尾形龜之助歌集
[やぶちゃん注:底本は思潮社1999年刊「尾形龜之助全集 増補改訂版」を用いたが、恣意的に一部を正字に直した。底本で「拾遺」としてあるものを該当年に配して、総て年代順として編集し直してある(各パートについては、底本で「拾遺」に用いられている「*」を同様に配して区別を明確化した)。初出の年號には底本にはない西暦を附し、一部に簡単な注記を施した。本ページは私のHP開設5周年テクストとして公開した。【2010年6月26日】]
日にのぼる
うらゝかに晴れたる日には椽に出て大根となり身體ほしたき
[やぶちゃん注:底本には「椽」の右に「ママ」注記がある。「縁」のことである。本来は「垂木」の意であるが芥川龍之介等もよく用いている。]
運少さき人の如くに桐苗の伸びざるを思ふ秋の小春日
[やぶちゃん注:底本には「少」の右に「ママ」注記がある。]
人形の云はぬ動かぬ不滿にて手もぎ足もぎ髮まで挘る
日はのぼる靜かに登る朝毎にしらず眺めて吾泪ぐむ
かなしみの日はぼんやりと暮れはてゝあしたと云ふ日考ひてみる
[やぶちゃん注:「考ひ」はママ。]
何んの苦もなくて春めるにのみ苦し藥と云ふ名つきて悲しき
びはの花雪に埋みぬ雀きて啼きつ花より雪ふりこぼす
(FUMIE〈踏繪〉第一輯 大正8(1919)年2月発行)
*
春の夢
うれしくも屋根に小鳥は巣を作る淋しきときは彼らを思ふ
紅蚯蚓見つけし夢に雛どりの羽の下に雨の夜あけぬ
何もかも捨てんと思ふあくびだせば少き我のむずけし心
ぼんやりと父母に叛きし我なるをうらめしきほど知らぬふりする
春雨に月をとられし夜は更けて煙草の煙り靜かにのばる
白雲の行く日は暮れて太陽のなごりは雲のはしに殘りぬ
桃太郎の話がうそと知りしとき少き胸にかなしみありき
細長い夜は更け行くがす燈の凸凹列ぶ町を歩みぬ
ゆく春のなやみに忍ずひな菊の梅の根本に小さくさく日
(FUMIE〈踏繪〉)第一輯 大正8(1919)年3月発行)
*
何かして人を憎みしその心うつかり春の日に思ひ出づ
かなしめば悲しむままに日は暮れむ何か喜びさがす春の日
(踏繪第一囘短歌會詠草・大正8(1919)年3月30日・於塩釜「日の友」)
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花日記
汽車の中母は娘を目守(まも)り顏その細き視線は愛と憎しみ
白々と葱は花咲き麥伸びて雲ひく山のかげに陽は落つ
甘茶まつと小供群がる古寺の櫻散りしく土のしめりよ
小松にて包(おほ)はれゐたる砂小路砂山こせば靑き海見ゆ
どうしても生きむと思ふ路ばたの一草にさす春の愛光
明らかにつたなき身をも捨ても得で夢よりさめて春に恐るゝ
吾が思ふ事と異なることを思ひ沈める顏のものたりなしも
色あせし櫻の夜はうす暗き電氣に白くほろほろと散る
花曇り鳥なく聲をそこここに一枚あけし朝窓に聞く
かくて後暮れはてるべき夜はあけて花散る朝を鳥は歌へり
(FUMIE〈踏繪〉第三輯 大正8(1919)年4月発行)
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何ごともたよりげなしと思ふとき秋に果となる無花果に寄る
旅のはて相模に出ずる月をみし黑く若葉に潮風の吹く
(踏繪第二囘短歌會詠草・大正8(1919)年5月4日・於仙台尾形邸)
*
眼を病みて夏に入りけり緑葉のそよぎに白き陽は眸(まみ)に泌む
[やぶちゃん注:「泌む」は「しむ」と読む。「沁む」に同じ。]
反(そむ)きたる若き命のさ迷ひに十字の路を知らずまがれり
(踏繪第三囘短歌會詠草・大正8(1919)年5月29日・於仙台「波六」)
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ふたつの命
君ゐます方に夕陽は沈みゆくこの夕燒はとこよ消えまし
君まさず我があけくれの幻燈のもの云ふごとのあまり淋しき
ねころべる若草香ひ此處にても淋しくなりぬ家にかへらむ
バラソルは森に消えたりようやくに芝立ち上り歩むものかな
[やぶちゃん注:底本には「バ」の右に「ママ」注記がある。]
しとしとと若葉に聞きし雨やみてにはかに淋し病めるま夜中
水うちてまばらに白き街歩む晩春の日はのどかなりけり
今泉才藏なりとどなりつゝよひゆく人の春陽てる街
[やぶちゃん注:「今泉才藏」不詳。]
何もかも願ふにあらずかはずなく淺瀨亂すな月の頰の影
(FUMIE〈踏繪〉第四輯 大正8(1919)年6月発行)
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平和のまつりに
これやこの平和の祝(まつり)にぎあひて赤の提燈街角曲る
水長く流るゝ夜べの水鳥のながなきつゞく川音(ね)絶えまに
日は暮れて山根の道の電燈の一列ならび低くのぼれり
地は全て平和に滿ちぬかゞやけるま靑の空のすがしき瞳
日は全く暮れはてゝ浮きし黑山のともしび一つ深く光れる
[やぶちゃん注:総題「平和のまつりに」は、大正8(1919)年1月に第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議が開催され、その講和会議の中で4月30日 に中国山東省のドイツ利権に関する日本の要求が承認された祝祭風景を指すものか。]
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子は病みて母にいだかれ居るなれどかすかに泣きて蚊帳のゆれ居る
まひるまの陽に汗あえて家近く櫻の果ふみ歸る我かな
(FUMIE〈踏繪〉第四輯 大正8(1919)年7月発行)
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冬
たまたまは遠きともしび消ゆるがに町に雪降る夜の靜もりを
曇りぞらうす陽もれ居り庭園のまばらに立てる木々の寒けさ
この一夜風吹きやまずさわがしく戸のゆるる音に眼さめて居たり
午近く陽は照り出でぬ桐の木の雪のくづれてしばしばに落つ
陽ざしよき縁のふとんに置かれたる土人形のいろはげし顏
(玄土創刊号 大正9(1920)年8月発行)
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玄土第二囘短歌會詠草
(大正9年7月4日仙臺國分町兩國すし屋にて)
照りかゞよふ亞鉛の屋根の鷄舍(とや)側に葉がくり見ゆる梅のつぶら實
雨降りてうすら寒けれ濕りたる部屋中にゐて自づと慶まし
(玄土創刊号 大正9(1920)年8月発行)
*
鯉ぬすみ
鯉ぬすむ投網をうちて密行の巡査に捕はる月明き夜
鯉一匹ぬすみてあはれ見つかれり警察にゆく夜は月明し
警察のドアーを開き罪人の心起りて面伏せし吾等
監房に入れられてさびし鍵の音うすくらがりに響きてゐたり
しばらくは鍵の音耳に殘りゐてうすくらがりに心おちゐず
綿うすきふとん當てがはれやうやくに監房に眠る吾とこそ思へ
監房の夜明けを雨の過ぎゆけは濕り蒸れたるにほひを吸ひゐたり
朝あけの監房のふとんにうづくまり自づとつゞく嚔の癖はも
[やぶちゃん注:「嚔」は「くさめ」と読む。くしゃみのこと。]
顏洗ふ警察裏の井戸ばたにぬれし立木をながめゐたるかも
許されて警察まへに朝はやくはにかみながら人力車を喚びぬ
(玄土十一月号 大正9(1920)年11月発行)
尾形龜之助歌集 完