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惟然坊句集

[やぶちゃん注:廣瀨惟然(いぜん/いねん 慶安元(一六四八)年?~宝永八(一七一一)年)は美濃国関(現在の岐阜県関市)に富裕な酒造業の三男として生まれた。通称は源之丞。十四歳の時、名古屋の商家藤本屋に養子に入ったが、貞享三(一六八六)年三十九の時、妻子を捨てて関に戻り、出家した。貞享五(一六八八)年六月(この貞享五年九月三十日に元禄に改元)、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終え、岐阜に逗留した折り、芭蕉と出逢って門下となった(元禄四(一六九一)年説もあるが、私は従えない)。翌年にも「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後、関西に滞在した芭蕉に近侍した。元禄七(一六九四)年、素牛そぎゅうの号で「藤の実」を刊行している。天真爛漫な性格で、晩年の芭蕉に愛された。芭蕉没後は極端な口語調や無季の句を作るようになり、同門の森川許六からは『俳諧の賊』と罵られている。一茶の先駆とも称される。「奥の細道」の逆順路の旅などもし、元禄一五(一七〇二)年頃からは芭蕉の発句を和讃に仕立てた「風羅念仏」を「風羅器」と呼ぶ木魚のような楽器(以下の秋挙の序に出る「古き瓢」(ふすべ/ひさご:瓢簞ひょうたん)がそれ)を作り、それを唱えて芭蕉の追善行脚した(「風羅念仏」とは例えば「古池に、古池に、かはづとびこむ水の音、水の音、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛」といったていのものであったという)。晩年は美濃に戻り、弁慶庵(ただ七つの什器のみで暮らすと決めたことに由来する)に隠棲した。
 本「惟然坊句集」は曙庵秋挙あけぼのあんしゅうきょの編になる惟然没後の句集である。中島曙庵秋挙(安永二(一七七三)年~文政九(一八二六)年)は名は惟一、三河刈谷(かりや)藩士。井上士朗の門に学び、享和元(一八〇一)年、同門の松兄しょうけいとともに師の供をして江戸その他を旅した。翌年、致仕して郊外の小垣江おがきえに曙庵を結んだ。生涯独身で諸国を巡り、俳諧三昧の暮らしをした。
 底本は昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊の国文学者藤井紫影(乙男)氏(パブリック・ドメイン)の校訂になる「名家俳句集」所収のそれを国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して使用した。冒頭の藤井氏の「緖言」の「惟然坊句集」によれば、
   *
 三河刈谷の士中島秋擧の編にて、文章逸話を附載す。此書文化九年[やぶちゃん注:一八一二年。]版と、其後の再版と二種あり。再版本は宍戶方鼎の跋文を除き去り、追加の句二十餘を添へたり。而して其中に芭蕉の句二三句を混ぜり、芭蕉の一名風羅坊を惟然の事と思ひ誤りしにや。ここには右の二版を撮合[やぶちゃん注:二つの物を結び合わせること。]し、再追加として新に增加を加へたり。
   *
とある。則ち、これは藤井版「惟然坊句集」と言うべきオリジナルなもので、柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」はここに出る惟然の句数等について、『初版の総句数九十八、再版の増補のうち芭蕉の句の混入したものを除いて二十、更にこれを「有朋堂文庫」に収める時、藤井紫影博士が追補されたもの三十二を加えても百五十句に過ぎぬ。(但この追補の中には重複の句が一つあるし、秋挙の編んだ中にある「梅さくや赤土壁の小雪隠」なども、『梅桜』にある桂山の句の誤入だとすれば、当然勘定から除かなければなるまい)』と述べておられる。なお、本文部分については、加工データとしてサイト「国語史料@wiki」にある新字表記のそれを使用させて貰った。ここに御礼申し上げる(但し、失礼乍ら、ミス・タイプがかなりある)。
 踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、踊り字は「〻」が使用されているが、「〻」の濁点付きが出現し、これは
Unicode では表示出来ないため、総て「ゝ」「ゞ」に代えた。「候」の草書体は正字化した。
 句は読み易さを考え、前後を一行空けた(文章部も同じ処理をした)。底本では句は均等割付であるが、再現せずにベタで示した(短い前書の字空け等も再現していない)。藤井氏の頭注は私が適切と判断した部分に《 》で同ポイントで挿入した。同様にそれに対応した注記号(左側ポイント落ち)は私の判断で適切と思われる位置に移動してある。
 一部でどうしても必要と考えた箇所には禁欲的に注を附した。なお、私は一九八六年岩波文庫刊の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々 惟然」(全四章)を私のブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で既に電子化注を完遂している。ここに出る幾つかの句について宵曲が解説しており、私も可能な限り、そちらでは句について、語注を加えたり、オリジナルな解釈も記してあるからである。そこで私が納得したものや注記したことは一部を除いてここでは繰り返していないので、そちらも是非、参照されたい。
 最後に言っておくと、私の偏愛する惟然の、ここに掲げられた句は比較的、難解なものは少ないと思う。それでも私には一部に半可通なものもある。しかし、それを注として指示するのは句集としては野暮である(それでも甚だしく私にとって不審なものは例外的に注した)。ともかくも総ての句の意味を私が理解しているわけではないことを予めお断りしておく。【二〇二〇年五月二〇日 藪野直史】]



   
惟 然 坊 句 集



梅華鳥落人、惟然坊は美濃國關里の產、廣瀨氏安通が舍弟なりけり。或日庭前の梅花時ならずして鳥の羽風に落散るを感動せしより、しきりに隱遁のころざし起こりてやまず、ある夜妻子を捨て、自ら薙髮して芭蕉門にかけ入り、吟徒となりて、晝夜をわかず俳諧三昧にして、終に此道の大眼悟徹を遂げたり。翁遷化後師として隨ふべき人なし、友とし親むものなしとて、風羅念佛といふものを作り、古き瓢を打鳴し、諷ひ風狂して足の行く處に走り、足のとどまる處にとゞまりて、心の儘に身の天然を終れり。まことに世に奇々たる風骨のこのもしきあまり、わが旅寢のひまひま、かの鳥落人の句々、奇事奇談眼に見耳にふれたる程の數々書集め、一囊となしたるを、關里巴圭が勸めにまかせて、一囊の紐解きて、一とぢの册子とはなしぬ。

曙  菴  秋  擧  


鳥落人惟然坊は蕉門の一奇人なること、世に知る人まれなり。秋擧之をかなしび、草枕の時時目に見耳にふるゝ每に年頃書置きぬ。こたび惟然坊がふるさと關に假寢して巴圭にかたらひ、鳥落人の遺稿をあはせて、かの風韻を世に輝かすことしかり。

朱  樹  叟     

士   朗  


[やぶちゃん注:「梅華」は「ばいくは(ばいか)」で惟然の別号。次の「鳥落人」も「てうらくにん(ちょうらくにん)」で同じく別号。
「巴圭」秋香亭巴圭はけい。「關里」とあるように、惟然と同郷の俳人であった。
「朱樹叟士朗」前の号は「しゆじゆそう(しゅじゅそう)」と読む。井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)は尾張国守山村生まれ。名古屋新町の叔父で医師の井上安清の養子となった。医師として活動する傍ら、加藤暁台門下として俳諧に勤しみ、暁台没後は名古屋の俳壇を主導した。]



惟 然 坊 句 集

  
曙庵先生選定  巴 圭 校

 春

しづかさの上の靜や梅の花

梅さくや赤土壁の小雪隱
[やぶちゃん注:この句は四方郎(阪本)朱拙編で元禄一〇(一六九七)年刊の俳諧選集「梅櫻うめさくら」に作者を「吉井柱山」(或いは「吉井柱山」)として出、柴田宵曲は「俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」で誤伝の可能性を明記している。]

梅の花赤いは赤いはあかいはな

 梅 畫
梅の花あの月ながら折らばやな

 人 日
芹薺踏みよごしたる雪の泥
《㈠ 人日は正月七日》

山のハヾ啼きひろげけり雉の聲
《㈡ 一本「啼きひろげたる雉」とあり》

風呂敷へ落ちよ包まむ舞雲雀

衣更着の重ねや寒き蝶の羽
《㈢ 一本「衣更重ねや重き」とあり》

山吹や水にひたせるゑまし麥

まだ山の味覺えねど松の花

  こよひ智積院の鐘聞、今朝
  まで其元の事ども益御無事
  之旨及承候、秋與風須曆明
  石のはつ花一兩日已前にあ
  わてゝ東山に飛びまはれば
花もなう少しの分かまたなんぼ
《㈣ 此二三行誤脫あるべし、意義通ぜず》

 久泄に弱り果て、いづ方に
  てもゆるりと伏し申分別の
  み、大雲樣近日御下可被成
  候よし御聞可被成候かしく
 三月廿七日      惟 然
 東暇丈
かう居るも大切な日ぞ花盛

我儘になるほど花の句をさらり
《㈠ 一本「かう居ても大切な日ぞ花の陰」とあり》

  富貴なる酒屋にあそびて、
  文君が爪音も醉のまぎれに
  おもひ出らるゝに
酒部屋に琴の音せよ窓の花
  上市にとまりける夜は雨ふ
  りけるに、明けて晴渡りけ
  る、よしの川をわたれば、
  口の花はちり過ぎて、かへ
  らぬころほひになりぬ、そ
  れよりしてひたはひりには
  ひれば、花も奧あるけしき
  にて、匂ふばかりに咲きわ
  たりぬ、なほ山深く入れば、
  圓位の住める蹟と幽靜の谷
  あり、鳥しづまり、處々花は
  かなげにて、しばらく此石
  上に眠れば、心空しく萬事
  を休す。
今日といふ今日この花の暖かさ
《㈡ 圓位は西行》

馬の尾に陽炎ちるや晝多葉粉

  出羽にて
しとやかな事ならはうか田うち鶴

鶯や笹葉をつたふ湯だて曲突
《㈠ 曲突はくど(竃)》

新壁や裏もかへさぬ軒の梅

  宗鑑の陳蹟を尋ねて
梅散て觀音艸の道の奧
《㈡ 觀音草、又吉祥草ともいふ、陰地に生じ葉は麥門冬に似て晩秋淡紫花を開く》
[やぶちゃん注:単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ属キチジョウソウ
Reineckea carnea。「麥門冬」(ばくもんとう)はスズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の漢名。]

  詣聖廟
如月や松の苗賣る松の下
《㈢ 聖廟は天滿宮》

乙鳥や赤士道のはねあがり

鳥散す檜木クレキの中や雉子の聲

菜の花の匂や庵の磯畠

文臺に扇ひらくや花の下



 夏

若葉吹く風さらさらと鳴りながら
《㈠ 一本「若葉吹くさらさらさらと雨ながら」とあり》

  於知足亭
    名所夏
涼まうか星崎とやらさて何處ぢや

澤水に米ほゝばらむ燕子花

かるの子や首さし出して浮藻草
《㈡ 「かるの子」は「かりの子」か、「かもの子」の誤りなるべし》
[やぶちゃん注:柴田宵曲は「俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」でこの注を採り上げ、『「かるの子」というのは軽鴨かるがものことであろう。『大言海』に軽鴨、なつがもに同じと出ている。「有朋堂文庫」の註には「かりの子」か「かもの子」の誤だろうとあるが、単にカルとのみ称える地方もあるようだから、このままで差支あるまい』と述べている。]

撫子やそのかしこさに美しき

夕顏や淋しう凄き葉のならひ

糊ごはな帷子かぶる晝寢哉

  追善
追付かむ誰もやがてぞ夏の月

  故鄕の空ながめやりて
あれ夏の雲又雲のかさなれば

  四日市にて
涼しさよ饅頭食うて蓮の花

無花果や廣葉にむかふ夕涼

竹の子によばれて坊のほとゝぎす

蓴菜やひと鎌入るゝ浪のひま

  嵯峨鳳仭子の亭を訪ひし頃、
  川風涼しき橋板に踞して
すゞしさや海老のはね出す日の曇り

  史邦吟士に別る
起臥にたほふ蚊帳も破れぬべし
《㈢ 「たほふ」は「たばふ」にて貯ふの意か。或は「にほふ」の誤にや》

  芭蕉翁岐阜に行脚の頃した
  ひ行き侍りて
見せばやな茄子をちぎる軒の畑

  遺悶
鷄鳴くや柱踏まゆる紙張ごし

  玉江
貰はうよ玉江の麥の刈り仕舞



 秋

なほ秋に竹のしわりのしなし哉

更け行くや水田のうへの天の川

七夕やまづ寄合うて踊初

張り殘す窓に鳴入る竈馬イトヾかな

  尙々御無事の段承りたく奉
  存候、爰もと折々の會にて
  風流のみに候、以上
  先月ははじめて罷越、ゆる
  ゆる得貴意、大慶に奉存候、
  色々預御馳走、御懇意の御
  事ども忝奉存候、翁彌御無
  異にて奈良一宿仕、重陽の
  日に大坂着仕候、翁

菊に出て奈良と難波は宵月夜

  此の御句にて會など御坐候、
  其元彌御無事に被成御坐候
  哉、御句など少々承たく候、
  先日奈良越にて、

近付きになりて別るゝ案山子哉

錢百のちがひが出來た奈良の菊

  右兩句いたし申候、御聞可
  被下候、土芳丈望翠丈どれ
  どれ樣へも可然樣に御心得
  被成可被下候、如何樣ふと
  罷越、萬々可得貴意候、京都
  にて高倉通松原上ルつゞら
  や町笠屋仁兵衞店にて素牛
  と御尋被下候へば相知れ申
  候、何時にても風流の御宿
  可申上候、恐惶謹言
  九月二十二日    惟  然
   意專老人
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、以上は書簡の引用で、「菊に出て奈良と難波は宵月夜」は「翁」松尾芭蕉五十一歳、惟然のクレジットでは没する二十日前に相当する。芭蕉自身のそれとしては、窪田意専(猿雖えんすい)・服部土芳宛の元禄七年九月二十三日附の書簡でまず知られる。因みに元禄七年九月二十二日はグレゴリオ暦一六九四年十一月九日に相当する。当該芭蕉書簡には、

   九日、南都を立ちける心を
 菊に出て奈良と難波は宵月夜

と前書して出る。同年同月二十五日附正秀宛書簡には、『重陽之朝奈良を出て大坂に至り候故』と、また、志考の「笈日記」には『九月九日奈良より難波津にわたる。生玉の邊より日を暮して』と前文する。窪田・服部宛ではこの直前に『兩吟感心。拙者逗留の内は、この筋[やぶちゃん注:「軽み」の風体を指す。]見えかね、心もとなく存じ候ところ、さてさて驚き入り候。「五十三次」前句共秀逸かと、いづれも感心申し候。そのほか珍重[やぶちゃん注:俳諧で「秀逸」に次ぐ作品を呼ぶ。]あまた、總體[やぶちゃん注:「そうてい」。]「輕み」あらはれ、大悅すくなからず候』と二人の直近の句に「軽み」が十二分に発揮されていることに歓喜している。しかし、一方でその書簡は、

   秋暮
 この道を行く人なしに秋の暮

の芭蕉の事実上の凄絶な辞世の句とも言うべき一句で擱筆しており、ここに芭蕉の末期の激しい孤独感も示されていると言えるのである。なお、「宵月夜」は宵の間だけ出て消える新月の頃の月を指す。]

此の冬の寒さもしらで秋の暮

  粟津にて
いまならば落ちはなされじ田刈時
《㈠ 義仲の落馬をいふ》

鹽壺の庇のぞかむ今日の月
《㈡ 一本「鹽尻の」とあり》

なほ月に知るや美濃路の芋の味

  奧の細道
萩枯れて奧の細道どこへやら

田の肥る藻や刈寄せる磯の秋

物干にのびたつ梨子の片枝哉

朝霧に躄車ヰザリグルマや草のうへ

  廣瀨氏の別墅を萩山とも又
  は松山ともいへり
萩にのぼる雲の下のは木曾山か

悲しさや麻木の箸も長生並
《㈢長生並は「をとななみ」と讀むべきか、一本に「悲しさよ」とし、「悼少年」と、前書あり》

竹藪に人音しけり栝蔞
《㈣栝蔞は未詳》
[やぶちゃん注:「栝蔞」藤井は未詳とするが、これは狭義には現代中国語にあっても、スミレ目ウリ科カラスウリ属トウカラスウリ変種キカラスウリ
Trichosanthes kirilowii var. japonica を指す。本邦には北海道から九州に自生し、葉の表面は光沢があって、表面に多数の短毛を持つカラスウリとはそれで識別出来る。カラスウリ(カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides)と同じく雌雄異株で、六月から九月にかけて、日没後から開花し、翌日午前中から午後まで開花し続ける。花は白色或いはやや黄味がかった白色を呈する。カラスウリと違って結実した果実は緑色である。ともかくも、そのような種別を認識していたかどうかは別として、ここはこれで広義の「からすうり」で読ませている。]

  伊賀の山中に阿叟の閑居を
  訪ひて
松茸や都にちかき山の味
《㈤一本「山の形」とあり》
[やぶちゃん注:「形」は「なり」と読ませるのであろう。]

  湖邊
八景の中吹きぬくや秋の風

我寺の藜は杖になりにけり
《㈠一本「我家の」とあり》
[やぶちゃん注:「藜」は「あかざ」でナデシコ目ヒユ科
Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum。一年生草本であるが、茎は直立して縦に堅い筋があり、秋には木質化する。嘗ては食用や民間薬とされた。]

肌寒きはじめに赤し蕎麥の莖

世の中をはひりかねてや蛇の穴

  翁に坂の下にて別るゝとて
別るゝや柿食ひなから坂のうへ



 冬

何事もござらぬ花よ水仙花

水仙の花のみだれや藪屋敷

凩や刈田の畔の鐵氣水
《㈠ 「鐵氣水」は「かなけみづ」。》

鵜の糞の白き梢や冬の山

しかみつく岸の根笹の枯葉哉

鵯や霜の梢に鳴きわたり

枯蘆や朝日の氷る鮠の顏

  欲塡溝壑只疎放
水草の菰にまかれむ薄氷
[やぶちゃん注:前書は「溝壑(こうがく)に塡(てん)せんと欲して只(た)だ疎放(そはう)なり」とでも読み、杜甫の七律「狂夫」の中の一句である。杜甫四十九歳(七六〇年)の時の作。成都時代の杜甫草堂近くの錦江の浣花渓(かんかけい:「花を洗う谷水」の意。リンク先はグーグル・マップ・データ)と自ら名指した水辺で詠まれたもの。自身の詩人としての風狂を嘲りつつその矜持を示したものと私は採る。原文は岩波文庫「杜詩」(第四冊)鈴木虎雄訳注(一九六五年刊)に拠り、訓読は鈴木氏他を参考にオリジナルに示した。
   *
  狂夫
萬里橋西一草堂
百花潭水卽滄浪
風含翠篠娟娟淨
雨裛紅蕖冉冉香
厚祿故人書斷絕
恆飢稚子色凄涼
欲塡溝壑惟疎放
自笑狂夫老更狂
   狂夫(きやうふ)
 萬里橋西(ばんりきやうせい) 一草堂
 百花潭水(たんすい) 卽ち滄浪(さうらう)
 風は翠篠(すいじやう)を含み 娟娟(けんけん)として淨(きよ)く
 雨は紅蕖(こうきよ)を裛(うるほ)して 冉冉(ぜんぜん)として香(かんば)し
 厚祿の故人 書 斷絕
 恆飢(こうき)の稚子(ちし) 色 凄涼
 溝壑(こうがく)に塡(てん)せんと欲して 惟(た)だ疎放(そはう)なり
 自(みづか)ら笑ふ 狂夫 老いて更に狂なるを
   *
以下、鈴木虎雄氏(パブリック・ドメイン)の語注と訳を示す(漢字は底本自体が原詩を除いて新字化されてある)。
   *
○狂夫 病的のきちがいではない、道に向かって進取するものをいう、詩題は末句の語をとって命じた。○万里橋 錦江にかかっている橋の名。○西 この詩には西とあり、「錦水ノ居止ヲ懐ウ」[やぶちゃん注:「懷錦水居止」(「錦水の居止(きよし)を懷(おも)ふ」)。後の五十四歳の時の二首から成る五律。]詩には橋南とある、正しくは西南に位するのであろう。○草堂 作者の諸詩句によって察するならば、草堂の位置は成都の背郭、碧雞坊外、万里橋西南、百花潭すなわち浣花渓の西北に在った。○百花潭 浣花渓をいう。○滄浪 青色の水をいう、「楚辞」(漁夫)の「滄浪ノ水清マバ[やぶちゃん注:「すまば」。]、以テ吾ガ纓[やぶちゃん注:「えい」。冠の紐。]ヲ濯グ[やぶちゃん注:「すすぐ」。]ベク、滄浪ノ水濁ラバ、以テ吾ガ足ヲ濯グベシ」の滄浪である、「尚書」(禹貢)によれば漢水より東に在る水名とのことであるが今は従わない、ここは自己の足をあらうべき水、隠退の処として用いている。○篠 しのだけ。○蕖 芙蕖に同じ、はすのはな。○再再 次第に生ずるさま。○厚禄故人 大官となって多くの俸禄をもらっている旧知の友人、指す人があるのであろうが何人かは知りがたい、旧注は裴冕[やぶちゃん注:「はいべん」。杜甫の友人で高官。杜甫草堂造営に力があったとされる。]となしているが余は高適[やぶちゃん注:「こうせき」。杜甫の親友で高官。名詩人としても知られる。]の輩かとおもう、高適に対しては救いを求めた詩があるからである。○書断絶 これはたまたまこのとき書信がとだえたのであろう。○恒飢稚子 いつもうえているこども。○色 顔色。○凄涼 かなしげ。○填溝壑 みぞやたににはまりこんでそれをうずめる。のたれ死にすること。○疎放 世とうとくし、きままにする。

 万里橋ばんりきょうの西に一つの草堂がある。そのそばにある百花潭ひゃっかたん
水はすなわち自分にとっては滄浪そうろうの水で隠退の場所である。見渡せば翠色すいしょく篠竹ささたけは風を含んでとうつくしくきよらかであり、雨のうるおいにつつまれている紅の蓮の花はつぎつぎにかおっている。ときにこのごろは厚禄をもらっていた旧友からの手紙はとだえ、いつもひもじがっているこどもの顔色はいよいよかなしげにみえている。こんなわけで自分はいまにもどぶへはまってのたれ死にしそうになっているのにただただ世ばなれてかってきままにしている。これは元来狂夫であるこの自分は年がよってもう一層狂気じみてきたのかと、自分ながらおかしくなる。
   *]

茶を啜る桶屋の弟子の寒さ哉

  稻葉堂に詣る
撫房ナデバウのさむき影なり堂の月
《㈡ 撫房はなで佛をいふ》

  萬句興行
はつ霜や小笹が下のえび蔓

冬川や木の葉は黑き石の間

寒き日にきつとがましや枇杷の花

  蕉翁病中祈禱之句
足ばやに竹の林やみそさゝい

  看病
引張りて蒲團ぞ寒き笑ひ聲

  於義仲寺六七日
花鳥にせがまれ盡す冬木立

  越路にて
薪も割らむ宿かせ雪の靜さは
《㈢ 一本「靜さよ」とあり》

あそびやれよ遊ぼぞ雪の德者達

  世の中はしかじとおもふべ
  し、金銀をたくはへて人を
  惠める事もあらず、己をも
  苦ましめむより、貧しうし
  て心にかゝる事もなく、氣
  を養へるにはしかじ、學文
  して身を行はざらむより、
  知らずして愚なるにはしか
  じ
人はしらじ實に此道のぬくめ鳥

   有ルモ千斤不ㇾ如林下
ひだるさに馴れてよく寢る霜夜哉
[やぶちゃん注:前書は訓読すると「千斤(せんきん)の金(こがね)有るも、林下(りんか)の貧(ひん)に如(し)かず)」。]

水さつと鳥はふはふはふうはふは
[やぶちゃん注:「ふうはふは」の「ふは」は底本では踊り字「〱」であるが、当時の口語音律から考えて、かく正字化して読んだ。]

水鳥やむかふの岸へつういつい
[やぶちゃん注:前に同じく「つういつい」の「つい」は底本では踊り字「〱」であるが、当時の口語音律から考えて、かく正字化して読んだ。]

  芋鮹汁は 宗因の 洒落
  奈良茶漬は芭蕉の淸貧
冬籠人にもの言ふことなかれ

臘八ラフハチや今朝雜炊の蕪の味㈠
《(一) 臘八は十二月八日の意にえ、釋迦成道出山の日なるとて佛徒は之を尊み臘八粥を作りて食ふ》
[やぶちゃん注:「成道出山」は「じやうだうしゆつさん(じょうどうしゅっさん)」と読む。釈迦が七年に及んだ山中菩提樹下での厳しい修行の末に悟りを開いて、衆生済度のために山を下ったことを指す。]

煤掃や折敷一枚ふみくだく

節季候や疊へ鷄を追上げる
[やぶちゃん注:「節季候」は「せきぞろ」で、門付芸の一つ。元禄頃(一六八八年~一七〇四年)から盛んに行われた。歳末に男女が編笠に歯朶しだの葉をつけて被り、赤い布で顔を隠して目だけ出し、ささらや太鼓を鳴らしながら、目出度い唄を口ずさみ、米や銭を貰って歩いた。昔は三都に流行ったが、江戸末期には江戸の街だけとなった。]

天鵝毛の財布さがして年の暮
[やぶちゃん注:「天鵝毛」は「びろうど」。]

年の夜や引結びたる𦄻守
[やぶちゃん注:「𦄻守」柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 一」では、この句を引いて、
 年の夜や引むすびたる繈守さしまもり
と「さしまもり」というルビが振ってある(このルビが柴田に拠るものか、岩波の編集者に拠るものかは不明)。そこで私は「繈守」とは『緡(さし:銭に紐を通したもの)を善福の御守りとしてきりりと結んで借金取りを迎え撃つ姿ででもあろうか。いや、たいした緡でもないものを、一文字(注連繩)の代わりに結界として茅舎に引き結んで、借金取り以下の現世の魑魅魍魎を入れまいとする滑稽か』と解釈した。今回、この漢字表記の違いから、少し別個な見解をそちらに追記しておいたが、根本的には漢字や読みを適確に措定出来ない点で結論に至らなかった。識者の御教授を乞うものである。]

年の雲故鄕に居てもものの旅

  尋元政法師塚
竹の葉やひらつく冬の夕日影

  曾根松
曾根の松これも年ふる名所かな



  貧 讃
いにしへより富めるものは世のわざも多しとやらむ、老夫こゝの安櫻山に隱れて、食はず貧樂の諺に遊ぶに、地は本より山畑にして茄子に宜しく、夕顏に宜し。今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子をちぎる軒の畑、と招隱のこゝろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顏、とその文の囘答ながら、それを繪にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顏に培ひて、その貧樂にあそぶなりけり。さて我山の東西は木曾伊吹をいたゞきて、郡上川其間に橫ふ。ある日は晴好雨奇の吟に遊び、ある夜は輕風淡月の情を盡して、狐たぬきとも枕を竝べてむ、いはずや道を學ぶ人はまづ唯貧を學ぶべしと、世にまた貧を學ぶ人あらば、はやく我が會下に來りて手鍋の功を積むべし。日用を消さむに、經行靜坐もきらひなくば、薪を拾ひ水を汲めとなむ。

  椎葉文之事
坊適〻おのれが庵に在て、紙なき時は、自ら軒端なる椎の枝をりて、葉の次第に一二三のしるしをわかち、味噌ほしき、或は米ほしき、その餘のあらまし事葉每に書て、關里の社友へおくり、事足しぬとなむ。家にあれば笥に盛る飯を旅にしあれば椎の葉にもる、事かはれど用を爲すこと一つにして、その氣韻もつとも高し。
[やぶちゃん注:「笥」は「け」。食物を盛る器。ここは言わずもがな、「万葉集」の「巻第二」の「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」の二首目(一四二番歌)
 家にあればに盛るいひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
をそのまま裁ち入れたもの。]

  坊名を僞り俳席に交る事
西國に遊びける頃にやありけむ、たはむれにおのれが名を隱し、ある好人スキビトの家を訪ふに、をりしも人つどひ、俳席を設けゐたりけり。あるじ進出でていふやう、いづこの人かはしらざりけれど、俳諧好みけるとあれば、まづ此席へつらなれかしといふ。坊トミににじりあがりて、はるか末座につらなり、たゞ默々として沈吟す。もとより孤獨淸貧の身なれば、衣服などとりつくろふべきやうなければ身すぼらし、一座のものみな見あなどりて、指さし咡き[やぶちゃん注:「ささやき」。]あへり。さるほどに附くるほどの連句、いひ出すほどの發句、盡く引直しけれど、さもうれしげに、一々おし戴きぬ。とかくするうち卷滿尾にいたれば、人々立還りぬ。坊も歸らむとしければ、あるじ呼びとゞめて、二夜とはならざれど、こよひ一夜は宿かさむなど、見下しがましくいひければ、坊大笑して、天を幕とし地を席[やぶちゃん注:「むしろ」。]とし、雲に風に身を易うするもの、何ぞ一夜のやどりに身を屈せむやとて、たゞはしりに走りゆきぬ。あるじも今更いさゝか訝しき者とおもひいりぬ。明る日朝疾くきのふのあらまし且「粟の穗を見あげてこゝら鳴鶉[やぶちゃん注:「なくうづら」。]」かかる句書て、加筆ねがはしとて、けふは惟然坊と文の奧に書きしたゝめて遣りけり。あるじひらき見て、さてはきのふ來られしは、聞及ぶかの惟然道人にてありしやと、開たる[やぶちゃん注:「あいたる」。]口をもふさがず、腋下に冷汗流し、恥ぢに恥入て返事さへ得せざりしとぞ。

  翁に隨從惟然行脚の事
翁と共に旅寢したるに、木の引切りたる枕の頭いたくやありけむ、自らの帶を解て、これを卷て寢たれば、翁見て惟然は頭の奢[やぶちゃん注:「おごり」。]に家を亡へりやと笑れしとなり。

  蕉像の事
  風羅念佛の事
翁の亡骸いとねもごろに粟津義仲寺に葬たてまつりて、幻住菴椎の木を伐りて、初七日のうちに蕉像百體をみづから彫刻し、之を望めるものに與へぬ。又「まづたのむ椎もあり夏木立降るはあられか檜笠古池や古池や蛙とびこむ水の音南無アミダ南無アミダ」かゝる唱歌九つを作りて、風羅念佛となづけ、翁菩提の爲にとて古き瓢をうちならし、心の趣く所へはしりありく、そも風狂のはじめとぞ。
[やぶちゃん注:下線部は底本では傍点「ヽ」。「瓢」は「ふくべ」或いは「ひさご」と読んでいよう。瓢簞のこと。]

  翁亡きあと旅のものの具携行事
かくて惟然坊翁遷化し給ひし難波花屋何がしが家に歸り、殘れる蓑笠をはじめ、旅硯、錢入、杖などひとつにとり集め、みづから背に負て播磨國姬路にゆきぬ。舊友のしひて求むるにまかせて、みな與へぬ。今增井山のふもと風羅堂の什物となりぬ。
翁百年忌の頃笠あて稍ほつれければ、堂守こはよく翁の筆の蹟に似たりとて、ほどきて見るに翁の草稿なり。こまやかに切れたるを彼此とつぎあつめぬれば、
 芳野山こぞのしをりのみちかへて
  まだみぬかたの花をたづねむ
 わが戀は汐干にみえぬ沖の石の
  人こそしらねかわくまもなし
 靑柳の泥にしだるゝ汐干かな
 かゝる一紙にて、ことに筆のすさみいとうるはしく、めでたき一軸とはなりぬ。
[やぶちゃん注:「携行事」は「たづさへゆくこと」。
最後の「かゝる一紙にて」以下の一文のみ底本ではポイント落ちとなっているが、余り意味を感じないので同ポイントとした。
「芳野山こぞのしをりのみちかへてまだみぬかたの花をたづねむ」「芳」はママ。芭蕉が尊崇して止まなかった西行の一首、
 吉野山こぞのしをりの道かへてまだみぬかたの花をたづねん
という「新古今和歌集」の「巻第一 春歌上」に載るもの(八六番)が最も知られる。
「わが戀は汐干にみえぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」「戀」はママ。「小倉百人一首」の九二番として、
 わが袖は潮干しほひに見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし
で知られる二条院讃岐の一首で、「千載和歌集」の「巻第十二 恋歌二」には(七六〇番)、
   寄スルㇾ石ニ戀といへる心を
 我袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間ぞなき
の形で載る。「戀」は誤りではなく、筆記者(本話の創作者)の確信犯であろう。
「靑柳の泥にしだるゝ汐干かな」「炭俵」の「春之部發句」の「上巳」(じやうし(じょうし):桃の節句)の掉尾に載る、
 靑柳の泥にしだるゝ塩干しほひかな
芭蕉の句。元禄七(一六九四)年の作とされる。旧暦のこの日は潮の引きが大きく、潮干狩りの日ともされた。一句はそうした情景を措定しておいて、カメラがゆっくりとアップしてゆく絶妙な手法である。因みに、海産無脊椎動物の愛好家でもある私は、「靑柳」は通説通りに枝垂れた青い柳の葉のそれだとは思うものの、別に背景に広がる潮干狩りの対象たる「アオヤギ」(バカガイ(斧足綱異歯亜綱バカガイ上科バカガイ科バカガイ属バカガイ
Mactra chinensis)の剥き身)が掛けられているものとひそかに実は思っている。バカガイの生態を知っていると、この「泥にしだるゝ」が私の脳内で直ちにそのアップの映像をも創り出してしまうからである。]

  坊婚家一宿の事
坊ある俳士のもとにやどる、其あるじ近き頃妻をむかへていまだ座敷のかざりををさめず、振袖の小袖あまた衣桁[やぶちゃん注:「いかう」。]にかけならべ置たり。朝とく家なる下女座敷へ行きて見るに、かの坊は疾く出行きたりと見えて、やり戶明放ちたるまゝにてあるに、衣桁にかけたる娘の小袖ひとつうせたり。さはこの坊のぬすみたるものにこそ、と走り入てあるじにかくと告ぐるに、あるじの曰、惟然坊なかなか盜などすべき小器の人に非ず、しかし酒落の道人なれば、朝の寒さを凌がむ爲に此小袖を着て徃く[やぶちゃん注:「ゆく」。]まじきものにもあらざれば、夜前のものがたりに、明日はそこそこの風士のかたへ行かむなどと聞えければ、先づかのかたへおとづれして見むと、やがて坊行くべき知るべのかたへ使もてたづねつかはしけるに、坊その家に在て答へけるは、その事なり、今朝とくたち出たるに、野風の身にしみて甚だ寒かりしゆゑに、たちかへりて衣桁に在りし小袖を一つとり、うへに覆ひ來れり、もとより小袖なることは知りたれども、男女の服のわかちは覺えず、さだめてこれにてやあらむと、かの振袖したる伊達模樣の小袖を取出し、其使に返し侍りけるとぞ。

  坊布を得る事
西國行脚の時ならむ、播州姬路の方に知る人ありて、立寄り侍りける。もとより風狂者のならひ、裾を結び、肩をつなぎたる單物[やぶちゃん注:「ひとへもの」。]を身にまとへり。あるじ憐みて、布一匹とり出て與へけり。坊これを得て柱杖にかけていでて行き、旅店に到りていふやう、この布にて帷子[やぶちゃん注:「かたびら」。]一つ縫て給れ、殘りは内義[やぶちゃん注:「義」はママ。]にあたへんといひけるゆゑ、あるじ悅び、取急ぎ縫立てゝ與へぬ。やがて古衣をぬぎ捨て新衣に着かへ出けるが、二町もゆきぬらむとおもふころ、立返りていふやう、何としても着なれたるものは心よきものなり、新しきものはどこやら着心[やぶちゃん注:「きごころ」。]あしければ、もとの古衣に着かへむために返りたりとて、やがてかの帷子をぬぎ、もとの垢つきたるものに着かへ、あとをも見ず出行きぬ。ここにおきて[やぶちゃん注:ママ。無論、この方が正しい。]あるじも始めて道人なる事を感じ、このものがたりしてたふとみけるとぞ。
[やぶちゃん注:「どこやら着心あしければ」の「どこやら」は底本では「どこやち」。「惟然坊句集」の「国文学研究資料館」の影印本で確認したところ、「どこやら」となっているので、ここは底本の誤植と断じ、特異的に訂した。]

  俳諧の心を語る事
姬路に寓居しておはせし頃、久しく俳諧の席へ出ず、うち籠りて居侍りけるを、或人いふやう、此程は何とて俳諧の交りしたまはざる、今宵は誰が亭にて俳諧あり、いざさせ給へかしとすゝめければ坊うちわらひ、をかしき事をいふ人かな、我は俳諧師なり、さあれば日いでて起き、日入りて休らふ、喫茶餐飯行往座臥共に皆俳諧なり、それを外に俳諧せよとは何事ぞや、さやうのことは俳諧と常とかはりたる人にこそ勸むべき業[やぶちゃん注:「わざ」。]なれといはれければ、其人且恥ぢ且歎じて還りけるとぞ。

  娘市上に父惟然坊に逢ふ事
坊風狂しありくのちは娘のかたへ音信もせず。ある時名古屋の町にてゆきあひたり。娘は侍女下部など引連れてありしが、父を見つけて、いかに何處にかおはしましけむ、なつかしさよとて、人目もはぢず乞丐ともいふべき姿なる袖に取付きて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、
 兩袖にたゞ何となく時雨かな
と言捨てゝ走り過ぎぬとなむ。

  娘父を慕ひ都に登る事幷娘薙髮の事
娘父に逢はまほしくおもふ心明くれ已まざりけるを、ある時父都に在りと聞て、いそぎ都に登り、書肆橘屋何がしの家は諸國の風客いりつどふ處なれば、此家にゆきて問はゞ、父の在家もしらるべければとて、ゆきてあるじに逢ひていふやう、みづからは惟然坊といふものの娘にて侍る、父風雲の身となりてより、たえて音信なかりしを、さいつ頃ある街にてふと行逢ひ侍りていとうれしく、近くよりて過ぎこし程の事いひ出でむとし侍りしほどに、かきけすごとく遁れ隱れて、影だにみえずなり侍りつれば、いはむかたなく打歎きつゝ日數過しつるほどに、此ごろ都におはする由風のたよりに承りて、取るものもとりあへず、はるばる登り侍りぬ。父の在家知り給はゞ逢はせ給へ、いかでいかでと泣く泣く言出づれば、うちうなづきて、げにことわりなりけり、さらば尋ね求めて逢はせ參らせむとて、彼方こなたかけあるきつゝ、からうじて坊がありか尋ねあたりて、かくてしかじかのよしかたりければ、坊とかうの返事なく、硯とり出て[やぶちゃん注:「いだして」。]、墨すり流し、



かゝる畫かきて、うへにほ句[やぶちゃん注:「發句」。]書ていふやう、あふべきよしなし、此一片の紙を與へて還したまひてよとて投出しつゝ、かくて其身は雪の越路の冬ごもりこそ好もしけれとて、うち立たむとしけるを、袖をひかへて引とゞむれど、ふりはなちて草鞋さへはかずして、越路をさして走りゆきぬ。橘屋何がしほいなく[やぶちゃん注:「本意なく」。不本意で期待外れに。]思ひけれど、せむすべもなく、かのかいつけたるを持て歸り來て、ありしことのよしを語りければ、むすめはたゞふしにふして泣きけり。あるじも共に淚にかきくれけるを、やゝありて娘頭を擡げて[やぶちゃん注:「もたげて」。]いふやう、かくまで淸き御こゝろを强ひて慕ひまゐらするは、わが心匠[やぶちゃん注:「たくみ」。思慮。]のつたなきなり、これぞ我身にとりてこのうへ無きかたみなるとて懷にいれて、いとねもごろにあるじに暇乞して、父のふるさとこそ戀しけれとて、關の里へかへり、みづから髻[やぶちゃん注:「もとどり」或いは「たぶさ」。]をはらひ、幽閑なる山陰の竹林に草の菴をむすび、かの都よりもて歸りたるを一軸となして、明暮父に事ふる心にして、かの一軸をぞかしづきける。坊かゝるよし越路にて聞て、遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]馳せ歸りて、かく染衣[やぶちゃん注:「ぜんえ」。僧衣。]の身となりぬれば、過ぎこし方の物語し、一椀の物をも分けつゝ食ひて、ともに侘住居[やぶちゃん注:「わびずまゐ」。]せむと、心うちとけて、多年の思一時に[やぶちゃん注:「おもひ、いつときに」。]はらし、かくて辨慶庵といふ額を自ら書て懸けつゝ、此庵の名としぬ。【調度七つをもて明暮の辨用とするゆゑとぞ】さるを一とせもたゝざるうちに、又風雲の心おこりて、風羅念佛を歌ひ、浮れて走り出ぬ。かくて播磨國姬路の里は親しき友多ければ、尋行てこゝに足とゞめしを、日あらずして病して終に姬路にて身まかりぬとぞ。
[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像をトリミング・補正して挿入した。]



追加

 春

 南部に年を越して
まづ米の多い處で花の春

鶯のうす壁もるゝ初音かな

下萠もいまだ那須野の寒さ哉

宵闇も朧に出たりいでて見よ

飛て又みどりに入るや松むしり㈠
《㈠ 松むしりは小鳥の名》
[やぶちゃん注:「松むしり」は菊戴(きくいただき:スズメ目ウグイス科キクイタダキ属キクイタダキ
Regulus regulus)の別名。松の若葉の頃に葉をよく毟り食うのでこの名がある。「まつくぐり」とも呼ぶ。]

  山中に入湯して
ここもはや馴れて幾日の蚤虱

惟然坊は枕のかたきを嫌はれしが、故鄕へ歸るとて草庵を訪れける、なほいまだ遠き山村野亭の枕に如何なる木のふしをか侘びむと、
木枕の垢や伊吹にのこる雪   丈草
  かへし
うぐひすにまた來て寢ばや寢たい程
[やぶちゃん注:これは「翁に隨從惟然行脚の事」のエピソードを踏まえたものであるが、事実であろう。ゆうぜん氏のブログ「5522の眼」の「伊吹に残る雪」によれば、この丈草の『句は、同門の友人惟然が芭蕉の法要に出席の為に丈草の庵に滞在し』、『その別離の際に詠んだものだという』。『放浪旅にあっても枕にだけは贅沢な惟然に垢の付いた古枕でしか供応できないことを詫びながら、それを遠くから見慣れた伊吹山ののこり雪とでも思って許して欲しいといった意味の句である』。『惟然は美濃関、丈草は尾張犬山、どちらも東側から伊吹の山景をつねに見ていた二人というベースがあってこの句が生きるわけ』であると評しておられる。]

行く春や寢ざめきたなき宵の雲

  ○

ほととぎす二つの橋の淀の景

ただ物はもてなすべき美惡を知らむにこそ、その愛する心のすがたも別るゝにあめれ、あるじ雪下風人は淵明が菊にならひ、宗祇の朝がほをもおもはるゝ草々花の籬中ながら、とくに蘭にありもはらならむ。古人もあわたゞしからぬ匂の一間へだつるに、なほなほなればことにとぞ、草中に入て其香をしらず、知らざるにより其談無味をしられつる、にほひなほうすうすとしてうすうすしからぬも、又風雅の友にこそ。
すんこりとなほなる蘭かことに月
《㈠ 誤脫あるには、文意通ぜず》

磯際の浪に啼きゐるいとゞ哉

夜あらしに尻吹きおくれ峯の鹿

  ○

しぐれけり走り入りけり晴れにけり

彥山の鼻はひこひこ小春かな

長いぞや曾根の松風寒いぞや

山茶花や宿々にして杖の瘦

しめなほす奧の草鞋や冬の月

名とりとの二つ三つ四つ早梅花仙
《㈠ 一本「名のりそ二つ三つ四つ早梅花」とあり》

  花柚押
ゆべしゆべし汝そよ、ある園に生し實の經山寺の會下となり、味噌にあらぬ華衣
晚方の聲や碎くるみそさゝい
[やぶちゃん注:「花柚押」これで「はなゆべし」と読んでいるのではないか。「花柚」はムクロジ目ミカン科ミカン属ハナユ
Citrus hanayu(ユズ Citrus junos とは別種)というユズの一種があり、果実は柚よりも小さく、花・莟・果実の皮の切片を酒や吸い物に入れたり、料理の付け合わせに用いたりしてその香気を賞する。私はそれと採る。
「經山寺」これは恐らく「徑山寺」の誤字であろう。徑山寺は「きんざんじ」と読む。中国(浙江省杭州市余杭区径山鎮)にある仏教禅寺で正式名は徑山興聖萬壽禪寺。南宋の五山の一つで、日本の茶道や径山寺味噌(金山寺味噌)の由来、醤油の起源等の諸説との関係が指摘される寺である。
「會下」「ゑげ」と読む。「会座 (えざ:法会に参会した者の座る席) に集まる門下の意で、 ここは修行僧。花柚の実を擬人化した。]

ゆつたりと寢たる在所や冬の梅

  贈杜國
笠の緖に柳綰ぬる旅出かな
《㈡ 此句一葉集に收めたれば芭蕉の句なるべし》
[やぶちゃん注:「綰ぬる」は「わがぬる」で「撓(たわ)め曲げて輪にする」の意。藤井は芭蕉の句とし、前書のそれを含めて、確かに俳諧選集「もとの水」・「袖日記」・「一葉」などに於いても芭蕉の句とするも、中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)では「誤伝の部」に配し、彼の句とは認めていない。惟然と杜国(彼は元禄三(一六九〇)年に没している)の交友を私は知らぬし(二人の居住地は近いのでなかったとは言えない)、これは杜国存命当時の惟然の句風とは私には思えない。因みに「一葉集」は仏兮と湖中編に成る文政一〇(一八二七)年刊で、余りに後世(芭蕉没年からでも百三十三年も後)のもので、これは芭蕉の句ではなく、何者かによる偽作の可能性が強いと感じている(かなりそれらしくは作られているが、かえってそれが逆にあざとく見えるのである)。山本健吉氏の「芭蕉全句」にも所収しない。]

古沓や老の旅出のひろひ物
《㈢ 此歌[やぶちゃん注:ママ。]も惟然の作にはあらざるべし》
[やぶちゃん注:「古沓」は「ふるぐつ」。]


  相國寺にて
鶯に感ある竹のはやしかな
《㈣ これも一葉集にあり》
[やぶちゃん注:京都市上京区にある臨済宗萬年山相国寺であろう。読みは「しやうこくじ(しょうこくじ)」。]

  山頭月掛雲門餅
  屋後松煎超州茶
佛法は障子のひき手峯の松
  火打袋にうぐひすの聲
   これこれを以て俳譜の變化を知るべし
[やぶちゃん注:前書は禅語にあるが、「超」は「趙」の誤字である。「山頭 月は掛く 雲門の餅 屋後(をくご) 松は煎(せん)ず趙州(でうしう)の茶」と読むが、禅語であればこそ原拠や意を解くは野暮というものである。なお、ここで私はど素人で判らぬから解説を放擲するのではない。「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」なんてものをやらかしている。ご笑覧あれ。「雲門」も「趙州」もそこに出る、お馴染みのものである。]

  ○

 煙草のまぬ傾城と菓子食はぬ俳諧師は少なきものなり
ちり枝や鶯あさる聲のひま



再追加

 春
ふみわける雪が動けばはや若菜

  深更
寢られぬぞ未だ寒さの梅の花

  深川庵
思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ

磯際を山桃舟の日和かな



 夏

  奈良の高僧供養に詣でて、
  片ほとりに一夜をあかしけ
  るに、明けて主に遺すべき
  料足もなければ、枕元の唐
  紙に名處とともに書捨てゝ
  のがれ出侍る
短夜や木賃もなさでこそばしり

  故鄕の空を眺めやりて
あれ夏の雲また雲のかさなれば

  辨慶庵盆の賀
茶の下に眞菰はくべて裸粽

  越中に入る
ゆりいだす綠の波や朝の風

かろかろと荷を撫子の大井川



 秋

初秋をもてなすものや燕の羽

待宵や流浪の上の秋の雲

またいつと寄占のはたや秋の風
[やぶちゃん注:この句よく判らぬが、一つ、「寄占」は「哥占」(うたうら:巫女の唱える歌や選びとった短冊にある歌による占い)の誤字ではなかろうかとちょっと感じた。]

  もゝ嶋の浦は村上近き所に
  て有明の浦ときけば
月に鳴くあれは千鳥か秋の風
[やぶちゃん注:このロケーションはどこだろうといろいろ考えた。判らない。広島の村上水軍と関わりのある百島があるが、どうもピンと来ない。惟然が「奥の細道」逆コースで辿ったことを考えた(以下の句の順がそれとなっているからである)。而して現在、新潟県「村上」市「有明」(グーグル・マップ・データ。現在の海辺ではないが、海に近い)があり、その南西の日本海沿いに「桃」崎浜があるのを見つけた(前のマップを参照)。それに「嶋」は「崎」と崩し字が非常に似ているのだ。いや、ただそう感じただけのことではある。]

  湯殿山にて
日の匂ひいたゞく秋のさむさ哉

松島や月あれ星も鳥も飛ぶ

  象潟にて
名月や靑み過ぎたるうすみ色

  酒田夜泊
出て見れば雲まで月のけはしさよ

  元祿八年の秋西海の覊旅思
  立ち月に吟じ雲に眠りて九
  月一日崎江十里に落付たる
朝霧の海山うづむ家居かな
[やぶちゃん注:この句は恐らく「渡鳥集」(卯七・去来編)に出るものであろう。その前書は原本(リンク先は「早稲田大学図書館古典総合データベース」の当該箇所の画像)を見ると、正確には「元祿八年の秋西海の覊旅おもひ立月に吟し雲に眠りて九月一日崎江十里亭に落つきたる」とある。而してこの「十里亭」を調べるに、長崎の蕉門俳人簑田卯七の号である。「崎江」は長崎を表わす語として用いられる。因みに、画像で判る通り、この句に卯七は「このころ秌の鰯うり出す」(「秌」は「龝(秋)」の異体字)と脇を付けている。]

七夕やまだ越後路の這入りぞめ

行く雁の友の翼や魚の棚

風に名のあるべきものよ粟の上

粟の穗をこぼしてこゝら鳴く鶉

夕暮れて思ふまゝにも鳴く鶉

  羽黑山に僧正行尊の名あり
  けるに里人に案内せられて
豆もはやこなすと見れば驚かれ
[やぶちゃん注:「行尊」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 43 月山 雲の峰幾つ崩れて月の山』を見られたい。]

  芭蕉翁の伊賀へ越し給ふを
  洛外に送りて
まづ入るや山家の秋を稻の花

時を今渡るや鳥の羽黑山

  伊丹の鬼貫を尋ねし時
秋晴れてあら鬼貫の夕べやな
[やぶちゃん注:鬼貫の脇は「いぜんおじやつた時はまだ夏」。「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 惟然 二」を参照されたい。]


 冬

刈りよする蔦の枯葉や雪の朝

雪をまつ家なればこそ有りのまゝ

錢湯の朝かげ淸き師走かな

春かけて旅のヤドリや年忘

  奧の細道
萩枯れて奧の細道どこへやら



曙庵道人我關里に來給ひて、一日惟然坊が舊庵に遊び、道人坊が人となり、坊の唫詠をよく覺え、詳に語りてのたまふやう、惟然以前惟然なし、惟然以後惟然なし、前後その風調を似せさせず、誠に俳家に二なき風骨なりと歎美し給ふ。けふ庵につどへるものそれを喜び、それを慕ひて、とりあへず道人の筆勞をかりて此集なりぬ。

秋 香 亭  巴    圭  

[やぶちゃん注:「唫詠」は「ぎんえい」。吟詠に同じい。「詳に」は「つまびらかに」。]



ナル哉鳥落人之爲ㇾ人也、奇ニシテ而不自知其奇ナルヲ。身ニシ江壑焉、句々愈出愈奇ナリ。顧フニ是古今風騷之一人ニシテ、而遊ベル方之外者也。宜矣、世キコトㇾ知ルコト其爲ルヲ奇人。秋擧道士多年悲ㇾ之、遂其甞跋涉シテㇾ拾ヒシ之句、欲ㇾ木以公ニセンコトヲ于世、鳴嘑可ㇾ謂勤タリト矣。其詳ナルコトハ朱樹先生既述タリㇾ之、小子又何セン

  文化壬申花朝前一日     三 河  宍 戶 方 鼎 併書
[やぶちゃん注:宍戸方鼎(ししどほうけい)は本名は隆熹(りゅうき)か。「文化壬申」は文化「壬申(みづのえさる)」九年。「花朝前」の「花前」は「かちょうぜん」で陰暦二月の異称の他に、中国では特に二月十五日を指す。宍戸は漢文で跋を書いている通り、漢詩集の編も行っているから、ここは後者で、文化九年二月十四日(グレゴリオ暦一八一二年三月二十六日)の意であろう。訓読しておく。一部の送り仮名が略されているのでそうした部分と読みは推定で歴史的仮名遣で補った。
   *
奇なるかな、鳥落人の人とりや、おのづから其の奇なるを知らず。江壑かうがくを身にし、句々、いよいよ、出でて、いよいよ、奇なり。おもふに、是れ、古今風騷の一人にして、はうそとに遊べる者なり。むべなるかな、世に其の奇人るを知ること無きことを。秋擧道士、多年、之れを悲しみ、遂に其の甞て跋涉して拾ひし所の句を集め、ぼくのぼせて、以つて世におほやけにせんことを欲す、鳴嘑ああ、謂ふべし、「勤めたり」と。其のつまびらかなることは朱樹先生、既に之れを述べたり、小子、又、何ぞぜいせん。
  文化壬申花朝前じんしんくわてうぜん一日
            三河  宍戶方鼎ししどはうけい ならびに書す
   *
「江壑」は水辺や山谷で、それを「身にし」とは無為自然の中に身をおくことを指す。「方」は通常の世界の物の在り方。]



       ――――――――――――――――

文化九壬申歲春三月