藪野直史個人サイト「鬼火」
同サイト内「心朽窩旧館」
同ブログ「鬼火~日々の迷走」内カテゴリ「梅崎春生」



ルネタの市民兵 梅崎春生

[やぶちゃん注:昭和二四(一九四九)年八月号『文芸春秋』初出で、二ヶ月後の同年十月に刊行した単行本短編集『ルネタの市民兵』(月曜書房)を刊行し、再録させている。作品集の標題にするところに梅崎の本作への一方ならぬ思い入れが感じられる、梅崎春生の「桜島」(リンク先は私のPDF(β版)一括版。上記ブログ・カテゴリ「梅崎春生」には分割版もある。孰れも完全オリジナル注附き)・「日の果て」(リンク先は「青空文庫」版)と並ぶ初期戦争小説の代表作である。
 但し、「桜島」で判る通り、梅崎春生は太平洋戦争中は内地勤務であって、本作の内容は「日の果て」同様、実体験ではない。梅崎春生の後の随筆「未見の風景」(昭和三三(一九五八)年四月号『群像』初出。リンク先は私の電子テクスト)には、『その頃私は、行ったことのない国々、たとえばフィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説を度々書いた。そういう異国の風物を叙述するのに、たいへん苦労した。いろいろと人に聞いたり本で調べたりして、苦心を重ねたが、そのかわり張り合いがあつた。眼で見ぬ風景の描写だから、張り合いがあったのだろう。これがこの眼で見た風景なら、さほどの情熱は湧かなかっただろうと思う』。『で、その未見の風景描写は成功したかというと、半分成功し、半分成功しなかった。たとえばフィリッピン小説の場合、私同様フィリッピンに行ったことのない読者からは、実に現地にいるようだとほめられたが、フィリッピン行きの経験のある読者からは、首をかしげられた』。『「日の果て」を書いたあと、しばらくして野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられたので、私はたちまち狼狽、あとの感想を聞く元気をうしなった。いくら技巧をこらしたって、やはり体験者にはかなわない。すぐに見破られる』という冷や汗物の〈体験談〉を語っている。既に『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(7)』の注で述べたが、本作の参考資料は、高い確率で、春生より三つ年上の実兄で、後に哲学者・作家となった梅崎光生(みつお 大正元(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)からの聴き書きに基づくものではないかと考えられる。光生は東京文理科大学哲学科卒で、二度応召され、敗戦時には米軍の捕虜となった。昭和二一(一九四六)年六月にフィリピンの俘虜収容所から復員帰国し、佐世保港に上陸、博多駅に降りている。光生自身、この兵隊体験をもとに、後年、創作を試み、「無人島」などの戦記物や、戦争体験をもとにした日常生活などを描く作品を書き続けた。著書に「ルソン島」「ショーペンハウアーの笛」、作品集に「暗い渓流」「春の旋風」「幽鬼庵雑話」「君知るや南の国」などがある。参考の一部にしたこちらの記載には、『幼少年時代の思い出は短篇「柱時計」のなかに、「父の家は佐賀の貧乏士族で、結婚当時は福岡の連隊に中尉としてつとめており、母の家は同じく佐賀の町家であった。/私が生まれたのも、物心ついたのも、福岡市の舞鶴城つまり連隊の近く簀子町という所であった」などとあり、また『幽鬼庵雑話』には弟の梅崎春生のことや閲歴が語られている』とある。
 底本は沖積舎「梅崎春生全集 第一巻」(昭和五九(一九八四)年刊)に拠った。
 なお、「ルネタ」は「
Luneta」で、現在のフィリピンのマニラ市の中心にある「リサール(Rizal)公園」及びその附近の旧地名である。サイト「ピチョリ」の「マニラ:リサール公園(Rizal Park)のリサール記念碑(Rizal Monument)」によれば、『リサール公園(Rizal Park)はマニラ市の中心、マニラ湾が見渡せるロハス大通りの北端にある約』五十八『ヘクタールの公園で』。『リサール公園の歴史は』一八〇〇『年代初期のスペイン統治時代に始まり』、『この地域は、スペイン植民地時代にはバグムバヤン(Bagumbayan)』「新しい町」『と呼ばれ、三日月形に形づくられていたため』、『後に、ルネタ(Luneta)という名前がつけられ』たとし、ここは『フィリピンの歴史で最も重要な場所の一つで』、『フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール(Jose Rizal)が』一八九六年十二月三十日、現在の『記念碑の』ある『場所で処刑され』ており、『公園の名称は、彼に対する敬意からリサール公園と公式に名前』が変えられたとあり、一九四六年六月四日に『フィリピンのアメリカからの独立宣言が行われた場所でもあ』り、また『記念碑の』ある『場所は、フィリピン全ての都市への距離の起点とされてい』るともあった。
 さらに言い添えておくと、作品内時制はフィリピンの日本占領時代の最期のシークエンスである。ウィキの「フィリピン」によれば、第二次世界大戦中の』一九四一年(昭和十六)年)十二月に、『アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐し』、『マニラ市に上陸した。アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、大日本帝国陸軍は』翌一九四二年の『上半期中にフィリピン全土を占領し』ていた。『アメリカは』先立つ一九三五年には『フィリピンの独立を約束していた』ことから、『大日本帝国も』その翌年の一九四三年五月に『御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会』『)とビルマを独立させた』。同年十月十四日、『ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった』。『その後』、『ラウレルは日本との協力関係を築き』、『フィリピン政府の運営を進めた』が、『日本の敗戦が濃厚になると』、一九四四年十二月八日、『親日義勇隊のマカピリが設立され』、『ベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった』。『また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが』、『各地で抗日ゲリラ戦争を行った』。『その後』、一九四四『年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって』百十『万人のフィリピン人が犠牲となり』、『マニラに』二十『棟あった』十六『世紀から』十七『世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により』、二『つを残して破壊された』とある。【二〇一九年四月十四日公開:藪野直史】]

   
ルネタの市民兵

 その男は、夜明け前にやってきた。暁の空をいて炎上するマニラの街の、ものすさまじい光の余映が、裂けた壁やこわれた窓から射し入って、この建物の内部のところどころを仄赤ほのあかく染めていた。その西側の焦げくずれた狭い石階を、ほとんど這うようにして、長身のその男の影がのぼってきた。身をかくす遮蔽物しゃへいぶつを探しもとめるように、ときどきくびをあげて見廻すが、すぐ顔を伏せ、右手になにか小さな四角いものを引りながら、手と足をうごかして這いすすんだ。石階をのぼり切ったところ、燃えるものはすべて燃え尽きて、黒い混凝土コンクリートの生地だけになった廊下が、外壁に沿ってうすぐらく伸びていた。そこらに、砕かれた混凝土のかたまりや、折れ曲った鉄骨が散乱した。窓のそとの火影の照りかえしが、あちこちに淡くゆらめき、散乱するもののかげを床にくらく落していた。
 ときどき地の底からもり上ってくるような重砲のひびきを縫って、夜明け前だというのに機銃の音が遠く近くではじけるように断続した。照明弾が近くで空中に炸裂さくれつするらしく、白い光のしまがくつきりと床に浮び上ると、男はよろめくように壁に身を支え、しばらく足を止めた。
 男の前に伸びる廊下は、ところどころ崩れ落ちたり、大きな穴があいたりしていた。そこらを危く避けながら、周囲に極度に敏感な小動物の動作で、男の姿はのろのろ動いた。時々床に身を伏せて、光と音を避けた。散乱するものと深くえぐれるものとで、廊下ははなはだしく凹凸おうとつをなし、かつ傾斜していた。廊下と見えたものは、本当は廊下ではなかった。可燃物が焼け果てた跡の、混凝土コンクリートの土台にすぎなかった。木製の床や天井や壁が、ことごとく燃え落ちたあとを、大きな混凝土の柱やはりだけが、暗がりのなかを不気味に伸びていた。柱は沈欝な巨人のように黒く立ち並び、梁は暗い穴を抱いて平たく縦横にはしっていた。天蓋の破壊口を通して、灼けた空の一部から、うす赤い不吉な色の光が、ところどころ斜めに降っていた。
 夜明け前のルネタ公園の、広濶こうかつな芝生地のまんなかに建ったこのおおきな議事堂の廃墟には、マニラ市街のあちこちから、パコから、エルミタから、パンダカンから、次第に追いつめられ、打ちのめされ、身をもって逃れてきた兵隊が、何人も何人も、柱や壁のかげに分散してひそんでいた。
 議事堂の西南隅の、壁や天井が辛うじて残った小さな一区劃にも、四五人の兵隊がそれぞれの生命をまもり、呼吸をひそめるように生きていた。その部屋も床や柱に、焰がめたあとが黒くのこり、外に画する壁はひとところ大きく裂けていた。壁の厚さは二尺ほどもあった。そこから太い鉄骨が何本も、にょきにょきと曲って突き出ていた。ある無慈悲な力で引き裂いたようなぎざぎざのその破口のかげに、市民兵の三田康平は昨夜の夜半から、身じろぎもせずじっとうずくまっていた。傷ついた膝頭を守るように抱きながら、薄明のなかにぼんやり眼を見開いていた。膝頭の傷に襯衣シャツを裂いて巻きつけた応急の繃帯ほうたいは、一面に血をにじませたまま、すこしずつ乾き始めていた。戦闘の、夜明け前の小康というべき時間が、間もなく終ろうとしていた。彼はときどき思い出したように、膝頭に視線をおとした。破れた皮膚にじかに食いこんだ繃帯が、周期的に熱いうずきをともなって、ただれた肉や白い神経の尖端をしめつけてくるのであった。その感覚は、ごく身近な肉体の痛みであったにも拘らず、なにか自分から遠く隔ったものの感じをふくんでいた。彼はときどき確かめるように掌をひろげ、傷ついた部分を大きく押えてみたりした。するとえぐるような痛みが、直ぐそこからはねかえってきた。それは昨夜、城内で受けた傷であった。しかしその傷を負った瞬間のことを彼は記憶していない。気を失ってから傷ついたのか、膝を傷つけた瞬間に気が遠くなったのか、彼には全く覚えがなかった。
 三田のそばに、彼の方に上半身をもたせかけるようにして、やはり一人の兵士が眠っていた。屋外からとどろいてくる間歇かんけつ的な砲声や銃声のなかでも、その兵士は眠っていた。しかしその眠りも、浅く不完全なものらしく、かすかないびきが不規則に乱れ、もだえるような無意識の上半身のうごきが、ときどき三田の肩に伝わってきた。その度に三田はくびを廻して、その兵士の横顔をぬすみ見た。兵士の寝顔は、汗と派によごれ、呼吸のたびに睫毛まつげがかすかに慄えていた。しかし浅くとも眠っているのは確かであった。(眠っている!)
 かすかな羨望の念が、しだいに強まってくるのを感じながら、三田はそう思った。(この男の歳はいくつ位だろう。たしか宗像むなかたという名前だったが――)
 昨夜彼は城内で、この宗像という男に、生命をたすけられたのであった。水がれた堀割のような穴があって、その中に彼は墜落ついらくし、気を失ったまま横たわっていたのだ。その三田の頰を、宗像の掌が平手打ちに呼び覚ましながら、叱るような声で叫んでいた。
「こんなところで死ぬやつがあるか。馬鹿だな。逃げるんだよ。生きられるだけは、生き延びるんだ」
 その声で彼はぼんやりと意識を取り戻した。そしてぼんやりしたまま立ち上ろうとすると、膝頭に痛みがはしって、そのまま宗像の方によろめいた。その激痛が彼の意識を急に現実に引き戻した。彼は宗像の肩をつかみながら、思わずあえぐように言った。
「膝に、怪我している!」
「膝ぐらいが何だよ。生命と引換えになるかい」
 声がすぐはねかえってきた。いきなり手探りで宗像は三田の腕を抱えこむと、乱暴に石塊いしころの斜面をのぼり始めた。三田の身体はよろめきながらそれにつづいた。苦しい世界に引きもどされるいやな抵抗感が三田にあった。そして斜面をのぼり切って、黒い建物のむこうに、遠く近く燃え上っている火の色を見たとき、三田は始めて今夜の脱出が失敗したことを、強い恐怖とはげしい苦痛と共に意識した。「ああ」と彼は口にだして低くうめいた。「あの連中は、みんな死んでしまった」
 灼熱した核のようなものが、瞬間胸のなかに荒れ狂うのを彼はかんじた。
「伏せるんだ」
 宗像が押しつけるような強い声で言った。そして彼等は暗い地面に身を伏せた。三田は伏せたまま、呼吸をはずませていた。三田の耳に唇をつけて、宗像の声がささやいた。
「走れるか。走れるだろう。あそこまで走るんだ」
 細長い建物に沿った狭い道の果てに、赤く灼けた空を背景として、城壁がくろぐろと立っていた。その風景には変に距離の感じがなかった。城壁まですぐ近くにも思えたし、数百米の速さにも感じられた。そこに到る右手の細長い建物の側面は、なにか脅やかすようなかげをつくつて、城壁の下までつづいていた。それを見たとき、先刻敵弾に追われながら逃げ廻ったときの感覚が、三田の全身に突然なまなましくよみがえってきた。それは、生きていたい、どうにかして生きていたい、という羊歯しだのような隠微な、根強く暗い欲望に充満したものであった。彼は背中をつらぬく鈍重な戦慄を感じながら、眼を見開いて伏せたまま、傷ついた膝頭をそっと伸縮させてみた。痛みは肉を裂いて発してはいるが、骨には異状がないらしく思えた。
「走れる」
 三田は低く答えながら、わずかに半身を起した。いま宗像から引き上げられた暗い穴を側面にかんじて、痛みに耐えながら彼は発動の姿勢をとった。そして彼等は走り出した。おのずから頭をひくく下げて、城壁まで一息に走った。あえぎながらやっと城壁に取りついて、しばらくして、三田は自分の全身がつめたい汗で濡れていることに気がついた。たすかった、という意識が、始めて強く胸にきた。城壁に身体をつけたまま、宗像もはあはあと荒い呼吸をつづけていたが、三田の方を見ると、暗がりのなかでも白い歯をみせて、顔をしゃくってみせた。
「おい。お月さまが出ているよ」
 夜空の赤く焼けた部分に、十二三夜の月がかかっていた。光を失った丸い銅板のように、月は小さな輪郭をみせていた。しきりに動くように感じられるのは、中空を炎上するものの煙が流れるためらしかった。その月の色は、へんに赤く汚れていやらしかった。なにかきたくなるような気持をこらえながら、三田も瞳をさだめて月を見上げていた。
 少し経って二人は城外にひそみ出て、城壁に沿ってしばらく匍匐ほふくした。ルネタ公園がそこから拡がっていた。薄赤くいろどられた深夜の公園に、間隔をおいて並んだ大きな建物の影を、宗像は指さした。
「どのみち日本軍は、明日にもあそこに追いつめられるのだろうな。袋の鼠というわけさ。明日は徹底的にやられるぞ」
 その建物のひとつのこの議事堂にやっとたどりつき、こうして狭い一区劃に身をかくした今も、宗像のその言葉は、三田の胸に惨めな実感として残っていた。宗像の口調はつっぱねた言い方であったが、あるいはこの男の自嘲の形式なのかも知れなかった。しかしその時三田は惨めに胸の中に折れ曲ってくるものが、とつぜん三田の口調への反撥に変るのを感じていた。黒く建った三つの大きな建物は、あかい夜空を背にして、死のように寂寥せきりょうとした感じをたたえていた。
(おれはまた、ここへ引き戻されてきたんだ。鎖でつながれた猿みたいに――)その思いは荒涼と彼の胸にあふれた。
 議事堂の迷路のようなこわれた通路をさぐって、二人がこの一区劃にたどりついた時、そこには二人ほどの兵士が壁ぎわに身をひそめていた。その一人が跫音あしおとをききつけて声をかけた。その声は低く、抑揚よくようを失い、感情をなくしたような、陰気な声であった。
「どこから逃げてきたんです」
「城内からだよ」
 銃を床に引きずって入りながら、宗像が答えた。
「もうあちらも駄目かなあ」
 しばらくしてつぶやくように前の声が言った。眼が暗さに慣れてくると、壁の裂け目から入る夜の光で、先住者たちの姿がうすぐろく浮び上ってきた。
「もうあちらは駄目ですよ」宗像の声もいくぶん沈んだ響きになった。「ポートサンチャゴあたりから、ハシック河を泳ぎ渡ってね、どうにか逃げてみようと思ったんだが。もう城内にも敵が相当入っているね」
 三田は裂けた壁のすぐ脇にたおれ込むようにうずくまって、背を柱にもたせた。宗像はそれに並んだ。前の声はそれきり何も言わなかった。宗像は帯革を解きながら、ひとり言のように言った。
「ここなら明朝まで大丈夫だろう。一眠り出来そうだねえ」
 宗像がかるい寝息をたてはじめても、三田はいつまでもはっきり目覚めていた。肉体はひどく疲労しているにも拘らず、神経はひりひりとたかぶっていて、眠れそうにもなかった。追われている時の感覚が、背椎孔せきついこうが急激に凝縮したり拡大したりする感じとなって、まだ身体にのこっていた。さっき城壁のしたで、応急に繃帯をほどこした膝の傷が、動脈の鼓動につれて、じんじんと痛みを発してきた。
 今夜の脱出行の経緯いきさつが、思い出すまいとしても、しだいに細部の状況や行動を鮮明にしながら、何度も何度も胸によみがえってくる。それは単に肉体的な恐怖として残っているだけでなく、するどい精神の苦痛として彼の胸を刺してくるのであった。その記憶から逃れようとして、彼はその度に口の中で、意味のないことをうめいた。重砲のおもおもしい響きに混って、城内にあたる方角から、機銃の弾ける音や小銃の音が、間歇かんけつ的にむらがりおこった。
(あの音のたびに、何人かが虫けらのように死んでゆく)
 それはおそろしい実感として、そのたびに彼におちるのであった。彼は自分の身体を壁にしきりに押しつけた。分厚な壁の重量感を、もー度肉体で確かめるように。身を守るものもないちまたを、ひとりで逃げ廻った感じには、その壁の厚さは、たのもしい実質感をもって彼の身体を押しかえしてきた。胸を刻むような時間が、すこしずつ過ぎた。そばにいる宗像のかすかに乱れた寝息をききながら、やがて夜明けが近づいてくるらしい。苦渋くじゅうに満ちた一日を予感させるような白っぽい光が、壁の破口にうっすらと動き始めた。
 柱にもたせている頸をぎょっとおこして、三田は顔を廻した。この部屋に降りてくる混凝土コンクリートの階段から音が聞えたからである。直ぐそれは混凝土をふむ重い跫音となって、一歩一歩階段を降りてくるようであった。先ずぼんやりと足の形が見え、降りてくるにつれ、長身の男の姿が影のように入口に立った。破れた壁から入る鈍い光が、その時ぼんやりと男の全身を浮き出させた。それは先刻、議事堂に這入はいってきた男の姿であった。男はカアキ色の襯衣シャツを着て、右手に小型のスーツケースのようなものを下げていた。まだ目が慣れないらしく、その男は首をゆっくり動かして、部屋の内部を見廻すようであった。
「――ここには誰がいるのか?」暫くして男はつめたく沈んだ感じの声でいった。「どこの兵隊か?」
 その声を聞いたとき、三田の背筋をひやりとするものが走りぬけた。それは彼に聞き覚えのある声であった。つめたい感じのその語調は、三田の記憶のもっとも新しい部分に、ふかく貼りついていた。
(あの声だ)三田は咄嗟とっさに背をおこしながら思った。(城内でおれに短銃をつきつけたあの男だ!)
 誰も黙っていた。その沈黙は、たとえば異物を押しこまれた貝の身のように、それに抵抗し、排除する気配をふくんでいた。男の態度や口調が、他を威圧することに慣れた職業的なつめたさを持っていたのだ。しかし三田は、押しつけられる感じに我慢できなくなって、声をかたくして答えた。
「私は中川隊の所属です」
「中川隊?」男は三田の方にするどく視線をさだめる様子であった。
「市政府ビルで全滅した中川隊か?」
「そうです」
「逃げてたすかったのか?」
「いいえ。命令受領に出ていて、そのままになったのです」
「運がいい奴だな、お前は」
 語尾の響きからして、男は唇のなかで短く含み笑いをしたらしかった。そして探るような足どりで、男の姿が横にうごいた。腰をおろす場所を求めるらしい。身体のなかに泡立ってくるものをかんじながら、三田の眼はそれを追った。
(この男も、弾丸に追われて、逃げてきたんだな。それにしても、なんという冷たい感じの男だろう)
 蛇の肌をこすりつけられたように、彼はぞっと身を慄わせた。
(おれを覚えているかしら。もちろん覚えているだろう――)
 晩方の空気を裂いて、遠く南東の方角から、戦車砲らしい炸裂音さくれつおんがいんいんと伝わってきた。
 ――二日前、市政府ビルに近接攻撃を開始し、三田の属する中川隊は全滅した。数百米はなれた別の建物から、危険をおかして地下室の出口に首を出し、三田はその状況を見たのであった。その時数十台の大型戦車が市政府ビルを包囲し、戦車砲が猛烈に打ちこまれ、火焰放射機が窓々にむかってほとばしっていた。それは眼もくらむような強さと烈しさを持っていた。戦車砲のため、混凝土の壁や柱は微塵みじんに砕け散り、放射される高熱火焰のため、鉄骨はあめのようにけおちた。建物全体が身慄いしながら、巨大な焰になって炎上した。あの内部には、彼の僚友がたくさんいる筈であった。そして彼等はついに生きて帰らなかった。中川隊員の大部分は、三田と同じく、一箇月前警備召集の令をもって、マニラ防衛を任ぜられた市民兵たちである。会社員や商人から、いきなり二等兵に仕立てられ、銃の操作すらろくに知らないまま、中川隊は戦わずして全滅した。命令受領者として隊を前夜離れていた三田二等兵と河辺二等兵とをのぞいて。市政府ビルの潰滅かいめつを遠望したとき、河辺も彼と一緒にいた。ただ見ただけで、何も話し合わなかった。口に出せば嘘になるものが、ふたりの胸にあった。ふたりとも不機嫌にだまっていた。形をなさぬものを胸に保ちあって、河辺と彼はそれ以来、建物から建物へ、ついにルネタ公園まで追いつめられてきたのだが。――
 その河辺も、昨夜の脱出行で、惨めな死に方をした。

 昨夜、三田たちは、城内から海岸に出て、いかだを組んで.バターン半島方面に逃げるつもりであった。海岸以外の三方はすでに包囲され、集団をなして突破することは、今となっては不可能であった。パシック河以北はすべて占領され、東方から南方に廻った敵のために、退路はことごとく絶たれていた。残るところマニラ湾方面だけである。バターンに逃げて、その後のあてがある訳でもなく、だいいちバターンまで海路でたどりつけるかどうかも判らなかった。しかしマニラ市にとどまることが、一寸刻みの死を意味することは明かであった。市政府ビル潰滅の一瞬の遠望が、三田たちに実感としてそれを教えたのだ。海岸から逃げようと提案したのは、ルネタ東南の海軍守備陣地から脱出してきたひとりの遭難船員である。四十を越したと思われる、体格のいい男であった。泥によごれた襯衣シャツをまとい、まくり上げた腕に、小さな桃の刺青いれずみを彫っているのが見えた。笑うとき、男の眼尻には、善良そうなしわがよった。
「こりや戦争じゃないよ。殺戮さつりくというもんだよ」海軍陣地の敗退ぶりを話したあと、船員はそうつけ加えた。「始めにはこちらにも大砲はあったさ。数える程はね。ところがこっちが一発ぶっぱなすと、むこうからのお返しが数百発よ。空にいるのは敵さんの観測機ばかりだしさ。手も足も出やしねえ。まるで鼠取りに入った鼠さ。みんなばたばた死んじまった。あたしまで鼠になるのは厭だったから、命からがら逃げてきたんだが。――あんた方も本物の兵隊じゃないだろう。本物の兵隊なら、みんなとっくの昔に、山の方に逃げてらあね。いまどきここに残ってるのは、俄仕込にわかじこみのあんたたちだけよ。中央へ、マニラを死守したと、つじつま合せるだけの、ていのいい捨石さ」
 船員の提案にしたがって、三田たちがマニラ湾に出る決心をしたのは昨日の昼間であった。いずれも、一箇月前の警備召集であつめられた市民兵ばかりである。河辺もそれに加わった。ゲリラと砲弾の危険はあるにしても、城内にはまだ組織だった敵兵は入っていないというのが、船員の予想であった。ルネタ地区に散在する日本軍は、すでに組織をなくし、横の連絡もほとんど絶えていた。身をもって自らを守るほか、道はのこっていなかったのだ。建物の地下室の一角で、その相談をしていたときも、外ではあらゆる種類の砲弾が飛び交い、落下していた。建物のどこかに落下すると、地下室まで不気味な振動をつたえてきた。一刻遅れれば、それだけ危険が増大していた。しかしあせる気持はあっても、白日下の行動は、ねらいうちのまととなり、犬死に終るだけである。日が暮れるまではそこを動くわけには行かなかったのだ。その地下室といえとも、いつ直撃弾のために全滅させられるか判らなかったのだけれども。
 日が落ちて、あたりがすっかり暗くなってから、彼等はこつそりとその建物を這い出たのだ。夜空を無数の焼夷弾と迫撃砲弾が交錯し、その間を米観測機とP38の機影が、おびやかすような爆音をたてて近づき、遠ざかり、またひらめくように近づいてきた。地下室で聞く爆音とちがって、生命の潰滅かいめつに直接つながった響きであった。一行は五人である。凹地から凹地へ、身を伏せ、戦車壕をつたい、城壁の方にはしった。城壁の下で一応集結したとき、三田は汗を押えながら、今走ってきた方向をふりかえった。今脱け出てきた建物も含めて、点在するいくつかの建物は、夜の光のなかで、死にひんした巨大な獣のような孤独感をたたえていた。砲弾が命中すると、そこだけ真赤に灼けてくずれ落ちた。またその内にひそむ数十数百の隠微な生命をおもったとき、三田は突然惨めな怒りが胸を衝きあげてくるのを感じた。しばらくは五人とも黙っていた。同じ危険を冒そうという連帯感が、痛いほど三田の胸に沁みた。その感じは、惨めな怒りと背中合せにぴったり貼りついていた。三田はしきりに汗をふいた。ふいてもふいても、つめたい脂汗が額に滲んでくるのであった。少し経って船員が低い声で口を切った。低声だったけれども、その声はよくとおった。
「城内に入ったら、目標目標をきめて、分散して走るんだ。海岸まで出たら、材木をあつめること。いかだの組み方は、あたしが教える」
 船員はそこで一寸言葉を切った。
「――もしあたしが、途中で死んだら、やはりそれでも海岸に出たがいい。万死に一生ということもあるから、筏などは、どうにでも組める」
 そして船員は残りの四人の顔を、ひとりひとり見渡した。地下室にいるときは、快活で元気そうな男であったが、今は頰にあおぐろいかげをやどし、ふと別人のような表情であった。かすれた声で、出かけよう、と言うと、船員は断ち切るように頭を前に向け、城壁に沿ってあるき出した。四人がそれにつづいた。やがて城内への入口のところまできた。城内にしのび入ったとき、三田はふたたびルネタへは戻らぬつもりであった。それは五人とも同じ気持に違いなかった。船員の自分のことをあたしヽヽヽと言う口癖が、なにか印象ぶかく三田の耳にのこっていた。城壁の内側から、第一目標を、三百米ほど前方に立つスペイン寺院の鐘楼にきめて、先ず船員の広い肩の後姿が、放たれたねずみのように、背をかがめて走って行った。次々走り、四番目に河辺が、五番目に三田が走った。河辺は城壁をはなれる時、ちらと三田をふりかえり、あとはまっしぐらに先行者の後をつづいた。ふり返った河辺の眼は、打ちのめされた犬のような眼付であった。
(おれだって、あんな眼つきをしているに違いない)
 二十米走っては伏せ、三十米走っては壁に身を寄せ、呼吸をはずませながら走ってゆくときにも、三田の頭をそんな思いがきれぎれに横切った。走っては伏せ、伏せては走った。呼吸がしだいに切れてきた。
 見知らぬ日本人から短銃をつきつけられたのは、鐘楼の下まで走る途中の路地であった。道路の脇で、遮蔽物しゃへいぶつとして身体を伏せた黒い小山は、土ではなくて石炭殻であったらしく、胸や腹のしたでじゃりじゃり鳴り、いがらっぽい臭いが鼻を刺戟した。伏せたまま、緊張のため彼はしばらくあえいでいた。先行する河辺の姿はもう見えず、彼は呼吸がおさまらないまま、手をついて身体を起そうとした時であった。傍に立った空屋と思った車庫風の建物から、とつぜん抑揚のない押えつけたような日本語が彼にむかって放たれた。何と言ったのかは判らなかった。低い声であったけれども彼は、全身の筋肉がいっぺんに凝縮するのを覚え、本能的にそちらにぎょっと身構える姿勢になった。車庫の入口に黒く立った背の高い人影を、瞬間にして眼に収めたとき、その男は低声でふたたび言葉をついだ。
「おれは、特務機関の銅座というものだ」
 手を胸にあげているのは、短銃だと気がつくと、三田は思わず小銃をにぎりしめた掌から、力が抜けてゆくのを感じた。男はすこし姿勢を低くして、ゆるゆると彼の方に近づいてきた。
「――どこへ行くつもりか」
「――海岸へゆきます」
 その姿勢のままで三田は答えた。城内で日本兵にあうのは予想していたが、こういう形としての予想ではなかった。連帯感を断ちきったような、うそを言わせない威圧感を、その男の言葉の調子はふくんでいたのだ。短銃の先端が襯衣シャツごしに脇腹にふれるのと同時に、男の乾いた声が三田の耳におちてきた。
「船はあるのか」
「筏を組むのです」
「筏?」男はあざけるような鼻音をたてた。「お前たちだけか。だれか筏の経験者がいるのか」
 男は短銃を押しあてたまま、三田の服装や、装備や銃をにぎった手付などを、石炭殻の暗みでも、素早く見てとったらしかった。
「お前は、現地召集の初年兵だな」
「船員がいるのです。筏を組むのは、それが指示する手筈です」
「さっき走って行ったのがそれか」
 三田が黙っていると、男はさらに身を近づけて、前方の路地をすかし見るようにした。すでに路地に人影は絶えて、うす赤く灼けた夜を背にして、スペイン寺院の鐘楼がくつきりとその形を見せていた。もう五六十米ほどの距離しかなかった。もうあそこに集結してしまったかも知れないと思うと、にかわが全身に貼りついたような不快な圧迫が、急に険しい反撥に変ってくるのを彼は感じた。ルネタ地区のあの状況では、いまさら戦線離脱とか逃亡という言葉はあり得ないではないか、しかし押しつけられた短銃の銃身の稜角が、突然三田の脇腹から離れると、男は彼の気持をすぐ感じとつたらしく、つめたく乾いた声で言った。
「急ぐことはないだろう。夜は長いんだ」
 ひやりとするような無表情さが、その口調にながれ、男はかぶせるように言葉をついだ。
「――おれをそこに連れてゆけ。どの路を通って海に行くのか?」
「あ、あの鐘楼のところで、また道をきめるのです」
 一語一語に抵抗を感じながら、彼はどもった。米機の爆音が、東の方から増大してきたと思うと、城内の上空であざやかに方向転換する一機が、建物と建物の間の夜空にくっきりとうつった。五百米ほどの高度であった。機上から見える訳はないと思っても、自然に伏せる姿勢になった。
ポートサンチャゴの監獄の方面で、その時照明弾が打ちあげられるらしく、白っぽい光がこの路地にもいっぱい落ちてきた。
「すこしここで待っていろ。おれはちょっと後始末するものがある」
 銅座というその男は、白い光のなかを立ったまま、すこしずつ車庫の方へ後ずさりした。顔は彼にむけたままであった。半開きになった鉄扉に立ち止ると、手にした短銃の銃口を威嚇いかくするようにかすかに上下させた。男はカアキ色の襯衣を着て、袖を腕までまくり上げていた。短銃を持つ腕は光の具合か、蠟燭のようにすべすべして見えた。そして滑るように男の姿は鉄扉のかげに消えた。
(後始末とは何だろう?)
 身体を起すとたんに、石炭殻の一部がざらざらとくずれ落ちた。逃げるなら今だ、という想念が矢のように三田の胸を横切った。この得体の知れない男を連れてゆけば先に待った四人は何と思うだろう。小銃の台尻がこぼれた石炭殻にふれて、じゃりじゃりと鳴った。その時車庫の中で、なにか消音されたらしい短銃の音が、突然にぶく重々しく鳴りひびいた。思わず立ちすくむと、同じ響きがすぐそれにかさなった。頭のなかで何かが弾けるような衝動と共に、三田はほとんど無意識のうちに、背を曲げてまっすぐ走り出していた。夜風が彼の耳にぶっつかって後ろにながれた。
(おれを射ったんじゃない)それははっきり意識にあった。(あいつはあの短銃で、なにかを始末したんだ!)
 しかしその路地を五十米も馳けないときに、前方のすぐ近くで、突然激しい機銃の音が起った。日本軍のではなく、米軍のそれの金属音であった。その瞬間三田は、機銃弾が火のとなって、視野をななめにはしるのを見た。火の箭のあつまるところは、すぐそこの黒い鐘楼の下であった。彼が飛び込もうと思っていた暗がりの場所であった。彼ははっとして、反射的に、額を道路に打ちつけるようにして、身を伏せた。はげしくあえぎながら、彼はも一度頭をもたげて見た。五六発ずつの連射が、次々くりかえされ、火の箭はすべて同じ箇所にきりのように集中していた。機銃弾はあきらかに、スペイン寺に隣接した倉庫みたいな建物の二階から放たれていた。
(集結していたところを見つかったな!)
 機銃をもった敵が、すでに城内に入っているという、それは強い驚きであった。痛烈な戦慄が三田のなかをかけぬけた。一瞬の驚愕きょうがくのなかでじっとしていなければ危いという考えと、早く逃れなければ殺されるという考えが、短い時間に渦を巻いてぎゅつと彼をしめつけた。
(おれが行かなかったから、急いで行かなかったから―)
[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。他は通常のそれであるから、ここも「――」の誤りであろう。或いは、直後の心内語からは「!」の誤字か誤植が疑われる感じもないではない。]
手足ががたがた慄え出すのを意識しながら彼はあえいだ。
(だからあいつらは見つけられたんだ。この俺を待っていたばかりに!)
 その時鐘楼の下の晴がりから、はね仕掛でとび出したように、こちらに逃げてくるひとつの人影が見えた。それはもう跫音あしおとを忍ばせたり姿勢を低くしたりするような計画的な走り方ではなかった。盲目的ながむしゃらな走り方であつた。人影はただひとつであった、他の三人は射殺されたのか、ほかの道へ逃げたのか、走ってくるのはただひとりであった。誰であるかは判らなかった。自分が走っているような息苦しい切迫感と同時に、あの苦痛をともなう危惧きぐが、一瞬三田の心を横切った。それはその人影を追う射手の眼が、道路に伏せた三田の姿をもとらえるかも知れぬという怖れであった。彼は思わず背を起していた。走る人影はまぢかに迫っていたのだ。倉庫の二階で機銃の射角を変えたらしく、その時正確な機銃音とともに、火のが方向を転じて、追われる男の背に集中した。三田の眼の前で、男の黒い姿は兎のようにはね上った。はね上ったその身体は、はずみをつけて、にぶく重い音をたてて、三田の脚もとに打ちかさなるようにぶっ倒れてきた。眼の先がくらむような瞬間に、三田は脚もとのその男を見た。真青にゆがんだ河辺の顔と、赤くはねた血の色をそこに見た。河辺の双腕は三田の右足を抱いていた。其赤な機銃弾が、空気を裂いて、三田の耳をかすめた。河辺の胸が、足をぎゅつと締めつけてきた。突然兇暴な怒りが三田の全身に燃え上り、必死の力をこめて彼は右足を振り、河辺の顔を蹴り上げた。河辺の腕がゆるんだ。反射的に勢をこめて河辺の身体を振りはなすと、背中が焼けつくような切迫した恐怖を感じつづけながら、彼は無茶苦茶にはしりだした。弾丸が彼を追っているのが、背中いっぱいに感じられたり いろんな色彩が入り乱れ飛び散る世界を、彼は無茶苦茶に助けぬけた。弾丸が偶然に発射されているのではなく、彼ひとりを目ざして発射されていることが、彼の恐怖を直接なものにした。ルネタ公園へ戻ろうという意識も、海岸に出ようというあてもなかった。ただ彼の肉体を貫通し彼の生命をうばおうとするあの火の奔流から、一刻も早くのがれたいと念ずるだけで、彼は暗い路地から路地へ鼠のように馳けた。
(もう建物建物に敵兵が入っている!)
 奔ってゆく彼の姿を、じつと見詰めている巨大な眼を、彼は四周にひしひしと感じながら、懸命に馳けた。意識の端をきれぎれに、先刻短銃をつきつけた特務機関や、おそらく鐘楼のしたで折り重なって死んでいる無惨な船員たちの姿がかすめた。そしてまた顔を夢中で蹴り上げた瞬間の、まっさおな河辺の顔の、ぎらぎらと燃えるような双の瞳の残像が、灼熱した核のようなものになって、彼の胸のなかを荒れ狂った。
(生きていたいんだ! おれは生きていたいんだ!)
 身体の奥の奥底で、別の声が根強い不協和音をたてて、暗く鳴りとどろいた。熱いものと暗いものははためき合い、せめぎ合いながら、彼を烈しくり立てた。彼はようやく自分の脚が、疾走するに耐えられなくなって、しびれてくるのを感じた。彼は走っている路地のむこうに、黒くえぐれたようなかげがあるのを見た。汗とも涙ともつかぬものに薄れた視野を、その翳はちらちらといどむようにかすめて動いた。それに吸いこまれるように、彼はほとんどよろめきながら、そのまま、そのままその黒い翳のなかに倒れこんで行った。――そして果てしなく落下してゆく不安定な虚脱感と、あとは全然彼の記憶から断ち切れているのだが。……

(あの時城内で、おれは死んでいた方が、よかったかも知れない)
(あの穴に飛びこんだのも、弾丸から身を隠すというよりは、死ぬつもりではなかったのか?)
 残存する日本軍が、ルネタ公園の中の三つの建物に、追いつめられ、完全に包囲され終ったのは、その日の正午であった。包囲線もしだいに縮小されてくるらしく、砲弾のみでなく、機銃殖や小銃弾が、議事堂にも降りそそいできた。身近に包囲されていることは明かであった。目に見えぬ敵の銃座は、三つの建物の出入口と、建物と建物をむすぶ通路に、びったりと銃口の照準をつけていた。建物から一歩でも踏み出すと、おびただしい機銃小銃弾が、そこをめがけて一せいに殺到した。建物間の連絡は、完全に杜絶とだえた。
 議事堂の一階から地階にかけて、二百名ほどの日本兵が分散して生きていた。三田がそれを知ったのは、水を求めて地階へ降りた時であった。砲撃から比較的安全と思われる区劃区劃に、三人五人と青ざめて生きていた。安全といっても、直撃の砲弾にはひとたまりもない筈であった。それにもかかわらず、わずかな陰にもぐりこむ地虫のように、地階の人々は背日的にうごいていた。光にそむくことで、自らの生命をたしかめようとするかのように。
 地下室の一箇所に床が裂け、にごつた水がわずか溜っていた。三田はそれを水筒に満たした。一口ふくむと、その水は焼夷弾の黄燐が臭い、咽喉を刺戟してにがかった。危険を冒して水を汲みにきたのも、夜明け前に入ってきた銅座という男の命令であった。銅座は三田の顔をじっと見ながら、抑揚のないつめたい声で言ったのだ。
「おい。そこらで水を探してこい」
 部屋の隅の大きな柱に、銅座は背をもたせて膝を抱いていた。この部屋に入ってきた時から、同じ姿勢のままであった。膝を抱いた長い指が、ときどき周期的に痙攣けいれんした。瞼を半眼に閉じ、灰白色の捷毛まつげの下を、黒く光る小さな瞳が、左右にゆっくり動いたり、またひとところに止ったりしていた。それはなにかおりの中の動物の眼を思わせた。何かを見るという自覚的な動きではなく、ほとんど無目的な、意味のない眼の動きに見えた。その姿勢のまま銅座は、自分だけの世界に閉じこもっているようだった。そげた頰は影をつくり、顔色は灰白に沈んではいるが、歳はまだ四十にならないように思えた。身体のそばには、茶事のスーツケースが置かれていた。その上には一挺いっちょうの大型短銃が乗せられていて、鈍く光を反射していた。裂けた壁の上部からしのび入る真昼の光に、それらはすべて白っぽく浮き上っていた。
(あの車庫のなかで、銅座の短銃はなにを始末したのだろう?)
 しかし銅座がなにを射とうと、三田の今とかかわりがある訳ではなかった。ただ銅座があそこで彼を引止めたばかりに、三田の生命はたすかったとも言える。またあるいは脱出行の失敗も、船員たちがスペイン寺で射殺されたのも、このつまずきのせいかも知れなかった。そう思うと三田は自分の頰に、硬ばった惨めな笑いが浮んでくるのを感じた。そして水を探しに出るために立ち上った。
 水があるところまで達するには、灰にうずもれたはりを這い、外気に露出した危険な箇所を通らねばならなかった。そこらは大きな姿勢では、外部からねらいうちされるおそれがあった。しかしそこを通るとき、三田は自分の生存をおびやかしてくるものの所在を、一眼たしかめたい欲望を押え切れなかった。そして三田の眼に映じた一瞬の外界の風景は、あかるい日の光がさんさんと降っていた。青い並木と芝生と、遠く近く炎上する焰と煙と、ただそれだけである。あらゆる種類の砲弾と燃ゆるものの音が、その世界に交響していた。
(城内が燃えている)
 痛みに似たものが、三田の全身をかけ廻った。罠だと知づていてそれに引っかかる莫迦ばかな獣のように、この建物へわざわざ戻ってきた自分の惨めさが、切実な悔恨となって彼をしめつけた。水の在処ありかを探しあて水筒にそれを満たすときも、三田にかぶさってくるのはその思いであった。しかしここに戻ってこなければ、どうして今まで生きて居れるだろう。そう思うと、彼はふと、城内の穴で気を失っていた空白の時間が、なにか甘美な感じとしていざなってくるのを感じた。彼は反撥するように首を振り、水のそばを離れた。
 今朝がたからパシック河北から、集中的に打ちこんだ重砲弾やロケット砲弾のため、城内は大火災をおこしていた。黒煙の間から、巨大な焰の尖端が、時折真紅な舌のようにひらめいた。建物が次々燃えさかり、くずれ砕ける音が、城壁から三百米へだてたこの議事堂の地階にも聞えてきた。それは颶風ぐふう
[やぶちゃん注:強く激しい風。]のようにすさまじい響きであった。火の粉をふくんだ黒煙は、折柄の西南風にあおられて、大きくなびき、はるかモンタルバンの山の方向に流れていた。かつてマニラを守った十万の日本正規兵が、米軍上陸とともに、マニラを見捨てて逃げこもっているモンタルバンの山の方向へ。――そして中央への申し訳のため、「マニラの捨て子」として残された装備貧弱な五千の守備軍は、各処において分散殲滅せんめつされ、今は僅か市民兵と雑軍の数百名に減少し、この三つの建物に追いつめられた。議事堂、ファイナンスビル、アグリカルチラルビル。他の地区での戦闘はすでに終り、マニラ湾頭にたつマニラホテルも占領された。三つの建物は、四方から完全に包囲されたのだ。
 ――正午をすこし廻った頃から、米軍の火器はことごとくこの地区に集中されるらしかった。命中するたびに議事堂の建物は、地鳴りのように振動した。無気味な音をたてて重砲弾が飛んできて、建物の一部に命中すると、命中した部分の天井は紙のように他愛なく折れ、柱とともに雪崩なだれのようにくずれ落ちた。落下してくる混凝土コンクリートのかたまりは、残ったはりや柱にぶっつかって砕け、そのまま地階まで落ちて行った。地階の床に堆積たいせきした灰は、そのたびにもうもうと舞い上った。灰神楽はいかぐらのなかで負傷者の呻きが、しだいに増して行った。――それでもまだ議事堂の骨組みはゆるがなかった。打撃に耐える拳闘士のように、消耗しながらも屹立きつりつしていた。建物自身のもつその強靭きょうじんな意志を、弾丸は非常な正確さで打ち破ろうとしているように見えた。
 壁の凹みに身を寄せて、三田は地図の上を這う宗像の指を見ていた。宗像の額も、うっすらと脂汗が滲んでいた。しかし顔の色は血の気をふくんで、むしろ生気があるように見えた。地図はところどころすり切れたマニラ付近図であった。
「この、大東亜道路に出て、スペイン墓地からパコ――敵はいっぱい居るだろうな。しかし、夜だから――」
 宗像の指は、すこし慄えながら、地図の鉄道線路に沿って南下し、ラグナ湖のところで止った。
「夜が明ける頃には、うまくゆけば、ここまで行けるだろう。あとはモンタルバンまで一筋道だ」
 宗像は顔をあげて、わずか白い歯を見せて笑った。あの夜城壁の下で、月が出ていると指さしたときの、あの笑い方と同じであった。その笑い顔は、なにか三田の胸にじんじんとこたえてきた。しかし宗像は笑いのかげをすぐ収めて、独白じみた口調になって言った。
「――でも、一人でなくては駄目だな。二人となると、必ず見つかる。ひとりで一か八かやってみるだけだ」
「夜まで生きているつもりかね」
 宗像はびっくりしたような表情になって彼を見た。
「それは判らないさ」
 この部屋のすぐ上のあたりに、機銃が打ちこまれるらしく、堅いものが弾ける音がはしった。首を縮める姿勢になって、宗像はつぶやいた。
「――やけに打ってきやがる」
 三田も首を縮めて、無意識に掌で顔をおおって、眼を閉じていた。戦争ではなくて殺戮さつりくだと言ったあの船員の言葉が、ふと三田の胸によみがえった。船員の特徴のある口癖が、耳に聞えるようであった。あの男も死んでしまったし、そして河辺も死んでしまったのだ。(あの連中にしても、戦争の偶然に死んでしまったのだ。この俺とは何の関係もないのだ)瞼のうらに真黒にひろがってくるものを感じながら、自分に言いきかせるように三田はつぶやいた。(そしてこの俺も今偶然にこの部星に落下してくる砲弾を、手をつかねて待っているだけだ)
 三田の肩が、宗像の肩にふれていた。襯衣シャツが破れていて宗像の肩は裸であった。裸の肩はあたたかくほてっていた。生きているものの柔軟なうごきを、その肩は電流のように伝えてきた。その肩の感触は、宗像の全身を彼に感じさせた。すくなくとも彼よりは五つ六つ若い宗像の肉体を。そしてその若い肉体が支えている疲労を知らぬ精神を。切迫した生理から発したような直覚が、その時三田の胸におちた。
(宗像はたすかるだろう)
 それは根拠のある予感ではなかった。しかしその想念は、すぐ裏返しになって、確実な真黒な形となつて彼をおそってきた。
(そしてその時、この俺は死ぬだろう!)
 ふしぎな、あやしい嫉妬しっとめいた感情が、とつぜん胸いっぱいにあふれてくるのを感じながら、彼は自分の肩を引いた。そして眼をひらいた。建物の中央部あたりに重砲弾が落下したらしく、その時地鳴りがして柱や壁が振動し、ゆるんだ天井から混凝土の粉末が幕のように降ってきた。そしてそれらがざらざらと床に散乱すると、部屋はもとの形にかえってきた。
 向うのすみには銅座が膝を抱いたまま、先刻とおなじ姿勢で腰をおろしていた。薄眼をひらいて、瞳をぼんやり動かしていた。残忍な感じのするその小さな瞳は、時々なにげない風に三田の方に向けられた。三田が汲んできた水筒は、スーツケースの横に立てかけられ、混凝土の粉末で白っぽくよごれていた。三田が手渡してから、銅座はそれを一口ふくんだきりであった。黄燐のにおいに耐えられなかったらしく、すぐそれを吐き出した。せんもしないまま、水筒を横に立てかけ、銅座は元の姿勢にもどって動かなかった。それは材木のように無感動な姿勢にも見えたし、むらがりおこる恐怖に耐えようとしている姿勢にも見えた。建物のどこかに砲弾がうちこまれるたびに、反射的な痙攣が銅座の全身を走るようであったが、それでもその姿勢はうごかなかった。今朝ここにいた先住者のふたりの海兵は、危険と不安を感じ始めたのか、正午頃この部屋を出て行ったまま帰らなかった。残ったこの三人を包んだこの部屋は、絶えざる振動にすこしずつむしばまれながら、ときどき浪のように揺れた。砲撃はしだいに激しくなってきた。いろんな種類の砲弾の交響に加えて、午後四時頃には海岸方面に敵戦車が廻ったらしく、西方から、特異な炸裂音をもった戦車砲弾が、容赦ようしゃなく打ちこまれ始めた。それは一箇所をねらって、くさびを打ちこむように、何発も連続して命中した。ねらった箇所が完全に破壊されると、また次の箇所へ照準を集中した。それは上から落下する砲弾にくらべて、さらにおそろしい脅威であった。一米ほどの厚みをもった外壁も、キルクのように穴を穿うあがたれ、そこから火は奔流となって流れ入った。三田の部屋も、いずれはねらわれる危険があった。戦車砲をさけるためには、その部屋を出て、東側に移動するはかはなかった。しかし移動しても、何刻の生命を延ばすだけなのか。壁に身を伏せたまま、三田は動かないでいた。ここで死ぬんだな。押しつけられるようなその想念は、やがて厳しい現実感となって、つめたくじわじわと四肢にも拡がっていた。一刻でも生きたいという欲望と、早く砲弾が落下すれはいいという気特が、するどく交錯して彼を惑乱させた。そしてその間から、自分をここまで追いこんだものに対して、惨めな怒りは燐のように彼の胸に暗く燃えた。
(ここで死んでしまう!)ざらざらする壁に頭髪をすりつけて、彼は思った。(砲弾を打ちこまれて、自分の身体か他人の身体か判らないような状態になって、死骸かなにか判らないような恰好かっこうになって、ここで死んでしまう!)
 三十年間生きてきて、生きてきた道のしめくくりもなく、つぐないもせず、追いつめられた鼠として、ここに生命を終る。その思いは彼に耐え難かった。
 身を刻むような時間が、しだいに夕方に近づいてきた。

 日暮れすこし前に、三つの建物に集中していた米軍の全砲火が、断ち切るようにぴたりと止んだ。突然時間の流れが停止したような静寂が、ルネタ全地区にひろがった。
 ひとたび天地にもどってきたその静寂は、かぎりない拡がりと、おそろしいほどの深さを持っていた。静かさの底から、炸裂さくれつの音でいままで消えていた負傷兵の呻き声が、地階のあちこちに、やがてかすかに立ちのばり始めた。
 市政府の方角から、拡声機による日本語の放送が、高く低く流れてきた。すこしなまりのある日本語は、非情なほど美しい調子を帯びて、三つの建物のすみずみまで沁み入ってきた。三十分間砲撃を中止する。投降してこい。粗略には取扱わぬ。放送はその意味を、繰り返し繰り返しつたえていた。三人がひそむこの区劃にも、その声は、空の深みから戻ってくる山彦のように、かすかに静かにしたたってきた。
 三田は掌をついて体をおこした。立ち上ってみて始めて、この上ない重い疲労が、全身をみたしていることに彼は気付いた。凝縮されていたものが急に緊縛を解かれて、途方もなくふくれ上ってゆくような、不安な開放感がそこにあった。頭や肩についた混凝土コンクリートの粉末をはらいながら、彼はぼんやりと周囲を見廻した。気がつくと、部屋の北側をくぎった薄い隔壁は、先程の至近弾の振動で、ほとんど崩れ落ちていた。その向うから、見る影もなく形を変えた地階の形相ぎょうそうがひろがっていた。巨大な柱や梁の数は、今朝にくらべると三分の一となり、残ったそれらも、途中で折れたり、削られてみにくく鉄骨を露出したりしていた。床には、ところどころの隔壁と小天井が残り、あとは一面の灰と破壊されたものの堆積たいせきであった。生き残ったものの影が、そこらに幾つか立ち上り、動いていた。隔壁や柱の間から、灰のなかからよみがえってくるように、それらの影があたらしく浮び出てきた。ほとんど破壊され尽した大天蓋から、射し入ってくる夕暮れの薄い光に、灰の余燼よじんはたちのぼり、黒い人影は、負傷者をたすけるために動いたり、また何となく動いたりしていた。
 三田のすぐ側で、宗像は背をおこして、襯衣シャツをむしり取るように脱いだ。裸の肩や腕は汗に濡れ、混凝土コンクリート粉が白いまだらをつくつていた。襯衣の端を引裂くと、顔をあげて、それを三田の方につきだしながら、低い声で言った。
「膝を巻いておきなよ」
 膝の傷に巻いた繃帯ほうたいれて、傷口が露出し、赤く肉を弾いていた。三田はそれに始めて気がついた。前の繃帯は、よごれた布の輪になって一間ほど離れた床に落ちていた。うずきが急に膝頭に沁みてくるのを感じながら、彼は腰をおろした。宗像から受取ったその布は、すこし湿りを帯びて三田の指にまつわった。その布を傷口に巻きつける三田の指の動きを、宗像の眼がじっと見詰めていた。変にきらきらした、そのくせ遠いところを眺めているような眼付であった。宗像の頰から顎にかけて密生したひげが、今朝から見ると、見違えるほど長く伸びていた。絶えざる生命の危険にさらされていた時間に、鬚だけがおどろくほど急速に伸びたらしかった。布を巻き終えた指で、三田は自分の頰にさわって見た。三田の頰も指にふれてじゃりじゃりと鳴った。生きていることへの微かな嫌悪が、その瞬間三田の胸をみたした。そして三田は何となく、ぞっと身慄いをした。
 宗像はふと我にかえったように、立ち上って洋袴ズボンをばたばたとはたいた。立ったひょうしに、マニラ近郊地図が床へはらはらとすべり落ちた。その粗末なけばだった地図は、折目のところで半分ほど裂けていた。裂けたまま、床に上向きに開いていた。
「静かになったなあ」
 宗像は洋袴ズボンをはたきながら、乾いたような声でつぶやいた。三田は黙っていた。そして部屋のすみにいる銅座の方を眺めていた。すこし途切れていた拡声機の声が、再びしずかに流れてきた。砲撃が突然止んだとき、すべての物音が全く絶えた感じであったが、今耳を澄ますと、静寂の底から、拡声機の声を縫って、遠くで建物が燃えさかる音や、航空機の爆音が、羽虫の音のようにおこっていた。駆りたてられるような焦躁しょうそうかん感と、押えつけられるような圧迫感が、同時に三田をしめつけていた。
 三田のぼんやりした視線のなかで、銅座はゆっくりスーツケースを開いていた。薄い光のなかで、スーツケースのなかに色んなものがごちゃごちゃに見えた。銅座の長い指はその中から黒いものを取出した。それは剃刀かみそりであった。そして小さな鏡を取出すと、それをスーツケースの上に立てかけた。(鬚を剃る)奇妙な驚きとして、それはかすかに三田を打った。彼はなにか見逃すことができないような感じになって、銅座の挙動にしばらく眼をとめた。銅座の動作は緩慢で、周囲の存在には全然関心を持っていないように見えた。極度の蔑視べっしに見える無表情さがそこにあった。表情をうしなった銅座の顔は、なにか無気味な色をたたえ、垂れた瞼がかすかに動いていた。水筒を傾けて、掌に少量の水を垂らすと、ゆっくりと頰にぬりつけた。指からこぼれて、水が光ってしたたった。
(――誰も投降しないだろう)
 茫漠とした予感が、しだいに確かな形として、三田の心を領していた。死化粧を目睹もくとしたせいのみではなかった
[やぶちゃん注:「目睹」実際に見ること。目撃。]
 あの拡声機の声が、その意味を伝えたとき、非現実な響きとして耳に沁みた感じも、始めからそこにつながっていた。灰のむこうにうごめく人影も、ただ灰の中で動いているだけで、呼びかけの意味を拒否した、閉された世界のいとなみに見えた。投降しても殺されるだけだろう。そのような疑問や危惧だけではなかった。組織をなくしてばらばらになったこの状態でも、建物内のすペての人をつなぎとめ、お互いが相手をしばり、同時に相手からしばられている、ふしぎな力の作用を彼は感じた。それは虚栄とか気兼ねという感じを超えた、もっと深みのどろどろの厭らしい場所で、自分の体を引っ剝がすことができないようなねばねばした盤が、彼自身をつなぎとめ、すべての人をつなぎとめていることを、彼ははっきりと感覚した。しかし三田は同時に、しきりに背をりたててくる別のなにかを突然感じながら、落着きなく視線をうごかした。
(あと二十分もすれば、あの砲撃がまた始まる!)
 向うに遠く近く動く人々の間に、やがて話し声や何か伝達する叫びが立ち始めた。三田のところから二十米ほど離れた小区劃では、飯を焚く用意をするらしく、小さな焰が見えた。水筒を下げながら歩く裸の兵士が、崩れた柱の根元で叫ぶのが聞えた。
「みんな飯を食っとけやあ、今のうち」
 物悲しいその調子のなかに、へんに陽気な響きがあった。あちらこちらに見える人々の数は、三田が水汲みに行った時の感じからすれば、もう三分の一以下に減っていた。拡声機の透明な声が、それらのうごめく影を縫って、状況に無関係な音楽のように流れていた。
「死んだっていいんだ、おれは、ここで」
 三田は地階の風物から視線をらしながら、言いきかせるように、そうつぶやこうとした。しかしその呟きは、歪んだ唇の端で消えた。呟きの気配を感じたように、宗像の顔が彼を見おろした。宗像の顔は光を背にして、くらく無表情に見えた。
「おれは、行くよ」
 かすれたようなその声を、三田は全身で受けとめた。その声は三田だけでなく、銅座の耳まで届いたに違いなかった。
 髪を剃っている銅座の剃刀の音が、ちょっと止んだ。止んだように思えただけで、直ぐじゃりじゃりと鳴る剃刀の音が戻ってきた。銅座は残った壁に身をよせて、左手を使って、器用に顎のところを剃っていた。立てかけた小さな鏡の背面は、朱が塗ってあって、それが強く三田の目に沁みてきた。
 宗像は肩にかけていた破れた襯衣シャツを、はらいのけるように床に落した。襯衣は床の地図の上に落ちて、ぐちゃりと音を立てた。そして宗像は腰に巻いた帯革に手をかけた。帯革もにぶい音を立ててすべり落ちた。かぶっていた鉄帽を脱ぐと、宗像はそれを壁から突き出た鉄骨に静かにかけ、三田の方を向いて、唇の間からちらと白い歯を見せた。
「もうこれも要らないだろう」
 笑いにならないような笑いが、宗像の頰をかすめたようであった。鉄骨に下げられた鉄帽は、宗像の手の動きを残して、かすかに揺れていた。三田は壁に支えた掌が、突然脂と汗でぬれてくるのを感じながら、立ち上ろうとした。頭の内壁で火花のようなものが弾け散った。
 破壊された混凝土の階段のところで、宗像は一度ふりかえった。洋袴ズボンだけの、上半身は裸である。ふりかえった宗像の顔は、突風に逆らってあるく時の表情に似て、ゆがんで緊張していた。それはただ、ふり返っただけである。何も言わなかった。頭を元にもどすと、宗像の裸の後姿は、壁に手を支え、あぶなく階段を踏んでかけ上った。階段の上部からおちてくる光が、翳をつくつて揺れみだれた。前にのめるような気特になって、三田が二三歩踏み出したとき、すぐ横でつめたい銅座の声がした。
「銃を執るんだ」
 銅座は三田の直ぐ斜め後ろに立っていた。銅座の手にある短銃の銃口をみたとき、三田の手はほとんど自らの意志をなくして、壁にもたせた自分の小銃の方に伸びていた。銅座の黒い銃口は、まっすぐ三田の背中に向けられていた。銅座がいつの間に立ち上っていたのか、彼は気付かなかった。三田の掌は小銃を握った。城内で短銃をつきつけられた時より、もっと烈しくするどいものが、螺旋らせんのように背筋に迫ってきた。
(宗像がふり返ったのも、これだったのだな!)
 地階のずっと向うの区劃らしく、誰かさらし粉を持っていないかあ、と呼んでいる声が遠く聞えた。それに続いて、持っているぞと答えるらしい声が、かすかに反響してくる。三田は自分の背に、かたい銃口の稜角りょうかくがふれてくるのを、その時襯衣ごしに感じた。凍るような悪意が、背の皮膚にひりひりと伝わってきた。
(おれに射たせるつもりだな)
 宗像につづいて立ち上った三田の気持の乱れを、銅座はあの垂れた瞼の下から素早く見てとったらしかった。よし。声にならない言葉が、三田の咽喉のどにからまった。三田は銃を引摺るようにして、重い足を踏み出した。銅座の跫音あしおとが密着してついてくるのを、つめたく背後に感じながら、三田は階段のところまで来た。階段の上の方は、ぽっかりと明るかった。昼ごろまでは保っていた壁や枠が、ほとんど骨ばかりになっていて、夕方の光がそこを透して射し入っているのであった。駆り立てられるように、三田は階段を踏みのぼった。軍靴の裏で混凝土コンクリートのかたまりがごろごろと動いた。光が降るように額にあたった。三田の眼はその時、屋外の風景をはっきりととらえていた。
 議事堂の前にひろがる広濶なルネタ公園の芝生は、まだらに焼け焦げていた。横手に見えるファイナンスビルは、もう半分は崩れ落ちて、残った部分が夕方の空に荒涼とそびえていた。そこから始まる並木のほとんどは、梢を払われて散乱し、あるいは根こそぎ燃え上って、黒いくいの列になっていた。風がひとしきり吹きわたるらしく、地上に散らばったものが一せいにうごいた。マニラ市街の遠く近くから立ちのぼるすさまじい黒煙が空をおおい、黒煙のすきまからのぞく空の色は、眼に沁みるほど青かった。それらの風景は、おそろしいほど陰欝で、またおそろしいほど新鮮であった。そして焼け残った芝生の緑の上を、向うむきに歩いてゆく宗像の後姿が、三田の眼に食い入るように止った。距離は百米ほどであった。走り疲れたように、すこし前屈かえかがみの後姿であった。流刑囚のような侘しい孤独感を、その後姿はひっそりと包んでいるように見えた。
「――ねらうんだ」
 銅座の声が背中にしずかに落ちた。
 突然兇暴なものが、嵐のように三田の胸をみたした。彼は四五歩踏みだして、平たく倒れた壁の上に身を伏せると、あらあらしく銃を支えた。照星しょうせいの彼方に、宗像の姿が小さく動いて、それはうす黒い虫のようであった。
(何故あいつは早く走らないのか)
 ぎりぎりと歯をかみしめながら、床尾板しょうびばんを肩にあてた。肩の骨がごくりと鳴った。その瞬間三田の耳に、城内の穴の中で、生き延びるのだと叱るように言った宗像の声が、あざやかによみがえってきた。気を失っている彼を呼びさまし、彼の生命をたすけて呉れたその肉声であった。それにつづいて、顔を蹴りつけた時の河辺のきらきらした眼や、あの船員の広い肩幅や、市政府ビルを攻撃していた火焰放射の色が、殺到するように胸にかさなってきた。それらはぎらぎらとせめぎ合い、湧き立つ泡となって、彼の胸のなかを荒れ狂った。撃鉄にかける指が、ぶるぶると慄え出すのを、彼は意識した。
(的をはずして撃とう)瞬間にその考えが動いた。(弾丸の音に気づいてあいつは走って逃げ終せるだろう)
 命中の自信はもともとなかった。ただ一箇月の兵士生活で、銃の操作もろくに知らぬ。ねらいを外らせば、当るはずがない。三田は頭に血が烈しくのぼってくるのを感じながら、肩を緊張させ、腕をわずかに右に動かした。重なっていた宗像の後姿が、照星からずれて、芝生の上に浮び上った。その姿はやや小走りになったらしく、三田の視野を左右にゆれながら、次第にちいさくなる。遠離した世界へ、ここと隔絶した異質の世界へ、それは走ってゆく。あと何分かすれば始まる猛烈な弾雨の予感が、その小さな姿にふかぶかとかぶさってきた。灼熱するようなものが突然身内を貫いて、三田は照準をぐいと元に戻した。照門と照星をつらぬく視線の果てに、宗像の虫のような小さな後姿はぴたりと定まった。
(あんなに冷酷で非情で正確な砲弾を前にして、個体としての人間が、感じたり、考えたり、動作したりすることに、何の意味があるだろう)
 瞬間に湧きおこる抵抗をたたき伏せるように、三田は指に力をこめて撃鉄を引いた。弾丸が空気を裂いてむこうへ飛んだ。
 照星の彼方の宗像の姿が、その音と共に動きを止めて、凍結したように立ちどまった。そして頭を廻してこちらへ振りむいたようであった。胸をぎりぎりと嚙んでくるものを意識しながら、三田は短い時間にそれを見た。そのまま宗像は四五歩走り出したように見えたが、つまずくように身を地に伏せた。身を伏せたのか、倒れたのか、判らなかった。三田は身体をひるがえして跳ね起き、階段口までかけ戻った。銅座はその壁に身をもたせて立っていた。
「命中したか」
 銅座のその問いにかぶさるように、突然機銃の音が鳴りとどろいて、その弾丸が三田から数米離れた柱の根元に、はげしい音とともに打ちこまれた。混凝土の粉がぱっぱっと弾け散った。三田は反射的に、転がるように階段をかけ降りた。機銃の音は五六発で止んだ。そして拡声機のあの声が、同じ調子でしずかに戻ってきた。銅座の長身の姿が淡い光を乱して、ゆっくり階段を降りてきた。階段を降り切ると、銅盤は立ち止って腕を上げ、腕時計の文字盤に、食い入るような瞳をしばらく這わせていた。攻撃がふたたび始まる時間を、計っているらしかった。そしてうつむいた銅座のすべすべした頰に、残忍な笑いの影がかすかに走るのを、三田ははっきりと見た。うつむいたまま銅座は低い声で呟くように言った。
「お前は昨夜、城内にいた兵隊だな」
 三田は黙っていた。そして上ずった瞳を部屋のあちこちに動かした。部屋はもとのままであった。床にはさっきと同じ形で、裂けた地図や、輪になった細帯ほうたいが落ちていた。破れた壁の鉄骨には、宗像の脱ぎ残した鉄帽が、今は揺れ止んでひっそりとかかっていた。その鉄帽の円みに、射し入る光がうすれ始めていた。その鉄帽の形は、それをかぶった宗像の顔を、妙になまなましく髣髴ほうふつとさせた。
「私を殺して呉れ」
 それは発作的な痙攣のように、その叫びが三田の咽喉のどからほとばしろうとした。しかしそれは声にならなかった。呻きとなって彼の口から僅かにれただけであった。よろめく三田の靴先に、宗像がはずし残した帯革が触れて、かすかな堅い音を立てた。
「もう五分もしたらな、ここは戦車砲がじゃんじゃん打ちこまれるぞ」
 銅座は背をかがめて、床にころがった小さな鏡をひろい上げながら、抑揚のない調子で言った。そして鏡を顔の前にかざした。銅座は小鏡のなかの自分の顔にしばらく眺め入るらしかった。三田の方にはほとんど気を止めていないように見えた。カアキ色の襯衣の袖は、屍衣のようにだらりとなって、短銃を握った手首に垂れていた。しかし仮面のようにいまわしい無表情を保っていた頰にやがてほのぼのと冷たい笑いがのぼってきた。
「あいつは、運が好い奴だな。……弾丸は、あたらなかったな」

 その銅座の言葉の調子と、頰にうかんだ冷たい笑いを、それから丁度一時間経った今、三田ははっきり懐い出した。この建物の中央部にちかい、混凝土のはりの上であった。三田はそこに腹這いになつて、首をもたげていた。すぐ眼の前に、やはり腹這いになった銅座の、鉄帽を冠らない頭の部分が見えた。
 幅三尺ほどの染木の左右は、すこし低くなって、おびただしい灰の堆積であった。ここらは書庫のあとらしく、幾十万冊とも知れぬ書籍が、そのまま灼熱されて灰となり、黒くくずれて床を埋めていた。梁木はその上を一本通っていた。西南隅のあの部屋を脱出して、ふたりは今ここまで動いてきた。ほとんど本能だけで動作する二匹の虫となって、ふたりはその染木にちいさく取りついていた。
 建物の西南部は、すでに潰滅していた。何百発の戦車砲がたたきこまれ、重砲弾と迫撃砲弾と焼夷弾が、集中的にそこに落下した。あの三十分の砲撃中止の間に、米軍は砲の位置をあらため、照準を狂いなく定めたらしかった。砲弾は進路をあやまたず、一箇所に集中して炸裂した。戦車群は海岸方面からしだいに進出して、かなりの近さに寄ってきていることが、戦車砲の響きで察しられた。崩れ残った日本兵の溜りになっている箇所を、順々につぶしてゆこうという米軍の意図が、その集中砲撃のやり方で明白であった。そして西南隅の一劃は先ず潰滅した。巨大な力が一瞬に擦過したように、柱や壁は微塵となって砕け落ちた。その少し前に、ふたりはその部屋をはなれていた。
 部屋を離れてどうするというあてはなかったのだ。その時銅座のあとについて、ほとんど思考を失った状態で、三田は破れた壁を超え、東の方にっていた。銃も帯革も遺棄した。灰にまみれて匍い動きながら、彼は自分がもはや生物の本能と感覚だけで動いていることを自覚した。危険は各瞬間にきた。死が決定的にやってくることを知りながら、い動くことの無気味さも、彼は知っているつもりであった。しかし肉体の奥にひそむものが、それを執拗しつように裏切った。そのような裏切りによって、激しく揺れ動いたここ数日の記憶は、れに彼におちた。
(ああするつもりでは無かったのだ。それだのに――)断れ断れにかすめるものの中に、いろんな人々の顔が浮んできて、彼は心の中でうめいた。(何かがおれを裏切って、おれをそうさせてしまう!)
 銅座と彼は、すこし離れたり、堆積するもののなかに姿を見失ったり、また近くになったりした。彼は銅座のあとを追っている訳ではなかった。折れ曲るものと崩れ散るもののなかで、おのずから危険のすくない通路をえらぶ本能が、ふたりを引離さないのであった。
 議事堂の大天蓋はすでにことごとく崩れ、夜空が上にひろがっていた。城内方面の火災も幾分下火となった模様であったが、それでも夜空はすさまじい赤さで焼けていた。絶え間ない砲弾の炸裂さくれつと大きな灰神楽はいかぐらが、建物の各所におこっていた。負傷者のうなり声が、あちこちに聞えた。うずたかい灰の中から、死んだ兵士の腕だけが、小さな墓標のように突き出ているのを彼は見た。柱に寄りかかって自決したらしい死骸の上にも、灰は霧雨のように降っていた。炸裂するものの匂いが、その度にいがらっぽく鼻を刺戟した。空から降ってくる薄赤い光と、炸裂するものの閃光せんこうの中に、くずれ残った柱の影は、もうかぞえるほどに減少していた。近くに炸裂音がおこる度に、彼は床に平たくなって頭を伏せた。
(まだ死なない。まだ死なない)
 書庫の上の梁にたどりついたとき、咽喉にこみ上げてくるものを感じて、彼はそれをこうとした。しかし絞るような痛みが食道をつらぬいただけで、胃からは何も出てこなかった。彼は激しくあえぎながら、この一昼夜なにも食べていないことを思い出した。それと同時に猛烈な乾きを、彼は咽喉から内臓にかけて感覚した。乾いた口腔こうこうのなかで、歯が思わずかちかちと鳴った。
(きれいな水を腹いっはいのんで、それから死にたい!)
 水晶のように透明で清冽せいれつな水の幻想が、やけつくように彼の頭をみたした。それはつめたく清らかに、彼の想像の水盤のなかでゆらゆらと揺れていた。かすかにさざなみを立てながら、この世のものならぬ美しさで、その水は揺れさざめいていた。――彼は唇を嚙んでその想像を断ち切り、狭い梁を這いだした。そして半分もゆかないうちに、彼は這うのを止めた。彼の進もうとするその梁に、ひとりの男が平たく伏せていたからである。カアキ色の襯衣シャツと、鉄帽をつけないむき出しの頭から、銅座だということが直ぐに判った。銅座は頭を梁につけて、こちらむきに腹這いになっていた。そして三田も反射的に頭を伏せた。建物の真上に照明弾を打ち上げたらしく、真白な光がサアッと降ってきたからである。鉄帽のひさしは梁上の灰をわけ、底の混凝土にかちりと当った。灰の臭いが鼻にふれた。顔を横にたおしながら、あえぎを静めるために、彼は深い呼吸をした。内臓が伸縮する不快な感覚と共に、虚脱したような慄えが手足の末まで拡がって行った。
(東の方へ這って行ったとしても、それがどうなるのか?)
 何度もかんがえたことが、また頭のすみにひらめいた。銅座が頭をこちらに向けて伏せていたことを、彼はその時ちらと考えていた。しかし銅座は這い廻ることの空しさを知ったというより、梁の果てが破壊されていて、それ以上進めなかったのかも知れなかった。その時東の方角から、たしかに戦車砲が打ちこまれる激烈な響きが伝わってきた。そして梁はその響きに応じて、ズシンズシンと振動した。腹を衝きあげるような根強い振動が、梁から梁をはしった。東側にも戦車が廻った。そう感じたとたんに、数日前の市政府ビル潰滅の状況が三田の眼によみがえつた。
(あそこで死ねばよかった。ほんとに死ねばよかったんだ)
 蟻のように戦車に取巻かれた市政府ビルの状況が、今そっくりの形でこの建物に置かれていることを思うと、きのこのように陰欝な生への欲望が突然、彼の胸にみなぎつてくるのを感じた。その感じは、からからに乾いた咽喉や内臓の感覚と、ぴつたり重なっていた。そしてそれは直ぐ、暗い惨めな怒りとなつて、彼の中に燃え上ってきた。
(おれが見捨てられた猫なら、こいつは逃げ道れたかれいだ!)
 三田は鉄帽をすこしもたげて、伏せている銅座の方を透し見た。照明弾の白い光のなかで、銅座は頭をぴたりと灰に押しつけていた。常時帽子を着ける人間に特有な、顱頂ろちょうの部分に髪がうすくなった頭が、すぐそこの灰の上に乗っていた。蒼白い頭の地肌から、短い毛髪が一本一本立っているのが、いやらしいほど拡大されて三田の眼に入った。退き潮に乗りそこねて、砂泥に取り残された鰈のように、この男はマニラに止まったに違いなかった。市民兵と雑軍を遺棄して、憲兵や特務機関のすべてはモンタルバンを目ざして逃げた筈であった。あらゆる殺戮さつりくと暴虐をマニラの市街にのこして。昨夜この男を知ってからの、二十時間の記憶が、あわただしく三田の頭の中を回転した。それは彼の心をきりで突きさすような苦痛をともなって擦過した。――しかし彼はぎょつとして眼を見張った。なかば灰に埋もれた銅座の頭部が、心棒を失った独楽こまのように、力を失っているのを見たからである。三田の視線は銅座の肩から左手へはしった。カアキ色の袖につつまれたその手は、力なく不自然な形に曲り、袖口から出た掌は、あの大型の短銃を握っていた。人さし指が撃鉄にかかったままであった。撃鉄にかかったままその指は、白い光のなかで力無く垂れていた。
(やったんだな!)
 身体からなにかが引き抜かれたような気特になって、彼は凝然と背筋を硬くした。そして身体をずらして、そこへにじり寄った。
 銅座の身体は腹這いの姿勢のままで、顔を灰に埋めているのであった。気がつくと、左のこめかみの部分が黒く焦げて、そこに小さく肉が弾けた穴が見えた。銅座は自ら短銃でそこを撃ったに相違なかった。三田は心の中の何ものかがはらはらに分裂してゆくのを自覚しながら、掌をそこにあて、ぐつと押してみた。気味のわるい重量感が掌に感じられた。頭はゆっくり向きを変え、灰にまみれた顔面があらわれた。その顔は瞼をうすく開いていた。瞼の上にも、灰は黒いかさぶたのように着いていた。梁をゆるがす衝撃的な振動が、銅座の身体の各部分にも伝わって、灰はそのたびに顔からはらはらと落ちた。その顔はすでに血の気をなくしていたが、銅座が生きていたときの顔よりも、表情をもっているように見えた。死骸の顔はなにか表情をたたえていた。反射的に三田は、銅座のあの感情を押しころしたようなつめたい言葉の調子を思い出した。それと一緒に、つきつけられた短銃のかたい感触を。
(宗像はあのまま降服できただろうか?)
 彼はしめつけられるような感じになって、視線をうごかした。頭からつづく長身の胴体と四肢は、力なく染に貼りついていて、かれいにそっくりの形であった。脇腹のところに、見覚えのある水筒が見えた。三田は忘れていた全身の乾きが、再び猛然と咽喉をつきあげてくるのを意識した。手を伸ばして、彼はそれを握った。そしてあわただしく振つて見た。からからと栓金が鳴っただけで、水の音はしなかった。栓をぬいてさかさにしても、水らしいものは一滴もしたたってこなかった。腕をふって、水筒と栓を別々に書類の灰のなかに叩きこみながら、彼は血走った眼を大きく開いて、陰惨な四周を見廻した。
(こんなところで死にたくはない!)
 末期まつごの生命力のように、虚脱したものの中から、その思いは突然激しく燃え上ってきた。彼はぞっと身慄いをした。彼の眼は、その位置から斜めに見える正面玄関をながめていたのである。あの清冽な水の幻想や、宗像を射つときに見た空の青さや芝生の緑の色が、むらがり合い錯綜さくそうしながら、彼の胸にあふれてきた。正面玄関までは、梁をつたって出られそうである。それがすぐ頭にきた。そしてほとんど無意識のうちに、彼は半身を起していた。膝の傷が混凝土コンクリートのかたまりに触れて、きりきりとうずいた。彼は銅座の死体のそばを這いぬけ、平たい梁の上に、灰をわけて立ち上った。梁はズシンズシンと振動し、建物全体が断末魔の痙攣けいれんのようにごうごうと揺れていた。ひりひりするようなものが彼を駆った。彼は眼の前に真紅に入り乱れるものを感じながら、梁の上を夢中で小走りに走った。
(逃げる資格はないんだ。おれは逃げる資格はないんだ!)
 その声は矢のようにするどく彼の背につきささった。しかしそれを振りのけ払いのけて、彼は灰のなかを傷ついた鼠のようにはしった。
 混凝土の大きな破壊口を飛び越えたとき、彼はよろめいて、激しく身体を打ちつけた。そこに地階の出口が、枠だけになって残っていた。打ちつけた肩の痛みを忍びながら、彼は眼を据えて外面を見た。建物の外は、弾けるものと飛び交うものが轟々ごうごうと交響し、赤い光や白い光が閃々と交錯した。人間の侵入をゆるさない、非情な鉄と炎の世界であった。そこへどうしても出て行かねはならぬ。生理的に湧きおこったひるみを押しつぶして、彼は発動の姿勢をとった。身につけていたものは鉄帽と、破れた襯衣シャツ洋袴ズボンと、靴だけである。他に身を守るものは何もない。彼ははっと首をすくめた。正面玄関の上部へ、バラバラと機銃弾がその時打ちこまれた。背後から突きとばされるように、彼は夢中で出口を飛び出した。取りついたところは、玄関の車寄せである。そこから通路まで三米の高さであった。そこに立った瞬間、彼は自分の全身がさらされていることを、凍るような戦慄と共に感覚した。両手をひろげて、彼はその三米を飛び降りた。地面についた時、傷んだ膝頭が土にぶつかって、彼は苦痛にうめきながら、転んだ身体を一回転させてはね起きた。そして夢中で奔り出した。幅二三十米の道路である。それを横切って、むこうに連なったマンゴの並木の下に、防空壕があったことが、とっさに頭にきた。昨夜見ておいたのだ。頭が福助のようにふくれ上る感じになって、彼は懸命にはしった。梢をはらわれたマンゴの並木のむこう、百米ほどの距離に黒い城壁が眼に入った。その城壁の上のいくつかの米軍機関銃座から議事堂めがけて打ちこまれるおびただしい光箭こうせんを、彼は走りながらちらと見た。それはまるで火の奔流のように見えた。その瞬間、道路のはしに張りめぐらされた鉄条網の一端が、はげしく彼の足をすくった。彼の身体はもんどり打って、地面に横ざまにころがった。ころがった彼の顔のすぐ前に、蛸壺たこつぼが黒い口をあけていた。地面をはげしくかきながら、彼はその蛸壺にころがりこんだ。土の香が彼の鼻をった。
 海老えびのように身体を曲げ、出来るだけ底に頭を沈めて、彼は始めて大きな呼吸をした。胸の激しい動悸どうきが、その時にやっと意識にのぼってきた。彼は穴から腕だけ出して、届く範囲にちらばった木の枝をつかむと、いそがしく引き寄せて蛸壺の天井をおおった。
(――三十歳。三十歳)
[やぶちゃん注:敗戦時の梅崎春生は同じく満三十歳であった。]
 脈絡みゃくらくもなく、そういう言葉が頭に浮んできた。それは彼自身の年齢であった。天井にした木の枝葉の間から、外気の新鮮な空気が入ってきた。長い間吸わなかった空気の味がした。突然瞼を焼くような熱い涙が一粒こぼれ出て、頰の方に流れおちた。そしてこの上ない深い疲労が全身に落ちてきた。二昼夜張りつめていた神経が、いまぐたぐたに崩れ溶けてゆくのを彼は感じた。
 近くの道路で炸裂したらしい迫撃砲群が、轟然と大地をゆるがした。蛤壺の内の土がはらはらとこばれ、上をおおうた木の枝の聞から、小さな鉄の破片が鉄帽にカチンと音をたててあたった。しかし彼はそのままの姿勢でいた。傷つかない方の膝に頰を押しあて、抵抗し難い睡眠への誘いが、今全身をゆるやかに領してくるのを意識した。穴の外で炸裂するものの響きを、しだいに遠く聞きながら、もう咽喉のどの乾きのことも忘れて、彼の意識は引きずりこまれるように眠りに落ちて行った。

 ……彼は荒野のまんなかを歩いていた。何のために歩いているのか、よく判らなかった。彼が行く前方に、一群の枯木立かれこだちがあった。樹々はすべて葉をふるいおとし、裸の枝は曲りくねり、もだえるように空をさしていた。そしてその天辺に、ひとつずつ、大きな果実のようなものをぶら下げていた。彼はその方に歩いていた。
 背後から、なにか轟々と音が聞えてきた。彼はふり返った。地平の果てに赤い火柱がいくつも立ち、それは旋風のように回転しながら、しだいに近づいて来るらしかった。彼を追ってくるのは明かであった。彼はぞっとして立ちすくんだ。その火柱はだんだん近くなって、焰の舌をめらめら吐きながら、いくつも天に奔騰ほんとうしていた。走り出そうとしても、脚がえたように動かない。もだえながら前に突き出した彼の掌は、両方とも真赤に染って濡れていた。
《血だ!》
 前方の木立からその時、たくさんの人々の哄笑こうしょうが聞えてきた。気がつくと、梢にひとつずつぶら下った果実と思ったものは、すべて人間の首であった。それらの首は彼を見ながら、それぞれ口をあけて哄笑していた。その首のなかに彼は、河辺や宗像や銅座や、その他いろんな人々の首を見つけた。恐怖と屈辱と羞恥とにまみれて立ちすくんだ彼を、それらの哄笑がおしつつんだ。そしてその哄笑も、やがて背後に近づく火柱の、轟々という音の洪水に呑みこまれた。あとは轟々たる音一色の世界で、彼は涙を流しながら、むちゃくちゃにもがきあばれた。……
 そして全身から汗をふきだしながら、蛸壺の中で、彼は眠りから押し出されるように覚めた。夢のなかにあふれていた轟音は、そのまま現実にもつづいていた。その音は蛸壺のむこうの道路の上を、しだいにこちらに近づいてくるらしかった。そしてその轟音を縫って、何やらわめき合う人の声がした。耳慣れぬその声は、あきらかに米兵の声であった。轟々と音を立てるものが、戦車であると直覚したとき、彼は慄然と恐怖におそわれた。
(蛸壺をひとつひとつ潰しにきたのだ!)
 しかし轟音はすぐそこで止まった。そして空気を引裂くような音をたてて、戦車砲が打ち出された。その音はがんがんと蛸壺にひびいた。膝を抱き、胎児たいじように丸い姿勢になって、彼はそれに耐えようとした。弾丸はつづけさまに何発も発射された。それらはすべて議事堂に命中するらしく、その度にその方角でくずれ落ちるものの響きが地につたわってきた。数十発の弾丸がそこで発射された。
 蛸壺のすぐ近くにいる戦車で、何か命令するような短い米兵の叫びがあがった。その叫びと同時に発射は止み、ラムネを開いた時のような、何かをはげしく噴射する音が、それにとって代った。天井の木の枝の間に見える空一面に、白煙が流れ、同時に高級殺虫剤に似た揮発性の芳香が、しずかに蛸壺のなかに降ってきた。放射された火焰の匂いであった。その噴射は間をおいて、執拗にくりかえされた。膝に押しつけた瞼のうらに、燃えとろけてゆく議事堂の幻影を彼は見た。
 また近くで米兵が叫ぶ声がした。そして戦車は轟々とカタビラ
[やぶちゃん注:ママ。]の音を響かせながら、蛸壺のそばの道路を動き出した。轟音はしだいにファイナンスビルの方に遠ざかって行った。ふと気がつくと、砲弾の炸裂音も、議事堂からファイナンスビルの方に移ってしまったようであった。迫撃砲や戦車砲の音は、すべてファイナンスビルの方向でむらがりおこっていた。そしてしばらくった。彼は背を立てて、木の枝のすきまから、外をそっとのぞいて見た。
 夜空を背にして、議事堂の建物は完全に死滅していた。砲火の炸裂はみんな、その向うの建物でおこっていた。そして彼は蛸壺の二間ほど向うの地面に、うすく光をたたえた水溜りを見た。猛然たる乾きが、彼の全身を収縮させた。犬のようにあえぎながら、彼は鉄帽で枝を押し上げ、そっとい出した。
 それは並木の下に溜った水であった。彼はいきなり唇をつけると、呼吸いきもつかずに飲んだ。清水のようにそれは甘く、咽喉から食道へ流れ入った。
(生きていたい。生きていたい)
 顔を水の中にひたして、咽喉をならしながら、彼はそう思った。彼の胸をいっぱいにしてくるのは、今はその思いだけであった。どんなに暗く重いものを引き摺っても、その瞬間を彼は生きていたかった。
 濡れた顔を袖で拭くと、彼は四周あたりの様子をうかがった。砲火は今はファイナンスビルだけに集中されていた。他の地区では音は収まり、ただ時折間歇かんけつ的に機銃音が鳴るのが聞えるだけであった。マニラ攻防戦も、ひとつの建物をのぞいては、すべて終ったことを思わせた。彼は両掌をついて、もう一度水滴りをのぞいて見た。彼の顔の形が、ぼんやりと水の面にうつった。
(マヒニ街に行こう)
 その街は、彼が召集される前に、下宿していたところであった。もしマヒニにもぐりこめば、あとはパコを経て、モンタルバンの方角へ逃げられるかも知れない。そう思ったとき、彼は突然議事堂のあの部屋で、裂けた地図の表面をたどり動いた宗像の指の形を思い出した。宗像の記憶が彼の胸をひりひりとこすり上げた。
(おれはあの時射ったんだ。一度は照準をはずして、また戻したんだ!)
 水面にぼんやり映る自分の顔の形から、彼は眼をそむけた。そして膝頭の繃帯を長いことかかって結びなおした。彼の眼の前から道路が、薄黝うすぐろい帯のように、マニラホテルの方向に伸びていた。しばらくして並木の翳に沿って、匍匐ほふくした彼の姿が、その方向にゆるゆると動き始めた。夜の光のなかで、それは傷ついた獣が匍ってゆくように見えた。
 それから何時間か経った。
 曇っていた空が切れて、満月が天に出ていた。公園の端にあるリサールの銅像にも、黒い雲の切れ目から、月の光がしずかに取っていた。リサール像のまわりにも、死体が点々ところがっていた。銅像の囲りの混凝土コンクリートの堅い塀にも、ひとつの死体があった。その死体のそばに、三田は呼吸をひそめてうずくまっていた。
 その死体は若い海軍兵士であった。上半身を塀にもたせて死んでいた。だらりと垂れた裸の手は、すでに冷たくなっていたが、その手首に巻かれた腕時計が、コチコチと時を刻んで動いていた。針は六時すこし前を指していた。三田の眼はそれを見ていた。
(もうすぐ夜があける)
 気力をふるいおこすように、彼はそう思った。夜明け前に公園を出て、市街にまぎれこみ、マヒニ街まで行くつもりであった。しかしここまでに時間をとって、もう間もなく夜が明けようとする。昼の光のもとで逃げ終せる自信はなかった。
 あの蛸壺からここまでの数時間を、彼はほとんど匍匐してやってきたのであった。遮蔽物とてほとんど無いルネタ公園の広濶地を、発見されずに横切るには、匍匐のまま少しずつ動くほかはなかった。城壁の上にはずらずらと米軍の機銃座がならび、そこを動く米兵の影が、絶えずちらちらと動いていた。そして公園の上空にも、しばしば照明弾が打ち上げられた。もし動く人影が発見されれば、そこに向って先ず米軍の赤色の小銃弾が連続に打ちこまれた。それを目じるしに、あらゆる方角から機銃弾が集中し、焼夷弾と照明弾でその周囲は真昼のように明るくなった。迫撃砲弾まで降ってきた。動くのが一人の影であろうとも、米軍は弾丸を惜しまなかった。ルネタの各処に、死体は点々と転がっていた。皆それで死んだ日本兵の死体であった。それらの死体の間を縫って、三田はほとんど一匹の尺取虫に変身し、小刻みに匍匐した。神経のおびただしい消耗の果て、やっと銅像のかげにたどりついたとき、そのまま気を失ってしまいそうな深い虚脱を彼は感じた。
(ここで夜が明けたら大変だ)
 その危機の意識だけが、僅かに彼を支えていた。この若い兵士の腕時計が、まだ動いているところを見れば、この兵士は死んで間もないに違いない。そうすれはここも危険な訳であった。
 三田は月を見ていた。雲が東方に動いていて、間もなく月をかくそうとしていた。眺めていると、月が雲の方に近づいてゆくような錯覚に落ちた。月が雲に入れば、夜明けまでの短い時間を、すぐ行動せねはならぬ。どこか壊れた家の床下にでももぐり込んで、今日の昼間をすごす外はない。あとはそれからだ。
 彼はうずくまったまま、公園からデルピラル通りを見詰めていた。その正面に建った建物は、焼け焦げて混凝土だけとなり、窓々が黒い穴になっていた。米兵はそこにいないらしく思えた。その建物の横は路地になっていた。建物と建物にはさまれたその路地は、暗い翳となり、今まで全身をさらしてきた彼に、ある甘美な誘いをかけてきた。刻刻を脅やかす光と音から、その路地の暗さは彼を守ってくれるように思えた。その路地の入口まで、五十米幅の道路を横切らねばならない。その道路も、砲火にさらされて、凸凹になつているようであった。この五十米を駆け抜ければ、あとはどうにかなる。彼は気力をふるいおこしながら、そこらの地形をじっと眺めていた。夜明け直前の薄暗がりは、幾分の水蒸気をともなつて、物ははっきり見えなかった。路地の入口に到る途中に、黒い四角な箱のような形のものが見える。それは丁度ちょうど道路の中央部にあたっていた。
(走って行ってあの蔭にひと先ず飛びこむ。異状がなければ、あとを一気に駆けぬけよう)
 彼は姿勢をととのえた。月がかげれば、すぐ走り出すつもりである。死体の腕時計は、もうすぐ六時を指そうとしていた。その血の気のないすべすべした腕に、大きな蟻が一匹這っていた。蟻は手首から腕へ、足をうぶ毛にひっかけながら、腕から肩の方にのぼろうとしていた。しかし関節のところでふと方向を変えて、斜めに肱の方に降りてきた。その蟻の行動は、無目的なひどく出鱈目でたらめな動きに見えた。その腕のあたりに、暗さがさあっとかぶさってきた。
(月がかくれたのだ!)
 姿勢を低くしたまま、彼は一気に飛び出した。黒い四角なもののかげを目ざして、ほとんど倒れそうになつて走った。
 四角なものの蔭に飛びこむと同時であった。三十米前方の、無人と思われた焼けビルの窓々から、十数発の小銃弾がそこにむかって殺到した。木を組み合せたその箱に、烈しい音を立てて突き刺さり、また彼の鉄帽をこすって道路に突き刺さった。熱くするどい弾風が、彼の頰をかすめた。灼熱した痛みを頰の皮膚に感じたとき、彼は夢中で横に飛び、黒くえぐれた凹地へ頭からころがりこんだ。凹地の底で堅いものが彼の鉄帽をはじいた。首に食いこんだ紐がぶつりと切れて、鉄帽は彼の頭から離れてころがった。土に顔をくっつけたまま、彼はあえいだ。
おとりだったんだな。あれは)
 転がりこむ一瞬に、木箱に印された無数の弾痕と、かげにころがる三四の黒い屍を、彼は眼に収めていた。それは公園からの脱出者の囮の箱であった。
 蒼白になった顔をわずかおこして、彼はあたりを見廻した。それは迫撃砲弾かなにかが、道路をえぐつた穴らしかった。彼の鉄帽をはじいたのは、その底にころがったアスファルトのかたまりである。そのアスファルトの上に、彼の頰から血がしたたっていた。逃げ途を失った鼠のような眼付になって、彼はそれを見た。夜がそこに明けかかっていた。さまざまなものが、嵐のように彼の胸を荒れ狂った。
(降服しようか)
(お前にその資格があるか)
 この数日間のことが、ぎらぎらしたやいばの光のように、彼を責め、脅かし、突き刺さった。あの夢の中のように、自分の掌が汚血にまみれていることを彼は感じた。自分をここに追いこんだものへの惨めな憤怒と、皮膚をめくられるような屈辱と慚愧ざんきに、彼は幽鬼のように青ざめて、突然穴の中に立ち上って、両手を高く上げた。そして叫んだ。その叫び声は、意味もなにもない、獣がなくような音になった。
 焼ビルの二階の窓々から、若々しい米兵たちの顔が、ずらりとならんで現われた。少し経ってその一人が、自動小銃をかかえたまま、出口に姿をあらわした。三田はよろめきながら穴を出た。その方へ歩いた。


[ルネタの市民兵 完]