やぶちゃんの電子テクスト集:小說・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


小泉八雲の家庭生活   萩原朔太郞

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年九・十月号『日本女性』に所載された。底本は昭和五二(一九七七)年刊行の筑摩書房版全集第十一巻を用いた。一箇所だけ私が辞書を引いた「ハイマート」とは、ドイツ語“Heimat”で「故鄕」の意。本電子テキストは私のブログ・アクセス四六〇〇〇〇突破記念として公開した【二〇一三年五月一日 私と妻の二十三回目の結婚記念日に:藪野直史】。【二〇二二年五月二十五日補正・追記】二〇二一年五月二十七日に「青空文庫」で本篇の新字新仮名版が公開されたのであるが、私がブログ・カテゴリ「小泉八雲」に於いて、八雲の来日以降の刊行著作物の翻訳本の全電子化注を終えた前後より、小生がネット記事とツイッターで知遇を得た小泉八雲の玄孫であられるアイルランド在住の守谷天由子あゆこさんが、「青空文庫」版のそれを読まれ、萩原朔太郎のリサーチが不全で、基本的な部分で重大な誤りがあることを、彼女がツイッターの記事で指摘されておられたのを拝見し、彼女に連絡をとり、その誤りをここで是非とも訂したいと申し出たところ、快諾頂いたので、それを注で挿入した。また、再度、本文を校閲し、正字化不全や私の誤字等を訂した。]

  
小泉八雲の家庭生活
        
室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ

 萬葉集にある浦島の長歌を愛詞し、日夜低吟しながら逍遙して居たといふ小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であつた。希臘ギリシヤイオニア列島の一つである地中海の一孤島に生れ、愛蘭土アイルランドで育ち、佛蘭西フランスに遊び米國に渡つて職を求め、西印度に巡遊し、遂に極東の日本に漂泊して、その數奇な一生を終つたヘルンは、魂のイデーする桃源鄕の夢を求めて、世界を當なくさまよひ步いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であつた。
[やぶちゃん注:天由子さんより、『間違いではないですが、小泉八雲はフランスとアメリカの間に、イングランドにも何年かいて、当時のアイルランドとレフカダは英国領である(つまりイギリス人)ことも付け加えても良いかと思いました』との附言を頂いたので、ここに注することとした。今でも、彼を不用意に、その生地から、ギリシャ人と考えている人が実際に多い。]
 しかしこの悲しい宿命者も、流石に日本に渡つてからは、多少の平和と幸福を經驗した。日本は後年の彼にとつて、最初の幻惑した印象の如く、理想の桃源鄕やフエアリイランドではなかつた――後年彼は友人に手紙を送り、此所もまた我が住むべき里に非ずと言つて嘆息した――けれども、貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛兒を生み、平和で樂しい家庭生活をするやうになつてから、寂しいながらも滿足な晩年を經驗した。ヘルン自ら、絕えずそれを羞恥した如く、彼のやうに短身矮軀で、且つ不具に近い近眼の隻眼者で、その上に氣むづかし屋の社交下手であつたことから、至るところ西洋の女性に嫌はれ通して居た男が、日本に來て初めて人竝の身長者となり、人竝以上の美人を妻とし且つその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であつたらう。彼の妻(小泉節子夫人)が、その舊日本的な美德によつて、いかに貞淑に良人に仕へ、いかによく彼を愛し理解してゐたかといふことは、後年彼が多少日本に幻滅して、在外の友人に日本の惡評を書いた時さへ、日本の女性に對してだけは、一貫して絕讚の言葉を惜まなかつたことによつても、またその多くの『怪談』に出て來る日本の女性が、丁度彼の妻を聯想させる如き貞婦であり、舊日本的なる婦道の美德や、さうした女に特有の淑やかさいぢらしさ、愛らしさを完備した女性であることによつても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエツセイ『ある女の日記』も、校本に據るところがあるとは言ひながら、實はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言はれて居る。幼にして母を失ひ、他人の家に養はれ、貧困の中に育ち、飢餓と冷遇を忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の慘たる辛苦を嘗めつくして、しかも常に魂の充たされない孤獨に寂しんでゐたヘルンにとつて、日本は遂にそのハイマートでなかつたにしろ、すくなくともその妻に抱擁された家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一の樂しい安住の故鄕であつた。おそらくヘルンはその時初めて心の隅に、幸福といふ物の侘しい實體を見たのであらう。
[やぶちゃん注:萩原朔太郎は、この前後で、あたかも彼は幼少期を通じて貧乏であったかのように記しているが、これは大変な誤りで、天由子さんによれば、貧乏になったのは後見人となった大叔母のサラさんが破產をした後のことである。また、「三人の愛兒を生み」とあるが、四人の誤りである。]
 すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環境的の不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかつた心の飢餓を、他の何物にも增して熱情するため、後に彼が一家の主人となつた場合、その妻子の忠實な保護者となり、家庭を樂園化することに熱心である。ラフカヂオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかつた。彼が日本に歸化したことも、普通の常識が思惟するやうに、日本を眞に愛したからではなかつた。その頃の彼は、日本をもはや『夢の園』としては見て居なかつた。そして『西洋の國々と同じく、此所にもやはり醜い生存競爭があり、常々不義や奸計が行はれて居る』と、地上の現實社會である日本を見て居る。詩人がその空想の中で畫くやうな、フアンタスチツクな夢の圖は、現實の地球上にある筈がない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の園を、生涯夢見續けることの熱情にある。初めからボヘミアンであつたヘルンは、晩年に於ても尙ボヘミアンであり、永遠に故鄕を持たない浦島だつた。もし彼に妻子がなかつたら、日本に幻滅した最初の日に、再度又『まだ知らぬ新しい國』を探すために、あてのない漂泊の旅に出發したにちがひなかつた。だがその時、彼はその妻や子供のことを考へた。既に老ひの近づいたヘルンは、自分の死後に於ける妻子の地位を考へた。そして國籍を持たない家族が、財產上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考へた。しかもその妻の如き、純日本的な可憐な女を、彼の所謂『野蠻人』である西洋人の社會に、孤獨で生活させることの痛ましさは、想像だけでも耐へがたい殘忍事だつた。だが彼が歸化を決心し、日本の土となることを覺悟した時、言ひ知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうづつき迫るのを感じたであらう。それが日本人の抒情的な言葉で、あきらめヽヽヽヽと呼ばれるものであることさへ、おそらくヘルンは知つたであらう。
 東京帝國大擧の招聘に應じて、松江や熊本の地を去つたことも、同じくヘルンの身にとつては、愛する妻への獻身的な犧牲だつた。上陸當初の日に一瞥して嘔吐を催し、現代日本の醜惡面を代表する都會と罵り、世界のどんな汚い俗惡の都市より、もつと殺風景で非藝術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であつた。しかも彼の夫人にとつて――世の多くの若い女性と同じく――東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であつた。『わたし、フロツクコート着る。東京に住む。皆あなたの爲です』と、流石にヘルンも夫人に愚痴をこぼして居る。夫人もよくその良人の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私や子供のために盡してくれた犧牲でした。勿體ない程ありがたいことでした』と、その追懷談の中で沁々と語つて居る。
 彼がいかにその妻を熱愛して居たかは、燒津の旅先から、留守居の妻に送つた手紙によく現はれてゐる。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げであるので、底本通りの位置で、改行を加えて再現した。]

   小サイ可愛イママサマ。
   ヨク來タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、今朝參リマシタ。口デ言へナイ程喜ビマシタ。
   ママサマ、少ノシモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ夜ノ海ニ行キマセ
  ン。乙吉オトキチ新美シンミノ二人ガ、子供ヲ大事ニ氣ヲ附ケマス。一雌カズヲハ深イ所デ泳イデモ危イコトハアリマセン。
  此ノ夏ハクラゲヲ大變恐レマス。然シヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。
 アノ成田樣ノオ護符マモリノコトヲ思フ。アノイハレハ可愛ラシイモノデス。
  私少シ淋シイ。今アナタノ顏ヲ見ナイノハ。未ダデスカ。見タイモノデス。
  蚤ガ群ツテ集マルノデ眠ルノハ少シムツカシイ。然シ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。
  今年私ハ、小サイタラヒノオ風呂ニ二三日每ニ入リマス。
     燒津 八月十七日
  パパカラ
   可愛イ子ニ、ソレカラ皆ノ人ニヨロシク。
                                      小泉八雲

  小サイ可愛イママサマ。
  今朝成田樣ノオマモリガ參リマシタ。パパハ乙吉オトキチニヤリマシタ。スルト大變喜ビマシタ。
(中略)
  ママニ願フ。自分ノ身體ヲ可愛ガルヤウニ。今アナタ忙ガシイデセウネ。大工ヤ壁屋ヤ澤山ノ仕事デ。
 デスカラ身體ヲ大事ニスルヤウニクレグレモ願ヒマス。
  私今日ハ忙ガシカツタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。然シモウ皆スマセマシタ。
  イハホ一雄カズヲ、丈夫デ可愛ラシイ。海デ澤山遊ビ黑クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強
 每日シマス。
  サヨナラ、可愛イママサマ。
  オババサンニ可愛イ言葉。
  子供ニ接吻。
    燒津 八月十八日
                                      小泉八雲

 この情緖纏綿たる手紙は、新婚當時の手紙ではない。結婚十數年、ヘルン既に五十歲を過ぎ、二人の男兒と一人の女兒の親となつてる晩年の手紙である。妻を愛稱して『小サイ可愛イママサマ』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子煩惱であつたかが解る。彼はいつも手紙の終りに『オババサマニヨロシク』とか『オババサマニ可愛イ言葉』とか書いて居る。オババサマとは彼の妻の母であつて、名義上、小泉家の養子たる彼にとつては、姑の義母に當る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を盡した。この姑の婦人もまた、舊武士の家庭に育つた士族の娘で、純日本風の禮儀正しき敎育を受け、且つ極めて善良に優しい心根の人であつた。ヘルンの文學に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非ずば姑の老婦人だといはれてるが、すくなくともヘルンは、この點での好運にめぐまれて居た。なぜなら日本に於ても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一般に澤山は居ないからである。それ故或る人々は、ヘルンがもし惡妻をめとり、意地惡の姑等と同居したら、彼の神國日本觀は、おそら顚倒した結果になつたらうと言つてゐる。
 ヘルンの生活樣式は、全く純日本風であつた。彼はいつも和服――特に浴衣を好んだ――を着、疊の上に正坐し、日本の煙管で刻煙草を詰めて吸つてた。食事も米の飯に味噌汁、野菜の漬物や煮魚を食ひ、夜は二三合の日本酒を晩酌にたしなんだ。(しかし朝はウヰスキイを用ゐ、ビフテキも好んで食つた。)住居は度々變つたが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌つた。日本人の知人を訪問しても、洋風の應接間などに通されると、歸つてからも甚だ不機嫌であつた。當時の日本は、文明開化の歐米心醉時代であつたので、至るところ、彼はさうした不機嫌の目に逢はされた。日本人は立派な文明を持つて居ながら好んで野蠻人の眞似をしたがると、彼は常に不滿を述べてゐた。『野蠻人』といふ言葉は、彼の語藻に於て『西洋人』と同字義であつた。
 さうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであつた。彼は學生に向つても、常に奢侈を戒めて質素を說き、生活を簡易化することの利得を說いた。贅澤な暮しをするほど、生活が煩瑣に複雜化して來て、仕事に專念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさへあれば、それで私の生活は充分であると、その訪問客に語つてゐるヘルンは、實際に學者風の簡易生活をしてゐたのである。
 しかし彼の精神生活は、反對に極めてデリケートで贅澤だつた。いやしくもその詩興を損ひ、趣味を害するやうなものは――人でも、家具でも、物音でも――絕對にその家庭に入れなかつた。書齋に仕事をしてゐる時のヘルンは、周圍のちよつとした物音にも、すぐ『私の考へ破れました』といつて、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、簞笥の抽出を開けるにさへも、そツと音を立てぬやうに氣をつけたと書いてゐる。しかしその他の場合では、罪のない笑談を言つたりして、妻や子供の家族を笑はせ、女中までも仲間に入れて、一家團欒の空氣を作つた。
 どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同伴した。唯一の例外は、二兒を連れて燒津へ行つた時だけだつた。(その時末の女の兒が生れたばかりで、母の手を離れることが出來なかつたから。)さうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によつてする如き、單なる形式的のものではなかつた。『私少シ淋シイ。今アナタノ顏見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』といふ燒津の手紙でも解るやうに、妻と同伴することなしには、どんな旅行も樂しくないほど、夫人を熱愛して居たからだつた。まだ子供が出來ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道の邊鄙な島々を旅し步いた。それは本土との交通が殆んどなく、少數の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭に住んでるやうな、暗く荒寥とした島嶼であつた。人跡絕えた山道には、人力車の通ふ術もなかつたので、二人の若い男女は、互に助け合ひながら、蔦葛つたかづらの這ふ細道を、幾時間となくさまよひ步いた。そして氣味わるく物凄い顏をした、雲助のやうな男たちに脅やかされたり、黑塚の一軒家のやうな家に泊つて、白髮の恐ろしい老婆に睨まれたりした。夫人はその時のことを追想して、草双紙で讀んだ昔物語を、そつくり現實に經驗した樣だつたと言つてる。新婚まもなく若い稚氣のぬけなかつた夫人は、恐らく恐怖にふるへながらも、人生の最も樂しく忘れ得ない夢を經驗したのだ。
 ヘルンは常に散步を好み、學校の歸途などには、未だ知らない町の隅々を徘徊したが、新しい興味の對象を見出す每に、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます』と言つて、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい靜閑の所であり、寺院の墓地や、邸の空庭や、小高い見晴らしの丘などであつた。つまり一口にいへば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈を感じて『詰まンないの』と云ふやうな場所であつた。しかし琴、生花、茶道によつて敎育され、和歌や昔物語によつて、物のあはれの風雅を知つてた彼の妻は、良人と共に、その樂しみを別ち味はふことができた。しかし或る時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周圍は一面の稻田であつた。何の見る物もなく風情もないので、夫人が怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お聽きなさい。なんぼ樂しいの歌でせう』と言つた。あたり一面、稻田の中で蛙が雨のやうに鳴いて居たのである。
 松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかつた。或る時は下宿をしたり、或る時は間借りをしたり、或る時は借家をしたりして、常に住居を轉々として居た。しかし東京へ移つてから、子供が大ぜい生れたりして、家内やうちが狹くなつた上に、貯財も少し出來て來たので、夫人のすすめで賣家を一軒買ふことにした。或る日二人は、例によつて睦じく連れそひながら、牛込邊の賣邸を探しに步いた。すると一軒頃合の家が見つかつた。それは昔の旗本が住んでた屋敷で、大きな武家風の門があり、庭には蓮池などがあつた。しかし何となく陰氣に薄暗くじめじめして、妙に氣味の惡い厭な感じがしたので、夫人が直覺的に反對したにもかかはらず、ヘルンは一見して大いに氣に入り、『面白いの家』『面白いの家』と、子供のやうに嬉しがつて、是非それを買はうと言つた。結局それは、夫人の強硬な反對によつて中止されたが、後でそれが有名な化物屋敷と解つた時、夫人がほツと胸を撫でおろしたとは反對に、ヘルンは大變失望して、『ですから何故、あの家住ませんでしたか。私あの家、面白いの家と思ひました』と幾度も繰返して口惜しがつた。
 ヘルンについての一不思議は、あれほど廣く多方面の文學に亙つて、日本人以上に日本のことを知つて居ながら、日本語を殆んど知らなかつたといふことである。彼の知つてた日本文字は、片假名のイロハと僅少の漢字にすぎず、彼の語る日本語は、燒津からの手紙にある通り、不思議な文法によつて獨創された、子供の片言のやうな日本語である。後に買つた大久保の家に、書齋を新しく建て増しする時、一切の設計や事務を妻に一任して、自分は全く無頓着で居たが、それでも妻が時々相談を持ちかけると、『もう、あの家よろしいの時、あなた言ひませう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大學に參る。よろしいの時、大久保に參ります。あの新しい家に。ただこれだけです』と煩はしさうに言つた。かうしたヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかつた。家族の人々は、それを『ヘルンさん言葉』と呼んで面白がつた。さうした奇妙な日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となつたであらう。化物屋敷の一件以來、おそらくは『面白いの家』といふ言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰氣な家などを指す代名詞になつたであらう。それは結果に於て、一層八雲の家庭を樂しく團欒的のものにした。
 しかしヘルンの奇妙な言葉を、眞に完全に理解し得たものは、彼の妻より外にはなかつた。さういふ場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使つて應答した。二人の仲の好い成人が、子供の片言のやうなことをしやべり合つて、何時間もの長い間、笑つたり戲れたりして居る風景こそ、おそらく眞にフエアリイランド的であつたらう。さうした夫婦の合議は女中や下僕には勿論のこと、子供たちにさへもよく解らなかつた。『内のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉でだれにも解らない神祕のことを話してゐる』と、學校へ行つてる男の子が、自慢らしく仲間の子供に語つたほど、それは奇妙な別世界の會話であつた。(子供と會話する時には、ヘルンは多く英語を用ゐた。)
 元來人間の會話といふものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、單に鼻を嗅ぎ合ふとか、尾を振り合ふとか、目を一寸見合すとかいふだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は𢌞りくどく長たらしい會話をして、しかも尙容易に意志を通じ得ない。自分の意志や感情やを、眞によく對手に吞み込んでもらふためには、對手が自分の親友知己であり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知つてゐるものでない限り百萬言を費して無駄になる場合が多い。單に眼を見合すだけで一切の意味が了解される戀人同士の間には、普通の意味での言葉や會話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な會話が、おそらくさういふ種類のものであらう。
 『人生でいちばん樂しい瞬間は』とゲーテが言つてる。『だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの祕密や樂しみやを、愛人同士で語り合つてゐる時である』と。同じ家の中に住んでる家族の者にさへも、殆んど全く解らない不思議な言葉で、何時間も倦きずに睦じく語り合つてた二人の男女こそ、この世に於ける最も理想的に幸福な夫婦であつた。すべての戀する人々は、自分等以外に全く人影のない離れ小島の無人島で、心行く迄二人だけの生活をし、二人だけの會話をしたいと願ふのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正にさうした通りの理想であつた。彼等の愛人同士は、周圍に多くの人々が住んでる環境に居て、しかも無人島に居る二人だけの會話を會話し、二人だけの生活を自由に享樂して居たのであつた。
 晩餐の時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を盃で傾けながら、甚だ上機嫌に朗かだつた。夫人や家族の者たちは、彼の左右に侍つて酌をしながら、その日の日本新聞を讀んできかせた。(ヘルン自身には、英字新聞しか讀めなかつたから。)或る日の新聞に、次のやうな記事が出て居た。山の手の某所に住んでる或る華族の老婦人が、非常に極端な西洋嫌ひで、何でも舶來のものやハイカラなものは、一切『西洋臭い』と言つて使用しない。その爲その家では、シヤボンやランプは勿論のこと女中たちの髮飾や持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、萬事皆昔の大名御殿にそつくりなので、どの女中も居つかずに逃げ出してしまひ、人に賴んで募集しても、『あの御邸なら眞ツぴら、眞ツぴら』と言つて寄りつかない、といふやうな記事が明治時代の新聞に特有な洒落本口調で書いてあつた。
 夫人がそれを讀んできかすと、ヘルンはすつかり上機嫌になつてしまひ、『いかに面白い。いかに面白い』と、子供のやうに手を拍つて悅びながら、『私、その人大好きです。そのやうな人、私の一番の友達。私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私、少しも西洋臭くない』と言つて大滿足なので、『あなた西洋臭くないでせう。しかし、あなた鼻高い。眼靑い。駄目です』などと夫人にからかはれ、『あ、どうしよう、私この鼻』など言つて悄氣返り、『眞ツぴら、眞ツぴら』と、今おぼえたばかりの日本語を面白がつて使つたりして、夫人や女中たちを大笑ひさせたりして居るのだが、その後で、『しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本當の日本を愛するのです』と言つたヘルンは、眞に日本を熱愛した詩人であつた。晩年多少日本に幻滅を感じた時でさへも、他の外人が日本を惡意的に批評する時、いつも憤然として大に怒り、さながら自分の愛人を侮辱された時の騎士の如く、鋭い反擊の槍をふるつて突き當つて行つた。さうした八雲の心理は、我が子の魯鈍に幻滅を感じてる親が、他人から、その愛兒の惡評を聞いて怒る心理と、よく似たものであつたと思はれる。
 日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々に益々歐米化して來ることは、ヘルンにとつて忍びがたい悲哀であつた。就中ヘルンを最も悲しませたのは、盆踊等の農村行事や風俗やが、明治政府によつて禁壓されたことから、自然に衰褪して來ることだつた。彼はそれを憤慨してゐるが、むしろ彼の眞の怒りは基督敎に向つて居た。政府が盆踊を禁ずるのも、國民が歐米人の眞似をするのも、固有の日本文化が亡びるのも、すべて皆基督敎の宣敎師が宣傳するためであり、一切の惡は耶蘇敎の罪に歸せられた。『皆、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆惡くするのです。耶蘇、日本の敵です』と、至るところで彼は耶蘇敎を罵り、その宣敎師を仇敵の如く憎んでゐる。さうした彼は、事實上に於て熱心な佛敎信者でもあつた。彼の信仰の中には、佛敎的な輪𢌞永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によつて、一種獨特の人生觀にまで展開して居た。『自分が死んでから、後生が鳥や蟲に生れ變るとしても、自分は少しも悲しいと思はない。なぜなら烏や蟲の生活の方が、人間よりも不幸であるとは思へないから』と、或るエツセイの中で書いてるヘルンは、日本人の民族化した佛敎情操であるところの、あの『物のあはれ』の抒情的ぺーソスを知つてたのである。
 さうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散步區域は、寺院の閑靜な境内だつた。特に東京の富久町とみひさちように居た時には、近所の瘤寺こぶでらへ每日のやうに出かけて行つた。その寺は庭が廣く、背後に老杉の茂つた林があつたので、彼の瞑想的な散步に最も好ましい所であつた。寺の老僧とも懇意になり、遂に或る時、自分がその住持になりたいと言ひ出し、夫人と次のやうな問答をした。
『ママさん私この寺に坐る。むづかしいでせうか』
『あなた、坊さんでない。ですから、むづかしいですね』
『私、坊さん。なんぼ仕合せですね。坊さんになるさへもよきです』
『あなた、坊さんになる。面白い坊さんでせう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです』
『その同じ時、あなた比丘尼となりませう。一雄かずを(註、長男)小さい坊主です。いかに可愛いでせう。每日經よむと墓を弔ひするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』
『ああ、私願ふです』
 人間よりも、蟲や烏の方が幸福だと言つたヘルンは、人生について、悲哀の外の何物をも知らなかつた。厭離一切娑婆世界おんりいつさいしやばせかいの厭世觀は、ヘルンの多くの作品中に一貫して、その特殊な文學情操の基調となつてる。


 彼の文學は、本質的に我が『方丈記』や『徒然草』の類と同じく、佛敎的無常觀によつた『遁世者の文學』であり、ヘルン自身がまた現實の『遁世者』であつた。寺の住持になつて世を隱遁し、讀經と墓掃除に餘生を送りたいといつた彼の言葉は、決して一時の戲れではなく、彼の心の無限の悲哀を告白した言葉であつた。だがさうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き屆いた妻の奉仕も、決して慰めることのできないものであつたからだ。しかしもし、現實に八雲が世捨人になつたとし、おそらくその貞淑な夫人もまた、『その同じ時』比丘尼になつたかも知れないのである。
 かうした悲しい對話――これほどにも悲しい對話があるだらうか――が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩の如く、半ば笑談のやうにして語られた。『あなたの鼻高い、あなたの眼大きい』などといふ時、夫人はいつも指でヘルンの顏を突ついたりして、子供を扱ふやうにして戲れからかつた。その度每に、ヘルンはまた『ごめん、ごめん』などと言つて笑ひふざけた。さうした外貌だけを見てゐる人は、おそらくかうした夫婦の生活を、たわいもない子供の『ままごと』遊びのやうに思つたであらう。しかもその對話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が含まれて居た。そしてその悲哀の意味を知つてるものは、世界にただ二人の、妻と良人よりなかつたのである。『家のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉で、だれにも解らない神祕なことを話してゐる』と子供が無邪氣に言つた言葉は、實際にもつと神祕な意味をもつて居たのである。

 ヘルン夫妻の結婚は、すぺての點に於て特異であり、世の常の凡俗な夫婦關係とちがつて居た。ヘルンにとつての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に『可愛い小さいママさま』であつたと共に、またその仕事の忠實な助手でもあり祕書でもあつた。日本字の讀めないヘルンは、その『怪談』や『骨董』やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの蕊を暗くし、幽暗な怪談氣分にした部屋の中で、夫人の前に端坐して耳をすました。話が佳境に入つて來ると、ヘルンは恐ろしさうに顏色を變へ、『その話、怖いです、怖いです』といつてをののきふるへた。夫人にとつては、それがまた何より面白いので、話がおのづから雄辯になり、子供に聞かすやうにしてなだめ話した。
 かうした夫婦の生活では、讀書が妻の重大な役目だつた。ヘルンが學校に行つてる間、夫人は暇を盜んで熱心に讀書をし、手の及ぶ限り、日本の古い傳說や怪談の本を漁りよんだ。夫人が書齋の掃除をしたり、家事の雜務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であつた。『ママさん。あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され』と言つた。しかしヘルンは、素讀される書物の記事には、何の興味も持たなかつた。すべての物語は、夫人自身の主觀的の感情や解釋を通じて、實感的に話されねばならなかつた。『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません』と常にいつた。それ故多くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によつて主觀的に飜案化され、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文學化したものであつた。それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻の功績によるものだといつて、深く夫人の勞に感謝し、ある著述の如きは、實際に夫人の名で出版しようとしたほどであつた。しかし夫人はあくまで良人に對して謙遜だつた。彼女は田舍の程度の低い學校を出たばかりで、充分の高等敎育を受けなかつたので、常に自分の無學を悲しみ、良人に對して滿足な奉仕ができないことを嘆き詫びた。
 ある時ヘルンから萬葉集の歌を質問され、答へることができなかつたので、泣いてその無學を詫び、良人に不實の罪の許しを乞うた。その時ヘルンは、默つて彼女を書架の前に導き、彼の尤大な著作全集を見せて言つた。この澤山の自分の本は、一體どうして書けたと思ふか。皆妻のお前のお蔭で、お前の話を聞いて書いたのある。『あなた學問ある時、私この本書けません。あなた學問ない時、私書けました』と言つた。實際もし彼の妻がインテリ女性であつたとすれば、日本の古い傳說や怪談やを、女の素直な心で率直に實感することはできなかつたらう。『無學で貞淑な女は天才以上である』とニイチエが言つてゐるが、ヘルンの妻の如き女性は、正にその意味での『天才以上』であつたのである。
 かうした貞淑の妻にかしづかれて、日本での晩年を平和に暮した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覺して居た。彼はその故國の友人に手紙を書き、日本での生活實況を次のやうに詳述して居る。曰く、學校の講義が終ると、車夫が人力車を持つて迎へに來て居る。家の玄關へつくと、車夫がとても威勢の好い大きな聲で、『オ歸リイ』と叫ぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て來る。妻や女中たちが、玄關の疊に列び坐つて、『お歸り遊ばせ』とお辭儀をする。それから座敷へ上ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かへさせてくれる。まるで女の子が、人形を玩具にするやうである。私は妻の爲す通りに任せて居る。それから少し休息し、書齋に入つて仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まつて話をする。私が日本酒を飮むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑ふ。私も時々笑談を言ふ。仕事の多い日には、しばしば夜更かしをして書きつづける。さういふ時、妻はわざわざ私の所へやつて來て、『遲くなりますから、お先へ休ませて戴きます』と言ふ、丁寧に三つ指をついてお辭儀をし、それから自分の寢床へ入る。度々のことで面倒だから、今度から止めにして、先へ勝手に寢ることにしろと何度も言ふが、妻は婦道に背くと言ひ、なかなか承知しないので困つてゐる云々
(大意)と。
 かうした手紙の中に、ヘルンの大得意な滿悅さが現はれて居る。實際彼の妻のやうに、良人に對して忠實な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中には殆んどなく、これほどまた男が殿樣扱ひにされる家庭生活も、西洋では考へ及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外國人たちが、いかにその日本の友人を羨望したかが想像される。ヘルン自身も、勿論またそれを意識して書いてるので、『どうだ。羨やましからう』といふ自誇の情が、さうした手紙の言外によく現はれてる。
 しかしヘルンのやうに神經質で氣むづかしく、感情の變化が烈しい男に仕へるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に爲し得ないことであつたらう。眞の『貞淑』とは、良人に奴婢としての善き奉仕をすることではなくして、良人の氣質や性格をよく理解し、努めて良人に同化して一心同體となることの奉仕である。そしてその爲には、人の心理を洞察する聰明な智慧と、絕えず同化しようと努めるところの、獻身的な意志と努力が必要である。ヘルンの妻であつた日本人女性は、もとより極めて聰明であつたと共に、武士道ストイシズムの家庭敎育から、非常な意志の力をもつて努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の氣性をすつかり吞み込むやうになるまでは、一通りでない努力をしたと言つてる。しかしよく解つた後では、全く子供のやうに正直一途で、子供のやうに純情無比の人であつたと言つてる。實際ヘルンは――多くの天才的な詩人と同じやうに――本質的に子供らしい純情さと無邪氣さを持つた性格者だつた。そのため夫人は一面に於て舊日本的な婦道と禮節とによつて、恭しく彼に仕へながらも、半面に於ては彼を子供扱ひにせねばならなかつた。夫人にとつてのヘルンは、最も信賴する良人であつたと共に、一面ではまた『大きな駄々ツ子坊や』でもあつた。ヘルンの趣味はすべてに於て庶民的で、儀式ばつたことが嫌ひなので、フロツクコートなどの禮服を非常に嫌ひ、常に野蠻人の服と稱し『なんぼ野蠻の物』と言つて居た。それで學校に式のある時など、他の敎師は皆禮服で列席するのに、ヘルンは一張羅の背比廣で押し通して居た。しかしそれではあまり體面に關するので、夫人が是非フロツクコートを新調するやうにすすめたが、頑として中々きかない。それで夫人から『あなた、日本のこと、大變よく書きましたから、おかみで、あなた賞めるためお呼びです。お上に參るの時、あなた、シルクハツト、フロツクコートですよ』などと、子供をだますやうにして說き伏せられ、やつと禮服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に押へつけ、女中までが手傳つて騷ぎながら、まるで駄々ツ子を扱ふやうに、あやしたりすかしたりして、厭がるのを強ひて着せねばならなかつた。
 所謂『文明』を嫌つたヘルンは、反對にあらゆる自然を深く愛した。特に畠や鳥やの小動物を愛し、蛇、蛙、蟬、蜘蛛、蜻蛉、蝶などが好きであつた。それらの小動物に對して、彼はいつも『あなた』といふ言葉で呼びかけ、人間と話すやうにして話をした。さうした彼の宇宙的博愛主義は、草木萬有の中に靈性が有ると信じられてるところの、佛敎的な汎神論にもとづいて居た。それ故彼は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を虐めたり殺したりすることを非常に叱つた。女中が蛇を追つたといつて叱られ、植木屋が筍を拔いたといつて怒られ、はては『おババさま』の姑でさへが、枯れた朝顏をぬいたといふので『おババさま好き人です。しかし朝顏に氣の毒しました』と叱言こごとを言はれた。
 ヘルンはまた猫が特別に好きであつた。松江に居た時も燒津に居た時も、道に捨猫さへ見れば拾つて歸り、幾疋でも飼つて育てた。夫人と結婚して間もない頃、雨でずぶ濡れになつた小猫を拾つて歸り、その泥だらけのままの猫を懷中に入れて、長い間やさしく暖めて居た。夫人の告白によれば、自分の良人に對する眞の愛は、その時初めて起つたといふ。これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思ひ、ヘルンに對して、何かいぢらしく淚ぐましいものさへも感じたといふのである。
 さうしたヘルンの家庭では、自然界の一寸した出來事や現象やが、いつも物珍らしく大騷ぎの種になるのであつた。たとへば裏の竹藪に蛇が出たとか、蟇が鳴いてるとか、蟻の山が見つかつたとか、梅の花が一輪咲いたとか、夕燒が美しく出て居るとかいふやうなことを、だれか家人の一人が發見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。するとヘルンは大悅びで部屋をとび出し、『いかに可愛きでせう』とか『なんぼ樂しいの聲でせう』とか『いかに綺麗』とか言ひながら、何時間もその小動物を眺めたり、夕燒雲を見たりして悅ぶので、さうした小事件が見つかる每に、女中や書生等の家人たちが、さも大手柄の大發見をしたやうに、功を爭つてヘルンの所へ馳つけるので、いつも家中が和やかに賑つて居た。
 しかし仕事をして居る時のヘルンは、最も氣むづかしやの八釜しい主人であつた。家内の一寸した物音や話聲にも、感興を破られたといつて苦情を言つた。夫人でさへも書齋に入ることは許されなかつた。丁度『美しいシヤボン玉』を壞さないやうに、注意に注意して氣をつけましたと、未亡人となつた夫人が後で言つて居る。しかしあまり部屋が亂雜に散らかるので、夫人が折を見て掃除に行くと、『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの惡いくせです』といつて中々許してくれないので、書齋は益々亂雜になるばかりであつた。
 ヘルンの机の座右には、常に日本の煙草盆と煙管がそなへてあつた。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出する每に變つた物を見付けて歸つた。それがたまつて三十本にもなつてるのを、殘らずヘルンは座右におき、仕事の中にも手當り次第に摑み出しては、國分の刻煙草をつめて吸つてた。或る時夫人が、江の島に遊んだ土產として、大きな法螺貝を買つて歸つた。ヘルンはそれがたいへん氣に入り、『面白いの音』といひながら、頰をふくらして、ボオボオと吹き鳴らしては、また『いかに面白い』といつて吹き續けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くといふ約束にした。
 西大久保の家に移つた時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老僕が一人、他に抱車夫が一人といふ大家族であつたので、家も相當に廣く、間數がいくつもあつて廊下續きになつて居た。しかしヘルンが仕事をして居る時は、家人が皆神經質に注意してゐるので、家中がひツそりとして閑寂に靜まり返つて居た。さういふ時の夜などに、ヘルンの書齋から法螺貝の音が聞えて來ると、それが廣い家中に響き渡つて、ボオボオと餘韻の浪をうつて傳つて來る。すると『それ貝が鳴つた』とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騷ぎをし、先を爭つて離れの書齋に駈けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』と、夫人が追想談で話して居るが、おそらくさういふ場合、ヘルンの筆が行き澁り、感興が中斷した時であつたらう。さうした時の寂しさとやるせなさを紛らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオといふ寂しい貝を吹いたのである。
[やぶちゃん注:ここの「子供が三人」というのは、当該時制上では正しい。明治三二(一八九九)年、彼の三男清が誕生しており、その三年後の明治三五(一九〇二)年の三月に、一家は西大久保の家に転しているのであるが、その翌年の明治三六(一九〇三)年九月十日に長女の寿々子が生まれるからである。]
 晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。既に老の近づいたことを知つた彼は、自分の殘されてる短かい時間に、尙まだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考へて愁然とし、『人生は短かすぎる』と幾度も言つて嘆息した。彼は心臟に病があつた。その危險な兆候が、五十歲を越えてからしばしば現はれて來た。初めて大久保の新居に移つた時は、春の麗らかな日であつて、裏の竹藪で鶯がしきりに鳴いてた。八雲は緣側に立つてそれに聞き惚れ、『いかに面白いと樂しいですね』と言つて喜んだが、また『私、心痛いです』と言つた。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり樂しくて嬉しいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が續くかと思ひ、それがまた心配になつて來たと言つた。さうした彼の言葉通りに、現實の心配が迫つて來た。老いが既に來り、死の近づいて來たことを知つた彼は、すぺての自然を感傷的に眺めることから、萬象に對して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の櫻が返り咲きをしたのを見て、『春のやうに暖かいから、櫻思ひました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし……』と言つて悲しげに『かはいさうです。今に寒くなります。驚いて凋みませう』と言つた。櫻は實際その日一日で散つてしまつた。またその同じ秋の夕べ、籠に飼つてる松蟲が鳴いてるのを聞き、『あの小さい蟲、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悅びました。しかし段々寒くなつて來ました。知つてますか。知つてゐませんか。直に死なねばならないといふことを。氣の毒ですね。かはいさうな蟲』と寂しげに言ひ、この頃の暖かい日に、そつと草むらの中に放してやれ、と家人に言ひつけた。
 その頃のヘルンは、瞬時を惜しんで仕事に熱中して居た爲、以前のやうには、度々妻と一所に旅行したり、散步したりすることができなかつた。それで妻の屈託を慰めようとし、夫人に向つて度々外出や遊山をすすめた。『外に參りよき物見る。と聞く。と歸るの時、少し私に話し下され。ただ家に本を讀むばかり、いけません』と言つた。また時々は夫人に芝居見物をすすめて、『歌舞伎座に團十郎、良いそう面白いと新聞申します。あなた是非に參る、と、話のお土產』など言ひながら、後ではいつも少し凋れて『しかしあなたの歸り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかに詰らんです。しかし仕方がない』などと言つた。
 初めて病氣の發作が起つた時、ヘルンは自己の運命をすつかり自覺し、死後に於ける妻子の保護と財產の管理とを、親友の法學士に一任して、後に心がかりのないやうにした。そして妻に向つて言つた。『この痛み、もう大きの、參りますならば、多分私は死にませう。私死にますとも、泣く、決していけません。小さい甁買ひませう。三錢或は四錢位です。私の骨入れるために。そして田舍の、寂しい寺に埋めて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悅ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです』と、そして何か困難な事件が起つたならば、法學士の梅氏に相談しろと言つた。『そのやうな哀れな話、して下さるな。そのやうなこと、決してないのです』と夫人が言ふに對しても、『心からの話、眞面目のことです』と言ひ、『仕方ない!』と死を覺悟して居た。しかも尙殘された仕事のことを考へ、『人生は短かすぎる』と幾度か嘆息した。
 櫻の花が返り咲きをした日から、數日を經てまもなくヘルンは死んでしまつた。死ぬ前の日に、彼は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那でもない、大層遠い遠い見知らぬ國へ、長い旅をした夢であつた。そして今此所に居る自分が本當か、旅をした自分が本當かと夫人に問ひ、『ああ夢の世の中』、と呟いて寂しげに嘆息した。わが漂泊の詩人芭蕉は『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』といつて死んだ。夢見ることによつて生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであつた。世界の國々を漂泊して、遂に心の鄕愁を慰められなかつた旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い國々を旅し步いた。今、この悲しい詩人の墓は、雜司ケ谷の草深い墓地の中に、一片の骨となつて埋まつて居る。