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森川義信詩集

やぶちゃん注:底本は昭和五十二(1977)年 国文社刊 鮎川信夫編「森川義信詩集」を用いた(なお、原典は正字が多く使用されていたと思われるが、この詩集は「頰」等の一部の漢字を除き、新字体である。それについての注記はない。)。なお、1982年美成社刊「鮎川信夫「失われた街」所収の森川義信未発表詩「森川義信詩篇 悒鬱な花 12年12月27――13年1月7日」七篇を同書巻頭の原稿写真から起こし、追加した。最後に、その「勾配」一編を彼から見せられ、己が詩心を深く抉られた、森川の詩友、鮎川信夫、その彼の森川へのオード、「死んだ男」を、1968年思潮社刊「鮎川信夫詩集」より、著作権存続中乍ら確信犯として引用した。最初に、同詩集末より森川義信の略歴を転載する。

 

森川義信 略歴

大正七年十月十一日 香川県三豊郡栗井村本庄二二五四にて出生

昭和五年香川県立三豊中学入学

昭和十二年 同校卒

昭和十二年 早稲田第二高等学院英文科入学 十四年十二月同校中退

詩作は中学時代から、鈴木しのぶの筆名で『若草』『臘人形』に投稿。

『LUNA』(後にLEBAL)に入ってから筆名を山川章と改める。

早稲田に入ってから、『裸群』『早稲田派』『荒地』等に詩を発表。

『衢』あたりから本名の森川義信で書く。第二学院中退後、故郷に帰ったが、昭和十五年春に半月ほど上京。

昭和十六年四月 丸亀歩兵連隊に入隊。

昭和十七年八月十三日 ビルマのミートキーナで戦病死。数え年二十五歳。

 

 

 

 漁村

 

波がものを言(い)ふやうになつてから

誰も姿(すがた)を見せない砂浜に

抵抗する事を知らない貝殻(かひがら)のやうな女が

私生児(ないしよご)を抱いて立つてゐた

それは――生きる為(ため)には、生きる為には

泥蟹(どろがに)をまで食べなければならぬ

悲しい漁村の一つの姿である

夢を見ることのゆるされない漁村の娘は

今日の泥蟹の殻ばかりを捨てに行くのだつた

 

[やぶちゃん注:後ろから二行目「ゆるされない」は底本では「丶」点。]

 

 

 

冬・断章

 

鴉は――

異教徒だ

 

誰だ――

坂の上で笛を鳴らして逃げたのは

 

母よ、もうラムプを消そう。

 

 

 

 春

 

春の帽子を振らう。

ヴイーナスの歌を聞かう。

こんなにも若い青空。

花ある胸。

新月 新月を食べよう。

鈴が走る。

驢馬が駆ける。

何だか何だか優しく通る。

春の帽子を振らう。

小鳥がゐる胸。

さあ丘をのぼらう。

 

 

 

抒情小曲

 

別れ

 (この小さき歌を友・源氏太郎に聞かす)

 

ゆうふぐれを君みおくりて

ばらの実の丘にのぼりつ

 

鳩笛のおとに濡れゆく

よは肩の君のほそさよ

 

この赤きばらの木の実を

をとめの日君はめでしに

 

おそ秋の小径に消ゆる

うしろ姿(て)の君は悲しき

 

暮れなやむ丘にたたずみ

ばらの実をしみじみとみき

 

 

 星

 

遠い鈴 銀の鈴

何かきこえる

 

そつとお祈りすると

金の糸が胸まで届く

ああ 小さな幸福(さひはひ)!

 

まだ見ぬ少女

 

 

あの人

 

芹をつむ芹の沼べり

今日もまためだかが浮いた

肩あげの肩が細いと

あの人はやさしく言つた

 

名も知らぬ小鳥が鳴いた

讃岐の山雲が通つた

あの人は麦笛ふいた

泪ぐみ昼月(つき)みて聴いた

 

肩あげの肩も抱かずに

あの人は黙つて去(い)つた

芹かごの芹のかほりが

しんしんと胸に沈んだ

 

[やぶちゃん注:二行目「めだか」は底本では「丶」点。二連目最終行の「昼月」は二字で「つき」と読ませている。]

 

 

青き蜜柑

 

愁ひ来て丘にのぼりて

酸(す)の香る蜜柑もぐなり

悲しみの青き蜜柑を

 

栗林こえて見ゆるは

背きにし君の町なるぞ

ゆふぐれに深く沈みて

 

掌(て)にしみる青き蜜柑よ

そをかみて何を思はむ

昔(かみ)の日は皆空しきに

 

ああされど君も寂しと

この丘の青き蜜柑の

その香りなぜか愛でたり

 

自ら影をふみつつ

ゆふぐれの丘を下りき

掌に悲し青き蜜柑よ

 

 

 

 海

 

貝殻のなかに五月の陽がたまつてゐる

 

砂の枕がくづれると ぼくはもはや海の上へ

 

いたんだ心臓は波にさらはれ

 

青絹の野原をきのふの玩具がうごいてゆく

 

[やぶちゃん注:この詩は各行間が他の詩に比して倍ある。]

 

 

 

 

季節

 

葉ざくらの蔭が青い硝子の花になり

 

アメシストの鏡から水も流れてゐたな

 

若い従妹たちの紙を歌のやうに洗つてゐたな

 

[やぶちゃん注:この詩は各行間が他の詩に比して倍ある。]

 

 

 

あるひとに

 

もうとどかない花の日よりもさびしかつた

 

つかれのやうに羞んで

 

古い折返しの向ふへかくれたひとよ

 

もうとどかない花の日のやうにいつまでもぼくは考えてゐる

 

[やぶちゃん注:この詩は各行間が他の詩に比して倍ある。]

 

 

 

 

花の咲かない樹があつた

樹の下には小鳥の死んでゐる鳥籠が

鳥籠の揺れる窓は

ひらく日もなく 硝子は曇つてゐた

 

 

 

 雨

 

1

どこかに妹がきてゐる

tom ・ tom とゴムまりをついてゐる

ぼくの心のゴムまりを

妹はtom ・ tom とだまつてついてゐる

 

[やぶちゃん注:“tom”は、底本の縦書でもすべて横書表記。]

 

2

もうとどかない花の日がぬれてゐる

思ふことがみんな童話になつてはくづれてゆく

ふるいオルゴオルのふるい折返しからの歌よ

こはれた心のひびきよ ふるさとの声よ 雨の音よ

 

 

 

習作

 

1

テラアスにちかい海の日は

アメシストの鏡から水もながれる

だから 頰をみがけぼくのアリサ

葉ざくらのかげでお前は青い花だ

 

2

ハアプがながれてゐる月夜

葡萄の木蔭はフオルマリンの匂ひがいつぱい

歌のやうにぬれたこころを

こほろぎがくすぐりはじめる

 

 

 

雨の日

 

硝子窓から青猫がやつて来てぼくの膝にのる

よろよろまるで一枚の翳のやうなやつだ

背をなでてゐるとぼうぼうと啼き出し

ぼくの腹の中までぼうぼうと啼き出し

こいつ こいつ …………

だがお前の眼のうるんだ青白い幻燈よ

ゆううつな向日葵のやうにくるりくるりと

黒繻子の喪服の似合う貴婦人か

お前は晩秋のやうにぼくの膝にやつてくる

 

苦い散薬の重いしめりに

色変へるまで青猫を思索するぼくの若さよ

何年も座つてゐたやうに立ち上り窓に歩みよる

ぼくはもうぼくの青猫を放たう

夕暮は力強く窓硝子をおしつけ

その向ふでは雨の跫音が嗤ふ

ぼくは掌をみる ぼくは胸をみる

青猫は――青猫はもうゐない

いや

青猫はまたどこかでぼうぼうと啼きだす

 

 

 

季節抄

 

葩束を編みながら美しく羞むひとよ

夕べバルコンの影の跫音の言葉なら

はるかな愛情も匂ふでせう

  ★

梢に鴉の喪章はゐない * * *

新しいアアチの青貝路にペンキの響き

自転車で春の帽子がかけてくる

  ★

樹樹の梯子を登りをりして歌ふものたち * * *

花に飾られた日射しの緑のブランコの

優しい肩にのりあなたは空まで駈けあがる

  ★

雲がじぶんでドアをあける

光りにまじつて小鳥の声もおちてくる

やはらかい枝や影がぼくを支へる

 

[やぶちゃん注:「葩束」は、「はなたば」。]

 

 

 

 季節抄

 

梢が

空にとどいてゐる

美しい樹々よ

花の咲かない…………

花はなくとも

ああ せめてものわが願い

 

樹々の編む

光りのハンモツクに

僕はつつましく腰をおろす

風が静かにひかるとき

ゆれないハンモツクで

僕はそつと時間をみ失ふ

 

小さな口をあけて

ぼくぼくと駆けてくる

波頭よ

さうして

何も彼も洗ふがいい…………

貝殻の中の小さな海にも

冷たい空が

匂ふやうに光る

 

青い塔の半円形も消え

匂ひの向ふへ花がこぼれた

重たい風船のやうに暗い秋の陽が

落ちてしまつて…………

ひと掬ひの歌もない

海よ

貨物船よりもぢつとして

お前を視てゐる僕

           (<13年>十一月讃岐にて)

 

[やぶちゃん注:末尾の「<13年>」の数字は縦書の底本でも横書。]

 

 

 

 春

 

風船にひつぱられて 小鳥は中空たかくのぼつていつた

風船はくるめく日傘をまはし あたたかな銀の雨を降らした

小鳥はむしようにうれしくなり 力いつぱいそのすずを鳴らした

それにしても風船にのれない重たい心――僕は丘のクツサンの中でじたばたする

あばらに生えた青麦の芽をむしりながら

 

[やぶちゃん注:三行目「むしよう」お呼び最終行「あばら」は底本では「・」点。これまでのような「丶」ではない。]

 

 

 

 歌のない歌

《夕暮れに》

 

この傾斜では

お伽話はやめて

こはれたオペラグラスで

アラベスク風な雨をごらん

ひととき鳩が白い耳を洗ふと

シガーのやうに雲が降りて来て

ぼくの影を踏みつけてゐる

光のレエスのシヤボンの泡のやうに

静かに古い楽器はなり止む

そして…………

隕石の描く半円形のあたりで

それはスパアクするカアブする

匂ひの向ふに花がこぼれる

優しい硝子罎の中では

ひねくれた愛情のやうに

僕がなくした時刻をかみしめる

ぼくはぼくの歌を忘れてゐる

 

 

 

 雨の出発

 

背中の寒暖計に泪がたまる

 

影もないドアをすぎて

 

古びた時間はまだ叩いてゐる

 

あれは樹液の言葉でもない

 

背中の川を声だけで帰つてゆくものたち

 

[やぶちゃん注:この詩は各行間が他の詩に比して倍ある。]

 

 

 

 衢路

 

友よ覚えてゐるだらうか

青いネクタイを軽く巻いた船乗りのやうに

さんざめく街をさまよふた夜の事を――

鳩羽色のペンキの香りが強かつたね

二人は オレンジの波に揺られたね

お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?

友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ

窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを

昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ

それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが

ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も

友よ お前は知らないだろ?

ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて

今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて

猶太人のやうにほつつき歩いてゐる事を

だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて

ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ

そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは

かぐはしい昨日の唄声ではなかつたのだ

ああ それは――昨日の窓から溢れるものは

踏みにじられた花束の悪臭だつたのだ

やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ

ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま

小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする

いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする

ボードレエルよ ボードレエルよ と

ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが

――又仕方なく昏迷の中を一人歩かうとする

 

[やぶちゃん注:十六行目の「かげ」及び十七行目の「はつ」は底本では「丶」点。]

 

 

 

 冬の夜の歌

 

私は墜ちて行くのだ

破れた手風琴の挽歌におくられて

古びた天鵞絨の匂ひに噎び

黝い霧に深く包まれて

ゆふぐれの向ふへと私は墜ちて行くのだ

 

今はこの掌に触れた蒼空もなく

胸近く海のやうに揺れた歌声も――

どうしたのだ私の愛した小さくて美しかつたものよ

小鳥たちよ 草花たちよ 新月よ 青い林檎よ

 

しきりに眩暈がおしよせる心には

悔恨が一本の太い水脈となり――

陰鬱な不協和音が青く戦き

狂つたヴイオロンが駈け廻り

すべては白蠟石の上に痙攣し

腐蝕した玻璃の破片が暗黒の空間に飛散するのだ

ああ 遂に今 若い肋骨さへ嚙み穿つ

寒々と冴えた牙の戦慄よ

 

 

 

 衢

 

よりそふ暇もなく

こみあげる約束はうばはれていつた

疲れのやうに

吃つている炎よ

くづれる愛をさらに踏みしめ

時間のかげに身をこがしても

自分の力で倒れかかり

義足よ

記憶は埋れ

虚しい体温から

すべての言葉はかへらない

いまは

とざされた扉も消え

匂ひににた沈黙もなく

夜の静脉がかなしく映えてゐる

 

 

 

 衢にて

 

翳に埋れ

翳に支へられ

その階段はどこへ果ててゐるのか

はかなさに立ちあがり

いくたび踏んでみたことだらう

ものいはず濡れた肩や

失はれたいのちの群をこえ

けんめいに

あふれる時間をたどりたかつた

あてもない歩みの

遅速のままに

どぶどろの秩序をすぎ

もはや

美しいままに欺かれ

うつくしいままに奪はれてゐた

しかし最後の

膝に耐え

こみあげる背をふせ

はげしく若さをうちくだいて

未完の忘却のなかから

なほ

何かを信じようとしてゐた

 

 

 

 勾配

 

非望のきはみ

非望のいのち

はげしく一つのものに向つて

誰がこの階段をおりていつたか

時空をこえて屹立する地平をのぞんで

そこに立てば

かきむしるやうに悲風はつんざき

季節はすでに終りであつた

たかだかと欲望の精神に

はたして時は

噴水や花を象眼し

光彩の地平をもちあげたか

清純なものばかりを打ちくだいて

なにゆえにここまで来たのか

だがきみよ

きびしく勾配に根をささへ

ふとした流れの凹みから雑草のかげから

いくつもの道ははじまつてゐるのだ

 

 

 

 眠り

 

骨を折る音

その音のなかに

流れる水は乾き

鳶色の風はおちて

石に濡れた額は傾くままに眠つた

みえない推移の重さに

骨を折る音

その音の中に

 

 

 

 壁

 

扉や窓を濡し

支柱や車輪を濡し

出ていつた音よ

仄かな調和のどこにも

響はすでに帰らない

色彩はなく

無表情の翳がうかび

しづかな匂ひがひろがり

脱落するシヤツのあとには

あやまちのごとく風が立つた

柱廊はひきつり

手すりはくづれ

静止した平面は

静止した曲面とともに

いちぢるしく暮れた

きびしく遅速をかぞへる

時差のそとに

屹立する実体もまた

ひとつの影像である

壊れた通路を水がながれ

扉や支柱の倒れるなかに

その階段はどこへ続いてゐるのか

鋭い光の輪につづられて

果はみえない

だがその一角は墜ちた

深い空間をまたぎ

おびただしい車輪は戻つてきた

そしておまへの道を走つてゐる

放らつな円心に

廻転するおまへの声がきこえる

おまへとは誰か

強烈に踏みにじられた地域に

いつはりのごとく風が立ち

振動だけが支へてゐる

眼も肩もない

幻の街よ

かぞへきれない壁や腕椅子は

悲痛によじれ

水平のまま沈んでいつただろう

 

 

 

 廃園

《断片》

 

骨を折る音

その音のなかに

流れる水は乾き

鳶色の風は落ちて

石に濡れた額は傾くままに眠つた

みえない推移の重さに

骨を折る音

その音の中に

佯りの

眼を閉ぢて

凍える半身は

倒れるもの影とともに

うつしく忘却をまつた

 

骨を折る音

その音のなかに

おまへを鞭うつものはすでにない

目かくしをする掌もなく

いのちににじむ明りもない

凭れかかる肩もなく

壊れてゐる家具さへない

 

梢をゆすぶる果実もなく

おまへの手はもう

その樹を撃たうともしない

 

骨を折る音

その音の中に

ひとつ ひとつ

亡びていつたものは何であらう

ただ暗い調和のうちに

空しい願いや憧れは

どこへ歩いてゆくのか

もの寂しい植物たちのごとく

ひそかな気配がとほつていつた

それはすでに響きではなかつた

地をはなれてとほく消えてゐた

それはすでに明りではなかつた

意識の暗がりにあふれでる影像であつた

それはすでにひとつの意志ではなかつた

いひやうのない深い困憊に沈んでゐた

 

 

 

 廃園

 

骨を折る音

その音のなかに

流れる水は乾き

菫色の空は落ちて

石に濡れた額は傾くままに眠つた

みえない推移の重さに

みえない推移の重さに

眼をとぢて凍える半身は

崩れるもの影とともに忘却をまつた

想ひ出せないのか

ゆくひとよ

かつては水の美しい

こりんとの町にゐことを

いちどゆけばもはや帰れないことを

いつからおまへは覚えたのか

梢ちかく羽ばたく音はなく

背中につつかかる微風は更になく

花の根も枯れてしまつたか

まへにあつた園は荒れ果て

おまへが創つた黄昏のなかには

凭れかかる肩もなく

壊れてゐる家具さへない

そこここの傷痕からあふれる明りも

ただ暗い調和のうちに消えてゐるのではないか

どうして倒れるやうに

生命の侘しい地方へかへつて来たのか

骨を折る音

その音の中に

風が立つ いちぢるしく

おまへのなかから風が立つ

その風は

しびれるやうにわたしを貫いて吹く

 

 

 

 虚しい街

 

白亜の立体も

ひたむきな断面も

せつない暗さの底へ沈みつつ

沈みつつ

翳に埋れ

影に支へられ

その階段はどこへ果ててゐるのか

はかなさに立ちあがり

いくたび踏んでみたことだらう

煙のある窓ちかく

自ら扉はひらき

そこに立ち去る気配もなかつた

忘れられた木の椅子のほとりから

哀れな水の匂ひがひろがり

脱落するしやつのあとには

あやまちのごとく風が立つた

 

あのふしあわせな鳶色の時間には

美しい車輪がしづかに動いて

おまへも街をみてゐただらう

ためらひがちな跫音を待ちながら

煤けたらむぷもひとつの灯をともし

そしてやはらかに燃え

まづしい家具の傍には

うつとりするやうな記憶があつたと

いまでは誰が信じ得よう

倒れる音も 出てゆく音も

遠い夕とどろきににて帰らないのか

歩かう

どこかへ行かねばならぬ

誰もみてゐない街角から

むしろ侘しい風の方向へ

実体のない街

深い空間をまたぎ

おびただしい車輪は戻つてきた

壊れた通路を捉へ

凍えた石畳を

踏みにじり走つてゐる

放埓な円心から閃く

炎や煙りの響きがきこえる

はげしい振動のなかで

何を考えようとしたのか

あやまつておまへは倒れた

かぞへきれない扉や支柱も

悲痛によじれ

水平のまま沈んでいつただらう

 

 

 

 哀歌

 

枝を折るのは誰だらう

あはただしく飛びたつ影は何であらう

ふかい吃水のほとりから

そこここの傷痕から

ながれるものは流れつくし

かつてあつたままに暮れていつた

いちどゆけばもはや帰れない

歩みゆくものの遅速に

思ひをひそめ

想ひのかぎりをこめ

いくたびこの頂に立つたことか

 

しづかな推移に照り翳り

風影はどこまで暮れてゆくのか

みづから哀しみを捉へて佇むと

ふと

こころの侘しい断面から

わたしのなかから

風がおこり

その風は

何を貫いて吹くのであらう

 

 

 

 断章

 

おほくの予感に充ち

おまへの皮膚にはとどかず

はるかに高い所を

わたつた

あの鋭い動きさへ

速かに把へたのに

精神よ

季節は錆だ

新しい時へ

歩みを移すこともできず

灰は灰に

石は石に還つた

しかし

それらの冷やかさを

身をもつて感じてゐることは

もつと不幸だつた

 

 

 

あるるかんの死

 

眠れ やはらかに青む化粧鏡のまへで

もはやおまへのために鼓動する音はなく

あの帽子の尖塔もしぼみ

煌めく七色の床は消えた

哀しく魂の溶けてゆくなかでは

とび歩く軽い足どりも

不意に身をひるがへすこともあるまい

にじんだ頰紅のほとりから血のいろが失せて

疲れのやうに羞んだまま

おまへは何も語らない

あるるかんよ

空しい喝采を想ひださぬがいい

いつまでも耳や肩にのこるものが

あつただらうか

眠るがいい

やはらかに青む化粧鏡のなかに

死んだおまへの姿を

誰かがぢつと見てゐるだらう






 

森川義信詩篇

 悒鬱な花

        12年12月27――13年1月7日

 

[やぶちゃん注:上記数字は縦書の底本でも横書。]

 

  歸  村

 

寒々と背姿(せすがた)の林は続き

連峯(れんぽう)は雪

よれよれの路はまた坂になり

鴉はあをあをと山蔭に群がり

ああ 少年の日の悲歌(エレヂー)が甦(よみが)へる。

ゆふぐれよりも早く

ぱらぱら何時かのやうに村は花を灯(ひとも)し

村はまた何かを悲しむであらう

 

こんなにも林の夛い路だつたかと

少年の日のふるさとに――

傷心(しようしん)のわたしであつた

 

 

 

 幻  燈

      《幼な日の思ひ出のために》

せるろいどのやうにふるへる

むかしむかしのお姫さまよ

童話の向ふから童話のやうに掌(て)をあげて

びらうどの青い喪服(もふく)がよく似合ふ

あれ あれ 木馬(もくば)もお通りなさる

がた がた 首をゆさぶり

はげ落ちた灰色(はいいろ)の眼で何を見つめるのやら

みんなみんな蒼白(あをじろ)いせるろいどの向ふよ

みんなみんな幻燈(げんとう)の様に通り過ぎた昔よ

びらうどのお姫さまよ

はげ落ちて歩けない木馬よ

幻燈の後(あと)に殘されたわたしよ

一枚の繪のないふいるむ

 

[やぶちゃん注:詩中の「せるろいど」「びらうど」は原稿では「・」点。また、原稿では、六行目「がた がた」の間のスペースに「っ」を書いて消したようなインク跡を認めるが、前行とのバランスから空白とした。更に、後から二行目に「殘されたわたし、よ」とかなりはっきりと判断される読点らしきものを認めるが、他の七篇に読点の使用を一箇所も認めず(前詩に唯一の句点使用はある)、また、ここでの読点使用はやや奇異ともとれるので、独断で排除した。]

 

 

 

  霙 の 中

 

妹よ あの跫音(あしおと)は何であらう

喪(うしな)はれた美しい日々(ひび)の歌声(うたごえ)ではない

今日も夕暮近い霙(みぞれ)の中(なか)を通つてよ

怖(おそ)ろしい鴉の黒い群であらうか

散藥(さんやく)の重いしめりに病み呆(ほほ)けた

わたしの胸にやつて來て

わたしの肋骨(ろつこつ)をこつこつとたたく

何であらう

妹よ お前さへ居ない此の部屋を〔に來て

こつこつとたたくのは

いつたい何であらう

霙のやうに冷たい死(し)の掌(て)か――

霙のふる夕暮は

霙のふる夕暮に似て

さびしい私の若さ・いのちであるのだ

妹よ

 

[やぶちゃん注:九行目は「に來て」と書いた上を、二重線で消して、右に「を」と書き換えている。]

 

 

 

  悒 鬱 な 花

 

はながさいてゐる

目をつむつてぼくは見てゐる

はなびらは色(いろ)をうしなひ

あを白くうなだれて………‥‥

はなならば はなのやうに

なぜ笑はないのだらう

はながさいてゐる

目をそつとつむると

いつでも黙つてさいてゐる

背中をむけて 向ふを向いて

悒鬱な花よ 匂ひのない――

花ならば 花のやうに…………‥。

 

[やぶちゃん注:リーダーは最初が13点、最後が14点で、実際は等間隔で、手書きでは最後の二行のダッシュとリーダーの終りはほぼ揃っている。]

 

 

 

  風

意欲のやうに烈しく流れ

何をまた恐(いか)るのだらう

 

或る時は漂漂と過ぎるもの

季節の上を季節のやうに

                  《未完》

[やぶちゃん注:「恐」はママ。末尾の「《未完》」も森川の筆。]

 

 

 

ジ ン タ

 

ジンタは寂しい港町(みなとまち)です

朔風(さかかぜ)にうらぶれた潮騒(しほざい)です

吐息(といき)のやうにとぎれては続きます

濡れてゐるやうに 泣いてゐるやうに

ラツパ・たいこ・クラリオネツト

ジンタは冬がやつて來た港町(みなとまち)です

昨日(きのう)の唄を 昨日(きのう)の生活(せいくわつ)を

潮騒(しほざい)のやうに歌つて通ります

 

[やぶちゃん注:「朔風」は北風であるが、「さかかぜ」という読みは特異と思われる。]

 

 

 

  街

      《或る友に》

枯れ葉(ば)は足(あし)につつかかり

街燈はぬれてまたたき

霧さへ降つてゐた おそい街の夜(よる)だつた

お前は人(ひと)の歌をそつと歌ひ

お前は思ひ出したやうに歩(ある)いた

 

僕たちの街と本當に言へただらうか

美しい愛情(あいじよう)の破片(かけら)が

そこに花咲いてゐただらうか

 

あきらめたやうに枯れ葉をふみ

街燈の下(もと)を 深海魚(しんかいぎよ)のやうに

なぜ歌つて歩かねばならなかつたのだらう

 

そんな僕たちの街ではなかつたか――

 

[やぶちゃん注:五行目と六行目の間は底本では改ページとなっていて判然としないが、詩想からも一行空きと判断した。この詩のルビはややかすれているが、まず以上で問題ないと思われる。]

 

 

 

*   *   *

 

 

 

   死んだ男   鮎川信夫

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

 

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつまでも残っているね。

だがぼくは、何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 

埋葬の日は、言葉もなく

立会う者もなかった。

憤激も、悲哀も、不平の椅子もなかった。

空にむかって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。