やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇へ
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富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇
「おけら焚きつゝ」
「臨終まで」
附 同哀傷句群    同縦書版へ


[やぶちゃん注:これは俳人富田木歩が、結核に冒されて逝った四つ下の愛妹まき子(享年十八歳)の、病床看護の合間に書いた日記風小品「おけら焚きつゝ」(大正七(一九一八)年七月「山鳩」に掲載)と、その大正七年七月二十八日の臨終に至るまでを綴った木歩の哀傷小品「臨終まで」(大正七年十月「山鳩」に掲載)の二篇をカップリングしてテクスト化したものである。底本は昭和三十九(一九六四)年世界文庫刊の新井声風編著「決定版富田木歩全集 全壱巻」を用いた。当該底本は基本的に新字現代仮名遣であるが、一部に正字・正仮名遣が混在している。全てママとした。作品中の月日、俳句及び前書・俳号、また本文の一部には有意な字間が施されているがあるが、全て詰めた。逆に他の日録に比して行明けがなかったりする部分は私の判断で行空けを施してある。「臨終まで」の文中にある「幮」(「かや」と読む)は底本では(つくり)が「厨」となっているが、正字である「幮」に正した。
 最後に私の「富田木歩句集」から、私が富田木歩第一の絶唱と信じてやまぬ、この間の思いを悲泣痛切に詠んだ一連の句群を附した(新井声風氏及び私の注記と引用は省略してある)。なお、こちらは全て正字正仮名遣である。
 まき子の臨終の床の――「母ちゃん――暑いよ」――という言葉――それはこの五年後、関東大震災の猛火によって向島枕橋橋畔の堤上にあって猛火に呑まれていった木歩自身の胸に去来したに違いない――。
 本頁は先日(二〇一一年四月二十五日)発売の文學の森刊『俳句界』五月号に私(藪野唯至名義)の富田木歩論「イコンとしての杖」が掲載(文學の森社からの依頼に基づく)されたのを記念して作成した。また――本頁を本年三月十九日に筋萎縮性側索硬化症によって天にめされた母に捧ぐ――【二〇一一年四月二十九日】]


   
おけら焚きつゝ   富田木歩

 
六月一日
 医師は「ずんずん快方に向ってをる」と云うのに病いにすっかり心の萎縮してしまった妹は、少しも力づかない。
 今日も病院へ行く途中満足に歩かれず、母にすがって行くので、路傍の人々に覗き見られて情けないと母は涙を流して云った。
 然し私は思う。生死の境にある子を持った親の心としては、あまりに母は心弱い。もっと強くならなければならない。妹を脊負ってでも通う決心が無ければ、又全快する事も望まれない。

     寝る妹に衣うちかけぬ花あやめ

 
六月二日
 夕方取りちらしてある処へ、聲風兄が此の程越後から上京された良太兄と、「俳句世界」の兀愚兄とを伴って見えられた。
 兼て御承知の事と思い乍らも今更小庵のむさくるしさに冷汗を覚えた。
 借り布団にともかく珍客を迎えて、初対面の挨拶を例の訥辯ですませた。
 兩兄から種々の御土産を頂戴した。
 主客四人は余り多く語らなかった。お互に感激して何も云えなかったのだ。
 良太兄は輪廓の大きな、ふところに抱かれたい様な温情の溢れている人だ。
 兀愚兄は触れなば切れんと思わるゝ如き、研ぎすまされたキリヽとした人だ。
 此の尊い沈黙の間に私は何時か斯んな観察をしていた。

     芍藥や空明りさす古畳

 これは此の日の記念の句である。

 
六月三日
 早朝呵雪兄より御ハガキ着。湖詩社の人々が近日中に木歩庵を訪うとの事である。
 夕方、良太兄よりも御ハガキが来た。
 「また雨が降りますね。この雨の中で貴方のことを思うと私は泣きたくなります。昨日は御
 伺いしてほんとうに失礼いたしました。私はあの時あまりに多くの感情が胸の中に立ち騒い
 でしばらくは静めかねて居りました。
  幸いに兀愚さんがしゃべって呉れましたから私はその間只じっとおし黙っていたのでした。
 私はいろいろの事を考えいろいろの事を申上げたかったのでしたが、御承知の如き口不調法
 者ですからまたの機会を待つことにしました。只これだけのことを申し上げたい「私はいか
 に幸福であろう」と思った事を。あなたはほんとうに不幸でいらっしゃる。几愚さんも昂奮
 していました」
おゝ此の温き情。私は自分の事乍ら泣かずにはいられなかった。

         病妹悪し
      蚊遣焚いて瓶花しほるゝ愁ひかな

 
六月四日
 昨日戴いた書面の印象が忘れがたいので、早稲田におられる良太兄へ返事を出した。
 其後御無沙汰に過しておる亞浪先生へも御便をする。
 夕餉の後歓喜に満ちた心で着いたばかりの「俳句世界」「山鳩」「新時代」等を見ている処へ、潮詩社の文哉、米波、芳臣、看湖の四兄に訪われた。
 私よりはるかに年長者なので暫らくつぐみ勝でいたが、諸兄の快濶さに何時かさそわれて無遠慮な俳論や、三昧に愉快に時を過ごした。
 お茶の代りの、蕎麦に、互選をすませて諸兄の帰途につかれたのは十一時過ぎであった。

 
六月五日
 寝床を離れぬ内に、母は一葉のハガキを渡して呉れた。兀愚、良太の兩兄が亞浪先生を御訪問した席上で記されたものらしく、先生の自画自讃に、兩兄の次ぎの様な文が記されてあった。

     山蝉や霧降る木々の秋に似て  亞浪

  一昨日は失礼、本日良太兄と先生を訪い大いにメートルを上げました。
  御母堂によろしく、令妹御大切に(兀生)
  兀愚氏に伴われて先生を訪問しいろいろ御話を承ったりしました。小生の口が重くて思うこ
 とがしゃべれないのがもどかしい(良)
  ハガキ挿しでもあらばかゝげて置きたい程立派なものである。
  夜更くる迄妹と如石に小説を読み聴かす。

 
六月六日
 意外兄へ「山鳩」の礼状を出した。書中失礼とは思ったが「山鳩」雑詠から最も共感を覚えた

      甕の水音させて飲む猫朧ろ   うしほ
      ガガンボの交みて飛ぶや梨の花 可香
      蚊帳の穴探す夜ごろや郭公   意外
      ホヤ散りて井戸水濁る暮春かな 赤南
      朝霧に莖高の花動きけり    峻溪
      縁の下に犬の這入るや枯木宿  四雪

 右の数句を抜いて妄見を述べさせて頂いた。
 夜、米波兄が先夜の礼とて何やら持って来られた。
 私の初心であった当時同兄と某雑誌で発表を競った話などが偶然に出て楽しく語らった。

      花貞に夜気の来ぬ間の夕餉かな

 
六月七日
 聲風兄より「短歌雑誌」を送られた。
 聲風兄と呵雪兄に書状を出した。
 夜、如石と入浴す可く背負われて行ったら先客があるらしいので、原っ場へ出て蛙声を聴く。

      妹覚めて喉鳴ると云ふ明け易き

 
六月八日
「短歌雑誌」を読む。土岐哀果氏の「朝顔の種を蒔きつゝ」と云う一文がある。氏等一派の生活派の所論とも見る可きもので大いに同感させられた。
 昼頃、永年の馴染の植木売が来た。
 銀杏の鉢植と姫松葉とを買わされて仕舞った。小鈴が来た。妹の夏衣を主家から持たせて寄来したのである。
 小鈴が帰った後妹は自分の病体を恨んで泣いた。
 夜、如石叔母妹なぞに音読をしてやる。

      蝙蝠や着物嚙る兒の叱かられし

 
六月九日
 聲風兄より書信があった。此の頃は寝て居る内にキット郵便が来るので、お蔭で目覚めが快い。良太兄の歓迎句会は盛んであったそうな。喜ばしい事である。
 今月の「層雲」を昼餉の間に一寸見た。

      夕べ風凪ぎ鯉幟屋根へたれたり  武二

 斯んなのがあった。
 私達が「数っこなし」にやたらに作った初心時代には、よく斯んなのを投稿して没書を食ったものだ。

      窓外の子等に花火を放ちけり

 
六月十日
 曉に目覚めた。母は専念に妹の腹をさすっている。
 妹は昨日から下痢が激しく苦しんでいるのだ。
 私は無言で見つめていた。妹はたまたたま私を見るが一言も発しなかった。

      曉け鶏に覚めて妹看る梅雨かな

 今朝も郵便夫に起された。
 帰途に就かれた良太兄の中禅寺からの絵ハガキであった。母は、疲れて寝ている妹を伴わずに薬だけ取って来た。妹の下痢は蠶豆を食べたのが悪かったとの事。服薬してからは安らかになった。
 兀愚兄より「俳句世界」の句稿及雑詠再選の催促が来た。夜疎石からも書信が来た。
 彼は胃腸を病んでいたとか。其の病中吟にはかなりの人生味に食い入っているものがある。

      軒雲の遲々と動くも蒸し暑き  疎石
      病疲れてうつとりとゐぬ晝蛙  同

 寝仕度をしてから妹をさする母と夜々のならいの心経を上げた。

      菖蒲活けて風に雨気ある障子かな
      ぬれ犬の魚屑食ひ去る梅雨かな
      五月雨や食へぬ筍賣に来る

-大正七年七月「山鳩」掲載-  



   
臨終まで   富田木歩

 病み尽して了ったのであろう。
 熱に浮かされて暗中に物を探る様な手つきをして眼前の母を呼び狂ったり、咳を怖れて口辺のかすかに動く程な声音で物を言っては聞えぬ母を恨んだりして、不治てう惨しき愁いに沈んでおる私達に腸も煮ゆる思いの悲しみを増さしめた妹は、昼頃からまるで別人の様におとなしくなって了った。
 日夜の区別なく起った腹痛もケロリと止んで、快い時にはよく語る奉公中の楽しかった夜寒のまどい、花時の賑いなどを夢見る様に回想して語っておる。が、擦すらるゝに馴れた身は痛苦の如何に拘らず、親身の手より通う愛のぬくみを離れては瞬時も堪え難いのであった。私は骨と筋で僅かに支えられておる瘦せ衰えた腰から膝へと、云うがまゝに擦っておった。總て語り疲れて妹は寝に入った。寝に入っても咳一つしない。が、今迄深夜でなければ耳につかなかった咽喉にからむ痰に依って発する呼吸の音が可成り高く聞えるのを知った。
 まざまざと病苦を見せられなくとも余り変化が急激なのに或恐怖を感じておった私の胸には、たちまち黒雲の様な厭な予感が突き上げて来た。

     死期近しと夕な愁ひぬ鳳仙花

 日々の病状に対しても、季象の変化に負わせたり、親族の者と共に愚かな迷信的恐怖を感じたりして変動の一つ一つをあたかも死期の去来するが如く思ってひたすら看護の眼を見張っておった故に、此の予感とて殊らなむのではなかったが、ゆゝしい感銘は何時もの其れと異り彼女の微笑み――快き時のみに於いて見る――に依って一瞬さる可くも無く胸中の黒雲あ益々色濃さを加えて来た。併し、假令僅かな間でも痛苦を忘れて殊の外機嫌のよい妹に、自分の感傷的な心から起った此の愁いを悟らるゝを怖れて、其となく又の目覚めを講談本など読み聴かした。
 夕方些かの食物を摂取したので尿を襁緥で母に取って貰って――二三日来便所へも通えなくなっておったので――幮の中の暑さを煽ぐ私の団扇のもとで快く眠った。其の内兄の店へ助けに行っておる母も戻り、遅き夕餉を済ませた頃、近くに住んでおった老人の今宵が二周忌の逮夜にもなるのか観音講の鉦の音が私達の哀れをそゝる様にカンカン鳴り出した。
 と、目覚めた妹は「お経は好いね」としみじみ云った。私と母は思わず顔を見合せた。
 母の顔には悲痛な微笑が見えていた。
 恐らくは私の顔も母と同じであったろう。
 母が病気平癒を祈るために心経をもとめて、夜々馴れぬ声で読み上げるのを始めの内は妹はいとつたのであった。私の心の悲しさはかゝる事にも、更に深くなって行くのであった。母は妹が好むまゝに擦り乍ら心経を上げた。私にも和讃を唱う様に母はすゝめたが、私の心は其の請いを果たし得なかった。
 寝しなに母は妹の寝息を聴き澄ませて「こんな小供見たいになって了ったのだから全快するかも知れないよ」と私語いた。一日悪しければ死を想い、一つ時快ければ全快を想う親身と云う者の浅暮さを繰り返して来た。私は容易くうなづく事は出来なかった。と云ってそれを打ち消す事は尚出来なかった。私も母の想っておる様な事が実現されゝば何んなに心の明るさを覚えようが、実現されゝばそれこそ奇蹟である。併し奇蹟はあり得ない事が実現さるゝ故に奇蹟だ。
 噫、奇蹟である事が心から希わしい。
 何時か私は、実現を予想する事の不可能な奇蹟に望みを抱いて寝についた。
 翌朝は何時もの如く妹に呼び覚された。
 未だ空は真夏の暁の快い色を見せているが母はもう起きておった。母に夜べの病状を問えば、母の手も借らずに静かに眠ったそうな。
 妹は夜べより著しくぜいぜい痰の鳴る咽喉の苦痛を訴えて、吸入器を借りて来て楽にして呉れと去った。
 併し妹の病いを知っておる御近所の人に到底借る事は出来ないので、母は二三心あたりを問い合せたつもりにして「無い」と云った。私は僅か一つ時でも苦痛の去るのを願って水薬で咽喉の渇をうるおしてやった。抱きかゝえる様に胸と背に手をあてゝ、咳に力を添えてやったが痰は少しも出なかった。二回分程残ってあった水薬はたちまち一滴もなくなって了った。妹は、兄の店の若い者に水薬を取りにやっておる間も絶えず渇を訴えた。そうして、飯湯鶏卵などの流動物を摂取した。不図私は白布の端に投出されてある妹の右の手首から指へ掛けて、むくみの来ておるのを見出した。
 此の病いの最後の徴候として、足裏にむくみの来る事を知っておる私は足裏へ眼をやった。足裏にも徴候は現われていた。噫奇蹟は終に望む事が出来なくなった。そうしていまわしい予想は当った。私は耐らなくなった、総身からしぼらるゝ様な悲哀を感じた。最早何としても、のがる事の出来ない臨終が逼って来たのだ。斯くて諸機能の活動の鈍って行く妹は、さしたる苦痛も訴えず眠るともなく、覚めるともなくうつらうつらしておった。併し、此の病いの特性で精神上には何の異状も呈さぬらしく、「顔を洗ったの」「御飯を食べたの」などゝ私に洗面の否やを問うたり、朝餉を進めたりして平常と異ならぬ心遣いをして呉れた。私は彼女と共に死んで逝ってやり度い程な愛を感じた。
 頓に触れん計りに顔をすり寄せて、妹の三三言をうなづいてやった。何を見ても涙がこぼれそうで凝と見ておるに堪えない。私は妹の眼と相合う事を怖れて視線を其れから其れへと移した。

     涙湧く眼を追ひ移す朝顔に

 医師が来た。
 形式ばかりに脈搏を見て、足裏のむくみを調べた。そうして「後一時間程しか生命はない」と宣告した。
 今迄うつらうつらしておった妹は、母が医師の来た事を告げて起したが何うしても目覚めなかった。
 医師は、昏睡状態にでも入ったと見なしたのか、瞳孔の開いて了った様に濁った色を湛えて薄く開いておる眼を検して帰って了った。最後の報を聞いて、向嶋の姉、裏の叔父叔母、店の兄等が来た。
 母と私は狂気せんばかりに妹を呼び覚ました。妹はケロリと眼を開いた。母は視覚を糺す如く顔を寄せて妹の名を呼んだ。未だ瞳孔は開いていないらしく、妹は母にすがりつく様に手を上げて嬉しそうに何やら「オウオウ」と声を立てた。それはあだかも、丁度語り初めた赤子のような声だった。
 母は私と二人が附き添うている事を安心さす様に幾度も繰返し繰返し告げた。
 病人の微笑程悲しいものはない。
 ましてや臨終に際しておる妹の此の微笑を見ては私は思わず熱い涙の数滴を伝うるを感じた。母も姉も枕頭にふり落つる涙をとゞめる事は出来なかった。
 妹の口中には、末期の水とて、水薬を筆にしめして母や叔母や妹などが代る代るそゝぎ入れた。
 咽喉の痰は益々鳴り出した。
 妹も痰を切ろうとするらしく、今にも絶えん玉緒の精一杯な力を出して咽喉を鳴らした。
 母は其れと察して紙を口元へあてがった。私は彼女の恐ろしい精神の明かさを知った。口先迄出していながらも、母が拭き取る紙をあてがわぬ内は吐き出さぬのである。妹の声はだんだん言葉として整って来た。
「母ちゃん――暑いよ」母の名を呼ぶ事と暑さを訴える事とゝをうめくように云い出した。呼吸は愈々切迫して来た。遂に瞳孔も開いて了ったと見えて眼を幾度か開閉した。母を探る手と胸をはだけようとする手の運動は「母ちゃん――暑いよ」と云う声と共に尚続いた。
 噫、私はもうこれ以上書き続ける事は到底出来ない。
 姉も私もよゝとばかりに泣き崩れた。
 母の口からは妹を全快させん心から身にも振りにもかまわずに苦労して来た愚痴が堰を破った水勢の其れの様に涙と共にほとばしり出た。  (大正七、八、一八、稿)

-大正七年十月「山鳩」掲載-  



   
富田木歩 まき子哀傷句群

  
病 妹
和讚乞ふいもといとほしむ夜短き

  
病勢の急に怠りし妹頻りに母の讀經をもとむ
今宵名殘りとなる祈りかも夏嵐

  
病 妹
妹さするひまの端居はしゐや靑嵐

戸一枚立てゝ端居はしゐす五月雨

  
兀愚・良太・聲風の三兄を迎へて
芍藥しやくやくや空明りさす古疊

  
病 妹 三句
晝寢れば螻蛄けらの聲澄む花菖蒲しやうぶ

寢る妹にきぬうちかけぬ花あやめ

病む妹に夜氣忌みてす花あやめ

夕むれの縁に螻蛄鳴くもちの花

花黐の蠅移りくる晝餉かな

  
病妹惡し
醫師の來て垣覗く子や黐の花

ともすれば灯奮ふ風や時鳥ほとゝぎす

船の子の橋に出遊ぶ蚊喰鳥かくひどり

  
病妹 五句
おそれてもの言ひうとし蚊の出初む

たまたまの蚊にく妹を憂ひけり

かそけくも咽喉のど鳴るいもと鳳仙花ほうせんくわ

死期近しと夕なうれひぬ鳳仙花

床ずれに白粉おしろいぬりぬ牽牛花けんぎうくわ

  
病妹惡し
額上の汗に蚊のつく看護みとりかな

  
病妹惡し
蚊遣焚いて瓶花びんばなしほるゝうれひかな

蚊遣焚いて子を預りぬ洪水仕度みづじたく

臥す妹に一と雨ねぎぬ軒葡萄

  
臨終近しとも知らぬ妹こまやかに語る
涙湧く眼を追ひ移す朝顏に

  
納棺式
死装束しにしやうぞく縫ひ寄る灯下秋めきぬ

  
忌中第一夜
線香の火の穗浮く蚊帳更けにけり

  
通夜
ひつぎる夜を涼み子のうかゞひぬ

鷄音しばしば讀經さそはる明易し

  
妹の棺を送る
明けはずむ樹下に母立ち尽したり

朝顏の薄色に咲く忌中かな


富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇「おけら焚きつゝ」「臨終まで」 附 同哀傷句群 完