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鬼火へ


[やぶちゃん注:底本は1992年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅴ 森の思想」(河出文庫)所収の「情事を好く植物」を用いた。末尾に、「(平凡社版『南方熊楠全集』第六巻66~72頁)」の親本提示がある。底本文中の編者の校注補訂は省略した(一部、私の注の参考とした)。]

 

情事を好く植物   南方熊楠

 

「同性の愛に耽る女性」に述べた通り、支那で健陽剤とする鎖陽という草は、学名チノモリウム・コクチネウムとて、蛇菰科(つちとりもち)に属し、色赤く狗(いぬ)の陽物に似た物だ。その形から思い付いたらしい珍説を『本草綱目』に載せて、鎖陽は野馬や蛟竜が遺精した跡へ生える、状(かたち)絶(はなは)だ男陽に類す。あるいは謂(い)う、里の淫婦、就いてこれに合すれば、一たび陰気を得て勃然悠長す。土人掘り取って乾かし薬とす。大いに陰気を補い、精血を増す、と言っておる。

 この物は日本に産せぬ。この物の属する蛇菰科の物は三種ばかり日本にあると記憶する。蛇菰は琉球にあること古くより知れおったが、松村博士が往年伊豆で見出だし、それから土佐や信濃でも見出だしたと覚える。紀州でも東牟婁郡大甲山(たいこうざん)の産を予が持ちおる。今一つ奴草(やっこそう)という奴は前年土佐で見出だされ、次に予が那智山二の滝の上で穫った。今一種はちょっと憶い出さぬ。いずれも寄生植物で、多少男根に似ておる。

 また支那で強陽益精剤とする肉蓯蓉(にくしょうよう)というのも、陽物状の物で、野馬の精液地に落ちて生ずるところという。これは列当(はまうつぼ)科のペリペア・サルサという草で、シベリア南部や蒙古等より塩蔵(しおづけ)して支那へ輸入する。わが邦の本草家は従来同じく列当科の「きむらたけ」また「きまら」また「おにく」という物を肉蓯蓉に充てておった。これも男根様の寄生植物で、全体麟甲(うろこ)あり、長(たけ)一尺余に及び、黄褐(きちゃ)色で、「みやまはんのき」の根に付き生ず。日光の金精峠の産もっとも名あり。金精神を祭った山で、金精を「きんまら」と訓む。それを略して「きまら」、それから「きむら」というのだと聞く。壮陽益精剤として富士山等でも売る由。学名はポシュニアキア・グラブラだ。

 これらの植物いずれも形が陽物に似ておるので、同感薬法から健陽益精剤と見立てられ、また野馬や蛟竜の遺精から生えるの、淫婦に合されて陰気を得ると怒長するのと汚名を受けたのだ。同感薬法の訳は、月刊『不二』初号九-十一頁に載せ置いた。[やぶちゃん注:「陰毛を禁厭に用うる話」を指す。]

 南欧州や西アジアで古来マンドラゴラという草を呪術(まじない)に用い、また薬料とし、情事(いろごと)の成就や興奮の妙剤としてすこぶる名高い。非常な激毒あって、ややもすれば人を狂せしむる。アラビア語でヤプロチャク、これを支那書に押不盧薬と訳し、尤(いと)信じ難い話を載せおるが、その話は支那人の手製でなく欧州の古書にも載せおる。明治二十八、九年の『ネーチュール』雑誌に予その論を長々しく出し、独蘭仏諸国の学報にも転載されたが、これはまた後日別に述ぶるとしょう。この草の根が人体の下腹から両脚の状(さま)に似ておるので、やはり陰部のことに妙効ありとせられたので、わが邦で婚儀に両岐(ふたまた)大根を使うのも似たことだ。レオ・アフリカヌスが十六世紀に書いた『亜非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)』第九篇に、アトランテ山の西部にスルナグという草あり、その根を食うて陽を壮(さか)んにし歓楽を多くし得る。たまたまこれに溺(いばり)する者あらば、その陽たちまち起立す。アトランテ山中に羊を牧(か)う童女(きむすめ)他の故なくて破膜せる者多きは、みなこの根に小便しかけたからだ。この輩のために素女膜を失うのみならず、全身草毒で肥え太(ふと)る、とある。

 一八九六年版、ロバートソン男の『カフィル人篇』四三三頁に、ヒンズクシュの山間アガルという小村に妙な草あり。鉄砲で打ち裂くと、その葉が地に落ちぬ間に砲声に驚き飛び散る鳩がことごとく銜(くわ)えて去る。かつて一男子この草の葉を得て帰ると、十余人の女子が淫情勃興制すべからず、呻吟(うなり)ながら付いて来る。内へ帰ると母出で来たり子を見るや否、声を放ち、お前は何物を持って来たのか、妾(われ)たちまち何とも気が遠くなって来て耐え難い、何であろうと手に待った物を捨てて仕舞えと命じたので、その葉を投げると、大きな樹の股に落ちると同時に樹の肢が二つに裂け開いた、とある。これ最も猛勢な媚薬で、婦女を破るの力烈しく、婦女これに近づくと性慾暴発して制すべからず、しきりに破れんことを求むるものらしいが、一向信を寘(お)くに足らぬ譚(はなし)だ。

 前に述べた肉蓯蓉、鎖陽、「きむらたけ」等を健陽剤とするは、いわゆる同感薬法で、精神作用上これを信ずる者には多少利くこともあるべく、今日学識進み一向そんなことを信ぜぬ人には何の効もなきことながら、ここ一考を要するは、これらの植物が多種の帽菌(かさたけ)類と等しく人陽の形を具えおる一件だ。

 このことについて、過ぐる明治二十九年春、予しばしば当時ロンドン付近のチルベリー渠(ドック)にあった富士艦士官室へ招かれ、士官の心得になるべき講釈をなし、今の海軍大臣斎藤実君なども当時中佐で謹聴された。その時たしか只今海軍中将たる坂本一君や野間口兼雄君に語ったと思う。軍人は武勇兵略を第一とすることだが、英国などには武人に科学の大家が多い。これはその人科学に嗜好深く、飲酒、玉突などむだなことにいささかたりとも費やす暇あれば、それを科学の研究に転じ用ゆるからだ。さてダーウィンが多年猴舞(さるまわ)しに執心した者の説を聞いて記したは、一概に猴と呼ぶものの、舞が上手になる奴とならぬ奴は稽古始めの日から分かる。最初人が舞うて見せる手先に注意して限を付くる猴は必ず物になるが、精神散乱して人の手先に気を付けぬ者は幾月教えても成功せぬ、とある。人間もその通りで、どんな詰まらぬ事物にでも注意をする人は、必ず何か考え付き、万巻の書を読み万里の旅をしても何一つ注意深からぬ人はいたずらに銭と畷を費やすばかりだ。

 これを活きた製糞機というのだと言って、艦長三浦大佐から、野間口(当時の)大尉や、後年旅順の戦況を先帝に面(まのあた)り奏上した斎藤七五郎君(その時少尉)など、多く大英博物館(ブリチシュ・ミウジューム)へ招き、いろいろかの人らが何でもないと思う物について、一々軍備上の参考となるべきことを話した。

 和歌山の県知事始め官吏などは、熊楠を狂人ごとき者と思いおり、少しも熊楠に対して安心を与えず、いわば畜生扱いで、先年代議士中村啓次郎氏その他県会議員等を介して、熊楠祖先六百年来奉祀し来たった官知社すなわち中古国司奉幣の大山神社(おおやまのやしろ)は由緒もっとも古き社なるを、郡村の小吏ら無性(ぶしょう)にて村役場に近い劣等の社に合祀を強制し、むりに合祀し請願書を書かせおる、しかるに前知事川上親晴氏は熊楠の志を諒とし、請願書は受けおるものの、かかる古社を合併するは残念なりとて合併されずに済んだ、よって何とぞ今の知事においてもそのまま保留に任せくれたいと頼んだ時、必ず保留せしむべければ安心せよ、と言われた。しかるに、わずか一、二年の間に地方の小吏や偽神主が意地づくに任せ、今度右の神社を合併され了(おわ)った。貧すれば鈍するというが、熊楠なども国のため学問のため永らく田舎に引き籠りおるから、和歌山知事など、そのむかし自分が欧州にあった日なら虫同様に見たはずの人物から、かような犬猫を欺くような仕向けを受くる。これをもって考えると、日本ごとき国では学術に身を捨てて不便を忍び田舎で深く研究を重ねる者を、熊楠の外に一向聞かぬももっともなことじゃ。

 それに引き替え米国ごときは人材を重んずるの厚き、予往年大飲酒してミシガン農科大学校長の前に陰茎を露(ろ)して臥したという、かの国で前例なき大不礼を遣っておる、その校長ウィリッツは後に農務次官となったから、むろん農務省の人々はこの椿事を伝聞しおるはずだ。しかるに、その植物興産局から前年もまた只今も種々辞を卑(ひく)うして予を招聘し、また腹蔵なくいろいろのことを諮詢(といはか)らるる。予は米人の麁野にして作法なきを不快で、かの国へ妻子を伴れ行くを好まぬから、毎度渡航を辞退しおるが、唯(ただ)利を惟事(これこと)とする当世風の本邦人、地方の時事日に非なるを慨する者は、焼糞になってここばかりに日が照らぬなど言うて、追い追い国家有要の材を懐(いだ)いて空しく外国の用をなす者が出来るだろう。「漢恩はおのずから浅く胡恩は探し」と古人も言うた。

 かくのごとく予に大不快を与え、予が学術上多少国家の名声に貢献し、また今もしつつある功に報ゆるに仇をもってする和歌山県知事などに比ぶると、往年在英のころ交わった官吏諸君は実に厚徳で、士に下るの美風に富んでおった。それもそのはず、いずれも歴々の子弟で、このごろ地方に肩を怒らす河原乞食の悴どもらしき者は一人もなかった。前外務大臣内田康哉子などは、故陸奥伯在日より予の名を聞いておったとて、毎度予が無礼を仕向くるを忍び、みずから馬小屋の二階に僑居する予を訪わんとまで申し出られ、今日北京公使たる山座円次郎氏も、予が大英博物館(ブリチシュ・ミウジューム)にすら存せざりし希有の蛙ヒロデス・クニアツスをキュバで獲て披露せし時、小池張造氏と二人来たって慶(よろこ)んだ上、酒多く飲ませてくれた。こんな穢ないことは言いたくないが、民信なくば立たずというに、いわゆる牧民の職にある人が約束をたちまち破って平然とし、礼義廉恥を国の四綱とする大義を無視して顧みざる輩と大違い、と述べて置く。和歌山県知事、恥を知らばすべからく汗背(かんぱい)すべし。

 こんな懐旧談(よまいごと)はよい加減に罷めて、富士艦の士官連に話した軍備上の参考となるべきことは多かったが、それを公けにして外国人に聞かすと日本の大損となるも知れぬから多く言わずとして、南方先生が一物を見るごとに一考ある神才のほどを和歌山県知事などに例示するため、ただ二つだけ公けにして遣ろう。精しく言ったってとてもむだだから、ほんの雑(ざっ)とだ。一つはアフリカの鯪鯉という獣が、後脚と尾と腹の鱗とを甘(うま)く使って高い木へ上るに、どんなにしても外れ落ちぬことだ。これを模範として、指揮官が手放しで自在に艦橋へ上ることを考案したらどうだ、と言った。今一つは、すなわち本篇「情事を好く植物」の俗信から考え付いたことで、アラビアの諺に、穢ない根性の奴はいかほど奇麗な物を見るも穢なく思うというが、『維摩詰経』には、どんな穢ない物も浄心(きよきこころ)もて見れば美(うるわ)しく見えるとて、同じ水を餓鬼は火と見るに、人は水と見、天人は瑠璃と見る、と言っておる。されば、いわゆる情事を好く植物などを根性の汙(よご)れた奴が見て幾許(いくら)考えたって長命丸の製法ぐらいが関の山だが、熊楠が考えるとそうでない。

 一体、なぜ肉蓯蓉、鎖陽、「きまら」等の植物が、馬の遺精から生えるの健陽剤になるのと虚称せらるるかと問うと、形が男根に似ておるのと、一夜にたちまち無から有を生ずるごとく膨脹勃興する力が驚くべきからだ。予はこれら植物と斉(ひと)しく寄生植物たる菌(きのこ)類の発生を毎度調ぶるが、その膨脹力は実に啌(うそ)のごときものありて、一貫二貫の大石を数尺跳(は)ね転(ころ)がすさえ例少なくない。肉蓯蓉等については実物が少ないので調べないが、これらの顕花植物も、菌(きのこ)よりはよはど高等な物ながら、生態が堕落して菌と同じく他の植物の棍に寄生する。寄生植物は自活植物と違い他(ひと)の懐中宛込みで生きるものゆえ、永く世に存することがならぬ。故に、景気の向いて来たおり一時に花を咲かせ胤(たね)を残して、自分はたちまち枯れ失せる覚悟がなければならぬ。博徒や盗賊が儲(もう)けた時散財して了(しま)うようなものだ。今まで何にもなかった馬糞は明旦(あすあさ)見るとたちまち多くの菌が群生し、さて昼になると影も留めぬを、『荘子』に朝菌(ちょうきん)晦朔(かいさく)を知らずと言って、いわゆる一日果てだ。そんな菌は多くは鎖陽等と斉しく男陽形をなしおる。

 田辺辺で「きつねのちんぼ」と呼ぶ菌がある。西洋でも学名チノファルスすなわち犬の陽物という。田辺より六、七町隔てたる神子浜(みこはま)という村の少女、現に予の方に奉公する者言う、この菌は蛇の卵より生ず、と。実に胡論(うろん)なことと学校教師など笑う。熊楠はちょっとも笑わず、しきりに感心す。故何となれば、秋日砂地を掘ると蛇卵と間違うべき白い卵形の物がある。それを解剖するとチノファルスの芽だと分かる。それが久しく砂中にあるところへ雨が降ると、蛟竜 豈(あに)久しく地中の物ならんや、たちまち怒長して赤き長き茎が建び立ち、頭に臭極まる粘液潤う。それを近処の蠅が群れ至って食うと同時に、胞子(たね)が蠅の頭に着き、蠅が他所に飛び行き落として菌糸を生じ、次に蛇卵ごとき芽を生じ、雨を得てもまた怒長する。その他の菌類や寄生顕花植物もほぼ同じき発生をなすのだ。男根の時々膨縮して定まらざるは誰も知る通りだが、解剖すると中に海綿体という物が充ちおる。女子の大陰唇またほぼ同様で、その収伸(のびちぢみ)によって、あるいは膨れあるいは縮む。これらはその心得さえあらば自分で実験し得るものだが、広く他人の物と比較研究という訳に行かぬ。しかるに、幸い菌や寄生顕花植物中には内部の構造が人身秘部の海綿体にほぼ同じき物が多い。その海綿体中に気体また液体を詰め込み蓄え置いたのが、湿温宜しきを得てたちまち膨脹すると同時に、植物がたちまち怒長発生する。これを熟(とく)と精査して甘(うま)くこれに似た機関を作ったら、空気また水気ばかり使って重い物を持ち上げ、または跳ね飛ばし、狭い穴を拡大(ひろげ)る大有要の設備ができるだろ、と南方先生かく説き士官一同感心したことであった。

 昨今上下虚偽俗をなし、ただ言辞を謹むを盛徳と心得るのあまり、「きつねのちんぼ」など言わば、その菌その物に何か大敗徳の要素盈(み)ちおるごとく心得、一顧の価なき物と揖斥し了(おわ)るが、万年青(おもと)や蘭の鉢栽を一年眺めたって心懸けなき者には何の所益なく、もし何か一功を立てて自他を救済(ぐさい)せんと万物に注意深き人が見れば、いわゆる情事を好く植物ほど詰まらぬ物も新しき機巧を考案する大材料となること件(くだん)のごとし。熊楠こんなことを口にするばかりでない。いろいろ考え付いた機巧すこぶる多いが、今日の日本では善いことを教えてやって、かえって功を掠(ぬす)まれ、加之(おまけ)に身を苦しめらるる経験が、自分だけでもすでに多いから、当分何にも岩躑躅(いわつつじ)が安全だ。桓温は、天下の英雄王景略を眼前に扣(ひか)えなりがら、その虱を捫(ひね)るを見て、英雄たるを知らず、空しく関中の英雄を問うた。舎衛(しゃえ)の三億衆は仏在日(ざいじつ)に生まれて仏を知らなんだ。返す返すも熊楠を狂人扱いにする地方俗吏こそ奇怪なれ。

(大正二年十一月六日、十八日「日刊不二」)