やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇へ
HP 鬼火へ
ブログ コメント1へ ブログ コメント2へ ブログ コメント3へ
やぶちゃん版新版富田木歩句集 縦書版へ
[やぶちゃん注:決定稿としての現行の本頁の底本は、私が所蔵せる昭和32(1957)年発行の限定版「決定版富田木歩全集 全壱巻」(限定500部第476記番)を用いたが、それから漏れる句も十数句含まれている(この頁の旧版――新潮社版「現代詩人全集」及びそれにない筑摩書房「現代日本文学全集 巻91 現代俳句集」1967年刊の「富田木歩集」所収の木歩句――の句の中で底本全集にないもの)。但し、底本は新字であるため、恣意的に句本文の殆んどを正字に直した。底本の「註」は、初心者向けの言わずもがなの説明も多く見られるが、底本編者新井聲風氏が木歩を顕彰せんとする誠心の表われと思われ、聲風氏の御努力への敬意を示す上でも省略せずに掲載した(但し、聲風氏の著作権は存続しているので、万一、著作権者からの要請があれば総て除去する)。「註」はやや擬古文調の部分もあり、正字に変えることも考えたが、聲風氏の若い世代へのメッセージととって、新字のままとした。「註」には引用語句の鍵括弧や末尾の句点があったりなかったりするが、これは底本のママとした。本頁のプロトタイプ(ブログ コメント1及び2の頃のもの。プロトタイプからの遷移過程はブログ・コメント3を参照されたい。)に含まれていた底本未掲載句の内、意味を解しかねる一句については、私のタイプ・ミスの可能性が考えられるため、とりあえず排除した。未掲載句は該当年の当該季節と考えられる位置に、また底本に類型句がある場合はその後に、適宜配した。私は自身が自由律や無季俳句を作句してきた関係上、季語感覚は零に等しい。従って、当該句をとんでもない位置に配している可能性はないわけではないが、そもそも底本「全集」の最後の「大正拾二年」パートでは、御覧の通り、後半部分に多量の冬の句が存在している。しかし、木歩は、大正十二年の冬は経験していない。最早、彼はそこにいなかったのである。――
幾つかの私の注を附したが、底本の他の資料の他には、本文途中にも長々と引用させて貰ったウィキペディアの「富田木歩」の記載にも負うところが多い。ここに謝意を表する。――脊椎間狭窄のために歩行困難となった母の手術の朝に――【2010年8月25日】
〈以下、新たに作成した縦書版に添えた追加注記〉
――歩行不能となった母に、同じ境遇であった木歩の句集の縦書版を捧げる――【2011年1月29日】
――2011年3月19日午前5時21分、母聖子テレジアは筋萎縮性側索硬化症による急性期呼吸不全により聖テレジア病院にて天国へ召されました。満79歳でした。母や私に繋がる多くの方々の励ましに感謝致します。なお、月刊誌『俳句界』2011年5月号に私の木歩論「イコンとしての杖」が所収されています。御笑覧下さると嬉しゅう存じます。これを読むことを一番楽しみにしてくれていた母には遂に読んで貰えませんでしたが、これは母のためだけに書いたものですから。【2011年4月23日】
〈その後の追記〉
上記の拙稿の初案である「イコンとしての杖――富田木歩偶感――」藪野直史を公開した。【2013年8月15日】]
大正二年(一九一三年)
背負はれて名月拜す垣の外
大正三年(一九一四年)
炬燵(こたつ)あけて猫寢たり女房干物(ひもの)裂(さ)く
大正四年(一九一五年)
油氣の喰へぬ病や春の宵
哀れ我が歩みたさの一心にて作りし木の足も、今は半
ばあきらめて、其の殘り木も兄の家の裏垣の枸杞茂る
中に淋しく立てかけてありぬ。
枸杞(くこ)茂る中よ木歩の殘り居る
[やぶちゃん注:明治三十(一八九七)年に生まれた木歩は、誕生
の翌年、高熱を発して両足が麻痺し、生涯、歩行不能となった。]
病 中
藥紙に句を書き溜める夜寒かな
藁灰を掻き散らす鷄や雪催ひ
大正五年(一九一六年)
松ケ根の雪踏み去(い)ぬる禮者かな
獅子舞の焚火かゞむ朝曇り
嫁入りを見に出はらつて家のどか
春風や障子の棧の人形屑(へち)埃り
(註・「へち」は大鋸で切った屑を糊で固めた人形の原型から削
りとったクズのこと。)
[やぶちゃん注:当時の木歩は弟利助が勤めていた玩具店から人
形の屑削り(鋳型の泥人形のふちのバリを削り取る作業)の内
職を回して貰っていた。]
荷頭ラに繩投げかけぬ飛ぶ燕
夕風に散る籾穀(もみがら)や旱草(ひでりぐさ)
[やぶちゃん注:「穀」はママ。]
短夜の風に水來る筧(かけひ)かな
五月雨や鷄の影ある土間の隅
がたがたの雨戸に夜半(よは)のはたゝ神
[やぶちゃん注:「はたゝ神」は「霹靂神」で激しい雷鳴を言う。]
葉柳に箍竹(たがだけ)の地をのたうてり
荒壁に虻狂ひをる西日かな
火蛾の輪にランプと我とじつとあり
朝寒や崖傳ひする榾(ほた)かせぎ
(註・榾は焚き物にする木片)
机見入れば木目波立つ夜寒(よさむ)かな
砂掻いてころがる馬や秋の風
秋風や軒につるせし糸車
むかれたる棕櫚(しゆろ)の木肌や秋の風
砂利のごと蜆とぎをる夕時雨(ゆふしぐれ)
明け寒き嵐の中の鷄の聲
夕月の木込み去らずよ寒雀
大正六年(一九一七年)
唖(おし)ん坊のいぢめられ來し凧日和(たこびより)
(註・「唖ん坊」は木歩の弟利助。聾唖者であった。)
暖や子の蟲癖の臍(へそ)いぢり
寢すごして味噌も擦(す)らずよ春の雨
鷄買ひの度はづれ聲や桃の花
蘆の芽や蟹釣りの子のはらん這ひ
燕(つばくろ)に地を歩きたさ縁下りぬ
蝶日和霜燒の膝ほどき見る
いささかの草も寢心涼しうす
人形屑掃き下ろす庭の草いきれ
野良犬の水飲みに來つ草いきれ
蜆賣に錢(ぜに)替へてやる夏の夕
風呂を出て迎ひ待たれつ夏の月
桶で買ふ米いさゝかや夏の月
梅雨(つゆ)の宿更けて水浸(づ)く思ひかな
我ら兄弟の不具を鰻賣るたゝりと世の人の云ひければ
鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)
[やぶちゃん注:木歩は本所区向島小梅町で鰻屋を営む両親の次男
として生まれた。]
蟲けらの壁からも出る五月雨
床下へ樋水(ひみづ)鳴りこむ五月雨
晝顏や砂吹きつける駄菓子店
隣の子
夕顏や病後の顏の幼なぶり
麥の秋猫も人戀ふ産期かな
蝙蝠(かはほり)や漬け物を買ふ笊(ざる)の錢
蚊の唸(うな)り箱の底炭(そこずみ)掻きにけり
次ぎの間の灯に通ひけり灯取蟲(ひとりむし)
九時と云ふに少し發熱あれば蚊帳に入る。母は着物を
縫ひ給ふ。
運針を見あかぬ我れや灯取蟲
毛切蟲捕へて啞の威張りけり
[やぶちゃん注:「毛切蟲」はカミキリムシのこと。]
菓子買はぬ子のはぢらひや簾影(すだれかげ)
草を食(は)む猫の吐氣や蚊遣焚く
女工の妹に
妹も飯(めし)に戻らん夕蚊遣
[やぶちゃん注:三女まき子。この頃は印刷工場の女工をしていたが、以下
の悲傷句群に示されるように、妾となった長姉富子の旦那が経営する須崎の
芸妓屋の半玉になり、そして肺結核に罹患して死んでゆく。]
風鈴(ふうりん)や草匂ふほど水きけり
隣の伯母の小鈴(半玉となりし娘)が所に行くにや、
綿子らしき包を抱へ行く。
夜寒さや犇(ひし)と抱き行く小風呂敷
(註・「小鈴」は木歩がつけし愛称。本名すゞ。)
[やぶちゃん注:木歩は彼女を愛していた。]
夜寒さや吹けば居すくむ油蟲
秋の夜や鳥目をためす石拾ひ
裏の叔母の轉寢(うたゝね)に覺めて笛人形を作り居るさまに
秋の夜や人形泣かす一つ宛(づゝ)
粉煙草(こたばこ)に母むせかへる夜半の秋
水底で鳴くよな螻蛄(けら)や夜半の秋
身を賣りし妹の朔日の宿下りとて來れども、奉公馴れ
ぬためにやいたく窶れしさま憐れなり
居眠りもせよせよ妹の夜寒顏
生活のことにて母といさかふ
口返しこらへ得て泣く夜寒かな
啞の娘と語る
うそ寒や疊にをどる影法師
(註・「啞の娘」は従妹冨田某女。十代にて早世。)
うそ寒や障子の穴を覗(のぞ)く描
十五夜や母の藥の酒二合
膝頭(ひざがしら)冷えて更(ふ)けたり盆燈籠(ぼんどうろう)
波王追憶
稻妻や誰やら來そに思はるゝ
[やぶちゃん注:「波王」は木歩の親友土手米吉の俳号。カタ屋
(友禅型紙彫刻師)の徒弟であった木歩の兄弟子で、木歩のよ
き理解者であり、介護者でもあった。この大正六(一九一七)
年の七月二十一日、隅田川小松島で遊泳中に溺死した。木歩の
妹まき子は彼の恋人であった。]
稻妻を見初む夜食に閉(とざ)さずて
棟越(むねご)しの木々夕燒けて秋の風
菓子やれば日々來る犬や秋の雨
病 臥
我が肩に蜘蛛(くも)の糸張る秋の暮
今日も亦雨なるに、こゝ二三日見えぬ末の妹や小鈴を
戀しむ。三味線きゝ度き心もをかし。
泣きたさをふと歌ひけり秋の暮
久しく叔母の家に祕め置きし木の足の望みもはてし今
は、焚き物にでせよかしと云やりぬ。
人に祕めて木の足焚(た)きね暮るゝ秋
病弟解雇さる
病人の暇出されたる暮の秋
我が猫の糞(ふん)して居るや黍(きび)の花
我が尻に似てしなびたる糸瓜(へちま)かな
ポカポカと雲浮く屋根の花糸瓜
弟病む
弟の足揉(も)むならひ鳳仙花
頭上(づじやう)渡る椋鳥(むく)の大群光りけり
弟病む
蟲の聲醫師の額上(ぬかが)ミうかゞひぬ
病 中
ひだるさに夜明け待たるゝ蟲の聲
蚊帳吊るも寒さしのぎや蟲の宿
乳の下痛めるに
縁に出て夜氣吸うて見ぬ蟲の秋
病 中
蜻蛉や日毎寢て見る屋根の空
波王逝きて第一の休日
誰も來ぬ窓の蜻蛉やお朔日(ついたち)
(註・「お朔日」は月の第一日のこと。当時は一日、十五日は職人
の休日。)
己が影を踏みもどる兒よ夕蜻蛉
こほろぎや追ひ焚きしたる鍋の飯(めし)
弟病む
病人に秋の蚊帳吊る駄菓子店
病 弟
飴なめて安らけく寢よ夜半の冬
母と如石に講談本を讀みきかす
冬の夜や音讀(おんどく)なれぬしやがれ聲
(註・如石、本名武井宗次郎。小梅吟社の人。職人。)
[やぶちゃん注:「小梅吟社」は木歩が大正四(一九一五)年五月
に結社した俳句会。]
冬の夜やいさゝか足らぬ米の錢
一つ一つ灯(ひ)に靄(もや)からむ冬の月
凩や眼のひからびる夜なべの灯
(註・夜なべは夜の仕事)
壁の穴に杉葉押し込む空つ風
寒椿日ぎめの人形仕上らず
[やぶちゃん注:弟利助は既に玩具店から解雇されているが、人
形の屑削りの内職は未だ回して貰っていたのであろう。]
お針子(はりこ)の膝まで日ざす寒椿
梟(ふくろふ)や干葉で足蒸(む)す夜頃なり
(註・干葉は大根の葉を干したものでこれを釜などで煮出して用い
る)
[やぶちゃん注:これは民間療法の大根干葉湯(だいこんひばゆ)。
夫人病や冷え性・腰痛に効果があるとされる。干した大根葉をよ
く煎じ、盥に入れて腰だけをつけて温める。但し、多くの記載が
足を漬けてはいけないとする。木歩君、それは間違った療法です
よ。]
木の如く凍(い)てし足よな寒鴉(かんがらす)
爐仕事や湿(し)けてふぬけの風邪(かぜ)藥
(註・「ふぬけ」は、腑抜、ばかの意。)
雜炊(ざふすゐ)の腹ごぼと鳴る火鉢かな
偶 感
鬼城とは寒きお名かな冬籠(ふゆごもり)
(註・「鬼城」とは俳人村上鬼城。)
啞ん坊も聞こゆると云ふ餠(もち)の音
昨夜いさゝかの人形削りの工賃を得て
人形賃筆紙に代へて冬籠る
足の凍てたる冬季は綿子にくるまつて這ひつゝ用を足す
犬猫と同じ姿や冬座敷
(註・綿子(わたご)は真綿で作った着物。)
大正七年(一九一八年)
門松にひそと子遊ぶ町の月
病弟絶望
春寒う花の明るさ忌みにけり
如月(きさらぎ)の大風に鳶鳴きにけり
蟻共の尻みな光る春日かな
(註・如月は旧暦二月の異称。)
縁の春日を貪り居れば不圖亡弟の息遣ひの現なの耳に
聞えぬ
鉢木ふと息づくけはひ暖き
忌中の一夜
椎の實を燒いて春の夜更しけり
[やぶちゃん注:これは中七が「やいてはるのよ」、下五が「ふか
しけり」と読ませるものと思われる。]
兄が愛兒を遊ばせつ
しやぼん玉吹けども淋し春の風
あららぎの芽思ひ寢る夜暖き
病む妹の枕ずれ云ふ春の暮
齒を病みて壁に頰する春の暮
小松島
行く春や蘆間(あしま)の水の油色
(註・小松島は現在の隅田区寺島町三丁目一帯の俗称にして、
当時墨田堤の土手外の島の如き約三萬坪の地を指して斯く呼
べり。)
姉の家近く奉公せる妹の心を
花散るや堤下(どてした)の我が家見て過ぐる
我が膝に飛鳥(ひてう)影さす木の芽かな
墨堤下の姉の家に泊りて
杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
(註・墨堤はすみだ川堤の異称。)
墨堤行
干潮に犬遊び居る蘆(あし)の角(つの)
目覺めよき陽に櫻草嗅(か)いで見ぬ
亡弟の供養を怠らざる如石に
歸雁夜々佛の友の來て灯(とも)す
大風の夕べ交(つる)み落つ雀かな
蛙鳴くや我が足冷ゆる古疊
峰雲(ねぐも)ずんずん落ちて月出づ夕蛙
北海道の姉より海苔を送られて
夏初め海苔(のり)の砂嚙む朝餉(あさげ)かな
(註・「北海道の姉」は次姉久子。)
[やぶちゃん注:久子は北海道の昆布商人の妾となっていた。]
病 妹
和讚乞ふ妹(いもと)いとほしむ夜短き
病勢の急に怠りし妹頻りに母の讀經をもとむ
今宵名殘りとなる祈りかも夏嵐
病 妹
妹さするひまの端居(はしゐ)や靑嵐
戸一枚立てゝ端居(はしゐ)す五月雨
兀愚・良太・聲風の三兄を迎へて
芍藥(しやくやく)や空明りさす古疊
(註・兀愚、本名吉田勝。東京の俳人。当時総合雑誌「俳句世界」
の編集者。良太、本名佐野貞助。亜浪門下の新潟の俳人。)
[やぶちゃん注:「兀愚」は「ごつぐ」と読むか。「聲風」とは
新井清風。木歩の運命的な無二の盟友。木歩の劇的な最期に彼
は居た。また俳人として彼を今に残るのもひとえに彼の尽力に
よる。以下に非常に長くなるが、本頁の編年体の木歩の句を鑑
賞する上で、これ程素晴らしい記載はない。そこで書式を変更
して、ウィキの「富田木歩」から該当部分を引用する(一部の
引用注記記号や部分標題を省略させて頂き、段落行頭は一字下
げとした)。]
* * *
《引用開始》
1917年(大正6年)当時20歳の新井声風は慶應義塾の理財科(後の経済学部)の学生であり、父は浅草で映画常設館を営む事業家、市会議員でもあった。声風は、「やまと新聞」の俳句欄を通じて知った「石楠(しゃくなげ)」の臼田亜浪を師としていた。さらに個人誌「茜」を創刊したばかりであった。声風は、悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む同門の吟波[やぶちゃん注:木歩の初期の俳号。]に前々から興味を抱いていた。
その年の初夏、本所仲之郷に住む、「小梅吟社」の吟波を訪ねた。狭い棲居の机上には「正岡子規遺稿」「水巴句集」「荷風傑作抄」「鈴木三重吉選集」が積み重ねてあった。ここで木歩は同じ年の新井声風を知り、二人は生涯の友となる。何不自由なく育った声風と何もかも不自由な木歩、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。身体障害と貧困のために、小学校にも通えなかった木歩が、ここに大学生の友人を得て、新しい芸術的感覚・雰囲気に触れることができた。
声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に「ホトトギス」「海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「中央公論」「新潮」「新小説」「改造(雑誌)」などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈した。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だった。声風は三男で兄二人はすでに独立し、慶應義塾卒業後は父親の経営する浅草電気館を引き継ぐことに決まっていたが、父は健在ですぐにということでもなかった。そのため、学生生活はのんびりしたもので、慌てて卒業するつもりはなく、必要最小限の勉学の他は、好きな俳句と旅に殆どの時間を費やしていた。
ある日、吟波は、声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけた。それは吟波と号する俳人がもう一人いたのであった。河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)系の「射手」に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であった。声風は直ちに賛成しなかったが、木歩の真意を解し後賛成した。
その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいった。そして、川の魔の淵といわれる小松島で溺死した。利助は慌てふためき、炎天下約一里もある仲之郷の長屋まで走り続け、木歩や妹まき子にその悲報を伝えた。波王の恋人であった妹まき子は、まさに半狂乱であった。波王の変り果てた死体は下流で三日後に見つかった。波王は享年18であった。乙字、亜浪、種茅、声風等々、俳句史に長くその名をとどめるような師や先輩からの追悼句が、まさに寒々として何もない仏前を飾った。夏の末、末妹静子は長姉富子[やぶちゃん注:ここ引用元は「長姉久子」とあるが、訂した。]の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋の娘小鈴もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉(はんぎょく)となった。この年の秋は木歩にとって友は失せ、ひそか片恋の想いを寄せる小鈴も妹二人も家から去っていき、ただ寂寥の秋であった。さらに、利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だった。喀血し熱に喘いだ。
9月、声風は個人誌「茜」を3号(9月号)から同人誌とし、木歩を同人に迎えた。この頃から俳号を吟波から木歩にしたという。同人には、声風、木歩の他に同年代の黒田呵雪らが名を連ねた。その後声風の慶應義塾大学の同級生の原田種茅(はらだ たねじ)も同人に加わり、後に木歩とも親しく付き合うことになった。利助の病状は悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病した。その年、木歩には姪の兄金太郎と梅代の長女ハツ(3歳)が逝った。声風は「茜」12月号を休刊し、新春1月号に、「木歩句鈔」の特集を出すことを企画した。 年末に、近くの女工が俳句を学ぶため木歩に入門した。伽羅女と号を名付けた。石川伽羅女である。
1918年(大正7年)木歩21歳。 声風は「茜」1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは好評を博し、臼田亜浪、黒田忠次郎(くろだ ちゅうじろう)、浅井意外(あさい
いがい)、それに歌人の西村陽吉(にしむら ようきち) らが「境涯の詩人」と賞賛した。声風は「茜」2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評した。声風は高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、「茜」の謹呈先にホトトギス系は少なく、これで木歩が全俳壇的に知られたというまでには至らなかった。
2月、利助逝く。18歳であった。3月、まき子も結核のため家に戻って来た。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化し7月末、まき子も逝った。浪王一周忌の7日前であった。木歩は駄菓子屋を閉じ、帽子の裏皮つなぎの内職をした。女弟子石川伽羅女へ好意から恋心を抱く。秋、木歩は「石楠」の同人に推薦された。
「石楠」は臼田亜浪が一応主宰であったが、内実は大須賀乙字(おおすが おつじ)、臼田亜浪、風見明成(かざみ あきなり)の三者の鼎立でなっていた。乙字派の名和三幹竹(なわ
さんかんちく)が編集を担当していた「懸葵(かけあおい)」という俳誌(主宰・大谷句仏(おおたに くぶつ)が、その新春号で、公然と臼田亜浪批判を行ったことから、声風は亜浪の意を汲み、声風の同人誌「茜」を休刊した。また亜浪は「石楠」には「木歩の文章に声風の添削が入っているうちは掲載を許さない」としていたので、声風は木歩の文章を掲載してくれる俳誌を探した。幸い三河で俳誌「山鳩」を主宰する浅井意外が木歩に共感を寄せ、木歩の文章を掲載してくれた。
浅井意外は「ホトトギス」の村上鬼城(むらかみ きじょう)の信奉者であり、耳疾の鬼城と似通った境遇の木歩に力添えしてくれた。「山鳩」の雑詠選句は鬼城が担当しており、その縁で木歩の名前はホトトギス系の俳人にも次第に知られるようになった。
7月、富山県の魚津で起こった米騒動は全国に拡がり、物価はさらに一段と高じた。まき子を芸者に売った貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩とみ禰は食うにも事欠く有様になった。結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥した。俳友、亀井一仏が主治医となってくれた。
1919年(大正8年)木歩、22歳。1月、重症を脱する。1月早々、声風につれられ人力車に乗り写真館に行き、生まれて初めて写真を撮った。声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に写真を載せるためだった。母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念された。
3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けた。7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで、写真を撮った。これが二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版である。
12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(田中良助)の俥にのせられ引っ越した。末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。
当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり私娼街が造成されていった。
1920年(大正9年)木歩23歳。畑と牧場しかない玉の井が、私娼街の姿に整うのは1921年(大正10年)以降であり、大正9年はじめはまだ、無秩序に家普請が続いている僻地だった。あちこちに蓮田や沼があり、牧場では牛が飼われていた。玉の井の新居にも二階があり、木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごした。須崎の華やかさに浮つきかけた木歩が、また元の俳句三昧の生活に戻れた。木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだ。
声風は「木歩句鈔」を編んで、「石楠」に掲載するよう亜浪に懇請した。しかし、亜浪は何故かこれを渋った。そこで声風は渡辺水巴(わたなべ すいは)に頼んだ。水巴は快諾して「曲水」に大正9年7月から4回に亘って連載した。そこで声風は木歩のために、水巴の厚意を謝した。しかし声風のこうした行動は、計らずも亜浪の逆鱗に触れた。 ある日、木歩を訪れた声風は、「石楠」を脱退すると告げた。「木歩句集」が「曲水」に掲載されて以来、水巴に対する声風の傾倒親密さが、亜浪の疑念を深める結果になった。
水巴主宰の「曲水」に「木歩句集」が連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなった。かつての「茜」の比ではなかった。木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきた。木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。水巴は声風を「曲水」に同人として迎えようとしたが、声風は断った。代わりに、水巴や慶應義塾大学仲間の大場白水郎(おおば
はくすいろう)らとの句会に出席させてもらうことにし、「曲水」へは句は出さずに、随筆、評論のみを投稿した。水巴は木歩にも同人の声を掛けたが、木歩も断った。
1921年(大正10年)木歩24歳。 春頃には玉の井は沼地の殆どが埋め立てられ、娼家が立ち並ぶ歓楽街となった。人形屑削りの内職をやり、夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業した。一部家を改造した費用や当座の仕入れ金は、姉の旦那白井が出してくれたと言われている。声風は総額40円にもなる講談本全集を書店より購入し、また自宅にあった小説や俳句関係の本を持ち込んだ。だが客の殆どは娼婦で、借りていく本も軽い黄表紙ものばかりであった。
木歩は客の来ない時には、本を読み俳句を作った。評論や手紙などは店を閉めてから夜に集中して書いた。木歩は、玉の井と聞けば誰でも真っ先に思い浮かべる「娼婦」という言葉を使って句を詠むことを殆どしなかった。この年の秋、「平和堂」の店を覗いていた一人の少年が店に入って来て、一心に書いていた木歩に、何をしているのかを問いかけてきた。俳句というものを初めて知る少年は、俳句を学ぶこととなった。少年の名は、猪場毅(いば
たけし)と言ったが、間もなく宇田川芥子(うたがわ けし)の俳号をもらい弟子となった。
1922年(大正11年)木歩25歳。 この年の春、声風は「石楠」主宰・亜浪との確執から、「石楠」同人を脱退した。声風の「石楠」離脱半年後、木歩も「石楠」退会届を亜浪宛てに提出した。「石楠」を退会しても木歩の発表先に不自由しなかった。三河の浅井意外の「山鳩」に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春草(はせがわ しゅんそう)の「俳諧雑誌」、楠部南崖(くすべ なんがい)の「初蝉」などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。随筆・研究・論文を「曲水」「初蝉」「山鳩」「俳諧雑誌」などに『新年雑筆』『名猫』『近代名句評釈』『俳壇事始』『水巴句帖について』などの題で書き、好評を得た。手記『私の歴史』草稿など書き、将来を嘱望された。この年、水巴は3月から「曲水」に「一人三昧」と題する新作の発表欄を設け、木歩を客分として連載を依頼した。句は声風が選をする形をとった。俳句雑誌「初蝉」の編集長の楠部南崖が訪ねてきた。二度目だった。出版されたばかりの「水巴句帖」について熱心に話し合ったという。11月には芥子よりも2歳ぐらい年長の、和田不一(わだ ふいち)という少年が俳句を習いに通って来た。平和堂主人・富田木歩は俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたのである。
その年の正月に長兄金太郎と梅代の次女、1歳のリクが逝った。そして、夏には木歩がとても可愛がっていた身寄りの無い女工の伽羅女が、結核で亡くなった。木歩は伽羅女に片想いであった。若き師の思いもつゆ知らず伽羅女は夭死した。9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。小松川景勝寺へ納骨した。木歩が大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調なかなか回復しなかった。
声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めるための計画を思いつき、賛同者を募った。「石楠」と「曲水」にその広告が掲載された。揮毫者として、渡辺水巴、臼田亜浪、岡本癖三酔(おかもと
へきさんすい)、大場白水郎、井上日石(いのうえ につせき)、など錚々たる名が並んだ。黒田呵雪らに声風と木歩を加え、十人の短冊十枚一組を十円で頒布した。収益金は二百五十円にもなり全額が木歩に渡された。木歩は涙ぐみ、声を詰まらせ謝した。木歩は声風とも相談して受け取った金額全部を、主治医である亀井一仏に預けた。木歩の死の日までの療養・注射代になった。年の暮近く、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。
明けて1923年、(大正12年)木歩26歳。長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせることになり、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出し、買い手もついたので、慌しく引っ越すことになった。一方で白井は木歩のために、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであった。
行き届いた配慮に木歩は感激した。だが白井は礼を言いたいという木歩に会おうとはしなかった。代わりに声風が木歩に頼まれて、白井に礼を述べるために会った。白井は気風のよい江戸っ子だった。声風はこの年、8年在籍した大学を卒業し、父の意向で下谷の凸版印刷に勤めた。これまでの様に、足繁く木歩のもとには行けなくなった。
富子は浅草へ移り、天麩羅屋には「花勝」という看板を掲げた。木歩の「平和堂」の引越しは声風、一仏、種茅、芥子などが集まり賑やかにそして、一気に片付いた。初めての一人暮らしであり、一人の生活を案じて、また声風や種茅が足繁く通ってきた。妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、かつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。いわば、「平和堂」貸本屋ではなく平和クラブとでもいうように。 木歩は療養に専念するため、執筆を見合わせる旨の手紙を出したりしているが、結社の枠を超越して、広く自由な研究機関を思いたち、すぐ実行に移した。「草味吟社」のグループ名で「草味十句集」を毎月編集した。印刷の雑誌ではなく半紙に清書して綴じたものを、回覧して選句したり、批評を書き加えたりする回覧雑誌だった。一人が雑詠五句・題詠五句合せて十句出す仕組であった。メンバーには、木歩、声風、種茅、呵雪、一仏、芥子、不一など顔馴染みの他に、白水郎、増田長雨(ますだ ちょうう)、福島小蕾(ふくしま しょうらい)などの錚々たる名が見られた。結社でみれば「曲水」「石楠」「俳諧雑誌」の他に「ホトトギス」系の作家もあり、場所で言えば、東京だけでなく愛知、金沢、島根から北海道に及んでいた。
「石楠」離脱後、「曲水」に特別席を与えられていたが、同人でもなく自由な無所属の立場で誰とでも交流し、公正な意見を書いていた木歩であればこそ、実現したのかもしれない。毎月送られて来る作品は、芥子と不一によって清書され、当時、画学校に通っていた芥子によって表紙絵が書かれた。人数が多くなったので、同じものを二冊作って、回覧を早くする方法をとった。印刷誌ではなかったが、メンバーといい内容といい、こうした十句集では類のない豪華なものとなっていた。そして選句の結果は毎回、南崖の好意で「初蝉」に掲載されていた。それは俳壇各派の作家が集っているという特色はもとより、充実した作品群もまた、印刷され市販されている他の俳句雑誌にも見劣りしない立派なものだった。声風の胸の中にも木歩の胸の中にも、今は中断している「茜」を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくるのだった。」[やぶちゃん注:これは花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」(1975年10月発行こずえ社)からの引用との注記があるのだが、引用開始位置(最初の鍵括弧)がはっきりしない。]
弟妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。参加者は木歩、声風、種茅、一仏、不一、松雄、静子、小鈴とその朋輩だった。芸妓を乗せての賑やかな船遊び。太鼓や三味線の音や、さざめく声を響かせて暗い夜の川面を屋形船の灯が過ぎていった。小松島近くでは亡き波王を偲び、手を合わせ、悼句を詠んだ短冊を流し、波王の霊を慰めた。小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だった。しかし、遂に最も苛酷な運命の日が、木歩と声風の上に襲いかかった。
「1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。下谷の凸版印刷で地震に会った声風は、浅草瓦町の自宅に戻って無事を確認すると、親友の木歩のことが気になった。浅草公園の小料理屋「花勝」に寄ると、ここでも姉の富子が動けない弟の身の上を案じて、くれぐれもよろしくと手を合わさんばかりに頼むのだった。吾妻橋を渡り駆けずくめで須崎町の木歩の家に着いたが、すでに人影は無かった。落ちた壁土と書棚から落ちた本が家中に散乱していた。呼んでみたが答えは返ってこなかった。
一休みする間もなかった。家の裏手の方角から、火の手が上がったのである。声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。いた、人混みの桜の木の下にゴザを敷いて、顔面蒼白となった木歩がいたのである。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。近所の人にも頼んで、ここまで運ぶのがやっとで、どうにもならぬ不安の時を過ごしていたのである。二人の親友は暫く口もきけず、手を握りしめ合うばかりだった。木歩の眼に僅かながら生気が蘇ってきた。
ぐずぐずしてはいられなかった。須崎町は焼けてきて、そこにいることは出来ないのだった。木歩の帯を解いて、声風はそれで木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰った。人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草の「花勝」を目標に、バラバラに逃げるよりないからと、女たちとは別れることにした。静子は一緒に行きたいと切に願ったけれど、声風は声を荒げて先に行かせるのだった。
火の手は方々に上がっていた。それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄かった。その中を逃げるのである。背の高い声風だったが、腰から下は極端に痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っているのだ。それに、駆けに駆けて来た体は疲れていた。やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名北十間川)の川口近くまで来た時、何たる不運か枕橋はすでに燃え落ち、橋の傍の料亭「八百松」が真っ赤な焔を吐き始めていた。
浅草への近道は、完全に断たれてしまったのだ。愕然とした声風だが、小梅町方向への活路を求めようと、引き返そうとした。ところが行く手にはまた新たな火の手が上がった。どっと押し寄せてくる人波に逆らって歩くのは、どうにも至難なことだった。そうこうしているうちに、バリバリという音とともに、旧水戸屋敷(旧水戸藩下屋敷)の森の大樹が高熱に耐えられず生木のまま燃え上がり、巨大な火の塊と化していった。川を除いて三方は全く火の海となって、激しく迫ってくるのだ。
もう進むもならず、退くもならなかった。川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられよう筈もなかった。傍の人に無理に頼んで木歩を降ろして貰った。背負い紐が強く喰い込んでいて、解くのに随分と骨が折れた。苦心惨憺して鉄策を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。しかしそれも束の間、一息いれる間もなかった。森を舐めつくした猛火の真っ赤な舌は、土手の桜の木や、避難する人々の荷物に燃え移っていた。アッと言う間に火達磨となった人々の悲鳴があちこちで湧いた。眼の前に恐ろしい生地獄が繰り広げられた。
生きる道は唯一つ泳ぐしかない。その川はいつもの静かな川ではなかった。地震による津波が水面を不気味に膨れ上がらせ、激流は渦巻いていた。泥水さながらに濁りきった水が、火焔を映して言いようもない色を見せていた。泳がねばならない。そう感じた時、声風はチラリと自分が中学時代以後十年も、泳いでいないことを思い浮べた。自分一人でも泳ぎ切れるかどうか、全く自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまうことは分り切っていた。
覚悟すべき最後の時にたち至ったのを、二人は期せずして感じとっていた。そういう間にも、迫ってくる火勢は居たたまれぬ熱さとなって、攻めたててくる。声風は立った。そして「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」という悲痛な声とともに、手をさし伸べた。今生の別れの握手だった。木歩は黙ったまま万感の謝意をこめて、声風の手を固く固く握り返した。見つめあった二人の瞳は、涙に濡れていた。が、次の一瞬、折からの熱風とともに吹きつけた
火の渦に追われて、声風は大川に身を躍らせたのである。 かくして数時間の死闘後、漸く対岸の竹屋の渡し付近に辿り着いた時、見返る声風の眼に向島の土手を悪魔の如き火の旋風のはしるのが見え、次の瞬間、土手の人影はことごとく消し去られていたのである。」[やぶちゃん注:以上の震災部分は花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」(1975年10月発行こずえ社)からの引用。]木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。
震災から8日目に市川の兄の家に辿りついて驚かせた。隅田川には幾日も震災犠牲者の屍が川を埋めるほど漂い、水も見えぬほどだった。堤に在った者たちも、押されて川に落ち込んだのだ。それらの亡骸は伝馬船に引き上げられ、山と積まれて集められて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川最勝寺(現在、江戸川区平井一丁目の最勝寺)の墓に埋めた。戒名「震外木歩信士」の木歩は、この世で俳壇の新しき星と光り得たが青春の片恋はみのることなく、ついに女の肌にも触れず26歳の童貞の生涯を墨堤の露ならぬ火のなかに消したのだった。
三十五日の法要に墓前に集まったのは姉妹と声風たち俳友、門弟、そして木歩のながい間の片恋の妓の小鈴の姿もあった。その寺、最勝寺墓地に木犀が咲いていた。
木犀匂ふ闇に立ちつくすかな
声風のその日の一句である。「その花の香の漂う夕闇に、亡友の墓に立ち尽くした声風はその日からわが生涯を木歩のために献げたいと願った。」[やぶちゃん注:吉屋信子著「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』(富田木歩)」(朝日新聞社1979年6月刊)からの引用。]
木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を費やしたのである。
勿論、浅草六区の映画館「電気館」の経営者として、経済界での活躍をないがしろにしたわけではない。けれど、折に触れ事あるたびに、木歩の俳句を語り、書き、著作集の編集と出版とをしつづけたのである。あの日、隅田川を泳ぎきって声風が再び浅草に帰った時、瓦町の自宅はすでに灰燼に帰していた。「平和堂」が何一つ残さず燃えてしまったのは、言うまでもない。木歩の最後の文章『すみだ川舟遊記』は、原稿のまま印刷所で焼失してしまった。こうした悪条件の中で声風は、木歩の作品の散失を防ぐために、木歩の作品の載っている雑誌類を集め、書き抜いていくのだった。それは地味な、たゆみない努力のいる仕事だった。その甲斐あって、昭和9年に「木歩句集」、「木歩文集」、昭和10年に「富田木歩全集」、昭和13年に「定本木歩句集」、昭和39年に「決定版富田木歩全集」などが世に出た。
また、墨田区の向島2丁目の、隅田川に沿った墨堤通りから少し入ったところに、三囲(みめぐり)神社がある。この神社は、とても由緒ある神社で、新春行事の「隅田川七福神めぐり」の神社のひとつにもなっている。境内には、松尾芭蕉の弟子の宝井其角の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に富田木歩の句碑もある。富田木歩句碑は震災から一周年に、全国の俳人有志60人が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたものである。建立の日、9月14日には木歩の兄金太郎、姉富子、妹静子も列席したという。句碑は社の裏手、銀杏の大木の前にある。下記の句碑の書は、臼田亜浪による。裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている。
夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩
1991年(平成元年)3月に、富田木歩終焉の地である枕橋近くに、句碑が墨田区によって建立された。
かけそくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩
新井声風は1972年(昭和47年)8月27日、市川市で木歩を背負っての一生を閉じられた。声風亡き後も、木歩を偲ぶ会と、追善法要並びに追悼句会は、毎年、命日の9月1日前後の日曜日に、最勝寺の住職や地域の俳人によって小松川の最勝寺で催されている。
《引用終了》
* * *
病 妹 三句
晝寢守(も)れば螻蛄(けら)の聲澄む花菖蒲(しやうぶ)
寢る妹に衣(きぬ)うちかけぬ花あやめ
病む妹に夜氣忌みて鎖(さ)す花あやめ
(註・夜気は夜の空気のこと)
夕むれの縁に螻蛄鳴く黐(もち)の花
花黐の蠅移りくる晝餉かな
病妹惡し
醫師の來て垣覗く子や黐の花
ともすれば灯奮ふ風や時鳥(ほとゝぎす)
船の子の橋に出遊ぶ蚊喰鳥(かくひどり)
(註・蚊喰鳥は蝙蝠のこと)
病妹 五句
咳恐(おそ)れてもの言ひうとし蚊の出初む
たまたまの蚊に咳(せ)く妹を憂ひけり
かそけくも咽喉(のど)鳴る妹(いもと)よ鳳仙花(ほうせんくわ)
死期近しと夕な愁(うれ)ひぬ鳳仙花
床ずれに白粉(おしろい)ぬりぬ牽牛花(けんぎうくわ)
(註・牽牛花は朝顔のこと)
病妹惡し
額上の汗に蚊のつく看護(みとり)かな
病妹惡し
蚊遣焚いて瓶花(びんばな)しほるゝ愁(うれ)ひかな
蚊遣焚いて子を預りぬ洪水仕度(みづじたく)
臥す妹に一と雨ねぎぬ軒葡萄
臨終近しとも知らぬ妹こまやかに語る
涙湧く眼を追ひ移す朝顏に
納棺式
死装束(しにしやうぞく)縫ひ寄る灯下秋めきぬ
忌中第一夜
線香の火の穗浮く蚊帳更けにけり
通 夜
棺守(ひつぎも)る夜を涼み子のうかゞひぬ
鷄音しばしば讀經さそはる明易し
妹の棺を送る
明けはずむ樹下に母立ち尽したり
朝顏の薄色に咲く忌中かな
夜鴉(よがらす)に空仰がるゝ蚊帳のもと
兄が兒の食初めに
朝寒や兒が齒固めの豆腐汁(とうふじる)
川蘆の蕭々(せうせう)と鳴る秋の暮
(註・蕭々は風の声のものさびしいさま)
暴(あ)れ空の暮れゐて赤し鳳仙花
児を抱いて風邪聲(かぜごゑ)憂ふ鳳仙花
亡父七囘忌
夜べ插せし芒(すすき)に修す忌日かな
病白丁花におくる
小草みな花もつ雨ぞいとはれな
(註・白丁花、本名音簾納(みすなふ)信次。東京の俳人。大正八年
四月十八日歿。享年二拾三歳。)
家のために身を賣りし隣の子の親も子煩惱なれば
こほろぎにさめてやあらん壁隣り
寢んとすればたまたま乳のあたり痛みけるに
蚯蚓(みみず)鳴くや肺と覺ゆる痛みどこ
麻だすきして晝寢子よ秋祭
凌雲閣の灯影(ほかげ)さやけし蚊帳の秋
(註・凌雲閣の灯影は通称十二階と言ひ、浅草公園にあった。高さ二
百二十尺。東京名物であったが、関東大震災に依り半壊され、後取
り払はれた。)
蟲の聲膝に時化(しけ)冷え覺えけり
[やぶちゃん注:この句、全集にない。「時化冷え」は不詳。湿気を
帯びた冷気のことか。それとも東京湾に近いので、海が時化て温度
が下がることを言うのか? 識者の御教授を乞う。]
着ぶくれて寢つゝ本讀む夜半の冬
喀血して
鷄遠音(とりとほね)きこゆ北風(ならひ)に病臥かな
[やぶちゃん注:「北風(ならひ)」とは太平洋岸東日本で用いられる語で、
冬に吹く季節風、東北の風のこと。「筑波ならひ」等と古語にある。]
入日濃くなりまさる棟や冬木風
汽車の音の我が戸にせまる落葉風
鍋のまゝ食ふ煮大根の金氣(かなけ)かな
乏しさの湯槽(ゆぶね)に浸(ひ)たり冬の雁
霜の夜や風呂敷かぶす駄菓子箱
たまたまの汽笛にさめつ雪の暮
亡弟の墓參の途中
枯蘆に船底を燒くけむりかな
(註・墓所は小松川の最勝寺)
[やぶちゃん注:牛宝山明王院最勝寺は東京都江戸川区平井にある。
通称目黄不動尊(めきふどうそん)。この平井という地域は江戸川
区西部に位置し、北・東・西の三方を荒川と旧中川に囲まれており、
所属する江戸川区とは荒川・中川で隔てられていて、南に隣接する
小松川地区以外に陸続きでは移動することは出来ないことから、
「全集」註ではこの地域を小松川と呼んでいるものと思われる。]
炭箱に顏さし入れてくさめかな
(註・「くさめ」はくしゃみのこと。)
大雪やあはれ痔(ぢ)痛む夜べなりし
埋火(うづみび)や客去(い)ぬるほどに風の音
餠搗を啞と見てゐる火鉢かな
床下に捨て犬の鳴く冬の暮
宵ひそと一夜飾りの幣(ぬさ)裁(た)ちぬ
茶袋のこぼれくすべぬ掃納め
入日濃くなりまさる棟や冬木風
顏洗うて惡寒(をかん)覺えぬ芽水仙
大正八年(一九一九年)
元日の客とぢこめて豪雨かな
病母の云へる言葉をそのまゝに
体内にこの風が吹く冴返(さえかへ)り
(註・「冴返り」は春になりて寒気が再び催すこと)
一ひらの雲消えてゆく暖き
小 庵
櫻散る墨田來て鳥居曲るべし
母がふるひし土に草種播きにけり
痛み症に母雨といふ歸る雁
我が猫の閼伽(あか)飲んでゐる彼岸かな
(註・閼伽は水の意。)
たまさかは夜の街見たし夏はじめ
蚊嫌ひの母に戸ざして夜雨涼し
病みて
枕頭(ちんとう)の蚊遣に咽喉(のんど)ひからびし
姉の家を訪ふ
門あらず木立涼しき家ときく
(註・「姉の家」は次姉久子の柏木の假偶のこと。)
[やぶちゃん注:久子は北海道の昆布商人の妾となっていたが、
その旦那が、眼病治療のために上京して淀橋柏木に仮寓してい
た。これは同年七月にそこを母み禰(ね)と訪ねて一週間程滞
在した折の句である。その時、木歩は母と並んで座わった写真
を撮っているが、この写真からトリミングされたものが、現在、
最も人口に膾炙している木歩の顔写真である。]
鷗(かもめ)しきり鳴くこの通夜(つや)の明易き
弘福寺
椎(しひ)若葉白々と墓地暮れにけり
[やぶちゃん注:弘福寺は向島須崎町にあり、この境内には長姉富子
が須崎の芸妓屋の主人の妾となって囲われていた。]
軒風呂も寒からず雪の下咲いて
蝙蝠(かはほり)に空明かりさす湯浴(ゆあみ)かな
默讀や膝下(しつか)雜れぬ蚊を追ひて
[やぶちゃん注:「雜れぬ」は「みだれぬ」と訓じているものと思わ
れる。]
夕風に雀一羽見し花いちご
墓草の刈りかけて詣る人もなし
棟越に鳥群れ落つる秋の風
葉月八日
喀血にみじろぎもせず夜蝉鳴く
木戸鎖(さ)しに出て子の螢拾ひけり
墓地遠望
こゝら町空幟(のぼり)も見えず寂れけり
[やぶちゃん注:「全集」では「幟」に「のぼり」のルビを振る
が、これは誤りではないだろうか。「空幟」で「のぼり」と読
ませていると私は判断する。]
夕蒸れや木々浮く空の秋めきて
土手ぞめきゆく人聲のうそ寒き
[やぶちゃん注:「ぞめく」は古語で「騒(ぞめ)く」。浮かれ騒ぐ。
また、特に遊廓を冷やかして騒ぎ歩くという意味もあり、私は後者
で採る。]
黙讀に胸押せば咳く夜寒かな
秋風の沁みて咳呼ぶ病後かな
秋風や街呼び歩りく梯子賣
野菜賣の云へる言葉を
秋もはや風ずれ茄子(なす)に別れかな
墓地越しに街裏見ゆる花木槿(はなむくげ)
郵便の來て足る心朝顏に
机上整理に病ひ忘れぬ鷄頭花
こほろぎや草履べたつく宵使ひ
病臥
熱さめて心さやけし蟲の宵
何講の太鼓練りゆく十六夜
仕掛花火の明かりしばしばす街の空
母腦溢血
母のみとりに佛燈忘る宵の冬
墨堤眺望 二句
時雨(しぐ)るゝや堤ゆきかふ荷馬車の灯
土手越しの歸帆(きはん)見てをる時雨かな
新 居 四句
水汲みに呼びつれてゆく枯野かな
冬田越しに巷(ちまた)つくれる灯(ともし)かな
日暮れて人影うつる刈田かな
夜に入りてらんぷ掃除や冬の雁
[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年三月一日、木歩は母が脳
溢血で倒れたことから、向島須崎町の弘福寺境内にあった長姉
富子が囲われていた家に転居した。]
亡き人々を夢に見て
夢に見れば死もなつかしや冬木風
行く年やわれにもひとり女弟子
(註・女弟子は石川伽羅女のこと。小梅吟社後期の人。女工。)
[やぶちゃん注:木歩は彼女に片思いしていたが、伽羅女も大正十一年夏、
結核で亡くなってしまう。]
冬の灯に蟲遊ぶ見る恙(つつが)かな
咳そそる夜氣(やき)窓さす落葉かな
病犬(やみいぬ)の咽喉(のど)鳴らしゆく落葉風
大工來て笹鳴聽かず二三日
(註・「笹鳴き」は冬の鶯の子が舌鼓をうつやうに短く鳴くを言ふ。)
霜燒の膝ツ子うづく夜伽(よとぎ)かな
(註・夜伽とは夜寝ずに付添うこと。)
大正九年(一九二〇年)
葛飾(かつしか)や釣師ゆきかふお元日
(註・葛飾は下総国すみだ川以東の地のこと。)
里人に摘み來てたゞす薺(なづな)かな
奉公に出し妹を思ふ
妹とゐぬ淋しさ羽子を飾りけり
[やぶちゃん注:この妹は木歩が最も可愛がった四女靜子。彼女も後、姉
同様に姉の旦那の遊廓で半玉となっている。]
椎ばかり風冴ゆる彌生(やよひ)夕べかな
書架に日をあてゝ朝餉(あさげ)や春淺き
行く雁に電車の音も冴ゆる夜や
我と我が息吹聽き寢る五月雨
雨に鎖してわづかに涼し壁のもと
雨のごと魚浮く堀の暮涼し
法華太鼓の野末ゆくらし夏の月
藻だたみに藻の花かげ夕づけり
夕燒けて雲くづれゆく茂りかな
水のよな雲を透(す)く日や菖蒲咲く
ぬかるみに木影うちらふ蚊喰鳥
草笛や泳ぎ子野路をなだれゆく
朝のまの街のしづけさ風鈴賣
簀の外の路照り白らむ心太(ところてん)
汽車音の風の夜めかす※の秋
[やぶちゃん注:「※」=「巾」+「厨」であるが、これは正しくは「幮 」で「かや」
と読む。]
蘆の穗に家の灯つづる野末かな
降りかけの路に灯つゞる宵の秋
砂走る外(と)の面(も)にうそ寒き
雲うすれゆくたそがれのうそ寒き
ひやひやと蘆透(す)けて見ゆ焚火かな
病ひ舊の如し
死思へばわが部屋親し晝の蟲
籠の蟲の聲洩れ來るや娼家の灯
(註・娼家は遊女屋。こゝでは私娼の居る家を言ふ)
朝顏に井戸水つめたき嗽(うが)ひかな
蚊帳吊りし今宵讀書に更かさばや
仕舞ひ花火の流れて消えぬ風の宵
病床未だ離れがたき身の聲風が手すさびに寫眞を撮りて
面影の囚(とら)はれ人に似て寒し
[やぶちゃん注:この写真は現存する。向島玉の井の当時木歩自宅(前年
大正8年の十二月に転居)で当時木歩が営んでいた貸本屋の二階で撮影
された。木歩二十四歳であるが、この句が添えられる時、その眼光は直
視出来ない鬼気をさえ帯びる。]
病みて
次の間の灯に牀頭(しやうとう)の冴ゆるなり
(註・牀頭は枕もとの意)
凩(こがらし)や夜半の行人たのもしき
窓の椎夕日に映えて北風(ならひ)かな
北風あと心呆(ほほ)けし夕餉かな
悼乙字氏
水仙花遺筆に插して追慕(つゐぼ)かな
(註・乙字、本名大須賀績。大正九年一月二十日歿。享年四拾歳。俳
論家として聞ゆ。「遺筆」は弟利助追悼の木歩秘蔵の乙字の短冊な
り。)
大正十年(一九二一年)
蓬萊にをさなき宵寢ごころかな
(註・蓬莱は新年の寿を喜祝する飾り物)
黄昏(たそがれ)や外の面の羽子の大人(おとな)がち
獅子舞のひそと鎖(さ)しゐて夕餉かな
ぬかるみのいつか靑める春日かな
病み臥(ふ)して啄木忌知る暮の春
(註・啄木忌は四月十三日)
夜櫻や街あかりさす雲低し
蘆の芽や雲影消(け)ゆく水濶(ひ)ろし
雲うすく暮るゝ小雨や蘆めぐむ
病み呆けてふと死を見たり花の晝
病鬱(びやううつ)に晝暗くをる花躑躅
たそがれの草花賣も卯月かな
(註・卯月は旧暦四月の異称)
口笛の咳そゝる木の芽夕べかな
白ばえに曉(あけ)めく街の鷄音かな
[やぶちゃん注:「白ばえ」は梅雨時の小雨が降りながらも時々晴
れるような空模様を言う。]
晝顏の風に砂嚙む家居かな
蝙蝠のしろじろと街更けしかな
病母輕快
病む母に金魚死ぬ日もうとかりし
行人の螢くれゆく娼家かな
家のものみな病む
病み臥(ふ)すや蝉鳴かしゆく夜の門
偶 感
かかる夜の風に燈籠流しかな
(註・燈籠流しは、七月十六日死人の冥福を祈るため、川に燈籠
を流すすみだ川の夏の年中行事の一つなり。)
街折れて闇にきらめく神輿(みこし)かな
蚊遣淋し宴(うたげ)つづきの果てし宵
家かげにほちほちと鳴る門火かな
街の子の花賣の眞似秋立てり
胸には喀血の氷嚢を置き、腹には痢病の温石を抱く
冷熱のたゞならぬ身に秋立てり
親しまぬ子の鳩吹くや宵寒き
(註・「鳩吹くや」は玩具の鳩笛を吹くの意)
市行や宵寝寢の門のうそ寒き
秋風の背戸からからと晝餉かな
少年が犬に笛聽かせをる月夜
蟲賣や宵寢のあとの雨あがり
紫苑(しをん)活(い)けて夕べはかなきかゝり蜘蛛
灯影淋し野菊の鉢のかゝり蜘蛛
わが身いとしむ日の桔梗(ききやう)水換ゆる
夕空や野の果て寒き街づくり
遠(を)ち方(かた)の鷄音に覺めし深雪(みゆき)かな
いさゝかの藻に雪とぢし汀(なぎさ)かな
この頃の師走さびれや娼家の灯
ロダン追想
闊歩(かつぽ)して去りし人戀ふ夜半の冬
(註・闊歩は大股にゆっくり歩くこと)
ひとりゐて壁に冴ゆるや晝の影
遠火事の雲にうつれり風の宵
遠火事に物賣通る靜かかな
蘆枯るゝ風のけはひに病臥かな
(註・けはひは様子の意)
暮れそめて冬木影ある障子かな
枯蘆やうす雪とぢし水の中
大正十一年(一九二二年)
すべもなき啞が身過ぎか猿廻し
(註・「すべ」は仕方・方法。「身過ぎ」は生活。)
水巴先生の御結婚を祝ひて
かざり納めて心新たな住居(すまひ)かな
瓶にさす丁子(ちやうじ)香もなき二月かな
花賣のうつそうと舁(かつ)ぐ彌生かな
(註・「うつそう」は草の青々と茂ってゐること)
しろじろと砂立つ野路の朧かな
灯ともせば外の面影なき朧かな
吹き切つて灯影ひびかん春淺き
金魚飼ふや玻璃の水色まだ寒き
病體夜々寢汗になやむ
夜着うすくして淋しらや春淺き
(註・夜着はかいまきのこと)
使ひ子に與ふ
提灯(ちやうちん)の匂ひ身に添ふ春寒し
墨 堤
雪洞(ぼんぼり)のひやびやと花過ぎし土手
枸杞垣やいつち芽ぐみし夕あがり
(註・「いつち」は、いちばんの意。「夕あがり」は、夕方雨が止ん
だと言う東京の方言。)
風色や枸杞垣煽(あふ)つ宵涼し
籠の鷄に子の呉れてゆくはこべかな
病母の痰の藥餌に
蕗(ふき)の薹(たう)煮てかんばしき夕餉かな
龜なくとたばかりならぬ月夜かな
(註・「たばかり」は謀りあざむくこと)
雛の灯も忘れてそそと夕餉かな
(註・「そゝと」はせわしいの意)
端 午
一軸一花一盆の柏餠もなし
庭師來て夜目もあやなす土涼し
(註・「あやなす」は美しい模様をつくること)
月あらはにきはまる照りや夏柳
蝙蝠や竿鳴らし追ふ雨催ひ
蝙蝠や夕日はかなき暴(あ)れもよひ
貸本屋をいとなみ一年に及ぶ
なりはひの紙魚(しみ)と契りてはかなさよ
老郵便夫の勞をねぎらふべく寸志を贈る
老が汗のよすがともなし郵便夫
藤の實やたそがれさそう薄みどり
夕照りやしろじろ寒き家あはひ
壁こぼつ音の隣や冬ざるゝ
病後
おとろへや齒の冷えうとき夜の膳
(註・うときは、はっきりわからぬ意)
石蹴りつゝ行く子の寒きそぶりかな
(註・「そぶり」は動作のようす)
遠火事にひそと家並の灯影かな
藻だたみに夕さりややに明り立つ
大風の家居うつろに冴ゆるかな
(註家居は、家のなかにゐること)
冬の雲土手築く町の果さびし
大正十二年(一九二三年)
或る人によする
病む病まぬさがのすさびつ二月かな
(註・「さが」は性質)
鷄鳴けば侘びしさよする春日かな
葉ふるひし木々に屋根浮く彌生盡
齒を病むやきさらぎ盡くる夜のけはひ
如月(きさらぎ)の夜風どこぞの家とざす
木の芽垣にくらき灯洩れつ唄ふ子よ
新 居
日のたゆたひ湯のごとき家や木々芽ぐむ
(註・たゆたひは、たゞようこと)
[やぶちゃん注:この年、 長姉富子の旦那の好意で木歩は須崎に一
軒屋を借り、従来通り、貸本屋平和堂を続けられるように改築して
呉れ、生活の目途が立った。前年末頃には、結核の症状も安定して
いていた。]
侘び住めば家にあらぬ子の雛を出す
(註・「家にあらぬ子」は妹靜子のこと)
町の子ら雛(ひひな)の宵の鬼遊び
(註・「鬼遊び」はおにごっこのこと)
女親しう夜半(よは)を訪ひよる蒸暑き
妓に寄する
紫陽花(あぢさゐ)やなりわひにあるを侘びて彈く
(註・「妓」並びに前句の「女」は、幼な馴染みの小鈴のことなり)
わくら葉の灯にあらはなるいとひかな
(註・いとひは、厭(きら)うこと)
鷄こゝと遠く風立つ茂りかな
身もあらず鷄の砂あぶ草いきれ
蛾にひそと女かゝづらひ座ははずむ
(註・「かゝづらひ」かゝりあること)
水のしらみもなく螢火ひとつ過ぐ
女出て螢賣呼ぶ軒淺き
風鈴賣荷をあげてゆき晝ひそむ
障子洩る灯に簾うく路地淺し
灯のかうかうと夜氣深し簾(すだれ)解(と)く
玩具の音の簾を洩れつ宵淺き
すみだ川舟遊
夜釣の灯なつかしく水の闇を過ぐ
[やぶちゃん注:これは先のウィキの引用の印象的なシークエンス
である次のシーンを詠んだものであろう。『弟妹につづく母の死、
自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰め
ようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。参加者は木歩、声風、
種茅、一仏、不一、松雄、静子、小鈴とその朋輩だった。芸妓を乗
せての賑やかな船遊び。太鼓や三味線の音や、さざめく声を響かせ
て暗い夜の川面を屋形船の灯が過ぎていった。小松島近くでは亡き
波王を偲び、手を合わせ、悼句を詠んだ短冊を流し、波王の霊を慰
めた。小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だった。しかし、
遂に最も苛酷な運命の日が、木歩と声風の上に襲いかかった。』……]
棺(ひつぎ)見るこゝろむなしく秋日かな
あらぬ方に夕燒雲浮く風寒し
障子あけて部屋のゆとりを冬惜しむ
[やぶちゃん注:これ以降の句は底本に「大正十二年」に所収す
るが、同年冬にはもう木歩は白玉楼中の人となっていた。従っ
てこれらはそれ以前(恐らくは前年冬)の句と考えられる。]
ある愁人によする
ものゝよすがもなくて侘びしう雪に酌(く)む
(註・愁人はこゝでは詩人・俳人の意)
暮れぎはの家並かたぶく雪しぐれ
(註・「かたぶく」は傾くこと。「雪しぐれ」は雪が木の枝などからくづれ落ちること)
夢にかよひて外の面の雪の暮れ白らむ
冬雲が土手築く町の果てさびし
移 轉
顧りみす冬木に淺きなごりかな
冬木暮るゝそがひの空の夢に似し
[やぶちゃん注:「そがひ」は背面、後方のこと。]
冬木空にまぎらふ月のかかりゐし
新 居
ゆかりある冬木また仰ぐ家居かな
ある愁人によする
冬木仰ぐいとまなき君と知るは憂し
そこらかぎりて晝のうつろや枯柳
障子はりてものにもつかぬ心憂し
完