やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ


芥川龍之介   正宗白鳥   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:本作は昭和二(一九二七)年十月号『中央公論』に「芥川龍之介氏の文学を論ず」という題で掲載された。後に「芥川龍之介」と改題して「現代文芸評論」(昭和四(一九二九)年)及び「作家論(二)」(昭和一七(一九三二)年)に所収された。底本は昭和二六(一九五一)年創元文庫版「作家論(二)」の正字正仮名版を用い、冒頭に附された芥川龍之介の略歴も附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。印字のカスレ等の疑問の箇所は筑摩書房全集類聚版芥川龍之介全集の別巻所収の同作を参考にした。また、略歴と一部の章末に私の注を附した。本テクストは私のブログの440000アクセス突破記念と合わせて本日の私の純粋野人初年たる五十六歳の誕生日をも記念する電子テクストとして公開した。【二〇一三年二月十五日】一部、新字漢字で表記していたものを正字補正、私のミス・タイプ及び私の注の歴史的仮名遣の誤りを訂し、字配の一部を変更した。【二〇一六年九月一日】]

芥川龍之介

   明治廿五年三月一日、東京市京橋區入船町に生る。東京府立第三中
   學・第一高等學校を經て東京帝大英文科に入學。大正三年二月、豊
   島、山本、菊池、久米、松岡、成瀨正一等と第三次「新思潮」を創
   刊し一ケ年續いた。大正五年二月、菊池、久米、松岡、成瀨等と第
   四次「新思潮」を刊行し、「鼻」等を發表。この年七月大學を卒業
   し十二月海軍機關學校の英語の教官となつて鎌倉に居を移す。大正
   八年教職を辭して「東京日日」の客員となり再び東京田端に居を移
   す。大正十年支那各地を周遊す。昭和二年七月廿四日、東京市外瀧
   野川田端の自宅で自殺す。享年卅六。

[やぶちゃん注:『「東京日日」の客員』とあるが、正確にはその親会社である「大阪毎日新聞」社社員(但し、出勤の義務は負わない)である(辞令は同大正八(一九一九)年八月八日附)。]

        一

「處女作に於て、その作者の一生の作風は決定されてゐる」
 さういふ意味のことを、ウエルスが云つたさうである。芥川氏は、氏がさほど感心してゐないウエルスについても、この言葉だけは同感であると云つてゐたのを、私は何かの雜誌で讀んだことがある。
 私が最初に讀んだ、谷崎潤一郎氏の作品は「新思潮」(?)に掲げられた「象」であつた。芥川龍之介氏の作品で、はじめて私の目に觸れたものは「孤獨地獄」であつた。この二つの作品は、それぞれに後年の二氏の藝術を豫定させてゐるやうである。
 夏目漱石に激賞されたため、芥川氏の出世作となつたといふ「鼻」は、早くもこの作者の特色を現はしてゐて、人間の心理洞察の目と、諧謔ユーモアの才をそこに認めることが出來て、いかにも、漱石の好みにかなつてゐるのであるが、私正宗白鳥としては、この作者の他の一面を現はしてゐる「孤獨地獄」の方に心が惹かれた。
 私は、年少の新作家のこの小品を讀んだ時に、興味を覺えたのは、舊套を脱した藝術の萌芽をそこに認めたためではなかつた。斬新な技巧の光に打たれたためではなかつた。作中に語られてゐる話が面白かつたのだ。作者が母親を通して又聞きをした大叔父の話を、簡單明晰に、作者自身の主觀をまじへて述べてゐるのが、私の心にピツタリ嵌まつたやうに感じたのであつた。
 彼の大叔父といふのは、幕末から明治初年へかけての大通人山城河岸の津藤のことで、この津藤が吉原のある遊女屋で偶然近づきになつた僧侶の心境を語つたのが、五十年後に、年少作家龍之介の若い心に觸れて、かの小品となつた。
 僧侶禪超は大通津藤に向つて語つてゐる。
「佛説によると、地獄にもさまざまあるが、凡先づ、根本地獄、近邊地獄、孤獨地獄の三つに分つことが出來るらしい。それも…………大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤獨地獄だけは、山間曠野樹下空中、何處へでも忽然として現はれる。云はゞ目前の境界ヽヽヽヽヽヽヽヽが、直ぐそのまゝヽヽヽヽヽヽ地獄の苦難を現前するのであるヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。自分は二三年前からこの地獄へ墮ちた。一切の事が少しも永續した興味を與へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃れられない。さうかと云つて境界を變へずにゐれば、尚苦しい思ひをする。そこでやはり轉々としてその日その日の苦しみを忘れるやうな生活をして行く。しかし、それもしまひに苦しくなればヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ死んでしまふ外はないヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ昔は苦しみながらもヽヽヽヽヽヽヽヽヽ死ぬのが嫌だつたヽヽヽヽヽヽヽヽ今ではヽヽヽ……」
 ここまで語つて、禪超はまた三味線の調子を合せながら、低い聲で云つたので、最後の句は、津藤の耳には入らなかつたさうである。
 年少作者龍之介は、この小話を述べたあとに、自己の感想を添加して、かう云つてゐる。
「一日の大部分を書齋で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこの禪僧とは、全然沒交渉な世界に住んでゐる人間である。又興味の上から云つても、自分は德川時代の戲作や浮世繪に特殊な興味を持つてゐる者ではない。しかし、自分の中にある或心もちはヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ動もすると孤獨地獄と云ふ語を介してヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ自分の同情を彼等の生活に注がうとするヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ自分はそれを否まうとは思はないヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。何故と云へば、ある意味で自分も亦、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからであるヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。」
 私は、かつてこの小話を通して、幕末の僧侶禪超の心境を想望したのであつたが、今讀直すとこの小品が、暗示に富んだ筆で津藤と僧侶とを描寫してゐるのに氣づいた。母親から傳聞したただのお話の記錄ではないのである。
 思ふに、この材料を充分に驅使して、僧侶禪超の生理を、もつと具象的に細敍したなら、遊廓の背景や脇師の津藤の通人振りとともに、絢爛にして凄慘なる名作が現れた譯であつたが、芥川氏は、その短い人生行路に於て、さういふ材料を生かすほどの實驗を心身に吸收し得なかつた。……氏はかの小品に於ては、禪超の心の一端を瞥見して、ある理解を試みたのに過ぎなかつた。津藤の言葉として「これを嫖客のかゝりやすい倦怠アンニユイだ」と解釋したりしてゐる。「酒色をほしいまゝにしてゐる人間がかゝつた倦怠は、酒色で癒る筈がない」とも云つてゐる。そしてその後の十數年の作家生活の間にも、この材料を生かすぼどの人生味は身に體し得なかつた。
「自分も亦、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だ」とは、年少者が氣まぐれに口にする感傷語とばかりは思はれない。芥川氏の腦裡に嚴存してゐた感じであつたらしいが、その感じが歳を取るにつれてどう働いてゐたのであらうか。作品の上にどういふ風に現はれてゐたのであらうか。

[やぶちゃん注:冒頭のSFの父「ウエルス」(H.G.ウェルズ 一八六六年~一九四六年)への龍之介の言及は、『改造』に連載された「文藝的な、餘りに文藝的な」の内、昭和二(一九二七)年四月一日発行の第四号に掲載された中の「十二 詩的精神」を指す。以下、私の同電子テクストより引用する。

       十二 詩的精神

 僕は谷崎潤一郎氏に會ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も廣い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文藝上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の淨火を通つて來なければならぬ。僕の言ふのはその淨火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外効のないものであらう。しかしその淨火の熱の高低は直ちに或作品の價値の高低を定めるのである。
 世界は不朽の傑作にうんざりするほど充滿してゐる。が、或作家の死んだのち、三十年の月日を經ても、なほ僕等の讀むに足る十篇の短篇を殘したものは大家と呼んでも差支ない。たとひ五篇を殘したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を殘したとすれば、それでも兎に角一作家である。この一作家になることさへ容易に出來るものではない。僕はこれも亦橫文字の雜誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を發見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと斷言するのはウエルズのウエルズたる所以である。從つて彼は碌な短篇を書かない。

『私が最初に讀んだ、谷崎潤一郎氏の作品は「新思潮」(?)に掲げられた「象」であつた』「象」は明治四三(一九一〇)年九月号の『新思潮』で、正しい。
「嫖客」は「へうかく(ひょうかく)」と読み、「飄客」とも書く。花柳界で芸者買いなどをして遊ぶ客。遊客。]

        二

 小品「往生繪卷」も「孤獨地獄」と同じやうな意味で私には面白かつた。……五位の入道は、狩りの歸りに、或講師の説法を聽聞して、如何なる破戒の罪人でも、阿彌陀佛に知遇し奉れば、淨土に往かれると知つて、全身の血が一度に燃え立つたかと思ふほどにヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ急に阿彌陀佛が戀しくなつてヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、直ちに刀を引き拔いて、講師の胸さきへつきつけながら、阿彌陀佛の在所を責め問うた。そして、西へ行けと教へられたので、彼れは「阿彌陀佛よや。おおい。おおい」と物狂はしく連呼しながら、西へくと馳せてゐたが、やがて、彼れは波打際へ出て、渡るにも舟がなかつた。「阿彌陀佛の住まれる國は、あの波の向うにあるかも知れぬ。もし身共が鵜の鳥ならば、すぐそこへ渡るのぢやが、しかし、あの講師も、阿彌陀佛には、廣大無邊の慈悲があると云ふた。して見れば、身共が大聲に、御佛の名前を呼び續けたら、答へ位はなされぬ事もあるまい。さすれば呼び死に、死ぬまでぢや。幸ひ此處に松の枯木が、二股に枝を伸ばしてゐる。まづこの松に登るとしようか」と、彼れは單純に決心した。そして松の上で、息のある限り、生命の續く限り「阿彌陀佛よや。おおい、おおい」と叫んで止まなかつた。……彼れはその梢の上でつひに橫死したのであつたが、その屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐて、あたりに異香が漂うてゐたさうである。
 この小品の材料は、この作者が好んで題材を取つて來た今昔物語とか宇治拾遺とか云ふやうな古い傳説集に收められてゐるのであらう。その傳説が作者の主觀でどれだけ色づけられてゐるのか分らないが、私はこの小品を「國粹」といふ雜誌で讀んだ時に、非常に興味を感じた。ことに「孤獨地獄」と對照すると、藝術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤獨地獄に苦しめられてゐるある人間が、全身の血を湧き立たせて阿彌陀佛を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覺える人間が現出するのであつた。しかし、これ等を取扱つてゐる芥川氏の態度や筆致が、まだ微温的で徹底を缺き、机上の空影に類した感じがあつたので、私は龍之介禮讃の熱意を感じるほどには至らなかつた。
 私は、この小品の現はれた當時、その讀後感をある雜誌に寄稿した雜文の中に書き込んだ……五位の入道の屍骸の口に白蓮が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思附きであつて、本當の人生では阿彌陀佛を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、惡臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古傳説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の藝術家芥川氏が衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。藝術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。
 かういふ私の批評を讀んだ芥川氏は、私に宛てて、自己の感想を述べた手紙を寄越した。私が氏の書信に接したのは、これが最初であり最後でもあつたが、私はその手跡の巧みなのと、内容に價値があるらしいのに惹かれて、この一通は、常例に反して保存することにした。今手許にはないので、直接に引用することは出來ないが、氏は白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた。「求めよ、さらば與へられん」と云つた西方の人の聖語を五位の入道が講師の言葉を信じて疑はなかつたと同樣に、氏は信じて疑はなかつたのであらうか。
 私はさうは思はない。氏は、あの頃「孤獨地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同樣に、專心阿彌陀佛を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聽明な學者肌の人であつたに違ひない。禪超や五位の入道の心境に對して理解もあり、同情をも寄せてゐたのに關はらず、彼等ほどに一向きに徹する力は缺いてゐた。

[やぶちゃん注:ここに示された芥川龍之介の正宗白鳥宛書簡は、大正一三(一九二四)年二月十二日田端発信の岩波版旧全集書簡番号一一六二である。以下に全文を引用する。
冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來最も嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中からも是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ましい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今でも後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます 最後に國粹などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首
    二月十二日   芥川龍之介
   正宗白鳥樣 侍史
白鳥も記している通り、旧全集では正宗白鳥宛書簡は、この一通ぎりである。]

        三

 小説家として芥川氏は、新技巧派の一人として認められてゐた。氏は早くから文章家らしい文章を書いてゐて、幼稚なところも蕪雜なところもなかつた。私は、新潮社出版の現代小説全集中の「龍之介集」を通讀した時に、數十種の作品のうち、一つも出來損ねのないのに感心した。現代の文壇では稀れなる名文家であると思つた。しかし、有島武郎の作品に淸新なる技巧を見る如くには、芥川氏の作品から斬新な技巧を感受することは出來なかつた。夏目漱石の作品のやうに明敏なる頭腦をもつていろいろに趣向を凝らしてゐるに關はらず、文章は在來の日本の文章のやうである。「紅毛人の文學」に熟通してゐるらしいこの作者も、自己の文章には異國の情趣をあまり吸收してはゐなかつた。…‥私は、文章の形ばかりを云ふのではない。形は新しさうに見えても、新しい生命がどれだけ通つてゐるかと考察してゐるのである。
 私は、氏を名文家として推讃するに躊躇しないが、傑れたる新技巧家であるとは思つてゐない。それから、年少にして孤獨地獄を感じてゐた芥川氏も、人間を見る目に於ては、つまり平凡な有り振れた人情を一歩も出でてゐなかつたことを、氏の作物を讀みつゞける間に痛切に感じた。……これは、必ずしも氏を非難するのではない。氏は平凡な人情を脱却して、人生宇宙の現象を見ようと、いくらか藻搔いてゐたらしいが、その態度を徹底的には持し得なかつた。それだからこそ、氏の作品が世に迎へられたのであるし、古今の多くの文豪も、つまりそこへ落ちて安んじてゐたので、それでいゝ譯なのであらうが、津藤によつて語られて、芥川氏によつて片鱗を描かれて、われわれの心にも映じてゐる「孤獨地獄」の主人公僧侶禪超の心境は、そんな生やさしいものではなかつたに違ひない。
 試みに「蜘蛛の糸」を見よ「杜子春」を見よ。あるひは、作者得意の切支丹物のうちの「おぎん」を見よ。どれも、美しく敍述された物語である。そして、どれも有り振れた人情に雷同して作爲された物語である。「蜘蛛の糸」の犍陀多は、生前の惡行のために地獄の底に墮ちてゐたが、ただ一度蜘蛛の生命を助けたことがあつたのが、お釋迦樣の記憶に浮んで、その善行のむくいとして、地獄から救ひ出されることとなつて、お釋迦樣の手から一筋の蜘蛛の糸が、その地獄の底へ下ろされた。犍陀多はその糸を見つけると歡喜して、それに縋つて天上へ上りかけたが、他の多くの罪人も彼れに習つてその糸に貼りついた。彼れは多人數の重みで糸の中斷することを恐れて「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ……下りろ下りろ」と喚いた。すると、その途端に、蜘蛛の糸はぷつりと切れて、犍陀多は眞逆さまに暗の底へ落ちてしまつた。……つまりは、自分ばかり地獄からぬけ出さうとするこの男の無慈悲な心が、その心相當の罰を受けたといふのである。作者はここで、極り切つた秩序ある世界をやすやすと受け入れて、そこに何等の懷疑の苦をも感じてゐない。書振りが童話として書かれたらしく思はれるが、作者の心持までも童話の世界に安んじてゐる。私はこの頃「ガリバア旅行記」を讀み直したが、ここに描かれた童話の世界を見詰めてゐると、寒風に肌のつんざかれる思ひがされる。それに比べると、「蜘蛛の糸」などの童話の世界は、ストーブで温められた温室的書齋での假寢の夢に過ぎないやうに思はれる。……無論温室の夢も藝術として價値があるのに違ひない。私は「蜘蛛の糸」をも愛讀した。只、私は「孤獨地獄」や「往生繪卷」以來、芥川氏に對しては、世界の文壇の常套的藝術以上のものを期待してゐたために、不滿を感じたのである。
「杜子春」は支那の傳奇の飜案とも云つていゝもので、龍之介集中の傑作の一つであるが、型の如くに事が運んでゐて、「私は仙人にはなれません。しかし、私はなれなかつたことも、反つて嬉しい氣がするのです。いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、默つてゐる譯には行きません」と、杜子春は最後に夢から醒めたやうに云つて、「何になつても、人間らしいヽヽヽヽヽ、正直な暮しをするつもりです」と、誓ひを立ててゐる。……かういふ程度の人間らしさヽヽヽヽヽに、作者は人間を見たつもりで、また自己を見たつもりで安んじてゐたのであるか。それなら、禪超の「孤獨地獄」の惱みは、そこになかつた譯である。
「おぎん」は、自分一人天國の門へ入るよりも、天主のおん教へを聞く機會のなかつたために地獄へ墮ちてゐる筈の兩親の跡を追つて、自分も地獄へ落ちようと決心して切支丹の教へを棄てた。…‥作者はここでも人情に安んじた。讀者もここに描かれた人情に感動して涙を落すのである。
 芥川氏は、屢々題材を古傳説から取來つて、人情を説いてゐる。温室のなかで文學讀者を集めて、巧みな言葉で人情を説いてゐる。「山間曠野樹下空中、何處へでも忽然として現はれる」と、禪超の云つた「孤獨地獄」は、その温室に於ける作者の眼前には現はれなかつたのである。無論温室の屋外に、幾億萬由旬に渡つて吹きすさんでゐる寒風は、作者の耳には響かなかつたのである。

        四

 芥川氏は、切支丹物と稱せられる變つた物語を幾つも創作して、讀書人の注意を惹いた。自然主義以來の常套に習つて、凡庸貧弱な自己の日常生活を書く外に能のない多くの新進作家に比べると、芥川氏の態度は、遙かに賢明であつた。藝術的天分の傑れてゐたことも證明される。そして、氏は、それらの古い物語を、たゞの古い物語として書いてゐるのではない。それ等に於て、いろいろに人間の心の動きを洞察してゐるのだ。藝無しの身邊雜記作者以上に、自己の心をそこに現はしてゐるのだ。「奉教人の死」「るしへる」「おしの」「きりしとほろ上人傳」など、いづれも完成したる藝術品である。「保吉の手帳」など、作者自身の現實の生活記錄よりも、一層よく作者自身の面目を現はしてゐる。(私は、保吉といふ男を主人公とした小説は概して藝術價値の低いものだと思つてゐる)しかし、切支丹迫害時代の壯烈悲痛の逸話を取扱ひながら、稍々もすると、一般の人情の發露、あるひは逆説的心理の摘出を試みたに止まつてゐるのに、私は多少の遺憾を覺えてゐる。作者は「孤獨地獄」の苦惱の一端を覗いたに過ぎなかつたと同樣に、迫害された切支丹信者の壯烈悲痛の心境、あるひは夢幻的歡喜の境地に、自己の心を浸染させてゐたのではなかつた。……文學はそれでいゝので、文學の本領はそこにあるのかも知れないが、さうすると、文學は要するに智慧の遊びに過ぎないやうに思はれる。
 智慧の遊びとして、芥川氏の技巧の妙を見るべきものは、切支丹物は「報恩記」を最上とする。「藪の中」など二三、同じ趣向の立て方を試みたものがあるが、「報恩記」に於て、最もよく作者の藝術的手腕の冴えを見せてゐる。傑作の一つである。
 しかし、これよりも、一層傑れてゐると思はれるのは「地獄變」である。私は自分が讀んだ範圍内では、この一篇を以つて、芥川龍之介の最傑作として推讃するに躊躇しない。明治以來の日本文學史に於ても、特異の光彩を放つてゐる名作である。氏の多くの切支丹物や、平安朝物は、智慧の遊びに過ぎないところがあつて、一度は着想と奇才に感歎しても、二度三度繰返して讀むと興味索然たることもあるが、「地獄變」は今度讀み返して一層深い感銘を得た。芥川龍之介の持つて生れた才能と、數十年間の修養とがこの一篇に結晶されてゐる。聰明なる才人の智慧の遊びではない。心熱が燃えてゐる。夏目漱石や森鷗外に似て、いくらか型が小さいやうに思はれるところがないでもないが、この「地獄變」一篇は、鷗外漱石の全集中にも斷じて見難いものであると確信してゐる。私は藝術の上からのみ批判してかういふのではない。「孤獨地獄」や「往生繪卷」に一端を示したこの作者の心境がここでは渾然として現はれてゐるのに、ある尊さをさへ感ずるのである。……私は芥川氏の日常生活を知らない。氏が家庭に於て社交に於て、どういふ言葉を口にし、どういふ行動をしてゐたか知らないが、さういふ外形の生活はどうであらうと、氏が、良秀の「地獄變の屛風」完成の由來をここまで見たことは、氏自身が持つて來た心力の限りを盡くして、世界を見たやうなものである。……普通の人情や逆説的心理の摘出にのみ拘はつてゐた氏も、ここでは假面を脱した人間生存の姿を見たやうなものである。「現代小説全集」の目次を開いて見ると、「地獄變」の作られたのは大正七年のことである。氏が三十歳に達した頃であらう。そんなに若くつて、かういふ大作を著はしたことに、私は驚歎してゐる。
 氏の如き神童型の作家の晩年は自から推知されるが、最近數年問の氏の作品に、私は痛ましき衰頽の影を見てゐた。「改造」に連載されてゐた文藝評論などは、多くは氏の頭腦の混亂が示されてゐた。

        五

 曲亭馬琴を題材とした「戲作三昧」のなかに、錢湯の中で、入浴中の馬琴に當りちらしてゐる男の言葉として、
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一點張りでげす。まるで腹には何もありやせん。あれはまづ寺子屋の師匠でも云ひさうな、四書五經の講釋だけでげせう。だから又當世の事は、とんと御存じなしさ。それが證據にや、昔の事でなけりやヽヽヽヽヽヽヽヽ書いたといふためしはとんとげえせんヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。お染久松がお染久松ぢや書けねえもんだから、そら松染情史秋七草さ。こんな事は、馬琴大人の口眞似をすれば、そのためしさはに多かりでげす」と云つてゐる。
 作家の好みはさまざまである。お染久松を「松染情史」として書かうとも、自己の生活の直寫をしないで、平安朝物や切支丹物に於て人間を書かうとも、それは作者の自由である。しかし、芥川氏は、現代の寫實に於ても、可成りに傑れた技倆を現はしてゐる。「秋」には若い姉妹の心の動搖が巧みに描かれてゐる。ことに「一塊の土」はいい。「地獄變」と相並んで、この作者の全作中で、最高位に立つものである。お民といふ田舍女の忍苦の生活には、作者自身の心が動いてゐる。そして、自然主義系統の作家の作品に比べると、秩序整然として冗談がない。……私は數年前「新潮」に掲げられたこの小説を、故郷で讀んだ時、芥川君もこんなに現代の寫實に巧みであるのかと感歎して、直ちに讀後感を書いて「文藝春秋」に寄稿したことがあつた。……しかし、この小説以後の芥川君の作品には殆んど一つも感心しなかつた。
 谷崎潤一郎氏の藝術觀には、強い自信が現はれてゐる。力がある。芥川氏のには、頭腦の混亂が現はれ、懷疑の惱みも見られる。谷崎氏は、かつて、熊谷直實が、淨土のある西方に背を向けるのを憚つて、逆さまに馬上に跨つて歩を運んでゐたその敬虔なる心構へに感服し、自分にはさういふ宗教心はないが、藝術の美に沒頭して安んじてゐるといふ意味の感想を、ある雜誌に述べてゐたが、芥川氏はさういふ藝術至上主義者ではなかつた。禪超や五位の入道や良秀について無關心ではゐられない人であつた。私が以前から氏の作品に共鳴を感じてゐたのはその點であつた。
 聰明であつた氏は、谷崎氏のやうな自信を缺いてゐたのであらう。自己批判に疲れたのであらう。   (昭和二年八月八日 輕井澤にて)

[やぶちゃん注:「松染情史秋七草」は「しようぜん(又は「まつそめ」とも)じやうしあきのななくさ」と訓ずる馬琴の読本の題名。文化六(一八〇九)年、歌川豊広の絵で刊行。楠家秘伝兵法書「桜井」を巡る物語に、お染久松の心中話を絡めたもの。]