やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ

(無題)   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年五月発行の雑誌『文藝春秋』に久保田万太郎の句集への『「道芝」の序』の後に、見出しなしで掲げられた。底本は岩波版旧全集を用いたが、以上のような経緯から、題名は( )とした。傍点「丶」は下線に代えた。]

 

(無題)

 

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 明治二十年代に生まれた東京人の顏は、殊に男よりも女の顔は艶布(つやぶ)きんをかけた古柱(ふるばしら)に似てゐる。

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 南町五丁目。――「南」と云ふ字に黄色を感じたのは僕一人に限つてゐるかしら?

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 僕は汗の色に氣をつけてゐる。一番多いのは黄いろであらう。黒い色にも二三度出合つてゐる。石竹色は前後に一度しか見ない。若し譃だと思つたら、いろいろの人のシャツや襟に、――殊に網シヤツや、柔い襟にちよつと注意を向けて見給へ。

 後記。神崎淸君のお父さんは緑いろの汗を滴らすさうである。

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 隅田川の川口に集つた帆前船や達磨船の一群、――誰もまだこの「箱」の中のロマンを僕等に見せたものはない。

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 おやぢやおふくろは銀座のことをいつも「煉瓦」と呼んでゐる。アスフアルトの代りに敷いてあつた煉瓦はあの柳の並み木よりも先に滅びたことも忘れたやうに。

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 或小公園のポプラアの下に子供服を着た少女が二人、熱心に足でぢやんけんをしてゐる。

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 なぜ又あらゆる共同便所は橋の側にばかりあるのかしら? (大正十五・三)