やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


作家としての芥川氏   片岡鉄兵

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年九月号『文芸春秋』芥川龍之介追悼号に掲載された。小説家片岡鉄兵(明治二十七(一八九四)年~大正十(一九四四)年)は岡山県出身、慶応大学仏文中退。大正十(一九二一)年に「舌」でデビュー、同十三(一九四七)年に横光利一や川端康成らと文学雑誌『文芸時代』を創刊、創作・評論・翻訳等、新感覚派の旗手として多方面で活躍するが、新感覚派内の若手グループの左傾化に刺激され、プロレタリア文学へと向かい、昭和三(一九二八)年三月に前衛芸術家連盟加盟、次いでナップ(全日本無産者芸術連盟)員となったが、後に検挙・投獄され昭和八(一九三三)年には獄中から転向声明を出して大衆小説や翻訳に転じた。彼の著作権は消滅している。底本は昭和四十六(一九七一)年刊筑摩全集類聚版芥川龍之介全集別巻に拠った。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。なお、片岡の芥川龍之介の作品表記には省略や表記違いが見られるので注意されたい。新感覚派独特の修飾表現や、後にプロレタリア文学の旗手となる片岡のやや唯物史観的な批判的読みの片鱗が窺がわれるが、私には誠意ある非常に分かり易い評論に映る。私は芸術作品を批評せんとするには、まず相当の覚悟を以てその対象を愛さなければならない、愛せない芸術(それは私にとって「芸術」では既にない)を批判するべきではない、そんなことをするなら愛せる自身の作品を創るべきであると思っている。その点に於いて片岡鉄兵は確かに芥川龍之介を愛している。本作はブログ三四〇〇〇〇アクセス突破記念として作成した。【二〇一二年一月七日】]

作家としての芥川氏   片岡鉄兵

 作家としての芥川龍之介氏を、僅々十五枚の原稿紙の上で論じるためには、急行列車の如き速力と、停車点の吟味とを要する。が、遺憾ながら、私は殆ど今手許に芥川論の資料を持たない。そこで、この文章は甚だ不完全な覚え書き程度の物で終るだらう。他日私はもつと余裕のある時、もつと引用の豊富な、具体的な、肉迫力のある芥川龍之介論を書きたいと思ふ。

 私は曾て月評に熱意を持つて居た頃、芥川氏の或る作を許して「作者は絶えず微笑して居る。いささか意地わるく、従つて聊か品わるく」と云つた意味のことを述べた記憶がある。この気品ある作者の作品を「品わるく」と評した私の当時の若気は、即ち芥川氏の若気を反映した一つのアイロニイだつたかも知れない。然し、その芥川氏の「若気」は、それから三四年の間に、見る見る成長したのであつた。この成長は何を意味するか。最近の創作集「湖南の扇」をひもといて、私は成長した人間の悔恨を見た。抑々それはどんな悔恨であり、また何故の悔恨であるか? それに就て云ふのが此文章の結論でなければならぬ。だが、私は暫く話題を変へて出発をやり直ほさう。

 氏の作品は凡そ次の如く分類することが出来よう。一、歴史物、一、南蛮物、一、写実風な物、一、保吉物、その他。
 歴史物は、作者の持つた興味の中心点が凡眼には甚だ漠然たるものが多い。と云ふのは、取扱はれた材料から、一つの思想的テーマを見出すことが困難なのである。然し、それは如何にも均勢のとれた、節度ある表現によつて、全体も部分もよく生かされてある。その意味で美しい叙述であつた。この作者によつて生かされた美に優る美を、多くの歴史画から見出すのは六ケ敷い。
 私は「六の宮」よりも「或日の大石」よりも、「秋山図」を愛する。「秋山図」も、「六の宮」も、作者の呼吸と、流れる意識の進行とは同じ色彩を持つて居るが、兎も角、これらの作品は、歴史をとほして見た遠い或る時代の空気に対する憧れから成つて居るやうに思ふ。その時代の中に、作者がいかに美しく生きて居ることだらう。その美しさを、私は「六の宮」又は「秋山図」の創造進行のうちに見るのだ。我々は歴史を叙した叙事詩の如何なる物も失敗し、取り落とした美しい「呼吸」をこれらの作品から感じ取ることが出来る。果然、芥川氏の歴史物は芥川氏の情調詩であると云ふ事が出来よう。

 それに対して、芥川氏の南蛮物は、もつと奥深い内心の凝視に成る象徴詩であると云ひ得られないだらうか。
「きりしとほろ上人」にしろ、その他のマリア物にしろ、作者は物語りながらヂツと自分の内面の或る神秘に怖れおのゝいて居る。その恐怖で、筆のさきまで震へて居る。震へる筆のさきで書かれた文字だ。いつか暗く、重々しい薄暮の鐘に耳を立て、うす暗い祭壇に彫られた金の模様を見詰めて居る。
 これは漢字で書かれたアヴエ・マリヤだ。

 写実物の多くは失敗して居る。「秋」は部分々々に鋭い発見はあつても、ながいプロセスが結局無駄なまはり路であつた事を知る。「お律と子たち」も同一である。文章の鏤彫るてうにスツカリ疲れながら、作者はしどろもどろに彷徨して居る。この両作とも、一つの人情的な詠嘆に落ち付いて、僅かに作者はほつとして居るやうに見える。
 然し、「一塊の土」は或る意味で写実の極致であらう。一人の女の運命が、一塊の土と朽ち果てる運命が、恐しいほど冷やかに客観され、必然を迫つて描破されて居る。
 然し、我々は、一塊の土の運命を辿つて行つて何に達しるかと云ふと、一塊の土である。作者はまざまざと一塊の土をさし指すのみ。そして口をつぐむ。つまり、作者は何を主張もしない。要求もしない。一塊の土と我らとの生活に、何をつながうともしないのだ。そこには、切り離された一塊の土があるばかりである。生々しい、然しながら他人ごとである所の一つの運命が。
 だが、我々の注目しなければならないのは此作品の女主人公が一塊の土の運命を迫ふ必然性の、そのモオタアを作者が何に見て居るかと云ふことである。それは実に、女主人公自身の、一つの自恃、一つの彼女には彼女なりの理性命令でもあることだ。其所から、驚くべき意志の力が展開されるのである。その力は、自己の内側から内側へと、ぜんまいのやうに巻くところの方向を取つて、刻々に土の結成へと進むのである。
 ここに、私は芥川龍之介氏の運命に対する見方を感じる。彼が一種の唯心論者であることを知る。この作品の上に、いかに田園生活の具象的ディテイルが展開されて居ようとも、この作者は決して唯物論者になれない所の知性動機を持つのだ。

 保吉物は自叙伝風のものだが、これは物に対する興味の持ち方に就いての自伝と云つた方が好い。作者の、殆ど先天的かと見える節度のたしなみは、自身に就て多くの物を物語らせて居ない。然し、我々は、たとへば糸脈で脈搏を数へる時のやうに、微かに、作者の心臓を感じることが出来る。芥川氏の、どの作品でも共通な特色だが、特に保吉物で甚しいのは、作者が物を頭で受入れて、それが頭から心臓まで来るか来ないかの瞬間、急に鼓動が変化する刹那に、この作者は客体を突放してしまふのだ。我々は糸を通して、糸を伝はり来る故にデリケートな鼓動の騒ぎをちよつと、ほんの瞬間感じるのだが、それも忽ちにして消える。何故なら、その時にはもう作者は顧みて他を云ふために、ニコニコ微笑して居るのだから!

 この微笑を私は曾て「品がない」と批評したのだ。頭の尖端で鋭く引懸けておいて、それをもつと深く貫いて見ようとしない弱さ、それが意識的に一種の冷笑となつて表れるのが甚だ物足りなく思はれたのである。
 が、芥川氏のこの微笑は遂に最後まで、芥川氏の生き方を特色づけて来た。それが晩年に至つて成長したのである。以前は品がないと感じられるまで若かつた微笑が。

 出世作「鼻」は或る作家の無数に分裂した卵子の美しい統一である。統一の中に分裂がある。何ら人生に対するハツキリした要求もなく、主張もない卵子の層を、私は其所に見る。この卵子は光る機智を孕んで居た。そして作家芥川龍之介氏は其所から出発した。
 卵子の営みは、暫くはよき物への成長のために、その本来の鋭さを磨くことにのみ、専念されたやうに見える。元来、機智といふものは、情熱の爆発性を抑止するためのうるほひである。だから、それが鋭くなればなるほど、爆発性を無くする。対象の変革を欲求するよりも、対象のそのまゝの認識に対する自己の調和により多くの闘争が生じるのである。それが対象の世界に在る自己の優勝によつてこの調和を得んとする傾きに至るのは、斯る卵子の天性的動作であつて、これを最も好意的に云へば天分的な特権だとも云へる。即ち、この卵子は智性の鋭さに美があるのだから、認識によつて対象世界をあるがまゝの姿に於て征服し得る。唯心論的世界の創造である。
 だから、これは内部闘争のみの過程である。然し、彼の節度は、斯る争闘さへ表現の均勢の中に収縮させる。だから「将軍」に表れたあの秀抜な摘出発見の力も、それは外部世界へ働きかける積極的な力としては何の象徴性も持たないのである。この最も甚しい例を我々は「鴫」の一篇に見るだらう。それらの作品は只、自己精進の過程としての意義があるのみの美しさであると云つても過言ではない。
 芥川龍之介氏のこのエゴイズムの最初の結論を、私共は「俊寛」に見る。この小説は、人生に対する作者の態度を、意識的に決定して居る。それは徹頭徹尾、厭世観である。然もこの厭世観の大きな特色は、恐しく明るい朗かな気分を基底に持つ所にある。その明るさは何所から来るか? それは、物が一と通りには、換言すれば或程度までは見きはめが付いて居るからである。懐疑からではなく、あらゆる物が肯定された上での厭世観である。いや、楽天的遁世思想である。
 然もこれは、「成る程度までの」認識を基調にして居るのだ。彼は認識の鋭い融通性で以つて、唯心論的に一つの世界を創造する。然もその認識が「或程度」以上の発展をなさないのは、彼の節度、わるく云へば生活力の弱さ、くだけて云へば、鋭い頭の突端に引懸けたゞけで、すぐに意識的な微笑と化する、あの自尊心の表れであつた。「鼻」に出発した芥川氏の、あの無数に分裂した卵子の統一が、一応こゝに到着するのは当然である。

 斯うして、芥川氏の生活気分(作品に表れる限りの)は、だんだん東洋的文人気質の方へ十分に意識に溢れて赴き出した。諦悟の境地である。
 曾つて「保吉の手帳」か何かの一節に、芥川氏は巧みな擬人法で、蜻蛉をして空の飛行機を眺めしめながら次の如く云はしめて居る。「人間て何て美意識の貪しい生き物でせうね」と云ふやうな意味のことを。
 こゝには、蜻蛉よりも作者芥川龍之介氏の美意識、乃至人間軽蔑思想が表れて居る。同時にこれは、あの歴史物に美しい呼吸を吐く芥川龍之介氏の、文明に対する一芸術家としての批評がある。
 この美学はアカデミックである。古い封建的気分にある美意識である。機械文明の渦中にあつては、この文明を滅ぼすか、自己の美学を捨てるか、互に両立することを得ないものである。

 然し、この聴明なる頭が、現代の生活、現代の環境から吸収したものゝ悉くが嫌悪の底に消失される筈はなかつた。
 鋭い頭は、あらゆる物を引懸けずにはおかない。深刻な悩みが次第に内部に蓄積されだした。と云ふのは、現代の相の影響は「俊寛」で示した彼の結論にしばしば動揺を与へるので、内面の均勢に不安が来る。それを防ぐのは、実に大なる闘争なのだ。斯る不安に溢れた闘争は、人間の心からユモアと機智とを剝奪する。一度、氏はこれらの悩みの蓄積を、「彼」(第二)の主人公をして「僕は、気質上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」と云はしめて居る。又、別の所で芥川氏は、以上の多元的自己に「哲学上の懐疑主義者」なる自己を附加して居る。
 最後に、氏はこれらの悩みの蓄積を決算しようとした。即ち「河童」の一篇が表れたのであつた。然し「河童」の世界に托した悩みの披瀝、この作品自身がロマンチシズムと現実主義と懐疑主義との混合体の建築であるだけで、そこから何の結論も、希望も出て来なかつた。彼の悩みの蓄積を寓話の形式に盛つたこと其自身が、既に絶望其物ではないか? この形式は勝利に自信あるものの採るものではない。斯る形式で闘ふその第一歩は、積極的意志を欠いて居る。まさしく逃避でなくて何であらう。

 今、私の手許に、氏の最近の創作集「湖南の扇」がある。これは「河童」直前の作品をあつめて居る。この集に於て、私は芥川氏の微笑の成長したる形を見る。それは恐しく枯淡である。もはや、何のロマンチシズムもない均勢の世界である。この人生に、殆ど何の執着力もない心が、もはや意識的のボオズもとらず、いとも自然に微笑して居る。
 この微笑は、いつも何事をか悔恨して居る。生の倦怠を、憂鬱を、そして平静其物である!
 然し、この平静の中に生々と動いて居るものがある。それは感覚と神経だ。「蜃気楼」を見る眼に、病人の透とほるほど白い顔に庭の木賊とくさが映るかと感じた「春の夜」のNさんに。
 そして「海のほとり」を歩きながら、作者は極りもなく、いらいらして居る。
 然も、水底のやうな平静さが、全巻に沈澱して居る。あらゆる美しき怪談のやうに。

「彼。第二」で、彼は曾てのロマンチシストであつた彼を回想して居る。雪の夜、どこまでも路を歩いて行きたいと云ふロマンチシズムを。然し、彼はやがてその同じ小説の終りの方で、「大股にアスファルトを踏んで行つた。二十五の昔と同じやうに――しかし僕はもう今ではどこまでも歩かうとは思はなかつた」と述懐して居る。此所に悔恨がある。
 短篇「湖南の扇」はこのよき例である。人生の何事にも興味を失つたやうな湖南の旅人が、ある妓の情熱的な行為に驚く。がすぐ彼は、その事を忘れて居る。そして、その土地で費した滞在費など計算して居る。こゝにも一つの悔恨が感じられる。
「湖南の扇」の作者には、人生に対する何の興味も、熱情も、ロマンチシズムも失はれて居る。その悔恨が枯淡な手法によつて暗示されて居るのである。あの「鼻」に出発し、一時の足場を「俊寛」に求めた作者には、まだ深く徹した懐疑もなく、甚しく美と機智とロマンチックに飾られた厭世主義家であつた。楽天的遁世家であつた。
 芥川氏のロマンチシズムの、最極の表れを我々は「南京のキリスト」に見ることが出来るだらう。「南京のキリスト」には、氏の作品としては珍しく、生の執着と、愛情に対する驚きとがあつた。そして、氏のあらゆる歴史物は、すくなすくなくとも何らかの意味で美しい生活の発見をモオチフに持つて居た。
 だが、「湖南の扇」一巻には、それらのものが跡かたもなく消えて居る。内面の均勢を崩さぬ程度で現世を認識し、その世界との調和のうちに生命の確立を見ようと精進したこの作者にとつて、斯る境地は当然の「行き着く所デスチネエシヨン」ではなかつたか。

 あらゆる人間の問題が、芥川氏にもあつた。性慾の問題である。「秋」の女主人公は良人に反抗したあとで、良人にしがみ付きながら泣いた。冷やかに芥川氏は見た。「南京のキリスト」では、然し、性慾の美しさ、その精神的な、そして神秘的な力の認識にまで達してある。然し、「湖南の扇」では、恋人の血を浸ませたビスケットを食べる妓で、性慾の見えざる怖しさを、けれども非常に忘れつぽい冷淡さで眺めたゞけである。その他には「湖南の扇」に色情的分子はみぢんもない。

 斯くて「河童」が表れた。社会の波、思潮の波が、芥川龍之介氏なる一個の文人を激しく打つて、「河童」の筆をとらしめたのであらうが、それは前にも云つたやうに、芥川氏の内部闘争の決算として、彼に光明と希望を与へるものではなかつた。
 節度、均勢、その正しい把持の精進、エゴイズム的悟入の努力は、然し、あとからあと来る外部からの刺激と闘ひつゞけねばならなかつた。然しながら、彼は遂に、積極的な意志を以て、人生と社会の街頭に闘ふ意味の生活者では有り得なかつた。「鼻」に出発し、「俊寛」に最初の結論の足場ステージを採つたこの作者としては、それが当然の路だつたとは云へ、彼の知性は、色々の物を理解する彼の頭は、彼の遺書にある「漠然たる不安」を如何ともすることが出来なかつた。然も、芥川氏の作品の至る所に発見される「頭」と「心臓」との反撥――即ち微笑化――に依る「或る程度まで」の認識によつて抑へられて居た爆発性はせきを切つた。……均勢と節度の恃みであつた本元なる「或る程度」までの認識は、遂に芥川氏本来の方法ではなかつた。抑へ抑へて居た物の堰を切つて根本の認識に達したのではなく、本当は、疾くの昔から底まで貫いて居たのだ。堰を切つたのは、表現のみ。そして、彼の本当の認識を表現したのだ。昭和二年七月二十四日の未明だ。
 最後の作「西方の人」は、積極的になれなかつた芥川氏の弱さが、此世に於て最後に求めた戦勝の楯であるが、つまり氏の救ひは昔ながらの英雄キリストの人間のあとを辿つて、キリストの人間を創造する所に求められたのである。あとづけて行きながら、氏はいつか氏自身を語つて居る。そして慟哭さへして居る。私は今までの芥川氏の節度――「ある程度までの」認識は芥川氏の虚偽の(良き意味での)表現であつたことを思ふと共に「西方の人」に於て、芥川氏の本当の表現に出会ひ、作者と共に慟哭せんとする光栄を持つ者だ。
 芥川龍之介氏は人間が達し得る最高の静けさをこの世で知り得た作家であつた。