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[やぶちゃん注:底本は1984年平凡社刊「南方熊楠選集 第三巻 南方随筆」を用いた。底本文中の編者の校注補訂は省略した(一部、私の注の参考とした)。傍点「丶」は下線に代え、太字は茶色に代えた。なお、本論文には『人種もインド高等の人々と違い、頭が畜生諸種に似ておっただろう。』等に、私の目から見て、現在では許容し得ない差別的表現・発想が見られる。従って、その点について十全に批判的視点を持った上で読んで頂くことを切望する。参考に今夏(2006年)、熊野本宮大社にて求めた牛王神符をリンクする。【二〇二一年十二月二十七日追記】本日、ブログで分割で公開を終った「南方隨筆」底本の正字版の南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」(オリジナル注附)の一括縦書ルビ化pdf版(3.7MB・89頁)を公開した。]

 

牛王の名義と烏の俗信   南方熊楠

 

         一

『郷土研究』に出た「守札考」の中に、清原君は、牛王(ごおう)の名の起原を論じて、「要するに牛王の符は、牛黄なる霊楽を密教でその儀軌に収用し、一種の加持を作成したことから起こったものであろう」と言われた。すなわち旧説に、牛王は牛玉であって、また牛黄、牛宝とも称し、牛胆の中から得るところの最も貴き薬である、これを印色として符の上に印するより牛王宝印と称す、というに拠ったものだ(『郷土研究』三巻四号一九七、一九九頁)。

『和漢三才図会』三七に、「牛黄は俗に宇之乃太末(うしのたま)と言う」とあり。田辺付近下芳養(しもはや)村字ガケという部落の大将、予と年来相識の者の話に、牛の腹よりきわめて貴き黄色の物稀(まれ)に出で、芬香比類なし、ゴーインと名づく、と言うたのは、牛王印の訛りだろう。『東鑑』に、建保五年五月二十五日、将軍実朝、年来所持の牛玉を寿福寺の長老行勇律師に布施せしことを載す。格別上品で大きい牛黄だったものか。また牛胆中より得る、きわめて香(かぐわ)しき牛黄の外に、革皮(なめしがわ)のような臭いある牛の毛玉(けだま)というものを腸から出すことあり。『和漢三才図会』に、「俗間に牛宝あり。形は玉石のごとく、外面に毛あり。けだし、これは狗宝・鮓荅(さくとう)のごときの類ならん。牛の病塊は牛黄と一類二種なり。庸愚なる売僧(まいす)の輩、霊物となし、あるいは重価(たかね)をもってこれを索(もと)む。その惑えること、はなはだしきかな」と言えるはこれだ。この辺でこれを懐中すれば勝負事に運強いという。実朝が布施したのは、この毛玉かとも思う。

『曽我物語』巻七第八章、三井寺の智興大師重病の時、その弟子証空これに代わり死なんとて、晴明を請うて祀(まつ)り替(か)えしむるところに、「晴明礼拝恭敬(くぎょう)して、云々。すでに祭文に及びければ、牛王の渡ると見えて、種々のさんせん幣帛(へいはく)、あるいは空に舞い上がりて舞い遊び、あるいは壇上を跳り廻る。絵像の大聖不動明王は利剣を振り給いければ、その時晴明座を立って、珠数をもって証空の頭を撫で、平等大慧(だいえ)、一乗妙典と言いければ、すなわち上人の苦悩さめて証空に移りけり」と出づ。ここに牛王と言えるは牛黄では分からず。たとい牛黄また牛王宝印とするも、文の前後より推すと、牛黄また牛王宝印そのものを指さずして、その物の精霊すなわち牛黄神また牛王宝印神とも称すべきものを意味し、修法成就のさい右様の神が渡り降(くだ)ると同時に供物(くもつ)がおのずから動き出すこと、あたかも今日の稲荷下(いなりさ)げにいよいよ神が降る時、幣帛揺れ廻るごとくだったのであろう。例せば、唐訳『不空羂索神変真言経』に見えた薬精味神が、「状(かたち)は天の形のごとく、衆宝の衣服備(つぶ)さに荘厳し、身手にはすなわち倶延枝(ぐえんし)果を執(と)り持つ。無垢薬精は大毒威あって、云々、力よく人の精気を吸い奪う」。それを畏れずに、持真言者が呪を誦し打ち伏せると薬精の身から甘露を出す。それを採って眼と身に塗れば金色仙となり得、また薬精の髪を取って繩として腰に繋(か)くればどこに行くも障擬なし、とあり。芳賀博士も予も出処を見出だしえぬが、『今昔物語』四に「震旦国王の前に阿竭陀薬(あかだやく)来たれる語(こと)」あり(『郷土研究』一巻六号三六頁および九号五五二頁参照[やぶちゃん注:南方熊楠「今昔物語の研究」の一節。])。『徒然草』に大根が人と現じて人の急難を救う譚出で、欧州の曼陀羅花(マンドラゴラ)(A. de Gubernatis,‘La Mythologie des Plantes, 1882, tom. ii, p.213 seqq.)、インドのツラシ草(同書同巻三六五頁)、チェロキー・インジアンの人参(Reports of the Bureau of American Ethnology, XIX, 425)等、いずれも植物ながら人体に象(かたど)れる根また全体を具し、霊妙の精神を有すと信ぜられ、それほどにはないが、熊野で疝気等の妙薬と伝えらるる「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)も、これを見出だした即時採らずに帰宅してまた往くと隠れ去って見えぬと言う。

 しかしながら、予は件(くだん)の『曽我物語』に見えた、修法成就の時渡り来て尊前に供えた物を動かす牛王を、牛黄や牛王宝印の精霊と見るよりは、牛王という特別な鬼神と見るを一層実に近いと憶(おも)う。清原君が言われた通り(『郷土研究』三巻一九八頁)、牛の勝妙なるもの、すなわち牛群の首魁を牛王と言うは、諸経にしばしば見え、例せば『仏説生経』四に、「時に水牛王は、衆(おお)くの眷属とともに至り湊(あつ)まる所あって、独りその前にあり。顔貌は姝好(しゅこう)にして、威神は巍巍(ぎぎ)、名徳は異(ほか)を超(ぬきん)で、忍辱(にんにく)にして和雅、行止(たちい)は安詳(おちつき)たり」と、田辺中の芸妓どもが南方君を讃めるように、やたらに述べてあり、北涼訳『大般涅槃経』一二には、「転輪王の、主兵大臣常に前導にあって、王は後に随って行くがごとく、また魚王、蟻王、螺王、牛王、商主の前にあって行く時のごとく、かくのごとく諸衆悉皆(ことごと)く随従し、捨離する者なし」と、吹く法螺から吼ゆる牛までもそれぞれ王ある由を説かれた。『十誦律』四〇に、仏、芻摩国にあって五陰法を説いた時、「諸比丘、鉢を持って露地に著(お)く。天魔変じて大牛の身となり、来たって鉢に向かう。一比丘あり、はるかに牛の来たって鉢に向かうを見、比座(となり)の比丘に語っていわく、看よ、この大牛来たってわが鉢に向かう、わが鉢を破(わ)らずや、と。仏、諸比丘に語っていわく、こは牛にあらず、こは魔のなすところにして、汝らの心を壊(やぶ)らんと欲するなり、と。仏いわく、今より房舎中に鉢を安(お)く処を作るべし、と」。同律二一に、「仏、王舎城にあり。この時、諸闘将の婦、夫の征行すること久しく、非人と通ず。この諸(もろもろ)の非人は形体不具にして、あるいは象頭、馬頭、牛頭、獼猴頭、鹿頭、贅(こぶ)頭、平頭と、頭七分(とおり)に現ず。生まれし子もまたかくのごとし。諸母の愛するゆえに、養い畜(か)いて長大となりしも、執作(とりあつか)うことあたわず、諸(これら)の子を駆棄(おいはら)い、天祠論議堂に詣(いた)り出家せしめ、これを諸処に舎(お)くに、飲食を覓(もと)めて遊行す、云々」。出征軍将の不在にその妻どもが牛馬頭等の非人と通じて、そんな異体で遊び好きの子を生んだのだ。非人は英語アウト・キャストの義で、人類に歯(よわい)せられぬ賤民で、人種もインド高等の人々と違い、頭が畜生諸種に似ておっただろう。牛頭馬頭の鬼などいうも、これらから出たらしい。仏在世すでに天魔が大牛身を現じたというから見ると、牛形の鬼類を信ずること古く梵土にあったので、それが仏教に随順せるものを牛王と言ったのだろう。

 今日もセイロンでは、牛群つねに一聖牛(ひじりのうし)ありてその繁栄を司り、その角を羽束(はねたば)で飾り、また小鈴を加うることあり。常に衆牛を牧場に導く。毎朝牛舎を出る時、土人聖牛に向かい、必ず衆牛を監守し※輩(めうしども)をして群に離れず最(いと)好き牧野に導いて乳汁多く生じしめたまえと請う(Balfour, The Cyclopaedia of India, 1885, vol. i, p.512)[やぶちゃん字注:※=牸-字+(悖-りっしんべん)。但し、「めうし」の意味であれば「牸」が正しく、底本の字は大修館の「広漢和辞典」にも所収していない。]。インド人が牛を最上の神獣として尊崇、恭敬するは誰も知るところで、ことにこれをシヴァ大神の使い物とし、優待到らざるなき様子と理由は A. de Gubernatis, Zoological Mythology,1871 vol. I, pp. 1-89; Dubois, Hindu Manners, Customs and Ceremonies, 1897, vol. ii, pp. 644-646を見れば判る。すでにこれを神視するから、したがってこれを神同様の役目に立つることも多く、『マヌの法典』に、牡牛を裁判の標識とし、諸神世間の法を濫(みだ)す者をヴリシャラすなわち殺牡牛者と見なす、とあり。今日もシヴァの騎(の)る純白(ましろ)き牛(名はナンジ)は裁判の標識と言う者あり(Balfour, vol. ii, p.1057)。予がかつて睹(み)た、他人の地面を取り込むインド人を戒むるため、その家内の婦女が牡牛に犯さるるところを彫った石碑のこと、すでに本誌に述べおいた(『郷土研究』一巻一〇号六一四頁[やぶちゃん注:南方熊楠「今昔物語の研究」の一節。])。地面の境標を建つるインド人の誓言には、牛の生皮(なまかわ)または自分の悴を援(ひ)いて証とする。他にまた牛の尾を持って誓うこともある(Balfour, vol. iii, p.2)。

 シヴァは、すなわち仏経にいわゆる摩醸首羅王(マヘスヴアラ)また大自在天また大天で、仏教諸他の教に尊奉する諸神を寛容するところから、胎蔵界曼陀羅にも入り、観音二十八部衆中にもあれば、『速疾立験摩醯首羅天説阿尾奢法』などが一切経中にあり、ジャワの仏跡は実に仏教と大天教の融和せしを示す。また仏教にもヒンズー教にもある闇魔(ヤマ)王や、それから化成されたらしい瑜伽(ゆが)宗の大威徳明王は、いずれも青牛すなわち水牛に騎(の)る。この二尊はしばしばチベットの仏画に見るより推すと、『衛蔵図識』に見えた牛魔王やわが邦の牛鬼の伝説は、多少それに縁あるのでなかろうか。『日吉社神道秘密記』に、「一年尊石。(八王子)御殿の下の牛尊を、石上にこれを安んず」とあって、地図に「牛尊は牽牛なり、寵御前は織女なり」とあるは牛王に関係ないが、ついでに書きつけておく。実はこの解説は後日の付会で、その初めは何尊かの使い物たる牛の像を石上に安んじたのであろうと思う。西晋訳『修行道地経』六に、織女三星地獄に属すとあれば、牽牛も閤魔の騎乗(のりもの)か。とにかく仏教に混じてヒンズー教の事相もずいぶん多く本邦に伝わったから、牛を裁判の標識として誓言の証拠に立つるインドの風を伝えて、何尊かの使い物たる牛を牛王と称し、その牛王の印を据え、もしくは捉えられたと信ずる物を、誓言にも引けば、門戸に貼って辟邪(へきじゃ)の符(まもり)とも做(し)たのであろう。

『類衆名物考』一三に『垂加文集』の跋より、「御霊八所、云々。当社は嘉(垂加の俗名嘉右衛門)の牛王神なり」と引けり。これは、例の生土(うぶすな)を訛って牛王となったという説に随うたのか。また似たことながら、誓文を書く時に牛王として名を援(ひ)く神ということか。

 予は熊野牛王の外の牛王を見たことないゆえ、何とも言いえぬが、熊野の牛王は幼時たびたび見もすれば、小学校で紛失品あるごとに牛王を呑ますと威(おど)されたので、その概略の容体を覚えおる。烏を何羽点じあったか記憶せぬが、まずは『和漢三才図会』に書いた通りのものだった。盗人などを検出するには、これを焼いて灰とし水で服(の)むと、熊野の社におる烏が焼いた数だけ死ぬ。その罰が有罪(うざい)の本人に中(あた)って、即座に血を吐くとか聞いた。血を吐くのが怖(こわ)くて、牛王を呑ますと言うと、呑むどころか牛王の影をも見ぬうち既(はや)く罪人が自白するを常とした。支那で狼巾(ろうきん)を灸って盗を見出だし(『酉陽雑狙』続集八)、朝鮮人やオッセテ人が猫を殺すべしと威して窃(ぬす)まれた物を取り返し(『人類学雑誌』三〇巻一号二四頁、中島生の寄書、同巻三号一〇八頁なる拙文[やぶちゃん注:南方熊楠「猫を殺すと告げて盗品を取り戻すこと」。]を見よ)、西アフリカのビニ人が妖巫を露わすに、イニイ樹皮の擣汁(つきしる)を呑ませ、嘔(は)く者を無罪、嘔かぬ者を有罪とする(Dennett, At the Back of the Black Man’s Mind1906 p.191)など、似た例だ。西鶴か白笑・其碩か誰かの戯曲(じょうるり)、いずれにしても帝国もしくは続帝国文庫中に出版された物にも、遊女が起請(きしょう)するたびに烏が死ぬるを歎(かこ)つ詞があったと記憶する。これに近似した例、西鶴の『万の文反古』三巻三章に、盲僧(めくらほうし)の憾悔話を載せ、在俗の時紙店を営むところへ、武士買物に来たり大金を店頭に遺(わす)れ去りしが、やがて気づいて尋ね来たるを、慾に眼が暮れてなしと答え通す。詮方なく立ち帰り、ややあってまたかの武士、烏一羽生きたるを持ち来たり、行く末を見よと言いながら、その烏の両目を脇指で鑿(ほ)り出し抛げつけて往ったが、後にその侍は自殺したと知る。それより店主不運続き到り、盲目の乞食僧となった、とある。

 畠山箕山の『色道大鏡』六に、「起請文を書く料紙は、まず熊野牛王をもって本とす。中村屋の鳳子小藤は、白紙なしに二月堂の牛王七枚張りにして細字にこれを書く。上林家の二世薫(かおる)倹子も白紙なしに三山の牛王九枚綴にして書けり、云々。明暦のころ中京の何某、傾城に起請書かするために怖ろしき鬼形の牛王を新たに彫らせてこれを用ゆ。もっとも作意働きて面白し、故ありと覚ゆ」とあり。これら牛王は、もと起請を背かば牛形の鬼に罰せらるべしという悪から起こった証たるべきにや。

 烏を神鳥とすること本邦に限らず。ギリシアに神アポロ烏に化(な)る話あり。女神ジュノは、烏を使者とし、次に孔雀に改めた。インドには、『ラーマーヤナ』に、神軍、鬼軍と戦うて敗走する時、烏来たって閻魔(ヤマ)を助く。その報酬に葬饌を烏の得分とし、烏これを享くる時、死人の霊、楽土に往き得と定む。ギリシアの古諺に、死ぬことを烏の許に往くと言った。今日も。ヘルシアやポンペイのパーシー人やチベット人は、死屍を支解し、また全体のまま禿鵰(ヴァルチュール)に食わす(『衛蔵図識』巻下。また Sven Hedin, Trans-Himalaya, 1909, 371-372; Encyclopædia Britannica, 11th ed., vol. xx, p.867)。必ず烏腹に葬るを期せずとも、熱地で死屍や半死の人畜が鳥獣に食われ終わるに任すこと多きは、予もみずから視た。ことに悪疫流行して、埋葬に人手乏しき時然(しか)り。『薙州府志』に、京都紫野古阿弥谷に林葬行なわれ、死人を石上に置き去り、狐狸の食うに任せし由を載せ、『元亨釈書』に、某皇后遺命して玉体を野に棄てしめ給いしと見え、『発心集』には、死せしと思いて野に棄てたる病女の両眼を烏が食うた譚あり。これらよりもずっと古く、埋葬の法簡略に過ぎた地方には、烏等に人屍を食わるること珍しからず。烏また人のまさに死なんとするをよく知ってその辺を飛び廻り、あるいは鳴いて群を集むるより、これを死を予告する鳥また死を司る神便など言うに及んだのであろう。十五年前、予熊野の勝浦にありし時、平見という所の一松に烏来たり鳴くと、必ず近きうちに死人ありて少しも錯(あやま)りなし、と。かかることに一向無頓着な老人の経験譚を聞いた。

 されば、本邦で烏を使い物とするは必ずしも熊野の神たちに限らず。信州諏訪の宮(『諏訪大明神絵詞』上)、江州日吉山王(『山王利生記』一)、隠岐の焼火山(『隠州視聴合記』二)、越後の伊夜彦明神(『東洋口碑大全』一〇一〇頁)、肥前の安満嶽(『甲子夜話』二三および八七)、その他例多かるべきが、熊野は伊奘冊尊(いざなみのみこと)御陵のある地で、古くより死に縁あり。中世、本宮を現世の浄土としたる様子は『源平盛衰記』等に見え、今も妙法山を近郡の死人の霊が枕飯(まくらめし)できるあいだに必ず一たび詣るべき所とするなど、仏法渡来前より死霊に大関係ある地としたなるべく、もとよりその地烏鴉多かったので、前述閤魔と烏との関係、また仏説に冥界後生のことを記するに必ず烏のことある(例せば、『正法念処経』七に、辺地夷人、その国法のままに姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山(うきゅうせん)の鉄烏に苦しめられ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑う者、命終わって大紅蓮獄に堕ち、烏に眼と舌根を抜き、耳を割き、身を分散さる。『大勇菩薩分別業報略経』に「強顔にして羞恥少なく、無節にして言説多ければ、業に随いて果報を得て、後に烏鳥の身を受く」)等より、仏典渡来後、熊野の烏は一層死と死後の裁判に関係厚く信ぜらるるに及んだだろう。支那にも、「洞庭に神鴉あり。客帆過ぐれば、必ず飛び噪(さわ)いで食を求む。人、肉をもって擲(なげう)てば、空中にこれを哺(とら)う。あえて捕えざるなり」(『五雑狙』九)とある。

 かつそれ梵土にあっては、烏と牛とのあいだに深緑あり。バルフォールの『印度(インド)事彙』(上出、一巻八四四頁)に、インドの大黒烏(学名コルブス・クルミナツス)は水牛ある処に必ずあってその背に駐(と)まり、小ミナ烏と協力して牛蝨を除く、と見ゆ。アリストテレスの『動物志』九巻六章に、エジプト・ニル河に小蛭多くて鱷の喉に入りこれを苦しむ。トロキルスという小烏、鱷口に入ってその蛭を食う。鱷これを徳とし、つねに口を満開して烏の入るに便にすとあるは、今日も目撃しうる事実で、インドの烏と牛との関係に似ておる。古ペルシアのミツラ教は、日神ミツラを祀り、牛と鴉を聖禽とした。烏と牛は本邦では双(ふたつ)ながら、主として著しく黒く人里離れぬ動物たるところへ、インドにもかく二者親密の関係あるを伝承して、烏形を点じて牛王宝印を作成したのであろう。しかして、烏を援(ひ)いて誓言することは古アテネにもあった由、グベルナチスがアリストファネスの詩を引いて言われた(Gubernatis, Zoological Mythologyvol. ii, p.252)。

(追記)長門本『平家物語』五に、藤原成経、硫黄が島に流されしを、その情婦で清盛に仕えた伯耆局慕うて止まず。かねて心がけおった鳩脇八幡宮中の馬場執印清道、奇貨置くべしと考え、成経方へ伴いやるべしとしてかの婦人同道で大隅に下り説けども三年間随わぬうち成経と再会した譚あり。この女童名牛王殿とある。これは仏典に牛王、蟻王、烏王、馬王などある、牛群中の王を指す名で、起請の牛王とは関せぬだろう。俊寛の侍童有王の外に、蟻王という名の少年もあったと記憶する。『類聚名物考』三九に、『徒然草』上、太秦殿に侍りける女房の名ひささち、ことつち、はうはら、おとうし。同考に、ひささちは膝幸、ことつちは如槌の意、はうはらは腹の大きく垂れて地を匐うごとくに見ゆるゆえ言うならん。乙牛は字のごとく小さきを言うか、と記す。これらは、単に下女どもを牛の健にしてよく働くに比べて号(なづ)けたものだろう。(大正五年二月『郷土研究』三巻一一号)

 

          二

 

 人間は勝手きわまるもので、烏が定刻に鳴いて晨(あした)を告げると、露宿する者は寒夜の過ぐるを欣び、流連する者は飽かぬ別れの近づくを哀しむ。「柿食ひにくるは烏の道理かな」で、実は烏の知ったことでない。謝在杭の言に、「鴉鳴くを、俗に凶事あるを主(つかさど)ると言う。故に女子・小人は、その声を聞けば必ずこれに唾す。たとい縉紳(しんしん)の中にも、またこれを忌む者あり。それ人をして、あらかじめ凶あるを知って、言を慎しみ動を謹(いま)しめ、患(わざわい)を思いて、預(あらか)じめ防がしむれば、またわれの忠臣にあらずや」。時鳥(ほととぎす)なども、初音を厠で聞けば禍あり、芋畑で聞けば福あり。故にその鳴くころ、高貴の厠には芋の鉢植を入れて置くと、『夏山雑談』に出る由(『嬉遊笑覧』八に引く。予の蔵本にはこのこと見えず)。グリンムの『独逸(ドイツ)鬼神誌』(一八四四年、ギョッチンゲン板、六三七頁)に、最初烏は後世ほど悪鳥と謂われなんだとあると同時に、氏の『独逸童話』に、水扱みに出て帰り遅い子供を、その父が烏になれと詛うとたちまちみな烏になった譚あるを見ると、欧州でもいと古くより烏を機会(おり)と相場(そうば)によって、あるいは吉祥、あるいは凶鳥としたらしい。『エソサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板二二巻に、鴉は鳥類中最も高く発育したもので、胆勇、明敏、智慧、三つながら他鳥に傑出す、とある。

 ここにいう鴉は、英語でラヴェン、わが邦で従来「はしぶとがらす」に宛てておる。実は「わたりがらす」、学名コルヴス・コラクスがラヴェンに正当する。「わたりがらす」は北アジア(わが千島にもあり)と全欧州、西半球では北氷洋よりガテマラ国まで棲み、烏属中もっとも分布広いものだ。またこの篇に烏と書くのは、英語でクロウ、本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てておる。英国でもクロウと呼んだは、なるほど「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、学名コルグス・フルギレグスたるべきもの(わが国の「みやまがらす」に近い)をクロウと言いおる。『本草綱目』に、烏鴉を四種に分かつ。O. F. von Möllendorff,The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenclature,in The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series , Shanghai, 1877, pp.88-89に、その四種を釈して、紅嘴鴉また山烏また鷁(げき)とは、英語でchough(チャフ)これは嘴細長くて鉤(まが)り、脚と嘴が紅(あか)い。英語で紅脚烏(レッド・レグド・クロウ)ともいう。学名ピロコラクス・グラクルス。次の燕烏また鬼雀は、学名コルヴス・トルクワツス。この二種は日本にないらしい。次に慈烏また慈鴉また寒鴉また孝烏は、英名ブラック・ジャクドー、学名。コルヴス・ネグレクツスだろ、とある。放小川氏の『日本鳥類目録』に大阪・長崎産とあるが、和名を挙げぬを見ると、日本に少ないものか。次に鴉烏また烏鴉また大嘴鴉は、「はしぼそ」とルクと「わたりがらす」を併称するらしいという。さて『本草』には見えぬが、カルガ地方で老翁(ラオクワ)と呼ぶのが、日本の「はしぶとがらす」と同物らしい。

『広韻』に、鴉は烏の別名。『格物論』に「烏は雅(鴉)の別名にて、種類また繁(おお)し。小にして多く群がり、腹下の自きものあり、鴉烏となす。小嘴(し)にして白く、他鳥に比し微小(すこ)しく長くして、その母に反哺(はんぽ)するものあり、慈烏となす。大喙(かい)および白頸にして、反哺するあたわざるものは、南人これを鬼雀と謂い、またこれを老鴉と謂う。鳴けばすなわち凶咎(きょうきゅう)あり」。これとモレンドルフの釈と合わせ攷うるに、支那でもっぱらその鳴くを忌む烏は、日本にない燕烏で、反哺の孝で名高い慈烏は、大阪・長崎等にあるも、今に日本名も付かぬほど尋常見られぬもの、したがって自分の孝行は口ばかりで、たまたま四十九歳まで飲み続けて孝を励む吾輩を見るも、いたずらに嘲笑するもの、世間みな然りだ。それから鴉烏また烏鴉は大嘴とも言わるるから、『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』や須川氏訳の『具氏博物学』等に、烏を「はしぼそ」、鴉を「はしぶと」としおるが、その実、支那の鴉烏また烏鴉は、主として本邦の「はしぼそ」に当たる。本邦の「はしぶと」は、支那の大嘴鴉すなわち「はしぼそ」より一層嘴が太い。比較上付けられた名で、学名を、ボナパルト親王がコルヴス・ヤポネンシスと付けたは、日本にもっぱら固有なから、またワグレルがコルヴス・マクロリンクスと付けたは「はしぶと」をそのまま直訳したのだろ。かく本家本元の支那で、烏と鴉を通用したり、烏鴉とか寒鴉とか老鴉とか種別も多きに、普通の書史には一々何種の烏と判って書かず、本邦にも地方により「はしぶと」多く、また「はしぼそ」が多い。この二つの外に、烏の一類で、日本で「からす」と名の付く鳥が、小川氏の目録を一瞥しても十一種ある。『本草啓蒙』に、熊野烏は一名那智烏、大きさ白頭鳥(ひよどり)のごとく、全身黒く、頂毛立って白頭鳥のごとしとあるから、牛王に印した烏は、「はしぼそ」でも「はしぶと」でもない特種と見える。

 一八五一年板、モニエル・ウィリアムスの『英梵字典』に、クロウの梵名三十ばかり、ラヴェンのを十三出せるが、これまた支那同様多種に渉った名で混雑も少なからじと察する。インドの家辺に多き烏(クロウ)は、学名コルヴス・スプレンデンスこれはその羽が特に光るからで、『経律異相』二一に引いた『野狐経』に、野狐が烏を讃めて、「ひとり尊くして樹上にあり。智慧もっとも第一して、明るく十方を照らし、紫磨金(しまきん)を積むがごとし」とあるも過誉(ほめすぎ)でない。水牛と仲よい烏のことは、上に述べた。鴉(ラヴェン)に相当するインド種は、まず「わたりがらす」の多少変わったものらしい。それから濠州やアフリカ、南・北アメリカの烏や、烏と通称さるるものは、またそれぞれ異っておる。一口に、烏また鴉、クロウまたラヴェンというものの実際かく込み入っておるところへ、仏経を漢訳する輩は、クロウ(梵名カーカ)、ラヴェン(梵名カーカーラ)の区別もせず、烏鴉通用で遣(や)って除(の)けたらしく、『翻訳名義集』などに、烏鴉の梵名の沙汰一向見えぬ。こんな次第だから、本篇には、本邦の「はしぼそ」はもとより、支那の本文の訳経の烏、また英文でクロウおよびルクとある「からす」を一切烏と書き、本邦の「はしぼそ」と支那の本文や訳経の鴉、また英文でラヴェンとある「からす」を、すべて鴉と書いておく。動物学上の議論でなく、要は口碑や風俗に関する話を書くのだから、ただ烏(クロウ)と鴉(ラヴェン)が別物とさえ判れば足るんじゃ。

 さて鴉や烏が胆勇に富めるは、『和漢三才図会』烏の条に、「その肉は味酸(す)く鹹臭(かんしゅう)あり。人食らわず。ゆえに常に人を恐れず。鷹(たか)、鷂(はしだか)をも屑(いさぎよ)しとせず、ほしいままに園囲の果蓏(から)・穀実を啄(ついば)み、人家にて晒(ほ)せるところの魚肉・餅糕(へいこう)等を竊(ぬす)み、郊野の屍肉を噉(くら)う。これ貪悪のはなはだしきものなり」と読むと、人が忌んで殺さぬゆえ不敵になったようだが、ワラスの著『ダーウィニズム』に言った通り、氷雪断えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露わされぬよぅに、その体が氷雪同様白い。しかるに、烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千万な擬似色を要せず、かつ群棲するものゆえ、色が黒いと氷雪の白いに対照して反って友を集むるに便あるのだ。烏が本来大胆なので、決して人が忌んで殺さぬゆえ大胆になったのでない。

 烏が明敏にして黠智(かっち)なるは、『禽経』に「烏の巨嘴(きょし)なるは、善く矰弋(そうよく)・弾射を避く」。Tennent, Sketches of the Natural History of Ceylon,1861, pp. 254-255に、セイロンの烏が籃(かご)の蓋を留めおいた栓を抜いて、その中を覗いたり、人が肉を切るとて油断するところへ付け入って、その血塗れな庖丁を奪うたり、ことに椿事なは、犬が骨を噛むを奪わんとて、一羽の烏がその前に下りて奇態に踊り廻れども犬油断せぬゆえ、しばらく飛び去って棒組一羽連れ来たり二人して踊れども効なし。その時あとで来た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛び騰ってたちまち直下し、その嘴の全力を竭(つく)して太(いた)く犬の背を啄く。犬仰天して振り向くところを、最初よりおった烏たやすく彼が食いおった骨を奪った等の諸例を出しおる。Romanes, Animal intelligence,1881にも、烏の狡智非常な例を陳(の)べある。これほど智慧あるものゆえ、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃めたインド譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報(つ)げんと烏に助けを乞う辞に、「智慧の鳥よ、鳥中のいと賢き者よ」と言うたエストニア誕(ばなし)がある(Kirdy, The Hero of Esthonia, 1885, vol. I, p. 215)。Southey, Common-Place Booked. Warter, 1876, 3rd series, p. 638に、英国で烏群、地に小孔を喙(つつ)き開け檞(かしわ)の実を埋めながら前進するを見たが、後日烏が巣を架けるに足る密林となった、と記す。眉唾なような咄だが、米国に穀を蒔いて収穫する蟻あり。また棚の実を大木の幹にみずから穿(ほ)った孔に填め置き、後日突の中に生じた虫を食う用意とする啄木鳥(きつつき)もあるというから丸啌(うそ)でもなかろう。

 烏は朝早く起き、捷(すばや)く飛んで諸方に之(ゆ)き、暮に栖(すみか)に帰るから、世間雑多のことを見聞すというところから言ったものか、古スカンジナヴィアの大神オジンの肩に留まる鴉二つ、一は考思(かんがえ)、一は記憶(おぼえ)と名づく。大神、毎朝これを放てば世界を廻り帰って悉皆(しっかい)の報告す。大神よってあまねく天下のことを知るゆえに鴉神の名あり、と(Collin de Plancy, Dictionnaire infernal, Bruxelles, 1845, p. 347)。かく烏は飛ぶこと捷く世間を広く知るというより、いわゆる往を推して来を知る力ありとせられ、古ギリシアでは、烏をアポロ神予言の標識とし(‘Encyclopædia Britannica, 11th ed.,vol. ii, art. Apollo”)、支那でも、『本草集解』に、「古え『鴉経』あり、もって吉凶を占う。しかも、北人は鴉を喜び鵲(かささぎ)を悪(にく)み、南人は鵲を喜び鴉を悪む。ただ師曠(しこう)(『禽経』)は、白き項(うなじ)なるもの(すなわち燕烏)をもって不祥となし、これに近づ。[やぶちゃん注:「近づかず」の脱字。]『酉陽雑俎』に、「世に『陰陽局鴉経』を伝うるあり。東方朔の著わすところという。大略は、まずその声を数え、もしこれ甲の声ならば、十干をもってこれを数え、その急緩を弁じ、もって吉凶を定む」。日本でも、烏鳴きは必ずしもみな凶ならず。例せば、巳(み)の時は女によって口舌あり、卯の時は財を得、午の時は「財を得ること吉、また口舌あり」。なお委細は『二中歴』第九を覧(み)なさい。セイロンでは、烏は常に家辺にあるものなればとて、今日もその行動、鳴き声から棲(とま)った樹の種類まで考え合わせて吉凶を占う(Tennent上に引いたところ)。

 また烏はよく方角を知るゆえ、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣(おく)る使者とした例が多い。『酉陽雑俎』に、烏地上に鳴けば凶(あ)しく、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜び多し、とあり。八咫烏(やたがらす)が神武帝の軍勢を導きしこと『日本紀』に見え、古ギリシア、テーラの貴人バットスが未知の地に安着して殖民しえたのも、実に鴉の案内に憑(よ)ったので、鴉の義に基づいてその地をキレーネーと命じた(Cox, An Introduction to Folk-Lore, 1895 p. 104)。ただし『宣室志』には、軍出づるに鳶や烏が後に随うは敗亡の徴、とある。ヘプリウの古伝に、ノア大洪水に漂うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出だした。三つの鳥は鴉、鴿(いえばと)、鴿というのと、鴿、燕、鴉というのと二説あるが、チェーンは、鴉が最後に陸を発見した説を正とした。北米土人の話にも似たことがあれど、鴉の代りに他の鳥としておる(‘Encyclopædia Britannica, vol. vii, p.978)。また、ノルウェーのフロキ、アイスランドに航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮かんでまず一羽を放つと、もと来し方へ飛び往くを見て、前途なお遥かなりと知り、進行中またl羽を放つと空を飛び廻って船に戻ったので、鳥も通わぬ絶海にありと了(さと)った。三度目に飛ばした奴が、仔細構わず前進す。それを蹤(あとつ)けて船を進めて到頭アイスランドの東浜に著いたというが、そのころノルウェーにはオジン大神の使い物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を験(ため)すに用いたらしい(Mallet, Northern Antiquities, in Bohn’s Library. 1847, p. 188)。これに同軌の例、『長阿含経』一六、「商人、鷹を臂(ひじ)にして海に入り、海中において放す。かの鷹、空を飛んで東西南北にいたり、もし陸地を得ればすなわち停止し、もし陸地なければ、さらに船に還帰(かえ)る。『経律異相』三六には、大富人が海辺に茂林を作り、烏多く栖む。その烏、朝ごとに飛んで遠隔の海渚に往き、明月の珠を噉(くら)い暮に必ず還る。件(くだん)の長者謀って百味の食を烏に与うると、烏飽き満ちて珠を吐き出すことおびただし。長者これを得て大富となった、と載す。『※女耆域因縁経』[やぶちゃん字注:※=木+奈。]に、耆婆(ぎば)が勝光王に殺さるるを免れんとて、日行八千里の象に乗って逃げるを、神足よくその象に追いつくべき勇士して逐わしむる、その士の名は烏、とある。これインドで烏を捷く飛ぶこと他鳥に超ゆとしたのだ。『続群書類従』の『厳島御本地』に、五色の烏が恋の使いして六年かかる路を八十五日で往き著くことあり。古英国のオスワルド尊者の使者も烏だった(Gubernatis, vol. ii, p. 257)。『淵鑑類函』四二三に、「俗に言う、鴛(おしどり)は頸を交えて感じ、烏は涎(よだれ)を伝えて孕む、と」。プリニウスの『博物志』にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交わるゆえに、その卵を食った婦人は口から産すると言う。アリストテレスこれを駁して、鴉が鳩同様雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言った、とある。熊楠しばしば烏の雌雄相愛して口を接するを見る。また自宅に亀を十六疋畜(か)いあるが、発情(さか)る時、雄が雌に対して啄(つつ)き始めると雌も啄き返す。喙(くちばし)衝き到るを避けては啄き、啄かれては避けること、取組前の力士の気合を見るごとし。交会は水中でするを、ロンドンの動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水ゆえ決して見えぬ。かかる処を誤認したと見えて、『化書』(『顆函』四四〇所引)に「牝牡の道、亀と亀の相顧みるは神交するなり」と載す。また仏経に接吻を嗚と書いたところ多い。例せば『根本説一切有部毘奈耶』三九に、「鄔陀夷(うだい)、かの童女の顔容姿媚(かんばせあでやか)なるを観(み)て、ついに染心(ぜんしん)を起こし、すなわちかの身(からだ)を摩触(なでさわ)り、その口を嗚唼(おしょう)す」、『四分律蔵』四九に、「時に比丘尼あり、白衣(びゃくえ)の家内にあって住み、かの夫主(あるじ)が婦と共に口を嗚(お)し、身体を捫摸(なでさわ)り、乳を捉(つか)み捺(お)すを見る」。『康煕字典』、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想うに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、訳経者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表わしたのだろ。これはさして本篇に係らぬが、近来の大発明ゆえ洩しおく。

 さてプリニウスいわく、諸烏のうち烏(コルニクス)ばかりが、その子飛び始めてのちしばらくこれを哺(やしな)う。鴉は子がやや長ずれば逼って飛び去らしむ、と。本邦の烏属中にも、やや長じた子を追うのと哺うのとありや。閑多き人の精査を冀う。『甲子夜話』二三に出た、平戸安満嶽の神鴉、常に雌雄一双にて年々子に跡を譲り去るとは、鴻(ラヴェン)の本種「わたりがらす」だろう。こんなことから反哺の孝など言い出したんだろ。『本草』に「烏、この烏初めて生まるるや、母これを哺(やしな)うこと六十日、長ずればすなわち反(かえ)し哺(やしな)うこと六十日、慈孝と謂うべし」、慈烏、孝烏の名これより出づ、とある。自分飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓(すねかじ)りをりをしおるのを反哺の孝とは大間違いだ。また思うに、和漢ともに産するコルヴス・パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顔の毛禿(は)げ落ちて灰白く、その痕遠く望みうる。それが子と同棲するを見て、子が親に反哺すと言い出したのか。

 そんな法螺話は西洋にもあって、Southey, op. cit., 4th ser., p.109に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ・グラントヴィルが筆した物を引いていわく、烏老いて羽毛禿げ落ち裸となれば、その子ら自分の羽もって他(かれ)を被い肉を集め来て哺う、云々、と。これは支那の『礼記』の句などを聞き伝えたのか、それよりは多分北アフリカの禿鵰(ヴァルチュール)の咄を聴いて、烏と同じく腐肉を食い、熱国で掃除の大功あるものゆえ烏と誤認したのであろう。Leo Africanus, Descrizione dell’  Africa in Ramusio, Navigationi e Viaggi, Venetia, 1588, tom. i, fol. 94Dに、禿鵰年老いて頭の羽毛落ち竭(つく)して剃ったごとし。巣にばかり寵りおるを、その子らこれを哺うと聞いた、と記す。記者は、グラントゲィルより百年以上後の人だが、禿鵰反哺の話は以前から行なわれたものだろう。予、熱地で禿鵰を多く見たるに、鷲・鷹の類ながら動作烏に似たこと多し。これにやや似たはSir Thomas Browne(十七世紀の人)の‘Pseudodoxia, bk. V, ch. ⅠやThomas Wrightの‘Popular Treatises on Science, 1841, pp. 115-156に、中世欧州の俗信に、鵜鶘(ペリカン)自分の胸を喙(つつ)き裂いて血を出し、その愛児に哺(くわ)す、と言った。注者ウィルキンいわく、これはこの鳥、頷(あご)の下なる大嗉嚢(おおのどぶくろ)に魚多く食い蓄え、子に哺さんとて嗉嚢を胸に押しっけて吐き出すを、みずから胸を破ると想うた誤説じゃ、と。

『類函』に、「『瑞応図』にいわく、烏は至孝の応なり、と。『異苑』にいわく、東陽の顔烏(がんう)は純孝をもって著聞す。のち群烏あって、鼓を銜えて顔のおるところの村に集まる。烏の口みな傷つく。一境(むらびと)おもえらく、顔は至孝なれば、ゆえに慈烏来たり萃(あつま)り、鼓を銜(くわ)うるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり、と。すなわち鼓の所において県を立て、名づけて烏傷となす。王莽(おうもう)、改めて烏孝となし、もってその行迹を彰(あらわ)すという」。世間の聾までも顔烏という者の孝行を聞き知るよう、烏輩が鼓を持って来て広告したのだ。イスラエルの伝説に、エリジャがアハブの難を遁るる途に、餓えた時、鴉これを哺(やしな)うたと言い、したがってキリスト教の俗人も鴉を敬する者あり(Hazlitt, Faiths and Folklore, 1905, vol. ii, p. 508)。烏が不意の取持で貧女が国王の后となった譚は、「貧女国王夫人となるの経」(『経律異相』二三)に出づ。グベルナチス(Gubernatis, Zoological Mythology, vol. ii, p.257)いわく、ドイツとスカンジナヴィァの俚謡に、烏が美女を救う話多く、いずれもその女の兄弟と呼ばれあり、また烏が身を殺してまでも人を助くる談多し、と。日本にも、出羽の有也無也(うやむや)の関に、むかし鬼出でて人を捉(と)る、烏鳴いて魔の有無を告げ、往来(ゆきき)の人を助けたという(『和漢三才図会』六五)。

 烏がよく慈によく孝に、また人を助くる譚、かくのごときものある上に、忠義譚も『仏本行集経』五二に出づ。善子と名づくる烏王の后が孕んで、梵徳王の食を得んと思う。一烏ために王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛び下ってその鼻を啄くと、驚いて食を地に翻(かや)す。烏取り持ち去って烏后に奉る。それから味をしめて、毎日官女の鼻を啄きに来たので、王、人をしてこれを捕えしめると、かの烏仔細を説き王大いに感じ入り、人臣たる著すべからこの猛健烏(たけきからす)が主のために食を求めて命を惜しまざるがごとくなるべしとて、以後常に来て食を取らしめた、という。Collin de Plancy, Dictionnaire infernal, p. 144に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦のうちどちらかが死ぬと、存(のこ)った方がある定期間独居して貞を守ったからだと見えるが、日本の烏には天も子もあるに姧通するのもあります。『日本霊異記』中に、信厳(しんごん)禅師出家の因縁は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養うために遠く食を覓(あさ)る間に、他の雄烏が来てその雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てて、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立ち退いた跡へ、雄烏還り来たり、その子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌になり、行基の弟子となって剃髪修行したのでござる、と説きおる。こんなに種々調べると、マーク・トウェーンが人間にはなるほど人情が大分あると皮肉った通り、人も烏も心性にあまり差異がなさそうだ。さればこそ、衆経撰『雑譬喩経』下には、烏が常に樹下の沙門の誦経を一心に聴いて、のち猟師に殺さるるも心乱れず天上に生まれた、と説かれた。

 コラン・ド・プランシー(上に引いた書、一四二二頁)は、古ギリシアの詩聖へシオドスの言を引いて、人の極寿は九十七歳なるに、烏は八百六十四歳、鴉はその三倍すなわち二千五百九十二歳生きる、と述べた。インドにも烏鴉を長寿としたは、『法華文句』に『文珠問経』を引いて八橋を八鳥に比せるに、「寿命憍(じゅみょうきょう)は烏のごとし。烏は命長くして死せず」。烏は死なぬ物と信じたのだ。『五雑俎』に、「旧説に、烏の性きわめて寿(いのちなが)し。三鹿死してのち、よく一松を倒す。三松死してのち、よく一烏を倒す。しかるに世にかえってこれを悪(にく)むは何ぞや」。『抱朴子』に、丹を牛肉に和(ま)ぜていまだ毛羽を生ぜぬ烏に呑ませると、成長して毛羽みな赤し、それを殺し陰乾(かげぼし)にし擣服(つきの)むこと百日すると五百歳の寿を得、と載せたのも、烏きわめて寿(いのちなが)しという俗伝から割り出したのじゃろ。スコットランドの古諺にも、「犬の命三つ合わせて馬の命、馬の命三つ合わせて人の命」、それから鹿、鷲、檞と三倍ずつで進み増す。これには烏はないが、東西ともに鹿を寿(いのちなが)いものとする証には立つ。また人が馬と鹿のあいだにあるも面白い(John Scoffern, Stray Leaves of Science and Folk-Lore, 1870, p. 462)。予は烏を畜(か)うたことないが、しばしば烏を銃(う)ったのを見ると、頭脳に丸(たま)が入っておっても半日や一日は生きおり、はなはだしきは吾輩が獲物の雉で例の強者(つわもの)の交りを始め、玉山傾倒に臨んで烏でもいいからモー一升などと見に行くと、苦労墨絵(くろうすみえ)のと酒落(しゃれ)て飛び去った跡で、せっかくの興も醒めたことが数回ある。何しろ非常に生力の強いものだから、ずいぶん長生きもさしゃんしょう。しかし八百歳の二千五百歳のなどは大法螺で、Gurney, On the Comparative Ages to which Birds Love, Ibis, 1899, p.19に、鳥類の命数を実査報告せるを見ると、天鵞(はくちょう)と鸚哥(いんこ)は八十歳以上、鴉と梟は八十に足らず、鷲と鷹は百年以上、駝鳥は体大きい割に夭(わかじに)で最高齢が五十歳、とある。とにかく寿命が短かからず、妙に死人のある処へ飛んで来るより、衆望帰仰する英雄が烏となって永存するという迷信もままある。英国の一部で、アーサ王鴉となって現在すと信じ(Cox, op. cit., p. 71)、ドイツの伝説、フレデリク・バルバロッサ帝の山陵上を烏が飛び廻るあいだは帝再び起きずと言い(Gubernatis, vol. ii, p. 235)、フィニステラの民は、その王グラロン、娘ダフット、ともに鴉に化(な)って現存す、と伝う(Collin de Plancy, p. 143)。

 支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は『准南子』に最(いと)古く筆せられたと、井上哲次郎博士が大正二年五月一日の『日本及日本人』で言われた。その本文は「日中に踆烏(しゅんう)あり。踆はなお蹲(そん)のごとし、三足の烏を謂う」だ。しかし、『楚辞』に「羿(げい)はいずくに日を※(い)たる、烏はいずくに羽を解(おと)せる」[ヤブチャン字注:※=弓+畢。]とあり、『准南子』に「堯の時、十の日並び出でて草木焦げ枯る。堯は羿に命じて十の日を仰ぎ射しむ。その九の烏みな死して羽翼を堕(お)とす」と出づるを見ると、三足はとにかく、烏が日に棲むという迷信は、漢代よりはずっと古くあって、戦国の時すでに記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言った通り[やぶちゃん注:南方熊楠「日月中の想像動物」。]、太陽に烏ありとは日中の黒点が似たからだが、その上に烏が定(き)まって暁を告げるからである。バッジいわく、古エジプト人の『幽冥経(ブック・オブ・ゼ・デッド』に、六、七の狗頭猴(チノケファルス)旭に対(むか)い手を挙げて呼ぶところを画けるは暁の精で、日が地平より上りおわれは化して狗頭猴となる、と付載した。けだし、アフリカの林中にこの猴(さる)日出前ごとに喧呼するを、暁の精が旭日を歓迎頌讃すると心得たるに由る、と。これすこぶる支那で烏を日精とするに似おる。予しばしば族を畜(か)うたのを観ると、日が暮れればたちまち身を屈め頭を垂れて眠りおわり、何度起こすもしばらくも覚めおらず、さて暁近く天が白むと歓び起きて大噪(さわ)ぎす。日吉(ひえ)の神が猴を使い物とするはこの由(わけ)であろう。

 猴と烏は仲悪いものらしく、『古今著聞集』に、文覚、清滝川の上で猴謀って烏を捕え、使い殺すを見たと載せ、Tavernier, Travels in India, trans. Ball, 1889, vol. ii, p. 294に、ベンガルで母に乳づかぬ子か三日続けて朝から晩まで樹間に露(さら)し、なお乳づかねばこれを鬼子(おにご)と倣(な)してガンジス河に擲げ入る。かく曝さるるあいだ烏来たって眼を啄き抜くこと多く、ためにこの地方に瞎(かため)また盲人(めくら)多し。しかるに、猴多き樹間に曝された児はこの難を免(のが)る。猴ははなはだ烏を悪み、その巣を見れば必ずこれを覆(かえ)して卵を破るゆえ、烏がその辺に巣くわぬからだ、と出づ。日吉(ひえ)と熊野と仲悪きに(『厳神妙』)、その使い物の猿と烏と仲悪きも面白い。ただし、『日吉山王利生記』に、烏も日吉の使いとあるは、例の日に縁あるからだろう。『塩尻』四「 伊勢矢野の神香良洲(からす)の御前は天照大神の妹と言うも、日と烏にちなんだのか。『古今図書集成』の辺裔典・巻二八に、「『朝鮮史略』にいわく、新羅の東海の浜に二人あり、夫は迎烏といい、妻は細烏という。迎烏は漂(ただよ)いて日本国の小島に至り主(あるじ)となる。その妻細烏はその夫を尋ね、漂いてその国に至り、立ちて妃となる。人、迎烏・細烏をもって日月の精となす」。また新羅の官制十七品の中に、大烏、小烏あり。何とか烏に関する名か知らぬ。古ペルシアから起こって一時大いに欧州に行なわれたミツラ教で、光の神ミツラみずから聖牛を牲する雕像に、旭日の伝令便として鴉を付した(‘Encyclopædia Britannica, vol. xvii, p. 623)。その像は予親(まのあた)り視たことあり。写(うつし)はSeyffert, A Dictionary of Classical Antiquities, trans., 1908, p. 396 に出づ。Frobenius, The Childhood of Man,1909, pp. 255-256に、鴉、死人の霊を負って太陽に送りつけるところを、西北米土人が刻んだ楽器の図あり。

 ツリンキート人は、最初火を持ち来たり、光を人に与えしは、烏と信ず(‘Encyc. Brit, ii, 51)。西南濠州諸部土人の伝説にも、烏初めて火を得て人に伝えた話が多い。例せば、ヤラ河北方の古伝に、カール・アク・アール・ウク女、独り火を出す法を知れど他(ひと)に伝えず。薯蕷(やまのいも)を掘る棒の端に火を保存す。烏これを取らんとし、その蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作って蟻垤(ありづか)の下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出づ。烏教えてかの棒で蛇を殺さしむ。すなわち蛇を打つと棒より火堕つるを、烏拾い去った。大神パンゼル、かの女を天に置き星となす。烏、火を得て吝みて人に与えず。黒人のために食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉をみずから取り食らう。大神大いに怒り、黒人を聚めて烏に麁(はげ)しく言(ものい)わしむ。烏嗔(いか)って黒人を焼亡せんとて、火を抛げ散らす。黒人おのおの火を得て去り、招 チェルト・チェルトとテラルの二人、乾草もて烏を囲み火をつけて焚き殺すとあって、この烏も星と化って天にあるらしい(Smyth, The Aborigines of Victoria, 1878, vol. ii, pp. 434, 459)。その他鷲と烏合戦物語など、西南濠州の神話に烏おおく参加せり。

 烏が火を伝うとは、日と火と日と烏が相係るによつたらしく、支那にも、武王紂を伐つ時、「孟津を渡る。火あり、天よりし、玉屋に止まり、赤烏となる」(『尚書中候』)、「熒惑(けいわく)は火の精にして朱烏を生む」(『抱朴子』)、「蜀の徼(さかい)に火鴉あり、よく火を銜(ふく)む」(『本草集解』)など、『類函』四二三に引きおり、中山白川、営中問答の講談を幼時聴きたるに、このことの起りは、白烏を朝廷へ献じたのを郊外に放つとたちまち火に化し、京師火災に及んだから、と言った。『酉陽始俎』に、「烏は陽物なり。陰気を感ずれば翅重し。ゆえに、俗これをもってその雨ふるや否やを占う」。『和漢三才図会』に「鴉鳴いて、還(もど)る声あれば、これを呼婦と謂い、晴を主(つかさど)る。還る声なければ、これを逐婦と謂い、雨を主る」という支那説を引き、またいわく「按ずるに、夏月に鴉浴すれば雨に近し。毎(つね)に試むるに然り。およそ雨ならんとすれば気鬱蒸す。ゆえに翅を浴するなり」。こんな訳にもよるか、濠州で烏初めて雨を下(おろ)したと信ずる土人あり(Smyth, ii, 462)。

 烏鴉ともに胆勇、智慧、敏捷、鳥中に傑出し、寿命も長く、また多少の間違いはあるにせよ、親子・夫妻・友儕(ともがら)間の愛情も非常に厚いというところより、慈孝・忠信の話もでき、ことに太陽に縁ある霊鳥と仰がるるより、あるいは神、あるいは神使として尊敬された。したがってこれを吉鳥とした例も少なからず。すでに上文に散見するが、なお一、二を挙ぐれば、沙漠を旅行するうち鳶や烏が見当たれば必ず村落が近いというから、これを吉相とするは必定だ。(Burton, Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah, in the York Library, vol. ii, p. 294)。『南史』に、「高昌国に朝烏あり。旦々(あさあさ)王の殿前に集まり、行列をなし、人を畏れず。日出でて、しかる後に散じ去る」。これはナポレオン三世が鷲を馴らして兵士の人気を自身に集めたごとく、烏が毎旦参朝するを王威の徴としたのだ。『類函』に、「海塩の南三里に烏夜村あり。晋の何準(かじゅん)のおりしところなり。一夕、群烏鳴き噪(さわ)ぎ、たまたま女(むすめ)を生めり。他日、後夜に啼く。すなわち穆帝が準の女を立てて后(きさき)となせし日なり」。烏啼きもこんなに吉(い)いのがあろうとは、お釈迦さんでも気がつくめー。また『唐書』にいわく、「柳仲郢(りゅうちゅうえい)、諫議を拝せしより後、官を遷(うつ)るごとに、群烏大いに昇平里の第(やしき)に集まり、云々、およそ五日にして散ず。詔下ればまた集まらず。家人もって候(しるし)となす。ただ天下の節度を除いて、烏また集まらず。ついに鎮に卒す」。官が昇る前ごとに集まった烏が来ないのが、死亡の前兆だったんじゃ。

『酉陽雑狙』に「邑(むら)中に終歳烏なければ冠あり。郡中にわかに烏なければ烏亡(うぼう)という」。婦女の不毛同様、あるべきものが具(そな)わらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事あるべき家に燕巣くわぬと信ずるに同じ。古ギリシア等で、鴉を予言者とせるも必ず凶事のみ告げたのでなく、むかしアイスランドでは鴉鳴きの通事あって吉凶を判じ、国政を鴉鳴きに諮(と)うた(Collin de Plancy, p. 143)。マコレーもその『セント・キルダ』誌に、鴉が歓呼して好天気を予告し中(あ)つるを称揚した。支那の『鴉経』(上出)も、鴉鳴きが凶事ばかりでなく、吉事をも告ぐるとしたのだ。『類函』二四三と二四四に『邵氏聞見録』を引き言う、邵康節の母、山を行き一黒猿を見、感じて嫉み、娩するに臨み烏庭に満ちければ人もって瑞とす、と。これは康節先生が色あまり黒かった言いわけに作り出した言らしいが、とにかく烏を瑞鳥とした例にはなる。また「王知遠の母、昼寝(い)ねて、鴉その身に集まるを夢み、よって娠(はら)むあり。宝誌(ほうし)いわく、子(おとこ)を生まば、当世の文士とならん、と」。鴉にちなんで文章に黒人(くろうと)という洒落かね。ブレタンでは、家ごとに二鴉番し人の生死を告ぐという(Collin de Plancy, p.143)。

 烏や鴉を凶鳥とするのも最(いと)古いことで、『五雑俎』九に、「『詩』にいわく、赤くして狐にあらざるはなく、黒くして烏にあらざるはなし、と。二物の不祥なるは、古えよりすでにこれを忌む」。『日本紀』神代下に、天椎彦横死の時、その父天国玉(あまのくにたま)諸鳥を役割して、八日八夜啼哭悲歌する。異伝に、「烏をもって宍人者(ししひと)となす」、『古事記』に「翠鳥(そに)を御食人(みけしびと)とし」とある。宣長いわく、御食人は殯(もがり)の間死者に供(むく)る饌(け)を執り行なう人なり、『書紀』に宍人者とある、これに当たれり、と(『古事記伝』一三)。翠鳥すなわち鴗(かわせみ)はよく魚を捕うるゆえ御食人としたという谷川士清の説より推すと、わが神代には烏もっぱら生肉を食い、弱い鳥獣を捕うるをもって著われたもので、その後ごとく腐肉、死屍を啖(くら)い田園を荒らすとて忌まれなんだんだろ。しかるに『書紀』神武巻に、「さらに頭八咫烏(やたのからす)を遣わしてこれ(兄磯城(えしき))を召す。時に烏その営(いおり)に到って鳴いていわく、天つ神の子、汝を召す、怡奘過(いざわ)、怡奘過(いざわ)、と。兄磯城これを忿(いか)っていわく、天圧神(あめおすかみ)の至ると聞いてわが慨憤(いきどおり)をなす時に、いかにぞ烏鳥(からす)のかくのごとく悪しく鳴く、と。すなわち弓を彎(ひ)いてこれを射る」。次に弟磯城(おとしき)方に往き、前同様に鳴くと、弟公(おとこう)容を改め、「臣、天圧神の至ると聞いて、旦夕(あしたゆうべ)に畏(お)じ懼(おそ)る。善(よ)きかな、烏、汝のかくのごとく鳴く」 と言って、これを饗し、随って帰順した、と見ゆ。さすれば、そのころはこちらの気の持ちよう次第、烏鳴きを吉とも凶ともしたのだ。しかるに、おいおい烏を忌む邦俗となったは、本来腐肉、死屍を啖う上に、村里、田園拡がるに伴(つ)れて烏の抄掠侵害も劇しくなったからであろう。腐肉、死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿鵰(ヴァルチュール)などを神とし尊んだ因もあるから、それだけならかく忌み嫌わるるはずがない。古ハドリアのヴェネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣わし、油と麦粉を煉り合わせて贈り、圃(はたけ)を荒らさぬよう懇願し、烏輩これを享け食えば吉相とした。(Cubernatis, vol. ii, p. 254)。わが邦でも、初めは腐屍や害虫を除き朝起きを奨(はげま)しくれる等の諸点から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌われだしたので、今日では欧米で烏鴉が跡を絶った地もある。本邦もご多分に洩れない始末となるだろうが、飛鳥尽きて良弓蔵まる気の毒の至りなり。

 仏説にも、夫長旅の留守宅に果て面白く鳴く烏に、その妻がわが夫無難に還るの日汝に金冠を与えんと誓うたところ、夫果たして息災に戻ったので、烏来たり金盃を眺めて好音(よいこえ)を出す。よって妻これを烏に与え、烏金盃を戴いて去る。鷹金盃を欲しさに烏の頭を裂いた。神これを見て偈(げ)を述ぶらく、すべからく無用の物を持つことなかれ、黄金烏頭に上って盗これを望む、と(F. A. von Schiefner, Tibetan Tales, trans. Ralton, 1906, p.355)。これインドでも烏を時として吉鳥としたのだ。しかし『経律異相』四四に『譬喩経』を引いて、「むかし、一のきわめて貧しき人あり、よく鳥語を解す。賈客のために賃担(ちんかつ)ぎをし、水辺を過ぎて飯(めし)くう。烏鳴いて賈客怖るるに、作人(さといど)反(かえ)って笑う。家に到って問うていわく、云々。答えていわく、烏さきにわれに語りぬ、賈人の身上によき白珠あり、汝これを殺して珠を取るべし、われはその肉を食らわんと欲す、と。このゆえにわれは笑いしのみ、と」とあれば、ずいぶん古くすでに人肉を食う鳥として烏鳴きを忌んだと知らる。今日もインドで烏を不祥とす。しかしてラバルの婦女にカカと名づくる例あり。梵語およびラバル語で烏の義なり(Balfour, The Cyclopaedia of India, vol. I, p. 843)とあるが、日本で妻をカカと呼ぶはこれと関係なし。かく不祥としながら、インド人は一向烏を殺さず放置するから、家辺に蕃殖することおびただしく、在留の洋人大いに困る(‘Encyclopædia Britannica, vol. vii, p. 513)。これはちょうどトルコで犬を罪業あるものが化(な)ったと信じながらも、これを愍んで蕃殖をほしいままにせしむると一般だ。『摩訶僧祇律』一六に、神に供えた食を、婦人が賢烏来たれと呼んで烏に施すことあり。パーシー輩が烏を殺さぬは、例の太陽に縁あり、また屍肉を片づけくれるからだろう。

 ペルシア人は、鴉二つ双(なら)ぶを見れば吉とす(Burton, The Book of the Thousand Night and a Night, ed. Smithers, 1894, vol. vi, p. 382, n.)。回教国とギリシア、キリスト教国には烏を不祥とし、カリラー・ワ・ジムナ一書には、これを罪業纏(まと)わり臭気穢(きたな)き鳥と呼べり(同書五巻八頁注)。アラブ人も鴉を朝起き最も早き鳥とし、グラブ・アル・バイン(別れの鴉)と言う。よって別離の兆として、和合、平安、幸福の印相たる鳩と反対とす。主として黒白色の差(ちが)いから想いついたらしく、俗伝にマホメット敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向かいガール・ガール(洞々(ほらほら))と鳴いたので、マホメットこれを恨み、以後常にガール・ガールと鳴いて自分の罪を白(あらわ)し、また尽未来際(じんみらいざい)黒い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたということでござる(同上三巻一七八頁注二)。古ギリシア神話にも、光の神アポロ、情をテッサリアの王女コローニスに通じ妊めるを、鴉して番せしむるうち、王女またイスクスの恋を叶えてその妻たらんと契ったので、鴉その由を光神に告げると、何さま、べた惚れ頸ったけな女の不実と聞いて騰(のぼ)せ揚げ、せっかく忠勤した鴻その時まで白かったのを永世黒くした(Grote, History of Greece, London, John Murray, 1869, vol. i, p. 174)。また女神パラス、その義兄ヘファイストスの子蛇形なるを養うに、三侍女をして決して開き見るなからしむ。しかるに、三女好奇のあまりひそかにこれを見て乱心して死す。鴉その由を告げたので、永くパラスに勘当されたという(Gubernatis, vol. ii, p. 254; Smith, Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology, 1846, vol. ii, p. 48)。

 かくどこでも評判が悪くなっても、アラビア人は今も鴉を占候の父(アブ・ザジル)と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton, vol. iii, p.178, n.)。プリニウスの『博物志』一〇巻一五章に、鴉の卵を屋根下に置くと、その家の女難産す、と載す。一六〇八年出板、ホールの『キャラクタース』に、迷信の人、隣屋に璃鳴くを聞けばただちに遺言をなす、とある由(Hazlitt, vol. ii,p. 508)。また古欧人は事始に鴉鳴きを聞くを大凶とした(Collin de Plancy, p. 144)。ブラウンの『プセウドドキシア』の注者ウィルキンいわく、鴉は齅覚非常に発達せるゆえ、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞き知り鳴き噪ぐ。実は死の前兆を示すでなくて、死につつある人あって、しかしてのち鳴くのじゃとはもっとも千万な論だ。

『爾雅』に「鳶烏は醜し、その飛ぶや翔(はばた)く。烏鵲は醜し、その掌(あし)を縮む」[やぶちゃん注:熊楠の誤読。「醜」は「儔」の通訓で「ともがら・たぐい」の意味。従って、ここは本来、「は醜し」とは訓読せず、「の醜(たぐい)」と訓読するため、生態学的な叙述であり、性悪を論じているわけではない。]。烏も一たび悪(にく)まれだすと、飛ぶ時に脚を腹下に縮めることまでも御意に入らぬのじゃ。『埤雅』に「今の人は烏の噪(さわ)ぐを聞けばすなわち唾す。烏は異を見ればすなわち噪ぐをもって、ゆえにその凶に唾するなり」。唾吐いて凶事を厭(まじな)うは欧州ことに盛んだ。『水滸伝』第六回、魯智深、大相国寺の菜園で破落戸(ごろつき)どもを集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、「衆人歯を扣(たた)くものあり、斉(ひと)しく道(い)う、赤口天に上り、白舌地に入る、と。智深道う、儞(なんじ)ら何故鳥乱をなすや、と。衆人道う、老鴉叫ぶ、怕(おそ)らくは口舌あらん、と」。宋・元のころは、かかる烏鳴きの禁法(まじない)もあったんじゃ。『風俗通』に、「『明帝起居注』を案ずるにいわく、帝、東して泰山を巡り、滎陽(けいよう)に至る。烏の飛んで乗輿(じょうよ)の上に鳴くあり。虎賁(こほん)中郎将の王吉、射てこれに中(あ)つ。辞をなしていわく、烏々啞々(ううああ)、弓を引き射て左腋を洞(つらぬ)く、陛下は万歳を寿(ことほ)ぎ、臣は二千石とならん、と。帝、銭二百万を賜い、亭壁にみな烏を画きなさしむ」。また烏のために人民大いに困った例は、『古今図書集成』辺裔典・巻一二に『朝鮮史略』を引いて、「高麗の忠烈王二十七年、云々。これに先だち朱悦の子印遠は慶尚の按廉となり、二十升の黄麻の布を貢す。また烏鵲(うじゃく)の芦を悪(にく)んで、人をして嚇(おど)すに弓矢をもってせしむ。一たびその声を聞けば、すなわち銀瓶(ぎんへい)(銭の名)を徴し、民はなはだこれに苦しむ」。Tavernier, Travels in India, vol. ii, p. 294に、シャムで娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てて犬や鴉に食わす、とあり。わが国また徳川氏の初世まで妓家の主人死すれば藁の韁(たづな)を口にくわえ、死んだ時著(き)たままの衣で町を引きずり野において烏、狗に餌(か)うた、と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの『平戸日記』に出づ(Astley, A New General Collection of Voyages and Travels, 1745, vol. I, p. 482)。妓主長者さえこうだから、賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、したがって彼輩烏を通じて熊野を尊び、それから熊野比丘尼が横行するに及んだのだろう。

 ついでに言う。牛黄を秘密法に用いること仏教に限らぬ。摩利支天(まりしてん)はもと梵教の神で、唐朝にわが邦へ伝えた『両界曼陀羅』には見えぬ。趙宋の朝に訳された『仏説大摩里支菩薩経』に、牛黄をもって真言を書くとあるなど、明らかに梵教から出た作法だ。馬鳴(めみょう)大士の『大荘厳経論』一〇に、牛黄を額に塗ってわれ吉相をなすという者に仏僧が問うと、吉相はよく死すべき者を死なざらしめ、鞭繋(うちくく)らるべき者を解脱せしむ、この牛黄は牛の心肺の間より出づ、と答う。僧いわく、牛自身に牛黄を持ちながら耕稼の苦を救うあたわず、何ぞよく汝をして吉ならしめんや、と。またそれよりずっと前にできた『根本説一切有部毘奈耶雑事』一に、諸婆羅門(ばらもん)、額に白土や白灰を点画することあり。また「六衆(六人の悪僧、毎度釈尊に叱らるる者)、城に入って食を乞う。諸婆羅門を見るに、牛黄をもって額に点ず。その乞い求むるところは、多く美味を獲(う)」、六衆これを真似して、仏に越法罪を科(おお)せらる、とあり。密教に牛黄を眉間に点ずるは梵教から移れるので、もと仏教徒の所作でなかったのじゃ。牛黄、梵名ゴロチヤナ、支那のみならずインドでも薬用する(Balfour, vol. ii, p. 547)。諸派のヒンズー教徒が今も額に祀神の印相を点画する様子一斑はDubois, Hindu Manners, Customs and Ceremonies, ch. ixについて見るべし。

 結論 というと大層だが、こんなに長く書いては何とか締りを付けざならぬ。本篇牛王のことをちょっと書くつもりで、烏のことがもってのほか長くなった。上述の外に、烏に関する俗信、古語ははなはだ多く、それはそれは山烏の頭が白くなるまでかかっても書きつくされぬから、よい加減にこれで果(はて)として結論めきたものを短く口上といたそう。文献乏しき世のことが永くあとへ伝わらぬは、北米のインジアン、インドのトダ人、南洋やアフリカにその例すこぶる多きは先輩の定論あり。しかしながら、いかな未開の民とてもすでに人間たる上は、多少の信念も習慣、風俗もあったに相違ないから、後日おいおい他方から種々と文化を輸入しても、固有の習慣、信念全くは滅びず、いくぶんか残り留まる。かかる事物を総称してフォークロール(俚俗)、これを研覈(けんかく)する学をもフォークロール(俚俗学)という。旧俗の一朝にして亡びがたきは、旧暦の正月祝いや盆踊がいかに禁制しても跡を絶たず、ややもすれば再興せらるるで知れる。

 されば、熊野烏の尊ばれたなども、これに関して外国と異なることども多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗あって、そのことあるいは外国に類例あり、あるいはこれがなかった。しかるところへ、外国から牛王の崇拝入り来たったので、本来烏を引いて誓言すると、新来牛王を援(ひ)いて盟証するとちょうど似たところから、烏像を点じて牛王宝印とし、牛王といえば烏の画札と解するまで因習流行したことと惟う。さて偶然の符合ながら、インドで烏と牛と親愛する事実話なども大いにこの融通を助成しただろう。その牛王というは、インドに牛を裁判の標識とし、したがって誓言の証拠に立つることあり。また大自在天や大威徳明王ごとき強勢な神も、閻魔王ごとき冥罰を宰(つかさど)る神も、みな牛を使い物とするところから、本邦に仏法入ってより、牛を誓言や冥罰の神としたので、『曽我物語』に「牛王の渡ると見えて」とあるも、祈禱が聴かれた標(しるし)に祭神の裁可通り法を執行し来る神を指したもので、まずは牛頭馬頭が人の死にぎわに火の車もて迎いに来るようなことと思う。(大正五年三月『郷土研究』三巻一二号)

【追記】

ー、牛王について。牛黄(ごおう)を確かに牛王と書いた例は、『川角太閤記』巻四、「慶長元年遊撃(遊撃将軍沈惟敬)参る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かいあまり、長さ二間、間中(まんなか)高さ三寸、廻り一尺の香箱に入れ申し候。八畳釣りの蚊帳、ただし、色は蝉の羽毛(蝉とはカワセミなるべし)、薬種、竜脳、麝香、人参、牛王の由、以上七色、その外巻物、綾、羅、錦紗の類なり、云々」とある。このついでに申す。インドの烏が水牛のために牛虱を除く由を述べたが、十八世紀の英人ギルバート・ホワイトの『セルボーン博物志』にも、「白種、灰色種の鶺鴒(せきれい)が牛の腹や鼻辺から脚辺に走り廻り、牛にとまる蠅を食う。また足下に踏み殺された虫をも食うならん。造化経済の妙、すなわちかかる不近縁の二物をしてよく相利用せしむ」とある。わが邦の鶺鴒にも、またかくのごとき行為ありや否。(大正五年四月『郷土研究』四巻一号)

 

二、『曽我物語』から、病気を人に移す修法成就の際、牛王という神が渡ると同時に供物がおのずから動き出す一条を引いた。頃日、『義経記』巻五「吉野法師、判官を追っ掛け奉ること」を読むと、義経、衆徒を追い却けて後、餅を取り出だして従者に頒つに、「弁慶を召してこれ一つずつと仰せければ、直垂の袖の上に置きてゆずりばを折りて敷き、一つをば一乗の仏に奉る、一つをば菩提の仏に奉る、一つをば道の神に奉る、一つをばさんじんごおうにとて置きたりけり」。これは山神牛王で、牛王という特種の神が中古崇敬せられた今一つの証拠と見える。あるいはごおうは護法の仮名を誤写したのかとも惟うが、『曽我物語』 に牛王と書き、インドで牛を神視することすでに述べたごとくだから、たぶんはやはり牛王であろう。

 また烏で占う例を種々挙げたが、多くはその鳴き声によるもので、その坐位を察(み)て卜うのはJ. Theodre Bent, The Cyclades, 1885, p. 394に一つ見える。いわく、ギリシアのアンチパロス島は史書載することなく、ただ海賊の巣栖(すみか)なりし。また、只今もろくな者棲まず。パロス島人、この島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前はもっとも迷信深く、主として烏を相(み)て占えり。例せば、烏が樹に止まるに、北側ならばよろず無事だが、南側ならば海賊海峡に入れる徴と断じ、忙ぎ走って邑の諸門を閉じた、と。熊楠謂(おも)うに、烏は眼至って明らかに、かつ注意深いものゆえ、自然海賊の来るのを怪しんでその方を守り坐るのだろう。したがって、この占いなどを単に迷信と笑うてのみ過ごすべきでない。

 地獄で烏が罪人を食うという仏説を挙げたが、現世に烏に人を食わせたキリスト教国の例もある。十三世紀に、クーロンジュの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾(し)き折り、さて余喘(よぜん)あるまま烏に与えてますます苦しんで死せしめた(Henri Estienne, Apologie pour Hérodote, ed. tom. i, p. 65 )。次に、比丘尼等賤妓と烏の関係をちょっと述べたが、延宝四年板『談林十百韻』第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに帰る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴くなり、一朝」、「終(つひ)はこれ死尸(しかばね)さらす衆道ごと、志計」。売色比丘尼や男色の徒が烏を画(えが)いた牛王で誓うを詠(よ)んだものたることもちろんだが、当初熊野比丘尼が牛王を売りあるいたにちなんだ作意でもあろう。西鶴の『好色二代女』に、大阪川口の碇泊船を宛て込んで婬を鬻(ひさ)いだ歌比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短く、とりなり一つに拵(こしら)え、文台に入れしは、熊野の牛王、酢貝(すがい)、耳姦(みみかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしゃく)」と言えるがその証拠だ。(大正五年十月『郷土研究』四巻七号)