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ルネタの市民兵 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年八月号『文芸春秋』初出で、二ヶ月後の同年十月に刊行した単行本短編集『ルネタの市民兵』(月曜書房)を刊行し、再録させている。作品集の標題にするところに梅崎の本作への一方ならぬ思い入れが感じられる、梅崎春生の「桜島」(リンク先は私のPDF(β版)一括版。上記ブログ・カテゴリ「梅崎春生」には分割版もある。孰れも完全オリジナル注附き)・「日の果て」(リンク先は「青空文庫」版)と並ぶ初期戦争小説の代表作である。
但し、「桜島」で判る通り、梅崎春生は太平洋戦争中は内地勤務であって、本作の内容は「日の果て」同様、実体験ではない。梅崎春生の後の随筆「未見の風景」(昭和三三(一九五八)年四月号『群像』初出。リンク先は私の電子テクスト)には、『その頃私は、行ったことのない国々、たとえばフィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説を度々書いた。そういう異国の風物を叙述するのに、たいへん苦労した。いろいろと人に聞いたり本で調べたりして、苦心を重ねたが、そのかわり張り合いがあつた。眼で見ぬ風景の描写だから、張り合いがあったのだろう。これがこの眼で見た風景なら、さほどの情熱は湧かなかっただろうと思う』。『で、その未見の風景描写は成功したかというと、半分成功し、半分成功しなかった。たとえばフィリッピン小説の場合、私同様フィリッピンに行ったことのない読者からは、実に現地にいるようだとほめられたが、フィリッピン行きの経験のある読者からは、首をかしげられた』。『「日の果て」を書いたあと、しばらくして野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられたので、私はたちまち狼狽、あとの感想を聞く元気をうしなった。いくら技巧をこらしたって、やはり体験者にはかなわない。すぐに見破られる』という冷や汗物の〈体験談〉を語っている。既に『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(7)』の注で述べたが、本作の参考資料は、高い確率で、春生より三つ年上の実兄で、後に哲学者・作家となった梅崎光生(みつお 大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)からの聴き書きに基づくものではないかと考えられる。光生は東京文理科大学哲学科卒で、二度応召され、敗戦時には米軍の捕虜となった。昭和二一(一九四六)年六月にフィリピンの俘虜収容所から復員帰国し、佐世保港に上陸、博多駅に降りている。光生自身、この兵隊体験をもとに、後年、創作を試み、「無人島」などの戦記物や、戦争体験をもとにした日常生活などを描く作品を書き続けた。著書に「ルソン島」「ショーペンハウアーの笛」、作品集に「暗い渓流」「春の旋風」「幽鬼庵雑話」「君知るや南の国」などがある。参考の一部にしたこちらの記載には、『幼少年時代の思い出は短篇「柱時計」のなかに、「父の家は佐賀の貧乏士族で、結婚当時は福岡の連隊に中尉としてつとめており、母の家は同じく佐賀の町家であった。/私が生まれたのも、物心ついたのも、福岡市の舞鶴城つまり連隊の近く簀子町という所であった」などとあり、また『幽鬼庵雑話』には弟の梅崎春生のことや閲歴が語られている』とある。
底本は沖積舎「梅崎春生全集 第一巻」(昭和五九(一九八四)年刊)に拠った。
なお、「ルネタ」は「Luneta」で、現在のフィリピンのマニラ市の中心にある「リサール(Rizal)公園」及びその附近の旧地名である。サイト「ピチョリ」の「マニラ:リサール公園(Rizal Park)のリサール記念碑(Rizal Monument)」によれば、『リサール公園(Rizal Park)はマニラ市の中心、マニラ湾が見渡せるロハス大通りの北端にある約』五十八『ヘクタールの公園で』。『リサール公園の歴史は』一八〇〇『年代初期のスペイン統治時代に始まり』、『この地域は、スペイン植民地時代にはバグムバヤン(Bagumbayan)』「新しい町」『と呼ばれ、三日月形に形づくられていたため』、『後に、ルネタ(Luneta)という名前がつけられ』たとし、ここは『フィリピンの歴史で最も重要な場所の一つで』、『フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール(Jose Rizal)が』一八九六年十二月三十日、現在の『記念碑の』ある『場所で処刑され』ており、『公園の名称は、彼に対する敬意からリサール公園と公式に名前』が変えられたとあり、一九四六年六月四日に『フィリピンのアメリカからの独立宣言が行われた場所でもあ』り、また『記念碑の』ある『場所は、フィリピン全ての都市への距離の起点とされてい』るともあった。
さらに言い添えておくと、作品内時制はフィリピンの日本占領時代の最期のシークエンスである。ウィキの「フィリピン」によれば、第二次世界大戦中の』一九四一年(昭和十六)年)十二月に、『アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐し』、『マニラ市に上陸した。アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、大日本帝国陸軍は』翌一九四二年の『上半期中にフィリピン全土を占領し』ていた。『アメリカは』先立つ一九三五年には『フィリピンの独立を約束していた』ことから、『大日本帝国も』その翌年の一九四三年五月に『御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会』『)とビルマを独立させた』。同年十月十四日、『ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった』。『その後』、『ラウレルは日本との協力関係を築き』、『フィリピン政府の運営を進めた』が、『日本の敗戦が濃厚になると』、一九四四年十二月八日、『親日義勇隊のマカピリが設立され』、『ベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった』。『また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが』、『各地で抗日ゲリラ戦争を行った』。『その後』、一九四四『年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって』百十『万人のフィリピン人が犠牲となり』、『マニラに』二十『棟あった』十六『世紀から』十七『世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により』、二『つを残して破壊された』とある。【二〇一九年四月十四日公開:藪野直史】]
ルネタの市民兵
その男は、夜明け前にやってきた。暁の空を
ときどき地の底からもり上ってくるような重砲のひびきを縫って、夜明け前だというのに機銃の音が遠く近くで
男の前に伸びる廊下は、ところどころ崩れ落ちたり、大きな穴があいたりしていた。そこらを危く避けながら、周囲に極度に敏感な小動物の動作で、男の姿はのろのろ動いた。時々床に身を伏せて、光と音を避けた。散乱するものと深くえぐれるものとで、廊下ははなはだしく
夜明け前のルネタ公園の、
議事堂の西南隅の、壁や天井が辛うじて残った小さな一区劃にも、四五人の兵隊がそれぞれの生命をまもり、呼吸をひそめるように生きていた。その部屋も床や柱に、焰が
三田のそばに、彼の方に上半身をもたせかけるようにして、やはり一人の兵士が眠っていた。屋外からとどろいてくる
かすかな羨望の念が、しだいに強まってくるのを感じながら、三田はそう思った。(この男の歳はいくつ位だろう。たしか
昨夜彼は城内で、この宗像という男に、生命をたすけられたのであった。水が
「こんなところで死ぬやつがあるか。馬鹿だな。逃げるんだよ。生きられるだけは、生き延びるんだ」
その声で彼はぼんやりと意識を取り戻した。そしてぼんやりしたまま立ち上ろうとすると、膝頭に痛みがはしって、そのまま宗像の方によろめいた。その激痛が彼の意識を急に現実に引き戻した。彼は宗像の肩をつかみながら、思わずあえぐように言った。
「膝に、怪我している!」
「膝ぐらいが何だよ。生命と引換えになるかい」
声がすぐはねかえってきた。いきなり手探りで宗像は三田の腕を抱えこむと、乱暴に
灼熱した核のようなものが、瞬間胸のなかに荒れ狂うのを彼はかんじた。
「伏せるんだ」
宗像が押しつけるような強い声で言った。そして彼等は暗い地面に身を伏せた。三田は伏せたまま、呼吸をはずませていた。三田の耳に唇をつけて、宗像の声がささやいた。
「走れるか。走れるだろう。あそこまで走るんだ」
細長い建物に沿った狭い道の果てに、赤く灼けた空を背景として、城壁がくろぐろと立っていた。その風景には変に距離の感じがなかった。城壁まですぐ近くにも思えたし、数百米の速さにも感じられた。そこに到る右手の細長い建物の側面は、なにか脅やかすような
「走れる」
三田は低く答えながら、わずかに半身を起した。いま宗像から引き上げられた暗い穴を側面にかんじて、痛みに耐えながら彼は発動の姿勢をとった。そして彼等は走り出した。おのずから頭をひくく下げて、城壁まで一息に走った。あえぎながらやっと城壁に取りついて、しばらくして、三田は自分の全身がつめたい汗で濡れていることに気がついた。
「おい。お月さまが出ているよ」
夜空の赤く焼けた部分に、十二三夜の月がかかっていた。光を失った丸い銅板のように、月は小さな輪郭をみせていた。しきりに動くように感じられるのは、中空を炎上するものの煙が流れるためらしかった。その月の色は、へんに赤く汚れていやらしかった。なにか
少し経って二人は城外にひそみ出て、城壁に沿ってしばらく
「どのみち日本軍は、明日にもあそこに追いつめられるのだろうな。袋の鼠というわけさ。明日は徹底的にやられるぞ」
その建物のひとつのこの議事堂にやっとたどりつき、こうして狭い一区劃に身をかくした今も、宗像のその言葉は、三田の胸に惨めな実感として残っていた。宗像の口調はつっぱねた言い方であったが、あるいはこの男の自嘲の形式なのかも知れなかった。しかしその時三田は惨めに胸の中に折れ曲ってくるものが、とつぜん三田の口調への反撥に変るのを感じていた。黒く建った三つの大きな建物は、あかい夜空を背にして、死のように
(おれはまた、ここへ引き戻されてきたんだ。鎖でつながれた猿みたいに――)その思いは荒涼と彼の胸にあふれた。
議事堂の迷路のようなこわれた通路をさぐって、二人がこの一区劃にたどりついた時、そこには二人ほどの兵士が壁ぎわに身をひそめていた。その一人が
「どこから逃げてきたんです」
「城内からだよ」
銃を床に引きずって入りながら、宗像が答えた。
「もうあちらも駄目かなあ」
しばらくしてつぶやくように前の声が言った。眼が暗さに慣れてくると、壁の裂け目から入る夜の光で、先住者たちの姿がうす
「もうあちらは駄目ですよ」宗像の声もいくぶん沈んだ響きになった。「ポートサンチャゴあたりから、ハシック河を泳ぎ渡ってね、どうにか逃げてみようと思ったんだが。もう城内にも敵が相当入っているね」
三田は裂けた壁のすぐ脇にたおれ込むようにうずくまって、背を柱にもたせた。宗像はそれに並んだ。前の声はそれきり何も言わなかった。宗像は帯革を解きながら、ひとり言のように言った。
「ここなら明朝まで大丈夫だろう。一眠り出来そうだねえ」
宗像がかるい寝息をたてはじめても、三田はいつまでもはっきり目覚めていた。肉体はひどく疲労しているにも拘らず、神経はひりひりとたかぶっていて、眠れそうにもなかった。追われている時の感覚が、
今夜の脱出行の
(あの音のたびに、何人かが虫けらのように死んでゆく)
それはおそろしい実感として、そのたびに彼におちるのであった。彼は自分の身体を壁にしきりに押しつけた。分厚な壁の重量感を、もー度肉体で確かめるように。身を守るものもない
柱にもたせている頸をぎょっとおこして、三田は顔を廻した。この部屋に降りてくる
「――ここには誰がいるのか?」暫くして男はつめたく沈んだ感じの声でいった。「どこの兵隊か?」
その声を聞いたとき、三田の背筋をひやりとするものが走りぬけた。それは彼に聞き覚えのある声であった。つめたい感じのその語調は、三田の記憶のもっとも新しい部分に、ふかく貼りついていた。
(あの声だ)三田は
誰も黙っていた。その沈黙は、たとえば異物を押しこまれた貝の身のように、それに抵抗し、排除する気配をふくんでいた。男の態度や口調が、他を威圧することに慣れた職業的なつめたさを持っていたのだ。しかし三田は、押しつけられる感じに我慢できなくなって、声をかたくして答えた。
「私は中川隊の所属です」
「中川隊?」男は三田の方にするどく視線をさだめる様子であった。
「市政府ビルで全滅した中川隊か?」
「そうです」
「逃げてたすかったのか?」
「いいえ。命令受領に出ていて、そのままになったのです」
「運がいい奴だな、お前は」
語尾の響きからして、男は唇のなかで短く含み笑いをしたらしかった。そして探るような足どりで、男の姿が横にうごいた。腰をおろす場所を求めるらしい。身体のなかに泡立ってくるものをかんじながら、三田の眼はそれを追った。
(この男も、弾丸に追われて、逃げてきたんだな。それにしても、なんという冷たい感じの男だろう)
蛇の肌をこすりつけられたように、彼はぞっと身を慄わせた。
(おれを覚えているかしら。もちろん覚えているだろう――)
晩方の空気を裂いて、遠く南東の方角から、戦車砲らしい
――二日前、市政府ビルに近接攻撃を開始し、三田の属する中川隊は全滅した。数百米はなれた別の建物から、危険を
その河辺も、昨夜の脱出行で、惨めな死に方をした。
昨夜、三田たちは、城内から海岸に出て、
「こりや戦争じゃないよ。
船員の提案にしたがって、三田たちがマニラ湾に出る決心をしたのは昨日の昼間であった。いずれも、一箇月前の警備召集であつめられた市民兵ばかりである。河辺もそれに加わった。ゲリラと砲弾の危険はあるにしても、城内にはまだ組織だった敵兵は入っていないというのが、船員の予想であった。ルネタ地区に散在する日本軍は、すでに組織をなくし、横の連絡もほとんど絶えていた。身をもって自らを守るほか、道はのこっていなかったのだ。建物の地下室の一角で、その相談をしていたときも、外ではあらゆる種類の砲弾が飛び交い、落下していた。建物のどこかに落下すると、地下室まで不気味な振動をつたえてきた。一刻遅れれば、それだけ危険が増大していた。しかしあせる気持はあっても、白日下の行動は、ねらいうちの
日が落ちて、あたりがすっかり暗くなってから、彼等はこつそりとその建物を這い出たのだ。夜空を無数の焼夷弾と迫撃砲弾が交錯し、その間を米観測機とP38の機影が、おびやかすような爆音をたてて近づき、遠ざかり、またひらめくように近づいてきた。地下室で聞く爆音とちがって、生命の
「城内に入ったら、目標目標をきめて、分散して走るんだ。海岸まで出たら、材木をあつめること。
船員はそこで一寸言葉を切った。
「――もしあたしが、途中で死んだら、やはりそれでも海岸に出たがいい。万死に一生ということもあるから、筏などは、どうにでも組める」
そして船員は残りの四人の顔を、ひとりひとり見渡した。地下室にいるときは、快活で元気そうな男であったが、今は頰にあおぐろい
(おれだって、あんな眼つきをしているに違いない)
二十米走っては伏せ、三十米走っては壁に身を寄せ、呼吸をはずませながら走ってゆくときにも、三田の頭をそんな思いがきれぎれに横切った。走っては伏せ、伏せては走った。呼吸がしだいに切れてきた。
見知らぬ日本人から短銃をつきつけられたのは、鐘楼の下まで走る途中の路地であった。道路の脇で、
「おれは、特務機関の銅座というものだ」
手を胸にあげているのは、短銃だと気がつくと、三田は思わず小銃をにぎりしめた掌から、力が抜けてゆくのを感じた。男はすこし姿勢を低くして、ゆるゆると彼の方に近づいてきた。
「――どこへ行くつもりか」
「――海岸へゆきます」
その姿勢のままで三田は答えた。城内で日本兵にあうのは予想していたが、こういう形としての予想ではなかった。連帯感を断ちきったような、
「船はあるのか」
「筏を組むのです」
「筏?」男はあざけるような鼻音をたてた。「お前たちだけか。だれか筏の経験者がいるのか」
男は短銃を押しあてたまま、三田の服装や、装備や銃をにぎった手付などを、石炭殻の暗みでも、素早く見てとったらしかった。
「お前は、現地召集の初年兵だな」
「船員がいるのです。筏を組むのは、それが指示する手筈です」
「さっき走って行ったのがそれか」
三田が黙っていると、男はさらに身を近づけて、前方の路地をすかし見るようにした。すでに路地に人影は絶えて、うす赤く灼けた夜を背にして、スペイン寺院の鐘楼がくつきりとその形を見せていた。もう五六十米ほどの距離しかなかった。もうあそこに集結してしまったかも知れないと思うと、
「急ぐことはないだろう。夜は長いんだ」
ひやりとするような無表情さが、その口調にながれ、男はかぶせるように言葉をついだ。
「――おれをそこに連れてゆけ。どの路を通って海に行くのか?」
「あ、あの鐘楼のところで、また道をきめるのです」
一語一語に抵抗を感じながら、彼はどもった。米機の爆音が、東の方から増大してきたと思うと、城内の上空であざやかに方向転換する一機が、建物と建物の間の夜空にくっきりとうつった。五百米ほどの高度であった。機上から見える訳はないと思っても、自然に伏せる姿勢になった。
ポートサンチャゴの監獄の方面で、その時照明弾が打ちあげられるらしく、白っぽい光がこの路地にもいっぱい落ちてきた。
「すこしここで待っていろ。おれはちょっと後始末するものがある」
銅座というその男は、白い光のなかを立ったまま、すこしずつ車庫の方へ後ずさりした。顔は彼にむけたままであった。半開きになった鉄扉に立ち止ると、手にした短銃の銃口を
(後始末とは何だろう?)
身体を起すとたんに、石炭殻の一部がざらざらとくずれ落ちた。逃げるなら今だ、という想念が矢のように三田の胸を横切った。この得体の知れない男を連れてゆけば先に待った四人は何と思うだろう。小銃の台尻がこぼれた石炭殻にふれて、じゃりじゃりと鳴った。その時車庫の中で、なにか消音されたらしい短銃の音が、突然にぶく重々しく鳴りひびいた。思わず立ちすくむと、同じ響きがすぐそれにかさなった。頭のなかで何かが弾けるような衝動と共に、三田はほとんど無意識のうちに、背を曲げてまっすぐ走り出していた。夜風が彼の耳にぶっつかって後ろにながれた。
(おれを射ったんじゃない)それははっきり意識にあった。(あいつはあの短銃で、なにかを始末したんだ!)
しかしその路地を五十米も馳けないときに、前方のすぐ近くで、突然激しい機銃の音が起った。日本軍のではなく、米軍のそれの金属音であった。その瞬間三田は、機銃弾が火の
(集結していたところを見つかったな!)
機銃をもった敵が、すでに城内に入っているという、それは強い驚きであった。痛烈な戦慄が三田のなかをかけぬけた。一瞬の
(おれが行かなかったから、急いで行かなかったから―)[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。他は通常のそれであるから、ここも「――」の誤りであろう。或いは、直後の心内語からは「!」の誤字か誤植が疑われる感じもないではない。]
手足ががたがた慄え出すのを意識しながら彼はあえいだ。
(だからあいつらは見つけられたんだ。この俺を待っていたばかりに!)
その時鐘楼の下の晴がりから、はね仕掛でとび出したように、こちらに逃げてくるひとつの人影が見えた。それはもう
(もう建物建物に敵兵が入っている!)
奔ってゆく彼の姿を、じつと見詰めている巨大な眼を、彼は四周にひしひしと感じながら、懸命に馳けた。意識の端をきれぎれに、先刻短銃をつきつけた特務機関や、おそらく鐘楼のしたで折り重なって死んでいる無惨な船員たちの姿がかすめた。そしてまた顔を夢中で蹴り上げた瞬間の、まっさおな河辺の顔の、ぎらぎらと燃えるような双の瞳の残像が、灼熱した核のようなものになって、彼の胸のなかを荒れ狂った。
(生きていたいんだ! おれは生きていたいんだ!)
身体の奥の奥底で、別の声が根強い不協和音をたてて、暗く鳴りとどろいた。熱いものと暗いものははためき合い、せめぎ合いながら、彼を烈しく
(あの時城内で、おれは死んでいた方が、よかったかも知れない)
(あの穴に飛びこんだのも、弾丸から身を隠すというよりは、死ぬつもりではなかったのか?)
残存する日本軍が、ルネタ公園の中の三つの建物に、追いつめられ、完全に包囲され終ったのは、その日の正午であった。包囲線もしだいに縮小されてくるらしく、砲弾のみでなく、機銃殖や小銃弾が、議事堂にも降りそそいできた。身近に包囲されていることは明かであった。目に見えぬ敵の銃座は、三つの建物の出入口と、建物と建物をむすぶ通路に、びったりと銃口の照準をつけていた。建物から一歩でも踏み出すと、おびただしい機銃小銃弾が、そこをめがけて一せいに殺到した。建物間の連絡は、完全に
議事堂の一階から地階にかけて、二百名ほどの日本兵が分散して生きていた。三田がそれを知ったのは、水を求めて地階へ降りた時であった。砲撃から比較的安全と思われる区劃区劃に、三人五人と青ざめて生きていた。安全といっても、直撃の砲弾にはひとたまりもない筈であった。それにも
地下室の一箇所に床が裂け、にごつた水がわずか溜っていた。三田はそれを水筒に満たした。一口ふくむと、その水は焼夷弾の黄燐が臭い、咽喉を刺戟してにがかった。危険を冒して水を汲みにきたのも、夜明け前に入ってきた銅座という男の命令であった。銅座は三田の顔をじっと見ながら、抑揚のないつめたい声で言ったのだ。
「おい。そこらで水を探してこい」
部屋の隅の大きな柱に、銅座は背をもたせて膝を抱いていた。この部屋に入ってきた時から、同じ姿勢のままであった。膝を抱いた長い指が、ときどき周期的に
(あの車庫のなかで、銅座の短銃はなにを始末したのだろう?)
しかし銅座がなにを射とうと、三田の今とかかわりがある訳ではなかった。ただ銅座があそこで彼を引止めたばかりに、三田の生命はたすかったとも言える。またあるいは脱出行の失敗も、船員たちがスペイン寺で射殺されたのも、このつまずきのせいかも知れなかった。そう思うと三田は自分の頰に、硬ばった惨めな笑いが浮んでくるのを感じた。そして水を探しに出るために立ち上った。
水があるところまで達するには、灰にうずもれた
(城内が燃えている)
痛みに似たものが、三田の全身をかけ廻った。罠だと知づていてそれに引っかかる
今朝がたからパシック河北から、集中的に打ちこんだ重砲弾やロケット砲弾のため、城内は大火災をおこしていた。黒煙の間から、巨大な焰の尖端が、時折真紅な舌のようにひらめいた。建物が次々燃えさかり、くずれ砕ける音が、城壁から三百米へだてたこの議事堂の地階にも聞えてきた。それは
――正午をすこし廻った頃から、米軍の火器はことごとくこの地区に集中されるらしかった。命中するたびに議事堂の建物は、地鳴りのように振動した。無気味な音をたてて重砲弾が飛んできて、建物の一部に命中すると、命中した部分の天井は紙のように他愛なく折れ、柱とともに
壁の凹みに身を寄せて、三田は地図の上を這う宗像の指を見ていた。宗像の額も、うっすらと脂汗が滲んでいた。しかし顔の色は血の気をふくんで、むしろ生気があるように見えた。地図はところどころすり切れたマニラ付近図であった。
「この、大東亜道路に出て、スペイン墓地からパコ――敵はいっぱい居るだろうな。しかし、夜だから――」
宗像の指は、すこし慄えながら、地図の鉄道線路に沿って南下し、ラグナ湖のところで止った。
「夜が明ける頃には、うまくゆけば、ここまで行けるだろう。あとはモンタルバンまで一筋道だ」
宗像は顔をあげて、わずか白い歯を見せて笑った。あの夜城壁の下で、月が出ていると指さしたときの、あの笑い方と同じであった。その笑い顔は、なにか三田の胸にじんじんとこたえてきた。しかし宗像は笑いのかげをすぐ収めて、独白じみた口調になって言った。
「――でも、一人でなくては駄目だな。二人となると、必ず見つかる。ひとりで一か八かやってみるだけだ」
「夜まで生きているつもりかね」
宗像はびっくりしたような表情になって彼を見た。
「それは判らないさ」
この部屋のすぐ上のあたりに、機銃が打ちこまれるらしく、堅いものが弾ける音がはしった。首を縮める姿勢になって、宗像はつぶやいた。
「――やけに打ってきやがる」
三田も首を縮めて、無意識に掌で顔をおおって、眼を閉じていた。戦争ではなくて
三田の肩が、宗像の肩にふれていた。
(宗像はたすかるだろう)
それは根拠のある予感ではなかった。しかしその想念は、すぐ裏返しになって、確実な真黒な形となつて彼をおそってきた。
(そしてその時、この俺は死ぬだろう!)
ふしぎな、あやしい
向うのすみには銅座が膝を抱いたまま、先刻とおなじ姿勢で腰をおろしていた。薄眼をひらいて、瞳をぼんやり動かしていた。残忍な感じのするその小さな瞳は、時々なにげない風に三田の方に向けられた。三田が汲んできた水筒は、スーツケースの横に立てかけられ、混凝土の粉末で白っぽくよごれていた。三田が手渡してから、銅座はそれを一口ふくんだきりであった。黄燐のにおいに耐えられなかったらしく、すぐそれを吐き出した。
(ここで死んでしまう!)ざらざらする壁に頭髪をすりつけて、彼は思った。(砲弾を打ちこまれて、自分の身体か他人の身体か判らないような状態になって、死骸かなにか判らないような
三十年間生きてきて、生きてきた道のしめくくりもなく、
身を刻むような時間が、しだいに夕方に近づいてきた。
日暮れすこし前に、三つの建物に集中していた米軍の全砲火が、断ち切るようにぴたりと止んだ。突然時間の流れが停止したような静寂が、ルネタ全地区にひろがった。
ひとたび天地にもどってきたその静寂は、かぎりない拡がりと、おそろしいほどの深さを持っていた。静かさの底から、
市政府の方角から、拡声機による日本語の放送が、高く低く流れてきた。すこし
三田は掌をついて体をおこした。立ち上ってみて始めて、この上ない重い疲労が、全身をみたしていることに彼は気付いた。凝縮されていたものが急に緊縛を解かれて、途方もなくふくれ上ってゆくような、不安な開放感がそこにあった。頭や肩についた
三田のすぐ側で、宗像は背をおこして、
「膝を巻いておきなよ」
膝の傷に巻いた
宗像はふと我にかえったように、立ち上って
「静かになったなあ」
宗像は
三田のぼんやりした視線のなかで、銅座はゆっくりスーツケースを開いていた。薄い光のなかで、スーツケースのなかに色んなものがごちゃごちゃに見えた。銅座の長い指はその中から黒いものを取出した。それは
(――誰も投降しないだろう)
茫漠とした予感が、しだいに確かな形として、三田の心を領していた。死化粧を
あの拡声機の声が、その意味を伝えたとき、非現実な響きとして耳に沁みた感じも、始めからそこにつながっていた。灰のむこうにうごめく人影も、ただ灰の中で動いているだけで、呼びかけの意味を拒否した、閉された世界のいとなみに見えた。投降しても殺されるだけだろう。そのような疑問や危惧だけではなかった。組織をなくしてばらばらになったこの状態でも、建物内のすペての人を
(あと二十分もすれば、あの砲撃がまた始まる!)
向うに遠く近く動く人々の間に、やがて話し声や何か伝達する叫びが立ち始めた。三田のところから二十米ほど離れた小区劃では、飯を焚く用意をするらしく、小さな焰が見えた。水筒を下げながら歩く裸の兵士が、崩れた柱の根元で叫ぶのが聞えた。
「みんな飯を食っとけやあ、今のうち」
物悲しいその調子のなかに、へんに陽気な響きがあった。あちらこちらに見える人々の数は、三田が水汲みに行った時の感じからすれば、もう三分の一以下に減っていた。拡声機の透明な声が、それらのうごめく影を縫って、状況に無関係な音楽のように流れていた。
「死んだっていいんだ、おれは、ここで」
三田は地階の風物から視線を
「おれは、行くよ」
かすれたようなその声を、三田は全身で受けとめた。その声は三田だけでなく、銅座の耳まで届いたに違いなかった。
髪を剃っている銅座の剃刀の音が、ちょっと止んだ。止んだように思えただけで、直ぐじゃりじゃりと鳴る剃刀の音が戻ってきた。銅座は残った壁に身をよせて、左手を使って、器用に顎のところを剃っていた。立てかけた小さな鏡の背面は、朱が塗ってあって、それが強く三田の目に沁みてきた。
宗像は肩にかけていた破れた
「もうこれも要らないだろう」
笑いにならないような笑いが、宗像の頰をかすめたようであった。鉄骨に下げられた鉄帽は、宗像の手の動きを残して、かすかに揺れていた。三田は壁に支えた掌が、突然脂と汗でぬれてくるのを感じながら、立ち上ろうとした。頭の内壁で火花のようなものが弾け散った。
破壊された混凝土の階段のところで、宗像は一度ふりかえった。
「銃を執るんだ」
銅座は三田の直ぐ斜め後ろに立っていた。銅座の手にある短銃の銃口をみたとき、三田の手はほとんど自らの意志をなくして、壁にもたせた自分の小銃の方に伸びていた。銅座の黒い銃口は、まっすぐ三田の背中に向けられていた。銅座がいつの間に立ち上っていたのか、彼は気付かなかった。三田の掌は小銃を握った。城内で短銃をつきつけられた時より、もっと烈しくするどいものが、
(宗像がふり返ったのも、これだったのだな!)
地階のずっと向うの区劃らしく、誰かさらし粉を持っていないかあ、と呼んでいる声が遠く聞えた。それに続いて、持っているぞと答えるらしい声が、かすかに反響してくる。三田は自分の背に、かたい銃口の
(おれに射たせるつもりだな)
宗像につづいて立ち上った三田の気持の乱れを、銅座はあの垂れた瞼の下から素早く見てとったらしかった。よし。声にならない言葉が、三田の
議事堂の前にひろがる広濶なルネタ公園の芝生は、
「――ねらうんだ」
銅座の声が背中にしずかに落ちた。
突然兇暴なものが、嵐のように三田の胸をみたした。彼は四五歩踏みだして、平たく倒れた壁の上に身を伏せると、あらあらしく銃を支えた。
(何故あいつは早く走らないのか)
ぎりぎりと歯をかみしめながら、
(的を
命中の自信はもともとなかった。ただ一箇月の兵士生活で、銃の操作もろくに知らぬ。ねらいを外らせば、当る
(あんなに冷酷で非情で正確な砲弾を前にして、個体としての人間が、感じたり、考えたり、動作したりすることに、何の意味があるだろう)
瞬間に湧きおこる抵抗をたたき伏せるように、三田は指に力をこめて撃鉄を引いた。弾丸が空気を裂いてむこうへ飛んだ。
照星の彼方の宗像の姿が、その音と共に動きを止めて、凍結したように立ちどまった。そして頭を廻してこちらへ振りむいたようであった。胸をぎりぎりと嚙んでくるものを意識しながら、三田は短い時間にそれを見た。そのまま宗像は四五歩走り出したように見えたが、つまずくように身を地に伏せた。身を伏せたのか、倒れたのか、判らなかった。三田は身体をひるがえして跳ね起き、階段口までかけ戻った。銅座はその壁に身をもたせて立っていた。
「命中したか」
銅座のその問いにかぶさるように、突然機銃の音が鳴りとどろいて、その弾丸が三田から数米離れた柱の根元に、はげしい音とともに打ちこまれた。混凝土の粉がぱっぱっと弾け散った。三田は反射的に、転がるように階段をかけ降りた。機銃の音は五六発で止んだ。そして拡声機のあの声が、同じ調子でしずかに戻ってきた。銅座の長身の姿が淡い光を乱して、ゆっくり階段を降りてきた。階段を降り切ると、銅盤は立ち止って腕を上げ、腕時計の文字盤に、食い入るような瞳をしばらく這わせていた。攻撃がふたたび始まる時間を、計っているらしかった。そしてうつむいた銅座のすべすべした頰に、残忍な笑いの影がかすかに走るのを、三田ははっきりと見た。うつむいたまま銅座は低い声で呟くように言った。
「お前は昨夜、城内にいた兵隊だな」
三田は黙っていた。そして上ずった瞳を部屋のあちこちに動かした。部屋はもとのままであった。床にはさっきと同じ形で、裂けた地図や、輪になった
「私を殺して呉れ」
それは発作的な痙攣のように、その叫びが三田の
「もう五分もしたらな、ここは戦車砲がじゃんじゃん打ちこまれるぞ」
銅座は背をかがめて、床にころがった小さな鏡をひろい上げながら、抑揚のない調子で言った。そして鏡を顔の前にかざした。銅座は小鏡のなかの自分の顔に
「あいつは、運が好い奴だな。……弾丸は、あたらなかったな」
その銅座の言葉の調子と、頰にうかんだ冷たい笑いを、それから丁度一時間経った今、三田ははっきり懐い出した。この建物の中央部にちかい、混凝土の
幅三尺ほどの染木の左右は、すこし低くなって、おびただしい灰の堆積であった。ここらは書庫のあとらしく、幾十万冊とも知れぬ書籍が、そのまま灼熱されて灰となり、黒くくずれて床を埋めていた。梁木はその上を一本通っていた。西南隅のあの部屋を脱出して、ふたりは今ここまで動いてきた。ほとんど本能だけで動作する二匹の虫となって、ふたりはその染木にちいさく取りついていた。
建物の西南部は、すでに潰滅していた。何百発の戦車砲がたたきこまれ、重砲弾と迫撃砲弾と焼夷弾が、集中的にそこに落下した。あの三十分の砲撃中止の間に、米軍は砲の位置をあらため、照準を狂いなく定めたらしかった。砲弾は進路をあやまたず、一箇所に集中して炸裂した。戦車群は海岸方面からしだいに進出して、かなりの近さに寄ってきていることが、戦車砲の響きで察しられた。崩れ残った日本兵の溜りになっている箇所を、順々につぶしてゆこうという米軍の意図が、その集中砲撃のやり方で明白であった。そして西南隅の一劃は先ず潰滅した。巨大な力が一瞬に擦過したように、柱や壁は微塵となって砕け落ちた。その少し前に、ふたりはその部屋をはなれていた。
部屋を離れてどうするというあてはなかったのだ。その時銅座のあとについて、ほとんど思考を失った状態で、三田は破れた壁を超え、東の方に
(ああするつもりでは無かったのだ。それだのに――)断れ断れにかすめるものの中に、いろんな人々の顔が浮んできて、彼は心の中でうめいた。(何かがおれを裏切って、おれをそうさせてしまう!)
銅座と彼は、すこし離れたり、堆積するもののなかに姿を見失ったり、また近くになったりした。彼は銅座のあとを追っている訳ではなかった。折れ曲るものと崩れ散るもののなかで、おのずから危険のすくない通路をえらぶ本能が、ふたりを引離さないのであった。
議事堂の大天蓋はすでにことごとく崩れ、夜空が上にひろがっていた。城内方面の火災も幾分下火となった模様であったが、それでも夜空はすさまじい赤さで焼けていた。絶え間ない砲弾の
(まだ死なない。まだ死なない)
書庫の上の梁にたどりついたとき、咽喉にこみ上げてくるものを感じて、彼はそれを
(きれいな水を腹いっはいのんで、それから死にたい!)
水晶のように透明で
(東の方へ這って行ったとしても、それがどうなるのか?)
何度もかんがえたことが、また頭のすみにひらめいた。銅座が頭をこちらに向けて伏せていたことを、彼はその時ちらと考えていた。しかし銅座は這い廻ることの空しさを知ったというより、梁の果てが破壊されていて、それ以上進めなかったのかも知れなかった。その時東の方角から、たしかに戦車砲が打ちこまれる激烈な響きが伝わってきた。そして梁はその響きに応じて、ズシンズシンと振動した。腹を衝きあげるような根強い振動が、梁から梁をはしった。東側にも戦車が廻った。そう感じたとたんに、数日前の市政府ビル潰滅の状況が三田の眼によみがえつた。
(あそこで死ねばよかった。ほんとに死ねばよかったんだ)
蟻のように戦車に取巻かれた市政府ビルの状況が、今そっくりの形でこの建物に置かれていることを思うと、
(おれが見捨てられた猫なら、こいつは逃げ道れた
三田は鉄帽をすこしもたげて、伏せている銅座の方を透し見た。照明弾の白い光のなかで、銅座は頭をぴたりと灰に押しつけていた。常時帽子を着ける人間に特有な、
(やったんだな!)
身体からなにかが引き抜かれたような気特になって、彼は凝然と背筋を硬くした。そして身体をずらして、そこへにじり寄った。
銅座の身体は腹這いの姿勢のままで、顔を灰に埋めているのであった。気がつくと、左のこめかみの部分が黒く焦げて、そこに小さく肉が弾けた穴が見えた。銅座は自ら短銃でそこを撃ったに相違なかった。三田は心の中の何ものかがはらはらに分裂してゆくのを自覚しながら、掌をそこにあて、ぐつと押してみた。気味のわるい重量感が掌に感じられた。頭はゆっくり向きを変え、灰にまみれた顔面があらわれた。その顔は瞼をうすく開いていた。瞼の上にも、灰は黒いかさぶたのように着いていた。梁をゆるがす衝撃的な振動が、銅座の身体の各部分にも伝わって、灰はそのたびに顔からはらはらと落ちた。その顔はすでに血の気をなくしていたが、銅座が生きていたときの顔よりも、表情をもっているように見えた。死骸の顔はなにか表情をたたえていた。反射的に三田は、銅座のあの感情を押しころしたようなつめたい言葉の調子を思い出した。それと一緒に、つきつけられた短銃のかたい感触を。
(宗像はあのまま降服できただろうか?)
彼はしめつけられるような感じになって、視線をうごかした。頭からつづく長身の胴体と四肢は、力なく染に貼りついていて、
(こんなところで死にたくはない!)
(逃げる資格はないんだ。おれは逃げる資格はないんだ!)
その声は矢のようにするどく彼の背につきささった。しかしそれを振りのけ払いのけて、彼は灰のなかを傷ついた鼠のようにはしった。
混凝土の大きな破壊口を飛び越えたとき、彼はよろめいて、激しく身体を打ちつけた。そこに地階の出口が、枠だけになって残っていた。打ちつけた肩の痛みを忍びながら、彼は眼を据えて外面を見た。建物の外は、弾けるものと飛び交うものが
(――三十歳。三十歳)[やぶちゃん注:敗戦時の梅崎春生は同じく満三十歳であった。]
近くの道路で炸裂したらしい迫撃砲群が、轟然と大地をゆるがした。蛤壺の内の土がはらはらとこばれ、上をおおうた木の枝の聞から、小さな鉄の破片が鉄帽にカチンと音をたててあたった。しかし彼はそのままの姿勢でいた。傷つかない方の膝に頰を押しあて、抵抗し難い睡眠への誘いが、今全身をゆるやかに領してくるのを意識した。穴の外で炸裂するものの響きを、しだいに遠く聞きながら、もう
……彼は荒野のまんなかを歩いていた。何のために歩いているのか、よく判らなかった。彼が行く前方に、一群の
背後から、なにか轟々と音が聞えてきた。彼はふり返った。地平の果てに赤い火柱がいくつも立ち、それは旋風のように回転しながら、しだいに近づいて来るらしかった。彼を追ってくるのは明かであった。彼はぞっとして立ちすくんだ。その火柱はだんだん近くなって、焰の舌をめらめら吐きながら、いくつも天に
《血だ!》
前方の木立からその時、たくさんの人々の
そして全身から汗をふきだしながら、蛸壺の中で、彼は眠りから押し出されるように覚めた。夢のなかにあふれていた轟音は、そのまま現実にもつづいていた。その音は蛸壺のむこうの道路の上を、しだいにこちらに近づいてくるらしかった。そしてその轟音を縫って、何やらわめき合う人の声がした。耳慣れぬその声は、あきらかに米兵の声であった。轟々と音を立てるものが、戦車であると直覚したとき、彼は慄然と恐怖におそわれた。
(蛸壺をひとつひとつ潰しにきたのだ!)
しかし轟音はすぐそこで止まった。そして空気を引裂くような音をたてて、戦車砲が打ち出された。その音はがんがんと蛸壺にひびいた。膝を抱き、
蛸壺のすぐ近くにいる戦車で、何か命令するような短い米兵の叫びがあがった。その叫びと同時に発射は止み、ラムネを開いた時のような、何かをはげしく噴射する音が、それにとって代った。天井の木の枝の間に見える空一面に、白煙が流れ、同時に高級殺虫剤に似た揮発性の芳香が、しずかに蛸壺のなかに降ってきた。放射された火焰の匂いであった。その噴射は間をおいて、執拗にくりかえされた。膝に押しつけた瞼のうらに、燃えとろけてゆく議事堂の幻影を彼は見た。
また近くで米兵が叫ぶ声がした。そして戦車は轟々とカタビラ[やぶちゃん注:ママ。]の音を響かせながら、蛸壺のそばの道路を動き出した。轟音はしだいにファイナンスビルの方に遠ざかって行った。ふと気がつくと、砲弾の炸裂音も、議事堂からファイナンスビルの方に移ってしまったようであった。迫撃砲や戦車砲の音は、すべてファイナンスビルの方向でむらがりおこっていた。そしてしばらく
夜空を背にして、議事堂の建物は完全に死滅していた。砲火の炸裂はみんな、その向うの建物でおこっていた。そして彼は蛸壺の二間ほど向うの地面に、うすく光をたたえた水溜りを見た。猛然たる乾きが、彼の全身を収縮させた。犬のようにあえぎながら、彼は鉄帽で枝を押し上げ、そっと
それは並木の下に溜った水であった。彼はいきなり唇をつけると、
(生きていたい。生きていたい)
顔を水の中にひたして、咽喉をならしながら、彼はそう思った。彼の胸をいっぱいにしてくるのは、今はその思いだけであった。どんなに暗く重いものを引き摺っても、その瞬間を彼は生きていたかった。
濡れた顔を袖で拭くと、彼は
(マヒニ街に行こう)
その街は、彼が召集される前に、下宿していたところであった。もしマヒニにもぐりこめば、あとはパコを経て、モンタルバンの方角へ逃げられるかも知れない。そう思ったとき、彼は突然議事堂のあの部屋で、裂けた地図の表面をたどり動いた宗像の指の形を思い出した。宗像の記憶が彼の胸をひりひりとこすり上げた。
(おれはあの時射ったんだ。一度は照準を
水面にぼんやり映る自分の顔の形から、彼は眼をそむけた。そして膝頭の繃帯を長いことかかって結びなおした。彼の眼の前から道路が、
それから何時間か経った。
曇っていた空が切れて、満月が天に出ていた。公園の端にあるリサールの銅像にも、黒い雲の切れ目から、月の光がしずかに取っていた。リサール像の
その死体は若い海軍兵士であった。上半身を塀にもたせて死んでいた。だらりと垂れた裸の手は、すでに冷たくなっていたが、その手首に巻かれた腕時計が、コチコチと時を刻んで動いていた。針は六時すこし前を指していた。三田の眼はそれを見ていた。
(もうすぐ夜があける)
気力をふるいおこすように、彼はそう思った。夜明け前に公園を出て、市街にまぎれこみ、マヒニ街まで行くつもりであった。しかしここまでに時間をとって、もう間もなく夜が明けようとする。昼の光のもとで逃げ終せる自信はなかった。
あの蛸壺からここまでの数時間を、彼はほとんど匍匐してやってきたのであった。遮蔽物とてほとんど無いルネタ公園の広濶地を、発見されずに横切るには、匍匐のまま少しずつ動く
(ここで夜が明けたら大変だ)
その危機の意識だけが、僅かに彼を支えていた。この若い兵士の腕時計が、まだ動いているところを見れば、この兵士は死んで間もないに違いない。そうすれはここも危険な訳であった。
三田は月を見ていた。雲が東方に動いていて、間もなく月をかくそうとしていた。眺めていると、月が雲の方に近づいてゆくような錯覚に落ちた。月が雲に入れば、夜明けまでの短い時間を、すぐ行動せねはならぬ。どこか壊れた家の床下にでももぐり込んで、今日の昼間をすごす外はない。あとはそれからだ。
彼はうずくまったまま、公園からデルピラル通りを見詰めていた。その正面に建った建物は、焼け焦げて混凝土だけとなり、窓々が黒い穴になっていた。米兵はそこにいないらしく思えた。その建物の横は路地になっていた。建物と建物にはさまれたその路地は、暗い翳となり、今まで全身をさらしてきた彼に、ある甘美な誘いをかけてきた。刻刻を脅やかす光と音から、その路地の暗さは彼を守ってくれるように思えた。その路地の入口まで、五十米幅の道路を横切らねばならない。その道路も、砲火にさらされて、凸凹になつているようであった。この五十米を駆け抜ければ、あとはどうにかなる。彼は気力をふるいおこしながら、そこらの地形をじっと眺めていた。夜明け直前の薄暗がりは、幾分の水蒸気をともなつて、物ははっきり見えなかった。路地の入口に到る途中に、黒い四角な箱のような形のものが見える。それは
(走って行ってあの蔭にひと先ず飛びこむ。異状がなければ、あとを一気に駆けぬけよう)
彼は姿勢をととのえた。月が
(月がかくれたのだ!)
姿勢を低くしたまま、彼は一気に飛び出した。黒い四角なもののかげを目ざして、ほとんど倒れそうになつて走った。
四角なものの蔭に飛びこむと同時であった。三十米前方の、無人と思われた焼けビルの窓々から、十数発の小銃弾がそこにむかって殺到した。木を組み合せたその箱に、烈しい音を立てて突き刺さり、また彼の鉄帽をこすって道路に突き刺さった。熱くするどい弾風が、彼の頰をかすめた。灼熱した痛みを頰の皮膚に感じたとき、彼は夢中で横に飛び、黒くえぐれた凹地へ頭からころがりこんだ。凹地の底で堅いものが彼の鉄帽をはじいた。首に食いこんだ紐がぶつりと切れて、鉄帽は彼の頭から離れてころがった。土に顔をくっつけたまま、彼はあえいだ。
(
転がりこむ一瞬に、木箱に印された無数の弾痕と、かげにころがる三四の黒い屍を、彼は眼に収めていた。それは公園からの脱出者の囮の箱であった。
蒼白になった顔をわずかおこして、彼はあたりを見廻した。それは迫撃砲弾かなにかが、道路をえぐつた穴らしかった。彼の鉄帽をはじいたのは、その底にころがったアスファルトのかたまりである。そのアスファルトの上に、彼の頰から血がしたたっていた。逃げ途を失った鼠のような眼付になって、彼はそれを見た。夜がそこに明けかかっていた。さまざまなものが、嵐のように彼の胸を荒れ狂った。
(降服しようか)
(お前にその資格があるか)
この数日間のことが、ぎらぎらした
焼ビルの二階の窓々から、若々しい米兵たちの顔が、ずらりとならんで現われた。少し経ってその一人が、自動小銃をかかえたまま、出口に姿をあらわした。三田はよろめきながら穴を出た。その方へ歩いた。
[ルネタの市民兵 完]