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その他もろもろ   片山廣子 (初出復元版)

[やぶちゃん注:昭和24(1949)年4月の雑誌『美しい暮しの手帖』三号に掲載された。底本は2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」を用いたが、傍点「丶」は下線に、傍点「○」は斜体に代えた。底本は新字であり、親本は正字であったと判断されることと私のポリシーから、恣意的にその殆んどを正字に換えた。また本作は、昭和28(193)年6月に暮しの手帖社刊の片山廣子「燈火節」に所収された際に削除した末尾部分があり、本テクストでは底本の解題に記されているその省略部分を、最後の編集者の注記も含めて復元した。ただ、『このついでに「美しい暮しの手帖」について一筆かき添へる。』という冒頭は、解題での書き方を見ると、底本の最終段落の最後の一文であった可能性が高いと思われるのだが、私の独断で改行して始めた。最後に私の注を附した。【2008年1月27日】

2007年月曜社刊の正字版の片山廣子「新編 燈火節」を入手したため、底本本文(削除分はこの正字版でも削除されているので含まれない)の再校訂を行った(結果はタイプ・ミスによる拗音表記1箇所のみ。なお、第三段落の底本「みんなが」は、月曜社正字版では「みんな」となっており、こちらを採った)。但し、ルビについては編集者が適宜処理したものであり、私が不要と判断したことから、採用しなかった。【2010年12月26日】]

 

その他もろもろ

 

 たぶん五六年前のことと覺えてゐる。私の歌の友だちの栗原潔子さんが小野小町の墓を訪ねる歌を十首ばかりの連作にして、どこかの雜誌に出したことがある。作者が何かの用事で栗橋の近くまで行つたとき、むかし小町が都にも住みきれず落ちぶれきつてみちのくへ行く旅の途中、その邊の路傍に死んでしまつたのを、里びとがそこに葬つたという言傳へがあるのださうで、それは嘘かほんとか、あるひは別人の墓であるかもしれないと斷つて、その歌を詠んだのであつた。歌もうつくしかつたが、「小町の墓」に私は深い興味をひかれた。小町は京の貴族の家に生れた貴婦人ではなかつた。みちのくに育つたわかい娘の、たぐひない才色を見出されて采女(うねめ)として都に召され、宮廷に仕へるやうになつた才媛であつた。采女(うねめ)といへば、後宮の官女、諸國の郡司の女などの才色すぐれたる者を貢せしめたと書いてある。だから彼女は紳士の令孃であつたのだらう。そして一世に名をうたはれたその美しい人がどんなに疲れやつれて、どんな姿で旅をしたらうなどと考へてみた。亂れた髮を長く垂らし灰色のきものを着て杖をついてゐる小町のさすらひの姿は、何かの畫でも見てゐるけれど、お面(めん)のやうな端麗な顏の女性が杖をもつて野原を歩いてゆく時、彼女は何か小さい荷物を持つてゐたかしら、などと考へてみた。

 先年の戰爭中、私たちみんなの小さい疎開荷物には、紙、櫛、石けん、手拭、肌着、足袋、白米五合、ツチぐらゐな物が入つてゐた。小町が小さい荷物を持つてゐたとしても、櫛、紙、香料の袋、肌着ぐらゐな物しか考へられない。都を出て遠路を歩いてくるうちに、お金をすつかり使ひ果してゐたらうと思はれる。花やかだつた彼女の過去をつつんだ凡ての美しい物、歌と社交と戀愛と、その他もろもろの好い物は旅立つ日にみんな捨てたのである。彼女の心はその時もう死んでしまつたに違ひない。その他もろもろといふ言葉は近ごろ「二十の扉」でたびたび聞かされる。

 ふるさとのみちのくへ行く途中で死んだ彼女とは逆に、私たちは未知の明日に向つてみんな旅立つて行きつつある。その旅の小さい荷物の中には何が入れられるのだらう? まづ主食ではない、夜具布團でも着物でもない。私たちの一ばん欲しい物、買ひたいもの、それはおのおの違つたもので、必需品以外に、生活のうるほひとなる小さな物や大きなもの、その他もろもろであらう。疎開荷物に入れられた物や、むかしの小町の小さい包に入れられた物ではない、それ以外のもろもろの好ましい物。

 四五人が寄つてお茶を飮みながら、みんなが欲しいものを言つた。虎屋の羊かんを五六ぽんとある人が小さい願ひを言つた。毛皮の外套と若い人が言つた。匂ひのいい石けん、といふ人もゐた。ラツキイを十箱ぐらゐでがまんするといふのもゐた。それはみんなが持つてゐる夢で、多少なりともその幾分は充され得る夢である。

 小さい荷物もあるかなしに枯野をあるく昔の女とは違つて、私たちの毎日には何かしら好い香り、うつくしい色け、豐かな味、そんなものの少しつつでも與へられる時代となつた。それは「暮しの手帖」に書き入れられるもろもろの好い物であると言つてもよろしい。衣食足つてと言つた昔の人のゆめにも知らない今日のわれわれの生活はとぼしく裸であるけれど、その中にも出來るだけの知慧をしぼつて、夢と現實とを入れまぜたもろもろの好い物を見出してゆきたい。

 このついでに「美しい暮しの手帖」について一筆かき添へる。

 この美しいという形容詞は暮しにつくのであらうか、手帖につくのであらうか。「美しい暮し」の手帖か、美しい「暮しの手帖」かと、閑人の私は考へた。

 美しいといふ言葉は、私の字びきでは、うつくし……珍奇(ウツク)シ、愛スベシ、イツクシ、形愛スベク好シ、ウルハシ、アデヤカ、キレイナリ、美麗ナリ等々である。

 たぶん珍奇(うつく)しく、愛すべく好ましく、綺麗な手帖といふやうな形容詞であらうか。私はさう思つてこの「暮しの手帖」を珍奇(うつく)しみ、いとほしみ愛したいのである。「美しい暮し」というところまで行きつくのには、まだ途は遠いのであらうかと思はれる。(筆者はアイルランド文學研究家・筆名松村みね子)

 

□やぶちゃん注

・栗原潔子(くりはらきよこ)

明治311898)〜昭和401965)。鳥取県湯梨浜町橋津生。中原和郎(なかはらわろう 明治291896)〜昭和511976) 国立がん研究所所長等を歴任した癌研究の第一人者)の妹。歌人。大正2(1913)年に佐々木信綱門下となり、22才で早くも第一歌集「潔子集」を出版。後、佐々木信綱主宰の歌誌「心の花」編集委員。

・栗橋

これは埼玉県北葛飾郡栗橋町と思われる。

・「小町の墓」

これはみね子又は栗原潔子(作歌した本人というのはやや考えにくい気もするが)の記憶違いか思い違いで、「静御前の墓」ではなかろうか。上記の栗橋町中央には「静御前の墓」と称するものがある。伝承によれば、鎌倉に送られるも北条政子のはからいによって許され京へ戻った静御前は、義経への思慕絶ち難く、文治5(1189)年の1月に奥州平泉へと向ったとする。しかし、この栗橋を経た古河の辺りで、北からの旅人によって義経討ち死にを知ることとなり、失意のうちに病に伏し、同年9月15日に「九郎ぬし」という言葉を残して22歳で亡くなったとするのである。栗橋には伝小野小町の墓はない。この近隣を探すと栃木県下都賀郡岩舟町小野寺にある大慈寺には小町伝承があり、近くに小野小町の墓が現存する。

・「二十の扉」

NHKラジオで昭和221947)年11月1日〜昭和351960)年4月2日の毎週土曜日午後7時30分から30分放送された番組名。戦後のラジオの超人気クイズ番組であった。出題はすべてラジオの聴取者のものが用いられ、解答者はアナウンサーとの質疑応答をヒントに正解を探るという進行をとった。「その他もろもろ」はこのアナウンサーのヒントのぼかし部分に多用されたのではなかろうかと思われる(残念ながら私は昭和32年生まれなので微かな覚えしかない)。