やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

怪談 畑耕一 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:本作「怪談」は大正二(一九一三)年二月号『三田文学』に発表された、畑耕一の処女作とされる作品で後に大正一四(一九二五)年大阪屋号書店刊畑耕一作品集「怪異草紙」に所収された。底本は国立国会図書館蔵の同作品集の近代デジタルライブラリー版(画像番号16から31)の視認に拠った。但し、会話文の『 』は「 」に、繰り返し記号「〱」は正字に代え、外国語表記部分や難読語・難意語(私にとって注したくなるものや、逆に全く不明なものも含む)と思われるものには、それぞれの当該箇所を含む段落の後にポイント落ちで私の訳注を附した。なお、後半の怪談話の中に『黑癩こくらいといふ、千萬の神佛に憎まれたる定業ぢやうごふの病で死んでしまつた』というハンセン病に対する偏見に基づく誤った差別的表現が現われるが、読者は正しい医学的知見に基づき、当該部分に対しては歴史的批判的読みをなさるように要請するものである。
 本頁は私のブログ420000アクセス突破記念としてテクスト化したものである。藪野直史【2012年12月5日】]

怪談

 朝々母から袴の紐を結んでもらつて、小學校へ通つてゐた時分、慈愛深き父は蠟のやうに瑕のつきやすい私の幼な心を饑ゑしめまいと、適當なやはらかい食物として、漣山人のお伽噺を選んだ。少年世界、小國民、少年――さういつた插繪の多い美麗な雜誌が私のちいさな机の上にひろげられた。中學に入ると私の讀書慾は順序よく發達して冐險譚へ進んだ。私は學校歸りの書籍包みを投り出したまゝ、緣側に寢そべつて、庭に咲いた一群の合歡ねむが夕闇の中に白々と暮れ殘る頃まで、「浮城物語」や「十五少年」や「海底軍艦」などを、脇目もふらず讀み耽つた。洋燈に燈をつけて、明日やつて行くべき代數の運算に鉛筆の尻を嚙んでゐる時にでも、私の魂は、ともすると北方の霧に閉されたる奇怪な國に翔り、或は南方の砂を越えて彼方に在る不可知な實の都に飛んで懵然と天井を見つめてゐることもよくあつた。
[やぶちゃん注:
・「漣山人」児童文学作家。小説家巌谷小波いわやさざなみ(明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)の別号。「さざなみさんじん」と読む。
・「浮城物語」作家にしてジャーナリストであった矢野龍渓(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年)が明治二三(一八九〇)年に『郵便報知新聞』(現在の報知新聞)に連載したSF海洋冒険小説「報知異聞」(単行本化の際に「報知異聞 浮城物語」と改題された)。新型軍艦「海王丸」「浮城」に乗った日本人一行が東南アジアで小国の独立運動に協力してオランダ・イギリス軍と戦うという冒険活劇で、当時十四歳であった押川春浪に大きな影響を与え、押川のデビュー作「海底軍艦」を誕生させることとなった(以上はウィキの「矢野龍渓」に拠った)。
・「懵然」「ぼうぜん」と読み、心の昏いさま、無知なさまを言う。]
 四、五年生の頃には私の四肢はもう立派に靑年としての發育を遂げた。いつぱしな Carnal knowledge も年齡と體格とに從つて、のがれつべうなく備はつた。興奮しやすい、反撥的な、活氣が、私の滿身の血潮を沸立たせたことも、あやまたず續いて起つた。無人島とか、獨木舟カヌウとか、海賊、猛獸、洞窟などの言葉も次第に私の好奇心の感謝を受けなくなり、はや異樣なる過去一生活の殘肴餘瀝としか感ぜられないやうになつてしまつた。さうした私が、一行を終るに幾日を費したという紅葉の練りに練つて絢爛な筆に出會でくわした時、一句を得るに數册を渉獵したと號する露伴の一粒選の精練な文字に接した時、その時の驚嘆と歡喜とはどんなであつただらう。ほがらかな眞情の發露をうたつた、藤村や晶子の詩歌集を手にした時、その時の驚嘆と歡喜とはどんなであつただらう。
[やぶちゃん注:
・「Carnal knowledge」二種の意味がある。①現世的、世俗的な知識。②肉欲的、官能的な知見。①は通常、侮蔑的に“carnal inclinations”(俗物根性)などと用いられ、続いて挙げられる文芸作家連の浪漫主義的傾向から②の、それも観念的感覚的な謂いでの意である。]
 この頃は私が心の中に描いた幻覺の無上に美しかつた時代であった。浮世の疑惑とか罪惡とか苦悶とかいふものは、畢竟文學者が作品にあやをつける爲めの文字であつて、それ以外に形狀かたちは無いものとまで思ひ込んでゐたのであつた。だから希望とよろこびのために、私のひとみは暖かい海に生れた眞珠の如く輝き、私の頰は八重に咲き誇る櫻のやうにつややかに、私の聲は果實畑このみばたけの雲雀のやうに快活に、たゞもう毎日はつちやけて元氣に遊んだり歌つたりしてゐた。
 けれども、なんの障りもなく無事に高等學校へ入學する事ができた頃には、私は美しい幻覺に久しく沒頭した結果、漸く疲勞して倦怠して――そのうち遂に失望の時が來た。動物園で滿月のやうに尾をひろげた孔雀に好奇心を滿足させた見物人が、更に隣の檻の前に移らうとするがやうに、私は今まで好んで彷徨さまようた世界を見捨ててしまつた。そして私の好奇心は鋭い牙と、大きなからだと、恐ろしい唸聲をもつたものに傾いて行つた。――
 或る日、本郷通りの古本屋の店頭に立つた時、私はぎつしりと詰まつた硝子戸棚の中から、赤い洋布裝クロースの二葉亭氏譯「血笑記」と鼠色並綴の櫻井中尉著「肉彈」とを決して見落さなかつた。私は直ぐに二册を買つて懷中に入れた。
[やぶちゃん注:
『二葉亭氏譯「血笑記」』レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~一九一九年)が一九〇五年(日露戦争の年)に発表した小説「赤い笑」(Красный смех)の二葉亭四迷による訳で明治三九(一九〇八)年刊。源貴志氏の『二葉亭四迷訳「血笑記」について』によれば、その原作の前後篇の内容は『前編は兄が戦場で怪我をして両足を失って後送されて故郷に帰り、文筆家としての活動を始めたつもりで気が狂うに到る間の回想、後編はその弟による兄の回想からやがては自分も狂気へと陥っていくという内容となっており、特に前編には、ガルシンの『四日間』の強い影響が指摘される』とある。
『櫻井中尉著「肉彈」』陸軍中尉として旅順作戦に参加した櫻井忠温さくらいただよし(明治一二(一八七九)年~昭和四〇(一九六五)年)が明治三九(一九〇六)年に日露戦争の実体験をもとに描いた戦記文学。彼は銃創八箇所・骨折三箇所の重症を負って帰国後、左手で執筆したとされる。]
 高等學校へ入ると同時に私は寄宿寮に起臥する身となつたが、この頃からはじめて圖書館の便利を知るやうになつた。帝國圖書館は寮から一番近かつたが、いつも滿員で、よほどはやくゆくか、うまい機會に出會でくわさなければ入場ができないし、大橋圖書館は晝夜二回に分けて開館するので不便、それで私は日比谷圖書館を選んだ。私は毎日、學校の放課後ズックの鞄に賄から竹の皮に詰めてもらつた辨當を入れて電車で通つた。日曜には晝夕の二食分ふたかたきを仕込んで朝から出掛けた。
[やぶちゃん注:「二食分ふたかたき」「かたき」という読みは「片食かたけ」の転訛。「かたけ」の「け」は食事の意で朝夕何れかの食事の謂い。江戸時代は一日に朝夕二度の食事が通例であったところから生まれた語。そこから食事の度数を数えるのに用いる助数詞となった。]
 日比谷公園の木立の間から、野球をやつてゐる中學生の白いユニホームが、ちらほら見える處まで來ると、私はきまつて車掌臺へ出た。車掌が内幸町お降りのお方と呼ぶと同時に飛び降りて、それから圖書館までまつしぐらに砂を蹴上げながらひた走る。四錢出して特別縱覽劵を買ふ。急がずともよい階段を駈け上つては、よく監視の劍突けんくつを喰つた。
 私は哲學、宗教、文學、歷史、美術などの圖書目録の紙牌カードをくつて、血と恐怖と、暗黑とがその滿幅にみなぎり、紙背にみとほつてゐるやうな作品を選びだした。すべての拘泥と矛盾とをゆるして、天才の我慾のため、理性の狂暴のため、時としては美しい戀人にでも絶交狀を送るやうな熱烈な詩人の詩集を選び出した。思想界に疑惑と罪惡とが特別に重い意義をもつてゐて、辛辣な、容赦なき諷刺と罵詈とが、政府や軍隊や貴族や富豪に浴びせかけられたる、その頃の史傳や繪畫集を選びだした。恐怖、怨恨、憎惡、憤怒、嫉妬、憂愁――さういつた文字がインデツクスに見出された時、その書籍は片端から私の手にかかつてくりひろげられた。時としては讀書の快感を二倍にするため、強い西洋煙草を用意して置き、私の神經が興奮した頃を見計つて、階下したの休憩室で衂血はなぢの出る位それをふかしたりした。
 この偏狹な、物好き一方な耽讀は益々狂躁の狀態に進んで行つたが、同時に私の感情は自由に流れ込む他の場所を見落し得なくなつたがため、次第に古血のやうに黑いをりをつくつて、どろりと沈滯してしまつた。したたかに濫用された私の官能は、もうすつかりなまくらになつてしまつて、なんの刺激も受入れる力を失つてしまつた。私は自分の關係し得る範圍内に於て、陰謀、殺人、掠奪、破壞、牢獄、斷頭臺――などといふものよりも、もつと呪はしい、もつと身の毛のよだつやうな世界に私の身體からだを置いて見ることはできなかろらかと考へるやうになつた。そしてまだどこかに、そんな一世界が見殘されてあるやうに思わはれてならなかつた。私は探偵譚や冐險譚などで、惡人の詭計に陷つた主人公が鐵と石とで犇と取圍まれた密室に投げ込まれたのを讀んだ時、それは必ず數十ページの後に首尾よく活路を見つけて、虎の頤を逃れ出るといふ事を豫想し得るやうに、沈まれるだけ沈みきつたどん底には、必らずなにか新奇な或物を見出し得ると豫想し且確信してゐた。だから今しばらくこの儘で續けて行かう、沈まれる處まで沈みきつて見ようと決心した。
[やぶちゃん注:「頤」は「おとがひ(おとがい)」と読む。あご。]
 私はなほ執念しうねく毎日々々圖書館へ通つた。
 この頃から私は種々の譯書を參考にして、「悒鬱性の悲劇」といはれるハムレツトを少しづつ讀みはじめた。私は砂を詰めたやうに重い頭腦あたまを抱へながら、ひよろひよろと席を占めて、この傑作の一行一行から登場人物の猜疑やら悲憤やら煩悶やらの臺詞せりふ擧動しぐさとを、より以上に誇張して玩味した。疲れた眼をページから離すと、すぐ發作的の偏頭痛メグリムスが前額を烈しくえぐつた。
[やぶちゃん注:
「悒鬱」「憂鬱」と同音同義。
偏頭痛メグリムス」片頭痛は英語で“migraine”、ドイツ語で“Migräne”、ラテン語でも“hemicrania”で当該音の外国語綴りは不詳。識者の御教授を乞う。]
 或土曜日であつた。午後九時の閉館時間を報ずるベルが鳴つたので、私は本を閉ぢやうとすると、
 There are more things in heaven and earth,
There are dreamed of in your philosophy.
といふ文句が電光の如く私の眼に閃めき込んだ。
「亡靈だ。ハムレツトの父の亡靈! 蒼白い顏をした亡靈!」
 私はこう心の中でつぶやきながらそとへ出た。
[やぶちゃん注:以上の英文は、シェイクスピア「ハムレット」の第一幕第五場で、父の亡霊と秘密の会話を交わした後のハムレットが臣下の親友ホレーショに向かって言う台詞。
福田恆存訳を示すと「この天と地のあいだには/人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ。」となる。]
 その夜に限つて私は電車に乘らなかつた。暗いお濠側をてくてく歩き乍ら、なんといふことなしに先刻さつきの二行の文句を小さな聲で繰り返へし暗唱レシテートしてゐたが、そのうちにこれ等の言葉がどうやら解けよと與へられた謎のやうに感じられて來た。私は錦町から駿河臺のはうへ出て、お茶の水橋を渡つた。そして順天堂病院の角から暗い横町を本郷通へぬけようとした、ふと私の見上げた眼に「怪談牡丹燈籠 橘家圓喬」と筆太にしるした、若竹亭の看板がうつつた。兩側には大輪の牡丹花に造つた切子燈籠がひともされ、はなびらを染めた薄紅の繪具の色は蠟燭の光線に溶けこんで、あたりの闇を筒拔けて走つてゐた。
「怪談……!」
 私は氣まぐれに投げて見た賽に、自分の思ひ通りの目が出たやうな心持で、ぐるりと踵をめぐらして、其直に席亭のなかに入つて行つた。
[やぶちゃん注:
暗唱レシテート」英語“recite”。
「橘家圓喬」四代目橘家圓喬(慶応元(一八六五)年~大正元(一九一二)年)。「牡丹燈籠」は彼の十八番おはこ。]
 もう仲入もすみ、この一人であとは圓喬といふ時であつたが、私は牡丹燈籠さへ聞けば、いいのだから、木戸錢を拂つて、二階の正面に陣取つた。みんな眞打とりの圓喬を待ち構えてゐるのらしく、私の横にゐた商人風の男などは、「圓喬の牡丹燈籠と來ちやあたまりませんや。」などと聞きもせぬうちからしきりに感じて、ちやうど高座にあがつて客を笑はせてゐた落語家のいふことなどは碌々聽いてもゐなかつた。
 この夜圓喬の話は、萩原新三郎の宅へ、盂蘭盆の夜に、お露とお米の幽靈が牡丹燈籠をさげて會ひに來るといふ、所謂この話の三の切で、伯父の白翁堂がこれを戸の節穴から別隙見してびつくりする、明る朝早々萩原へ行つて天眼鏡をとつて見ると、恐るべし、新三郎に死相があらはれてゐる――といふところで、このあとは明晩と打出しになつた。
 私が寄宿寮へ歸つた時はもう夙くに消燈後であつた。黑い夜風のなかに、東西舊寮の三層樓の建物が、悉く燈を滅した巨大な殘骸を重たく地上に這わせ、ぐつたりと肩を並べて眠りこけてゐた。すぐ其の後ろから大きな闇が、見るも及ばぬ底暗い空と續いた。私の寢室は東寮の三階であつた。下駄箱から上草履を探り出してはき換へ、海底深く沈んでゐる大難破船の船底から甲板へ上るやうに、私は人氣の絶えた長い階段を、廊下について𢌞はり𢌞はり昇つて行つた。ところどころの壁に煤けた角煙が懸つてゐて、中のカンテラは黄色く濁つた焰を、ゆらゆらさせながら心細く夜を守つてゐた。其のあたりだけ物の彩色あいろが陰々と浮び出てゐるばかり、三階へ昇りつめて寢室の列んだ廊下の方へ曲つてしまふと、もう燐寸マツチをすらなけれは足元は見えなかつた。
[やぶちゃん注:
彩色あいろ」「文色」の「あやいろ」の音変化で、模様、物の様子、文目あやめのこと。]
 同室の寮友はみな快い鼾がたてて健康な眠りに陷つてゐた。私は手探りで棚から蒲團を下ろしてそのなかにもぐり込んだ。そして先刻のハムレツトの中の二行の文句と、圓喬の牡丹燈籠と、今昇つて來た階段の光景と、三つを胸の中で重ね合はして見た。
「さうだ。怪談は面白いものだ。」
 と私は蒲團から眼だけを出して室内のくらがりをのぞきながらこうつぶやいた。
 翌晩も獨りでのこのこ若竹亭へ出かけた。そして、
「實際、怪談は面白いもんだ。」
 と蒲團のなかで重ねて感心した。
 その翌晩も翌々晩も――私は圖書館のほうを中止して、若竹亭へ通ひつづけた。ほかの落語とか音曲とかには用がなかつたから、圓喬の高座にあがる頃を見はからつて聽きにいつた。しまひには毎晩續けて出掛けるので一體どこへゆくのだらうかと、それが同室生間の問題になつたらしかつた。さうやつて五日目の晩――この頃、話は伴藏がお峰の亡靈に惱まされる處であつた――私は例の通りこれから出掛けようと門衞で外出の札を反へしてゐると、
「また出かけるな。毎晩どこへ行くのだ。」
 と私の肩をたたいたものがある。藤谷といふ獨法一年生で私の同室生であつた。
「面白い話を聽きに。」
 二人は校門を出た。
「面白い話とは、どんな話だ。」
「近頃、友人の下宿で怪談がはずんでゐるのだ。」
 私はまさか、牡丹燈籠を聽きに若竹亭へ行く處だとは答へ兼ねた。
「怪談? なる程、そいつは面白からう。」
「そして君はどこへゆく。」
「あてなしさ。腹がへつたから出て來たのだ。牛乳ミルクでも飮みにゆかないか。」
「さうだね。行つてもいい。」
「つきあひ給へ。僕も怪談なら大分知つてゐるぜ。――おい君、一高にも怪談があることを知つてゐるか。」
「有名な話ぢやないか、藤村操の幽靈が出たといふのだらう。」
「それもある。そのほかにもまだあるぜ。」
「そいつは知らない。聞かせてくれ給へ。」
[やぶちゃん注:「獨法科」ドイツ法学専科。近代日本の法律はドイツ法体系をそのまま取り入れており、帝大に限らず、戦前の旧制高校や大学の法学部には「独法科」と言うドイツ法学を専門に学ぶ科があった(寧ろそれが法学の主流)。文学や歴史学などの分野でもドイツ文献学派は現在も隠然たる勢力を持つ。]
 藤谷は北海道の凾館中學から來た男であつた。五歳いつつうへの兄貴があるが、これも矢張り一高の獨法にいゐた事があつて、今は大學の二回生である。藤谷は暑中休暇や冬休暇に、兄貴から向陵生括の話をよく聞かされたものと見えて、一高に關する事はなかなか詳しく、いろんな事を知つてゐた。私達が入寮してからまだ間もない事で、寮生の氣風がどんなだか、校舍の名稱がどんなだか、不案内であつた時分から、一高の競技運動や、諸種の會合や、年に一度の記念祭のことや、生徒仲間の通用語に至るまで、親切に説明してくれたものである。だからことに興味ある土産話として一高の怪談などは、再三兄貴の口から繰り返へされたにちがひないと思はれた。
[やぶちゃん注:「向陵」旧制第一高等学校の別名。東京都文京区向が丘にあったことに由来する。]
 兩人ふたり跫音あしおとの騷々しい、土瀝靑アスフアルトの路を歩んで、大學正門前の一白舍といふミルク・ホールに入つた。ミルクを飮みながら藤谷から聽いた一高怪談の數々は、天井から馬の脚がぶら下るといふ、東寮三階の開けずの間、赤ん坊の泣聲が聞えるといふ西寮の便所、夜九時以後に昇降するときざはしの數が一つ違ふといふ圖書館の階段、設計技師が不測の慘死をしたが、その時刻になるときつと止るといふ本館の時計臺――
「驚いた。僕の目と鼻の間に、そんなに澤山な怪談があつたのか。」
 と私は啞然として、あきれてしまつた。
「驚いちやいけない。目と鼻の間といふのなら、お隣りの帝大にも凄いやつがある。」
 と藤谷は手づま遣ひが、己れ獨特の奇術を弄して、一座をあつといはせた得意さの身振りで私の物好きな傾聽を促しながら、
「醫科大學に解剖すべき屍體を收容して置く室があるんだね。平生二三箇の屍體の絶えた事はないといふ話だ。時とすると十幾箇といふ、白布で蔽はれた屍體やつが、ひそひそ話でも出來る位ゐにずつとこう枕を揃へてならんでゐることもある。自轉車が走つたり、廣告の樂隊が囃し立てて歩いたりしてゐる賑かな本郷通から、二町と離れて居らぬところに、こんな非常な光景を見せてくれる部屋があるとはちよつと想像のつかぬ事で、大學の人などは此室へ入る毎に、不思議な氣持になるさうだ。」
「面白いな。それだけでも怪談になつてゐる。」
「面白いぢやあない、こはがらなくちやいけない。」と藤谷は笑つて、「處が或る晩、夜更けて大學の小使室の呼鈴が、用ありげにけたゝましく鳴り出した。そしてボタンを押してゐる先方の室の番號が、かたりと仕掛けの機械の上にあらはれた。出ると――どうだ君、例の屍體部屋の番號がちやあんと出てゐる。勿論、其の部屋のドアには嚴重な錠がおろしてあるし、而も深夜だ。どんな好奇男ものずきだつて、其の部屋に出る譯がなからう。少々薄氣味惡るかつたが、小使は手を伸ばして、その番號をもとの通りしめてしまつた。すると、またぢりぢりんと鳴つて、がたりと番號が出た。今度は何處から押したのだらうと思つて、機械の上を見ると――例の屍體部屋の番號! 流石に二度目は小使も蒼くなつて震え上つたさうだ。無理もない話さ。以來こんな變事は度々あるさうで、この頃では小使も馴れてしまつて、ベルが鳴ると、また例の惡戲いたづらが始まつたなと笑つてゐるさうだが、隨分凄い話ぢやないか。」
「なんだらう?」
「なんだかわかるもんか、そこが怪談なんだ。」
 と藤谷は、ミルクのコツプをとりあげながらまた笑つた。
[やぶちゃん注:「手づま遣ひ」「手妻遣い」で、手品師のこと。]
 その晩は、こんな話でとうとう若竹亭へは行かなかつたが、これがそもそも私が怪談に執着する端緒なのであつた。
 私はこう考へた。――
 道理と知識といふ、人間の最高最貴としてゐる一物を、いかなるキイでも開くことのできぬ扉一重の彼方から嘲笑ひながら、己れはその恐ろしい深く押包んで、ものの蔭に息を殺してひそんでゐる mystio な異形の一箇――
 There are more things in heaven and earth,
There are dreamed of in your philosophy.
――これよりも呪はしい、身の毛のよだつ威迫と刺激とはあるまい。――
[やぶちゃん注:「mystio」この綴り未詳。英語“mystic”(秘教的・神秘的・謎めいた・幽玄な・不思議な;・畏怖の念を起こさせる)の誤りか。識者の御教授を乞う。]
 そしてまたこうも考へた。――
 もうこれ以上に私の弱つた感情を目醒ませるやうな、鈍つた神經を飛び上らせるやうな一世界は求め得られまい。だからこの最終の世界を思ふさまゆつくり、隅から隅まで見盡くしてやらう。いやしくも怪なり奇なりととなへられてゐるものはたとい斷片零碎と雖も見逃すまい。――
 私は大學前の松屋で四帖綴のノートブツクを買つた。そして圖書館や劇場や寄席よせや活動寫眞や見せ物や――すべて怪談に對する執着から出入した場所には、必ずそれをもつて行つて、日々見聞した處を書きつけた。
 私のノートブツクは次第に奇怪な文字で埋められて行つた。――
 日蝕、流星、銀河、雷火、海嘯、地震、山崩といふやうな天變地異から、禁厭、加持、調伏、呪咀、卜筮といふやうな妖術。神詫、夢想、功力、靈驗、前兆、冥罰、祟惱といふやうな神怪――
 執念、地獄、天堂、因果、應報といふやうな宗教上の奇蹟から、鬼神、惡魔、怨靈、陰火、天狗、河童、人魚、神仙、轆轤首、雨女郎、雪女、舌長姥、姑獲鳥うぶめ、海坊主、船幽靈といふやうな妖怪變化。狐、狸、猫、犬、獺、狼、猿、烏、梟、雉子、鴛鴦、鰻、鯉、鱶、蟹、蛇、蜥蜴、蟇、蜘蛛、榎、椿、銀杏、柳、檜、蘇鐵、竹などの動植物の怪異怪精――
 人面瘡、殺生石、血天井、肉附面、夜泣石、離魂病、龍宮、塔鳴、風穴、枕返し、鎌鼬、送提燈、反魂香、七不思議――
 お岩稻荷、累ケ淵、皿屋敷、安達ケ原、小夜衣さよぎぬ草紙、佐倉宗五郎、小幡小平次、鍋島騷動、淸水寺淸玄、法界坊、文彌殺し、天竺德兵衞、紅葉上人、戻橋――
[やぶちゃん注:
「小夜衣草紙」は「さよごろもぞうし」と読み、吉原の花魁小夜衣が、恋仲であった深川の豪商材木問屋浜田屋の若旦那源次郎に裏切られて自殺後、源次郎に祟るという本格怪談の講談。
「法界坊」歌舞伎「隅田川続俤すみだがわごにちのおもかげ」の通称。奈河七五三助ながわしめすけ作。天明四(一七八四)年五月初演。浅草聖天町に住む破戒僧の法界坊を主人公とするピカレスク・ロマン。終盤に殺された法界坊と彼に殺された女の霊がハイブリッド化した怨霊が登場する。梗概はウィキの「隅田川続俤」などを参照されたい。
「文彌殺し」歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠つたもみじうつのやとうげ」の通称。安政三(一八五六)年初演。二代目河竹新七(黙阿弥)作。「宇都谷峠」とも。やはり悪の因果律に翻弄される伊丹屋十兵衛を主人公としたピカレスク・ロマンで、後半に文弥の亡霊が十兵衛とその妻を悩ませるホラー・シーンがある。梗概はウィキの「蔦紅葉宇都谷峠」などを参照されたい。
「天竺德兵衞」実在した商人で探検家天竺徳兵衛(慶長一七(一六一二)年~?:ベトナム・シャム(現在のタイ)などに渡航し、ヤン・ヨーステンとともにインドへ行き、ガンジス源流にまで至ったという。)の伝承や、彼を妖術使いの主人公とした後世の、近松半二作の浄瑠璃「天竺徳兵衛郷鏡てんじくとくべえさとのすがたみ」、四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべええいこくばなし」などを指していよう。
「紅葉上人」不詳。識者の御教授を乞う。
「戻橋」一連の安倍晴明の一条戻橋伝承を指すと思われる。]
 私はまた昔の西洋の學者が研究したと言はれてある alchemy の話から、古代の fairy tasel、希臘羅馬ギリシヤローマあたりの mythology、近くは有名な倫敦塔の亡靈、伯林ベルリン王城の白衣婦人の怪談に移り、最近歐洲の學界に、やかましく論爭されている心靈問題や、幽明交通問題に沒頭して、交靈術、催眠術、傳心術、降神術、變心術、幽靈寫眞、變態心理、精神療法などの事も、原書により譯書により一通りは讀む事が出來た。毎日の新聞にも注意して當時我國の學者仲間を惱ました千里眼問題、念寫問題を興味を以て迎へた。雜誌の口繪や插繪などに妖怪畫がのせてあつた時には必らず切拔いて、右のノートブツクに貼り付けた。應擧、北齋、廣重、曉齋、行眞等の軸の寫眞版やら、月耕、蕉亭、淸方、松年などの現代畫家の描いたものやらがだいぶ集まつた。
[やぶちゃん注:
「alchemy」錬金術。
「fairy tasel」不詳。“fairy tale”(信じ難いお伽話)の誤植か?
「mythology」神話・神話集・神話体系・神話学(研究)の意。なお、語末に底本衣はない読点を打った。
「當時我國の學者仲間を惱ました千里眼問題、念寫問題」明治四三(一九一〇)年頃から翌明治四四年にかけて起った千里眼事件のこと。千里眼や念写能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らと、東京帝国大学助教授福来友吉や京都帝国大学の今村新吉といった、そうした能力の実在を肯定する一部学者及びそれを否定する学者らが、公開実験やその真偽について喧々諤々の論争を展開した事件で、千鶴子の自殺や福来の辞職といった不幸な結末を引き起こし、本邦でのアカデミックな超心理学研究が封印されることになった象徴的事件である。
「行眞」不詳。これは「鬼女図額面」や浅草寺の絵馬「茨木」などの鬼女や幽霊画を得意とした日本画家柴田是真しばたぜしん(文化四(一八〇七)年~明治二四(一八九一)年)の誤りではあるまいか? 識者の御教授を乞う。
「月耕」浮世絵師・日本画家の尾形月耕(安政六(一八五九)年~大正九(一九二〇)年)。
「蕉亭」画家森川蕉亭(明治五(一八七二)年~?)であろう。浅草生れ。
「松年」日本画家鈴木松年(嘉永元(一八四八)年~大正七(一九一八)年)であろう。]
 さうして私が益々怪談といふものに深入りして、遂にはどうにかして、自分が實地、震えあがるやうな異變に出會して見たいと考へるまで、その執着が狂躁な有樣に進んだ頃、私はふと向島の方に五日會と名乘る物數寄ものずきの一連があるといふ噂を耳にした。
 この會はその名の示す通り、毎月五日に必らず開催されるのであつて、その晩は會員が相集まつて各々百物話をするといふのが目的であつた。極小人數の會員であつたが、連中は皆そのあたりの金持の隱居や、大家の檀那衆で、これに時々一流の藝人が加はるといふのであつた。
 もとより震災前のことである――吉原を中心とした、花川戸、駒形、藏前、向島などの界隈には、三圍みめぐりだとか待乳山だとか山谷堀だとか、土手八町だとか、そのおんのなかに江戸時代の古い面影を忍ばせるに充分な響をもつてゐる場所が澤山殘つてゐて、船板塀の小意氣な新宅や、忍び返しを折り𢌞した塗籠ぬりごめの角屋敷のある街を、糠袋をくはへた湯上りの姿の藝者や、緋鹿子の可愛らしい娘や、雪駄をはいたおとなしな色白の若旦那などが往來ゆきかふ――まだ錦繪の三枚續きを見るやうな心持ムードの味はれる土地柄であるから、むかしの江戸の beau monde が自慢に殘して置いた「通」といふものも、かうした處に住んでゐる人がうけついでゆくべきものであると、私はいつもさう考へてゐた。
[やぶちゃん注:
「土手八町」現在の東京都台東区の日本堤のこと。ウィキの「日本堤」に『日本堤の名はもともと江戸時代に作られた土手道を指したもので、現在の土手通りにあたる。土手は、今戸橋(待乳山聖天付近)から箕輪浄閑寺にかけて、水路に沿って築かれていた。下流の山谷堀近辺では両岸に土手を築いていたことから「二本堤」と呼ばれるようになったという。吉原が移転してきてからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった』とある。
「角屋敷」「かどやしき」と読む。一般名詞としては、道路の曲がり角にあって二面が街路に面している屋敷のことだが、固有名詞で江戸古町の四つ角にあった屋敷のことをも言う。所有者は将軍に拝謁できたので、御目見おめみえ屋敷とも言った。角屋。ここは前者でよいか。
「beau monde」フランス語で、上流社会、社交界の意。]
 その「通人」達の怪談會は、どんなに珍奇な趣向が凝らされ、どんなに多趣味な怪談が物事られるであらう。――私はどうにかして一度だけでいいから、その會に出席して見たいものだと思つた。
 けれど、相手がさういつた金錢に絲目をつけぬ能樂のうがく仲間の會であるから、學生などの野暮くさいものは容易に寄せつけはしまいと考へたので、私はまづ丁寧な挨拶からはじめて、次に私が怪談に熱中した次第を述べ、最後に出來るならば一回だけ貴會に列席させて頂けまいかといふことを長々と手紙にしたためた。そして件の手紙を新小梅町の藤日二瓢氏宛に差出した。藤田といふのは兩國邊の或る大きな質屋の隱居で、當時新小梅町の別宅に風流な月日を送つてゐる老人であつた。五日會の肝煎をしてゐて、會はいつもこの別宅で開かれる事になつてゐた。二瓢というは老人の雅號であつた。
 どうだらうか、とても駄目には違ひなからうがと内々はあきらめて待つてゐると、二日たつて返事が來た。早速開封して見た處、案に相違して私は大變に歡迎された。書面によつて見ると老人は思ひがけぬところから思ひがけぬ手紙を受取つたが、自分の一存でもきめられぬからといふので、暇で困つてゐる老人は御苦勞にも、私の手紙をもつて一々連中をまはつたさうで、その結果、來る五日會には私を客としてよばうといふことになつた。しかしその代りなにか一趣向ある怪談を土産にもつて來て貰ひたい。西洋の怪談は禁物だ。噓でもいいからなにかひねつたおつヽヽな話を仕入れて來いと、矢張り通人のいひさうな註文が書いてあつた。
 私は例のノートブツクをくつて、そのなかからなるべく老人の誂向に近いやうな怪談を選り出した。そして五日の來るのを指折り數へて待ち構へた。
 ちやうどその五日は都合よく土曜日にあたつてゐた。私は當日、學校の授業が終るとすぐ支度して、日暮前に寄宿舍を見すてた。本郷三丁目から電車に乘つて淺草雷門前で降りた。吾妻橋を渡り、左に折れると麥酒ビール會社の窓硝子に暑い入日が火のやうに燃えてゐた。八百松のあたりは端艇ボートの練習歸りなどに屢々散歩した事があつて、あの邊の地理は比較的に詳しく通じてゐた。藤田の別宅があるといふ小梅町もよく知つてゐた。
 藤田の別宅はすぐ分つた。要冬靑垣かなめをまばらに結び𢌞した木深い構へで、破風付の玄關にならんで昔風の千本格子の窓が設けられ、中硝子の障子から來客を認められるやうになつてゐた。女中に案内を乞うて待つてゐると、額際のてらてら禿げたひんのいい老人が氣輕に出て來て、
「やあ、これは入つしやい。私が藤田二瓢で……もう連中は詰めかけて居ります。御挨拶は此間の手紙で致して置きましたから、今日はぬきといふ事に願いひませう。さあずつとお上り。」
 と人をそらさぬ口調くちぶりで私を迎へて呉れた。
[やぶちゃん注:「要冬靑垣かなめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ Photinia glabra で拵えた生垣。]
 この夜、集まつたものは、竹香、龜樂、霞風、鯉中に二瓢老人と私を加えた六人で、このうちの鯉中というのは當時羽振のきいた吉原の封間、その他は皆もの持の旦那衆であつた。
「御連中。このお方が原さんで……」
 と二瓢老人は一同に私を紹介してくれた。
 怪談會の開かれた座敷は十二疊の大廣間で、打水をした涼しい庭にのぞんでゐた。この庭は晝間見ると老人の好みで、東海道の原吉原の景色に形取つてあるといふ事であつた。折々泉水に鯉の跳ねる水音や、築山に生えた一叢ひとむらの若竹の戰きなどが耳にはいつた。
 つやつやみがき込んである南天柱の床の間には、「人生至盛之純陽、鬼者幽陰之邪穢」と書いた今夜の會合にふさはしい軸が懸けられてあつた。凝り性の老人が、用のないのにまかせて探し出したものと見受けられた。
[やぶちゃん注:
「人生至盛之純陽、鬼者幽陰之邪穢」「人生は至盛の純陽、鬼者は幽陰の邪穢じやわい」と訓ずるか。『生ける人は究極の全き陽の合一体であり、死者は幽冥の陰気の凝った邪悪なる穢れの存在である』といった意味か。引用元等は不詳。]
「今夜は少々趣向があるのです。話の順は例の通り籤をひくことにして、番にあたつた人は話を終えると裏二階の一番奧の部屋までゆくのですね。そこには繪帛と繪具などを揃へて置きましたから、それへ寄合ひ描きをしようといふのです。お互ひにすこしは、やつた道だからなにかできますさ。畫題は一番はじめに當つた人の話を取りませう。鯉公も描くんだぜ。原さんも學校でおやんなすつたらうから是非願ひます。」
 と開會するにあたつて二瓢老人は當夜の趣向を話された。
「今度は小道具をつかひましたね。しかし面白い思ひつきだ。」
「奇妙々々。」
 一座は手をうつて老人の考案を賞讃した。早速籤をひいて順番がさだまつた。二瓢、龜樂、竹香、霞風、鯉中――私は自分から願つて殿しんがりにしてもらつた。
[やぶちゃん注:
「繪帛」「えはく」。日本画を描くのに用いる平織りの絹。]
 女中が來て廣間の洋燈ランプを彼方に持つて行つてしまつた。老人は戸棚から提灯を取り出して薄暗い灯を點した。見るとそれは白張提燈であつた。
「二瓢子、大あたり。」
「いよ、御趣向々々々。」
 一座はまたなりをあげた。
 九時になつて、怪談會はまづ二瓢老人の話からはじまつた。
 ――一節切ひとよぎりの師匠をしてゐる盲人が、品川の遊女を買ひ染んだ。女は脇の下にこけらが生えてゐるといふ海山千年のしたたか者であつた。さんざ無心をいつて金を捲き上げてしまふと、その儘あはれな盲人を捨ててしまつた。女の無情を恨むのあまり盲人は、三疋狂い獅子の彫つてある祕藏の一節切ひとよぎりはすに切り、その切先で喉をついて死んでしまつた。すると間もなくその遊女も物狂はしくなつて、笄の折れで同じく喉をついて死んだ。笄には三疋狂い獅子が蒔繪にしてあつた。――
[やぶちゃん注:
「一節切」尺八の前身ともいわれる楽器で、名称は一節分の長さの竹で作られていることに由来する。]
「なる程。こいつは飛んだ面白い繪が出來ますぜ。」
 と、座敷を出てゆく二瓢老人を見送りながら、次の番の龜樂氏が粲然と笑つた。話は順に進行した。
 ――好んで蛇を喰ふ乞食があつた。毎晩神社の繪馬堂に入つて寢た。すると或る夜の夢に乞食は大蛇に襲はれた處を見たが、驚いて思はず聲をあげると眼がさめた。それからは夜な夜な續けてこの恐ろしい夢を見た。ある朝ふと見上げるとちやうどいつも自分の寢る眞上に繪馬が懸つてゐて、それに夢に現はれると同じ大蛇が描いてあつた。乞食はその後黑癩こくらいといふ、千萬の神佛に憎まれたる定業ぢやうごふの病で死んでしまつた。――
[やぶちゃん注:
「黑癩」ハンセン病の一病態を指す古称。皮膚が炎症を起こして変質、斑紋状に赤褐色乃至灰褐色を呈することに由来する。古人はそれが、生きながらにして地獄の業火に焼かれている業病ととった。]
 ――大きな湖を隔てて町の男と、村の女とが相愛した。夜毎の戀の暗闇を、男が迎へ心に灯して置く町外れの寺の常夜燈を目あてに、女は湖を泳ぎ渡つて、變るな變らじと心ひとつに契つた。しかし男の冷めやすい心は長く女を守らなかつた。女が執念くあひに來るのがうるさくなつて、男は或る夜、常夜燈に燈を入れなかつた。溺死した女の死骸が翌朝見出された。それから後、村から町へ嫁入するに、この湖を渡つてゆくと、きつと緣がつづかなかつた。――
 ――口と兩手兩足に筆をもたせて衝立へ忽ちのうちに見事な龍を描きあげるといふ、名譽な繪師があつたが、或る寺に賴まれて六十八枚の格天井がうてんじやうを描く事になつた。この格天井の欄間には瀧潜りの千鳥がすかし彫りしてあつた。繪師はふとこの欄間の千鳥を見てその刀法の妙に驚いた。彼は筆をとるなり六十八枚の格天井に六十八態の千鳥を描いた。そして再び欄間の千鳥を見あげた時、自分の藝術が遙かに劣つてゐる事を發見した。繪師はくち惜しさの餘り、この欄間で縊死してしまつた。一箇月たたぬ間に、何とも名の知れぬ無數の蟲がわき出して欄間の千鳥だけをひつくしてしまつた。――
 ――心に從はぬとて、美しい腰元が大名の妬みの刄にかかつて、無慘にもお城の空井戸に投げ込まれた。一日たつて井戸の蓋石をどけて見たら、不思議にも腰元の死骸は無くなつてゐた。そしてどこから集つたか、井戸の中には身動きのならぬほど澤山な居守が小さな眼をひからしながら眞黑に蠢めいてゐた。殺される時女が取りすがつて泣いたといふ、井戸際の竹は涙の跡を止めて、今だに斑竹となつて生えてゐる。――
 この最後の話は封間の鯉中が話したので、鯉中は隣室に自分の女房を連れて來て置いて、話半ばに女房に三味線を彈かせ、自分は聲色をつかつて滿座のやんやを買つた。みな話をすますとひとりびとり座を立つて二階へ上つて行つた。一室を通る毎に襖を開閉あけたてする音が階下したまで幽かに聞えた。
「行つた行つた。」
 と二瓢老人は上つて行つた人の跫音あしおとを數へて、一座の顏見𢌞はしながらちいさな聲で面白さうに笑つた。下りて來た人は、
「なんでもないことなんだが、あんまりいい氣持もしないもんですね。」
 といつて苦笑した。
 鯉中が「ああ、嫌だ嫌だ。」と大聲あげて下りて來て、仰山たらしく胸を撫でおろしながら、「なんか描こうと筆をもつと、後ろから私の頭越しに誰かが覗いて見てゐるやうな氣がして落ちついては描けませんや。手が震えるのを幸ひに煙を描きやした。」と坊主頭をしきりに平手で敲いて、皆を笑はせた後、私は番になつたので次の怪談を物語つた。
 ――男に棄てられた妬婦が、どうして己れはかく醜く生れついたのであらうと、われとわが姿を鏡にうつして呪つた。そして妬婦は眼に見ゆる、あらゆるものを呪つて悶え死に死んでしまつた。鏡はのち或る寺の鐘を鑄るために寄進についた。鐘は鑄上つたが、怪しい事に、一つの鏡だけがとけないで鐘の表面に浮びでた。鏡の裏の鶴龜の凸鐫うかしぼりによつて、この鏡は妬婦のものであることがわかつた。鐘は幾度もつかれたが、その音には底濁りのした、呪はしい響を混へてゐた。有德の寺僧が鏡に或る尊い經の文句を書きつけたら、鏡はほろりととれてしまつた。鐘ははじめて美しい音を發するやうになつた。――
[やぶちゃん注:底本では最後の方の「鏡はほろりととれてしまつた」の末尾が「しまた」となっている。訂した。]
 と話がすむと、
 「隨分凄うがすぜ。氣を付けてお出なはい。」
 鯉中はへへら笑いをした。
 私は座敷を出て、教へられたとほり暗い庭に面した鉤の手𢌞り緣を段々傳うて行くと、左に曲つて緣のゆきつまりは欅の遣戸になつてゐた。一方の塵と深い片庇の加減で、このあたりはことに暗かつた。引手をとつてがらがらと戸を開けて見たら、すぐ眞上の天井から陰氣な金網燈籠が釣下つて、まぼろしのやうに四壁を照らし、私の影は小さく遣戸の隅にひらめられた。遣戸をもとの通りに閉めよせ、正面の梯子段をみしみし踏みしめ乍ら、二階へのぼつて行くにつれて、燈籠を後ろに背負つた私の影は自然下から上に投げあげられ、階上の欄間につかへるやうな奇怪な坊主頭がたてこんだ四枚襖の表面を黑い魔のやうに飛躍した。襖をあけると、それから先は其暗で、燈籠の燈はどんなに招いても進んで來ず、あとに居殘つて臆病げに光つて許りゐた。私は其暗な部屋から部屋へ襖を開け開け進んで行つた。
 最後の部屋は上つてから四室目であつた。一面に緋毛氈を敷きつめた四疊半で、掛地も額も置物もすべて室内の裝飾品はすつかり取り除かれ、風が吹き拔きぬけたやうに、がらんとした一間であつた。繪帛を張りつめた木框わくが室の眞中に横わり、その右方に繪具皿が五六枚と筆洗、筆立が居並んで、磨きあげた眞鍮の燭臺には蠟燭が寂然と燃えてゐた。
 私はつかつかと歩み寄つて繪帛の前に坐つて。――桔梗、刈萱、女郎花など、哀れに描いた二枚折の屏風の前に、髮ふり亂した遊女が、右手に笄の折れを握りつめたまま、がつくり前のめりに倒れて、傍に蚊遣火が陰欝な煙を揚げてゐる圖――銘々自分の描いた部分には、それぞれ落款がしてあつた。みんな嘗ては凝つた道であると見え、運筆も手際よく、形も巧者に整つてゐた。
 私は繪帛にむかひ乍ら、胸の中から種々の怖ろしい妄想や、物凄い幻覺を驅り出し、さまざまの色や形にして、この繪の上にあてがつて見た。
「さうだ。血だらけにしてやらう。」
 と私は繪具皿の中から生臙脂しやうえんじを溶かした皿を見つけて、濃い丹を加へ、どろりとした生血をつくつた。そして俯伏した女の喉から膝へかけて、苦しい斷末魔の血糊をだらだらと流した。
「血だらけだ。血だらけにしてやるんだ。」
 と私はなにか魅入れたやうに獨りでつぶやき乍ら、笄を握りつめた白い腕を血に染めた。
「血だらけ――血だらけ――」
 私は煎じ蘇枋の德利を傾げたやうに、膝の血を落して疊の上をぬらぬらとはわせ、屏風へは虛空をつかんでのたうち𢌞はつた名殘の手形まで、べつたりとつけた。
[やぶちゃん注:
「生臙脂」臙脂に同じい。江戸時代に中国から渡来した鮮やかな紅色の染料。有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoideaのカイガラムシ(エンジムシとも呼ぶ)の一種が寄生して変性した樹脂から採取し、絵画の彩色や友禅染・更紗染さらさぞめなどに用いる。]
 座敷へ戻つて來ると、二瓢老人は、
「大分長かつたですな。どんな風の繪が出來ました。」
 と私を見迎へた。
「もうすつかりでき上つてゐましたから、私が血だらけにしてやりました。」
「血だらけ?」
「まあ、あとで行つて御覽なさい。」
 と私は笑つた。
 以前の女中がやつて來て、白張提燈を洋燈と取り換へて行つた。そこへ用意の酒肴が運び出されて、一座はまた陽氣になり、本所、深川、麻布の七不思議、四谷紀州屋敷の怪異、淺草新堀の鮭塚の話、赤羽橋の米磨き婆の話などから、夜網に出掛けて大きな冬瓜を引上げ吃驚した滑稽譚、故人菊五郎のお岩の凄かつた事など、興味の多い小話が賑かに談笑された。
 大分夜が更けたやうであるから、電車のなくならぬうちにと、私は早々暇を乞ひ、藤田邸を出て大急ぎで雷門の前まで駈けつけ、上野行の電車に飛び込んだ。車中の客は同じ印の袢天かんばんを羽織つた職人の一組ぎりで、三人とも寄掛り合うて、車の搖れる度に身體をぐらぐらさせながら居眠つてゐた。
 私は車掌臺に近く腰をおろして、今夜席上で出た話やら、二階の繪帛の事やらを思ひ浮べたり、
「金のつかい場に因つてゐる人達は、妙な道樂をするものだ。」
 などと心の中で獨り笑つたりした。突然電車がとまつた。顏をあげて見ると直ぐ前にも電車がとまつてゐる。三人の職人連はみな眼をさましたが、
「おや、どうしたのだ。停電かい?」
「見や。天井には電氣がついてるぜ。寢ぼけなさんな、人樣がお笑い申してらあ。」
「おい、おい。窓から覗いて見ねえ。大變な電車の行列だから。」
 窗から覗いて見ると、なるほど職人のいつた通り二十臺に近い電車がずつと並んでゐた。私の乘つた電車の後にも早や三臺許り續いてゐる。ちやうど車坂町を少し過ぎた處であつたから、ここから寮までならばもう歩いた方が早からうと考へたので、私は電車を降りた。
「女がかれたんだ。大變な血だ。」
 と譫言うはごとのやうに呟いて、一人の男が私の前を駈け拔けた。
「血だらけになつてやがる。」
 すぐ續いてほかの聲が、私に耳を疑ふ暇さへ假さずつひそばを通り過ぎて、さきの男の言葉を保證した。
「血だらけ?」
 私はなにか大きなもので、後腦に不意の一撃を加へられたやうな氣がした。數十歩の先には群衆が黑山のやうに蠢めき、赤と黑のすぢを入れた警官の提灯が、事ありげにその間をちらちらしてゐるのが認められた。私は電車の後ろを𢌞つて街の向う側へ出た。そして群衆の方から顏をそむけて足早に廣小路の方へ歩いた。
「素敵な血だ。」
 また私を脅やかすやうな人聲が鬼ありて命ずる如く、執念深く後ろから追ひすがつた。私ははじき飛ばされたやうにあはててそこから聲の達せぬ彼方までのがれた。たまらなくなつて兩手で耳を塞ぎながら歩いた。そして三橋の傍で俥に乘つた。俥は鉄漿おはぐろを吐きためたやうな不忍池に沿うて、地から湧き出た atramental な闇をくぐつて走つた。私の神經はこの時、著しく興奮して手足の先は、まるで蝸牛の觸角のやうに鋭敏な感覺をもち、觸るるものによつては、毛髮を逆立たせ、滿身の膚に粟を生ぜしめねばやまぬとまで疑はれた。
「旦部、電車に轢かれた女を御覽なすつたか。」
 と俥夫は走りながら、思ひ出したやうに私の方を振り向いた。
「見ない。」
 私は息がつまつて、眼をつぶつた。
「血だらけ!」
 そしてこう叫んで、ぶるぶると俥の上で震えあがつた。
 ――私が肩の凝らぬ humorous な一九、三馬、鯉丈などの戲作本に遊んで、欲すれば讀み、飽けばごろりと横になつて「うたた寢の顏へ一册屋根にき」、のんきな月日を樂もうとしたのは、それから後の話である。
[やぶちゃん注:
「假さず」「かさず」は、与えずの意。
「atramental」“atrament”は「墨・インク・黒い液体」の意の名詞で、その形容詞形。
「鯉丈」滑稽本作家滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?~天保一二(一八四一)年)。代表作は「花暦八笑人はなごよみはつしようじん」「滑稽和合人」など。末期江戸町人の遊戯生活を如実に描いて、十返舎一九・式亭三馬につぐ滑稽本作者として持て囃された(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]