やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ
女誡扇綺譚 佐藤春夫
[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(ぢよかいせんきたん(じょかいせんきたん))は大正一四(一九二五)年五月発行の『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。
底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪の餌食にでもなったものか?)。
本篇は既にブログ版(カテゴリ「佐藤春夫」)で最小限の注を附したものを分割(全十回)公開済みである。このサイト版はその注を、原則、除去した一括版である(表記上の疑義注記その他どうしても必要と思ったものは残した)。ブログ版の私の語注群(「愛蓮說」の注など)も参照して戴ければ幸いである。
そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼」の別名で「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”は“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し』、『商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤鯓沙洲』(いちこんしんさす)『(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し』、『厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経は』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され』、『昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。【2020年8月15日削除・追記訂正:本注末尾をまず参照されてから読まれたい。河野龍也先生の御指摘により、私の誤認であることが判明した。以下、河野先生のメールより引用させて戴く(引用は河野先生の許諾を頂戴している。以下同じ)。まず、①点目。
《引用開始》
『作品冒頭の舞台になっている「赤嵌城」ですが、これは安平の「ゼーランジア城」現在は「安平古堡」[やぶちゃん注:「アンピンこほう」と読む。]と呼ばれている史跡の日本時代の通称です。一方、現在でも「赤嵌楼」と呼ばれる「プロヴィンティア城」は、安平ではなく台南の市内にあり、両者は5キロほど離れた全く別の場所に存在しています。作品に出てくるのは 安平の「赤嵌城」=「ゼーランジア城」のことで、春夫の記述に間違いはなく、確かなものです。「赤嵌楼」の方はもともと作品に登場しません。
《引用終了》
とのことであった。安平古堡はここ(グーグル・マップ・データ)で、私が誤認した赤崁楼(グーグル・マップ・データ)はそこから東の内陸に入った全く別のここであった。日本統治時代の通称の亡霊が私に祟ったわけであった。ウィキの「安平古堡」によれば、同城塞は『旧称を奧倫治城(Fort Orange、オラニエ城)、熱蘭遮城(Fort Zeelandia、ゼーランディア城)、安平城、台湾城ともいう、1624年に建設された台湾で最も古い城堡。建城以来、オランダ統治時代にはオランダ東インド会社による台湾統治の中心地として、また鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用されていた』。『現在は台湾城残蹟の名称で国家一級古蹟に指定され、一般にも開放されている。なお』、『現存する赤レンガは当時インドネシアから運ばれてきたものである』。『1622年、オランダ東インド会社はマカオの占領を図った。しかし、現地のポルトガル人が抵抗したため断念、澎湖島を占拠して東アジア貿易の拠点を築こうとした。しかし、この地も明によって撤去が求められたため、1623年、オランダは台湾に進出し』、『一鯤身に簡易な城砦を築城した。これが安平古堡の前身である。その後』、『1624年に明軍と8ヶ月に及ぶ衝突を繰り返し、その結果』、『オランダと明の間で講和が成立、澎湖の要塞と砲台を破棄する代わりに、オランダが台湾に進出する事を認める内容であった。台湾にオランダ勢力が到着すると、既存の簡易な城砦を再建し「奧倫治城」(Fort
Orange)と命名、1627年に「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia)と改名され』て『建設が続けられ、1632年に第1期工事が完了した。当時、この城砦は台湾に於けるオランダ勢力の中枢として、行政及び貿易を統括していた』。『1662年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功は、新たな拠点を構築するために台湾を攻撃、既存のオランダ人勢力と対立し』、『ゼーランディア城を攻撃した。その結果』、『オランダ人勢力は台湾から一掃され、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった』。『しかし1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。1873年、イギリス軍艦の攻撃を受けたが、その際』、『イギリス軍の放った砲弾が城内の火薬庫に命中爆発、甚大な被害を受けた城砦は廃墟と化してしまう。1874年、台湾出兵問題で日本と善後策を協議した沈葆楨』(しんほてい)『は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城建設の資材とした』。『日本統治時代、城垣は整地され』、『日本式の宿舎が建設され、オランダ時代に築城された城砦は完全に姿を消すこととなった。戦後、国民党政府は城址を「安平古堡」と命名し、僅かに残る城址の保護を決定、現在は中華民國内政部によって一級古蹟の一つとされている。現在観光客が展望を楽しんでいる高台は、日本統治時代に建設されたものであり、保護対象の安平古堡には含まれていない』とある。次に②点目は、私が、佐藤春夫は本文で「TE
CASTLE ZEELANDIA」と記しているが、「“TE”は“THE”の脱字か?」と記した箇所で、河野先生は、
《引用開始》
「TE CASTLE ZEELANDIA」の表記は、春夫が台湾旅行の際、アドバイザーの森丑之助から贈られた案内書『台湾名勝旧蹟誌』(杉山靖憲著・1916.4台湾総督府)からの引用です。しかし「CASTEL(カステル)」と原文にあるのを、恐らく春夫自身が「CASTLE(キャッスル)」に見誤って引用したため、このようになりました。したがって「TE」は英語の定冠詞「THE」の脱字ではないようです。これは当時のオランダ語の表記法を調べる必要がありますが、そこまでは手が及んでいません。ただ、1871年の古写真を見ると、ゼーランジア城の門額に「T
CASTEL ZEELANDIA」の綴りを読むことができます。『台湾名勝旧蹟誌』が「T」を「TE」としたのは、依拠文献を含めた転記過程に問題がある可能性もあります。
《引用終了》
と述べておられ、「台湾名勝旧蹟誌」の現物画像も添付して下さり、確認出来た。因みに、森丑之助(明治一〇(一八七七)年~昭和一五(一九二六)年)は台湾民族の研究者で、台湾守備隊附陸軍通訳となり、台湾総督府蕃務本署勤務を経て、大正五(一九一六)年、台湾博物館主事となり、高砂(たかさご)族(=高山(こうざん)族)の研究者として知られた。帰国する船から入水自殺して亡くなっている。】
その他、幾つかの実在した人物名や現地の地名が出るが、注は読解に必要と考えた対象以外は概ね省略する。私の注方法だと、読みのリズムが阻害されてしまうからである。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市(ここ(グーグル・マップ・データ)である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。
その他の特異な語句等の意味は、概ね、ブログ版で各段落末に私が附しているので、参照されたい。
また、底本は総ルビであるが、サイト版は読みを一部の中国音の箇所、及び難読字や判読が無暗に振れると私が考えたもの(但し、初回出現部に限ったものも多い)を除き、総て除去した(単にルビ・タグ処理が面倒なためである。厳密には、私のHTML作成ソフトがボロく、自動修正をオフにしているにも拘わらず、多くのルビ・タグを振ると、勝手におかしなタグに変更してしまい、一からやり直さねばならなくなり、今回もそれを三度もやられてしまい、どうにも堪忍ならなくなったからである。追加訂正もそのソフトを用いずに、メモ帳で開いて訂正している始末である)。読みが不安な箇所は、私のブログ版或いは上記底本画像を確認されたい。【2017年10月23日公開 藪野直史――三女アリスのために――】
【2020年8月15日削除・追記訂正:一昨日、日本近代文学の研究者であられる河野龍也先生より以下のメールを頂戴した(冒頭部分)。
《引用開始》
ブログを楽しく拝見しております。突然のお便りをお許しください。私は実践女子大学で日本近代文学の講座を担当しております河野龍也と申します。
実は三省堂の教材に愛読書の「女誡扇綺譚」を取り入れまして(『大学生のための文学トレーニング』近代編2012年)、学生とこの作品を読む機会がたびたびあり、ご苦心のテキスト版と註釈に最近は多くの学生が助けられております。これまではなかなか簡単に手に入らなかったテキストをいち早く作成してくださったことは、私も勝手に知己を見出したような会心の思いでおりました。三省堂の教材でも、紙幅の関係で抄録しかできていません。
こんど8月21日に、春夫の「台湾もの」の主要作品をほぼ収録した本を中公文庫から出すことになりました。『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』というタイトルです。「女誡扇綺譚」に魅了されて「春夫と台湾」のテーマにのめりこみ、国立台湾文学館に交渉して実現した春夫展が台南で開催中です。日本と台湾でこれからますます愛読者が増えていくに違いありません。
あまりぶしつけになってもと控えておりましたが、今後注釈についての照会もある場合を考えまして、この機会に、気になっておりました点をお知らせしたいと思い立ちました。
さしあたり、次の3点でございます。[やぶちゃん注:中略。指示して下さった部分は本注の前に二箇所、「一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の「輞」の注で、新たに各個に附した。]
舞台となった幽霊屋敷の場所ですが、私が2011年に発表した中間報告を手掛かりに、川本三郎氏を案内するため、台南在住の黒羽夏彦さんが調べてくださったものが、ネットでよく参照されるようです。ただ、黒羽さんは私がそのとき発表していた最新の報告を台湾で入手できなかったため、ここで少し混乱が生じました。そこへさらに、地元で観光客を呼び込みたいある店主の思惑が絡んできて(黒羽さんの文章にも出てきますが)めちゃくちゃな説を台南で喧伝しているので、ちょっと頭を抱えています。この経緯自体が何か綺譚めいております。
幽霊屋敷のモデルは、日本時代の地籍図や土地記録から検証して2か所を想定しています。一つは上記の「廠仔」で新垣宏一が戦前に紹介した場所、もう一つ私が新たに候補に挙げたのは「沈德墨」という豪商の家で、両方を参考にしたというのが現在の私の見方です。醉仙閣については場所が確定し、建物の一部現存も分かりましたので論文で報告しました。これらは中公文庫の解説にも触れておきました。
「赤嵌城」と「赤嵌楼」については『台湾鉄道旅行案内』大正13年版(1924.9台湾総督府鉄道部)の案内記事を、「輞」については『字源』(1923.5初版、1930.11縮刷改版、明治書院)を、また幽霊屋敷と醉仙閣に関する拙論もPDFでお送りいたします。この問題については現下では最も正確な情報かと存じます。Ciniiにリンクがありますので、誰でも入手できます。
①「女誡扇綺譚」の廃屋 : 台南土地資料からの再検討 (『成蹊國文』2017.3)
②佐藤春夫の台湾滞在に関する新事実(二)― 土地資料を活用した台南関連遺跡の調査 ― (『實踐國文學』2016.10)
100年前の今日、佐藤春夫は打狗(高雄)の友人宅で、『台湾名勝旧蹟誌』を受け取った所です。[やぶちゃん注:何んと、奇しくも佐藤春夫が本作をものす体験の月日が、今現在、この私が追記をしているところの月日と完全に同期していたなんて!! 以下の河野先生のフェイスブックは新旧の現地の写真も豊富で必見!!!]100年前の春夫の旅を、日暦形式で追いかけています。ご興味がおありでしたら、私のフェイスブックを覗いてみてください。いずれ増補して出版する予定です。
急に差し出がましいお便りで申し訳ございませんが、学生をはじめ多くの読者に親しまれるブログであるだけに、影響力も大きく、可能であれば経緯を含めて、ご訂正をお願いできればと存じます。
《引用終了》
そうして、画像資料や論文も添えて戴き、非常に丁寧な解説と修正すべき箇所を御指摘戴いた。在野の校正者もいない私、数少ない奇特な嘗ての教え子のみが助力者である私にとって、これは誠に嬉しい御指摘なのであった。されば、ブログ版・サイト版合わせて、本日、その追記と修正を行うこととした。なお、先生からは別に、
《引用開始》
芥川の中国紀行が岩波文庫に入ったとき、山田俊治さんが本を送ってくださいました。ご承知のことかと存じますが、解説に藪野様への謝辞が見えたのが強い印象に残っております。大学で文学を学ぶ教室でも、藪野様の広い視野にわたる注釈の恩沢に浴している教員・学生も多いはずですが、ふだんはお世話になる一方でございます。今回このような機会にお話しできるのはありがたく、長年の積み重ねに改めて敬意と感謝を申しあげます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
《引用終了》
という過褒まで戴いた(山田俊治先生のそれは、私のブログ記事「岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)」を参照されたい)。私は実は最近、自分の今の電子化やそれらへの注作業が、世間的な意味に於いて、どれほどの価値を持つのか、という点について甚だ自信を失うようになってきている。私は自分やっていることが、全く無価値なのではないかと感ずることもしばしばある。しかし、この河野龍也先生のお言葉に際会し(それは相応の挨拶の礼式の辞であることは重々知りながらも)、私は自分のやっていることが、必ずしも無駄なわけではないと感じたのである。もう少し、僕は生きられる気がしたのである。されば、河野先生に心より敬意を表しつつ、削除と追記修正を施した。私の誤認部は抹消せず、取消線で示して、対照出来るようにしておいた。
なお、この修正版は、この原版を最初に公開した三日後に脳腫瘍のために安楽死させた三女ビーグル犬アリス(Ⅱ世)に捧げる。】]
女誡扇綺譚
一 赤嵌城址
クツタウカン――字でかけば禿頭港。すべて禿頭といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港の最も奧の港といふことであるらしい。臺南市の西端れで安平の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの說明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距つてゐる。沼を埋め立てた塵塚の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀に、それもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊なのだが、私はその日、友人の世外民に誘はれるがままに、安平港の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。
* * * *
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人はよく荒廢の美を說く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖、鄭成功の雄志、新しくはまた劉永福の野望の末路も皆この一港市に關聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを說かうとも思はないし、また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。
[やぶちゃん注:「また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない」文の繋がりが悪いが、ママ。――「好古家で」あり、「且」つ「詩人たる世外民なら」、「知らないこと」などなかろうから――或いは――「詩人たる世外民なら」ば容易に可能であるかも「知」れぬが――、「私には」うまくそれを説くことなどは到底「出來さうもない」といった意味であろう。]
臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうしてそこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。
「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。【2020年8月15日削除・追記訂正:】河野龍也先生より以下の御指摘を戴いた。
《引用開始》
「輞」について。これは1948年出版の文体社版『女誡扇綺譚』に「車の輞(は)」とルビがふってあります。「輞」の訓は確かに「おほわ」で、春夫の用例では『殉情詩集』に「わが胸は輞(おほわ)の下(もと)に砕かれたる薔薇(さうび)の如く呻く」とありますので、一字で「おほわ」と読ませようとした可能性が高いと思います。
しかしながら、戦前の簡野道明『字源』には「は、くるまの輪の外周を包むたが、車牙(くるまのは)」とあり、「輪」なら「わ」ですが、リムの部分を指す「牙」を「は」と読ませているようです。そのため、現代仮名遣いに変えても「は」で間違いとは言えないようです。
詳しく調べてみないと分かりませんが、音韻変化の中で「は」と「わ」に混乱が生じた例らしくもあります。訓読み自体にそもそも微妙な問題が含まれているのかも知れません。
《引用終了》
「リム」(rim)は、車などの車輪の外縁部にあって、全体の形状を支えている硬質の円環部分を指す。]
トロツコの着いたところから、むかし和蘭人が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づくりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽さへ型ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破れて穴があいてないものはなく、その軒には巢でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が、黑く集合して喋りつづけてゐる。
[やぶちゃん注:「蔓つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]
私たちは試みにその一軒のなかへ這入つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる傍に、この爺の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋の二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想も出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平の廢屋を一時、官舍にしたらよからうといふ說があつたが尤もなことである)。
赤嵌城址に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取ひろげながら、所謂安平港外の七鯤身のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絕と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく說明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖の址と言つたところで、その古を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。
私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それほどに安平の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限に重なりつづく濁浪は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中に、無邊際に重りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉の舢舨が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。
白く灼けた眞晝の下。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世外民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。
「ウ、ウ、ウ、ウ――」
不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒や檣などが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨はそれの艀で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。
「あの蒸汽はどこへ着くのだい」
私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――
「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」
「あそこへか。――あんな遠くへか」
「さうです。あれより内へは來ません」
私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――
「フム、これが港か!」
「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」
「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」
丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身たる出島の一つであつたと見えて、地質は自から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣が絕えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃と呼ばれてゐる胡弓をならし出した者があつた。
「月下の吹笛よりも更に悲しい」
詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。
私たちは再び養魚場の土堤の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港なのである.安平見物を完うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。
[やぶちゃん注:「空服」はママ。]
しかしトロツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜の多い、不潔な入組んだ場末といふより外には、一向何の奇もありさうには見えなかつた。
* * * *
* * *
禿頭港の廢屋
道を左に折れると私たちはまた泥水のあるところへ出た。片側町で、路に沿うたところには石垣があつて、その垣の向うから大きな榕樹が枝を路まで突き出してゐた。私たちはその樹かげへぐつたりして立ちどまつた。上衣を脫いで煙草へ火をつけて、さて改めてあたりを見まはすと、今出て來たこの路は、今までのせせつこましい貧民區よりはよほど町らしかつた。現に私たちが背を倚せてゐる石垣も古くこそはなつてゐるけれども相當な家でなければ、このあたりでこれほどの石垣を外圍ひにしたのはあまり見かけない。さう思つてあたりを見渡すと、この一廓は非常にふんだんに石を用ゐてゐる。みな古色を帶びてそれ故目立たないけれども、このあたりが今まで步いて來たすべての場所とその氣持が全く違つて、汚いながらにも妙に裕かに感ぜられるといふのも、どうやら石が澤山に用ゐてあることがその理由であるらしい。
この町筋――と云つても一町足らずで盡きてしまふが、この片側町の私たちの立つてゐる方は、それぞれに石圍ひをした五六軒の住宅であるが、その別の側、卽ち私たちが向つて立つた前方は例によつて、惡臭を發する泥水である。黑い土の上には少しばかりの水が漂うてゐて、淺いところには泥を捏り步きながら豚が五六疋遊んでゐるし、稍深さうなところには油のやうなどろどろの水に波紋を畫きながら家鴨が群れて浮んでゐる。この水溜の普通のものと違ふところは、これは濠の底に涸れ殘つたものであることである。大きな切石がこの泥池のぐるりを御丁寧に取り圍んでゐる。しかも幅は七八間もあり、長さはと言へばこの町全體に沿うてゐる。深さは少くも十尺はある。この濠の向うには汀からすぐに立つた高い石圍ひがある。長い石垣のちやうど中ほどがすつかり瓦解してしまつてゐる。いや悉く崩れたのではないらしい。もともとその部分がわざと石垣をしてなかつたらしい。その角であつた一角がくづれたのに違ひない。落ち崩れた石が幾塊か亂れ重なつて、埋め殘された角角を泥の中から現してゐる。その大きな石と言ひ巨溝と言ひ、恰も小規模な古城の廢墟を見るやうな感じである。いや、事實、城なのかも知れないのだ――崩れた石垣の向うのはづれに遠く、一本の竜眼肉の大樹が黑いまでにまるく、靑空へ枝を茂らせてゐて、そのかげに灰白色の高い建物があるのは、ごく小型でこそはあれ、どうしたつて銃樓でなければならない。圓い建物でその平な屋根のふちには規則正しい凹凸をした砦があり、その下にはまた眞四角な銃眼窓がある。
「君!」
私は、またしても古圖をひらいてゐる世外民の肩をゆすぶつて彼の注意を呼ぶと同時に、今發見したものを指さした――
「ね、何だらう、あれは?」
さう言つて私は步き出した、その小さな櫓の砦の方へ。――屋敷のなかには、氣がつくとほかにも屋根が見える。それの長さで家は大きな構だといふことがわかる。その屋敷を私は見たいと思つた。石圍ひの崩れたところからきつと見えると思つた。何でもいい、少しは變つたものを見なければ、禿頭港はあまり忌忌しすぎる。
石垣のとぎれた前まで來ると、それを通して案の定、家がしかも的面に見えた。いや、偶然にさう見るやうな意向によつて造られてゐたのである。また石圍ひの中絕してゐるのはやはりただ崩れ果てたのではなく、もとからそこが特にあけてあつた跡がある。水門としてであらう。何故かといふのに濠はずつとこの屋敷の庭の中まで喰入つてゐて、崩れた石圍ひの彼方も亦、正しい長方形の小さい濠である。十艘の舢舨を竝べて繫ぐだけの廣さは確にある。さうしてその汀に下りるために、そこには正面に石段が三級ある。――しかもその水は涸き切つてしまつて、露はな底から石段まではどう見ても七尺以上の高さがある。――もしこの石段にすれすれになるほど水があつたならば、今は豚と家鴨との遊び場所であるこの大きな空しい濠も一面に水になるであらう。それにしてもこれ程の濠を庭園の内と外に築いた家は、その正面からの外觀は、三つの棟によつて凹字形をしてゐる。凸字形の濠に對して、それに沿うて建てられてゐる。正面に長く展がつた軒は五間もあり、またその左右に翼をなして切妻を見せてゐる出屋の屋根は各四間はあらう。それが總二階なのである。――一たいが小造りな平家を幾つも竝べて建てる習慣のある支那住宅の原則から見て、これは甚だ大きな住居と言へるであらう。私はくたびれた足を休める意味でしやがんだ序に、土の上へこの家の見取圖をかき、それから目分量で測つた間數によつて、この建物は延坪百五十坪は優にあると計算した。一たい私は必要な是非ともしなければならない事に對してはこの上なくづぼらなくせに、無用なことにかけては妙に熱中する性癖が、その頃最もひどかつた。
「何をしてゐるんだい?」
世外民の聲がして、彼は私のうしろに突立つてゐた。私は何故かいたづらを見つけられた小兒のやうにばつの惡いのを感じたので、立つて土の上の圖線を踏みにじりながら、
「何でもない……。――大きな家だね」
「さう。やつぱり廢屋だね」
彼から言はれるまでもなく私もそれは看て取つてゐた。理由は何もないが、誰の目に見てもあまりに荒れ果ててゐる。澤山の窓は殘らずしまつてゐるが、さうでないものは戸そのものがもう朽ちて、なくなつてしまつたに相違ない。
「全く豪華な家だな。二階の亞字欄を見給へ。實に細かな細工だ。またあの壁をごらん。あの家は裸の煉瓦造りではないのだ。美しい色ですつかり化粧してゐる。一帶に淡い紅色の漆喰で塗つてある。そのぐるりはまたくつきりと空色のほそい輪廓だらう。色が褪せて白ちやけてしまつてゐるところが、却つて夢幻的ではないか。走馬樓の軒下の雨に打たれないあたりには、まだ色彩がほんのりと殘つてゐる」
私が延坪を考へてゐる間に、同じ家に就て世外民には彼の觀方があつたのだ。彼の注意によつて私はもう一ぺん仔細に眺め出した。なるほど、二階の走馬樓――ヹランダの奥の壁には、淡いながらに鮮かな色がしつとり、時代を帶びてゐた。事實この廢屋は見てゐるほど、その隅隅から素晴らしい豪華が滾々と湧き出して來るのを感じた。たとへばその礎である。普通土間のなかに住んでゐる支那人の家は、その礎は一般にごく低い。地面よりただ一足だけ高くつくられてゐる。それだのに今我我の目の前にあるこの廢屋の礎は、高さ三尺ぐらゐはあり、やはり汀に揃つた切石で積み疊んであつた。もつと注意すると、水門の突當りにあたる場所には、その汀に三級の石段があることはもう知つてゐるが、その奧の家の高い礎にもやはり二三級の石段がある。その間口二間ほどの石段の兩側に、二本の圓柱があつて、それが二階の走馬樓を支へてゐるのだが、この圓柱は、……どうも少し遠すぎてはつきりとはわからないけれども、普通の外の柱よりも壯麗である。上の方には何やらごちやごちやと彫刻でもしてあるらしい。その根元にあたるあたり、地上にはやはり石の細工で出來た大きな水盤らしいのが、左右相對をして据ゑつけてある。――これらの事物がこの正面を特別に堂堂たるものにしてゐるのが私の注意を惹いた。私には、そこはこの家の玄關口ではないかと思はれて來た。
そこで私は自分の疑問を世外民に話した――
「君、ここが正面、――玄關だらうかね」
「さうだらうよ」
「濠の方に向いて?」
「濠? ――この港へ面してね」
世外民の「港」といふ一言が自分をハツと思はせた。さうして私は口のなかで禿頭港と呼んでみた。私は禿頭港を見に來てゐながら、ここが港であつたことは、いつの間にやらつい忘却してゐたのである。一つには私は、この目の前の數奇な廢屋に見とれてゐたのと、もう一つにはあたりの變遷にどこにも海のやうな、港のやうな名殘を搜し出すことが出來なかつたからである。この點に於ては世外民は、殊に私とは異つてゐる。彼はこの港と興亡を共にした種族でこの土地にとつては私のやうな無關心者ではなく、またそんな理窟よりも彼は今のさつき古圖を披いてしみじみと見入つてゐるうちに、このあたりの往時の有樣を腦裡に描いてゐたのであらう。「港」の一語は私に對して一種靈感的なものであつた。今まで死んでゐたこの廢屋がやつと靈を得たのを私は感じた。泥水の濠ではないのだ。この廢渠こそむかし、朝夕の滿潮があの石段をひたひたと浸した。走馬樓はきららかに波の光る港に面して展かれてあつた。さうして海を玄關にしてこの家は在つたのか。――してみれば、何をする家だかは知らないけれども、この家こそ盛時の安平の絕好な片身ではなかつたか。私はこの家の大きさと古さと美しさとだけを見て、その意味を今まで全く氣づかずにゐたのだ。
今まで氣づかなかつただけに、私の興味と好奇とが相縺れて一時に昂つた。
「這入つてみようぢやないか。――誰も住んではゐないのだらう」私は息込んでさう言つたものの、濠を距てまた高い石圍ひを繞してゐるこの屋敷へはどこから這入れるのだか、ちよつと見當がつかなかつた――道ばたの廢屋なら、さつき安平でやつたやうについ、つかつかと這入り込んでみたいのだが。後に考へ合せた事だが、入口が直ぐにわからないといふこの同じ理由が、この廢屋を、その情趣の上でも事實の上でも、陰氣な別天地として保存するのに有力であつたのであらう。
その家のなかへ這入つてみたいといふ考へが、世外民に同感でない筈はない。世外民はきよろきよろとあたりを見廻してゐたが、我我が背をよせて立つてゐた石圍ひの奧に、家の日かげに臺灣人の老婆がひとり、棕櫚の葉の團扇に風を求めて小さな木の椅子に腰かけてゐるのを彼は見つけた。彼は直ぐにそこヘ步いて行つて、何か話をしてゐた。向側の廢屋を指さしたりしてゐる樣子で、そのふたりの對話の題目はおのづと知れる。
世外民はすぐに私の方へ向つて歸つて來た。「わかつたよ、君。あの道を行つて」彼は言ひながら濠のわきにある道を指さして「向うに裏門があるさうだ。少し入組んでゐるやうだが、行けば解るとさ。――やつぱり廢屋だ。もう永いこと誰も住んでゐないさうだ。もとは沈といふ臺灣南部では第一の富豪の邸だつたのださうだ。立派な筈さ」
話しながら私たちはその裏門を搜した。世外民が不確な聽き方をして來てゐたので、私たちはちつとまごついた。こせこせした家の間へ入り込んでしまつた。尋ねようにもあたりに人は見當らなかつた。このあたりは割に繁華なところらしいのだが、人氣のないのは、今が午後二時頃の日盛りで、彼等の風習でこの時刻には大抵の人間が午睡を貪つてゐるのである。私たちは仕方なしにいい加減に步いたが、もともと近いところまで來てゐた事ではあり、また目ざす家は聳えてゐたから自とわかつた。但、その家はあの濠のあちらから見た時には、ただ一つの高樓であつたが、裏へ來て見ると、その樓の後には低い屋根が二三重もつながつてゐた。所謂五落の家といふのはこんなのであらうが、大家族の住居だといふことが一層はつきりすると同時に、あの正面の二階建が主要な部屋だといふことは確かだ。私たちは他の場所よりも、あの走馬樓のある二階や圓柱のあつた玄關が第一に見たかつた。それ故、私たちは裏門を入るとすぐに、低い建物はその外側を廻つて、表へ出た。
圓柱はやはり石造りであつた。遠くから、上部にごちやごちやあると見たものは果して彫刻で、二本の柱ともそこに纏つてゐる龍を形取つたものであつたが、一つは上に昇つてゐたし、一つは下に降りようとしてゐた。雨に打たれない部分の凹みのあたりには、それを彩つた朱や金が黑みながらもくつきりと殘つてゐた。割合から言つて模樣の部分が多すぎて、全體として柱が低く感ぜられたし、また家の他の部分にくらべて多少古風で莊重すぎるやうに私は感じた。しかし私と世外民とは、この二つの柱をてんでに撫でて見ながら、この家が遠見よりも、ここに來て見れば近まさりして贅澤なのを知つた、細部が自と目についたからである。尤も、もし私に眞の美術的見識があつたならば、たかが殖民地の暴富者の似而非趣味を嘲笑つたかも知れないが、それにしても、風雨に曝されて物每にさびれてゐる事が厭味と野卑とを救ひ、それにやつとその一部分だけが殘されてあるといふことは却つて人に空想の自由をも與へたし、また哀れむべきさまざまな不調和を見出すより前にただその異國情緖を先づ喜ぶといふこともあり得る。況んや、私は美的鑑識にかけては單なるイカモノ喰ひなことは自ら心得てゐる。
細長い石を網代に組み竝べた床の緣は幅四尺ぐらゐ、その上が二階の走馬樓である。私たちはそこへ上つてみたいのだ。觀音開きになつた玄關の木扉は、一枚はもう毀れて外れてしまつてゐた。殘つてゐる扉に手をかけて、私は部屋のなかを覗いた。――二階へ上る階段がどこにあるだらうかと思つて。支那家屋に住み慣れてゐる世外民には大たいの見當が判ると見えて、彼はすぐづかづかと二三步廣間のなかへ步み込んだ。
「××××、××××!」
不意にその時、二階から聲がした。低いが透きとほつやうな聲であつた。誰も居ないと思つてゐた折りから、ことにそれが私のそこに這入らうとする瞬間であつただけに、その呼吸が私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶやうな聲に思へたのは一層へんであつた。思ひがけなかつたのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留めて、疑ふやうに二階の方を見上げた。それから彼は答へるが如くまた、問ふが如く叫んだ――
「××!?」
「××!?」
――世代民の聲は、廣間のなかで反響して鳴つた。世外民と私とは互に顏を見合せながら再び二階からの聲を待つたけれども、聲はそれつきり、もう何もなかつた。世代民は足音を竊んで私のところへ出て來た。
「二階から何か言つたらう」
「うん」
「人が住んでゐるんだね」
私たちは聲をしのばせてこれだけのことを言ふと、這入つてくる時とは變つた步調で――つまり遠慮がちに、默つて裏門から出た。しばらく沈默したが出てしまつてからやつと私は言つた。
「女の聲だつたね。一たい何を言つたのだい? はつきり聞えたのに何だかわからなかつた」
「さうだらう。あれや泉州人の言葉だものね」
普通に、この島で全く廣く用ゐられるのは廈門の言葉で、それならば私も三年ここにゐる間に多少覺えてゐた――尤も今は大部分忘れたが、泉州の言葉は無論私に解らう筈はなかつたのである。
「で、何と言つたの――泉州言葉で」
「さ、僕にもはつきりと解らないが。『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』――と、何だか……」
「へえ、そんな事かい。で、君は何と言つたの」
「いや、わからないから、もう一度聞き返しただけだ」
私たちはきよとんとしたまま、疲勞と不審と空腹とをごつちやに感じながら、自然の筋道として再び先刻の濠に沿うた道に出て來た。ふと先方を見渡すと、自分たちが先刻そこから初めてあの廢屋を注視したその同じ場所に、老婆がひとり立つて、ぢつと我我がしたと同じやうに濠を越してあの廢屋をもの珍しげに見入つてゐるのであつた。それが、近づくに從つて、今のさつき世外民に裏門への道を敎へた同じ老婆だといふことが分かつた。
「お婆さん」その前まで來た時に世外民は無愛想に呼びかけた。「噓を敎へてくれましたね」
「道はわかりませんでしたか」
「いいや。……でも人が住んでゐるぢやありませんか」
「人が? へえ? どんな人が? 見えましたか?」
この老婆は、我我も意外に思ふほど熱心な目つきで私たちの返事を待つらしい。
「見やしませんよ。這入つて行かうとしたら二階から聲をかけられたのさ」
「どんな聲? 女ですか?」
「女だよ」
「泉州言葉で?」
「さうだ! どうして?」
「まあ! 何と言つたのです!?」
「よくわからないが、『なぜもつと早く來ないのだ?』と言つたと思ふのです」
「本當ですか? 本當ですか! 本當に、貴方がた、お聞きになつたのですか! 泉州言葉で『なぜもつと早く來ないのだ?』つて!?」
「おお!」
臺灣人の古い人には男にも女にも、歐洲人などと同じく演劇的な誇張の巧みな表情術がある。その老婆は今それを見せてゐるが、彼女のそれはただの身振りではなく眞情が溢れ出てゐる。恐怖に似た目つきになり、氣のせゐか顏色まで靑くなつた。この突然な變化が寧ろ私たちの方を不氣味にした位である。彼女はその感動が少し鎭まるのを待ちでもするやうに沈默して、しかし私たちに注いだ凝視をつづけながら、最後に言つた――
「早く緣起直しをしておいでさい。――貴方がたは、貴方がたは死靈の聲を聞いたのです!」
戰慄
老婆は改めてやつと語り出した、初めはひとり言めいた口調で……
「……さういふ噂は長いこと聞いてはゐました。けれどもその聲を本當に、自分が本當に聞いたといふ人を――見るのは初めてです。若い男の人たちは、一たいそこへ近づいてはいけなかつたのです。貴方がたは最初、私にその裏口をおききになつた時に、私はほんたうはお留めしたいと思つたのですが、それには長い話がいるし、また昔ものが何をいふかとお笑ひになると思つたものですから……。それに今はもう月日も經つたことではあり、私もまさかそんなことがあらうと信じなかつたものだから……。でも、私は何か惡い事が起らねばいいと氣がかりになつて、實は貴方がたの樣子をこちらから見守つてゐたところです。――あれは昔から幽靈屋敷だといふので、この邊では誰も近づく人のなかつたところなのです。――ごらんなさい。あそこの大きな龍眼肉の樹には見事な實が鈴生りにみのるのですが、それだつて採りに行く人もない程です……」
彼女は向うに見える大樹を指さし、自とその下の銃樓が目についたのであらう――
「昔はあの家は、海賊が覘つて來るといふので、あの櫓の上に每晩鐡砲をもつて不寢番が立つた程の金持でした。北方の林に對抗して南方の沈と言へば、誰ひとり知らぬ人はなかつたのです。いいえ、まだつい六十年になるかならぬぐらゐの事です。大きな戒克船を五十艘も持つて、泉州や漳州や福州はもとより廣東の方まで取引をしたといふ大商人で船問屋を兼ねてゐました。『安平港の沈か、沈の安平港か』とみんな唄つたものです。――御存じの通りそのころの安平港はまだ立派な港で、そのなかでも禿頭港と言へば安平と臺南の市街とのつづくところで、港内でも第一の船着きでした。これほど賑やかなところは臺南にもなかつた程だといひます。――沈は本當に安平港の主だつたと見える。――沈家が沒落すると一緖に、安平港は急に火が消えたやうになりました。沈のゐない安平港へは用がないと言つて來なくなつた船が澤山あるさうです。それに海はだんだん淺くなるばかりで、しかもいつの間にか氣がついた頃にはすつかり埋まつてゐたのですよ。この急な變り方までが、まるで沈家にそつくりだと、今もよくみんなして年寄たちは話し合ひますよ。……沈の家ですか? それがまた不思議なほど急に、一度に、唯の一夏の、しかも只の一晩のうちに急に沒落したのです。百萬長者が目を開けて見ると乞食になつてゐたのです。夢でもかうは急に變るまい。他人事ながら考へれば人間が味氣なくなる――と、家の父はこの話が出るとよくさう言ひました。何でも沈の家ではその時、盛りの絕頂だつたのです。今の普請もついその三四年前に出來上つたばかりで、その普請がまた大したもので、石でも木でもみんな漳州や泉州から運んだので、五十艘の持船がみんな、その爲めに二度づつ、そればかりに通うたといふ程ですよ。それといふのも沈家には、この子の爲めなら、双親とも目がないという可愛い、ひとり娘があつて、それの婿取りの用意にこんな大がかりな普請をしたものださうです。それに美しい娘だつたさうです――私が見た時には、もう四十ぐらゐになつてもゐたし、落ぶれてれてへんになつてはゐましたが、それでもさう聞けばなるほどと思ふやうなところはありました……」
「そんなにまた、急に、どうして沈の家が沒落したのです?」世外民は、性急に話の重大な點をとらへてたづねた。
「ごめんなさい、私は年寄で話が下手で」――聞いてゐるうちに解つて來たが、この老婆は上品な中流の老婦人であつた。「怖ろしい海の颶風だつたのです。陸でも崩れた家が澤山あつたさうです。それはさうでせう。――ごらんなさい、あの沈の家の水門の石垣でさへあの角が吹き崩されたのださうです。さうしてそれを直すことさへもう出來なかつたので、今もそのままに殘つてゐるのですが、夜が明けてみてその石垣――そのころはまだ築いたばかりの新しい石垣の、あんな大きな石が崩れ落ちてゐるのを見て、沈の主人は心配さうにそれを見てゐたさうです。運の惡い事に、その晩、宵のうちは靜かな滿月の夜でもあつたさうだし、沈の五十艘の船はみんな海に出てゐたのださうです。沈の主人は――五十位の人だつたさうですが、崩れた石垣を見るにつけても、海に出てゐた持船が心配だつたのでせう。船の便りは容易に知れなかつたさうですが、五日經つても十日經つても歸る船はなかつたさうです。ただ人間だけが、それも船出した時の十分の一ぐらゐの人數がぽつぽつと病み呆けて歸つて來て、それぞれに難船の話を傳へただけでした。無事に歸つた船は只の一艘もなかつたさうです。尤も、人の噂では、港にゐて颶風に出會はなかつた船も三艘や五艘あつたに相違ないが、友船が本當に難船したことから惡企みを思ひついて、自分達の船も難船して自分は死んだやうな顏をして、船も荷物も橫領したまま遠くへ行つてしまつて歸つて來なかつたものも、どうやらあるらしいと言ひます。現に何處とかの誰は廣東で、死んだ筈の何の某に逢つたの、名前と色どりとこそ變つてゐたが沈の船の『躑躅』とそつくりのものを廈門で見かけたなどと、言ふ人もあつたさうです。何にしても一杯に荷物を積み込んだ大船が五十艘歸つて來なかつたのです。その騷ぎはどんなだつたか判るではありませんか。なかには沈自身の荷物ではないものも半分以上あつて、荷主は、みんな沈の家へ申し合せて押かけて、その償ひを持つて歸つたさうです。普請や娘の支度などで金を費つたあとではあり、それに派手な人で商ひも大きかつただけに、手許には案外、金も銀も少かつたと言ひます。人の心といふものは怖ろしいもので、かうなつて仕舞ふと、取るものは殘らず取立てても、拂つて貰へる可きものは何も取れない。そればかりか殆んど日どりまで定つてゐた娘の養子は斷つて來たさうです。もともと金持の沈と緣組をする筈で貧乏人の沈と緣を結ぶつもりではなかつたからでせう。……おお、あそこに、いい日蔭が出來ました。あそこへ行つてまあ腰でもお掛けなさい」
[やぶちゃん注:「躑躅」「ち」はママ。「し」の誤植か。]
老婆は、ちやうど前栽に一本だけあつた榕樹が、少し西に傾いた日ざしによつてやや廣い影を造つたのを見つけて、さう言ひながら自分がさきに立つて小さな足でよちよちと步いた。今まで別に氣がつかずにゐたが、この老婆の家といふのも大したことはないが一とほりの家で、昔の繁華の地に殘つてゐるだけの事はあつた。
樹かげで老婆は更に話しつづけた。彼女はよほど話好きと見えて、また上手でもある。ただ小さい聲で早口で、それが私にとつては外國語だけに聽きとりにくい場合や、判らない言葉などもある。私は後に世外民にも改めて聞き返したりしたが、更に老婆の說きつづけたことは次のやうである――
前述のやうな具合で沈の家が沒落し出すと、それが緖で主人の沈は病氣になりそれが間もなく死ぬと同時に、緣談の破れたことを悲しんでゐた娘は重なる新しい歎きのために鬱鬱としてゐた擧句、たうとう狂氣してしまふ。その娘を不憫に思つてゐるうちにその母親も病氣で死んでしまふ。全く、作り話のやうに、不運は鎖になつてつづいた。
一たいこの沈といふ家に就て世間ではいろいろなことを言ふ。
* * * *
* * *
その四代ほど前といふのは、何でも泉州から臺灣中部の胡蘆屯の附近へ來た人で、もともと多少の資產はあつたさうだが、一代のうちにそれほどの大富豪になつたに就ては、何かにつけて隨分と非常なやり口があつたらしい。虛構か事實かは知らないけれどもこんなことを言ふ――例へば、或時の如き隣接した四邊の田畑の境界標を、その收穫が近づいたところを見計つて、夜のうちに出來るだけ四方へ遠くまで動かして置く。その石標を抱いて手下の男が幾人も一晩のうちに建てなほして置くのだ。次の日になると平氣な顏をして、その他人の田畑を非常な多人數で一時に刈入れにかかつた。所有者達が驚いて抗議をすると、その石標を楯に逆に公事を起した。その前にはずつと以前から、その道の役人とは十分結託してゐたから、彼の公事は負ける筈はなかつた。彼は惡い役人に扶けられまた扶けて、臺灣の中部の廣い土地は數年のうちに彼のものになり、そこのどの役人達だつて彼の頤の動くままに動かなければならないやうになつた、惡い國を一つこしらへた程の勢であつた。一たいこの頃、沈は兄弟でそんなことをしてゐたのだが、兄の方は鹿港の役所の役人と口論の末に、役人を斬らうとして却つて殺されてしまつた。これだつても、どうやら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだといふ噂さへある程で、兄弟のうちでも弟の方に一層惡性がある。實際、兄の方はいくらかはよかつたらしい。ある時、彼等のいつもの策で、隣の畑へ犂を入れようとしたのだ。その時にはその畑に持主が這入つてゐるのを眼の前に見ながら、最も圖太くやりだしたのだ。といふのはその畑の持主といふのは七十程の寡婦だつた。だから何の怖れることもなかつたのだ。しかし第一の犂をその畑に入れようとすると、場にあつたこの年とつた女は急に走つて來て、その犂の前の地面へ小さな體を投げ出した。――
「助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子とがむかし汗を流した土地です。今は私がかうして少しばかりの自分の食ひ代を作り出す土地です。――この土地を取り上げる程なら、この老ぼれの命をとつて下さい!」
沈の手下に働くだけに惡い者どもばかりではあつたけれども、さすがに犂をとめたまま、土をさへ突かうとする者もなかつた。男どもは歸つてこの事を兄の沈に話すと、彼は苦笑をして「仕方がない」と答へたさうだ。弟の沈はその時は何も知らなかつた。しかし、その後二三日して見廻りに來て、馬上から見渡すと彼等の畑のなかにひどく荒れてゐるところがあるので作男どもを叱つた。するとそれが例の寡婦の畑だと判つて、初めてその事情を聞いた。なるほど、今もひとり老ぼれの婆さんがそこにゐるのを見ると、彼は馬を進めた。さうして近くに働いてゐた自分の作男に、言つた――
「犂を持つて來い」
主人の氣質を知つてゐるから作男は拒むことが出來なかつた。主人は再び言つた――
「ここの荒れてゐる畑ヘ、犂を入れろ。こら! いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ」
老寡婦はこの前と同じ方法を取つて哀願した。作男が主人の命令とこの命懸けの懇願との板挾みになつて躊躇してゐるのを見ると、沈は馬から下りた。畑のなかへ步み入りながら、
「婆さん。さあ退いた。畑といふものは荒して置くものぢやない」
さう言ひながら、大きな犂を引いてゐる水牛の尻に鞭をかざした。婆さんは沈の顏を見上げたきり動かうとはしたかつた。
「本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ」
言つたかと思ふと、ふり上げてゐた鞭を强かに水牛の尻に當てた。水牛が急に步き出した。無論、婆さんは轢殺された。
「さあぐづぐづせずに、あとを早くやれ――。こんな老ぼれのために廣い地面を遊ばして置いてなるものか」
いつもと大して變らない聲でさう言ひながら、この男は馬に乘つて歸つてしまつた。これほどの男だからこそ、その兄があんな死に方をした時にも、世間では弟の穽に落ちたのだと言つて、でも自分の手に懸けないだけがまだしも兄弟の情だ、などと噂したさうである。何にしても、兄が死んでしまつてから弟がその管理を一切ひとりでやつた。その後、その家は一層榮えるし、彼は七十近くまで生きてゐて――惡い事をしても報いはないものかと思ふやうな生涯を終る時に、彼は一つの遺言をしたのだ。その遺言は甚だ注意すべきものである。
「今から後、三十年經つたら我我の家族は、田地をすつかり賣り拂つて仕舞はなけりやならない。それから南部の安平へ行つてそこで舟を持つて本國の對岸地方と商賣をするのだ」
[やぶちゃん注:「仕舞はなけりやならない」は底本では「仕舞はなけやならない」であるが、読めないので、脱字と断じて特異的に「り」を挿入した。]
その理由を尋ねようと思ふともう昏睡してしまつてゐた。しかし子供はその遺言を守つて、安平の禿頭港へ出て來たのだと言ふ。――この遺言の話はやつぱり沈の一族からずつと後に洩れたといふので皆知つてゐたが、あの一晩の颶風が基で、それこそ颶風のやうに沈家に吹き寄せた不幸の折から、世間の人人は沈家の祖先の遺言から、またその祖先のした惡行をさまざまに思ひ出して、因果は應報でさすがに天上聖母は沈の持舟を守らない。――あの遺言こそまるで子孫に今日の天罰を受けさせようと思つて、老寡婦の死靈が臨終の仇敵に乘り移つたのだとか、あの颶風はその老寡婦が犂で殺されてから何十年目の祥月命日であるとか、人人は沈家の悲運を同情しながらもそんなことを噂した。何にしても、大きな不運の後であとからあとから一時に皆、死に絕えてしまつて、遺つた人といふのは年若い娘ひとりで、それさへ氣が狂つて生きてゐた。
[やぶちゃん注:「天上聖母」道教の女神媽祖の別称。航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に、特に台湾・福建省・潮州で強い信仰を集める。「天后」「天妃」「娘媽」とも呼ばれ、一部では道教で最も地位の高い神の一人ともされるようである。]
祖先にたとひどんな噂があらうとも、かうして生きてゐる纖弱い女をほつて置くわけにはいかないといふので、近隣の人人は、いつも食事くらゐは運んでやつた。それが永い間絕えなかつたといふのも、いはば金持の餘德とも言へよう。といふのは食事を運んでやる人たちは、その都度何かしら、その家のそこらに飾つてある品物の手輕なものを、一つ二づつこつそりと持つて來る者があるらしかつた。部屋にあつたものは自と少くなり、さうなると近隣でも相當な家の人達はもうそこへ行かなくなつた――他人のものを少しづつ掠めてくるやうな人たちの一人と思はれたくないと思つて、自と控へるやうになつたのである。その代りにはまた、厚かましい人があつて、當然のやうな顏をして品物を持つて來てそれを賣拂つたりするやうな人も出て來た。下さいと言つて賴むと氣の違つてゐる人は、極く大樣にくれるといふことであつた。――「さあ、お祝ひに何なりと持つておいで」高價なものをさういふ風に奪はれて、やつぱりあの家では昔の年貢を今收めゐてゐるのだよなどと、口さがない人人は言つた。
どういふ風に、娘は氣が違つてゐるのかといふのに、娘は刻刻に人の――恐らくは彼女の夫の、來るのを待つてゐるらしかつた。人の足音が來さへすれば叫ぶのだ――泉州言葉で、
「どうしたのです。なぜもつと早く來て下さらない?」
――つまり、我我が聞いたのと全く同じやうな言葉なのだ。彼女は姿こそ年とつたがその聲は、いつまでも若く美しかつた! ――我我が聞いたその聲のやうに?
その聲を聞いて、人人は深い哀れに打たれながら、その部屋へ這入つて行くと、彼女は人人を先づ凝視して、それからさめざめと泣くのだ。待つてゐた人でなかつた事を怨むのだ。そこで人人は明日こそその當の人が來るだらうと言つて慰める。彼女はまた新しい希望を湧き起す。彼女はいつも美しい着物を着て人を待つ用意をしてゐた。たしかに海を越えて來るその夫を待つてゐるのだといふことは疑ひなかつた。さういふ風にして彼女は二十年以上も生きてゐたのだらう―
[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。ここは行末であるが、私はここで改行と読んだ。]
「私が十七の年に、初めてこの家へ來たころには、その人はまだ生きてゐたものです」と、この長話を我我に語つた禿頭港の老婦人は言つた。――この婦人ももう六十に近いであらうが四十年位前にこの家へ嫁に來たものと見える。「私は近づいてその人を見た事はありませんけれども、天氣の靜な日などには、よく皆が『またお孃さんが出てゐるよ』といふものだから、見ると走馬樓の欄干によりかかつて、ずつと遠い海の方を長いこと――半日も立つて見てゐるらしいやうなことがよくありました。夫を乘せた舟の帆でも見えるやうに思つたものですかねえ。いづれやつぱりその海が見えるからでせう、お孃さんのゐる部屋といふのは、あの二階ばかりで、外の部屋ヘは一足も出なかつたさうです。皆はお孃さん、お孃さんと呼び慣はしてはゐましたが、その頃はもうやがて四十ぐらゐにはなつてゐるだらうといふ事でした。それが、何日からかお孃さんの姿をまるで見かけなくなつたのです。病氣ででもあらうかと思つて人が行つてみると、お孃さんはそこの寢牀のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよ。――それが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお孃さんが生きてゐた時と同じやうに、凉しい聲でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたの聞いたのと少しも違はない言葉ですよ! だから死んでゐようなどとは露思はなかつただけにその人は一層びつくりしたとの事です。それから後にも、その聲をそこで聞いたといふ人は時時あつたのです。――お孃さんは病氣といふよりは、もしや飢ゑて死んだのではあるまいかと云ふ人もあります。といふのはその家のなかには、昔こここにあつた見事な樣々の品物が、もうに何一つ殘つてゐなかつたさうですから。さうして死骸に附いてゐた金簪は葬の費用になつたと言ひます」
四 怪傑沈氏
この風變りな一日の終りに私と世外民とは醉仙閣にゐた。――私たちのよく出かける旗亭である。
これが若し私が入社した當時のやうな熱心な新聞記者だつたら、趣味的ないい特種でも拾つた氣になつて、早速「廢港ローマンス」とか何とか割註をして、さぞセンセイショナルな文字を罹列することを胸中に企ててゐただらうが、その頃は私はもう自分の新聞を上等にしてやらうなどといふ考へは毛頭なかつた。每日の出社さへ滿足には勤めずにわが酒徒世外民とばかり飮み暮してゐた。諸君はさだめし私の文章のなかに、さまざまな蕪雜を發見することだらうと覺悟はしてゐるが、それこそ私がそのころ飮んだ酒と書き飛ばした文字との覿面の報いであらう……。
――で、私たちは醉仙閣で飮んでゐた。
世外民は、禿頭港の廢屋に對して心から怪異の思ひがしてゐるらしい。さう言へばあの話はいかに支那風に出來てゐる。廢屋や廢址に美女の靈が遺つてゐるのは、支那文學の一つの定型である。それだけにこの民族にとつてはよく共感できるらしい。しかし、私はといふとどうもさうは行かない。私がそのうちで少しばかり氣に入つた點と言へば、その道具立が總て大きくその色彩が惡くアクどい事にあつた。もしこれを本當に表現することさへ出來れば、浮世繪師芳年の狂想などはアマイものにして仕舞ふことが出來るかも知れない。そのなかにある人物は根强く大陸的で、話柄の美としてはそれが醜と同居してゐるところの野蠻のなかに近代的なところがある。幽靈話とすればそれが夜陰や月明ではなしに、明るさもこの上ない烈日のさなかなのが取柄だが、總じてこの話は怪異譚としては一番價値に乏しい。それだのに世外民などは專らそこに興味を繫いでゐるらしい。いや、むしろ恐怖してさへゐる。彼は自分が幽靈と對話したと思つてゐるかも知れない。
私は世外民の荒唐無稽好きを笑つてゐる。――といふのはそれに對しては私はもうとつくに思ひ當つたことがあるからだ。なぜ私はあの時すぐ引返して、あの廢屋の聲のところへ入込んでゐなかつたらうか。さうすれば世外民に今かうは頑張らせはしないのだ。それをしなかつたといふのも世外民があまり厭がるのと、それよりも空腹であつたのと、また億劫な思ひをして行つてみるまでもなく解つてゐると信じたからだ。それもすぐに、さうと氣がついたのならよかつたのに、あんな判りきつた事が、なぜ一時間も經つてからやつと氣がついたといふのだらう。多分、あまりに思ひがけなく踏込まうとするその刹那であつた爲めと、二階から響いて來た言葉が外國語だつたのと、それにつづいてあの老婦人の大袈裟な戰慄の身振りやら、ちよつと異樣な話やらで、全くくやしい事だが私も暫くの間は、多少驚かされたものと見える。本當に理智の働く餘裕はなかつたらしい。――廢屋だと確めて置いた家の中から人聲がしたのであつてみれば、それはその家の住人でない誰かが、そこにゐたのにきまつてゐる。その人のために我我は這入つて行くことを遠慮する理由は少しもなかつた筈だ。現に安平の家のなかにだつて網を繕つてゐた人間の聲がしても我我は平氣で闖入して行つた程だ。何のために我々は躊躇したか。世外民が「人が住んでゐるんだね」と言つたからだ。世外民は何故そんなことを言つたか。それはその時の彼の心理を考へなければならない。多分、聲が我我の踏み込んだ瞬間に恰もそれを咎めるがごとく響いた事が一つ――しかも、その言葉の意味は、あとで聞けば全く反對のものであるが。またあの廢屋は安平のものよりも數十倍も堂堂としてゐて荒れながらにもなほ犯しがたい權威を具へてゐた事。最後に一番重なる理由としてはそれが單に、女の若さうな玲瓏たる聲であつたが爲めに、若い男である世外民も私も無意識のうちに妙にひるんでゐたのである。さうして、その聲に就ては何の考へることをもせずに、ただびつくりして歸つて來てしまつたのである。
「何にしても這入つて見さへすればよかつたのになあ。馬鹿馬鹿しい、誰が幽靈の聲などを聞くものか。生きて心臟のドキドキしてゐる若い女――多分、若くて美しいだらうよ、そんな氣がするな――それがそこにゐただけの事さ。――生きてゐればこそものも言ふのさ……」
「でも、むかしから傳はつてゐるのと同じ言葉を、しかも泉州言葉を、それもそのたつた一言を、その女が何故我我に向つて言ふのだ」
世外民は抗議した。
「泉州言葉は幽靈の專用語ではあるまいぜ。泉州人なら生きた人間の方がどうも普通に使ふらしいぜ。アハ、ハハ。それが偶然、幽靈が言ひ慣れた言葉と同じだつたのは不思議と言へば不思議さね。――でもたつたそれだけの事だ。君はあの言葉が我我に向つて言はれたと思ひ込むから、幽靈の正體がわからないのだよ。――外の人間に向つて言つた言葉が偶然我我に聞かれたのだ。いや。我我を外の人間と間違へて、その女が言ひかけたのさ。さうと氣がついたから、たつた一言しか言はなかつたのだ。君、何でもないよくある幽靈だぜ、あれや……」
「それぢや、昔からその同じ言葉を聞いたといふその人達はどうしたのだ」
「知らない」私は言つた。「それや僕が聞いたのぢやないのだからね。――ただ、多分は君のやうな、幽靈好きが聞いたのだらうよ。だから僕は自分の關係しない昔のことは一切知らないのだ。ただ今日の聲なら、あれは正しく生きてる若い女の聲だよ! 世外民君、君は一たいあまり詩人過ぎる。舊い傳統がしみ込んでゐるのは、結構ではあるが、月の光では、ものごとはぼんやりしか見えないぜ。美しいか汚いかは知らないが、ともかく太陽の光の方がはつきりと見えるからね」
「比喩など言はずに、はつきり言つてくれ給へ」一本氣な世外民は少々憤つてゐるらしい。
「では言ふがね、亡びたものの荒廢のなかにむかしの靈が生き殘つてゐるといふ美觀は、――これや支那の傳統的なものだが、僕に言はせると、……君、憤つてはいかんよ――どうも亡國的趣味だね。亡びたものがどうしていつまでもあるものか。無ければこそ亡びたといふのぢやないか」
「君!」世外民は大きな聲を出した。「亡びたものと、荒廢とは違ふだらう。――亡びたものはなるほど無くなつたものかも知れない。しかし荒廢とは無くならうとしつつある者のなかに、まだ生きた精神が殘つてゐるといふことぢやないか」
「なるほど。これは君のいふとほりであつた。しかしともかくも荒廢は本當に生きてゐることとは違ふね。だらう? 荒廢の解釋はまあ僕が間違つたとしてもいいが、そこにはいつまでもその靈が橫溢しはしないのだ。むしろ、一つのものが廢れようとしてゐるその蔭からは、もつと力のある潑剌とした生きたものがその廢朽を利用して生れるのだよ。ね、君! くちた木にだつてさまざまな茸が簇るではないか。我我は荒廢の美に囚はれて歎くよりも、そこから新しく誕生するものを讃美しようぢやないか――なんて、柄にないことを言つてゐら。さういふ人生觀が、腹の底にちやんとしまつてある程なら、僕だつて臺灣三界でこんなだらしない酒飮みになれやしないだらうがね。だからさ、僕がさういふ生き方をしてゐるかどうかは先づ二の次にしてさ」
「成程。――ところがそれが禿頭港の幽靈――でないといふならば、その生きた女の聲と何の關係があるんだらう?」
「下らない理窟を言つたが僕のいふのは簡單なことなのだ。ね、我我の聞いたあの聲の言つたのは『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』云云といふのだつたさうだね。それや無論誰が聞いても人を待つてゐる言葉さ。で、あの場所の傳說のことは後にして、虛心に考へると、若い女が――生きた女がだよ、人に氣づかれないやうな場所にたつたひとりでゐて、人の足音を聞きつけて、今の一言を言つたとすれば、これは男を待つてゐるのぢやないだらうかといふ疑ひは、誰にでも起る。あたりまへの順序だ。我我があの際、すぐさう感じなかつたのが反つて不思議だ。あの際、僕があれを日本語で聞いたのだつたら一瞬間にさう感附くよ。そこであの場所だが、氣味の惡い噂があつて人の絕對に立ち寄らない場所だ。しかも時刻はといふと近所の人人がみな午睡をする頃だ。戀人たちが人に隱れて逢ふには絕好の時と所ではないか。――それも互によほど愛してゐると僕が考へるのは、それはいづれあそこからさう遠いところに住んでゐる人ではなからうが、それならあの家に纏はる不氣味千萬な噂はもとより知つてゐるのだらうから、迷信深い臺灣人がその恐ろしさにめげずに、あの場所を擇ぶといふところに、その戀人たちの熱烈が現れてゐる。それから、また僕は考へるね。そのふたりは大部以前から、あの時刻とあの場所とを利用することに慣れてゐるのだ。でない位なら、そんないやな場所へ、女が先に來て待つ度胸も珍しいし、男だつてそれぢやあまり不人情さ。――君が、あの聲を聞いて咄嗟にそれをその住人のものと斷定してしまつたのも無理はないよ。彼等はそこをもう自分たちふたりの場所と信じ切つてゐるほど、その場所に安心し慣れ切つてゐるのだ。それならばこそ我我の足音聞いただけで輕輕しく、あんな聲をかけたりしたのだ。――あそこへは全く近よる人もないと見えるね。そのくせあの家は、女ひとりで這入つて行つても何の怖ろしい事もないほど、異變のない場所なのさ。若い美しい女――藝者の五葉仔のやうな奴かな。いや、若い女ではなくつて―――」
[やぶちゃん注:「藝者」「チ」の部分は実は擦れて縦棒一本とそこから右に直角に突き出た一本しか判読出来ない。現代の中国音の音写だと「者」は「ヂゥーア」であることから、取り敢えず「チ」で補っておいた。
「―――」(三字分)はママ。但し、頭の一字分で改行であることから、植字工のミスかも知れない。]
「聲は若かつたがな」
「さ、聲は若くつても、事實は圖太い年增女かも知れないな。でなけりや、やつぱり必ず若い熱烈なる少女か。――それはどうでもいい。判らない。しかし兎も角もさ、今日のあの聲は不埓かは知らないが不思議は何もない生きた女のもので、あそこが逢曳の場所に擇ばれてゐたといふ事と、又それだから、あそこにはほんの噂だけで何の怪異もない事は、おのづと明瞭さ。僕は疑はない――ああ、這入つて見れやよかつたのになあ」
「例によつてそろそろ理窟つぽくなつたぞ。――理窟には合つてゐさうだよ。ただね、それが僕の神經を鎭めるには何の役にも立ない」
[やぶちゃん注:「立」のルビは「た」しかないが、特異的に補った。]
「さうかい。困つたね」
世外民はやつぱりに私に同感しようとはしない。私は少しばかり、ほんの少しだが、忌忌しかつた。私は酒を飮めば飮むほど、奇妙に理窟つぽくなる。人を說き伏せたくなる。そこでお喋りになるといふごく好くない癖があつた。自分では頭が冴えてゐるやうな氣がするんだが、それは醉つぱらひの己惚れで傍で聞いたらさぞをかしいのだらう。私はつづけた。
「仕方がない。君は何とでも思ひ給へ。だが、今日の事實は怪異譚としてはまるで何の値打もないのだがなあ。禿頭港で聞いた話にしたつて、因緣話にはなつてゐるものか。――そんな見方をすれや、せいぜい三面特種の値打だ。寧ろ面白いのは、あんな荒つぽいいやな話のなかに案外、支那人といふものの性格や生活といふものの現はれてゐることだ。……」
「夜中に境界標の石を四方へ擴げる話か。――あれや、君、臺灣の大地主のことなら、みんなあんな風に言ふんだ。あれこそ臺灣共通の傳說だよ。――現に」と世外民は酒で蒼くなつた顏を苦笑させて、
「僕の家のことだつてもさう言つてらあ!」
「へえ? これはなほ面白い。いづれはどこかに本當の例が、事實あつたのだらうがね。多分、あの沈家が本當だらう。それにしてもそいつをどこの大地主にも應用するところはえらい。實際、あの話はあらゆる富豪といふものを簡單明瞭に說明するからね。ふむ。さうかね。だがそれよりも僕にもつと面白いのは犂でよぼよぼの老寡婦を突き殺す話だ。――僕はその沈の祖先といふのは粗野な惡黨でこそあるがなかなかの人傑だつたやうな氣がするのだ。ね、さうでなければ道理に合はない。いかに淸朝の末期に近い政府だつて、また先が植民地の臺灣だからと言つて、さうさう腐敗した碌でなしの役人ばかりをあとへあとへ派遣したわけではあるまい。それが皆丸められるのだ。單に金の力だけではあるまい。沈にはきつと役人たちよりもえらい經營の才があつたのだ――まあ聞きたまへ、僕の幻想だから。胡蘆屯附近と言へば、君、この島でも最もよく開墾された農業地だらう。『……いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ。……婆さん。さあどいた。畑といふものは荒して置くものぢやない。……本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ』か。さう言つてひらりと馬を下りて自分の手で突き殺したと言つたね。僕には强い實行力のある男の橫顏が見えるやうな氣がするんだ。さういふ男の手によつてこそ、未開の山も野も開墾出來るのだ。草創時代の植民地はさういふ人間を必要としたのだ。役人たちの目の利いたものは、彼の事業を、政府自身の爲めに樂しみにしてゐたかも知れないのだ。その報酬に惡德を見逃すばかりか、暗には奬勵してゐたかも知れないのだ。その男はちやんとそれを心得てゐた。その遺言が更に面白いではないか。『三十年すれば』いかに植民地政治でもだんだん行屆いて整つて來た擧句には、彼が折角開拓した廣大な土地を、今度は彼よりももつと大きい暴虐者が出て左右することを見拔いてゐたのだ。何と怖ろしい識見ではないか――彼は政治といふものの根本義を、まるで社會學者みたいに知つてゐて、それを利用したのだ。人のものを掠奪してそれへすつかり仕上げをかけて、やれ田だのと畑だのと鍍金をするのさ、そいつを賣拂つて金に代へる。それから商賣をするんだね。全く商賣といふものは世が開化した後の唯一の戰爭だからね。しかも安全な戰爭だ――元手の多い奴ほど勝つに定つてゐる。彼は自分の子孫たちに必勝の戰術を傳授して置いたのさ。奴の仕事は何もかも生きる力に滿ちてゐる。萬歲だ。ところでさ、そのやうな先見のある男でも、自然が不意に何をするかは知らなかつたのが、人間の淺ましさだ。繁茂してゐた自然を永い間かかつて斬り苛んだ結果に贏ち得た富を、一晩の颶風でやつぱりもとの自然に返上したといふのだから好いな。態を見やがれさ。――するとやつぱり因果應報といふことになるのかな。僕はそんなことを說敎するつもりではなかつたつけな……」
私はいつの間にかひど醉つて來て、舌も纏れては來るし、段段冴えて來ると己惚れてゐた頭がへんにとりとめがなくなり、ふと口走つた――「花嫁の姿をして腐つてゐたつて? よくある奴さ。花嫁の姿をして死ぬ。それがだんだん腐つてくる、か。生きてゐる奴で冷たくなつて、だんだん腐つてくるのもある。金簪で飾つてさ、ウム」
世外民はこれも亦いつもの癖で、深淵のやうに沈默したまま、私のをかしな言葉などは聞き咎めるどころか、てんで耳に入らぬらしく、老酒の盃を持ち上げたままで中空を凝視してゐた。
「世外民、世外民。この男の盃を持つてゐるところには少々魔氣があるて」
* * * *
* * *
世外民といふ風變りな名を、私はこの話の當初から何の說明もなしに連發してゐることに氣がついたが、これは私の臺灣時代の殆んど唯一の友人である。この妙な名前はもとより匿名である。彼のペンネームである。彼の投稿したものを見て私はそれを新聞に採錄した。私は彼の詩――無論、漢詩であるが、その文才を十分解したといふわけではないが、寧ろその反抗の氣概を喜んだのである。しかし、その詩は一度採錄したきりだつた。當局から注意があつて、私は呼び出されて統治上有害だと言ふのでその非常識を咎められた。再度の投稿に對しては、私は正直にその旨を附記して返送した。すると、世外民は私を訪ねて遊びに來た。見かけは優雅な若者であつたが、案外な酒徒で、盃盤が私たちを深い友達にした。彼は臺南から汽車で一時間行程の龜山の麓の豪家の出であつた。家は代代秀才を出したといふので知られてゐた。その頃の私は、つまらない話だが或る失戀事件によつて自暴自棄に堕入つて、世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ。この頃の私にいつも酒に不自由させなかつたのがこの世外民だ。だが私が世外民の幇間をつとめたと誰も思ふまい。第一に世外民は友をこそ求めたが幇間などを必要とする男ではなかつた。私はその點を敬してゐた。――この話として何の用もあることではないが、私の交遊錄を抄錄したまでである。彼が私との訣別を惜んで私に與へた一詩を私は覺えてゐる。――あまり上手な詩でもないさうだが、私にはそんなことはどうでもいい。
登彼高岡空夕曛
斷雲孤鵠嘆離群
溫盟何不必杯酒
君夢我時我夢君
[やぶちゃん注:最後の漢詩は底本では総ルビで縦に二句で二行であるが、前後を一行空けで、かく、示した。漢詩をルビに従って漢字仮名交りで書き下してみる。
彼の高岡に登れば 空しく夕曛
斷雲の孤鵠 離群を嘆く
溫盟 何ぞ杯酒を必とせんや
君 我を夢みむ時 我 君を夢みむ
起句の「夕曛」は落日の余光をいう。「鵠」は大型の白い水鳥。白鳥や鸛に相当。「溫盟」は心の籠った暖かな友情の契り。
「堕入つて」はママ。何故か「堕」にはルビがない。「おちいつて」。]
女誡扇
私がいやがる世外民を無理に强いて、禿頭港の廢屋の中へ、今度こそ這入つて行つたのは彼がその次に臺南へ出て來た時であつた。多分最初にあの家を發見してから五日とは經てゐなかつたらう――世外民は當時少くとも週に二度は私を訪れたものなのだから。
「さあ。今日こそ僕の想像の的確なことを見せる。運がよければ、君がそれほど氣に病む幽靈の正體が見られるかも知れないよ」
私はかう宣言して、この前の機會と同じ時刻を撰んだ。そこに幽靈のゐないことを信じてゐる私は、しかし、自分の事を、高い雕欄のいい窪みを見つけて巢を營んでゐる双燕を驚愕させる蛇ではないかと思つて、最初は考へたのだが構はないと思つた。といふのはもしそこに一對の男女がゐるやうならば、自分はその時の相手の風態によつては、わざと氣がつかないふりをして、彼等をその家の居住者のやうに扱つて、自分達が無法にも闖入したのを謝罪しようと用意したからである。私たちはそれだからごく普通の足音をさせて、あの石の圓柱のある表からこの前の日のとほりに入口を這入つた。その時、さすがに私もちよつと立止つて聞き耳を立ててはみた。勿論どんな泉州言葉も聞かれはしなかつた。それだのに困つた事に、世外民は氣味惡がつて先に這入らないのだ。表の廣間のなかはうす暗くて、またこんな家のどこに二階への階段があるか、私には見當がつきにくい。しかし世外民は口で案内して、表扉を這入つて廣間の左或は右の小扉を開いてみたら、そこから上るやうになつてゐるだらう、といふのである。その廣間といふのは二十疊以上はあるだらう。四つの閉めた窓の破れた隙間からの光で見ると、他には何一つないらしい。私は這入つて行つた。その時、思はず私が呻つたのは、例の聲を聞いたからではないのだ。ただの閉め切つた部屋の臭ひである。どんな臭ひとも言へない。ただ蒸れるやうなやつで、それがしかし建物がいいから熱いのではない。割に冷たくつてゐて蒸れるとでもいふより外には言ひ方がない。この臭ひを、世外民は案外平氣らしかつた。天井を見ると眞白に粉がふいて黴がはえてゐる。その黴の臭ひだつたかも知れない。私たちは先づ右の扉を開けた。――果してすぐそこが階段であつた。幅二尺位の細いのが一直線に少し急な傾斜で立つてゐる。それが上からの光で割に明るい。何も怖氣がさすやうなものは一つもないが、また私は傳說をさう眼中におかないが、それでもやはりさう明るい心持にはなれないことは確だ。氣味が惡いと言つては言ひすぎるが、私はよく世外民をひつぱつて來たと思つた。私はひとりででも一度來てみる意志はあつたのだが、もしもひとりだつたらあまり落着いて見物はしにくいかと思ふ。それにしてもあんな傳說を迷信深く抱いてゐる人人が、たとひそれは二人連れであつた事が確でも、第一日によくまあここへ來たものだと言へる。いや、よくもここを撰ぶ氣になつたものだ。私はこの細い階段を戀人たちが互に寄りそひながらおづおづして、のぼつて行つた時を想像してみた。
私は世外民を振り返つて促しながら、階段を昇り出した。そこには私の想像を滿足させることには、ごく稀にではあるがこのごろでもそこを昇降する人間があることは疑へなかつた。といふのは、それは何も鮮かな足跡はないのだが、寧ろ譬へば冬原の草の上におのづと出來た小徑といふ具合に、そこだけは他の部分より黑くなつて、白い塵埃のなかから、階段の板の色がぼんやり見えてゐるのであつた。二階には人のけはひはない。私は幽靈の正體は先づ見られさうにもないと思つた。二階ヘ出た。
案外にそこは明るかつた。その代りどうしてだか急に暑くムツとした。人影のやうなものは何もなかつた。氣が落着いて來たので私は何もかも注意して見ることが出來たが、床の上にもまた人が步いたあとがあつて、それがまた一筋の道になつて殘つてゐる。L形になつた部屋の壁のかげから、光が帶になつて流れて來る。この部屋へ澤山の明るさを供給してゐるのは、その窓で、人の步いたあともまたその窓の方へ行つてゐる。壁のかげに誰かがピツタリと身をよせて隱れてゐるやうな氣もする。私はその窓の方へおのづと步いて行つた。我我の足元から立つ塵は、光の帶のなかで舞ひ立つた。顏に珍しく風が當つて、明るい窓といふのが開いてゐること、その壁に沿うて一つの臺があることが、一時に私の目についた。臺といふのはごく厚く黑檀で出來たもので、四方には五尺ほどの高さの細い柱が、その上にはやはり黑檀の屋根を支へてゐる。その大きさから言つて寢牀のやうに思はれた。
「寢牀だね」
「さうだ」
これが私と世外民とが、この家へ這入つてからやつと第一に取交した會話であつた。寢牀には塵は積つてはゐなかつた――少くとも輕い塵より外には。さうして黑檀は落着いた調子で冷冷と底光りがしてゐた。私は世外民を顧みながら、その寢牀の上を指さした。私の指が黑檀の厚板の面へ白くうつつた。
世外民は頷いた。
その寢牀の外には家具と言へば、目立つものも目立たないものも文字通りに一つもなかつた。話に聞いたあの金簪を飾った花嫁姿の狂女は、この寢牀の上で腐りつつあつたのではないだらうか。それにしてはこれだけの立派な檀木の家具を、今だにここに遺してあるのは、憐憫によつてではなく、やはり恐怖からであらう。
寢牀のうしろの壁の上には大小幾疋かの壁虎が、時時のつそりと動く。尤もこれは珍しい事ではない。この地方では、どこの家の天井にだつて多少は動いてゐる。内地に於ける蜘蛛ぐらゐの資格である。ただこの壁の上には、廣さの割合から言つて少少多すぎるだけだ。六坪ほどの壁に三四十疋はゐた。
世外民はどうだか知らないが、私はもう充分に自分の見たところのもので滿足であつた。歸らうと思つて、歸りがけにもう一度窓外の碧い天を見た。その他の場所はあまりに氣を沈ませたからだ。歸らうとして私はふと自分の足もとへ目を落すと、そこに、ちやうど寢牀のすぐ下に扇子見たやうなものがある――骨が四五本開いたままで。私は身をかがめて拾つた。そのままハンケチと一緖に自分のポケツトのなかへ入れた。なぜかといふのに世外民はいつの間にか歸るために、私に世を向けて四五步も步き出してゐたからだ。
世外民も私も下りる時には何だかひどく急いだ。表の入口を出る時には今まで壓へてゐた不氣味が爆發したのを感じて、我我は無意識に早足で出た。さうして無言をつづけてその屋敷の裏門を出た。
「どうだい。世外民君。別に幽靈もゐなかつたね。」
「うむ」世外民は不承不承に承認しはしたが「しかし、君、あの黑檀の寢臺の上へ今出て來た大きな紅い蛾を見なかつたかね。まるで掌ほどもあるのだ。それがどこからか出て來て、あの黑光りの板の上を這つてゐるのを一目は美しいと思つたが、見てゐるうちに、僕はへんに氣味が惡くなつて、出たくなつたのだ」
「へえ。そんなものが出て來たか。僕は知らなかつた。僕はただ壁虎を見ただけだ。君、君の詩ではないのか。幻想ではないのか」
――私は世外民があの寢牀の上で死んだ狂女のことをさう美化してゐるのだらうと思つた。
「いいや、本當だとも。あんな大きな赤い蛾を、僕は初めてだ」
私は步きながら、思ひ出してさつきの扇をとり出してみた。さうして豫想外に立派なのに驚き、また困りもした。
その女持の扇子といふのは親骨は象牙で、そこへもつて來て水仙が薄肉に彫つてある。その花と蕾との部分は透彫になつてゐる。それだけでも立派な細工らしいのに、開けてみると甚だ凝つたものであつた。表には殆んど一面に紅白の蓮を描いてゐる。裏は象牙の骨が見えて――表一枚だけしか紙を貼つてゐないので、裏からは骨があらはれるやうに出來てゐたのだが、その象牙の骨の上には金泥で何か文章が書いてある。
「君」私はもう一度表を見返しながら世外民に呼びかけた。「玉秋豐といふのは名のある畫家かね」
「玉秋豐? さ。聞かないがね。なぜ」
私は默つてその扇子を渡した。世外民が訝しがつたのは言ふまでもない。私もちよつと何と言つていいかわからなかつた――私は無賴兒ではあつたが、盜んで來たやうな氣がしていけないのだ。私はそのままの話をすると、世外民は案外何でもないやうな顏をして、それよりも仔細にその扇をしらべながら步いてゐた――
「玉秋豐? 大した人の畫ではないが職人でもないな。不蔓不枝」彼はその畫賛を讀んだのだ。「愛蓮說のうちの一句だね、不蔓不枝。――だが女の扇にしちや不吉な言葉ぢやないか。蔓せず枝せざるほど婦女にとつて悲しい事はあるまいよ。どうしてまた富貴多子にでもしないのだらう――平凡すぎると思つたのかな」
「一たい幸福といふのは平凡だね。で、その富貴多子とかいふのは何だい」
「牡丹が富貴、柘榴が多子さ」世外民は扇のうらを返して見て、口のなかで讀みつづけながら「おや、これは曹大家の女誡の一節か。專心章だから、なるほど、不蔓不枝を選んだかな……」
扇は案外に世外民の興味をひいたと見える。それを吟味して彼がそんなことを言つてゐる間に、私はまた私で同じ扇に就て全く別のことを考へてゐた。
その扇はうち見たところ、少くとも現代の製作ではない。さうしてその凝つた意匠は、その親が、愛する娘が人妻にならうとする時に與へるものに相當してゐる。――恐らく沈家のものに相違ないであらう。昔、狂女がそれを手に持つて死んでゐなかつたとも限らない。その扇だ。更に私は假りに、禿頭港の細民區の奔放無智な娘をひとり空想する。彼女は本能の導くがままに悽慘な傳說の家をも怖れない。また昔、それの上でどんな人がどんな死をしたかを忘れ果ててあの豪華な寢牀の上に、その手には婦女の道德に就て明記しまた暗示したこの扇を、それが何であるかを知らずに且つ弄び且つ飜して、彼女の汗にまみれた情夫に凉風を贈つてゐる……。彼女は生きた命の氾濫にまかせて一切を無視する。――私はその善惡を說くのではない。「善惡の彼岸」を言ふのだ……
ヱピロオグ
あの廢屋はさういふわけで私の感興を多少惹いた。何ごとにもさう興味を見出さなかつたその頃の私としては、ほんの當座だけにしろそんな氣持になつたのは珍しいのだが、それらすべての話をとほして、私は主として三個の人物を幻想した。市井の英雄兒ともいふべき沈の祖先、狂念によつて永遠に明日を見出してゐる女、野性によつて習俗を超えた少女、――とでもいふ、ともかく、そんな人物が跳梁するのが私には愉快であつた。そいつを活動のシネリオにでもしてみる氣があつて、私は「死の花嫁」だとか「紅の蛾」などといふ題などを考へてみたりしたほどであつた。しかしさう思つてみるだけで、やらないと言ふかやれないと言ふか、ともかく實行力のないのが私なので、その私が前述の三人物の空想をしたのだからをかしい。意味がそこにあるかも知れない。さうして私自身はといふと、いかなる方法でも世の中を征服するどころか、世の力によつて刻刻に壓しつぶされ、見放されつつあつた。尤も私は何の力もないくせに精一杯の我儘をふるまつて、それで或程度だけのことなら押し通してもゐたのだ。それでは何によつて私がやつとそれだけでも强かつたか。自暴自棄。この哀れむべき强さが、他のものと違ふところは、第一自分自身がそれによつて決して愉快ではないといふことにある。私は事實、刻刻を甚だ不愉快に送つてゐた。それといふのも私は當然、早く忘れてしまふべき或る女の面影を、私の眼底にいつまでも持つてゐすぎたからである。
私は先づ第一に酒を飮むことをやめなければならない。何故かといふのに私は自分に快適だから酒を飮むのではない。自分に快適でないことをしてゐるのはよくない。無論、新聞社などは酒よりもさきにやめたい程だ。で、すると結局は或は生きることが快適でなくなるかも知れない惧れがある。だが、若しさうならば生きることそのものをも、やめるのが寧ろ正しいかも知れない。……
柄になく、と思ふかも知れないが、私は時折にそんなことをひどく考へ込む事があつた。その日もちやうどさうであつた。折から世外民が訪れた。
「君」世外民はいきなり非常な興奮を以て叫んだ。「君、知つてゐる?――禿頭港の首くくりはね……」
「え?」私はごく輕くではあるが死に就て考へてゐた折からだつたから少しへんな氣がした。
「首くくり? 何の首くくりだ?」
「知らないのか? 新聞にも出てゐるのに」
「私は新聞は讀まない。それに今日で四日社を休んでゐる」
「禿頭港で首くくりがあつたのだよ。――あの我我がいつか見た家さ。――誰も行かない家さ。あそこで若い男が縊死してゐたのだ。新聞には尤も十行ばかりしか出ない。僕は今、用があつて行つたさきでその噂を聞いて來たのだからよく知つてゐるが、あの黑檀の寢牀を足場にしてやつたらしいのだ。美しい若い男ださうだよ、それがね、口元に微笑をふくんでゐたといふので、やつぱり例の聲でおびき寄せられたのだ、『花嫁もたうとう婿をとつた』と言つてゐるよ――皆は。それがさ、やつぱりもう腐敗して少しくさいぐらゐになつてゐたのださうだ。僕は聞いてゐてゾクツとした。我我が聞いたあの聲やそれに紅い蛾なぞを思ひ出してね」
私もふつと死の惡臭が鼻をかすめるやうな氣がした――あの黴くさい廣間の空氣を鼻に追想したのだらう。世外民はその家の怪異を又新らしく言ひ出して、私がそこで拾つた扇を氣味惡がり私にそれを捨ててしまふやうに說くのであつた。――この間はあんなに興味を持つて、自分でも欲しいやうなことを言つた癖に。尤も私がやらうと言つた時にはやはり、今と同じく不氣味がつて、結局いらないとは言つたが。私としてはまた世外民にやらうと思つた程だから、捨ててしまつても惜しいとも思はないが、私はその理由を認めなかつた。また、いざ捨てよと言はれると、勿體ないほど珍奇な細工にも思へた。私は世外民の迷信を笑つた。
「大通りの眞中で縊死人があつてそれが腐るまで氣がつかない、といふのなら不思議はあるだらうが、人の行かないところで自殺したり逢曳したりするのは、一向當り前ぢやないか。――ただあんな淋しいところが市街のなかにあるのは、何かとよくないね」
私はその家の内部の記憶をはつきり目前に浮べてさう言つた。
同時に私にはこの縊死の發見に就て一つの疑問が起つた。といふのは、あの部屋のなかで起つた事は誰もそこに這入つて行かない以上は、一切發見される筈がない。あそこには開いた窓が一つあるにはあつたが、そこには靑い天より外には何も見えない――つまり天以外からは覗けない。もし臭氣が四邊にもれるにしては、あの家の周圍があまりに廣すぎる。さう考へてゐるうちに、私は大して興味のなかつたこの話が又面白くなつて來るのを感じながら言つた。
「出鱈目さね。いや、死人はあつたらう。若い美しい男だなんて。もう美しいか醜いか年とつたか若いかも見分けがつくものか」
「いや、でも皆さう言つてゐる」
「それぢや誰がその死人を發見したのだ? あそこならどこからも見えず、誰も偶然行つてみるわけはないがな」ふと、私は場所が同じだといふことから考へて、この縊死人――年若く美しいと傳へられる者と、いつか私が空想し獨斷したあの逢曳とがどうも關係ありさうに思へて來た。そこで私は世外民に言つた。「いつでもいいが今度序に、その死人を發見したのはどんな人だか聞いてきてもらひたいものだ。それがもし泉州生れの若い女だつたらもう何もかもわかるのだよ。――いつか我我が聞いたあの廢屋の聲の主も。それから今度の縊死人の原因も。――本當に若い男だつたといふのなら、それや失戀の結果だらう。――幽靈の聲にまどはされて死ぬより失戀で死ぬ方がよくある事實だものね。尤も二つとも自分から生んだ幻影だといふ點は同じだが」
私は大して興味はなかつた。しかし世外民が大へん面白がつた。罪を人に着せるのではない。これは本當だ。事實、世外民は先づ興味をもちすぎた。さうしてそれが私に傳染したのだ。世外民は私の觀察に同感すると早速、その場を立つて發見者を調べるために出かけた程なのだ。近所行つて聞けばわかるだらうといふので。
間もなく、世外民は歸つて來たが、その答を聞いて私は、臺灣人といふものの無邪氣なのに、今更ながら驚いたのである。彼等の噂するところによると、それは黃といふ姓の穀物問屋の娘が――家は禿頭港から少し遠いところにあるさうだが――彼女が偶然に夢で見たといふその男がどうやら死んだ若者だし、それが這入つて行つた大きな不思議な家といふのが、どうも禿頭港のあの廢屋らしい。その暗示によつて、なくなつた男の行方を搜してゐた人人はやつと發見することが出來たといふのである。靈感を持つた女だといふ風に人人が傳へてゐると言ふ。
私は無智な人人が他を信ずることの篤いのに一驚すると同時に、そんな事を言つてうまうまと人をたぶらかすやうな少女ならば、いづれは圖圖しい奴だらうと思ふと、何もかもあばいてやれといふ氣になつた。私はまだ年が若かつたから人情を知らずに、思へば、若い女が智慧に餘つて吐いた馬鹿馬鹿しい噓を、同情をもつて見てやれなかつたのだ。
「世外民君。來て一役持つてくれ給へ」
私は例の扇をポケツトに入れ、それから新聞記者の肩書のある名刺がまだ殘つてゐるかどうかを確めた上で外へ出た。無論、その穀物問屋へ行かうと思ひ立つたからである。さうして娘に逢へば扇を突きつけて詰問しさへすれば判るが、ただその親が新聞記者などに娘を會はせるかどうかはむづかしい。會はせるにしてもその對話を監視するかもしれない。世外民がうまくその間で計らつてくれる手筈ではあるが、それにしてもその娘が泉州の言葉しか知らなかつたらそれつきりだがなどと思つてゐるうちに、私はもうさつき勢ひ込んだことなどはどうでもなくなつた。自分に何の役にも立たない事に興味を持つた自分を、私は自分でをかしくなつた。
「つまらない。もうよさう」
世外民はしかし折角來たのだからといふ。それに穀物問屋はすぐ二三軒さきの家だつた。それから後の出來事はすべて私の考へどほりと言ひたい所だが、事實は私の空想より少しは思ひがけない。
まづ第一にその穀屋といふのは思つたより大問屋であつた。又、主人といふのは寧ろ私の訪問を觀迎した位だ。この男は臺灣人の相當な商人によくある奴で内地人とつきあふことが好きらしく、ことに今日は娘がそんな靈感を持つてゐる噂が高まつて、新聞記者の來るのがうれしいと言ふのであつた。さうして店からずつと奥の方へ通してくれた。
「汝來仔請坐」
と叫んだのは娘ではなく、そこに、籠の中ではなくて裸の留木にゐた鸚鵡ある。
娘は、しかし、我我の訪れを見てびつくりしたらしく、私の名刺を受取つた手がふるへ、顏は蒼白になつた。それをつつみ匿すのは空しい努力であつた。彼女は年は十八ぐらゐで、美しくない事はない。私はまづ彼女の態度を默つて見てゐた。
「あ、よくいらつしやいました」
思ひがけなくも娘は日本語で、それも流麗な口調であつた。椅子にかけながら私は言つた――
「お孃さん。あなたは泉州語をごぞんじですか?」
「いいえ!」
娘は不意に奇妙なことを問はれたのを疑ふやうに、私を見上げたが、その好もしい瞳のなかに噓はなかつた。私はポケツトから扇をとり出した。それを半ばひろげて卓子の上に置きながら私はまた言つた――
「この扇を御存じでせう」
「まあ」娘は手にとつてみて「美しい扇ですこと」物珍らしさうに扇の面を見つめてゐた。
「あなたはその扇を御存じない筈はないのです」私は試みに少しおこつたやうに言つてみた。
「ケ、ケ、ケツ、ケ、ケ」
鸚鵡が私の言葉に反抗して一度に冠を立てた。
みんなが默つてゐるなかに、不意に激しく啜泣く聲がして、それは鸚鵡の背景をなす帳の陰から聞えて來たのだ。淚をすすり上げる聲とともに言葉が聞えてきた――
「みんなおつしやつて下さいまし、お孃さま。もう構ひませんわ。その代りにその扇は私にいただかしてください」
「………………」
誰も何と答へていいかわからなかつた。世外民と私とは目を見合した。
姿の見えない女はむせび泣きながら更に言つた。「誰方だか存じませんが、お孃さまは少しも知らない事なのです。わたしの苦しみ見兼ねて下さつただけなのです。ただあなたが拾つておいでになつたその扇――蓮の花の扇を私に下さい。その代りには何でもみんな申します」
「いいえ。それには及びません」私はその聲に向つて答へた。「私はもう何も聞きたくない。扇もお返ししますよ」
「私のでもありませんが」推測しがたい女は口ごもりながら「ただ私の思ひ出ではあります」
「さよなら」私たちは立ちあがつた。私は卓上の扇を一度とり上げてから、置き直した。「この扇はあの奧にゐる人にあげて下さい。どういふ人かは知らないが、あなたからよく慰めておあげなさい。私は新聞などへは書きも何もしやしないのです」
「有難うございます。有難うございます」黃孃の目には淚があふれ出た。
* * * *
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幾日目かで社へ出てみると、同僚の一人が警察から採つて來た種のなかに、穀商黃氏の下婢十七になる女が主人の世話した内地人に嫁することを嫌つて、罌粟の實を多量に食つて死んだといふのがあつた。彼女は幼くして孤兒になり、この隣人に拾はれて養育されてゐたのだといふ。この記事を書く男は、臺灣人が内地人に嫁することを嫌つたといふところに焦點を置いて、それが不都合であるかの如き口吻の記事を作つてゐた。――あの廢屋の逢曳の女、――不思議な因緣によつて、私がその聲だけは二度も聞きながら、姿は終に一瞥することも出來なかつたあの少女は、事實に於ては、自分の幻想の人物と大變違つたもののやうに私は今は感ずる。