[やぶちゃん注:大正3(1914)年4月発行の雑誌『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された。その後生前刊行の単行本には収められていない。底本は岩波版旧全集を用いた。傍点「ヽ」は下線に代え、末尾に私の注を附した(注の内、隅田川の渡しの考察についてはウィキペディア「隅田川の渡し」のデータを主に参考した)。]
大川の水 芥川龍之介
自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩はれた、黑塀の多い横網の小路をぬけると、直(すぐ)あの幅の廣い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中學を卒業するまで、自分は殆毎日のやうに、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮してゐるあわたゞしい人々の生活とを見た。眞夏の日の午すぎ、燬けた砂を踏みながら、水泳を習ひに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおひも、今では年と共に、親しく思ひ出されるやうな氣がする。
自分はどうして、かうもあの川を愛するのか。あの何方かと云へば、泥濁りのした大川の生暖い水に、限りない床しさを感じるのか。自分ながらも、少しく、其説明に苦しまずにはゐられない。唯、自分は、昔からあの水を見る毎に、何となく、涙を落としたいやうな、云い難い慰安と寂寥とを感じた。完く、自分の住んでゐる世界から遠ざかつて、なつかしい思慕と追憶との國にはいるやうな心もちがした。此心もちの爲に、この慰安と寂寥とを味ひ得るが爲に自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色の靄と青い油のやうな川の水と、吐息のやうな、覺束ない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべて止み難い哀愁をよび起す是等の川のながめは、如何に自分の幼い心を、其岸に立つ楊柳の葉の如くをののかせた事であらう。
此三年間、自分は山の手の郊外に、雜木林のかげになつてゐる書齋で、靜平な讀書三昧に耽つてゐたが、それでも猶、月に二三度は、あの大川の水を眺めにゆくことを忘れなかつた。動くともなく動き、流るゝともなく流れる大川の水の色は、靜寂な書齋の空氣が休みなく與へる刺戟と緊張とに、切ない程あわたゞしく、動いてゐる自分の心をも、丁度、長旅に出た巡禮が、漸く又故郷(ふるさと)の土を踏んだ時のやうな、さびしい、自由な、なつかしさにとかしてくれる。大川の水があつて、始めて自分は再、純なる本來の感情に生きることが出來るのである。
自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやはらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落とすのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むさうに鳴く、千鳥の聲を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、悉、大川に對する自分の愛を新にする。丁度、夏川の水から生まれる黑蜻蛉の羽のやうな、をのゝき易い少年の心は、其度に新な驚異の眸を見はらずにはゐられないのである。殊に夜網の船の舷に倚つて、音もなく流れる、黑い川を凝視(みつ)めながら、夜と水との中に漂ふ「死」の呼吸を感じた時、如何に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであらう。
大川の流れを見る毎に、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠(くゞひ)の聲とに暮れて行く伊太利亞の水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだやうな月の光に青ざめて、黑い柩に似たゴンドラが、其中を橋から橋へ、夢のやうに漕いでゆく、ヴエネチアの風物に、溢るゝばかりの熱情を注いだダンヌンチヨの心もちを、今更のやうに慕はしく、思ひ出さずにはゐられないのである。
此大川の水に撫愛される沿岸の町々は皆自分にとつて、忘れ難い、なつかしい町である。吾妻橋から川下ならば、駒形、並木、藏前、代地、柳橋、或は多田の藥師前、うめ堀、横網の川岸――何處でもよい。是等の町々を通る人の耳には、日をうけた土藏の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、或は銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いた硝子板のやうに、青く光る大川の水は、其冷な潮の匂と共に、昔ながら南へ流れる、懷しいひゞきをつたへてくれるだらう。あゝ、其水の聲のなつかしさ、つぶやくやうに、拗ねるやうに、舌うつやうに、草の汁をしぼつた青い水は、日も夜も同じやうに、兩岸の石崖を洗つてゆく。班女と云ひ業平と云ふ武藏野の昔は知らず、遠くは多くの江戸淨瑠璃作者、近くは河竹默阿彌翁が、淺草寺の鐘の音と共に、其殺し場のシユチンムングを、最力強く表す爲に、屢々、其世話物の中に用ゐたものは、實に此大川のさびしい水の響であつた。十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見染めた時にも、或は又、鑄掛屋松五郎が蝙蝠の飛交ふ夏の夕ぐれに、天秤をになひながら兩國の橋を通つた時にも、大川は今の如く、船宿の棧橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹に懶いさゝやきを繰返してゐたのである。
殊に此水の音をなつかしく聞く事の出來るのは、渡し船の中であらう。自分の記憶に誤がないならば、吾妻橋から新大橋までの間に、元は五つの渡しがあつた。其中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは次第に一つづゝ、何時となく廢れて、今では唯一の橋から濱町へ渡る渡しと、御藏橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のまゝに殘つてゐる。自分が子供の時に比べれば、河の流れも變り、蘆荻の茂つた所々の砂洲も、跡方なく埋められてしまつたが、此二つの渡しだけは、同じやうな底の淺い舟に、同じやうな老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のやうに青い河の水を、今も變りなく日に幾度か横ぎつてゐるのである。自分はよく、何の用もないのに、此渡し船に乘つた。水の動くのにつれて、搖籃のやうに輕く體をゆすられる心ちよさ。殊に時刻が遅ければ遅い程、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷の外は直(すぐ)に緑色の滑な水で、青銅のやうな鈍い光のある、幅の廣い川面は、遠い新大橋に遮られるまで、唯一目に見渡される。兩岸の家々はもう、黄昏の鼠色に統一されて、其所々には障子にうつる灯(ともしび)の光さへ黄色く靄の中に浮んでゐる。上げ潮につれて灰色の帆を半、張った傳馬船が一艘、二艘と稀に川を上つて來るが、何(ど)の船もひつそりと靜まって、柁を執る人の有無さへもわからない。自分は何時も此靜な船の帆と、青く平に流れる潮のにほひとに對して、何と云ふこともなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスと云ふ詩をよんだ時のやうな、云ひやうのないさびしさを感ずると共に、自分の心の中にも亦、情緒の水の咡が、靄の底を流れる大川の水と同じ旋律をうたつてゐるやうな氣がせずにはゐられないのである。
けれ共、自分を魅するものは獨り大川の水の響ばかりではない。自分にとつては、此川の水の光が殆、何處にも見出し難い、滑さと暖さとを持つてゐるやうに思われるのである。
海の水は、たとへば碧玉(ヂヤスパア)の色のやうに餘りに重く緑を凝らしている。と云つて潮の滿干を全く感じない上流の川の水は、云はゞ緑柱石(エメラルド)の色のやうに、餘りに輕く、餘りに薄つぺらに光りすぎる。唯淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷な青に、濁つた黄の暖みを交へて、何處となく人間化(ヒユーマナイズ)された親しさと、人間らしい意味に於て、ライフライクな、なつかしさがあるやうに思はれる。殊に大川は、赭ちやけた粘土の多い關東平野を行きつくして、「東京」と云ふ大都會を靜に流れてゐるだけに、其濁つて、皺をよせて、氣むずかしい猶太の老爺のやうに、ぶつぶつ口小言を云ふ水の色が、如何にも落付いた、人なつかしい、手ざはりのいゝ感じを持つてゐる。さうして、同じく市の中を流れるにしても、猶「海」と云ふ大きな神祕と絶えず、直接の交通を續けている爲か、川と川とをつなぐ掘割の水のやうに暗くない。眠つてゐない。何處となく、生きて動いてゐると云ふ氣がする。しかも其動いてゆく先は、無始無終に亙る「永遠」の不可思議だと云ふ氣がする。吾妻橋、厩橋、兩國橋の間、香油のやうな青い水が、大きな橋臺の花崗石と煉瓦とをひたしてゆくうれしさは云ふ迄もない。岸に近く、船宿の白い行燈をうつし、銀の葉うらを飜す柳をうつし、又水門にせかれては三味線の音のぬるむ晝すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、氣のよわい家鴨の羽にみだされて、人氣のない廚の下を靜に光りながら流れるのも、その重々しい水の色に云ふ可からざる温情を藏してゐる。たとへ、兩國橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに從つて川の水は、著しく暖潮の深藍色を交へながら、騷音と煙塵とにみちた空氣の下に、白く爛れた日をぎらぎらとブリキのやうに反射して、石炭を積んだ達磨船や白ペンキの剥げた古風な汽船をものうげに搖ぶつてゐるにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合つて、何時の間にか融合した都會の水の色の暖さは、容易に消えてしまふものではない。
殊に日暮、川の上に立ちこめる水蒸氣と次第に暗くなる夕空の薄明(うすあかり)とは、この大川の水をして殆、比喩を絶した、微妙な色調を帶ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄の下りかけた、薄暮の川の水面を、何と云ふ事もなく見渡しながら、其暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思はず涙を流したのを、恐らく終世忘れることは出來ないであらう。
「すべての市は、其市に固有なにほひを持つてゐる。フロレンスのにほひは、イリスの白い花と埃と靄と古の繪畫のニスとのにほひである。」(メレジユコウフスキイ)もし自分に「東京」のにほひを問ふ人があるならば、自分は大川の水のにほひと答へるのに何の躊躇もしないであらう。獨にほひのみではない。大川の水の色、大川の水のひゞきは、我が愛する「東京」の色であり、聲でなければならない。自分は大川あるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛するのである。(一九一二、一、)
其後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御藏橋の渡し」の廢れるのも間があるまい。
□やぶちゃん注(読みが振れると私が判断したものは歴史的仮名遣で読みを示した)
・大川端:「大川」は隅田川の江戸での別称で、特に「大川端」は吾妻橋下流の右岸の限定的な呼称である。芥川龍之介は明治25(1892)年3月1日、当時の東京市京橋区入船町八丁目一番地(現在の中央区明石町一〇-一一の聖路加病院近く)に生まれた(但し、筑摩書房全集類聚版脚注では以下に記す母フクの実家かともする)。同10月25日(翌年1月の可能性もある)、母フクの発狂により、フクの実家本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二二番一一号)の芥川家に引き取られたとされる。その後、明治37(1904)年8月30日の芥川家との正式な養子縁組を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)を卒業、第一高等学校一部乙類(東大予備門文科)に無試験入学(9月)した直後の明治43(1910)年10月、芥川家が当時の東京府豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿二丁目)の実父新原敏三の持ち家に転居するまでの約18年の間、彼は「大川端」に住んだのである。
・横網:町名。現在の墨田区横網町。後に関東大震災の惨事で知られる「被服廠」の後に震災記念館・東京都慰霊堂が、また両国国技館や江戸東京博物館等の施設が密集する地域で、墨田区では現在、最も人口が少ない町となっている。
・百本杭:現在の墨田区両国一丁目と横網一丁目付近の古い俗称。明治35(1902)年発表された幸田露伴「水の東京」に『本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり』とある。隅田川東岸の一角、現在の総武線鉄橋の真下近辺にあったと推定されている護岸杭からの呼称である。ここで芥川はその消失やそれに関わるような危惧を語ってはいない。作品末のクレジットにより本作品が書かれた明治45(1912)年(7月20日に大正元年に改元)の1月の時点ではまだ百本杭が健在だったと考えてよい。関東大震災(大正12(1923)年9月1日)前後には取払われたとされている。
・砂洲:筑摩書房全集類聚版では、読みは「すなず」である。尋常なら「さす」と読むところであるが、この「すなず」の読みはまさに『ライフライク』で、よい。
・燬けた:読みは「燬(や)けた」。
・何方かと:読みは「何方(どちら)かと」。
・生暖い:読みは「生暖(なまあたたか)い」。「暖」は以下、すべて「暖(あたたか)」と訓じている。
・云い難い:「云い」はママ。
・完く:読みは「完(まつた)く」。
・はいる:ママ。
・銀灰色:読みは「ぎんくわいしよく」。
・石炭船:筑摩書房全集類聚版では、「せきたんぶね」とルビを振る。石炭を運搬する目的で用られた輸送用船舶のことを指す(石炭燃料の蒸気船に三角帆はおかしかろう)。但し、通常は「せきたんせん」と呼称する。但し、文脈上、風情としては「せきたんぶね」で悪くはない。
・冷な:読みは「冷(ひややか)な」。
・夜網の船の舷に:読みは「夜網(よあみ)の船の舷(ふなばた)に」。
・鵠:白鳥の古称。
・ダンヌンチヨ:Gabriele D'Annunzioガブリエーレ・ダンヌンツィオ。日本語では他にダヌンツィオ・ダンヌンチオ等と表記する。イタリアの詩人・作家・劇作家(1863~1938)。フランス象徴主義の影響を強く受けた耽美派詩人として登場、戯曲に「死都」・「フランチェスカ・ダ・リミニ」・「聖セバスチャンの殉教」等があるが、ファシストの先駆者と見なされるような激しい政治活動(第一次世界大戦の黒シャツ隊を組織する等)でも知られる。彼の著作を殆んど読んだことがない私には、本叙述が彼のどの作品に基づくかは不明である。識者の御教授を乞いたい。
・日も夜も:「夜」の読みは「よ」。
・石崖:読みは「いしがけ」。
・班女:読みは「はんぢよ」。能の「班女」の女主人公であるが、その続篇を連想させる「隅田川」の女主人公の狂女の面影でここは語っていると思われる。「班女」は東下りの吉田の少将と遊女班女の再会譚を描くが、「隅田川」ではその班女と思しい京からやってきた狂女が主人公である。渡し守は「面白う狂うて見せよ」そうでないと舟には乗せぬという。ここで女は次の注で掲げる「伊勢物語」の東下りの名歌にことよせて、京で生き別れた吉田某との一人息子梅若を探しに来たことを述べるが、渡し守がその後に語る、京で人買いに攫われて来て、病の末にこの隅田川の河原で死んだという少年が梅若と知られ、女がその塚の前で悲しみ狂乱する中、梅若の念仏の声と幻が掠めるという悲話。
・業平:在原業平。前注の内容を受けて、「伊勢物語」の東下りの「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」の有名な一節や、能の「杜若」等を連想させようとするものであろう。
・遠くは多くの江戸浄瑠璃作者……が……世話物の中に用ゐた:先に掲げた能の「隅田川」を原点とする人形浄瑠璃の系統で、梅若伝説を扱った作品群を一般に『隅田川物』とと呼び、ここではそれらの諸作品やその著者を指している。近松門左衛門の享保5(1720)初演の「雙生隅田川」(ふたごすみだがわ)、江戸中期では初世並木五瓶(ごへい)の寛政8(1796)年初演「隅田春妓女容性」(すみだのはるげいしゃかたぎ)、初世河竹新七の寛政10(1798)年初演「隅田川続俤」(すみだがわごにちのおもかげ:これは奈河七五三助(ながわしめすけ)作であるが、その大詰の所作事部分、隅田川渡船の場「双面水照月」(ふたつおもてみずにてるつき)は新七の書き下ろし)、江戸後期の四代目鶴屋南北の文化11(1814)年初演「隅田川花御所染」(すみだがわはなのごしょぞめ)や文化14(1817)年初演「桜姫東文章」(さくらひめあずまぶんしょう)、文政2(1819)年初演の二世桜田治助の「曽我綉妹背組帯」(そがもよういもせのくみおび)中の「道行思案余」(みちゆきしあんのほか)等を指す。
・淺草寺:読みは「せんさうじ」。天台宗金龍山。東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺。
・シユチンムング:ドイツ語“Stimmung”は気分・心持ち・情緒・ムード・その場全体の雰囲気、音楽用語としては調子・音律、絵画では色調の意を持つ。どれもが複合的にぴんと来る。特に訳語を限定する必要はない。だから芥川はドイツ語を用いたのである。
・十六夜清心が身を投げた時にも:読みは「いざよひせいしん」。河竹黙阿弥作になる白浪物人気狂言「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい)の通称である。安政6(1859)年初演。初演時は曽我物の「小袖曽我薊色縫」(こそでそがあざみのいろぬい)の一部であったが、本来の筋は廃れ、このエピソードのみが独立して演じられることが多い。遊女十六夜に馴染んで女犯(にょぼん)を犯した鎌倉極楽寺の青年僧清心は由比ヶ浜へ追放され、二人は抱き合って由比ヶ浜にそそぐ稲瀬川に入水を図るも二人別々に助かる。しかし清心はここで「鬼薊清吉(おにあざみせいきち)」と名を変えて悪事に走る。おさよと名を改め清心の菩提を弔うために尼となって巡礼の旅に出た十六夜は、箱根で変貌した清心と再会を果すが、その後は二人していっさんに悪の道へと転落、再び死のカタストロフを迎えるというストーリー。安政2(1855)年に実際に起こった千代田城御金蔵破りの一件を素材としており、稲瀬川の場面は実際には隅田川大川端に読み替えられた。
・源之丞が……見染めた時:「源之丞」の読みは「げんのじよう」。安政3(1856)年初演になる河竹黙阿弥作「夢結蝶鳥追」(ゆめむすぶちょうにとりおい)冒頭の一場面。本所の旗本源之丞が大川端をそぞろ歩くうち、吾妻橋のたもとで雪駄の緒を切らし、たまたま居合わせた雪駄直しに修理させている間に、通りかかった女太夫おこよに惹かれる。身分違いの恋をテーマとする悲話。
・鳥追姿:門付(かどづけ)の一つ。江戸時代、年始に編み笠を被り、旅姿で三味線に合わせて鳥追歌(鳥追いは農村の小正月の行事の一つで、関東及び東北地方で主に行われた。通常は子供たちが歌を歌いながら鳥追い棒と称する杓子・棒等で鳥を追う真似をした。その歌が後に門付芸に転化した)を歌い、物乞いをして歩いた当時の非人階級の女太夫。
・鑄掛屋松五郎:読みは「いかけやまつごらう」。河竹黙阿弥作になる「船打込橋間白浪」(ふねへうちこむはしまのしらなみ)の主人公。慶応2(1866)年初演。外題の通称は「鑄掛松」(いかけまつ)。鑄掛屋渡世の松五郎は、通りかかった両国橋の上からふとお大尽の船遊びを見て、堅気の生活に嫌気がさし、「あゝ、あれも一生、これも一生、こいつは一番宗旨を変えざあなるめえ」と鑄掛道具を滑川(鎌倉市街を貫通する川。しかしこれも先の注で記した「十六夜清心」同様、千代田城御金蔵破りを素材として鎌倉時代に時を移したもので、ここも隅田川に読み替えられるのである)へ投げ込み盗賊となるも、悪事の応報を悔いて自害する。
・蝙蝠:読みは「かうもり」。「かはほり」と読ませる積りならば芥川はルビを振ったと思われる。
・青蘆:筑摩書房全集類聚版では、ここは「あをあし」と訓読みしている。次の「蘆荻」を参照。夏の水辺に青々と茂っているアシ。夏の季語である。
・猪牙船:読みは「ちよきぶね」。「猪牙舟」が一般的表記。江戸時代の屋根のない舳先のとがった細長い形の小舟。江戸市中の河川・運河で多用されたが、特に浅草山谷(さんや)にあった新吉原へ通う遊客が隅田川周辺で多く用いたので、山谷舟とも言った。
・懶い:読みは「懶(ものう)い」。底本では(つくり)が「頼」となっているが、正字を用いた。
・駒形の渡し:「竹町(たけちょう)の渡し」とも言う。現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の点にあった渡しで、江戸期に吾妻橋が架橋され利用者は減ったが、明治9(1876)年まで運行されていた(後注『☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見』を参照)。
・富士見の渡し:「御蔵(みくら)の渡し」とも言う。舟上から富士山が見渡せたのでこの名がついたとされ、別称は幕府の米蔵が近くにあったためである。現在の蔵前橋の下流側にあった。関東大震災前までは運行されていたが、震災後の復興事業により蔵前橋が架橋されたため廃された。従って、本作の執筆時である明治45(1912)年には細々ながらも渡しは運行していたはずであり、これは別の渡しと誤解している可能性が高い(後注『☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見』を参照)。
・安宅の渡し:深川安宅町付近にあった。現在の新大橋近くにあった。運行は古く、江戸初期に既に開始されていたと伝えられる。「安宅」という名は、実際には「あたか」ではなく「あたけ」と読む(芥川は特にルビを振っていないので暫く「あたか」と読んでおく)。これは渡しの近くに幕府御用船係留場があり、そこに係留されていた安宅船(あたけぶね:軍用の和船のこと)であった御座船安宅丸(あたけまる)に因む。安宅丸は寛永12(1635)年に進水、長さ三十尋(約55m)、三重になった総数200挺の大櫓を備え、水手(かこ)400人で漕いだという巨船であった。しかし、余りの巨体故に実質的な航行が難しく、結局、殆ど隅田川の河口に係留されたまま無為に留め置かれた。天和2(1682)年に解体、和船最後の巨船の哀れな末路であった。渡しの方は、明治期の料金が記録に残っており、一人八銭・人力車一銭五厘・荷物八厘・自転車五厘であったとする。現在の新大橋の旧橋は元禄6(1693)年架橋された際、現在より下流にあったために、この安宅の渡しは廃されなかったが、まさにこの作品が執筆された明治45(1912)年7月に現在の場所に鉄橋が完成、消失した。しかし、これも芥川の本作執筆は同年の1月であることから不審である。ここでも芥川は別な渡しと微妙な勘違いをしているように思われてならないのである。(後注『☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見』を参照)
・唯一の橋から:ここは、「唯」は「ただ」で「一の橋」(いちのはし)は固有名詞であるから、「唯、一の橋」とあるべきところ。芥川は第二段落で「唯、自分は」とそのように使用している。両国橋のやや下流で隅田川に注ぐ堅川(たてかわ)に架かる橋の名。なお、ここから隅田川を隔てて向いの浜町に向う渡し場があった。それは「一目(ひとつめ)の渡し」「千歳の渡し」と称され、現在の両国橋の少し下流の首都高速道路両国ジャンクション付近にあった。前掲の安宅の渡しと近接しており、実際には同じ系列の渡船であった可能性が考えられている。もしかすると、芥川が前で消失したと言っている「安宅の渡し」は、この「一目の渡し」の方であり、これは早々に廃されており、近くに残っていた「安宅の渡し」を、その渡線の近接ゆえに、「一目の渡し」と誤認されていた可能性があるように思われる(芥川龍之介だけでなく、多くの庶民も)。そうすると、作品末の付記が俄然、事実に近づいてゆくように思われるのである。(後注『☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見』を参照)
・御藏橋から須賀町へ渡る渡し:「御藏橋」の読みは「みくらばし」。幕府の御竹蔵(浅草御蔵)があった須賀町(現在の蔵前町)の対岸、蔵前橋東詰、現在の両国駅裏に当たる隅田川から御竹蔵に引き込んでいる堀割にかかる橋の名。先の富士見の渡しの近くで、ここで彼が言っている現存する渡しとは、実は「富士見の渡し」=「御蔵の渡し」のことではなかろうか?(後注『☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見』を参照)
☆芥川龍之介の言う「渡し」についての私見
ここで、芥川の言う「渡し」の不審点につき、拙考を示す。
芥川は本文で「吾妻橋から新大橋までの間に元は五つの渡しがあつた」とする。そこで調べてみると、この間には実際には六つの渡しが存在したことが分かる。それぞれの渡しを掲げ、その下に(=)で芥川が作品中で挙げているものを名前通り配して、さらにその下に(×)で該当の渡しの廃止推定年代を見ると、
○竹町の渡し=「駒形の渡し」 ×明治9(1876)年頃廃止
○御厩(おうまや)の渡し ×明治7(1874)年廃止
○富士見の渡し=「富士見の渡し」 ×大正12(1923)年関東大震災後廃止
○横網の渡し ×?(明治初期?)
○一目の渡し=「一の橋の渡し」 ×?(明治45(1912)年前?)
○安宅の渡し=「安宅の渡し」 ×明治45(1912)年廃止
となる。芥川は「御厩の渡し」「横網の渡し」を挙げていない。この内、「横網の渡し」は、現在の両国国技館のJR総武本線隅田川橋梁付近にあった渡しとするが、ネット上の記載も少なく、渡しの廃止年代も定かでない(明治早期に失われていた可能性が高いか)ので、とりあえず数に入れずに置く。すると有名な「御厩の渡し」を加えると芥川の言う五つになる。「御厩の渡し」は「御厩河岸の渡し」とも呼ばれ、現在の厩橋付近に存在した。川岸に幕府の浅草御米蔵があり、その北側に付随した施設として厩があったためにこの呼称が生まれた。そして、この渡しは明治7(1874)年の厩橋架橋に伴い、廃されたことが分かっている。すると次のような推論が成り立つ。まず、本文で芥川が残ったと言う二つの渡しは、補注で芥川が呼称するところの、
「一の橋の渡し」と「御藏橋の渡し」
なるものではなく、二つとも事実は既に消失したと本文で芥川が言っている、
「安宅の渡し」と「富士見の渡し」
の全く異なった渡しであったのである。そもそも「御藏橋の渡し」とは、「御蔵の渡し」のことで、既に注で述べた通り、「安宅の渡し」と同一としか思えないのである(「御蔵の渡し」と「御蔵橋の渡し」という別個な渡しが存在したとは考え難いということである)。しかし、ここでもう一つ、複雑な齟齬が生まれることにはなる。それは、彼が附言の最後で、『其後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御藏橋の渡し」の廢れるのも間があるまい。』と言っている点である。知性的な彼に私は恐れ多いのだが、更に私の辻褄を合わせて、二つの私の問題点を最後に力技で解消したい(「力技」であるから反論は覚悟の上である)。その一つは、彼が言う「一の橋の渡し」=「安宅の渡し」はこの時、即ち発表された明治45(1912)年4月には、まだ細々とでも運行していたであろうという点である。では何故、『其後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた』なのかという点である。これについて私は、本誌発行の4月は橋の竣工に近く、7月の渡しの完全廃止の告知が既になされていた(若しくは早々渡しはなくなっていたとも)考えてよいのではないだろうかという推定である。次に、これは少々芥川龍之介には言い難いが、渡しが失われてゆく中で、「御藏橋の渡し」「安宅の渡し」「富士見の渡し」といった名称群を彼は恣意的に(それは失いたくないものへのベクトルとして私には理解出来るのだが)、混同してしまっていたのではないのだろうかということである。彼は遂に残った最後の「安宅の渡し」を「御藏橋の渡し」という不思議な名前に誤認したのではなかろうか、ということなのである。
さて、すると自ずと彼が「三つは次第に一つづゝ、何時となく廢れ」たという渡しは、
「駒形の渡し」と「富士見の渡し」と「安宅の渡し」
の三つではなく、消失年代順に並べるならば、
「御厩の渡し」と「駒形の渡し」と「一の橋の渡し」
ではなかったか。そうして、そこで問題になるのは消失年代の不明な「一目の渡し」であろう。もし、「一目の渡し」=「一の橋の渡し」が、該当注で記したように「安宅の渡し」と同系統の運行であったとすれば、これはかなり以前に「安宅の渡し」に統合されていたか、逆に「安宅の渡し」の内実が「一の橋の渡し」の方に同化してしまい、一部の庶民の間では「安宅の渡し」でなく、「一の橋の渡し」と呼称されていた可能性も否定は出来まい。私が述べた芥川の誤認とはそうした可能性のことを言うのである。勿論、私の考察は不確定なネット上の情報を用いた机上の空論に過ぎないのかもしれない。そうして、こうした江戸文化については識者が大勢いらっしゃることと思う。是非とも御教授を願いたいのである。
・蘆荻:筑摩書房全集類聚版ではここは、「ろてき」と音読みしている。前の「青蘆」を参照。アシとオギ。オギはススキに似た多年草。
・搖籃:読みは「ゆりかご」。
・滑な:読みは「滑(なめらか)な」。
・唯一目に見渡される:ここも「唯、一目に見渡される」とあるべきところ。
・黄昏:読みは「たそがれ」。
・灰色の帆を半、張った傳馬船:「半」の読みは「なかば」。「半ば」と「ば」送っていれば、この不自然な読点はいらなかったものと思われる(筑摩書房全集類聚版では「半(なかば)張った」とルビを振って読点を省略している。
・傳馬船:読みは「てんません」。木造の小型和船で、通常は櫓か櫂で漕ぎ、本船と岸との間等を往復して荷等の積み降ろしを行う連絡船。艀(はしけ)。
・柁:読みは「かぢ」。「舵」に同じ。
・ホフマンスタアル:Hugo von Hofmannsthalフーゴ・フォン・ホフマンスタール。オーストリアの詩人・作家・劇作家(1874~1929)。ウィーン世紀末を象徴する新ロマン主義の代表作家。「チャンドス卿の手紙」「影のない女」、韻文劇「痴人と死」・歌劇「薔薇の騎士」(友人リヒャルト・シュトラウスとの連携による)等。
・エアレエプニス:“Erlebnis”は「見聞」「体験」の意で、早熟だったホフマンスタールの18歳の折(1892年。ウィーン大学法学部に入学したその年の作)の詩で、筑摩書房全集類聚版脚注によれば『夕暮の自然の中に死と生とを想う象徴的内容の詩』であるとする。
・咡:読みは「ささやき」。「囁」に同じ。
・碧玉(ヂヤスパア)の色:宝石の一種である碧玉、英名“Jasper”は、細かな石英の結晶が集合して生じた潜晶質石英という鉱物である。混入した不純物によって紅・緑・黄・褐色等の多様な色彩と模様を持つ。ここでは文字通りの濃い暗緑色を指している。
・唯淡水と潮水とが:ここも「唯、淡水と潮水とが」とすべきところ。
・冷な青に:読みは「冷(ひややか)な青に」。
・ライフライクな:“lifelike”生きているような、真に迫った、生き写しの、の意味であるが、ここは生き生きとした、という意味。
・赭ちやけた:読みは「赭(あか)ちやけた」。
・猶太:読みは「ユダヤ」。“Judea”の漢訳語。ユダヤ人。
・口小言:筑摩書房全集類聚版によれば、読みは「くちこごと」。
・橋臺:筑摩書房全集類聚版によれば、読みは「はしだい」。
・紅芙蓉:筑摩書房全集類聚版によれば、読みは「べにふよう」。
・廚:読みは「くりや」。
・達磨船:筑摩書房全集類聚版ではこれを「だるまぶね」と読んでいるが、私は先の「傳馬船」を受けて素直に「だるません」と読んでしまう。積み荷を運ぶための幅の広い大きな伝馬船。芥川がルビを振らなかったのは、「せん」と読ませるつもりであったからだと私は考えるが、如何?
・暖潮の深藍色:読みは「暖潮(だんてう)の深藍色(しんらんしよく)」。
・フロレンス:イタリアのトスカーナ州州都フィレンツェFirenzeの英語・フランス語呼称の“Florence”である。
・イリス:アヤメ科の多年草。Iris tectorum。和名イチハツ(5月に開花し、アヤメ類では最も早いことから)、英名“roof iris”(屋根の上に咲くアイリス)。アヤメに似、花体の中央部に文目模様が入るが、中央外側の被片部分の中央に鶏冠状の突起が生じ、花びら表面(実際にはがく)に暗く細長い筋模様が入る。アヤメ科の中では乾燥に強い。通常の紫色の他、白花品種があり、ここは後者。私はアイリスというと白い花を連想する。
・メレジュコウフスキイ:Дмитрий Сергеевич Мережковский(Dmitrii Sergeevich Merezhkovskii)ドミトリー・セルゲーエヴィチ・メレジュコフスキイ。日本語では現在、メレジュコフスキー又はメレシコフスキー等と表記されることが多い。ロシアの作家にして評論家、宗教家にして思想家(1866~1941)。1892年刊の詩集「象徴」でロシア象徴派詩人の先駆者として登場するも、次第にキリスト教研究に没頭し『宗教哲学会』を組織、黙示録の実現を確信するファンダメンタルな『聖霊の王国』なるものの到来説を唱えたりした。三部作の歴史長篇「キリストと反キリスト」、戯曲「パーベル1世」、文芸評論の「トルストイとドストエフスキー」「神々の復活」、「ロシア革命の予言者」では革命に専制主義の立場で与したが、十月革命には強い反意を示し、亡命、1920年以降はパリに住んだ。本引用がどの作品からかは、不学にして不明。筑摩書房全集類聚版にも示されていない。識者の御教授を乞う。