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鬼火へ

Стучит!

    Иван Сергеевич Тургенев

音がする!

   
――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯

[やぶちゃん注:これは、

Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“ Записки охотника ”(Zapiski okhotnika)


イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(一八一八年~一八八三年)の「猟人日記」(一八四七年~一八五一年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が一八五二年に刊行されたが、後の七十年代に更に三篇(本篇はその一つ)が追加され、一八八〇年に決定版として全二十五篇となった)の中の、、

“ Стучит! ”(Stuchit!)

の全訳である(一八七四年の作品集第一部初出。但し、ロシア語の原文サイトの諸版を見る限りでは原題の最後にエクスクラメンション・マークはない)。底本は昭和三一(一九五六)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の下巻の、平成二(一九九一)年再版本を用いた。一部の明らかな誤植と思われる箇所は訂したが、特に指示はしていない。底本の巻末にある訳者注を作品末に示した(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した。氏の注は禁欲的なので先に読まれることをお勧めする)。

 また今回、老婆心乍ら、一部の若い読者には難読と思われる箇所には私の判断で歴史的仮名遣で推定ルビを施した。以下の箇所である。( )内が施したルビである。但し、一箇所を除き(「跑」)、初出部分にのみに附し、再出する場合は省略してある。 「跛」(びつこ)/「別當」(べつたう)[やぶちゃん注:馬丁・馭者の意(本邦の院の厩司うまやのつかさの別当から転じて謂い。最後の方では男がフィロヘフェーを「馭者」の意で呼んでいる。]/「襯衣」(シャツ)/「皮沓」(かはくつ)/「嗄れた」(しやが)れた/「軈て」(やが)て/「擇りどり」(よ)りどり/「鬣」(たてがみ)/「微睡み」(まどろ)み/「漣み」(さざなみ)/「蓋ひ」(おほ)ひ/「轍」(わだち)/「均らされた」(な)らされた/「凡ゆる」(あら)ゆる/「跑足」(だくあし)[やぶちゃん注:馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。並み足と駆け足との中間の速度又はその足並みをいう。]/「輾る」(きし)る/「踠く」(もが)く/「鬨」(とき)/「兄哥」(あにき)/「跑」(だく)/「兀鷹」(はげたか)/「佇」(た)つて

 なお、最後のトゥラのシーンで男がフィロフェーに、『こんねにびくびくしてたろ?』と茶化す台詞は「こんなに」の誤植とも思われるが、一種の方言として訳者が「こんねに」と確信犯で表記した可能性も排除出来ないのでママとした。

 訳者中山省三郎氏は昭和二二(一九四七)年五月三十日、宿痾の喘息のために四十四歳で逝去されている。そのこと(著作権満了)によって、不遜にも私が本作を公開出来る点に於いて、中山先生への追悼の念を心からここに述べおく。【二〇一四年十一月七日】


 
音がする!

 「ちよつと申し上げて置くけんど」とエルモライが小舍の中へ入つて來て言つた、私は食事を終へたばかりで、かなり獲物はあつたけれど、松鷄まつやまどりをさんざに追ひ廻して疲れたので一寸やすまうと思つてキャムプ用のベッドに横になつたところであつた、――頃は七月の中旬で、寒さはきびしかつた……「申し上げて置くちふのは、彈丸たまがみんななくなつてしまつたことです」
 私はベッドから跳ね起きた。
 「なくなつたつて! そりや又、どうして! 村から大かた三十フントも持つて來たんぢやないか! 袋一杯」
 「そりやさうでがす。かい袋でやんしたから、二週間ぶんはたつぷりありやんした。でもどういふ譯だかさつぱり分かんねえ! 綻びでも出來ましたかな。何せ、全く彈丸はありましねえ、……それでも十發くれえは殘つてまさ」
 「ぢやどうしたもんだらうな? 一番いいところを前に控へてて、――明日は雛つ子をつれたのを六組ぐらゐは間違ひなしな譯だつたが……」
 「それぢやトゥラまで遣つて下せえ。ここからは遠かありません、みんなで四十五露里でさ。行つて來いつて仰つしやりあ一いきに飛んでつて、彈丸たまもつて來まさ、一プードくれえ」
 「でも、いつ行かうて言ふんだ?」
 「今すぐでも。ぐづぐづしちやゐらんねえでせう? ただ一つ、何ですね、馬を賴まなくちやなりますめえ」
 「どうして馬を雇ふんだ! こつちの馬ぢや駄目なのか?」
 「こつちの馬ぢや行けましねえ。軸馬め、びつこをひき出しちやつたもんですからね、……ひどく!」
 「いつから、そんなになつたのか?」
 「そらあ、こないだ、別當べつたう蹄鐡かなぐつ打ちに連れて行きやんしてね。それで蹄鐡は履かせましたがの。鍛冶屋が運わるく下手くそだつたと見えましてね。今ぢや、そろそろ踏むこともできましねえ。痛めてるなあ前足でしてね。そいつを奴あ擧げたつきりでさ、――犬みてえに」
 「それで何かい? せめて蹄鐡だけは取つてやつたらうな?」
 「いんえ、まだ取りましねえ。でも、どうしたつて、脱がしてやんなくちやなりません。釘がきつと肉ん中へぶち込まれてるんでやんせう」
 私は馭者を呼んで來さした。エルモライが噓をいつたのでないことが分かつた。軸馬はたしかに足をつけることができなかつたのである。私は直ぐに蹄鐡をとつて、濕つた粘土のうへに立たして置くやうにと言ひつけた。
 「それで、どうでやんせう? 馬を雇つてトゥラへ行けと仰つしやるんでやんせうか?」とエルモライは私にうるさく附きまとふ。
 「だつて、こんな邊鄙なところで馬が雇へるのかい、一たい?」と、私は思はず、じれつたくなつて呶鳴りつけた……。
 私たちのゐた村は人の目にもつかないやうな、人煙稀れなところで一村の住民は悉く一文無しらしかつた。私たちは一軒の――煙突附の煖爐があるといふのではないが、――それでも多少とも廣い小舍を見つけるのに、かなりに骨が折れた。
 「雇へまさ」とエルモライはいつものやうに平然として答へる、「この村あ旦那の仰つしやる通りでやんすけんど、そんなに仰つしやられるこの村に、一人の百姓が居りやんしてね。えらい利口な奴で、大盡でがしたよ! 馬を九匹も持つてやんして。そいつはもう死んぢまつて、總領息子が後を全部やつてますがね。こいつは馬鹿の馬鹿の大馬鹿でやんすけんど、まあだ親父のこせえた身上を棒に振るといふほどでもありやんせん。あいつに賴んだら馬あ出來ますべえ。よけりや行つて連れて來まさ。あいつの舍弟は拔け目がねえ奴等ださうだけんど、……やつぱり、あいつがかしらでやんすかんね」
 「そりや又どうして?」
 「どうしてつて、――一番の總領でがせう? つまり年の上な奴あ――言ふこと聽かなくちやなんねえんだ」と言つてエルモライは一體に弟といふものに對して、筆も及び難いほどの氣焰を吐いた、「あいつを連れて來まさ。あいつはお芽出たい奴だから、口説きおとせねえことはねえ、でがせう?」
 エルモライが彼のいはゆる『お芽出たい』男を呼びに行つてゐる間、私はいつそ自分でトゥラへ出かけ行つた方がよくはないかといふ考へを起こした。第一に私は今までの經驗に徴してエルモライをあまりあてにはしてゐなかつたのである。或るとき、町へ買物にやつたところ、一日のうちにすつかり賴んだことを果すといふ約束をして行きながら、一週間も行方を晦まして、金は殘らず飮ふでしまひ、行きには馬車で行つたものが、歸りには歩いて歸つて來たことがあつた。
 第二には、私はトゥラへ行けば知合ひの博勞がゐる。だから、馬を一匹その男から買つて、跛をひいてゐる軸馬に代へようと思つたのである。
 『それに決めた!』と私は考へた、『自分で行つて來よう、途中でも眠れるのは眠れるし――幸ひ、この旅行馬車ランスは寢心地もよいことだし』
       *    *    *    *    *
 「連れて參りやんした!」とエルモライは十五分ほど經つてから小舍に驅け込んで來て叫んだ。後ろからは白い襯衣シャツを着て、靑い股引に木の皮沓かはくつをはいてゐる背の高い百姓が入つて來た。眉も睫も白つぽく、眼が弱く、楔形の赤髯に長いふくれた鼻をして、ぽかんと口を開けてゐる。彼はたしかに『お芽出たい男』に見える。
 「ほら、旦那」とエルモライがいふ、「この男あ馬をもつてますよ、――して、言ふことを肯いたんでさ」
 「さよで、はい、私は、……」と百姓は少ししやがれた聲で、もぢもぢしながら言ひ出した、薄い髮の毛を振つて、手に持つてゐた帽子の緣を爪ぐりながら……「私は、はい……」
 「お前の名は何ていふ?」と私は訊ねた。
 百姓は俯向いて、じつと考へてゐる樣子であつた。「私の名前でごぜえますか?」
 「うん、何ていふんだ?」
 「まあ、私の名前は――フィロフェーでせう。」
 「それぢや、どうだね、フィロフェー、お前んとこに馬がゐるさうだね。三頭のを一組ここへ持つて來てくれまいか、――それを私の馬車へつけるんだがね、――なあに、馬車は輕いんだ、――そしてトゥラまで案内してくれまいか? 丁度、今は月夜で明かるいし、乘つてゆくのにや涼しいし。ところで「こつちの方の道はどうかな?」
 「道でやんすか? 道は――何ともありません。本道まで二十露里はありやんせう、――全部で。ただ、ほんの一ところ……無氣味なところがありますけんど、ほかには別に大したことはありません」
 「無氣味なところつてどんなところかね?」
 「へえ、さい川の淺瀨を越さなきやなりませんのでな」
 「では旦那、御自分でトゥラへ行くんでやんすか?」とエルモライが聞き質す。
 「さうさ」
 「へえ!」と言つて私の忠實な下僕は頭を振つた。「へえい!」と繰り返して、唾を吐くなり、外へ出て行つた。
 トゥラ行きが最早エルモライの眼には全く魅力を失つてしまつたことが、ありありと見える。エルモライにとつては、つまらない、面白くも何ともないことになつてしまつた。
 「道をよく知つてるかい?」と私はフィロフェーを顧みた。
 察するところ、エルモライはフィロフェーを雇ふのに、この男は馬鹿であるからといふので、金は拂ふ……と、ただそれだけのことをいつて、その上よく納得の行くやうに言つてやらなかつたらしい! フィロフェーは馬鹿は馬鹿でも、――エルモライの言葉だが、――只それだけの話では得心が行かなかつた。そこで彼は手形で五十ルーブリくれと私に要求した、――まことに法外な値段である。私はもつと廉く――十ルーブリならば出さうといつた。私達は値段の驅引きをやり出した。フィロフェーは初めのうちは頑強であつたが、やがて、段々とではあるが讓歩して來た。ほんの一寸の間、エルモライが入つて來て私に口添へし始めた、「この馬鹿は――(といふと、フィロフェ一が「あれ、また十八番おはこが始まつた!」と低い聲でいつた)この馬鹿は錢勘定をまるで知んねえんですよ」といつて、序でに、私の阿母さんが二つの街道の行き合ふ通りの多い場所へ建てた旅館が、二十年ほど前に、全く不振に陷つたことを持ち出して、それといふのは番頭にして置いた年寄の下僕が、まるで錢の勘定を知らずに、數さへ多けれは餘計なのだと考へてゐたからで、――つまり一例をとつていふと、五カペイカの銅貨を六枚やるべきところを二十五カペイカ銀貨一枚やつて、しかも散々に惡態をつくといふやうな始末だつたからだと設明した。
 「やい、てめえ、フィロフェー、本當のフィロフェー!」と遂にエルモライが呼び立てた――が、腹立たしげに戸をぴしやりと閉めて出て行つた。
 フィロフェーはさういはれても何の口答へもしなかつた。彼はフィロフェーと呼ばれるのはたしかに餘り氣の利いたことではない、これは洗禮の時に當り前の名前をつけてくれなかつた坊さんが實際に惡いのだ、さうはいふもののこんな名前をつけてゐられる以上は、馬鹿にされても仕方がないと觀念してゐるらしかつた。
 それでも到頭私たちは二十ルーブリといふことで話がついた。フィロフェーは馬を連れに歸つたが、一時間ほども經つてりどりのできるやうに五頭つれて來た。馬はたてがみや尾がひどく縺れて、腹は大きく、太鼓のやうに張つてゐたが、なかなか躾けのいい馬であつた。フィロフェーと一緒に二人の弟もやつて來たが、二人とも兄には少しも似てゐなかつた。小づくりで、眼が黑く、鼻の尖つた者どもで、確かに『拔け目のない』奴だといふ印象を與へる、――早口に盛んに話をする。エルモライの言ひ草だと『ほざく』のである。けれども兄のいふことはよく聽いてゐた。
 彼等はのきの下かち馬車を引き出して、一時間半ほどは革と馬にかまけてゐた。綱の挽索ひきなはをゆるめたり、それなしつかりと、更にしっかりと締め直したりした。二人の弟は『葦毛』を軸につけようと切りに望んでゐた。そのわけは『きやつは下り坂が得手だから』といふのであつた。しかし、フィロフェーは『尨毛むくげ』一の方に決めてしまつた。そこで尨毛が軸馬としてつけられた。
 馬車に干草をぎつしり詰めて、腰掛の下には跛になつた軸馬の頸圏くびわを入れた、――それはトゥラへ行つて新しく買ふ馬につける必要があつた場合の用意である、……家へ駈けて行つたフィロフェーは長い白い親ゆづりの上衣パラホンを着て、高い麦稈帽子をかぶり、油を塗つた長靴をはいて戻つて來たが、いとも嚴かに馭者臺に上つた。私も時計を見ながら座についた。十時十五分過ぎであつた。エルモライはわかれの挨拶もしないで、自分の犬のワレートカをしきりに打ちのめしてゐた。フィロフェーは手綱を引き絞つて、細い細い聲でいつた、「やい、こら、畜生!」――弟たちは南側から駈け寄つて、添馬の腹を鞭うつた。すると馬車は動き出した。門を出て通りへ出ると、尨毛が自分の家の方へ行かうとしたが、フィロフェーが鞭を五つ六つ呉れて性根をつけた、――と見る間に、もう私たちは村を出はづれて、繁つた胡桃の林が兩側につづく、かなり平らな道に出てゐた。
 靜かな、すばらしい、馬車を驅るには極めて良い晩であつた。風は低い木立をさらさらと吹き過ぎて、枝を搖するかと思へば、聲もなく靜まりかへる。空にはあちこちに、じつと動かぬ銀色の小さな雲が見えて、月は高く皎々とあたりを照らしてゐる。私は干草のうへに身な伸ばして、もう微睡まどろみかかつてゐた、……が、ふつと『無氣味な所』のことを思ひ出して、ぶるぶると身慄ひした。
 「おい、どうだ、フィロフェー? 淺瀨まではまだ遠いのか?」
 「淺瀨までですけ? 八露里くらゐはありやんせう」
 『八露里』と私は考へた、『して見ると、そこまで行くには一時間ではむづかしい。まあ、一寢入りできる』そこで私はまた訊いた、「おい、フィロフェー、道はよく知つてるんだらうな?」
 「だつて、どうして、それ、知んねえことありませう、道を? 初めて來る譯ぢやありもしねえのに……」
 それから何やら言つてゐたが、もう私の耳には入らなかつた……私は睡つてしまつてゐた。
       *    *    *    *    *
 よくあることであるが、恰度一時間で起きるつもりでゐながら、眼は覺めなかつた。一種奇妙な、幽かではあるが、ぴしやぴしや、ごうごうといふ音が寢てゐる耳の下で聞こえて來て、やうやく眼が覺めた。私は頭をあげた……。
 何ていふ不思議なことだらう? 相變らず馬車の中に寢てはゐるが、馬車のまはりは ――その緣から一尺あまりの所まで來てゐる水のおもてが月の光りに照らされ、ちらちらと細かな明かるいさざなみをよせてふるへてゐる。前を見ると、馭者臺には頭を垂れ、背を屈めて、彫像のやうにフィロフェーが坐つてゐる、その向ふには、さわさわと音を立つてゐる水のうへに、くびきの歪んだ線と馬の頭と背と。――ありと凡ゆるものが凝然と、音もなく、 ――まるで魔法の國か夢のなか、お伽噺の夢のなかにでも居るやうだ……。これは一體どうしたわけだらう? 私は馬車のおほひの下から見かへつた……。私たちは河の眞ん中にゐるのである、……岸までは三十歩もある!
 「フィロフェー!」と私は叫んだ。
 「何ですね?」と言葉を返す。
 「『何ですね』もないもんだ。冗談ぢやありやしない! ここは一體どこだ?」
 「河ん中でさ」
 「河ん中だくらゐは知つてるよ。だけど、かうしてゐちや沈んぢまふ。お前はいつも、かうして淺瀨を渉るのか? え? 何だ、お前は眠つてるんだな! おいこら!」
 「ちよいと間違ひました」と私の馭者はいふ、「片つ方へ寄り過ぎましての、たしかに惡いことしました。けんど、まあ暫く待つてた方がええでさ」
 「何だ、暫く待ってた方がいいつて! 一體何を待つんだ?」
 「へい、暫くはむくにそこらを見させるんでして。奴が動いた方へ、その、行つたらええといふ譯でやんす」
 私は干草のうへに起き直つた。軸馬の頭は水の上に全く動かずにゐる。ただ明かるい月の光りに、片方の耳がきはめて微かに、前後に動いて居るのが見えるはかりである。
 「おい、奴も眠つてるんだな、尨毛むくげも!」
 「いんえ」とフィロフェーが答へる、「奴はいま水を嗅いでるんでやんす」
 また何もかもが靜まり返る。ただ相變らず幽かにせせらぎの音がきこえる。私も亦ぼんやりしてしまつた。
 月の光りと、夜と、川と、流れのなかにゐる私たちと……。
 「あの嗄れた聲は何だらう?」と私はフィロフェ一に訊いた。
 「あれかね? あれあ葦ん中にゐる鴨でさ、……でなけりや蛇でさ」
 俄かに軸馬の頭が搖れる。兩方の耳がぴんと立つ。軸馬は鼻を鳴らして、動き出す。「ほい、ほい、ほい、ほうい!」と、フィロフェーが俄かに有らん限りの聲を絞つて喚き立て、少しばかり伸びあがつて、鞭を振り始める。馬車は直ぐにまつてゐた場所から引き離されて、前へ前へと川の流れを押し切り、がたがたしたり搖すぶれたりしながら進んで行つた……。初めのうちは、だんだんと深く沈んで行くやうに思はれたが、二三度がたついたり、窪みに落ちたりした後では、水面が急に低くなつたやうに思はれた……。水面はいよいよ低く低くなつて、馬車は水の中から生まれて來たやうだ、――そのうちに早くも車輪と馬の尻尾が見えて來た。今度は威勢よく大きな飛沫しぶきを、數しれぬダイヤモンドのやうに――いや、ダイヤモンドのやうにではなく――碧玉サファイヤのやうに、月の朧ろげな光りの中に雨と降らしながら、馬は樂しげに力を合はせて、私たちを砂の多い川岸に引き上げ、月に輝く濡れた足をしどけなく運びながら、山の方へと道をとつて行つた。
 『さて、フィロフェーが』と、ふと私は考へた、『何ていふだらう。⦅言はんこつちやないでせう!⦆とか何とか、さういつたやうなことを言ふだらう』と。ところが彼は何も言はなかつた。そこで私も彼の不注意を責め立てるには及ばないと考へて、干草の中に横になり、もう一度ぐつすり眠らうと試みた。
       *    *    *    *    *
 しかし、私は眠れなかつた、それは獵の疲れが出てゐなかつたからでもなく、今わたしが經驗して來た不安な氣持が眠氣を逐ひ拂つてしまつたからでもなく、實は今まことに美しいところを走つてゐるからであつた。見れば、豐かな廣々とした、靑々しい、肥沃な草原で、――その中には無數の小さな草場があり、沼や小川、入江などがあり、その盡きるととろには柳の林や水楊みづやなぎの繁みがある、――それはいかにも露西亞らしく、露西亞人の好きな所で、わが國の古い傳説にある勇士たちが馬に跨がつて眞白い白鳥や灰色の鴨を擊ちに行つた所を思はせる。往き通ふ馬車のわだちらされた道は黄ばんだリボンのやうにうねつてゐる。馬は足並かろく走つて、私は眼を合はせられなかつた、――私は全くこの景色に見とれてゐたのである! しかも、あらゆるものが、なつかしい月の光りをうけて、いと輕らかに、心地よく、浮かんでは行き過ぎる。フィロフェーもまた、これには感心してゐた。
 「ここらはスヴャトイェゴルの草つ原つて言ふんでさ」と彼は私を顧みた。「それから、この向ふに大公の草つ原つていふのがありますけんど、こんな草つ原は露西亞ラセヤ中どこへ行つたつてありやんせん、……いやはや、どうもいい景色だなあ!」軸馬は鼻を鳴らして、胴震ひした……。「馬鹿なことするもんぢやねえよ!……」と眞面目くさつて聲低くフィロフェーがいふ。「どうもいい景色だなあ!」と繰り返して溜息なつき、それから長々と喉聲を出した。「もう直き干草刈りも始まりやんすけんど、どのくれえ干草を搔き集めることだか、――大へんなもんだ! 入江にや魚が又うんとゐるし。こんな鯉が!」と長く引つぱつて附け足した、「とにかく、世の中は死ぬがものはねえんでさ」
 彼は不意に片手を擧げた。
 「ほう! 御覽なせえ! 沼のうへに……あそこに立つてるのは靑鷺かな? 靑鷺は夜でも魚を取るもんでやんすか? あれ、まあ! あれは木の枝だ、靑鷺ぢやなかつた。やあ、間違つた。どうにもお月樣にや、いつも騙される」
 こんな工合で私たちは先へ先へと進んで行つた……。が、もう草原のはづれに行き着いて、小さな林と耕された畑が見えて來た。一方には小さな村があると見えて、二つ三つの燈をちらちらさせてゐる、――もう本道までは五露里ばかりしかなくなつた。私はぐつすり眠つてしまつた。
 私はまたもや自分では目が覺めなかつた。今皮はフィロフェーの聲で起こされた。
 「旦那、あの、旦那!」
 私は起きあがつた。馬車は街道の眞ん中の平らなところに立つてゐる。フィロフェーは馭者臺のところから私の方へ顏を振り向け、大きく眼をあけて(私はこの眼を見て驚きさへもした。今まで彼がこんなに大きい眼をもつてゐようとは夢にも思はなかつたのだ)、――意味ありげに、妙な聲で囁いた。
 「音がする!……音がする!」
 「何だつて?」
 「音がするつて言ふんです! 屈んで聞いて見さつせえ。聞こえやんせう?」
 私は馬車から頭を出して、息を殺した。すると、たしかにどこか遠くの方――私たちよりはずつと後ろの方――から車輪の音らしい微かな途切れ途切れの音が聞こえて來た。
 「聞こえやんせう?」とフィロフェーがまた言ふ。
 「うむ、聞こえる」と私は答へる、「何だか、馬車が來るやうだ」
 「あゝ、聞こえねえんですか……ほら! 小鈴……の音に……口笛ふいて……。聞こえやんせう? 帽子をとつて見さつせえ、……もつとよく聞こえるから」
 私は帽子はとらなかつたが、耳を澄ました。「うむ、なるほど、……さうかも知れん。けど、あれがどうしたつていふんだ?」
 フィロフェーは馬の方へ顏を向けた。
 「馬車が來る……荷物もつけずに、鐡の輪の車輪くるまだな」と言つて手綱を取り上げる。「あれあ、旦那、惡い奴が來るんですよ、ここらのトゥラ近邊ぢや、惡戲いたづらしやがるんですよ……よく」
 「馬鹿な! どうしてあれが惡い奴に相違ないなんて思ふんだ?」
 「わしの言ふのは本當でがさ。――小鈴をつけて、……それから空車からぐるまに乘つて、……誰が來るもんですか?」
 「ふむ――それはさうと、トゥラまではまだ遠いのか?」
 「まだ十五露里はありまさ、ここらにや一軒だつて人の住んでる家はねえし」
 「それぢや、もつと早くやれよ、愚圖愚圖してたつて仕樣がない」
 フィロフェーが鞭を振ると、馬車はまた動き出した。
       *    *    *    *    *
 決してフィロフェーのいふことをそれほど信用したわけでもないが、私はもう寢つかれなかつた。――『若し實際にさうだつたらどうしよう?』――不愉快な氣持が私の中に動き出した。私は馬車の中に坐つて、――その時までは横になつてゐたが、――四方を見廻し始めた。私が眠つてゐた間に、地上にこそ降りて來ないが、淡い霧が空に立ちこめて來た。それが高く立ちこめてゐるので、月はその中に乳色の一點となつてかかり、まるで煙の中にでもあるかのやうだ。地面に近いところは割合にはつきりしてゐるが、凡ゆるものが朦朧として、區別がつかなくなつてる。見わたす限り平らな寂しいところである。畑、どこもかしこも畑で、ところどころに叢があり、谿があつて――又しても畑があるが、大ていは休ませてあつて、僅かばかりの雜草などが生えてゐる。死のやうな……空虛! せめて鶉でもひとこゑ鳴けばよいものを!
 私たちは半時間ほど進んで行つた。フィロフェーは絶えず鞭を振つたり、舌打ちなしたりしたが、二人とも一ことも口をきかなかつた。そのうちに、やうやく丘の上に登り切つた……。フィロフェーは三頭の馬をとめて、すぐに言つた。
 「音がする……音が……する、旦那!」
 私はまた馬車の外へ頭を出した、が、蔽ひの庇の下にじっとしてゐてもよかつた。それほど、今はまだ遠くからではあるが明瞭に馬車の車輪の音、人の口笛、鈴のからからと鳴る音、それに馬の蹄の音さへも聞こえて來た。歌をうたふ聲や笑ふ聲さへも聞こえるやうな氣がする。風は確かにそちらから吹いてゐるのではあるが、見知らぬ旅人がせいぜい一露里、ひよつとしたら二露里くらゐはこちらへ近づいて來たことは事實である。
 フィロフェーと私とは互ひに顏を見合はせた、――彼はただ帽子を後ろから額の方へぐいと引つ張り、手綱にのしかかるやうにして矢庭に馬を鞭うち出した、馬は一目散に駈け出したが、永續きはせずに、又もや跑足だくあしになつてしまふ。フィロフェーは續けぎまに鞭をくれる。どうしても逃げなければならぬ!
 私は初めのうちこそフィロフェーのやうに何も不審の念を懷かなかつたのであるが、どうしたわけか今度といふ今度は、確かに後ろからは惡い手合ひがやつて來るのだと、急に思ひ込んだ……。別に新しい物音が私の耳に聞こえて來た譯ではない。同じやうな鈴の音、同じやうな空車からぐるまの音、同じやうな口笛、同じやうな騷ぎごゑ……。しかし、私はもう疑ひを持たなかつた。フィロフェ一に間違ひのあらう筈はない!
 さて、また二十分ほど經つた……、この二十分が終らうといふ頃になると絶えず私達の車がごろごろヽヽヽヽがらがらヽヽヽヽきしる音に混つて、他の車がごろごろ、がらがらといふ音が聞こえて來た……。
 「停まれ、フィロフェー」と私は言ふ、「どつちにしたつて同じことだ、――どうせ、やられる時はやられるんだ!」
 フィロフェーは怖る怖る「どう!」と言ふ。馬は一いき休めるのを喜んでゐるかのやうに、ぴたりと停まる。
 さあ大變だ! 小鈴はすぐ後ろでしきりに鳴つてゐる。車がごろごろと鳴る。人が口笛を吹く、叫ぶ、唄ふ。馬が鼻を鳴らす、蹄で地面を打ちつける……。
 追ひつかれてしまつた!
 「困つちやつたなあ」と悠長に低い聲でフィロフェーがいふ、――そして思ひ切り惡さうに舌打ちして、もう一度馬を勵ましかかる。が、その瞬間に不意に何物かが、すさまじい唸り聲をあげて飛び出して來る、――と思ふ間もあらせず、大型の幅の廣い馬車が、瘦せて筋張つた三頭の馬に曳かせて、忽然と旋風の如くに私たちに追ひ付いて、そのまま前へ駈け拔けたが、直ちに並足になつて、行く手を遮った。
 「全く追剝のお株だ」とフィロフェーが呟く。
 正直のところ私はひやりとした……。それでも氣を張りつめて、霧に蔽はれた薄暗い月明りの中を見まもつた。前の馬車の中には、坐つてゐる者、横になつてゐる者、六人の男が襯衣を着て、粗末な上衣アルミャクの胸をはだけてゐる。二人は帽子もかぶらず、長靴をはいた大きな足が横の板にかかつてぶらぶらしてゐる、腕は矢鱈に上つたり下がつたりして……、身體は前後にぐらついて……。確かにこれは醉ひどれの仲間だ。出鱈目に喚いてゐる連中があるかと思ふと、一人はかなり鋭く、朗らかに口笛な吹き、もう一人は惡態をついてゐる。馭者の坐るところには膝きりの毛皮の外套を着た大の男が一人ゐて、手綱をとつてゐる。彼等は私たちには目もくれないかのやうに、悠々と馬を驅って行く。
 どうしたらよいのか? 私たちもまた悠々と後について行つた、……澁々と。
 二丁ばかりはこんな風にして進んで行つた。何かされやしないかと待つてゐるのは辛かつた……。まぬがれる、自分の身を護る……そんなことは、もう問題にはならないのだ! 相手は六人、こちらはステッキ一本もつてゐない! 引き返きうか? 引き返したところで直ぐに追ひ付かれてしまふにきまつてゐる。ふと私はジュコォフスキイの詩(そこで彼はカァメンスキイ元帥の非業の死を歌つてゐる)を思ひ出した。
   賤しむべき賊徒の斧は……
 さもなくば汚れた繩で首を絞められる、……溝に投げられ、……聲は嗄れ、罠にかかつた兎のやうにもがくのだ。
 ええい、ざまぢやないんだ!
 彼等は相變らず悠々と、私たちには眼もくれずに行く。
 「フィロフェー!」と私は囁いた、「やつて見な、もつと右へ寄せて通り拔けられるかどうか」
 フィロフェーはやつて見た、――右へ寄せた……、けれど向ふもまた右へ寄せる……、通り拔けることはできない。
 フィロフェーはもう一度やつて見た。左へ寄せて見た、……しかし、向ふはまた馬車を通させない。おまけに奴等は笑ひ出した。道を通さないぞといふ意味である。
 「いよいよ追剝に相違ねえ」とフィロフェーは肩越しに私に囁く。
 「けど何を待つてるんだらう、あいつ等は?」と私もまた小聲で訊いて見た。
 「ついその先の……窪地の……川のうへの……橋……あそこで私らをどうかするんだ! いつもその手だかんね……、橋のそはで、どうせ、もう分かり切つてまさ、旦那!」かういつて彼は溜息まじりに言ひ足した、「とても生かしちやけえしますめえ。何しろ、ばれねえやうにするのが大事ですかんね。たつた一つ、口惜しいことがあるんでがす、旦那、この馬がなくなると舍弟らはもう馬あ持てねえんです」
 私はかう聞いて實に驚いた、こんなときにフィロフェーがよく馬のことなど氣にかけて居られるものだと。――たしかに正直をいふと私はフィロフェーのことなど一寸も考へてはゐなかつたのである……。『やつぱり本當に殺されるのか?』と、私は心の中で繰り返してゐたのである。『何のために殺されるんだ? 持つてゐるものは殘らずやるのに』
 しかも、橋はいよいよ近くなつて、次第に、はつきりと見えて來た。
 不意に鋭いときの聲が聞こえた。前の三頭馬車は疾風のやうに突進して橋のところまで行くと、少しばかり道のわきへ寄つて、一氣にぴたりと停まつてしまつた。私の心は全く沈んでしまつた。
 「あゝ、フィロフェー兄哥あにき」と私はいつた、「もう死ぬばかりだ。勘忍てくれ、おまへをこんな目に遭はして」
 「何であんたの罪科とがなもんですか、且那! 持つて生まれた運ちふものは仕樣がねえ! さあ、むく、いいかえ、賴みだぞ」とフィロフェーは軸馬に言葉をかける、「やつてくれよ、な! これがおしまひの奉公だぞ! どつちにしろ命がけだ、…‥もうこの先は……天命だぞ!」
 そこで彼は三頭の馬を勵ましてだくを駈けさせる。
 いよいよ橋の方へ近づいて來る、――じつとしてゐるあの戰慄すべき馬車の方へ……。馬車の中はことさららしく靜まりかへつてゐる。うんヽヽでもなければ、すんヽヽでもない! 梭魚かます兀鷹はげたか、その他あらゆる猛獸が獲物に近づく時の靜けさだ。――いよいよ私たちは向ふの車と一列に並んだ。すると、いきなり膝きりの外套を着た大男が馬車の上から飛んで降り、つかつかと私たちの方へ向つて來た。
 何一つこの男がフィロフェ一に口をきいたわけではなかつたが、フィロフェーの方では直ぐに、ひとりでに手綱を引つぱつた……。馬車は停まつた。
 大男は馬車の戸に兩手をかけて、――毛むくぢやらの頭を前に傾げて、作り笑ひをしながら、靜かな流暢な聲で、職人風な調子で次のやうなことをいつた。
 「旦那え、わし等あ、眞面目な酒盛からの歸りでござんす。祝儀がありましてね。仲間の色男を緣組さしたといふ譯で、つまり、床入りをさせたんでござんす。わし等あ、若いものばかりで、向ふ見ずな奴等でして、しこたま酒は飮みましたが、後口あとくちが何もねえといふ譯でして、いかがでござんせう、且那、仲間に火酒ウォトカの半瓶づつも飮ませるだけ、ほんのちよつぴり惠んでやつて下せえませんか? さうすりやあ、あなた樣の健康を祝して乾杯を致しまして、決して旦那樣の事あ忘れませんがの、――だが、若し、お厭だとありやあ、――まあ、御立腹なさらんで下せえ!」
 『これは何のことだらう』と私は考へた……『冗談か? 嘲弄か?』
 大男は頭を下げたまま、相變らずつてゐる。丁度のとき、月は霧のなかから現はれて、彼の顏を照らした、顏には薄ら笑ひが浮かんでゐる、――眼にも、口もとにも。けれども別に人を脅やかす風も見えぬ……、ただその顏は絶えず用心をしてゐるかのやうに思はれる、……そしてかなり白い大きい齒が……。
 「お安い御用です、……これを上げませう……」と私は急いで言つて、ポケットから財布を引き出し、一ルーブリの銀貨を二枚とり出した、――その頃はまだ銀貨が露西亞で通用してゐたのである、「さあ、これで澤山だつたら……」
 「大きに有難うござんす!」と大男は兵卒のやうに大きな聲で叫んだ。そして肥つた指が瞬くうちに私の手から――財布ごとではなく、――たつた二ルーブリだけをつかみ取つた。「大きに有難うござんす!」彼は髮の毛を振つて、自分の馬車の方へと駈けて行つた。
 「おい、みんな等!」と叫んだ、「旅のお方が銀貨二ルーブリ下すつたぞ!」すると一同は立ちどころに聲さわがしく笑ひ出した、……大男は馭者臺に轉がるやうに上つた……。
 「旦那、御機嫌よう!」
 それきり彼等は見えなくなつた! 馬が勢ひよく驅け出して、相手の馬車はがたがたと音を立てたがら、山を登つて行つた、――もう一度、空と地の相接する暗い線のうへにちらちらしたが山を降りて消えてしまつた。
 そしてもう車輪の音も、喚きごゑも、小鈴の音も聞こえなくなつた……。
 あたりは息が絶えたかのやうに、ひつそりしてしまつた。
       *    *    *    *    *
 フィロフェーも私も、暫くは生きた空もなかつた。
 「あゝ、ふざけた奴だ!」と遂にフィロフェーが口を切つた。――そして帽子をぬいで十字を切り出した。「ほんとに、ふざけた奴だ」と言ひ足し、すつかり嬉しさうな顏をして私の方を向いた、「けんど、氣だての好い奴に違えねえ、――全く。ほい、ほい、ほい、こら! 急げ! 大丈夫だ! みんな大丈夫だぞ! 通せん棒したのもあいつで、馬を御してたのもあいつだ。ふざけた野郎だな! ほい、ほい、ほい、ほうい!――さあさあ、さつさと行くんだぞ!」
 私は默つてゐた――けれど、私も心の中では嬉しかつた。『大丈夫だ!』と、獨り言をいつて干草のうへに横になつた。『あゝ、安くて濟んだ!』
 今となつてはジュコォフスキイの詩の一節を、どうして思ひ出したのかと恥かしくさへもなつて來た。
 ふと私は思ひついたことがある。
 「フィロフェー!」
 「何ですね?」
 「おまへ、女房はあるのかね!」
 「ありまさ」
 「子供は?」
 「子供もありまさ」
 「一體、どうしてお前、それを思ひ出さなかつたんだね? 馬のことばかり惜しがつて、――女房のことだの、子供のことは?」
 「だつて惜しがるがものはねえでせう? 奴等あ泥棒につかまる氣遣ひがあるんぢやなし。けんど、いつも頭ん中にや、ちやんと入れときましたんで。――今でもやつぱり……そりやもう」
 フィロフェーは暫く口を噤んだ、「多分……神樣あ嬶子供のためを思つて、儂等を助けてくれたんでやんせう……。」
 「だが、あれが追剝でなかつたらどうだらうな?」
 「それや分かるもんですかね? 他人の心ん中へ、入るわけにや行かねえぢやありませんか? 他人の心つちふもんは――なんてつても――分かるもんぢやねえ。でも神樣せえ信心してりや物事あ何時だつてうまく行くもんだ!…… いや、……わたしや何時でも家族うちのことを……。ほい、ほい、ほい、こら、さつさと行け!」
 私たちがトゥラの町へ入りかけた頃には夜はもう殆んど白んでゐた。私は横になつて半ば睡りながら、何もかも忘れてゐた……。
 「旦那」と突然フィロフェーがいつた、「あれ、御覽なせえ、むかふの居酒屋に奴等あ留まつてますよ、奴等の馬車があるし」
 私は頭をあげた、……見ると確かに奴等である。馬車もゐる、馬もゐる。酒屋の敷居のところへ例の膝きりの外套を引つかけた男が不意に現はれた。「旦那」と彼は帽子を振りながら大きな聲で呼びかけた、「旦那のお金で飮んでるとこです!――やあ、別當さん」とフィロフェーの方へ頭を振つて附け足した、「どうだい、多分、こんねにびくびくしてたろ?」
 「とても面白い奴だなあ」と二十間あまりも居酒屋のところから離れたときにフィロフェーがいつた。
 たうとうトゥラの町へ着いて、私は彈丸たまを買つた。序でにお茶も酒も買ひ、――おまけに博勞から馬まで買ひ入れた。――おひるごろにまた歸途についた。行きしなに後ろから馬車の音を聞きつけた邊までやつて來ると、トゥラで一杯ひつかけて、極めて口が輕くなつてゐたフィロフェーは――お伽噺さへもやつてゐたが、――その邊を通り過ぎながら不意に笑ひ出した。
 「覺えてるかね、且那、しよつちゆう儂が『音がする……音がする、音がする!』つて言つてたのを!」
 フィロフェーは何かを振り拂ふやうに、幾度か手を振つた。彼にはこの言葉が、ひどく面白いものに思はれたのである。
 その晩、私たちは村に歸つて來た。
 私は二人が出遭つた出來事をエルモライに傳へた。彼は眞面目くさつてゐて、別に同情の意も表しなかつた、――ただ『ふむ、ふむ』といふだけであつた――感心してゐるのか、非難してゐるのか、――これは思ふに彼自身にも分からなかつたらう。しかし彼は二日ほどして滿足さうに、フィロフェーと私とがトゥラへ行つたあの晩、しかも同じ道で、どこかの商人が金をとられて、殺されたといふことを話して聞かせた。初め私はこの消息を信用しなかつたが、やがて信用しない譯には行かなかつた。エルモライのいつたことに間違ひがなかつたことは取調べのために馬を飛ばしてゐた分署長によつて裏書された。あの向ふ見ずな連中はこの大へんな『お祝儀』からの歸りではなかつたか、また、ふざけた大男の言葉でいふと、床入りをさせた『色男』といふのは、この商人ではなかつたか? 私はその後、五日ばかりフィロフェーの村に滯在してゐた。――いつも彼に會ふや否や、私は「おい? 音がするかな?」と言つたものである。
 すると彼はいつも「面白い奴でさ。」と答へて笑ひ出すのであつた。



■訳者中山省三郎氏による「註」(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)

・フント:〇・四一瓩、凡そわが一〇九匁にあたる。一プードは四十フント。
・五カペイカの:昔は五カペイカ銅貨五枚は二十五カペイカ銀貨一枚と同價であつた。それが一八四三年一月一日以後は、銅貨で二十五カペイカやつても銀貨では七カペイカ半しか來なかつた。これはニコライ一世の定めた兌換制度によるもので、十カペイカ銅貨は銀貨の三カペイカとおなじ價であつた。そこで、この例では番頭は銀貨で十七カペイカ(銅貨に直すと五十八カペイカ半)の損をしたことになる。
・フイロフェー:稀れに見る名で、聞く人に輕侮の念を起こさせるほど滑稽な名。
・カァメンスキイ元帥の:ジュコフスキイ(一七八三―一八五二)の詩「カァメンスキイ元伯爵の死を悼む」の最後の行に「賤しむべき暴徒の斧は、いかめしく獲物を待てり」とる。