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「耳嚢」根岸鎭衞 自跋


[やぶちゃん注:二〇一五年四月七日を以って、自身のブログ・カテゴリ「耳嚢」に於いて「耳嚢」全十巻全百話の原文電子化と訳注を終えた。それを記念して、以下、その底本とした三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の「耳嚢」の末に載る根岸鎮衛の自跋を同様に電子化して語注を附し、現代語訳を示す。ともかくも本文完全オリジナル訳注を完結し得たのはこれ一重に教え子を始めとする読者の方々の不断の声援のお蔭である。この場を借りて深く謝意を表するものである。【二〇一五年四月九日 心朽窩主人藪野直史】]


 (自 跋)

 此書は予佐州のちやうにありし時、寄集置よせあつめおきし奇談、又人のために成るべき事を校合きやうがふして、文化二年迄に、追々聞おひおひききし事をかきしるしけるに、九百ケ條になりぬ。今百ケ條をつゞりなんと思ひぬれど、勤仕ごんしのいそがしき、くわふるに衰老すいらうらんゆゑ、筆をとどめんと踟蹰ちちゆうせしに、はじめ三卷を、子弟の外、親しき友の見たる事ありしや、林祭酒りんさいしゆ予がつゞれるといふ事を知りて、全本ぜんぽんを求め乞ふ故、重く勤仕もなし、且御政事かつおんまつりごとはしにもたづさはる身分、其名思はずもあらわれて、かゝる事かきしるせしを、人のもてなやむ事、嬉しからざれば、せちにことはりて其意にまかせず、ついでかきしるせし、素よりの事をいましめ、子孫えもかたくほかえもらすまじきを教誡きやうかいして、筆をとどをはんぬ

  文化八巳年仲秋                 七十三翁
                                                               守 臣 跋 書


□やぶちゃん注
 この「始三卷を、子弟の外、親しき友の見たる事ありし」という箇所を見る限り、先の自序はやはり巻三の時点で書かれたという感じが私には強くする。
・「(自跋)」原典には標題がなく、「自序」は編者鈴木棠三氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本の鈴木氏注によれば、『この跋文は芸林叢書所収の吉見義方筆写本(三村翁旧蔵)にのみ存する。すなわち同本の巻五の巻末に、この跋文を載せる。この本は、どういう理由によるのか明らかではないか、巻序が成立時代順と甚だ齟齬している。これを成立順に並べかえると、巻三、四、五、一、二、六の順になるのであるが、同本自体としては、巻五に著者自跋、最終巻に筆写した吉見義方の識語を付するように按配したものらしい』と記しておられる。
・「佐州の廰」佐渡国の遠国奉行佐渡奉行のいた佐渡奉行所。天明四(一七八四)年三月十二日から天明七(一七八七)年七月一日まで三年在任した(但し、二人制で在府と在島が一年交代)。
・「文化二年」西暦一八〇五年。「耳嚢」の巻六の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、巻三のように前二巻の補完的性格が強い)で、次の巻七の下限は文化三(一八〇六)年夏までである。底本の鈴木棠三氏の冒頭解説には、この『文化二年迄に、追々聞し事を書しるしけるに、九百ケ條になりぬ』の『文化二年』は文化六年の覆刻の際の誤りであると指摘なさっておられる。『九百ケ條にな』った巻九の執筆下限は文化六年であるからである。このままではどう考えてもおかしい。訳では「六年」に訂した。
・「嬾」懶惰らんだの「懶」と同義で、怠る・なまける・もの憂い・億劫。
・「踟蹰」躊躇と同義。進むのをためらう佇んでしまうこと。ぐずぐずと立ち止まること。
・「林祭酒」「祭酒」は大学頭だいがくのかみ(昌平坂学問所の長官。元禄四(一六九一)年に林鳳岡ほうこうが任命され以後、代々林家が世襲した)の唐名。儒者で大学頭であった林家当代当主林述斎はやしじゅっさい(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)名はたいら。述斎・蕉隠・蕉軒などと号した。美濃国岩村藩主松平乗蘊のりもりの三男であったが林家七世林錦峯きんぽうに嗣子がなかったため、寛政五(一七九三)年、幕命により林家を継いだ。大学頭に任ぜられて幕府による寛政異学の禁に応じ、昌平黌しょうへいこうの幕府の官学化、幕臣に対する学問吟味の制度の創設、正学たる朱子学の振興などに努め、目覚ましい成果を挙げた。林家中興の祖と称せられる。著書に「蕉軒雑録」など(主に小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」の記載に拠った)。この自跋を見る限りでは、この林述斎の閲覧慫慂が却って根岸を臆病にしてしまい、文字通り、門外不出として「耳嚢」の貸し出しを遂に許諾しなかったと読めるのであるが、底本の注で鈴木氏は、『しかし、昌平黌の蔵書中に耳嚢の写本かあったことを示す資料がある』と記され、東大図書館本「耳嚢」(巻一―五の四百七十七条を十冊に分けたもの)の巻十の末に以下の記載がある旨、示されてある(以下当該引用部を恣意的に正字化して示す)。
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昌平本表題鎮衛随筆〔一名耳嚢〕ト記シ卷之一ヨリ卷之五マデニ止マレリ、其書ノ奥書左ノ如シ。此書ハ寛政文化年間町奉行相勤し根岸肥前守鎭衞勤役中及其以前より見分にふるゝ所の名方奇談を何くれとなく書留て藏しけるを請得て写し置もの也 ト記セリ其著ト此書ト對照校生ヲ加フルニ昌平本ハ全此書ノ拔萃ナリ
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「名方」は「めいはう(めいほう)」で優れた薬剤の調合、有名な処方、また、その薬の意で、「耳嚢」にしばしば現われる民間療法の効能処方の条々を指していよう。「見分」「校生」の右には鈴木氏のママ注記が底本にはあり、「見聞」「校正」の誤字である。以上に続けて、鈴木氏は、『ここに昌平本と称するものが、いつ写されたかは明らかでないか、表題に「鎮衛随筆〔一名耳袋〕」と記されてあったという点、本書の初期の形態をうかがわせるもののようで、述斎は結局借覧に成功して、門人の誰かに書写させて、昌平黌の蔵本に加えたのであったかと思われる。そこで問題になるのは、この本か五巻本であることで、三巻本でも、また六巻本でもないという事実である。この点については、述斎が人伝てに耳嚢のことを聞いたときは、三巻本の時期であったかも知れないが、寛政八、九年には巻五まで執筆されていた、しかし巻六は』、『やや執筆のテンポの違う巻だったらしいことが、内容の面から患像できるので、この巻はまだ完成していなかったのではないか。現存の伝本に、五巻本と六巻本とがある理由も、このあたりに原因かあろう』とこの一件から美事逆に「耳嚢」成立の途中経過を推理なさっておられる。
・「持なやむ」「もて悩む」取り扱いに困る。もてあます。
・「文化八巳年」干支が誤っている。文化八年は辛未かのとひつじ(西暦一八一一年)で、 巳年は二年前の文化六年己巳つちのとみである。これについて底本の注で鈴木氏は、『六年が正しいのではなかろうか。巻九が文化六年夏までの記事を含んでいるので、その年の八月に、この跋文が執筆されたと見るのが自然である。鎮衛は、最初三巻本として一応書上げたので、その後も三巻書き上げるごとに大休止をし、九巻を完成したときは、これで全巻の終りにしようと考え、この跋文を執筆したものと見ることができる』と推定されておられる。相応に説得力があるのではあるが、問題は直下の「七十三翁」で、これは確かに文化八年の鎮衛の数え年なのである。巻十の筆致を見ても自身の年齢を誤るまで鎮衛は耄碌してはいない。鈴木氏は残念なことにこれについては何も述べておられない。

■やぶちゃん現代語訳

 
「耳嚢」自跋

 この書は私が佐渡国の奉行所に佐渡奉行として在勤していた折り、寄せ集めおいた奇談、また、人のためになろうかとも思わるる事を、相応に記述内容その他、校合きょうごうなして、文化六年までに、おいおい見聞した事を書き記してきたが、それがこの度、総計九百ヶ条のキリに達した。今、これにさらに百ヶ条を綴ろうとも思うてはおるが、勤仕ごんしの忙しさ、加うるに、寄る年波の老衰の懶惰らんだゆえ、やはり、これで筆を折ろうかとも躊躇致いてはおる。当初は三巻三百話であったが、これ、迂闊なことに子弟の外にも、親しき友がこの書を垣間見したることのあったものか、かの大学頭林祭酒だいがくのかみりんさいしゅ殿が、私がこうしたものを綴っておるということをお聴きになられ、今までに出来上がっておる全完本の閲覧を求め乞うて参られたによって――我ら重職の勤仕もなし――且つ御政事おんまつりごとはしにも携わる由々しき身分なるに――その名の、かくなる好事の奇譚集の作者として、思いの外に知れ渡ってしまったとせば――かくも破廉恥なる品々の書かれあるを、これ、多くの人に見らるることを思うと――そうした人の中には、これ、きっと本書の取り扱い方に困ったり、また、持てあましたりする御仁も出でて参るであろうなども思われるによって――これ、嬉しからざることなれば、林祭酒よりの閲覧の儀はこれ、せちに丁重にお断り申し上げ、不遜乍ら、その御意ぎょいにお任せすることは遂に致さなんだ。ともかくもついでのことに、ここに改めて書き記しておくのであるが、もとより、先におのが序文にも記した通り――門外不出――を固く誡めとして守り、子孫へもこれ――堅くほかへ洩らすことのなきよう――家伝の教誡きょうかい――として、ここに再度、記しおき、跋文の筆をくこととする。

  文化八巳年仲秋                 七十三翁
                                                               守 臣 跋 書