[やぶちゃん注:大正七(1918)十二月発行の雑誌『新潮』に「本年發表せる創作に就て――三十五作家の感想」の大見出しのもとに、表記の題名で掲載された。後に『點心』に所収されたが、その際、表題を「袈裟と盛遠」と変更、更に次の『梅・馬・鶯』に於いては、「澄江堂雜記」の「二十八 袈裟と盛遠」となっている。底本は岩波版旧全集を用いた。]
袈裟と盛遠の情交 芥川龍之介
「袈裟と盛遠」と云ふ獨白體の小説を、四月の中央公論で發表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は互の義理と盛遠の情とに迫られて、操を守る爲に死を決した烈女である。それを盛遠との間に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に對しても氣の毒なら、國民教育の上にも面白からん結果を來すだらう。自分は君の爲にこれを取らない。」
が、當時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも何でもない。源平盛衰記の文覺發心の條に、「はや來て女と共に臥し居たり、狹夜も漸更け行きて云々」と、ちやんと書いてある事である。
それを世間一般は、どう云ふ量見か默殺してしまつて、あの憐む可き女主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く廣告してゐる。だから史實を勝手に改竄した罪は、あの小説を書いた自分になくして、寧ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支へない。改竄するしないは格別大問題だとも心得てゐないが、事實としてこの機會にこれだけの事を發表して置く。勿論源平盛衰記の記事は譃だと云ふ考證家が現れたら、自分は甘んじて何時でも、改竄者の燒印を押されようとするものである。