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鬼火へ

[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作の著述年代も、明治四四(1911)年頃、京都府立第一中学校時代の『強盗』『銅貨』『アルカロイド』『青色癈園』『新生』などという自作の回覧雑誌に発表されているもの、という編者による底本の年譜の漠然とした記載があるばかりである。その年譜の叙述から判断すると、明治四四(1911)年、槐多16歳(数え年)から20歳になる大正四(1915)年十月の「武侠世界」に「魔猿傳」を入稿するまでの間と言うことは出来るようである。]

 

孔雀の涙   村山槐多

 

 澄子さんの父君は横濱の貴金屬商人で、一生のうちに澤山の資産をのこして、あの世へ行つてしまはれました。それが丁度澄子さんの四つと二月ばかりになつた年で御座いましたから澄子さんは父君をすこしもおぼえて居りません。この事がこの少女のただ一つの悲哀でした。

 澄子さんたちは、それから母君の手で大きくなりました。澄子さんは、一番末つ子で上にはずつと年の違つた兄さま達が澤山ありました。兄弟の中でたつた一人の女の子だつたので兄さま達はそれはそれは可愛がつて下さいました。けれども、兄さま達は、順々に皆ヨーロツパへ行つてしまはれましたから澄子さんが女學校へ上る時分には、母君とたつた二人きりになつてしまひました。「父樣(とうさま)が居らしつたらばどんなに善いだらう」と思ふ心がさらにつのる程それはほんとに淋しい暮しでした。

 横濱のお店(たな)は父君の死去と共によして皆は東京の邸に移りましたが、澤山の金や、銀や、寶玉の一部はやはり東京の邸に傳へられました。だから澄子さんは、世の人のうらやむ樣なそれらの物を、小さくから見飽きて居て、どんなに立派な物を見ても珍らしいと思ひませんでした。

 

   二

 

 十五になつた澄子さんは毎日女學校へ通つて居りました。ある日曜日は曇つた寒いお天氣で空へ顏を向けるのも厭な樣な日だつたので、朝からお居間にこもつて繪本なぞを繰つて居ました。すると女中が來て「奧樣がお召しで御座いますよ」と申しました。

 澄子さんは、丁度退屈して居たところだつたので、すぐ母君のお室へ飛んで行きました。

 母君は澄子さんの顏を見ると、にこにこしておつしやいました。

「澄さん、私はすつかり忘れて居ましたよ。澄さんに善い物を上げませう。今お藏へ行つてひよつくり目つけて來たの。ほら御らん。」

 母君は古びた黒いビロードの小箱の蓋を開いて前へお出しになりました。手にとつて見るとその中からさんらんとした輝きが澄子さんの眼を射りました。それは芥子粒(けしつぶ)の樣に小さい薄紫の寶石でありました。

「純粹ではないけれど是はダイヤモンドなんですよ。こんな風な紫色を帶びて居るのはまるで珍らしいのだとさ。是はなくなつた父樣がケープタウンで買つてらしつたので、可愛いい石ぢやあないか、澄子の手にでも付けてやりたい樣だ、とおつしやつて、その時まだ赤さんだつたお前の手の上にかざして御らんなすつたの。そしてもうすこし大きくなつたら是非澄子の指輪にしてこしらへようと言つて、わざわざしまつて置いて下すつたのです。どうだね。善い色でせう。」

 澄子さんは眼をよせてじつと見ました。ふと不思議な感動が心につたはり始めました。何と云ふ美しい玉でせう。形は芥子粒程でありながら、宵の明星よりも強く輝いて居るのです。活物の樣にまたゝくのです。そして、まばゆいと云ふよりは清く涼しいのです。その薄紫の色は得も言はれず優しい感じがしてまるで勿忘草(わすれなぐさ)が光り物にかはつた樣に見えるのです。美しい父の形見!![やぶちゃん注:連立の半角エクスクラメンション・マークで一字分。]

 澄子さんは是までどんなに澤山の寶石を見た事でせう。一つで百萬圓もしようといふ貴いダイアモンドを見た事もありました。寶石が百幾つついて居る首飾りを戲れに身へ卷きつけた事もありました。が是ほどにあやしい感動を受けた事は一度もありませんでした。まるで親しい友に、大海のまん中でめぐり會つた樣な心地がして胸さわぎさへ傳はるのです。

「母樣(かあさま)、母樣ほんとに是を妾に頂けて?」と澄子は叫びました。

「ああ善いともさ。早速指輪にこさへさせませう。」

母君は澄子さんの手をとつて、

「こんなに大きくなつた手を一目父樣に見せて上げたかつたよ。」と言つてじつと御覽になる内にはや一滴の涙がその眼につたはるのでした。

 

   三

 

 次の日曜日にはそのダイアモンドのはまつた美しいプラチナの指輪が細工人の方から出來上つて參りました。澄子さんは、早速それをはめて見ました。嬉しくて耐りません。一日默つて指の上を見つめて居りました。見れども見れども、不思議な美しい光が澄子さんの眼の中へ強い、盡きぬ思ひを投げずには居ませんでした。澄子さんは女中たちにも見せてやりました。けれども他の人たちは餘り善いと思はない樣子をします。

「この玉の美しさは妾ひとりにだけわかるのだ。」と澄子さんはただ獨り小さいダイアモンドと睨めつくらをして居りました。

 ずつと眼にくつつけると、その光は花咲き亂れた廣い、ひろい樂園の上にひろがり輝く、澄み切つた大空を思はせました。離して見ると、千里もはるか先から、美しい女神が唄で澄子さんに心のうちを打明けて居る樣な心地が致しました。何かしら、うららかに廣廣した浮世はなれた心地がするのです。そして長く見つめて居ると、しまひには不思議なかなしさが心をさそつて、涙さへこぼれて來るのでした。そしてこれを呉れた父戀しさが胸をおしつけました。

「澄さんはダイアにとりつかれてしまつたの」と母君が戲談(じやうだん)をおつしやいました。餘り夢中になつてしまつたものですから。

「きつと夫の心があの玉に殘つて居るのだ。」母君は、そつとあとでさうお思ひなさいました。

 

   四

 

 その日から澄子さんは、學校から戻るとすぐその指輪をはめて寢るまでぼんやりと瞳をこらして見入つて居りました。寢る時も枕元に其の箱を置きました。小さな薄紫の光は暗の中でも麗はしいきらめきを續けました。

 ある夜のあけ方の事で御座います。澄子さんは夢をみました。

 澄子さんが廣い廣い野の眞中に獨りぼつちで立つて居りました。そしてさびしくて泣き出したい樣な氣持が致しました。ふと空を見上げると空は黒く曇つて居ます。其の空の一方からあやしい光が漸々と下界へ近づいて參ります。やがて其の光が花火の樣に五色の微塵になつて散りますと、中から立派な人の顏が現はれました。

「ああ、父樣だ。父樣、父樣」と澄子さんは思はず叫びました。それは澄子さんの室に掛かつて居る父君の古い肖像畫と同じ顏でしたから。

「澄子かい」とその顏がにつこり笑つて言ひました。

「はい。父樣」と澄子さんは二三歩前へかけよりました。すると父君の顏がずつとはつきりしてそのお髭が一本々々見える程になりました。そして、

「澄子、お前はなぜそんな所に立つて居るの、早くおかへり、お庭の孔雀がさびしがつてまつて居るよ。」

とおつしやると、そのまま消えてなくなりました。

「あつ」と澄子さんは叫ぶと眼がさめました。もう夜が明けかかつて居ると見えて、薄明りがほんのりと澄子さんの寢室に忍び入つて居ります。

澄子さんは立ち上つて寢衣(ねまき)のまま急いで廊下へ出て庭園の下り口の方へかけて行きました。澄子さんのお邸にはほんたうに眞白な孔雀が飼つてあるのです。

 硝子戸を開けて庭園へ下りるとまだすつかり明け切らない曉の空が薄青く照りかへして、木月も、泉水の水も幽靈の樣にぼんやりして居ります。孔雀の檻のある所まで行く間に、澄子さんは露を浴びてすつかり濡れました。孔雀は大理石で出來た温室の中に這入つて居ります。澄子さんが温室の中へ下つて網の間から覗きますと、孔雀はそのやせた典雅な首をすつとこちらへ延ばしました。そしてかなしさうな眼を上げて見上げました。まあどうでせう。孔雀は今しがた泣いて居たと見えてその眼には一滴の涙が浮き上つて居りました。その涙の色は得も言はれず美しい薄紫でした。澄子さんのダイアモンドの色とそつくりでした。澄子さんは何とも言はれないかなしい氣持になつてそこに立ちすくみました。

 それから澄子さんは母君に頂いたあの美しい父君の形見に「孔雀の涙」と申す名をつけました。そして死ぬまで肌身をはなすまいと深く深く心に思ひました。「孔雀の涙」はいつまでも白い指の上で、薄紫の光に濡れて居る事でせう。