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[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『続々南方随筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった。ちなみに『続南方随筆』の刊行は大正15=昭和元(1926)年11月で、南方熊楠の逝去は昭和16(1941)年12月29日である。但し、『南方閑話』(1926年2月)、『南方随筆』(同年5月)、『続南方随筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。底本は1985年平凡社刊の「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を用いた。リンクを多用した後注を附した。【二〇二四年二月十日追記:藪野直史】本日、ブログ版『ブログ2,100,000アクセス突破記念 南方熊楠「大きな蟹の話」(正規表現版・オリジナル詳細注附き)』を公開した。そちらが私の本篇の決定版となるので、そちらを読まれんことをお薦めする。]


大きな蟹の話   南方熊楠


 一八九三年板、ステッビング師の『介甲動物史』二六頁に、一八五五年へッフェル纂『広伝記新編』一四巻を引いていわく、キャプテーン・フランシス・ドレイクがアメリカの蟹島に上陸して、たちまち蟹群に囲まれ、兵器もて健(したた)か抵抗したれど蟹に負けた、これらの怪しい蟹は世界で最大の物で、その螯(はさみ)でドレイクの手脚や頭を散々片々に切りさいなみ、その尸骸を骨ばかりに嚙み尽した、と。ス師はこの話に多少拠所ある由を述べていわく、ドレイク、実は失望のあまり病んで船中に死んだ。世界周航をここまで無難に遂げ来たったのだ。蟹がドレイクを食うたでなく、ドレイクとその徒が蟹を食うたので、その蟹一疋で四人の食料に十分だったと、その徒が後日語った。そんなことがあったかも知れない。と言うは、濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガス[やぶちゃん後注1]と学名を名付けたのは、時に殻の幅二フィートに及び、一の螯がよほど大きいという。蘭人リンスコテンスの『ゴア航記』に、ゴアの南サンペテロ州なる地に、人がその一の螯で挾まれたら死ぬゆえ、注意して禦がにゃならぬほど大きな蟹がおびただしくすむと書いたも、右様の大蟹が実在するより推してもっともらしく思わる、と。(『宋高僧伝』一九、唐の成都法定寺惟忠の伝に、この寺塔より一巨蟹の身足二尺余なるを獲た、と記す。海より遠い地だから、そんな物がいきおったはずなし。どこかの海辺より取り寄せた山事(やまごと)だったろう。)

 ス氏の書二七頁にいわく、現存のカブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)に縁あるプテリゴツス[やぶちゃん後注2]は、全属過去世に絶滅した。その遺体より推すに、身の長さ六フィート、最も広い幅が二フィートに及ぶのがあったらしい。見様によって確かに最大のプテリゴツスとその大を争うべく、古来、巨蟹に関する種々の怪談の根本たりと思わるるものが日本にある。シマガニ[やぶちゃん後注3]すなわちこれで、大英博物館に展覧せるものは、その雄の二腕を張らせ両端のあいだ八フィートあり、十一フィートに及ぶもありときく。まことに恐れ入った大きさだが、この蟹、実はクモガニの一種に過ぎず、足弱く細い方で、その殻、長幅共に十二インチを踰えず、と。予、英国にあった時、介甲類の専門家どもに聞いたは、蟹類の頭と胴と分かち難く密着した物はすべて穎敏活潑で、頭と胴と区別されて脳髄が著しく発達したらしいものほど痴鈍因循だ、と。このシマガニも頭が挺出して賢そうにみえるが、実はきわめてボンヤリで、行動すこぶる遅緩、それにつけ込んで棒で敲き殺して罐詰にするは酸鼻の至りと、故福本日南[やぶちゃん後注4]が北海道での目撃談だった。とにかく世界一の大蟹ゆえ、何とか保続させてやりたい。

 怪異的の巨蟹の咄(はなし)が日本の記録に少なからぬ。例せば、寛永二年板、菊岡沾涼の『諸国里人談』五に、参河国幡頭郡吉良庄富吉新田の海辺は大塘にして、根通りは石をもってつきたて、高さ一丈二、三尺余、小山のごとくなるが、享保七年八月十四日の大嵐にてこの堤きれたり。里人多く出でてこれを防ぐに、甲の径(わたり)七尺ばかりの蟹出でたり。水門の傍を穿ちて栖家としける。その穴より潮押し込みて切れたるなり。人夫大勢、棒熊手をもって追い廻しける。右の鋏を打ち折りたり。それながらにして海に沈む。件(くだん)の鋏は人の両手を束ねたるがごとく、今もって時として出でけるなり。一方の鋏また出生す。しかれども左よりは抜群小さしと言う、とみゆ。古い大津絵節の文句に、「蟹の穴から堤が崩れる、気を付けな」というた誡めの適切な実証だ。

 播磨の蟹坂は、むかし大蟹しばしば出でて往来を妨げ、弘法大師これを池に封じ込めたという(藤沢氏『日本伝説叢書』明石の巻[やぶちゃん後注5])。万治元年、了意筆『東海道名所記』五に、伊勢の「蟹坂。蟹が石塔は左の方にあり。松二本植えたり。むかしここに妖怪ありて往来の人を悩まし侍り。ある時、会解(えとき)僧一人ここを通りけるに、かの妖怪出でたり。僧すなわち問うていわく、汝は何物ぞ、名のれ、聞かん、という。怪物答えていわく、両手空をさし、双眼天につけり、八足横行して楽しむものなり、という。僧すなわち悟りていわく、横行は横に行くと読めり、双眼天につけるもの、両手空をさし、八足にして横に行く、汝は定めて蟹にあらずやと言われて、姿を現わしっつ戒を授かり、永く禍いを致さざりけり。その標とて今に塔石あり、云々」と。

 安永六年成った太田頼資の『能登国名跡志』坤巻に、右の話の異伝あり。珠洲郡寺社村の蟹寺は、「法成山永禅寺という。この寺むかしは教院なりしが、妖怪のために住持を取り殺すこと久し。よりて住職する人もなきあき寺なりしに、貞和年中のころか、同国酒井の永光寺瑩山和尚の御弟子月庵禅師行脚の時、この寺に来たりて、客殿に終夜坐禅しておわせしに、丑満のころ震動して、眼日月のごとくなる恐ろしき物顕われ出でて、禅師、しばらく待った、問うことありや。かの者いわく、四足八足、両足大足、右行左行、眼天にありという。禅師、汝は蟹にてあるやとて、払子を持って打ち給う。たちまち消えて失せにけり。夜明けて里人きてみれば、禅師の恙なきことふしぎに思い、その様子を尋ねみるに、後の山に千尋深き池あり、その水の面に幾年ふるとも知らぬ一丈余の蟹の甲八つに破れて死して浮かみいたり。その後妖怪なし。すなわち月庵禅師を開山として、二世天桂和尚、三世北海和尚の木像、開山堂に安置あり。また蟹の住みし池の跡、後の山にあり。また、この月庵和尚、俗姓は曽我家にて至って美僧なりしと言えり、云々」とのせ、「蟹寺の謂(いは)れをきくに今さらになほ仰がるる法の力は」としゃれておる。[やぶちゃん後注6]

 大正九年『民族と歴史』三巻七号七一三頁[やぶちゃん後注7]に述べた通り、明治十一年ごろ、予、和歌山のある河岸で、当時あまり他に重んぜられなかったある部民が流木を拾うをみおると、その一人が、「昨夜何某方に産まれた子は男か女か」と問うに、今一人、「ガニじゃ」(蟹だ)と答えた。予方へ同部から来る雪踏直しがあり合わせたのに尋ねると、蟹は物を挟むゆえ女児を蟹という、工人の地搗唄にも、「おすきおめこは釘貫おめこ、またではさんで金をとる」というて、総別女はよく挾むもの、と博識振って答えた。全体仏僧はよく啌(うそ)をつく。すでに月庵和尚は至って美男とあれば、名門曽我氏の出(で)でもあり、辺土の女どもに厚く思い付かれたであろう。そこで男に渇(かつ)えた近村の若後家などが和尚を挾まんと、右行左行で這い来たり、据膳をしいたので、眼天にありとはその女がヒガラメ[やぶちゃん後注7]だったとみえる。よって和尚も鼻もちならず、願意却下としたのを憤って女が水死でもしたでしょう。それを挟みにきたちう縁起で蟹の妖怪とふれ散らし、衆愚の驚厳に付け込んで、蟹の弔いに寺を建立させたと熊楠がみる目は違わじ。また、同書[やぶちゃん注:これは前段落中の『能登国名跡志』を指す。]乾巻に、鳳至郡五十里村に町野川の淵跡とて今蟹池とてあり、むかし、この淵に大いなる蟹住んで人をとる。弘法大師威力をもって退散あり。その後もこの池にありて大石となり、いろいろ怪異をなすゆえ、この池を埋めしなり。今もこの池を穿ち石を顕すと霖雨して数百日巳まず、とある。

 頃日、中道等君がみずから写して贈られた弘前の平尾魯仙の著『谷の響』は、たぶん嘉永ごろのもの、その巻五に、弘前付近の地形村石淵の主は大きな蟹で、魚とりに入る人を魅して動く能わざらしめ、はなはだしきは死せしむ。また、この淵に入る者、手足に傷つくことあり。剃刀傷のようで深さ一寸ほどに至るも開かず、痛みも出血も少なく、世にいう鎌厳に逢うたごとし。土人これを主の刃に触れたという、と。これにやや似た話が、一八八三年板、イム・ターンの『ギアナ印旬人(インジアン)内生活記』三八五頁にある。オマールはその体を種々に記載された生物で、巨蟹また大魚に似るという。急湍[やぶちゃん注:「きゅうたん」と読む。河川において流れが速く、且つ深く淵となっている場所という意味であろう。]の水底にすみ、その辺を射て廻るインジアンの船をしばしば引き込むと伝う。ウロポカリの滝に住んだのは常に腐木を食い、多くの船を浮木と誤認して引き入れ、ためにインジアン多く溺死した。よってアッカウォイの覡[やぶちゃん注:一応、音の「げき」で読んでよいと思われる。「みこ」と訓で読ませている可能性も排除は出来ないが、この叙述から察するに男子の呪術師(シャーマン)であるようには思われる。]が、摩擦せば火をだす二木片を包んで湿気を禦ぎ、携えて滝の真中に潜り入ってオマールの腹内に入りみればおびただしく腐木を積みあり。よって件の木片を擦って火を付けると、オマール大いに苦しみて浮き上がり、覡を吐き出して死んだ、と。

 支那には、西暦紀元前二千年ごろ、夏の禹王作という『山海経』一二に、「姑射(こや)国は海中にあって、列姑射(れつこや)に属し、西南は山これを環(めぐ)る。大蟹、海中にあり」。郭璞注に、けだし千里の蟹なり、と。予、数字に疎く、この千里の大蟹とマレー俚伝の巨蟹といずれが大きいかを知らぬ。一九〇〇年板、スキートの『巫来(マレー)方術』六頁に、海の臍(プサット・クセク)は大洋底の大穴で、中に巨蟹すみ、日に二度出て食を求む、蟹がおるうちはこの穴全く塞がれて、大洋の水地下に入り得ず、その間に百川より海に注ぐ水の行き処なくて潮満つ、蟹出て食を求むるうちは、水がその穴より下に落つるから潮がひくという、と出づ。[やぶちゃん注8]


■やぶちゃん後注

1:プセウドカルキヌス・ギガス

イソオウギガニ科 Menippidaeオーストラリアオオガニ Pseudocarcinus gigas である(リンクは東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館内展示ページ)。


2:プテリゴツス

これは古生代のシルル紀からデヴォン紀にかけて繁栄したウミサソリ=ユーリプテルスの一種 Pterygotus macrophthalmus を指す(リンクは川崎悟司イラスト集「古世界の住人」内ページ)。


3:シマガニ

これは世界最大の蟹とされるタカアシガニ Macrocheira kaempferi の別名である(リンクは東京海洋大学海洋科学部附属水産資料館内展示ページ)。


4:福本日南

先進的ジャーナリスト。南方熊楠とは在英中に邂逅(リンクはイシタキ人権学研究所ホームページ内「福本日南の部屋」)。


5:藤沢氏『日本伝説叢書』明石の巻

底本には「藤沢」の下に編者割注で藤沢衛彦の名が示されている。本書は「日本伝説明石の巻」『日本伝説叢書』で、藤沢衛彦編著、日本伝説叢書刊行会大正7年刊行である。


6:法成山永禅寺

少なくとも現在は、正しくは「法城山永禅寺」で「ほうじょうざんようぜんじ」と呼称する。珠洲市上戸町寺社に現存。別名「蟹寺」、他に曽我兄弟の墓と称する室町期の無縫塔二基がある(リンクは「曹洞宗石川県宗務所」公式サイト内の「法城山 永禅寺」)。


7:ヒガラメ

斜視。やぶにらみ。すがめ。ひがら。


8:本文末下部には、底本では編者による『(未発表手稿)』という文字がある。