ、思へば十年むかし、私が十二歳で御所へ御奉公にあがつて、そのとき將軍家は御十七歳、あの頃しばしば御所へ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戰などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、と御自身に問ひかけて居られた時の御樣子が、ありありと私の眼前に蘇つてまゐりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もございました。あのけがらはしい惡別當、破戒の禪師は、その頃、心願のすぢありと稱して一千日の參籠を仰出され、何をなさつてゐるのやら鶴岳宮に立籠つて外界とのいつさいの御交通を斷ち、宮の内部の者からの便りによれば、法師のくせに髮も鬚も伸ばし放題、このとしの十二月、ひそかに使者をつかはして太神宮に奉幣せしめ、またその他數箇所の神社にも使者を進發せしめたとか、何事の祈請を致されたのか、何となく、いまはしい不穩の氣配が感ぜられ、一方に於いては鎌倉はじまつて以來の豪華絢爛たる大祭禮の御準備が着々とすすめられ、十二月二十六日には、御拜賀の御行列に供奉申上げる光榮の隨兵の御撰定がございまして、そもそもこのたびの御儀式の隨兵たるべき者は、まづ第一には、幕府譜代の勇士たる事、次には、弓馬の達者、しかしてその三つには容儀神妙の、この三德を一身に具へてゐなければならぬとの仰せに從ひ、名門の中より特に愼重に撰び擧げられたいづれ劣らぬ容顏美麗、弓箭達者の勇士たちは、來年正月の御拜賀こそ關東無雙の晴れの御儀にして殆んど千載一遇とも謂ひつべきか、このたび隨兵に加へらるれば、子孫永く武門の面目として語り繼がん、まことに本懷至極の事、と互ひに擁して慶祝し合ひ、ひたすら新年を待ちこがれて居られる御樣子でございましたけれども、當時、鎌倉の里〔里←御所〕に於いて、何事も思はず、ただ無心にお喜びになつていらつしやつたのは、おそらく、このお方たちだけでは無かつたらうかと思はれます。
建保七年己卯。四月十二日承久元年と爲す。正月大。
七日、甲戌、戌刻、御所の近邊、前大膳大夫入道覺阿の亭以下四十餘宇燒亡す。
十五日、丙子、丑刻、大倉邊燒亡す、數十宇災す。
廿三日、甲申、晩頭雪降る、夜に入つて尺に滿つ。
廿四日、乙酉、白雪山に滿ち地に積る。
廿七日、甲午、霽、夜に入つて雪降る、積ること二尺命、今日將軍家右大臣拜賀の爲、鶴岳八幡宮に御參、酉刻御出、
行列
先づ居飼四人
次に舍人四人
次に一員
將曹菅野景盛 府生狛盛光
將監中原成能
次に殿上人
一條侍從能氏 藤兵衞佐賴經
伊豫少將實雅 右馬權頭賴茂朝臣
中宮權亮信能朝臣 一條大夫賴氏
一條少將能繼 前因幡守師憲朝臣
伊賀少將隆經朝臣 文章博士仲章朝臣
次に前駈笠持
次に前駈
藤勾當賴隆 平勾當時盛
前駿河守季時 左近大夫朝親
相模權守經定 藏人大夫以邦
右馬助行光 藏人大夫邦忠
左衞門大夫時廣 前伯耆守親時
前武藏守義氏 相模守時房
藏人大夫重綱 左馬權助範俊
右馬權助宗保 藏人大夫有俊
前筑後守賴時 武藏守親廣
修理權大夫惟義朝臣 右京權大夫義時朝臣
次に官人
秦兼峰 番長下毛野敦秀
次に御車、車副四人、牛童一人
次に隨兵[やぶちゃん注:底本では、以下の隋兵の鎧の名はポイント落ち。]
小笠原次郎長淸 小櫻威 武田五郎信光 黑絲威
伊豆左衞門尉賴定 萌黄威 隱岐左衞門尉基行 紅威
大須賀太郎道信 藤威 式部大夫泰時 小櫻威
秋田城介景盛 黑絲威 三浦小太郎時村 萌黄威
河越次郎重時 紅威 荻野次郎景員 藤威
各冑持一人、張替持一人、傍路に前行す、
次に雜色廿人
次に撿非違使
大夫判官景廉
次に御調度懸
佐々木五郎左衞門尉義淸
次に下臈御隨身[やぶちゃん字注:「臈」の(くさかんむり)は全体に。]
秦公氏 同兼村
播磨貞文 中臣近任
下毛野敦光 同敦氏
次に公卿
新大納言忠信 左衞門督實氏
宰相中將國道 八條三位光盛
刑部卿三位宗長
次
左衞門大夫光員 隱岐守行村
民部大夫廣綱 壹岐守淸重
關左衞門尉政綱 布施左衞門尉康定
小野寺左衞門尉秀道 伊賀左衞門尉光季
天野左衞門尉政景 武藤左衞門尉賴茂
伊東左衞門尉祐時 足立左衞門尉元春
市河左衞門尉祐光 宇佐美左衞門尉祐長
後藤左衞門尉基綱 宗左衞門尉孝親
中條左衞門尉家長 佐貫左衞門尉廣綱
伊達右衞門尉爲家 江右衞門尉範親
紀右衞門尉實平 源四郎右衞門尉季氏
鹽谷兵衞尉朝業 宮内兵衞尉公氏
若狹兵衞尉忠季 綱嶋兵衞尉俊久
東兵衞尉重胤 土屋兵衞尉宗長
堺兵衞尉常秀 狩野七郎光廣
路次の隨兵一千騎なり、
抑も今日の勝事、兼ねて變異を示す事一に非ず、所謂、御出立の期に及びて、前大膳大夫入道參進して申して云ふ、覺阿成人の後、未だ涙の顏面に浮ぶことを知らず、而るに今昵近し奉るの處、落涙禁じ難し、是只事に非ず、定めて仔細有る可きか、東大寺供養の日、右大將軍の御出の例に任せ、御束帶の下に腹卷を著けしめ給ふ可しと云々、仲章朝臣申して云ふ、大臣大將に昇る人、未だ其式有らずと云々、仍つて之を止めらる、又公氏御鬢に候するの處、自ら御鬢一筋を拔き、記念と稱して之を賜はる、次に庭の梅を覽て禁忌の和歌を詠じ給ふ、
出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
(以上吾妻鏡)
(以下承久軍物語に據る)
このとき右京權大夫義時は、御劍の役を勤め給ひしが、宮の門に入給ふ折ふし、俄かに心神惱亂し、前後暗くなりしかば、文章博士仲章を呼びて御劍をゆづり、退去して己の邸に歸り給ふ、ここに不思議あり、將軍御車より降り給ふとて、細太刀の柄、御車の手形に入りたるけるを知らせ給はで、打折らせ給ふこそ、あさましけれ、然るに、仲章苦しうも候ふまじとて、木を結ひ添へてぞまゐらせける、むかし臨江王といひし人はるかの道におもむくとて、車の轅折れたりけるを、愼しまずして行きけるが、再び返ることを得ずして、他國の土と朽ちにけり、前車のくつがへるは、後車の戒しめとこそ申すに、諫め申さざる文章博士不覺なる次第也、これのみか、御車の前を黑き犬、横さまに通る事、靈鳩しきりに鳴く事、かたがたもていまいましき告げ有りけるを、驚かぬこそはかなけれ、さるほどに石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧あらはれ來て、將軍を犯し奉る、はじめ一太刀は笏にて合せ給へども、次の太刀にぞ御首は落され給ひけり、文章博士仲章、因幡前司師憲も斬られけり、前後に候ひける隨兵ども、こは如何なる事ぞやとて、あわて騷ぎて宮の中に馳せ込むといへども、かたきは誰とも知らず、頃は正月廿七日の戌の時の事なれば、暗さは暗し、上を下に返して、どよむ聲おびただし、かかりける所に、上宮の砌にて、阿闍梨公曉、父のかたきを討つと名乘られつるといふ事ありて、軍勢ども、すなはちかの禪師がおはします雪下の本坊を襲ふところに、ここには、おはしまさずとて兵ども歸りけり、さても別當、公曉とは、故右大將殿の御嫡孫にして金吾將軍の二男なり、御母は、賀茂の六郎重長の女にてぞおはしける、みなし兒にて、おはせしを、祖母の二位の禪尼、ふびんに思召し、鶴岳八幡宮の別當職に附せらる、かねて將軍ならびに右京大夫義時を討たんとて窺ひ給ふといへども、未だ本望をとげ給はず、この拜賀の時節を、天の與へと喜びて、おぼし立つところに、義時こそ、御劍の役に定りける由聞こしめしければ、まづ一の太刀に討ち給ふところに、引かへ、仲章御劍の役を勤めし故にこそ、あへなく討たれけるとかや、ともかくに日頃の宿意を遂ぐると悦びて、すなはち將軍の御首を手に持ち、後見の備中阿闍梨が雪下の北谷の家に向はれけるが、物などまゐらせける間も、御首を放し給はず、然るに、別當の門弟に、駒若丸と申すは、三浦の平六左衞門義村が二男也、そのよしみを、おぼしけるかや、源太兵衞と申す者を御使ひにて、義村が方へ仰せ遣されけるは、右府將軍すでに薨じ給ひぬ、いま關東の長たるべき者は我なり、早く計略をめぐらすべしと示し合されければ、義村、大きに呆れ、日頃將軍家御恩厚く被り奉れば、今更いたはしく思ひ、右京大夫に參りて申合せければ、すみやかに別當阿闍梨を誅し奉るべきに定りけり、すなはち長尾の新六、雜賀の二郎以下五人の兵に仰せて、阿闍梨の在所へつかはさる、別當は、使ひの遲き事を待ちかね給ひて、義村が私宅に至らんとおぼしめして山中にかかり給ふが、その夜しも大雪降りて、道に迷うておはせし所に、長尾の六郎往き逢ひて誅し奉らんとす、別當は、早業力業、人にすぐれ給へば、左右なく討たれ給はず、積雪を蹴散らし蹴散らし、ここを先途と鬪ひ給ふ、しかれども、多勢に不勢かなはねば、つひに討ちとられ給ひけり、明くれば、廿八日、將軍家の御葬禮を營まんとするところに、御首のありか知れざりければ、いかにせんと惑ふところに、きのふ御所の御出の時、公氏御鬢に參りければ、鬢の髮を一すぢ拔かせ給ひて、御形見とて賜ひし事こそ、いまはしけれ、その一すぢの御髮を御頭の代りに用ゐて、御棺に入れ奉り、勝長壽院の傍に葬り奉る、この日、御臺所も御出家あり、御戒師は行勇僧都なり、また武藏守親廣、左衞門大夫時廣、城介景盛以下、數百人の大名ども、ことごとく出家したり、あはれなるかな、きさらぎ二日、加藤判官大波羅に馳せつき、右府將軍御他界のよし申しければ、京中の貴賤男女聞き傳へ、東西を失ひて歎き悲しみける。
ただ、あきれたるよりほかの事なし、京にもきこしめしおどろく、世のなか、ふつと火を消ちたるさまなり。(増鏡)