平家蟹の話 南方熊楠
[やぶちゃん注:底本は1991年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」(河出文庫)所収の「平家蟹の話」を用いた。末尾に、「(平凡社版『南方熊楠全集』第六巻 47~60頁)」の親本提示がある。幾つかの私の興味対象に対して、後注ほかを自在気儘に附した(底本の編者の校注補訂の一部を参考とした)。挿入された南方熊楠筆の図も底本にあるものをOCRで読み取って清拭した。【二〇〇六年九月十六日】『2,020,000ブログ・アクセス突破記念 南方熊楠「平家蟹の話」(正字正仮名版・非決定トンデモ版――恣意的な致命的大改竄(多量の削除を含む)による捏造あること、及び、挿絵がないことに拠る――)』のブログ公開に合せて、こちらの本文のタイプ・ミスを訂し、さらに注を一部、改訂増補した。但し、新しい不完全版の本文は酷いものだが、それらに附した注の方が、遙かに詳しく記したつもりであるので、本テクストと対比しつつ読まれんことを望む。【二〇一三年十月二十六日 藪野直史】]
平家蟹の話
七月十二日の本紙三面堺大浜水族館の記に平家蟹の話があった。この平家蟹という物、所によって名が異る。『本草啓蒙』に、「一名島村蟹(摂州)、武文蟹(同上)、清経蟹(豊前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田(おさだ)蟹(加州)、鬼蟹、夷(えびす)蟹(備前)。摂州、四国、九州にみなあり、小蟹なり。甲大いさ一寸に近し。東国には大いなるものありという。足は細くして長きと短きと雑(まじ)りて常の蟹に異なり。甲に眉目口鼻の状(さま)宛然として怨悪の態に似たり。後奈良帝享禄四年摂州尼崎合戦の時、島村弾正左右衛門貴則の霊この蟹に化すと言い伝う。しかれども唐土にもありて、『蟹譜』に、「背殻(こうら)の鬼の状(かお)のごときものは、眉目口鼻の分布明白にして、常にこれを宝翫(もてあそ)ぶ」と言い、野記に鬼面蟹の名あり」と見ゆ。
平家蟹の学名ドリッべ・ヤポニクス[注1]、これはシーボルトが日本で初めて見て付けた名だが、種こそ違え、同様な鬼面の蟹は外国にも多い。例せば、英国の仮面蟹(かめんがに)ドリッペ属でなくコリステス属のもので、容体(かたち)よほど平家蟹と違うが、やはり甲に鬼面相がある。ただし平家蟹ほど厳(いかめ)しくない。すべて蟹類は内臓の位置、容量に随い、甲上に隆低(たかひく)の線窪(すじくぼみ)が種々あり。こっちの想像(おもわく)次第多少人の面に見えるが、平家蟹や仮面蟹はことに著しく怒り顔を現わしおる。西洋で甘蕉実(バナナ)を横に切ると十字架を現わすと言い、日本で胡瓜(きゅうり)を横に切ると織田氏の紋が見えるなど言う。海蝦(うみえび)の胴を横截(よこぎり)せば婦人の上半身を顕(げん)ずと欧州の古書に見えるが、日本でそんなことを言わぬと同時に、蝦の眼を頭に見立てて雛人形を作るなど、東西の見立て様が差(ちが)うのじゃ。
しかるに、物の似様が酷(えら)いと随処(どこでん)同様に見立てる。貫之の 『土佐日記』[注2]にもローマの古書にも、海鼠(なまこ)様の動物を陽物に見立て、和漢洋インドともに貝子を女陰に見立て、また只今も述べた通り、ある蟹の甲を和漢洋いずれも人面に見立てたなど適当の例だ。古ギリシアで酒の神ジオニススの信徒が持って踊る棒の尖(さき)に松実(ちちりん)を付けたは陽物に象ったそうだが、本邦にも松実を松陰嚢(まつふぐり)と称え、寛永十二年板、行風撰『後撰夷曲集』九に、「唐崎(からさき)の松の陰嚢(ふぐり)は古への愛護の若(わか)の物かあらぬか」と、名所の松実(ちちりん)を美童の陰嚢に比(たと)えた狂歌もある。東西とも松実を陽物または陰嚢に見立てたのだが、この見立て様が拙(まず)いのか、産付(うみつけ)が不出来ゆえか、熟(とく)と視ても僕のは一向似ておらぬ。
右様の人間勝手の思い付きで、この蟹の甲紋を西海に全滅した平家の怨に擬(よそ)えて平家蟹と名づけたが、地方によって種々の人の怨霊に托(かこつ)けて命名されおるは、上に『本草啓蒙』から引いた通りだ。長田忠致は、窮鳥となってその懐に入った源義朝と自分の婿鎌田とを殺し、首を平家へ献じたところ、不道を悪(にく)んで賞を呉れず、「命ばかりは壱岐守(いきのかみ)、実濃尾張(みのをはり)をば今ぞ賜はる」と嘲弄中に磔(はりつけ)にされたのを不足で、長田蟹になったらしい。平清経は内大臣重盛の三男、左中将たり。一族没落のみぎり、女房を都に寘(お)いて難に紛れて絶信三年、女房今は清経様(さん)に心変りのあればこそ、さては形見も由なしとて、「見るからに心尽しの神なれば、宇佐にぞ返す本(もと)の社(やしろ)に」と歌を副(そ)えて夫の形見に残した髪を宇佐近傍まで送還したのを受け取り見て、都をば源氏に落とされぬ、鎮西をば惟義に追われぬ、細君からは手切れと来る、米代は昂る、悲しさの極、月晴れ渡れる夜閑(のど)かに念仏申しつつ、波の底にこそ沈みけれ、これぞ平家の憂事(うきごと)の始めなる、と『盛衰記』にある。平家入水の先陣、まずは藤村操の前身でがなあろう。して見ると、清経蟹は怨める上に愁歎顔であろう。
『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫で死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。
[注:底本では一行空き。]
秦武文(はたのたけぶみ)がことは太平記一八に見ゆ。後醍醐帝の長子尊良(たかなが)親王、今出川右大臣の娘を見初め、千束(ちつか)ばかりの御文を送りたまうと、女も稲船(いなふね)の否(いな)にはあらずと見えたが、この親王は後に金崎落城の節新田義顕に面(まのあた)り切腹の作法を習い、武士同前に自刃して亡(う)せたまうた気象尤(いと)傑(すぐ)れた方だった。件(くだん)の女すでに徳大寺左大将と約婚したと聞こし召し、むかし唐の太宗、鄭仁基の女(むすめ)を元和殿に冊(かしず)き納(い)れんとした時、魏徴この女すでに陸氏に約せりと諌めたので、すなわち宮中に召さるることを休(や)めたと儒臣が講ずるを聴いて、文を送るを止めてもなかなか思い切れず、徳大寺またなかなかの粋人で、この次第を気の毒に存じ、故(わざ)と他の女に通い始めたので、宮も今は御憚りなく、和歌の贈答で心の下紐を解き、生きては借老の契り深く、死しては同じ苔の下にもと、思し召し通わして、十月あまりに元弘の乱出で来て、親王は土佐の畑(はた)へ流されたまう。御警固を勤めた有井庄司、情深き男で、御息所(みやすどころ)を密かに畑へ迎え下したまえと勧め、親王大いに悦んでただ一人召し仕われた右衛門府生(ふしょう)秦武文という随身に御文を賜わり、都へ登り御息所に差し上げ、輿に乗せて尼崎まで下し進(まい)らせ、渡海の順風を待つうち、同じく風待ちしておった筑紫の松浦(まつら)五郎という武士、御息所の御貌(おんかたち)を垣間見(かいまみ)て邪念を起こし、このごろいかなる官にても御座(おわ)せよ、謀叛人にて流され給える人の許(もと)へ忍びて下し給わんずる女房を奪い捕りたりとも、さしての罪科でなかろうと思い定め、郎等三十余人物具(もののぐ)固めてかの宿所へ夜討ちし、火を付けた。武文、心は武(たけ)しといえども、煙に目暮(めくれ)て何ともならぬから、まず御息所を負い進(まい)らせ向かう敵を打ち払いて、沖なる船を招くと、船しも多きに松浦が迎いに来た船が一番に漕ぎ寄せて、御息所を乗せ奉った。松浦わが船にこの女房の乗り給いたること然るべき契りのほどかなと限りなく悦んで、今はみな船に乗れとて一同打ち乗り漕ぎ出だす。武文、渚に帰り来て喚べど叫べど帰りやせぬから手繰(てぐ)りする海士の小船に乗って追い付かんとすれど、順風を得た大船に追い着くべきにあらず。反って笑声をどっと仕掛けられて、今のほどに海底の竜神となってその船を遣るまいぞと怒って、腹十文字に掻き切って、蒼海の底に沈んだとあるから、竜神にはなったろうが蟹になる気遣いはない。
この後は平家蟹の話に用がないから短く言ってしまうと、松浦、御息所を執(とら)えてとかく慰め申せども聴き入れず、消え入らせ給いぬべき様子で、鳴戸(なると)を通るところに、にわかに風替わり渦と共に船の廻ること茶白を推すよりも速やかと来た。三日三夜船進まぬから梶取(かじとり)の勧めに任せ御息所を竜神に進じて難を遁るべしとて、海に沈めんとするを乗り合わせた僧が諌め止め、一同観音の名号を唱えると武文の幽霊が出る。よって御息所と水主(かこ)一人を小船に乗せて放つと、風にわかに吹き分けて松浦の船は西へ去るうち波静まり、御息所の御船に乗った水主懸命に船を漕ぎ、淡路の武島(むしま)に着き、海人の子供の介抱で活(い)き出ださせ給う。それから土佐の畑へ送れと御頼みあると、海士どもみな同じ心に、これほど美しく御渡り候う上﨟(じょうろう)をわれらが船で土佐まで送らんに、いずこの泊(とまり)にてか人の奪い取り進(まい)らせぬことの候うべきと辞し申すから、拠(よんどこ)ろなく武島に留まり、翌年北条氏滅びて親王都へ帰り入らせたまうて後、武島より都へ迎え上らせられたが、ほどなく尊氏の乱起こり、親王、義貞、義助とともに北国に下りたまいし時、また御息所を都に留められたが、親王金崎で御自害、御中陰の日数終えざる先に果敢(はか)なくならせ給いければ、聞く人ごとにおしなべて類(たぐい)少なき哀しさにみな袂をぞ濡らしける、とある。
[注:底本では一行空き。]
西暦一五〇〇年ころ、イタリア・トラヘッタ女公兼フォンジー女伯ジュリア・デ・ゴンツァガ若き後家となりて、愛の花というアマラント草と不死という二語と組み合わせて紋章とし、死んだ夫と初めて会うた愛情は永劫滅せぬという意(こころ)を標したまま、一生両夫に見(まみ)えなんだは結構だが、トルコ帝スライマン二世その美無双と聞き、見ぬ恋に憧れてアルゼリアの海賊大将軍バーバロサをして夜襲(ようち)して女公を奪わせたが、忠臣ありてこのことを告げたので、女公襦袢裸で騎馬し、その忠臣とともに逃げ了(おお)せたが、裸姿を見たと泄(も)らさるるを慮(おもんぱか)り、後日その忠臣を暗殺したという。この行為(おこないについての論は、今月の『民俗』に出る予の「話俗随筆」で見られよ[注:南方熊楠「忠を尽くして殺された話」を指す。後に私が作成した『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』で読める。注も附けてある。]。
一説には、この時女公幸いに海賊に辱しめらるるを免れたが、自国の山賊の手に落ちた、ただし辱(はじ)は見なかったと一派に信(う)けらるるが、ブラントム[注3]評にかかる暴戻無残(ぼうれいむざん)の悪徒が餓えたるに、かかる美(よ)き鮮肉を喫(くら)わずに置くべきや、かかる場合に高位徳望も美女を暴人の毒手より救護するに足らずとあるが、それはそんな風の欧州で言うべきことで、わが邦ではむかし人民一派、いかなる悪党までも斎忌(タブー)ということを非常に慎み畏れた。さればこそ御息所と同乗した一人の水主、武島の海士(あま)は素(もと)より、松浦ごとき兇漢までも、むりにその身を犯すようなことはなかったんだ。聴(ゆる)しなくて高貴の身体に触るるを大毒物に触れるように畏れたのだ[注4]。この斎忌の制が不成文ながらわが邦にははなはだ厳に行なわれたので、日本国民は読書せぬ者まで、恭謙温厚の風、清潔を尚ぶ俗が万国に優れたのだという訳を、明治三十年ブリストル開催大英国科学奨励会[注5]人類学部で、開会の辞に次いで熊楠が読んだ。その後大英博物館(ブリチッシュ・ミュジェム)の博物部長レイ・ランケスターは、人のみならず畜生の別種族独立にも、この斎忌が大必要だ、と論ぜられた。
斎忌(タブー)の論は、そのうちにくわしく本紙で演(の)べるつもりだが、ここに一言しおくは、古えの神職に斎部(いんべ)、卜部(うらべ)、中臣(なかとみ)ありて、斎部は斎忌(いみ)、卜部は卜占(うらない)、中臣は祈禱を司った。斎忌(タブー)は大体について言うと、仏家の戒律に当たる。ただ不成文と成文の別はある。とにかく人の所行(おこない)を取り締り、万事を慎重に持敬謹厚ならしむる、口筆で述べられぬ本邦特有の感化法だ。しかるに近ごろ政府の神道隆興策を見ると、語らずして国恩の有難さを何ごとの座(おわ)しますかを知らずに感じて忘るるあたわざらしむる神林、古蹟、はなはだしきは皇室に縁故ある塚墓(はか)までも、惜し気なく滅却せしめ、その代りに天理、蓮門等の俗教と別たぎる卑陋な建築を起こし、無用尸餐(しさん)の神職を殖やして、心から出ぬ祝詞(のりと)や無効の祈禱を空誦せしめ、肝心の斎忌(いみ)ということに一向懸念なきは、周亡びんとしてその礼まず滅ぶというものだ。かの体操のごとく手を叩いて拝する作法や、拝むごとに烏帽子(えぼし)が男根のように起伏するなどは、礼の最も末なるもので、斎忌の心得なき者がかかる虚礼を習い演じるのは、まるで酔狂の沙汰だ。先帝御重患の際、官幣大社日前国懸宮(ひのくまくにかかすのみや)へ朝詣りして御平癒を祈る者多かりしに、宮司紀俊とて、神社滅却の張本で、家は男爵、皇室の藩屏(はんべい)と誇称する身が、手水鉢の水を替えるを五月蠅(うるさ)がったと、当時の『和歌山新報』の切抜きを僕は現に持っておる。この者は毎年神道講習と称し、到る処絃妓(げんぎ)の婬を買い、警察沙汰にならんとしたことが多い。田辺だけは、予がいるので病と称して鬼門を避ける。篤(とく)と調べおいた物があるから、そのうち監督官庁へ出してやるつもりだ。かかる者が斎忌を根本とする神道の一県の取締りたあ糞が呆れるのほかない。一昨年、友人が私刊して朝野の名士に配った『南方二書』[注6]とて、紀俊ら和歌山県神社撲滅の無法を述べた物がある。小島烏水氏[注7]、これは一席の日本罪悪史だと寒心して、雑誌『山岳』へ転載した。それにも紀俊らの不行儀を序べおいたが、欧州諸国へも廻った物で、隠す必要はないから、重ねて執念(しゅね)く彼輩の不都合を鳴らし置く。
[注:底本では一行空き。]
平家蟹は異形のものだが、これに関する古話里伝は割に少ないようだ。紀州の海浜の家にこれを戸口に掛けて邪鬼を避けるのは、毒をもって病を去ると同意だ。喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、「江戸町屋(まちや)に、門戸の上に蟹の殻を掛け、また蒜(にんにく)をつるし置くことあり。これ上総の俗の転(うつ)れるなり。『房総志料』に、上総穂田吉浜の漁家、門戸に奇状の蟹の殻を掛け出だし、俗に言う、悪鬼を避くる禁厭(まじない)なり、云々。『夢渓筆談』に、関中には蟹なし、秦州の人蟹の殻を得たり、土人その形を怖れて怪物とし、瘧(おこり)を病む者あればこれを借り、用(も)って門戸の上に掛くれば病差(い)ゆ、と言えり。ただ人のこれを執らざるのみならず、鬼もまた識らざるにや、と言えり」と見ゆ。古え朝家に、支那の礼に拠り除夜駆灘(おにやらい)を行なわるるに、方相(ほうそう)氏とて玄衣(くろいきもの)、朱裳(あかいはかま)、熊の皮を蒙(かぶ)り、金の眼四つある、怖ろしい鬼の大親分を作り、一切の疫鬼(やまいがみ)を追うた。そのごとく平家蟹の顔は鬼も怖るると見立てて門に懸けるのだ。
ちょうど今日地方の俗吏が、基本金を積み神主に月給多く遣らず、社費支払いが俗吏の定めた勝手規定より少ない神社は至急潰せ、潰さぬと叡慮に背(そむ)く、禁獄するぞなどと村民を脅(おど)しつけ、熊楠など気の毒に思い、人民の尻を推すと、種々雑多の圧迫を加え、この癇癪(かんしゃく)持ちを怒らせ拘禁などしたが、東京の雑誌へ出したり国会へ持ち出したりすると、たちまち蛭(ひる)に塩で敗走しおるごとしじゃ。この輩悪いことばかり考えおるから、人相もしごく険悪で、岩永左衛門、志賀弾七、薬師寺次郎左衛門、鷺坂伴内等の役は、素面でも十分勤まる。さて収賄や官金着服等でたちまち廃官また禁獄され、昨夜無理往生で遣っつけた芸妓(げいこ)に今日は一昨日(おとつい)来いを吃(くら)う態(ざま)てったらない。倩(つらつ)らその顔貌(かおつき)を察するに、盛んな時は空威張りで怒り散らすこと島村蟹に異ならず、零落(おちぶ)れた時は糊口に由なく愁欺眉を寄せて清経蟹そのままだ。
新井白石の説に、平家を世人が悪く言うはその事記が多く源氏の代に成ったからだ。実は一族みな西海で一度に亡びたところが、源氏の骨肉相害し二代で跡絶えたよりもよほど見事だ、とある。それに平家蟹などと悪名を付くるは遺憾ゆえ、今後は俗吏蟹と名づけたら好かろう。もっとも日本中の地方吏ことごとく悪人にもあらざるべければ、「和歌山県の或る俗吏蟹」と名づけたら至当だ。岡村金太郎博士の説に、房州とかで大葉藻(あまも)を「竜宮の乙姫の元結(もとゆい)の切解(きりほど)き」と呼ぶが、本邦で最も長い植物の名だとあった[注8]。動物にこれに対する長名なきは残念だから、ちょうど平家蟹をかく改号したら好かろう。
このことはロンドン大学前総長ジキンス男の勧めにより、五首頁ばかりでグラスゴウ市で出板すべき「南方熊楠自伝(ゼ・オートバヨグラフィー・オヴ・ミナカタ)」[注9]にも、神社合祀、山林乱伐、名勝破壊、史壊滅却、民俗擾乱に反抗して、妻子とも種々無惨な目に遭わされた記事中に書き入れあるから、ここに予告しおく。十室の邑(ゆう)忠信丘(きゅう)のごとき者ありと魯聖は言われた。田辺は小さい所で、日本の科学者は大抵気力なき糞岨(せつちむし)ごとき者だが、小を侮るなかれで、熊楠ごとき剛直の者もあるは真に国家のために慶賀すべきことと公言しておく。俗吏に対する怨念で僕の顔も平家蟹のようになって書くのだ。
[注:底本では一行空き。]
建部綾足の『折々草』に、赤間関にて平家蟹を売る、「最赤きものは必ず眦(まなじり)逆上り怒れる面相(おもざし)したり。また白きものは面相もまた甚(いと)温柔(おだやか)なり、云々。さて、その蟹の面(かお)のさまを見分きて白くもし赤くもす。赤きものは酒もて煮たるなりという。また面の怒れると和らぎたるとは、この蟹の雌雄(めお)なりと言いし。さるは白き方をば公達(きんだち)蟹と名付けて旅人には売るなり、と語りき」とあるが、白いのは波で曝(さら)されたのだ。この蟹の面相は長るとだんだん薄らぎ判然(はつさり)せぬ、それを綾足は和らぎたる顔と言ったものか。また西沢一鳳の『皇都午睡』に、伊勢の団友、讃岐の浦にて、「海鼠ともならで果てけり平家蟹」と句を作り、夢に蟹どもに責められ、「海鼠ともならでさすがに平家なり」と再案した。これ「景清」 の謡(うたい)にも叶いたる、手(て)に波(は)自然と備わり、句振りも格別じゃ、とある。これは「景清」の謡曲に、「さすがにわれも平家なり」という詞あるを言ったんだ。動物の形体は無茶にできたものでなく、それぞれ生活相応に構成されおる。和歌山県の多くの俗吏が月給不相応な巨室に棲み、艶妾を蓄え、分かりもせぬ骨董を捻(ひねく)り廻し、たちまち収賄の尻(けつ)が露(あが)るに比ぶると、畜生の方が出来が好い。すでに『琴責』の戯曲(じょうるり)にも、『荘子』から、鶴の脚長しといえどもこれを断たば患(うれ)いなん、南方先生は片陰嚢(かたきん)だがこれを準(そろ)えると股が擦り切れる、と引いたでないか。
[やぶちゃん注:図のキャプションは第一図の「ロ」の左上部に「仮面蟹」、第二図の右手下方に「南方写生」とある。]
発端にちょっと述べた英国の仮面蟹は何故第一図の形を具うるかと問うと、此奴(こやつ)は(イ)図のごとく常に泥沙(どろすな)に身を埋め、喙(くちばし)と眼だけ出して近処を見廻し、また長き角二つで聞き廻し、さて食えそうな小動物があると見ると、長い手を出して挟み食う。食い訖(おわ)ってたちまちまた深く身を埋めるに疾捷(すばや)いよう身が長くて狭く、螯(はさみ)と角(つの)がなるべく遠方へも届くために、(ロ)図のごとく細長いのだ。さてまた平家蟹、改号和歌山県のある俗吏蟹(第二図)は、上に引いた『本草啓蒙』に見えた通り、四脚は長くて横に付き、今四脚は短くて背に付き、四脚と四脚の屈み様が違うて、横の奴は這うばかりだが、背の奴は自在に物に釣(ひつかか)り得る動作如意(によい)[注:これは「如意」と「に良い」の掛詞ととって拗音表記としなかった。]と出来おる。
僕は帰朝以来十三年熊野に僑居し、一向近ごろの書籍雑誌を見ぬから斬新な学説に疎遠だが、僕が欧米におった時、この蟹の脚に関する学説といったら、ステッビングの『介甲虫篇(クラスタセア)』に概述された通り、ヘルブストはこの蟹は大小の脚を二列に具えて、軀(からだ)の前の方でも後の方でも走り得るのだと言い、ある学者は小さき脚もて殻の背に物を持ち上げるのだと言い、またあるいは他の動物がその背を犯すを逐い除(の)けるためだ、と説いた。いずれも篤(とく)と生きた蟹について実験しなかった推測論だ。しかるに、和歌山に三十年ばかり前、僕の亡父の持った地面に、丸之内の千草庵とて名高い風雅な花屋敷があって、鳥尾得庵なども毎々来寓された。主人も至って雅人だったが、その子に今は亡き数に入った鳥崎静太郎、この人は維新後東京で物産会を再興した本草家織田信徳氏に学び、おびただしく蟹類を集めたが、毎度平家蟹を生け捕って海水に飼養し慰みとした。ある日僕に語られたは、この蟹を箸で仰(あおの)けに仆(たお)すと、背に付いた小さき脚で身を柱(ささ)え起こし、造作もなく本位に復る、と。僕その時十七、八だったが、さてはこの蟹風波烈しき浅海に住み、仰(あおの)けに仆されるが毎々ゆえ、その時たちまち起き得るために横と背とに大小二様の脚を具うるんだと考え、日記へ書して現存する。十九の時米国に渡り、三十四で英国から帰り、今度本紙で平家蟹のことを読むまで別に念に留めなんだ。
[注:以下、底本では一行空き。]
当田辺町に今川林吉という人おびただしく蟹類を集めおると聞いたから、七月十二日の本紙堺の水族館の記に、「滑稽なのは平家蟹で、何か背負うていないと納まらない性だから、嬶(かかあ)が死んだらその亡骸(なきがら)を死ぬまで背負うている。誰も死なない時は石を背負うそうな」とあるを見て疑いを起こし、判断を問わんがため今川林吉氏を訪うと、ただ見る三間半ばかりの表屋(おもてや)を二つに区り、一方は牛肉小売、一方は斬髪床で、主人林公、眉目清秀、音吐嚠喨(りゅうりょう)、昼は剃刀(かみそり)と庖丁を把(と)って雑客の髭髪を剃除(そりおと)し、夜は早仕舞いで風流俳諧を事とする執心のあまり、事に触れ物に興じて、猫洗顔(ちょうず)使い犬情(なさけ)を起こすもたちまち句を吐かざるなければ、四隣他(かれ)を開口諧床林(かいこうかいどこりん)と喚び倣(な)す。現に肉を吊(ぶらさ)げた傍にも一軸を厳然と懸けたるを見ると、賞花庵ぬしの初音(はつね)を祝うと題して、「曇りさすまとひもなくて和清天(わせいてん)、素雄。藪鶯(やぶうぐひす)の老い初めし朝、酔夢」。これは前年初老の時の吟で、素雄は当時の宗匠、主人の号が酔夢だそうな。その他、「海にさす影和(やは)らかき茂りかな、酔夢」などと、流行(はや)る稲荷の手拭のように手洗鉢辺は自吟の短冊だらけだ。ダーウィンはブラジルの林中にインジアン土蕃がヴァーギルやタシツスの古文を玩味し楽しみとするを見たとか言うが、灯台本闇(もとくら)しで御膝元のこんな所にこれほどの畸人がおるとは気が付かなんだ。名を聞くは面を見るに如(し)かず、面を見るは名を聞くに勝れり。挨拶済んで、平家蟹の一件を持ち出すと、当地に少なからぬ物ゆえ毎度畜(か)うて見たそうで、その経験談を聞いて大いに得るところあった。氏の話によると、平家蟹は底が砂で小石が散在する海に棲む。潮水を取り替えて飼えば幾日でも生きおる。仰けに仆せば背の小脚でたちまち身を柱(ささ)え起こすは、いかにも鳥崎氏の説のごとし。だが外にまだまだ面黒(おもくろ)いことがある。
すなわちかれを飼うた水盆中に石片を多く入れ置くと、必ず小脚で一石片を負う。それから思い付いて盆の一半を板で蓋い薄闇くすると、幾度も幾度も石を背負うて陰に運び置き廻りて、ほどなく畑中の糞壷の雨防ぎに被せた藁小屋様の円廬(えんろ)を作り、一方に口を開けて中に棲む。幾度崩さるるも倦まず撓まず立て直す。この蟹の背に忿怒の面相あるは誰も知るが、腹も熟(とく)と視ると朧げながら鬼面の相がある。して見ると、甲の内の臓腑の配置が外に露われて偶然異相を示すのだろう、と。今まで書物でも見ず気も付かなんだことを教えられ、大いに天狗の鼻も折れ仕方がないから、『三国志』、諸葛武侯、司馬懿(しばい)に巾脾幗(きんかく)を贈って戦いを挑む、巾幗は婦人の飾りなり、懿怒って決戦を請う上表の文に、豈(あに)知らんや野夫にも功者ありとは、貴公などを指したんじゃ、陳勝は出世したら相忘れじと言った、立身したら用いて上げるから忘れずにおるがよい、しかし昔から床屋から立身した人を聞かぬから、こんな約束はまず廃(よ)そうと悪(にく)まれ口を吐いて逃げて来た。これは当県の役人ら、人民に対して冷淡無情、物を教えてもらって恩を仇で返すこと万(よろず)この通りだから、吾輩ごとき素性の良い者にすら悪風が徙(うつ)ったのじゃ。さて学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ。書に見当たらぬことも間違ったことも多く、大家碩学の作述には至極の臆説もあるは、上述平家蟹に関する西人の諸説でも解(わか)る。[注10]
[注:底本では一行空き。]
科学の学理のと大層に言えど、やはり過去無数劫来、無学の者が経験を積んで来た結果に外ならぬ。指南針、火薬の発明は申すに及ばず、海潮の原理、地震の観測、弾性護謨(ゴム)の応用、色摺(いろずり)の板行、その他東洋人が西洋人に先鞭を著けて成功したものも多くある。今月十五日の『日本及日本人』に雪嶺が論じたごとく、顕微鏡の発明前の生物学は、東西とも似たりはったりの愚説で充溢しおった。このことは僕も『ネーチュール』その他の欧米雑誌で年来発表するところあり、わずか数百年来東洋が西洋に科学が後(おく)れおるが、その前にはさまで西洋に劣らなんだ次第を述べて、いささか東洋のために気を吐いたつもりだが、追い追い本紙でも叙べることとしょう。
西洋で顕微鏡やいろいろの機械の発明があって、大いに科学が勃興改進した蹟(あと)は誰も認めるが、今一つ心得て欲しいのは、十五、六世紀までは西洋でも古書を読むを唯一の学問とし、書籍にないことは知るに足らずとしたのを、そのころから学者が古書を疑い、書外にみずから実験を試み、また書籍に見えぬ俗伝や口碑によっていろいろと研究した一事だ。近代生物学の中興と言わるるスイスのゲスネル[注11]は、ドイツのプリニウスと呼ばれた大博学の人で、生物諸類の譜を大成するに苦辛し、乞食ごとき態で諸国を走(は)せ廻り、牧童の話、漁婦の言をすら蔑(さげす)まずに記し留めて実否を試(ため)したという。
わが邦の科学材料に外国と異なる物多きは勿論で、したがってわが国に分かり切ったことも外国人が一向知らぬが多い。鯢魚(さんしょううお)、銀杏(ぎんなん)等むつかしい物はさておき、明治八年にチャレンジャー号に乗って本邦へ海洋の観察に来た学者が、日本の女が水の代りに湯を飲むを見て驚いた。また、やっと去年できた英国の農書に、日本で人糞を肥料にするを初めて知ったようなことを書いておる、そんな東洋を見ぬ泰西人の書籍のみ読んで、それに載せぬことは学論にも研究にも適せぬことのように思いおる人が多いらしいのは実に歎息の至りだ。しかして、彼方には鋭意弥(いや)が上に学術の改進を謀り、友人ウィルフレッド・マーク・ウェブなどは、自然研学(ネーチュールスタジー)とて書物を全く離れて山野海河に生きた物を自然任せに観察する」万法をさえ実行しおる。
しかるに、本邦には板権専有期限の切れるを俟って二、三十年前の洋書を翻訳する外に、たまたま新説を聞き込んでも、昔の公家が歌道を専有したように、博士学士の秘蔵として金にならねば世に弘めず、大金出して講釈の切売りを聞いても二伝三伝の受売りゆえ、多くは形骸のみで精髄を得ず。いわゆる本職の学者に融通の付かぬ鴑才(どさい)多く、一事を仕出(しでか)すべき英俊はそのことに必須の智識を心得置くに途(みち)なきがゆえに、両方共に両損で終わる。前年北尾次郎氏が何か数学上の発明をしたが、ドイツ人が少し早く発表したを知らずに苦辛して考え出したところで後れいたという。それと比類にはならぬが、僕も二十年ばかり前へプリウ語を学んだ折、本邦で斉墩果(さいとんか)という漢名を「ちさのき」と読ますが、実はアラビア語のザイトンを唐訳したので、ザイトンはオリブ樹のこと、また『酉陽雑俎』の斉墩樹の記載も全くオリブに合うておると考えて、英国の一雑誌へ投書したが、漢字を入れねば分からず、漢字を刷り込むは面倒とて没書となった。
[注:底本では一行空き。]
さて近く妻木直良民から明治四十四伝二月の『東洋学報』を得て読んで、初めて明治四十二年の『亜米利加(アメリカ)東洋協会雑誌』にフリドリヒ・ヒルトが予と同様の説を出だしあるを知ったが、幸いに、明治四十年六月十三日の『大阪毎日』に、牧野富太郎氏の「オリフ樹の漢名」なる小篇ありしに対し、同年十二月の『東洋学芸雑誌』にオリブのもっとも古き漢訳名は斉墩樹なる由を述べ置いたので[注:南方熊楠「オリーブ樹の漢名」を指す。]、幸いに外人に発明の先鞭を著けらるるを免れたが、そんなこととは自分でも今年一月まで知らずにいた。東西の交通に手間を取り、その他いろいろの障碍多き本邦にいて、西洋の新智識、新出来事を相応の時日中に聞き知るちうことは、ずいぶん諸事を抛ちて注意尽力する吾輩ですら及び難きことかくのごとしだ。いわんや吾輩ほどの熱心なく、学位は看板、講義は俗を護摩化すの具と心得たる輩においてをや。またそんな者におのれを空しうして信頼する輩においてをやだ。
よって思うに、遠邦の新智識、新出来事をわが民間にあまねく伝え参考に供するなどは、今日の学制では到底成らぬことだが、前にも申すごとく学問智識は欧米人の専売にもあらず、その材料は日本にも随処充満し、外国よりもわが邦に研究の便宜多きもの至って多い。されば一足飛びに欧米の偉人と相(あい)馳駆(ちく)するような大発明大発見は二代後十代後の子孫に期することとするまでも、いささかも国の令名を揚げ同胞の幸栄と改進を冀(ねが)わるるの人は、身分、職業等、外相(げそう)の差別に頓着なく、例の下女の噂、芸妓の与奪など、和歌山県の官公吏が多くおのれの位置を忘れて熱心に恥を曝(さら)すようないかがわしきことに、十分なり二十分なり潰す暇があらば、これを自然の現象・動植物の観察、物理化学の実験等に応用されんことを切に望む。たとい世に知れずに終わるとしても、床林(とこりん)君が二十年前まで(おそらくは今日までも)欧米の学者が確言し得ざりし平家蟹の脚に大小ある理由を、誰に教えられずに気が付いて実験確証したのは、吾輩の眼から見ると、文化の昔、間宮林蔵が樺太と韃靼(だったん)の間に海あるを創見したと並べ称しても苦しからぬ偉功じゃ。
これを和歌山県の俗吏が、東京辺で聞き嚙った筆記を米櫃の材料に町村を押し廻り、実際西洋の大学者よりも近海のことに明るい漁夫を駆り催し、微※浮溝生物(プランクトン)は[注:※=「公」の右上の一画を取り除いたもの。但し、「廣漢和辞典」に所収せず、意味不明。]魚に必要だからそう心得ろなどと、心得たところで何の益もなく、実は欧米ですら何たる定説もないので研究者手最中のむつかしいことを鵜呑みに講じ、それで漁民の膏血から月俸を搾り上げおるなどは、人のために官を設くで顚倒もはなはだし。実は欧米人が調べに来ぬうちに、わが国水産物に関する古伝、俗信、里諺、児謡までも網羅して聴き取り、綜合して発見発明の大材料となし置くべく、それについては一童一嫗の説をも善思(ぜんし)念之(ねんし)すること、上に述ベたゲスネルが生物学中興に尽力奔走、日もまた足らざりしがごとくなるべきだ。右床林君の独立観察の大益ありしに感じ、平家蟹の話を述べた中ほどで俗吏蟹と改称して見たが、「衣(ころも)新しきに如(し)かず、友旧(ふる)きに如かず」で、かかる慣れ来たったことは容易に改め得ぬもの、また改めて何の益なきことと悟った。官人が日傭根性で神社合祀とか講習開催とか入りもせぬことに人騒がしをやり、手間賃を取るもその時ばかりで跡を留めず元の木阿弥に復(もど)るもこの例に同じ。
(大正二年九月二十日~二十八日『日刊不二』)
●やぶちゃん注
1 ヘイケガニの学名ドリッべ・ヤポニクス
現在、ヘイケガニ(種としてのこのヘイケガニは北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海の他、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで、東アジア沿岸域に広く棲息している)の学名は、節足動物門甲殻上綱軟甲(エビ)綱真軟綱(エビ)亜綱ホンエビ上目十脚目短尾下目ヘイケガニ上科ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイゲガニ Heikeopsis japonicum japonicum で、後に「英国の仮面蟹(かめんがに)は、ドリッペ属でなくコリステス属のもの」とあるが、当時の分類学とは異なっており、現行では、「コリステス屬」は属レベルの異種ではなく(ヘイケガニ上科ヘイケガニ科 Dorippidae ではなく)、ヘテロトレマータ亜群ヒゲガニ上科ヒゲガニ科 Corystidae の Corystes 属で一属一種、後で参考図に出る通り、甲殻が口刎部が♂では前方に著しく尖った種で、英文ウィキの「 Corystes 」に拠れば、英名では、masked crab・helmet crab・sand crab と呼ばれ、ポルトガルからノルウェーに至る北大西洋及び北海・地中海に棲息する砂に潜っている穴掘り型の種である。最大甲長四センチメートル、「マスクガニ」(人面蟹)という名は、本邦のヘイケガニと同様、甲羅の模様が人の顔に似ていることに由来する。砂質の基質に埋もれて生活し、そこでゴカイなどの多毛類や、二枚貝などのベントスの無脊椎動物を食餌とする。二本の触角は呼吸管の役割を持っており、酸素を含んだ水を基質に送り込む、とあった。
2 土佐日記
まず、「土左日記」中の該当箇所を以下に引用しよう(岩波文庫版(一九七九年刊)他二種を参考にした)。
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十三日(とをかあまりみか)の暁に、いさゝかに雨降る。しばしありて、止みぬ。女これかれ、「沐浴(ゆあみ)などせむ」とて、あたりのよろしき所に下(お)りて行く。海を見やれば、
雲もみな浪とぞ見ゆる海人(あま)もがないづれか海と問ひて知るべく
となむ、歌、詠める。さて、十日あまりなれば、月おもしろし。舟に乗り始めし日より、舟には紅(くれなゐ)濃く、よき衣(きぬ)着ず。それは、「海の神に怖(を)ぢて」と、言ひて、何の葦蔭(あしかげ)にことつけて、老海鼠(ほや)の交(つま)の貽貝鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に上げて見せける。
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これについて熊楠は、後の大正七(一九一八)年に書く「十二支考 馬に関する民俗と伝説」の「八 民俗(2)」の中で、次のように述べている(引用は平凡社版選集より)。
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国文の典型たる『土佐日記』に、筆者紀貫之朝臣の一行が、土佐を出てより海上の斎忌(タブー)厳しく慎みおりしに、日数経てやっと室津(むろのつ)に着き、「女是彼(これかれ)浴(ゆあ)みなどせんとて、あたりの宜しき所に下りて往く、云々。何の葦影に託(ことづ)けて、ほやのつまのいずし、すしあわびをぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)にあげて見せける」。この文を従前難解としたが、谷川士清の『鋸屑譚』に始めてこれを釈(と)いた。ホヤは仙台等の海に多く、科学上魚類に近いものながら外見海参(なまこ)に酷似す。イズシは胎貝(いがい)の鮓(すし)で、南部の方言ヒメガイ(『松屋筆記』一〇五巻)、またニタガイ(『本草啓蒙』四二)、漢名東海夫人、みなその形によった名で、鰒(あわび)を同様に見立つること、喜多村信節の『筠庭雑録』にも見える。次に岸本由豆流が件(くだん)の「何の葦影に託けて」の何は河の誤写と判明したので、いよいよ意味が明らかになった。全く貫之朝臣が男もすなる日記という物を女もして見せるとて、始終女の心になりておかしみを述べたものゆえ、ここも水渉るため脛高く掲げしかば、心にもあらで、ホヤの妻ともいうべき貽貝や鰒様の姿を、葦の影の間に映し見せたという、女相応の滑稽と判った(『しりうこと』第五)。
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すなわち、これは〔老海鼠(男性生殖器のミミクリー=男)の夫(「つま」=妻)であるところの、貽貝(女性生殖器のミミクリー)〕=〔鮑(女性生殖器のミミクリー)〕ということである。
生物としてのホヤに古くから関心を持っていた私は(実際に食したのは、教員になった一九七九年であった)、高校時代に、この部分を読み、そこに表記されていた「老海鼠の褄の貽鮓」なる食物が如何にも不可解であった。ホヤの体制に「ツマ」に相当するものがあるか? 更に、その「ホヤのツマ」なる秘やかな(?)部分と、すでにその頃、ニタリガイの異名の意味を知っていた「イガイ」を生で合わせて発酵させたなれ鮨……それは想像するだにおぞましいものであった。早速に中年の国語教師に質問したのだが、彼は、私を純情に思ったものか、にやにやするだけで答えてくれなかった。大学生になって土佐日記講読の講義で、満を持してここを微細に分析する論文を書き、担当教授に美事に敬遠された(それでも「優」をくれたが)。私のアカデミズムへの訣別はホヤに始まったというわけだ。
ちなみにホヤは、無脊椎動物と脊椎動物の狭間に位置する、脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea に属する分類学上、高等な生物である。その生態や最近の新知見(高濃度の血球中のバナジウムなど)について語ることは、私が最も歓喜雀躍するところであるが、南方的大脱線はこれくらいにしておくのが身の為であろう。それにしても、居酒屋の店員が、ホヤをナマコの一種などとほざくのは仕方がないとしても、料理人や魚屋は、ゆめ、「ホヤガイ」等と呼称すべきではない、と私は思うのである。
3 ブラントム
ピエール・ド・ブールデイユ(Pierre de Bourdeille 一五四〇年頃~一六一四年)。「サン=ピエール・ド・ブラントーム修道院」院長(Abbaye Saint-Pierre de Brantôme)で、後半生は作家として過ごした。当該ウィキ、及び、フランス語の同ウィキによれば、『名門の貴族の出で、ナバラ王国の宮廷で成人し、パリ、ポワティエで法律を学んだ。生涯の大半をフランス各地、ヨーロッパ諸国の漫遊と戦争への参加に費やした』「ユグノー戦争」では、『カトリック側に参加したが』一五八四年、『落馬して重傷を負い』、『公的生活から引退。自身の豊富な体験や見聞を記した』「高名貴女列伝」や「貴紳武人列伝」『などを書』き、「回想録」が『死後に出版』(一六六五年~一六六六年)されている。『今日も読まれているのは』、「著名貴婦人伝」の第二部「好色女傑伝(艶婦伝)」で、『性的に奔放であったルネサンス末期の貴婦人たちにまつわる生々しい逸話を描いた作品である』。『日本では永井荷風と同居していた小西茂也などが翻訳した』とある。
4 聴(ゆる)しなくて高貴の身体に触るるを大毒物に触れるように畏れたのだ
この叙述には私は留保したい。あからさまな蔑視の中で、何糞、日本精神の花火を派手に打ち上げることに巧みであった熊楠の勇み振りが伝わってくるが、私はまさにこの源平の擾乱以降にあって、正直、このようなタブーは必ずしも守られていなかったと思うのである。
5 大英国科学奨励会
British Association for the Advancement of Science。英国科学振興協会。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の長谷川興蔵氏の注に、『一八九八年』(熊楠の年表記と異なる)『九月プリストルで開かれた同会第六八回大会の人類学部会に、南方熊楠は出席していないが、同会の紀要によれば、九月八日に代読されたリポートの中に、On Tabu in Japan in Ancient, Mediaeval and Modern Times’ By K. Minakata とある』とある。英文論文標題は『古代・中世・近世の日本のタブーに就いて』である。当時、熊楠はロンドンにいた。
6 南方二書
「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の長谷川興蔵氏の注に、『神社合祀反対。自然保護を訴えた南方熊楠の長文書簡二通(東大教授松村任三宛)を、柳田國男が明治四十四年』(一九一一年)『小冊子として出版したもの』とある。
7 小島烏水
同前で『登山家・紀行文家。日本山岳会創立発起人の一人で、初代会長。雑誌『山岳』を主宰』とある。明治九(一八七五)年生れで、昭和二三(一九四八)年没。
8 房州とかで大葉藻(あまも)を「竜宮の乙姫の元結(もとゆい)の切解(きりほど)き」と呼ぶ
単子葉植物綱オモダカ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina の異名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」(竜宮の乙姫の元結の切り外し)は最も長い植物名として知られる。アマモという標準和名は、根茎部を囓ると、甘味があることに由来する。
9 南方熊楠自伝“ The Autobiography of Minakata ”
かく述べている英文自伝の原稿は未発見である。底本の注によると、那智で起筆され、実際に書かれたことは間違いないようであるが、『大正十一』(一九二二)『年の中井秀弥宛』書簡での記載が『最も晩いものかと思われ、「五百頁出来ずに中止し候」云々と書かれている』とある。
10 書に見当たらぬことも間違ったことも多く、大家碩学の作述には至極の臆説もあるは、上述平家蟹に関する西人の諸説でも解る
この叙述には疑問がある。先行する記述では西欧の「ある学者は小さき脚もて殻の背に物を持ち上げるのだと言い」と言う各説の一つを挙げており、それが否定される形になるからである。実際に、同じカニ類でも、オオホモラやカイカムリなどで、貝殻や石、スポンジやカップの蓋などの廃棄物、ヒトデやホヤ、ウミサボテンなど、いろいろなものを日常的に背負うことが知られている。ヘイケガニの場合も、第三脚及び第五脚を用いて、同様な行動が観察されている(私も映像で実見している)。これは、本文にあるような巣、若しくは、アジールを作るための過程行動と解するよりは、カモフラージュのための擬態行動と考えてよいと思われるのである。
11 ゲスネル
スイスの博物学者にして書誌学者であったコンラート・ゲスナー(Conrad Gesner 一五一六年~一五六五年)。医学・神学をはじめとするあらゆる知識、古典語を含めた多言語に通じた碩学。著書「動物誌」全五巻 (一五五一年~一五五八年) は、近代動物学の先駆けとされる。植物学にも長けた。書誌学の基礎を築いたとされる「世界書誌」 (一五四五年~一五五五年) を著し、「書誌学の父」と呼ばれる。世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け、北米時代の日記に「吾れ欲」(ねがはく)「くは日本のゲスネルとならん」と記している(当該ウィキに拠った)。