[やぶちやん注:昭和四(1929)年七月号の雑誌『文藝春秋』に掲載された。底本は昭和五十一(1976)年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集 第五巻」を用いた。傍点「ヽ」は下線に、「こ」のを潰したような繰り返し記号は「々」に代えた。最後の附記は、底本でもポイントが落ちて小さくなっている。【2006年10月6日】]
ウオーソン夫人の黑猫 萩原朔太郎
ウオーソン夫人は頭腦もよく、相當に教育もある婦人であつた。それで博士の良人が死んで以來、或る學術研究會の調査部に入り、圖書の整理係として働らいて居た。彼女は毎朝九時に出勤し、午後の四時に歸宅して居た。多くの知識婦人に見る範疇として、彼女の容姿は瘠形で背が高く、少し黄色味のある皮膚をもつた神經質の女であつた。然し別に健康には異状がなく、いつも明徹した理性で事務を整理し、晴れやかの精神でてきぱきと働らいていた。要するに彼女は、かうした職業に於ける典型的の婦人であつた。
或る朝彼女は、いつも通りの時間に出勤して、いつも通りの事務を取つてゐた。一通り仕事がすんだ後で、彼女はすつかり疲勞を感じて居た。事務室の時計を見ると、丁度四時五分を指しているので、彼女は卓上の書類を片づけ、そろそろ歸宅する準備を始めた。彼女は獨身になつてから、或る裏町の寂しい通りで、一間しかない部屋を借りてゐたので、餘裕もなく裝飾もない、ほんとに味氣ない生活だつた。いつでも彼女は、午後の歸宅の時間になると、その空漠とした部屋を考へ、毎日毎日同じ位地に、變化もなく彼女の歸りを待つてる寢臺や、窓の側に極りきつてる古い書卓や、その上に載つてる退屈なインキ壺などを考へ、言ひやうもなく味氣なくなり、人生を憂鬱なものに感ずるのだつた。
この日もまた、そのいつも通りの歸宅の時間に、いつも通りの空虚な感情が襲(おそ)つて來た。だがさうした氣分の底に、どこか或る一つの點で、いつもとちがつた不思議の豫感が、惡寒のやうにぞくぞくと感じられた。彼女の心に浮んだものは、いつものやうな退屈な部屋ではなく、それよりももつと惡い、厭やな陰鬱なものが隱れてゐる、不快な氣味のわるい部屋であつた。その壓迫する厭やな氣分は、どんなにしても自分の家に、彼女を歸らせまいとするほどだつた。けれども結局、彼女は重たい外套を着て、いつも通りの家路をたどつて行つた。
部屋の戸口に立つた時、彼女は何物かが室の中に、明らかに居ることを直感した。いつ、どこから、だれがこの部屋に這入つて來て、自分の留守に居るのだらう。さうした想像の謎の中で、得體のわからぬ一つの豫感が、疑ひを入れない確實さで、益々はつきりと感じられた。「確かに。何物かが居る。居るに相違ない。」彼女はためらつた。そして勇氣を起し、一息に扉(ドア)を開(あ)けひらいた。
部屋の中には、しかし一人の人間の姿もなかつた。室内はひつそりとしており、いつものやうに片づけられて居た。どこにも全く、少しの變つたこともなかつた。けれどもただ一つ、部屋の眞中の床の上へ、見知らぬ黑猫が坐り込んで居た。その黑猫は大きな瞳をして、じつと夫人をみつめて居た。置物のやうに動かないで、永遠に靜かな姿勢をしてうづくまつて居た。
夫人は猫を飼つておかなかつた。もちろんその黑猫は、彼女のいない留守の間に、他所から紛れ込んだものに相違なかつた。がどこから這入つて來たのだらう。留守の間の用心として、いつも扉(ドア)は嚴重に閉してあつた。もちろん鍵をかけ、そしてすべての窓は錠を下して密閉されて居た。夫人は少し疑ひ深く、部屋のあらゆる隅隅を調べてみた。しかしどこにも決して、猫の這入るべき隙間はなかつた。その部屋には煙突もなかつたし、空氣ぬきの穴もなかつた。どんなによく調べてみても、猫の這入り得る箇所はないのである。
夫人はそこで考へた。留守の間に何人かが――おそらくは竊盜の目的で――一度この部屋をうかがひ、窓の一部を開けたのである。猫はその時偶然にどこからか這入つて來た。そしてその人物が、暫らくこの部屋で何事かをした後に、再度またもとのやうに、窓を閉めて歸つて行つた。猫はその時から、此所に閉じこめられて居るのであると。實際また、それより外に推理の仕方はなかつたのだ。
夫人は決して、病的な精神の所有者ではなかつた。反對に理智の發達した、推理癖のある女性であつた。けれども婦人の身として、さすがにこの不思議な出來事は不氣味であつた。自分の居ない留守の間に、或る知らない人物が忍び込んで、居間で何事かをしてゐるといふことは、考へるだけでも神經を暗くした。
夫人は夢に魘(うな)された時のやうに、厭やな重壓した氣分を感じた。だが彼女の推理癖は、どうにもしてこの奇怪な事件から、眞の原因を探り出さうと考へた。若し或る人物が、留守にどこかの窓を開けて、そこから闖入して來るとすれば、窓の或るどこかに、コジあけた痕跡が殘つてゐるか、でないとしても、多少の指紋が殘つてゐるべきはずである。夫人は注意ぶかく調べて見た。だが窓のどこにも、少しの異状がなく、指紋らしきものさへなかつた。この點の樣子からは、絶對に人の這入つた痕跡がないのである。
翌朝起きた時に、彼女は一つの妙案を思ひついた。それは部屋のあらゆる隅々へ、人の氣づかない色チヨークの粉を、一面に薄く敷いておくことである。若し今日も昨日のやうに、留守に何事かが、起つたらば、すつかり證據の足跡がついてしまふ。例の厭やな猫でさへも、それが這入つて來た箇所からの、正直な足跡を免かれない。一切の原因が明白になつてしまふだらう。
この計案を完全に實行し、充分の成功を確めたところで、彼女はいつもの外套を着、いくらか落付いた氣分で出かけて行つた。が、だが事務室の柱時計が四時に近くなつた時には、またいつもの不安な豫感が、いつものやうに襲つて來た。どうしても部屋の中に、だれかが坐つて居るやうな感じがする。その感じはハツキリしており、眼の前を飛ぶ小蟲のやうに、執拗に追ひのけられないものであつた。そして尚不吉なことには、いつも必ず適中するのであつた。果してその留守の部屋の中には、今日もまた黑猫が坐り込んでた。氣味の惡い靜かな瞳(ひとみ)で、じつと夫人の方をみつめながら。しかもその部屋の中には、夫人のすべての期待に反して、どこに一つ小さな足跡すら付いてなかつた。今日の朝に敷かれたチヨークの粉は、閉じ込められた室の重たい空氣で、黴のやうに積つて居た。その粉の一粒すらが、少しも位地を換えてなかつた。明白に部屋の中へは、何物も這入つて來なかつたのである。
すべてのあり得べき奇異の事情と、その臆測される推理の後で、夫人はすつかり混惑してしまつた。實證されてる事實として、此所にはどんな人間も這入つて來ず、猫でさへも、決して外部から入り込んだものではないのだ。しかも奇怪のことには、その足跡を殘さぬ猫が、ちやんと目前の床に坐り込んでゐるではないか。今、此所に猫が居るといふほど、それほど確かな事實はない。しかも魔法の奇跡でない限り、この固く閉めこんだ室の中に、一つの足跡も殘さずして、猫が居るといふ道理はないのである。
夫人は理性を投げ出してしまつた。それでも尚、もつと念入りの注意の下に、翌日もまた同じ試驗を試みてみた。だが結果は、依然として同じであり、しかもその翌日も、翌日も同じ氣味の惡い黑猫が、同じ床の上に坐り込んで居た。そしてこの奇怪の動物は、彼女が窓を開けると同時に、いつもそこから影のやうに飛び去つて行つた。
たうたう夫人は、最後に或る計畫を思ひついた。猫がどこから這入つてくるのかを見定めるため、扉(ドア)の蔭にかくれて居て、終日鍵穴から覗いてみようと考へた。翌日、彼女は出勤を休んだ。そしていつもの通り、窓にすつかり錠をおろし、戸口に一脚の椅子を持ち出した。それから扉を閉め、椅子を鍵穴のところに持つて行つて、一秒の間も油斷なく、室内を熱心に覗いて居た。朝から午後まで長い時間が經過した。それは彼女の緊張した注意力には、ひどく苦しい時間であり、耐へられないほどの長い時間であつた。ともすれば彼女は、注意力の弛緩からして、他のことを考へてぼんやりして居た。彼女は時々、胸の隱衣から時計を出して針の動くのを眺めて居た。すべて長い時間の間、室内には何事も起らなかつた。夫人はまた時計を出した。その時丁度、針が四時五分前を指して居たので、うたた寢から醒めた人のやうに、彼女は急に緊張した。そして再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちやんといつもの黑猫が坐つて居た。しかもいつもと同じ位地に、同じ身動きもしない靜かな姿勢で。
全くこの事實は、超自然の不思議といふより外、解決のできないことになつてしまつた。ただ一つだけ解つてるのは、午後の四時になる少し前に、どこからか、どうしてか解らないが、とにかく一疋の大きな黑猫が、室内に現はれてくるといふ事實であつた。夫人はもはや、自分の認識を信用しなくなつてしまつた。すべてやるだけの手段を盡し、疑ひ得るだけの實驗を盡してしまつた。夫人はもしかすると、自分の神經に異状があり、狂氣して居るのではないかと思つた。彼女は鏡の前に立つて、瞳孔が開いてゐるかどうかを見ようとした。
毎日毎日、その忌はしい奇怪の事實が、執拗にウオーソン夫人を苦しめた。彼女はすつかりヒステリカルになつてしまひ、白晝事務室の卓の上にも、猫の幻影を見るやうになつてしまつた。時としてはまた、往來を歩くすべての人が、猫の變貌した人間のやうに見えたりした。そういう時に彼女は、その紳士めかした化猫の尻尾をつかんで、街路に叩きつけてやりたいといふ、狂氣めいた憎惡の激情に驅り立てられ、どうしても押へることができなかつた。
それでも遂に、理性がまた彼女に囘復して來た。この不思議な事件について、第三者の實證を確めるために、友人を招待しようと考へたのだ。それで三人の友人が、いつも猫の現はれる時間の少し前に、彼女の部屋に招待された。二人は同じ職業の婦人であり、一人は死んだ良人の親友で、彼女とも家族的に親しくしてゐたところの、相當年輩に達した老哲學者であつた。
訪客と主人を加えて、丁度四脚の肱掛椅子が、部屋の中央に圓く竝べられた。それは客のだれの眼にも、猫がよく見える位置を選んで、彼女がわざとさうしたのであつた。始め暫らくの間、皆は靜かに默つて居た。しかし少時の後には、會話が非常にはずんで來て、皆が快活にしやべり始めた。いろいろな取りとめもない雜談から、話題は心靈學のことに移つた。老博士の哲學者は、この方面に深い興味を持つて居たので、最近或る心靈學會で報告された、馬鹿に陽氣な幽靈の話をして婦人たちを面白可笑しく笑わせた。しかしウオーソン夫人だけは、眞面目になつて質問した。
「動物にも幽靈があるでせうか? 例へば猫の幽靈など。」
皆は一緒に笑ひ出した。猫の幽靈といふ言葉がひどく滑稽に思はれたのである。だが丁度、その時皆の坐つてゐる椅子の前へ、いつもの黑猫が現はれて來た。それはだれも知らないどこかの窓から、そつと入り込んで來たのであつた。そして平氣な樣子をして、いつもの場所にすまし込んで坐つて居た。
「この事實は何ですか?」
夫人は神經を緊張させて、床の上の猫を指さした。その一つの動物に、皆の注意を集中させようとしたのである。
人々は一寸の間、夫人の指さす所を見た。しかしすぐに眼をそらして、他の別の話を始めた。だれも猫については、少しも注意して居ないのである。多分皆は、そんなつまらない動物に、興味を持たうとしないのだらう。そこでまた夫人が言つた。
「どこから這入つて來たのでせう。窓は閉めてあるし、私は猫なんか飼つても居ないのに。」
客たちはまた笑つた。何かの突飛な洒落のやうに、夫人の言葉が聽えたからだ。すぐに人々は、前の話の續きにもどり、元氣よくしやべり出した。
夫人は不愉快な侮辱を感じた。何といふ禮義知らずの客だらう。皆は明らかに猫を見て居る。その上に自分の質問の意味を知つてる。自分は眞面目で質問した。それにどうだ。皆は空々しく白ばつくれて、故意に自分を無視して居る。「どんなにしても」と、夫人は心の中で考へた。「この白ばつくれた人々の眼を、床の動物の方に引きつけ、そこから他所見(よそみ)が出來ないやうに、否應なく釘付けにしてやらねばならない。」
一つの計畫された意志からして、彼女は珈琲茶碗を床に落した。そして過失に驚いた樣子をしながら、人々の足下に散らばつてゐる破片を集め、丁寧に謝罪しながら、婦人客の裾についた液體の汚點(しみ)をぬぐつた。それからの行爲は、否應なく客たちの眼を床に向け、すぐ彼らの足下に居る猫へ注意を引かねばならない筈だ。にもかかわらず、人々は快活にはしやぎ廻つて、そんなつまらない主人の過失を、意にもかけない樣子をした。皆は故意に會話をはずませて、過失に狼狽してゐる主人の樣子を、少しも見ないやうに勉めて居た。
ウオーソン夫人は耐へがたくいらいらして來た。彼女は二度目の成功を期待しながら、執念深く同じ行爲を繰返して、再度茶匙を床に落した。銀製の光つた匙は、床の上で跳ねあがり、鋭く澄んだ響を立てた。がその響すらも、人々の熱中した話題の興味と、婦人たちのはしやいだ話聲の中で消されてしまつた。だれもそんな事件に注意をせず、見向いてくれる人さへ無かつた。反對に夫人の方は益々神經質に興奮して來た。彼女はすつかりヒステリツクになり、烈しい突發的の行動に驅り立てられる、激情の強い發作を感じて來た。いきなり彼女は立ちあがつた。そして足に力を込め、やけくそに床を蹈み鳴らした。その野蠻な荒々しい響からして、急に室内の空氣が振動した。
この突發的なる異常の行爲は、さすがに客人たちの注意を惹いた。皆は吃驚して、一度に夫人の方を振り向いた。けれどもただ一瞬時にすぎなかつた。そしてまたもとのやうに、各自の話に熱中してしまつた。もうその時には、ウオーソン夫人の顏が眞青に變つて居た。彼女はもはや、この上客人たちの白々しさと無禮とを、がまんすることが出來なかつた。或る發作的な激情(パツシヨン)が、火のやうに全身を燒きつけて來た。彼女はその憎々しい奴共の頸(くび)を引つつかんで、床に居る猫の鼻先へ、無理にもぐいぐいと押しつけてやらうとする、強い衝動を押へることができなかつた。
ウオーソン夫人は椅子を蹴つた。そして本能的な憎惡の感情に熱しながら、いきなり一人の婦人客の頸を引つつかんだ。その婦人客の細い頸は、夫人の熱した右手の中で、死にかかつた鵞鳥のやうにびくびくしていた。夫人はそいつを引きずり倒して、鼻先の皮がむける迄、床の上へ慘虐にこすり付けた。
「ご覽なさい!」
夫人は怒鳴つた。
「此所に猫が居るんだ。」
それから幾度も繰返して叫んだ。
「これでも見えないか?」
おそろしい絶叫が一時に起つた。婦人客は死ぬやうな悲鳴をあげて、恐怖から壁に張りつき、棒立ちに突つ立つて居た床にずり倒れた。婦人の方は殆んど完全に氣絶して居た。ただ一人、老哲學者の博士だけが、突然的の珍事に對して、手の付けやうもなく呆然と眺めて居た。ウオーソン夫人の充血した眼は、じつと床の上の猫を見つめて居た。その大きな氣味の惡い黑猫は、さつきから久しい間、じつとそこに坐つて居り、音樂のやうに靜かにして居た。その印象の烙きつけられた姿は、おそらく彼女の生涯まで、どんなにしても離れがたく、執拗に生きてつきまとつて居るやうに思はれた。「今こそ!」と彼女は考へた。「こいつを撃ち殺してしまはねばならない!」
それから書卓の抽出を開け、象牙の柄に青貝の鑄り込んでゐる、女持ちの小形なピストルを取り出した。そのピストルは少し前に、不吉な猫を殺す手段として、用意して買つた物であつたが、今こそ始めて、これを役立てる決行の機會が來たのである。
彼女は曳金(ひきがね)に手をあてて、じつと床の上の猫を覗つた。もし發火されたならば、この久しい時日の間、彼女を苦しめた原因は、煙と共に地上から消失してしまふわけである。彼女はそれを心に感じ、安樂な落付いた氣分になつた。そして狙ひを定め、指で曳金を強く引いた。
轟然たる發火と共に、煙が室内いつぱいに立ちこもつた。だが煙の散つてしまつた後では、何事の異状もなかつたやうに、最初からの同じ位地に、同じ黑猫が坐つて居た。彼は蜆(しじみ)のやうな黑い瞳(め)をして、いつものやうにじつと夫人を見つめて居た。夫人は再度拳銃を取りあげた。そして前よりももつと近く、すぐ猫の頭の上で發砲した。だが煙の散つた後では、依然たる猫の姿が、前と同じやうに坐つて居た。その執拗な印象は、夫人を耐へがたく狂氣にした。どんなにしても彼女は、この執拗な黑猫を殺してしまひ、存在を抹殺しなければならないのだ。
「猫が死ぬか自分が死ぬかだ!」
夫人は絶望的になつて考へた。そして憎惡の激情(パツシヨン)に逆上しながら、自暴自棄になつて拳銃を亂發した。三發! 四發! 五發! 六發! そして最後の彈が盡きた時に、彼女は自分の額(ひたひ)のコメカミから、ぬるぬるとして赤いものが、糸のやうに引いてくるのを知つた。同時に眼がくらみ、壁が一度に倒れてくるやうな感じがした。彼女は裂けるやうに絶叫した。そして火藥の臭ひの立ちこめてゐる、煙の濛々とした部屋の中で、燃えついた柱のやうにばつたり倒れた。その唇からは血がながれ、蒼ざめた顏の上には、狂氣で引き掻かれた髮の毛が亂れて居た。(完)
附記。この物語の主題は、ゼームス教授の心理學書に引例された一實話である。