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鬼火へ

[やぶちゃん注:本篇は未完もしくは断片である。底本は昭和五十一(1976)年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集 第五巻」を用いた。底本解題によると、本作はノートに記載、著者没後に発見されるも、太平洋戦争の空襲で焼失した模様である、とあり、この原稿の前半が(傍線やぶちゃん)収録されている小学館版「萩原朔太郎全集」(別冊下巻)を底本にした旨の記載がある。この全集は昭和十八(1943)年刊行のものと思われる。点「ヽ」は下線に代えた。]

 

ぬけ穴   萩原朔太郎

 

 ある遠い遠い北國の物語である。

 そこでは太陽の光線がいつも鈍い灰色をして、海岸には浪ががうがうと鳴つてゐた。

 その浪のしぶきも凍るやうで、見渡す限り人氣のないさびしい荒れはてた海岸である。

 海の右に、まつくろの岬が突き出てゐた。その岬の附近には、たくさんのぬけ穴があつた。それらのぬけ穴は、ある異國の、たいそう美しい港へ導かれると言はれてゐた。

 岬の上には、一本のよろよろした松の木が生えてゐた。その松の木は風に吹かれて、いつもひゆうひゆうといふ、悲しい聲を出して泣いてゐた。

 ある日松の木は、せいのびをして見た。しかしその眺望はさびしかつた。沖には一隻の白帆も見えなかつた。そして大きな山のやうな浪が、遠くの地平線で、がうがうと鳴つて居た。まさにこのへんの、荒廢した北國の風景であつた。

 この單調な海岸にも、時として旅びとの姿を見ることがあつた。

 遠くつらなつた海岸の砂丘のひまひまから、それらの陰鬱な旅びとの姿が見えかくれした。そしてまもなく、彼等の姿は岬をめぐつて眼界から消え去つた。ある時、外國からきた三人づれの旅びとと、一人の老いた漁夫とがここの岬の下に立つてゐた。旅びとたちは、ぬけ穴についての傳説をきいて知つてゐた。冐險ずきの男たちは、その不思議な穴についての、祕密を知りたいと思つたのである。他の漁師の一人が、彼等を、穴のまへに案内した。そして彼等は非常な好奇心と充分な準備とを以て、順々に穴の中へとびこんだ。しかし彼等が凡そ五、六丁も進んだときに、列の先頭に進んだものが叫んだ。

「おい駄目だぜ、みんな、行きづまりだぜ」

 そこで彼等は失望して、もとの入口へひつかへした。けれどもまもなく、皆は新しく第二の穴を求めて突進した。第二の横穴は、第一の穴から二、三間はなれた、岩石の間にあつた。

 一同の姿が見えなくなつてから凡そ十五分ばかりたつたとき、彼等の一人がたいそう失望した顏をして、二度穴の入口に姿を現はした。そしてあとのものが、それにつづいた。實際その邊には、無數の洞穴があつた。あるものはトンネルのやうに、あるものは穴藏のやうに、あるものは鬼の巣窟のやうな形をして。それらの洞穴の下では、恐ろしい浪がいつもがうがうと鳴つてゐた。岩にあたつてくだけたものは、そのしぶきを高くうちあげた。

 旅びとたちは、一つの穴から一つの穴へと、蟹のやうにもぐりこんで行つた。そしていつでも無益に、同じ順序をくりかへした。

 最後の穴を這ひ出したとき、みんなは疲勞と失望で、へとへとになつてしまつて居た。しかし案内者は失望しなかつた。群から少しはなれた所で、彼は無神經な顏をして、棒のやうに突つ立つてゐた。

「おい」

一人の若い男が、少し怒りをふくんで呼びかけた。

「いつたいどうしたといふのだ。どこも、みんな行きづまりぢやないか」

「だつて君はなんだ。君は僕等を案内するつて言つたぢやないか」

「さうでがしたかな」と、老いた漁夫が落ちつき拂つて答へた。

「だつて君はなんだ。君は僕等を案内するつて言つたぢやないか」

「さうでがすよ」

「なにを言つてゐるんだ、君は」

 若者の一人が、ヤケになつてどなつた。

「いつたい何だ、ぬけ穴つて、君どこにあるんだい」

「どこにあるかつて、わしにや解らねだから」

 老人は人のよささうな聲で、さも當惑して答へた。

「おらあ初手からお斷りしただが、でもあんたらが依怙地(いこぢ)に言はつしやるで、おつれ申しやしただ。ほんにおらあ今日始めて穴へ這入つてみただよ」

 老人の辨解に對しては、だれも反對することはできなかつた。ほんとにこの案内人は、今日始めて自分たちを案内し、今日はじめて、自分たちと一所に穴を探險したのであつた。

 彼は子供のときから、ぬけ穴についての不思議な傳説をきいて知つてゐた。然し、かうした子供だましのやうな傳説を信ずるには、あまり彼の常識は發達しすぎてゐた。彼ははじめから、この奇異な傳説を賤辱しきつてゐた。じつさい、こんな邊鄙な海岸のぬけ穴が、思ひもよらぬ遠い南國の不思議な波止場に通じてゐるといふやうなことは、子供でさへも信じられないことである。それ故、これらの横穴は彼にとつてはまことにありふれた、何でもない自然物の一つにすぎなかつた。彼はしばしばその穴の附近を通行したけれども、一度だつて這入つて見ようとは思はなかつた。たとへそこへ這入つてみた所で、ただまつくらのじめじめした道があるばかりで、それも半里とは行かないうちに、行きづまりになつてゐることは解りきつてゐるのであつた。

「だから、わしが、始めからあんたらに話したでねえかよ」

 かういつて、老人は鼻をすすつた。

 さびしい冬の日がくれかかつて、そのへんの砂原は、いちめんの日かげになつてゐた。陰氣な灰色の太陽が、くらい海の上に落ちかかつた。人々は立ち去つた。

 そのとき、まつくらの岬の上で、ひよろひよろした松の木がせいのびをしてみた。しかしその邊の海岸には、もはや旅びとの姿も老人の姿も見えなかつた。いちめんにくろぐろとした砂原の上を、さむい北風が吹いて通つた。

 この荒廢した海岸から、少しはなれた山の麓に、小さな村落があつた。たいそうまづしい村落で、ごく僅かばかりの農夫と漁夫の家族が住まつてゐた。住民たちは、もちろん「ぬけ穴」に關する傳説については、充分の知識をもつてゐた。彼等の母親たちはその子供を寢かすときに、繰返し繰返してこの昔話を語つてきかせた。母親たちのぬけ穴に關する知識は、可成り詳しいものであつた。彼等の説明によると、何でもその穴の發見されたのは、ずゐぶん古い大昔のことだつたらしい。

 この頃、この國にKといふ若い漁夫がゐた。Kは極めて善良な性質をもつてゐる若者であつたが、生れつき仕方のないなまけものであつた。彼は漁夫の息子でありながら、殆んど漁といふものに出たことはなかつた。さうかといつて、畑に出て土を耕すこともきらひだつた。もちろん外の仕事は、何ひとつ出來なかつた。出來ないといふよりは、きらひでしなかつたのである。實際彼は、手のつけやうのないなまけものだつた。彼はいつも海岸に出ては、日向ぼつこをしてゐた。そして阿呆のやうに、いつも遠い沖の方ばかりを、ぼんやりと眺めてゐた。たぶん彼の心の中では、こんなことでも考へてゐたのだらう。

「いつたいこの海の向うには、何があるのか知ら」

 しかし、彼には友だちといふものが一人もなかつた。從つて彼が何を考へてゐるのか、だれも知つてゐる人はなかつた。みんなは彼を輕蔑してゐる上に、だれもその怠惰をにくんでゐたから。

「てめへ、そんなこつて、今日さまにすむめえが」

 彼の親たちは、よくさういつて彼をいましめた。さういふとき、彼はきつとかういつて答へた。

「おらあ、この村の奴等の氣が知れねえだ。あいつら、なにが面白くつてこんな仕事に精出してゐるだか」

 すると父が呆れてかう言つた。

「阿呆め、面白づくで仕事をする奴はねえだ」

 所がある日のこと、Kの姿が村から見えなくなつた。だれも、彼の行方について知ることができなかつた。こんなゐてもゐないでもいいやうな怠けものの存在については、だれも親身になつて考へる必要はないと思つた。

 しかしただ彼の兩親だけは、さうではなかつた。彼等にとつては、このやくざものが、島の若者のだれよりも必要な人物であつた。

 その日から氣の毒な親たちは、狂氣のやうになつて搜索をはじめた。凡そありとあらゆる島の山々、谷底、木の根、岩角のすみずみまで、手をつくして尋ねあるいた。けれども息子の姿は、死骸らしいものはどこにも發見されなかつた。みんなはたぶん海へおちて、怪魚の餌食にされたにちがひないと言つた。じつさい永久に、Kはかへつて來なかつた。そして彼の不幸な親たちは、その後まもなくして死んでしまつた。それからしばらくして、Kの友人たちもたいていは死んでしまつた。永い月日がすぎた。そしてKの記憶は、全く人々の間に忘れられてしまつた。所がある日のことKは、ほんとに夢ではなく、この海岸に姿を現はした。すばらしく美しい服裝をして、その顏ははればれしい健康と勇氣にあふれきつて。人々は彼のまはりに輪になつた。そして珍らしい異國人でもみるやうに、彼の樣子を怪しみ眺めた。どの老人も彼を忘れてゐた。そして多くの若い者は、全るきり彼を知らなかつた。

 この人々の群に向つて、彼が話した一條の物語は、誠に驚くべき不思議と奇蹟とにみちた物語であつて、殆んど想像もできないやうな事實であつた。

 Kはある日、いつもの通り馬鹿馬鹿しい空想にふけりながら、ひとりで海岸を散歩してゐた。

 その空想といふのは、この海が世界のどこまでいつたら、つきるだらうといふやうなことであつた。そしてそこには、彼の思ひまうけてゐるやうな不思議な美しい國があつて、そこでは彼自身抱いてゐる樂しい希望やある祕密な慾望を、充分滿足させることができるといふやうなことであつた。

 實際、この荒廢した孤島の自然やその住人たちの生活については、彼の興味をひくものがなかつたのである。

 こんな空想を抱きながら、彼はだんだんと海岸をつたはつて歩いて行つた。そして、いつか例の岬の下にきた。そのへんの岩の影々には、まつくろの穴が鬼のやうにうづくまつてゐた。

 Kはある一つの穴の前に立ちどまつた。そして何氣なくその暗い穴奧をのぞいてみた。そのとき、突然彼の心の中に、あるはればれしい希望が光つた。

「ここに祕密がある、この不思議な暗い世界の向うには、眩しいやうな明るい世界がある。そしてその世界は、おれの求めてゐるものにちがひない」

 さう思ふと同時に、見えないやうなものが勃然と頭をもたげて、非常な力で彼を前に押し出した。そして彼のからだは、たちまち底しれぬ闇黒の中に吸ひこまれた。