やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

最初のペイジ   片山廣子

 

[やぶちゃん注:大正8(1919)年6月発行の『心の花』に「松村みね子」名義で掲載された。底本は月曜社2004年刊の「燈火節」を用いた(因みに本書では当作品は「小説」の部に入っている)が、私のポリシーに則り、恣意的に新字を正字に変えてある。また、本文の後の最終段落、筆者自身の後記に当る部分は、底本では全体が7字下げのポイント落ちで表記されているが、ブラウザの関係上、本文と同等にした。文中「何があるのだらう?」の後は底本通りで、一字空けはない。なお、後記に「扇ケ谷の家」とあるが、これは鎌倉の扇ケ谷であろうか?
 最後に。本電子テクストをアルツハイマーに罹患している義母長谷川喜久子に捧げる。【
2009年4月2日】]

 

   最初のぺイジ

 

 何時も丈夫だつた彼女の身體もこの頃少し弱つて來た。ほんの少しづゝ少しづゝ弱つて來た、彼女は疲れを覺えはじめた。

 丈夫だつた彼女は自分の身體が弱くなる日が來ようなどゝ考へたこともなかつた。身體にはまるで無頓着で少しの同情も持つてゐなかつた。身體は彼女とは別のもので彼女に使はれてゐる家來ぐらゐに、あるひは菓子の這入つてゐる菓子箱ぐらゐに考へてゐた。彼女は自分の身體が即ち彼女自身であるといふことを悟るまでには可成長い月日を過した。

 その月日はめまぐるしく忙しかつた、彼女は何も何も考へなかつた、考へたことがあつても、それはその時その時の小さなつまらない考へごとで、風に吹き立つた小さい塵埃の一つぶ一つぶのやうに、何處かに納まつて其時ぎりになつてしまつた。彼女は幸福なやうな不幸なやうな月日を過して來た。多分それは幸福といふ方がよく當つてゐたかも知れない。自分の身體を家來のやうに又は箱のやうに考へて自分の生活にまぎれてゐた彼女は幸福だつたに相違ない。

 彼女は若い時分たつた、一度ながい病氣をしたことがあつた。それは學校を止めた十八の歳のことだつた。その時彼女の家は赤坂のはづれの方にあつた。春の末頃から彼女は毎日毎日低い熱が出始めた。母は首をかしげて考へてゐた、醫者も考へてゐた、彼女はもしやと思つた、その「もしや」の中には肺病と死といふ字が竝んでゐた。それでも彼女は少しも恐怖を知らなかつた。花が散るやうに、よその花が散るやうに、そしてその後に若葉が出るやうに、彼女は自分の死を遠くから考へた、そして死の後にまだ何かあるかも知れないといふやうな好奇心が彼女の心には忍んでゐた。

 その時の病氣は肺病でもなんでもなかつた、學校で長いあひだ規則的な生活をして來た後に急に身體が樂になつたので、ふとした變化から發熱したのだらうといふことだつた。その後少しも熱は出なくなつた。彼女の少年のやうなほつそりした身體に少しづゝ肉がつきはじめた。

 彼女は靜かな北向きの窓のところへ机を持つて來て源氏物語なんぞ讀みはじめた。窓の向うには赤坂御所の老杉の森がこんもりと奧深い靜かな色を見せてゐた。彼女は毎日その森と御所の前の白い靜かな路を眺めた。その路はいつでも寂しかつた。

 或る時、いつになく靜かな路を人通りが繁くなつた。荷物の車が通り騎馬の兵士たちが通りそれからたびたび馬車が通りした。外から歸つて來た下男が彼女の母に向つて「今日はお産所の御門が開いてをります」と告げた。それは青山御所の果てのいちばん赤坂に近い小さい御門であつた。彼女はその門のあいたのを見たことがなかつた。小さい御門が開いた、さう聞いた時に彼女は非常に珍らしく感じた。あの今日の人通りの繁かつたのもそのためであつたらうと漸く悟つた。

 彼女が全快して散歩に出られるやうになつた時、その御門は閉まつてゐた、併し閉まつてゐる御門の外に一人の衞兵が西洋の人形のやうな姿をしてじいつと立つてゐた。御門は閉まつてゐても、中には何人かおいでなさる、一人の婦人が大きな務めの爲に靜かにその御所の中に座つて時の來るのを待つてをられる。彼女はさう考へて中の人の身の上を考へた。彼女の心はその時めちやくちやにかき廻された、女の身體といふものについて彼女はその時始めて何かを考へるやうになつた。併し考へても無論彼女には何も分からなかつた、閉めてある御門が再び開いて一人の人が二人となつてその御門を出るそれは大なる奇蹟としか思はれなかつた。

 彼女もやがては人の家に行き、人の母となる日が來るのであらう、必らず來るに違ひない、さう思ふと彼女はむやみに怖かつた。人の一生は今彼女が讀んでゐる源氏物語のやうに美しい繪と歌とばかりではない、愛と涙とばかりではない、もつともつと何かほかのものもあるに達ひない、何があるのだらう?何も知らない彼女はただじいつと蒼い空を見た、自分は何も知らないで生れて來た、何も知らないで人の妻となり人の母となり、そして何も知らないうちに死ぬのだらう、凡ては奇蹟だ奇蹟はむかしもあつた如くに今もある。斯う思つて彼女は勇氣を出した、凡てのことが來る時になつて來るのだと彼女は信じるよりほかはなかつた。凡ての事が來る時になつてやつて來た、彼女は何時の間にか人の妻となり、そして二人の子の母となつた、奇蹟は行はれた、彼女の中に行はれた。彼女はもうそれを驚きもしなかつた恐れもしなかつた、あるべきことがあるのだと思つた。

 何時の間にか彼女の心が變色して來た、もう彼女は自分の身を散る花のやうに花の散つた後の若葉のやうに考へることはしなくなつた、彼女の身體は物の入れ場である箱のやうに又はまるで身分の異つた家來のやうにも考へ初めた。彼女自身は別にある、それがほんとの彼女自身だ、それは人の妻でもない、人の母でもない。たゞ自分ばかしの自分だといふやうな氣がした。彼女はじいつと透明な眼をして何處となく見てゐる時その自分自身の影を見てゐた。その影は天河の中の星のやうにうすく、深山の暗い岩窟の中の御ほとけの慈眼の光のやうでもあつた。

 

 近頃になつて彼女はほんとに少しづゝ弱つて來た。其は箱のそと側からくづれて行くのではなくて、彼女自身の心のしんから弱つて來た、つまり彼女自身がすり減らされて來たのだつた。少し働いても直ぐに手足が疲れを覺えたり、人と談話中にも何の氣もなく顏が赤くなつたり、ひどく身體の調子が違つて來た、髮をとかすと、長い毛が幾すぢも幾すぢも敷紙の上に落ちた。さういふ時ほんとに自分の世が秋になつたといふ事に氣がついた、見馴れた鏡は冷たい水のやうにはつきりと少しの曇りもなく彼女の顏を映した。鏡の中の疲れた顏が彼女に何か云つてゐるやうにも思はれた。

 身體を大事にしなければと彼女は考へるやうになつた。自分の身體も二人の子供たちの身體と同じやうに尊い預かり物のやうに考へはじめた。

 世間の事がすつかり違つた色に映つて來た。何でもかでも遠くから見ると大變に面白さうな事ばかしで、自分がそれにぶつかると何もかもつまらない物になつて來た。何もしたくなくなつた、それでゐて何かして見たかつた、あゝつまらない、自分は年をとつたのだと彼女は思つた。さう思ふ時いつでも彼女の眼の色は若々しいつやを持つて皮肉な微笑が口許にふらついてゐた。「かれのたましひがあくびする時………」といふ何かの本の中の文句を彼女は考へ出した。ほんとに彼女の魂があくびしてゐた、激しい生活の中途で初めて與へられた休息の時に彼女はもうそれつきり進む氣もなくぼんやりと座り込んで、彼女のたましひがあくびをした。何が來るか、何が來るか、彼女は何か來るものを恐れた、そして何も來ないことが悲しかつた。しんまで疲れ切つた彼女は刺戟と興奮とを待ち望んでゐた。雨も風も降るまに/\吹くまに/\。顛へる足はそれを避けようともしなかつた。わざはひか、それとも又神の恩惠(めぐみ)か、遠い前方の空に雲の如く星の如く現はれるのを待つてゐる彼女のうしろに、何ものか近づいて來た、そつと忍び足に、靜かに近づいて來た。

 

 

 

 去年の春から長い病氣をした私は始めて病氣といふものゝ味を知りましたので、そろそろ直りかけた時、病氣の日記を書いて見ようと思ひ立ちました、そして八月の或る日の朝扇ケ谷の家で書き始めました。ひさしぶりで一時間ほど筆を持つてゐましたら、疲れて手が顛へて來ました、それから二三日して或朝又一時間ほど机に向つてゐましたら、もうすつかりへとへとになりました。それで私はまだとても病床記どころではないほんとのほんとの病人だと云ふ事に氣付きまして、それつきり何もかも捨てました。あらかた全快した此五月久し振りで此書きかけの文を見つけ出して讀んで見ましたら、その時分の自分が大變にかはいさうになりました、それに又、少しの遊戲心も交へずに一時間でも二時間でも筆を持つてゐたその病人の眞面目さがひどくかはいさうになりました。ものになつてゐなくとも構ひません、これはその病床日記の最初のぺージで同時に最後のぺージです、何故といへば私はもう決して病床記を書かないだらうと思ひますから。流れてしまつた其長い日記の序文として心の花に載せて頂くことにしました。