[やぶちゃん注:大正五(1916)年五月号の雑誌『狐の巣』(創刊号)に掲載された。底本は昭和五十一(1976)年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集 第五巻」を用いた。傍点「ヽ」は下線に代えた。なお底本では、ト書き部分はポイントがすべて落ちている。冒頭のト書きは全体が四字下げ(「場」の二行目は六字下げ。「人」の「A」以下の行も六字下げ)。本文の各台詞が二行目に及ぶ場合は、一字下げとなっている。]
櫻の花が咲くころ 萩原朔太郎
(此の消息を親しき人々に捧ぐ)
時。ある早春の日の午前。微雨がふつてる。
場。利根川附近のある田舎町の公園。堤には雨にぬれた櫻のつぼみがしつとりと脹らんでゐる。きはめてしづかの景色である。
人。S。この田舎町に住んで居る詩人。
A。Sの友人。架空人物。
(二人は堤の上を歩きながら話してゐる。)
A『君とはしばらく逢はなかつたね』
S『さう、ちよつと一年にもなるかね』
A『ちつとも顏を出さなかつたぢやないか。どこへも』
S『さう、どこへも出なかつた』
A『家にばかり居て退屈しやしなかつたか』
S『どうして、退屈どころぢやない』
A『なにして居た』
S『たいてい眠つて居た、眠るのは愉快のものだからな、よく眠つた朝にはいい便りがくるといふのはほんとだ』
A『それぢや今はだいぶ元氣と見るね』
S『いまではどんなことでも出氣るやうな氣がする』
A『眠つてばかり居たのか』
S『あるときは起きて居た。起きて煙草を吸つて居た』
A『煙草ばかり吸つて居たのか』
S『あるときはギターを弾いて居た』
A『それから』
S『あるときは考へて居た』
A『それから』
S『それだけだ』
A『なにを考へて居た』
S『それをいま言ふのは苦しい』
A『何故くるしい』
S『それがおれにもわからないのだ』
A『妙なことを言ふ奴だな、確信がないから言へないのか』
S『確信はある』(やや不安の調子にて)
A『はづかしいからか』
S『そんなことはない』
A『卑怯で言へないのか、敵を恐れるのか』
S『おれには敵なんてものはない。實は敵がないから言へないといつてもいいぐらゐだ』
A『でも君は時々ある人たちに對して腹を立てたり皮肉を言つたりするぢやないか』
S(昂奪して)
『あれは癇癪だ、良心をもたない低級な人たちの下劣行為に對する憎惡が破裂するのだ。ほんとの敵といふのは少なくとも自分と同等もしくはそれ以上の人格に反抗する眞劍勝負を言ふのだ』
A『何故敵がなければ言へないのだ。反響がないからか』
S『そんなことはない。(煙草に火をつけながら)敵が出てもいまは言へないのだ』
A『とにかく書いたものでもあつたら見せてくれ』
S『書いたものはたくさんある。併しだれにも見せるのはいやだ』
A(少しはなれた處を歩きながら、狡猾らしく)
『君は自分で自分をごまかして居るのだらう。實際には恥かしいやうなものしか書いて居ないのだらう。それで見せるのがいやなのだらう』
S『なんとでも好きに思ふがいい。併しおれは今度ほど考へたことはない、今度ほど苦しんだことはない』
A『此頃では詩はあまり作らないやうだね』
S『詩はまだつくれない』
A『まだつくれない?』
S『もつと苦しまなければ駄目だ、おれは臆病だから』
A『詩想が涸れたんぢやあるまいね』
S(軽辱した態度で)
『涸れるやうな詩想なら涸らしつくしても口惜しくない。そんなものにいづれろくのものはあるまいから』
(Sふいに煙草を捨てて大股に歩き出す、ふいに甘い言葉が頭に浮ぶ)
S『さうだ思想の結論は出來ても感情の結論が出來ないのだ。それでおれは煩悶して居るのだ。それでおれは苦しんでるのだ』
A『感情の結論とは』
S『つまり禁酒すべしといふのはおれの思想の結論だ。禁酒はたまらんといふのはおれの感情の結論だ。おれは生れつき酒が好きだから』
A『なんにしても君の話はわからない』
S『さうだらう。おれの性格にはかういふジレンマがたくさんある。おれは驚くべき感情家で同時に驚くべき常識家だ。おれは人竝はづれて良心のするどい人間か、さもなければ人竝はづれて卑劣な人間だ』
A『君のことを世間では萩原のお人好しさんと言つて居るぜ』
S『このへんの人たちはみんなさう言つてるさうだ。母からきいた』
A『僕の友人たちは君のことを君子と言つてるぜ。君は世間で使ふ君子といふ言葉の意味を知つてるか』
S『それ位のことを知らんでどうするものか。(間、自辱の調子で)それが僕のやうな馬鹿にはいちばん適當した言葉だ』
(沈默、遠く春雨のけぶる河原の中を夢のやうな利根川がながれて居る。はるかに河瀨の音がきこえる)
A(思ひ出したやうに)
『東京へはいつ出る』
S『いつでも行きたいと思ふときにさ。併し今は行きたくない』
A『なぜ?』
S『なぜといふわけもないが(間、詠嘆の調子で)都といふものはある時はたまらなく戀しいものだ』
(堤反對の側からK、Y、Bの三人話しながらくる。この町に住む文學好きの少年、通りすぎながらSにあいさつする)
A『それなら君は折角の創作をもちくされにするつもりだね』
S『そんなことはない、いつかは發表する』
A『いつ?』
S『それを答へるのはくるしい』
A『君は病氣ぢやないか。(氣づかはしげに)顏色が非常に惡い』
S『君が僕を苦しめるからだ』
A『とにかく君はもつとしつかりしなくちやいけない。君は天才だ』
S(寂しげなる表情にて)
『そのことならもう言はんでくれ。おれは天才よりも人間になりたいのだ。世間なみのいい人間になりたいのだ』
A『君はどうかしてゐる』
S『おれは苦しいのだ』
(沈默、二人とも默つて堤を下る。Sうなだれながら感傷的に)
S『とにかくおれたちは寂しい』
(△△ちやんなんかもうすつかり夢中さといふ聲、こいつ馬鹿だなといふ聲、若々しい賑やかの笑聲などきこえる。少し離れたところをさつきの少年たちが、女の話をしながら通るのである)
A『君はどうしたのだ、さつき逢つたときはあんなに元氣だつたのに』
S『君と話をしなければよかつた。君はおれを苦しめる』
A『それでは僕はこれで失敬する』
S『さうか。さよなら。(不意に思ひ出したやうに)ああ、さうだ。家へよつて行きたまへ。珍らしく紅茶でも入れよう。きのふ亞米利加から蓄音機の新らしいレコードが着いたから」
[やぶちゃん注:この最後の鍵括弧のみ、『」』となっている。]
(終)
[やぶちゃん注:以下全体が一字下げ。ポイント落ち。]
自分は此の一年ばかりの間、全く世間からかくれるやうにして居た。どこの雜誌へも寄稿しなかつた。親しい友だちや先輩にも消息をしなかつた。自分の書齋には音樂の友だち以外には入れたくなかつた、自分の不愉快な頭の中をのぞかれるのを恐れたからである。賢明な知己はたいていそれを察してくれた。そして私を意地惡くのぞきに來たものもなかつた。私はある問題のために惱まされていつも陰鬱な顏をして居た。文藝に關する話をするのは少しも興味がなかつた、その上に不愉快でもあつた。併しそのために親しい友人たちに氣をもませたり心配をかけたりした。みんなは私の消息をききたがつた。私はその人たちに端書一本出さなかつた。それらのことがらからして此の劇曲體の感想を書くことになつた。この一篇は私からみんなへの消息である。
最後に、最近の自分はある偉大なる人の救ひによつて一切の煩悶から逃れ力強き信仰と樂しき平和の境に安住して居ることを附記しておく。