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カッパのクー

――アイルランド伝説から――

片山廣子訳

 

[やぶちゃん注:以下は、昭和27(1952)年に岩波書店から岩波少年文庫44巻として刊行された片山廣子訳「カッパのクー ―アイルランド伝説集― オケリー他編」の巻頭を飾る表題作「カッパのクー」の全篇をテクスト化したものである(本話は伝承であってオケリーの書いたものではない)。但し、児童書であるため多く振られているルビは、読みが搖れる可能性のあるものを除いて省略した(実はこれは後述するように私の翻刻が成人の読者を対象にしたものだからである)。但し読みは私が一般に使用している( )ではなく、〈 〉を用いて示した。これは訳者が本文中に同ポイントで( )を用いているためである。傍点「ヽ」は下線に代えた(水夫の魂を救うために「海のへゆき、かごをあけてやることだ」の部分は「、か」に傍点が附されているが、誤りであるから「かご」に下線を引いた)。幾つかの語に注を附したい欲望に駆られたが――例えば、「ウロコにおおわれた女」についての遺伝子異常に起因すると考えられている皮膚表面の角質異常を起こす魚鱗癬に対する偏見差別や、アイルランド西部に位置する「クレーヤ州」のことや、「オランダ酒」が Jenever”(ジュネバ)別名「ダッチジン」という蒸留酒であること、またカッパと最初に話すシーンの中の、ジャックの祖父の思い出の中のカッパの台詞の不審点、『「受難日」の金曜日のタラ』のこと(カトリック教徒は復活祭の直前の金曜日を「聖金曜日」としてには一切の肉類を口にせず、タラ料理を食することが多い)、「へええ!(神さまおたすけください!)」というジャックの台詞は信心深いキリスト教徒がよくやるような神の名や死者のことについて誰かが口にしたときの呪(まじな)いと思われるから、心内語と誤解されるような( )ではなく前後ダッシュの方がよいと思われること……等々――今回は本注の最後に掲げたように「オード」としての存在を、成人の方に知って頂くことを目的としているため、本文復刻のみに留めた。なお、策略で自宅にクーマラを招待する際のジャックの台詞「わたしのところへいらしって」はママである。

 更に本書には「キンダーブック」等で知られる童画の名匠茂田井武(もたいたけし 明治41(1908)年〜昭和31(1956)年)氏の印象的な挿絵が入っている。氏の著作権は満了しているので、底本の挿入箇所と同等と思われる部分に挿入した。

 本書は長い間、復刊されていない(岩波書店のかの悪辣なボックス・セット販売の一冊になったことはある)。原本も古書ではそう容易には入手出来ず、本作の内容はおろか、本作の題名を知る人も近年では少なくなっている。映画「河童のクゥと夏休み」、遠野に行くとその名が記された各種ポスターが貼られたりしているのだが、あの名のルーツが片山廣子のこの命名であることなど、誰一人、知らないのではあるまいか?

 本作の「カッパのクー」という題名について、廣子は冒頭に解説を附している(底本では全体が2文字下げのポイント落ちであるが、ブラウザの関係上、下げを行わなかった)のであるが、児童書とは言え、「人魚〈メロウ〉クーマラ」を「カッパのクー」とやるのは如何にもであろうとお感じになる方が多いものと思われる。かの才媛廣子をご存知ならば、この命名変更は聊か苦しい弁解と感じられるであろう。これは芥川龍之介研究者の間では比較的知られていることではあるが、本作のこの題名は――芥川龍之介が自死の年の昭和2(1927)年3月に『改造』に発表したあの名作「河童」への――26年後のオードなのである――。【2010年3月21日】]

 

カッパのクー

 

 人魚〈メロウ〉とは、アイルランド語のメル(海)と、オウ(少女)荒海ぞいの土地では、めずらしいものではない。漁師たちは、人魚〈メロウ〉を見るのをやがる。たいてい、あらしのくる前兆といわれている。男の人魚〈メロウ〉は、みどりの歯とみどりの頭の毛、ブタのような目と、赤い鼻をもっている。女の人魚〈メロウ〉は、魚のような尾をもっていて、ゆびの間に、ガチョウのような、水かきがあるけれども、それでも美しい姿である。時々、彼らは海の恋人たちよりも、美しい漁師の方をすきになることがある。それは、むりもないことなのだ。十九世紀のころ、バントリイ近くの土地に、体じゅうが、ウロコにおおわれた女がいたそうで、これは、そういう結婚から生まれたものであろう。時々、彼らは海から出てきて、ツノのない、小きい牝ウシの姿をして、海岸をさまよい歩く。彼ら自身の姿でいる時には、はねにおわれた赤い帽子をかぶっている。

 どこの国でも、赤は妖術の色で、ごくごく大むかしから、そうであったらしい。妖精や魔術師の帽子は、たいてい、いつでも赤である。

 さて、わたしたちの国の人魚は、たいてい髪の毛の長い、うつくしい顔の女の人魚で、男の人魚の話はあまり聞かない。日本にはむかしから河童〈カッパ〉の話がたくさんある。カッパは河に住むもので、人間のような足を持っているのに、人魚の下半身は魚の姿であるから、だいぶ違っているけれど、耳なれない男の人魚よりも話がわかりやすいようなので、この物語では人魚をカッパとおきかえてみた。ほんとうは、男の人魚〈メロウ〉クーマラの話である。

 ジャック・ドハルテは、クレーヤ州の在岸にすんでいた。父や、祖父が、漁師であったように、ジャックも、漁師だった。そして、同じように、同じ場所で、たったひとりで(彼の妻をかんじょうにいれなければ)くらしていた。なぜ、ドハルテ家の人たちは、人間仲まから遠くはなれて、ごつごつした、大きな岩々の中に、海よりほかに見るものもない、あんな荒涼とした場所がすきなんだろうと、みんなは、ふしぎがっていたが、彼らにはそれだけのわけがあったのである。

 そこは、その海岸一たいのうちで、人間に住みよい、たった一つの場所で、海ガモが巣の中にすむように、小舟が、らくにはいっていられる、こじんまりした小さな入江があって、そこから、海にしずみこんでいる岩々の層が、そと海につきだしていた。大西洋があらしであれて、強い西風が、いつもその海岸にひどく吹いている時、高価な積荷をのせた船が、この岩々にぶつかって、こわされてしまう、そうすると、木綿やタバコや、ブドウ酒のたる、ラムの大おけ、ブランデーのたる、オランダ酒の小だるなどが、岸にうちあげられるので、ダンペッグ湾は、ドハルテ家の人たちには、りっばな財産でもあった。

 不幸な船のりの人たちには、(もし、ひとりでも岸にあがれる幸運があった場合)ドハルテ一家の人たちは、しんせつで、同情ぶかかった。そういう時、ジャックは、自分の小舟を出して、――それは正直者のアンドリュウ・ヘネッシーの帆布の救助船ほど、たしかなものではなかったが、――海鳥のように、怒濤をくぐつて、難破船の乗組たちを救い出すのに、手を貸すこともたびたびであった。しかし、船がしずみ、乗くみの人たちが、みんな死んでしまえば、ジャックが、できるだけたくさんの物を、ひろいあげたところで、それをとがめる者はない。

 「いったい、だれが損するのだ? 王さまだって、世間も知ってるとおり、じゆうぶんお金もちなんだから、海の上にういてる物まで、とらなくてもいいだろう。」

 ジャックは、世すてびとみたいにくらしていても、気だてのいい、陽気な人間だった。妻のビデー・マホーニイが、ユニスの町のまん中の、住みよいあたたかい親の家をはなれて、なんマイルもとおくはなれた、岩ばかりの中にきて、アザラシや、カモメを隣人にして、住むようにさせたのも、ジャックなればこそである。らくに幸福にしていたい女にとって、ジャックこそ、ゆい一の男であることを、ビデーは知っていた。なぜならば、魚のことはいうにおよばず、ジャックは、世間の紳士の家に、たくわえられている品々の半分ぐらいを、この湾におくられる天のおさずけ物で持っているのであった。ビデーは、ほんとうに、正しく夫をえらんだから、彼女ほどによくたべ、よくのみ、よく眠り、日曜日には、ドハルテ夫人の彼女ほど、りっばなみなりをして教会へゆく女は、ほかにいなかった。

 で、ジャックは、ふしぎな景色も見、ふしぎな物音も聞いたけれど、何もこわいとは思わなかった。カッパや、そのたぐいの物をおそれるどころか、会ってみたいと、心から思っていた。カッパたちは、だいぶ人間ににていて、彼らと知りあいになれば、幸運がくるということもきいていた。だから、ジャックは、カッパがきりの衣につつまれて、水の上にうごくのを見つけるが早いか、まっすぐに彼らの方にいって見るのだった。ビデーは、ジャックが一日じゅう海に出ていて、−ぴきの魚ももってかえらないということを、ものしずかな調子で、しかることもたびたびであった。かわいそうなビデーは、ジャックが、どんな魚をとりたがっているか、知らなかったのである。

 よどほどたくさん、カッパがいるといわれる場所に住みながら、まだ一度も、カッパをみたことがないのが、ジャックはくやしかつた。それより、もつとくやしいのは、彼の父や祖父が、いくたびもいくたびも、カッパを見ていたことだった。最初にこの岬に住みついた人である彼の祖父が、あるカッパと、大そうしたしくなって、もし、神父さまが、こまりさえしなければ、子どもの洗礼式に、そのカッパに立ちあってもらいたがっていたという話も、子どもの時分聞いていた。しかし、この話は、ほんとうに信じてよいものかどうか、ジャックにもわからなかった。

 ついに運がむいてきて、父や祖父が見聞きしただけのことを、ジャックも知ることができた。ある日、彼は、いつもより少しとおく、北の方に向いて海岸をぶらぶらしていて、ちょうどある角を曲った時、いままで、見たことのなかったようなある物が、海の方に、少し出ている岩の上に、とまっているのを見つけた。それだけはなれていて、見たところでは、そいつは青い体をしていた。そして、そんなことはありえないのだが、たしかに、そいつは三角帽を手に持っていた。ジャックは、たっぷり三十分ぐらい、それがなんであるかじいっと見ていたけれど、その間じゅう、そいつは、少しも手足を動かさなかった。しまいに、しんぼうしきれなくなり、ジャックは、ぴゅっと口ぶえをふいて呼びかけた。するとカッパ(それはカッパだった)はとびあがって、頭に三角帽をのせて、岩の上から頭を先に、水にとびこんでしまった。

 好奇心にかられて、ジャックは、たえずその場所にいってみたけれど、三角帽の海の紳士を、ちらりとでも見ることはできなかった。彼は、そのことを考えて考えて、しまいには、ただ夢をみたのかと思うようにもなった。しかし、大そうひどい荒れの日、海が山のように波だっている時、ジャック・ドハルテは、いままでよく晴れた日にだけ、いってみた、あのカッパの岩のところに、いってみようと決心して、いくと、あやしいものが、岩のてっぺんでおどったりはねたりして、それからどぶんともぐって、また浮きあがり、また、もぐったりするのが見えた。

 ジャックは、それからは、時をえらべばよいので、(風の強い日なら)彼は、いつでも海の人を、見たいだけ見られるのだったが、それだけでは満足できなかった。――「たくさんもてば、もっとほしがる。」のことばのとおり、彼は、カッパとしたしくなろうと思いたったが、その望みも、ついにかなえられた。ある、おそろしいあらしの日であった。いつもカッパの岩をながめる場所まで、ゆきつかないうちに、風があまりはげしくふくので、やむをえず、海岸に、たくさんある岩あなの一つにはいって風をよけようとした。すると、おどろいたことに、そのあなの中に、彼のすぐ前に、みどりの髪と、長いみどりの歯と、赤い鼻と、ブタの目をもったやつが休んでいた。魚のようなしっぽがあり、足にはうろこがついていて、みじかい両うではひれのようであった。なにも着物は着ていないが、三角帽をうでにはさんで、なにか、大そうまじめに、考えこんでいるようだった。

 ジャックは、いつもの勇気ににず、すこし弱気になったが、いまでなければ、機会はないと思って、考えこんでいる魚男〈さかなおとこ〉のほうに、だいたんにすすんで帽子をとり、とっておきのおじぎをした。

 「ごきげんよう。」と、ジャックがいうと、

 「やあ、ごきげんよう、ジャック・ドハルテ。」とカッパは答えた。

 「おどろきましたね。わたしの名をごぞんじだとは!」ジャックが言う。

 「君の名を知らないわけはないよ、ジャック・ドハルテ。君のおじいさんが、君のおばあさんのジューディ・クーガンと、結婚するよりずっと前から、おれは、おじいさんを知っていたんだよ。ああ、ジャック、おれは、おじいさんがすきだったよ。あの時代の、とてもりっぱな人だった。おれは、海にも陸にも、昔もいまも、あのくらい、ブランデイの、のみっぶりのいい人はまだ見たことがない。君もねえ、(そいつは、目を、こっけいにまばたきしいうのだ)おじいさんの孫だけのことはあるんだろうねえ?

 「それは、もちろんですよ。もし、おふくろが、ブランデイでそだててくれたら、わたしは、いまでも、おふくろの乳をすってる赤ん坊でしょうよ。」

 「いやあ、男らしい君の話はゆかいだ。おじいさんのためにも、君とおれとは、もっとしたしくしなければうそだ。だがねジャック、君のおとうさんは、だめだったね! そっちのほうは、まるでだめだった。」

 ジャックが言った。「水の下のほうに住んでいらっしゃると、ひどくしめっぽく、冷たいから、すこしでもあたたかくなさるには、よほどのまなくちゃなりますまいね?」

 「君は、どこであれを手に入れるんだい、ジャック?」カッパは、赤い鼻を、人さし指とおやゆびでつまんで、きいた。

 「ははっ、わかりましたよ。ですがね、あなたは、ああいう品物をしまっておく、かわいたりっぱな倉庫を、海の底にもっていらっしゃるんですか?」

 「倉庫だけじゃないよ。」カッパはずるそうに、左の目でウィンクした。ジャックはつづけて言った。

 「それは、たしかに見物する値うちがありますね。」

 「君のいうとおりだよ。もし、今度の月曜日の、ちょうどこの時間に、ここであえれば、もっとその話をつづけよう。」と、カッパがいうのだった。

 ジャックとカッパとは、無二の親友となってわかれた。月曜日にあうと、ジャックがおどろいたことには、カッパは、二つの三角帽を、両方のうでに、一つずつはさんで持っていた。

 「こんなことをきいて、失礼かもしれないんですが、どうして、きょうは、帽子を二つ、持っていらしったんです? 一つを珍品としてしまっておくように、わたしにくださるんじゃないですか?」

 「いいや、そうじゃない、ジャック。おれは、むやみに人にやれるほど、かんたんに帽子を手に入れることは、できないんだよ。おれは、君に一しょにきてもらって、食事をしようと思って、君が水にもぐるための帽子を持ってきたんだ。」

 「へへえ!(ジャックはおどろいてさけんだ)あなたと一しょに、このしおからい海の底まで、つれてゆこうとするんですか? わたしは、水で息がつまって、むろん溺れ死んでしまいます。そしたら、ビデーはどうするでしょう? なんというでしょう?」

 「ビデーがなんと言ったって、いいじゃないか。あまい男だね。ビデーがさわいだって、そんなことを心配するやつがあるかい? おじいさんなら、そんなことはいわないだろう。おじいさんは、いくどもいくども、その帽子をかぶって、だいたんに、おれのあとについてもぐったよ。おれとあの人とは、一しょに海の下にいって、うまい食事をして、ブランデイを、めちゃにのんだこともしじゅうだった。」

 「じゃ、ほんとうですか? じょうだんじゃないんですか? そうときまれば、おじいさんなぞにまけていられますか。さあ、でかけた――本気でやってください。いのちがけだ!」

と、ジャックがさけんだ。

 「おじいさんそっくりだね! そら、おいで。おれのやるとおりやるんだよ。」おやじが言った。

 ふたりは、ほらあなを出て、海まで歩き、それから岩まで、ちょつとばかりおよいでいった。カッパが岩のてっぺんにのぼると、ジャックもそのあとについてゆく。岩の向うがわは、家のそと壁みたいに、まっすぐにたっていて、下の海が大へん深く見え、ジャックは、少しこわくなってきた。カッパがいうには、

 「さあ、ジャック、この帽子をかぶって、目をはっきりあけて、おれのしっぽにつかまってついてきなさい。いろんな物が見られる。」

 カッパがとびこむ。ジャックもいさましくそのあとにとびこみ、どんどん、どんどん、どこまでも、きりなしに、ふたりはもぐっていった。うちの炉のそばに、ビデーとふたりで、すわっていたほうがよかった、といく度も思ったが、そう思ったところで、大西洋の海の下の、なんマイルも深いところで、とうなるんだ? ジャックは、つるつるするカッパのしっぽにつかまつていると、やがて思いもかけず、水の中からでた。海底〈うみぞこ〉かのかわいた土の上にでたのである。カキの貝がらで、きれいにふいてある、しゃれた家のすぐ前に、ふたりは上陸した。すると、カッパは、ジャックのほうを向いて、海底のわが家に、彼を歓迎した。

 ジャックは、すっかりおどろいて、それに、あんなにいそいで、水の中を旅行してきたので、息もきれて、すぐに口もきけなかった。そのあたりを見まわすと、たくさんのカニやエビが、砂の上をひまそうに歩きまわっているほかは、生き物は何も見えない。頭の上には、空のかわりに海があって、その中に魚たちが鳥みたいにおよぎまわっていた。

 「なにか言わないのか、君!」カッパは言った。「おれがここに、こんなしゃれた家をもっていようとは考えなかったろう? 息がつまったのか? 溺れ死んじゃつたのか? それとも、ビデーのことを、心配しているのか?」

 「いいえ、そんなことじゃないんですが、だれだって、こんな物がみられようとは思いませんよ。」ジャックは歯を出して、人のよい笑い顔をした。

 「さあ、おいで。どんなごちそうをくわしてもらえるかな?」

 ジャックはほんとうに空腹だったから、煙突からのばる煙の柱をながめて、中でなにをしているのか、とたのしかった。カッパについて家にはいると、なにもかもそろやている、りっぱなお勝手があった。

 お勝手には、すばらしい調理台があり、たくさんのつぼやなべがあって、ふたりの若いカッパが料理していた。主人は、−つの部屋に案内したが、そこは、かざりつけもかなり貧弱で、テーブルやいすが一つもなく、ただ、腰かけてたべるために、板の台と丸太があった。しかし、炉の火が、さかんにもえているのが、気もちよかった。

 「さあ、おいで。おれが、例の物を、しまつしておくところを見せてやる。」と、カッパはずるい目つきをした。それから、小さい戸をあけて、ジャックをりっぱな倉庫に案内したが、そこは、いっぱいに大たるや小たるがしまってあった。

 「とうだい、ジャック・ドハルテ? 水の下だって、らくなくらしができるんだよ。」

 「それはたしかですとも。」ジャックは、自分のほんとうに考えていることを言って、力をいれて下くちびるを鳴らした。

 部屋にもどってくると、食事の用意ができていた。テーブルかけはなかったが、そんなことは、どうでもよろしい。ジャックの家でも、いつもテーブルかけをつかっているわけではない。料理は、アイルランド一ばんの家の精進日のごちそうにまけないくらいで(精進は肉類なしで、魚とやさいだけ)上等の魚ばかりならべてあったが、これはふしぎなことではない。カレイ、チョウザメ、ヒラメ、エビ、カキ、そのほか二十種類以上の物が、台の上にならんで、外国製の酒がたくさんだされていた。カッパは、ぶどう酒は、自分の胃腸には冷たすぎると言っていた。

 ジャックは、うんざりするほどたべて、のんで、やがてブランデイの杯〈さかずき〉をあげた。

 「ご健康を祝して、」と言いかけて、「失礼ですが、こんなにご懇意をねがっていて、まだ、お名まえをうかがわなかったのですが。」

 「ほんとうだ、ジャック。おれはうっかりしていた。いまからでもいいね、おれはクーマラというのだ。」

 ジャックは、もう一杯、ブランデイをついで言った。「よいお名まえですね。それではクーマラさん、ご健康を祝します。この先五十年もごじょうぶで。」

 「五十年かね!」クーマラはくりかえして、「どうもありがとう。もし君が五百年といったら、それは願う價値があるかもしれないな。」

 「いや、まったく、この水の底では、あなた方は長生きするんですね。あなたは、うちのおじいさんを知っていらしったが、おじいさんは、もう六十年も前に死んでしまいました。ここの生活はたのしいんですね。」

 「それほもちろんだ。だが、ジャック、どんどんのもうよ。」

 なんばいも、なんばいもからにしたが、ジャックがおどろいたのは、酒が少しも頭にこないことだった。たぶん、海が彼らの上にあるために、頭を冷やしているのであろう。

 クーマラおじさんは、大そうゆかいになって、いろんな歌をうたったが、ジャックには命がけでやってみても、たった一つしかおぼえられなかった。

  ルム、フム、ブードル、ブー、

  リップル、デップル、ニッテイ、ドーブ

  ヅムヅー、ヅードル、クー、

  ラッフル、タッフル、チッティブー、

 これは、クーマラの歌った、一つの歌のふしだったが、どこのだれにも、この歌の意味は、わからないらしい。しかし、このごろの歌で、意味のわかるのはすくない。

 おしまいに、クーマラは、ジャックに言った。

 「さあ、ついてきたまえ。骨董品を見せてあげる!」彼は、小さな戸をあけて、ひろい部屋にジャックを案内した。そこにあるのは、クーマラが、長いあいだにひろいあつめた、ガラクタ物であったが、一ばんジャックの注意をひいたのは、壁ぎわにならんでいるエビつぼのようなものだった。

 「どうだい、ジャック。おれの骨董は、気にいったかね?」クーじいさんがきいた。

 「それは、まじめな話、拝見するだけのねうちはありますね。だが、うかがいたいのは、そのエビのつぼみたいな物、なんでしょうか?」

 「ああ、あの魂のかごか?」

 「なんですって?」

 「魂をしまっておく、いれものなのだ。」

 「へええ! なんの魂ですか?魚 には魂はないんでしょう?」ジャックは、びっくりした。

 「うん、なあに、さかなの魂じゃない。おぼれ死んだ、水夫たちの魂なんだ。」クーマラはおちつきはらって言った。

 「へええ!(神さまおたすけください!)どういうふうにして、つかまえたんです?」

 「やさしいことなのさ。かなりのあらしがきそうになると、おれは、そのかごを出しておくのさ。すると水夫たちがおぼれて、魂が体から、水の中にでてくるんだ。かわいそうに、魂ともは、さむさになれていないから、ほとんど死にそうになって、おれのかごの中を、かくれがにしてはいってくる。おれは、それをちゃんとしまって、家にもってかえり、かわいた、あたたかい場所にしまっておく。魂だって、こんなよい部屋に住んでいれば、しあわせだろう?」

 ジャックは、おどろいて、なんと言ってよいかわからないから、なにもいわなかった。ふたりは、食堂にもどって、また、すこしブランデイをのんだ。それは、すばらしいものだった。ジャックは、もうだいぶおそくなって、ビデーが心配しているだろうと思ったので、立ちあがって、もう帰らなければ、といいだした。

 「じゃ、君の思うとおりにするがいい。だけれど、帰る前に、おわかれの一杯をやってゆきたまえ。冷たい道を帰るんだからね。」

 ジャックは、おわかれのグラスをことわるような失礼はしなかった。「ひとりで道がわかるでしょうか?」

 「心配しなさるな。おれが案内する。」と、クーマラが言った。

 家のそとへ出てゆくとき、クーマラは、一つ三角帽をもってゆき、ジャックの頭にうしろむきにかぶせて、それから彼を肩にのせ、水の中になげあげようとした。

 「そらっ、」とクーマラは一度彼をゆりあげてから言った。「おまえがとびこんだのと同じ場所にうきあがるよ。それからね、ジャック、わすれずに帽子を投げかえすのだよ。」

 彼は、肩からジャックを一おしおしてやると、ジャックは、水の泡みたいにうきあがり――ぶるん、ぶるん、ぶるるっ――と、水の中をついてあがって、前にとびこんだ、あの岩まできたから、のばる場所をさがして岩にあがり、帽子をなげこむと、帽子は石みたいにしずんでしまった。

 この時、ちょうど太陽は、しずかな其の夕方の失しい空にはいりかけて、一点の雲もない空に、一つの星がかすかに光っているのが見え、大西洋の波が、光の洪水の中にかがやいていた。ジャックは、おそくなったと思って、家にかえったが、帰ってからも、どこで一日くらしてきたか、ビデーには一言もいわずにいた。

 あのエビのかごの中にとじこめられている、かわいそうな魂たちの境遇が、ジャックの心配のたねとなって、どうしてすくいだしてやろうかと、いろいろ考えてみた。はじめは、神父さまにその話してみようと思ったのだが、神父さまだって、どうすることができるんだ? それにクーは、神父さまなぞ、相手にしないだろう。そればかりでなく、クーは、とても人のいいおやじで、けっして、悪いことをしているつもりではないんだ。ジャックは、クーに、好警もっているのだし、それから、また、カッパのところへ、食事にいったことが知れると、ジャックの名誉にはならないし、いろいろ考えたすえ、一ばんうまいくふうは、クーマラを食事によんで、もしできればよっぱらわせて、その上でクーの帽子をとって、海の底へゆき、かごをあけてやることだ。それには、まずはじめに、ビデーをどこかにゆかせなくては。ビデーは女であるから、この話を彼女には内しょにしておきたいと、ジャックは用心ぶかく考えるのだった。

 そういうわけで、きゅうに、ジャックは大そう信心ぶかくなって、夫婦の魂のすくいのために、ビデーに、エニスのそばの聖ジョンさまの井戸へ、おまいりにいってくれないかとたのんだ。ビデーもそれに賛成した。それで、よく晴れた日の明け方、ビデーは、ジャックによくるすを気をつけるように、きびしくたのんででかけていった。じゃまがなくなると、ジャックは、あの岩にでかけて、大きな石をなげこみ、クーマラにあいずをした。ジャックが石をなげるとすぐに、すうっとクーマラが出てきた。

 「おはよう、ジャック、なんの用?」と、クーマラがきいた。

 「なにも、いうほどの用じゃないんですが、」とジャックが答えた。「わたしのところへいらしって、食事をしてくださらないでしょうか? そんなことをお願いするのは、ちいっとですぎていますけれど。」

 「よろこんで、およばれする。何時〈なんじ〉ごろがよろしい?」

 「何時ごろでも、あなたのごつごうのいい時でよろしいんです――一時ごろはどうでしょう? そうすれば、明かるいうちにおかえりになれますから。」

 「では、そのじぶんにゆく。安心していたまえ。」クーが言った。

 ジャックは家にかえって、ぜいたくな魚料理つくり、彼がもっている外国製の上等の酒を、二十人くらいの人もようほど、たくさんもちだしてきた。約束の時間どおり、クーが三角帽をうでにかかえてやってきた。食事の用意はできているので、ふたりはこしかけて、いさましくのんだりたべたりした。ジャックは、海底のかごにいれられているかわいそうな魂たち考えて、クーおやじにブランデイをどんどんすすめ、歌をうたわせたりして、よいつぶそうとしたけれども、あわれなジャックは、きょうは、自分のよいをさますために、頭の上に海がのっかっていない、ということをわすれていた。ブランデイはジャックの頭にのぼって、そのはたらきをしたから、クーはぶじに家にかえってしまって、ジャックのほうが「受難日」の金曜日のタラみたいにのびてしまった。

 ジャックは、つぎの朝まで眠りつづけて、目がさめたあとも、がっかりしていた。「おれがあの海賊じいさんをよわせようたって、だめだ。いったい、どうしたら、あのエビつぼの中の、かわいそうな魂たちを、たすけだせるだろう?」一日じゅう、いろいろ考えて、一つのことを思いついた。「これだ!」ジャックは、ひざをたたいた。「クーは、あんな年よりでも、まだどぶろくのあじはしらないだろう。どぶろくでよわせてやれ! ああ! ビデーが、まだ二日くらい帰ってこないのは、さいわいだ。その間に、もう一度ためしてみよう。」

 ジャックは、またクーを招待すると、クーは、ジャックのことを、弱いやつだ、おじいさんの足もとにもおいつけない、と言った。

 「でも、もう一度ためしてみてください。わたしは保証します。こんどこそ、じゅうぶんよわせます。」

 「なんでもよろしい。君の思うとおりにするがいい。」

 今度の招待には、ジャックは自分の酒にたくさん水をまぜておき、クーには一ばん強いブランデイをのませた。「あなたは、どぶろくをのんだことがありますか? ほんとうの、山のつゆといわれる、あの純すいなやつを?」と、きいた。

 「いや、知らぬ。それはどこで手にいれるんだね?」

 「それはひみつなんです。しかし、本物であることはたしかです。ブランデイやラムにくらべて、けっして負けません。ビヂーのにいさんが、ブランデイと交換に、少しばかりおくってくれたんですが、あなたは、この家のむかしからの友人だから、あなたには、ぜひごちそうしたいと思って、とっておきました。」

 「ふうん、どんなものかのんでみようや。」クーが言った。

 さて、このどぶろくは、純すいのもので、極上の品だから、一口飲むと、したつづみをうたないではいられない。クーは大そう気にいって、よっぱらって、ルム、ブム、ブードル、ブー、をくりかえしくりかえし歌って、笑ったりおどったりして、とうとう、床〈ゆか〉の上にたおたれて眠ってしまった。じゆうぶん注意して、よわないようにしていたジャックは、三角帽をひろいあげると――岩までかけていって――とびこむと、すぐにクーのすまいにゆきついた。

 そこは、夜なかの墓地みたいにしずかで、カッパの年上りも、若いのも、ひとりもいなかった。

 ジャックは、なかにはいっていって、魂のかごをひっくりかえしたが、中にはなにも見えず、ただかごをあけるたびに、かすかなふえの音のような、虫のなき声のような、すうっという音を聞くだけだったから、ジャックははじめおどろいたけれど、神父さまが、生きている人間は、風や空気を見ることができないと同じように、魂も見ることはできない、と、たびたび言ったのを思いだした。そうして、魂たちのために、できるだけのことをしてやったジャックは、かごをもとどおりおいて、どこともなく旅だってゆく、あわれな魂たちに祝福をおくった。ジャックは、もう帰らなければならない。彼は帽子を正しく、つまりぎゃくにかぶって、そとに出た。だが、頭の上の高いところに水があるので、おしあげてくれるクーのいないきょうは、その水の中に、とびあがってゆく望みもない。はしごをさがしまわってみたが、一本のはしごもない。一つの岩も目にはいらない。やっとのことで、彼は海が一カ所だけ、ほかよりもひくくなっているところを見つけたので、そこから水にはいろうと思って、ちょうどそこまでいった時、一ぴきの大きなタラがひょいとしっぽをふりさげたから、ジャックは、とんでそのしっぽにぶらさがった。タラはびっくりして、一はねはねて、ジャックを引きあげてくれた。帽子が水にさわった瞬間、ジャックはとんだキルクのようにとびあがったから、手をはなすことをわすれたかわいそうなタラまで、しつぽを上にしてひっぱりあげてしまった。いそいで岩につくと、きょうの美しい仕事をよろこびながら、一分〈ぷん〉のやすみもなく、彼は家に帰っていった。

 しかしながら、そのあいだに、彼の家では大さわぎが起こっていた。ジャックが、魂救済の遠征にでかけていったばかりのところに、魂の後生〈ごしょう〉のために、聖者さまの井戸までおまいりにいったビデーが帰ってきたのである。ビデーが家にはいって、目の前のテーブルの上に、いろいろなものがころがっているのを見たとき、「しょうがないねえ、うちのいたずらものが――あたしはどうしてあんな男と結婚したのだろう! あの人の魂の後生のために、あたしがおまいりにいってるあいだに、どこかの浮浪者なんぞをひろいあげてきて、うちのにいさんのくれたどぶろくだの、市長さまにうるはずのお酒まで、すっかりのんでしまったのだよ。」そう言って、彼女は下の方に目をむけると、テーブルの下にねているクーマラを見つけた。「聖母さま、おたすけください!」ビデーはさけんだ。「あの人は、ほんとうのけだものになってしまった。やれ、やれ、酒のみが、けだものみたいになると聞いてるけど、ああ、なさけない、なさけない! ――ジャックや、どうしたらいいの? あなたがいなくなったら、どうしたらいいだろう? まじめな女がけだものとくらせますか?」

 そういうなきごとをいいながら、ビデーは、どこへゆくあてもなく家をかけ出したが、その時、聞きなれたジャックの声が、たのしい調子でうたうのを聞いた。ジャックがぶじな体で、魚ともけだものともつかない、変てこな物になっていなかったので、ビデーは大よろこびだった。ジャックはやむをえず、すっかり話してきかせると、ビデーは、前に何もきかせてくれなかったのを少しおこりはしたけれど、しかし、かわいそうな魂たちに、よいサーヴィスをしてやったと言った。

 ふたりは、仲よく家に帰ってくると、ジャックは、クーマラを起こした。クーマラは、少しぼやけていたけれど、ジャックは、そんなことは、だれにでもあることだから、ひどく気にしなさるな、つまり、どぶろくをのみなれないためなのだから、そんな時のくすりには、くいついた犬の毛を、一本のみこむと、ききめがあるそうだと教えた。しかし、クーは、もう、なにもたくさんだという顔をして、ふきげんに立ちあがって、おせじの一言をいうだけの礼儀も知らないように、こそこそ出ていって、塩水〈しおみず〉の中で散歩して、熱をさますことにした。

 クーマラは、魂たちのいなくなったことを、少しも気にかけなかった。そのあとも、彼とジャックは、この世の中の、もっともしたしい友人であった。また、ジャックほど、たくさんの魂をうかばせてやったものもいないのだった。彼は、いろいろ口実をつくって、おじいさんに知られずに、海底の家にはいって、つぼをひっくりかえしては、魂たちを出してやった。ジャックは、その魂たちを、目でみられないのが不満であったが、それは不可能の事と知っていたから、しかたなしに満足していた。

 ふたりの交際は数年つづいた。しかし、ある朝、ジャックが、いつものとおり石をなげても、返事がなかった。また別の石をなげ、また、もう一つなげたが、やっぱり返事がない。帰ってきて、また次の朝いってみたがだめだった。ジャックは、三角帽をもっていないので、海底にいって、クーじいさんがどうしたのか見とどけることができなかった。あの老人だか、老魚だか(どちらだかわからないが)は、死んでしまったのだろうか、それとも、この土地から、どこかほかへひっこしてしまったのだろうか。ジャックはそんなことを考えてみた。

 

 

片山廣子訳 カッパのクー 完