ピアノ 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十四(1925)年五月一日発行の雑誌『新小説』に『「雪」「詩集」「ピアノ」』の題で、他の二作品と共に掲載された。この三作は共に作品集『梅・馬・鶯』にそれぞれの題で所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。なお、一つの推測であるが、この冒頭に表われる「横濱の山手」の「或人」とは、女流作家の大橋房子ではないかと思われる。そうして、「或こみ入つた用件」とは、彼女と門下生の佐佐木茂索との結婚話でろうと推測される。大橋は当時、横浜本牧に居住しており、同年の三月二十三日にも、結婚の打ち合わせのために出向いている(大橋宛書簡による)。この三月末に芥川は二人の媒酌人を務めている。従って作為がないとすれば、芥川の大正十三年秋の体験と考え得る。]
ピアノ
或雨のふる秋の日、わたしは或人を訪ねる爲に横濱の山手を歩いて行つた。この邊の荒廢は震災當時と殆ど變つてゐなかつた。若し少しでも變つてゐるとすれば、それは一面にスレヱトの屋根や煉瓦の壁の落ち重なつた中に藜(あかざ)の伸びてゐるだけだつた。現に或家の崩れた跡には蓋をあけた弓なりのピアノさへ、半ば壁にひしがれたまゝ、つややかに鍵盤を濡らしてゐた。のみならず大小さまざまの譜本もかすかに色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らしてゐた。
わたしはわたしの訪ねた人と或こみ入つた用件を話した。話は容易に片づかなかつた。わたしはとうとう夜に入つた後、やつとその人の家を辭することにした。それも近近にもう一度面談を約した上のことだつた。
雨は幸ひにも上つてゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた。わたしは汽車に乘り遲れぬ爲に(煙草の吸はれぬ省線電車は勿論わたしには禁もつだつた。)出來るだけ足を早めて行つた。
すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつた。いや、「打つた」と言ふよりも寧ろ觸つた音だつた。わたしは思はず足をゆるめ、荒涼としたあたりを眺めまはした。ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは。――しかし人かげはどこにもなかつた。
それはたつた一音(おん)だつた。が、ピアノには違ひなかつた。わたしは多少無氣味になり、もう一度足を早めようとした。その時わたしの後ろにしたピアノは確かに又かすかに音を出した。わたしは勿論振りかへらずにさつさと足を早めつゞけた、濕氣を孕んだ一陣の風のわたしを送るのを感じながら。……
わたしはこのピアノの音に超自然の解釋を加へるには餘りにリアリストに違ひなかつた。成程人かげは見えなかつたにしろ、あの崩れた壁のあたりに猫でも潜んでゐたかも知れない。若し猫ではなかつたとすれば、――わたしはまだその外にも鼬だの蟇がへるだのを數へてゐた。けれども兎に角人手を借らずにピアノの鳴つたのは不思議だつた。
五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の爲に同じ山手を通りかゝつた。ピアノは不相變ひつそりと藜の中に蹲つてゐた。桃色、水色、薄黄色などの譜本の散亂してゐることもやはりこの前に變らなかつた。只けふはそれ等は勿論、崩れ落ちた煉瓦やスレヱトも秋晴れの日の光にかがやいてゐた。
わたしは譜本を踏まぬやうにピアノの前へ歩み寄つた。ピアノは今目のあたりに見れば、鍵盤の象牙も光澤を失ひ、蓋の漆も剥落してゐた。殊に脚には海老かづらに似た一すぢの蔓草もからみついてゐた。わたしはこのピアノを前に何か失望に近いものを感じた。
「第一これでも鳴るのかしら。」
わたしはかう獨り語を言つた。するとピアノはその拍子に忽ちかすかに音を發した。それは殆どわたしの疑惑を叱つたかと思ふ位だつた。しかしわたしは驚かなかつた。のみならず微笑の浮んだのを感じた。ピアノは今も日の光に白じらと鍵盤をひろげてゐた。が、そこにはいつの間にか落ち栗が一つ轉がつてゐた。
わたしは往來へ引き返した後、もう一度この廢墟をふり返つた。やつと氣のついた栗の木はスレヱトの屋根に押されたまま、斜めにピアノを蔽つてゐた。けれどもそれはどちらでも好かつた。わたしは只藜の中の弓なりのピアノに目を注いだ。あの去年の震災以來、誰も知らぬ音を保つてゐたピアノに。