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鬼火へ

[やぶちゃん注:底本は1984年平凡社刊「南方熊楠選集 第三巻 南方随筆」を用いた。冒頭「一」の章題の下部には、ポイント落ち二行で、以下の記載がある。『南方「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」一節参照(『東京人類学雑誌』二七巻五号三一三頁)』。傍点「丶」は下線に代えた。【2022年5月22日追記】「睡人及死人の魂入替りし譚」(「南方隨筆」底本正規表現版・オリジナル注附・縦書PDF版)を公開した。]

 

睡人および死人の魂入れ替わりし譚   南方熊楠

 

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『和漢三才図会』巻七一に、「伊勢国安濃郡内田村長源寺。相伝えていわく、むかし当地(ところ)の人と日向の国の旅人と、たまたま暑を堂の檐(えん)に避く。たがいに知らず。熟睡して日すでに暮る。人あって倉卒(にわか)にこれを呼び起こす。両人周章(あわ)てて覚む(めざ)。その魂入れ替わって、おのおの家に帰る。面貌はその人にして、心志音声ははなはだ異なれり。家人あえて肯(うけが)わず。両人とも然(しか)るゆえ、再びここに来てまた熟睡すれば、すなわち夢中に魂入れ替わりて故(もと)のごとし。諺にいう伊勢や日向の物語とはこれなり。ある紀(その名は偽書『先代旧事本紀』なりしと記憶す)にいわく、推古天皇三十四年三月壬午の日、五瀬(いせ)の国ならびに日向の国より言(もう)す。五瀬の国黄葉県佐伯(さえき)の小経来(こふく)、死して三日三夜にして蘇(よみがえ)る。日向の国小畠(こはた)の県依狭(よさむ)の晴戸(はれと)という者、同日に死して同日に蘇り、妻子および栖(す)むところの郷村(さと)の名をも知らず。五瀬の者は日向のことを語り、日向の者は五瀬のことを語るに、父子郷村の名分明らかなり。その子弟(こども)たがいに至って問うに符合(わりふあ)う。何をもって然るや。両人同時に死して、共に冥府に至る。黄泉(よみじ)の大帝議していわく、両人の命いまだし、よろしく郷に還(かえ)すべし、と。冥使これを率いて来たり、誤りてその魂尸(こんし)を差(たが)う。両家の子弟深くこれを不審(いぶか)り、これを県社に問う。明神、巫(みこ)に託(よ)って告げていわく、冥使は通明なり、何ぞ誤るところあらん、人、魂鬼を知らず、また多く冥府を疑う、と。冥帝これを知ってこれを証し、これを教うることかくのごとくなるのみ。その身はわれらが父といえども、心はすなわちわが実父にあらず。心父にあらざれば身は由(よし)なし。父もまた子を為(おも)わず。願わくは父を替えんと欲す、と。朝廷(みかど)符を下して、父子の願いに任(まか)す。よって小経来は日向に至り、晴戸は五瀬に至り、故(もと)のごとくして、行業(すぎわい)も郷の名もまたこれを替う」。

 この後話の方は、死人の魂他人の尸(しかばね)に入れ替わりて蘇生後、身辺のことを一切知らず、故郷のことのみ語りし、と言えるに反し、前話の方は、睡中両人の魂入れ替わりながら、その体おのおの異人の魂を具して故郷へ帰れりとするものなれば、この話を作りまた信ぜし人々は、人体おのずから特異の方角識(センス・オヴ・ジレクションスを有し、万一他人の魂本来の魂と入れ替わりてこれに寄るとも、その体は在来の方角識のままに故郷を指して帰り去るはずと心得たるを証す。事すこぶる奇怪なるごときも、狂人の精神夢裡の思想全く別人同様変わり果てたるも、なお身体の動作は多少本人在来の通りなる例多きを参すれば、この前話は精神変態学上の面白き材料たりと思わる。

 さてこの話を英訳して、一九一二年十一月三十日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出だし、西洋にもかかる譚ありやと問いしも、一答文だに出でざりし。ただし、支那に類話あるを近日自分見出だしたればここに掲ぐ。『酉陽雑俎』(著者段成式は西暦八六三年死せり)続集三にいわく、「開元の末、察州上蔡県南李村の百姓李簡(りかん)、癇疾にて卒す。瘞(うず)めてのち十余日、汝陽(じょよう)県の百姓張弘義(ちょうこうぎ)、もと李簡と相識らず、おるところ相去ること十余舎(一舎は三十五里)、また病によって死し、宿(よる)を経てかえって活(い)く。また父母妻子を認(みし)らず。かつ言う、われはこれ李簡、家は上蔡県南李村にあり、父の名は亮なり、と。驚いてそのゆえを問う。言う、まさに病む時、夢に二人あり、黄なるを著(つ)け、帖を齎(もたら)す。追(ひった)てられて行くこと数里、一の大域に至る。署して王城という。引かれて一処に入る、人間(ひとのよ)の六司院のごとし。留まりおること数日、勘責せらるること、ことごとく対(こた)うるあたわず。たちまち一人の外より来たるあり、称すらく、錯(あやま)って李簡を追(ひった)つ、ただちに放還すべし、と。一吏いわく、李簡の身は壊れたり、すべからく別に生を託すべし、と。時に父母親族を憶念し、別処に生を受くるを欲せず。よって本身に却復(かえ)らんことを請う。少頃(しばらく)して、一人を領(つ)れ至るを見る。通(もう)していわく、雑職(ぞうしき)の汝陽の張弘義を追(ひった)て到れり、と。吏またいわく、弘義の身幸いにまだ壊れず、速やかに李簡をしてその身に託して、もって余年を尽さしめよ、と。ついに両吏に扶持(かか)えられて、城より却(かえ)り出づ。ただ行くこと甚だ速やかにして、ようやく知るところなし。たちまち夢の覚(さ)むるがごとく、人の環(かこ)みて泣くと屋宇とを見る。すべてまた認(みし)らず。亮、その親族の名氏および平生の細事を訪(と)うに、知らざるなし。先に竹作(ざいく)を解(よ)くす。よってみずから房に入り、刀具を索(もと)め、篾(べつ)を破(わ)って器を成す。語音も挙止も、まことに李簡なり。ついに汝陽に返らず(南李村に帰り、父亮と共に棲みしなり)。時に成式、三たび叔父に従いて、蔡州の司戸を摂(か)ね、したしくそのことを験す。むかし扁鵲(へんじゃく)は、魯の公扈と趙の嬰斉(えいせい)との心を易(か)え、寤(さ)むるに及んで、たがいにその室に返り、二室相諮(はか)る。これをもってこれを稽(かんが)うるに、寓言にあらざるなり」。ここに言える扁鵲の故事は、現存この類話中最も古きものらしく、『列子』湯問篇に出でたり。    (大正三年七月『人類学雑誌』二九巻七号)

 

          二

 

 押上中将このごろ『聊斎志異』一六巻を恵送せられ、いわく、この中に、死人の魂、他の死人の身に入れ替わる話一、二ありしと記憶す、と。予多忙中全論を通覧せざれど、その第一巻に次の一条あるを見出だしえたれば報告す。いわく「長清の僧某は、道行(どうぎょう)高潔、年八十余にしてなお健やかなり。一日、顚(まろ)び仆(たお)れて起(た)たず。寺僧走り救うも、すでに円寂せり。僧、みずからの死せしを知らず、魂飄(ひるがえ)り去って河南の界(さかい)に至る。河南に故(ふる)き紳(しん)の子あり、十余騎を率いて鷹を按(おさ)

え兎を猟す。馬逸(はや)り、堕ちて斃(たお)る。魂たまたま相値(あ)い、翕然(きゅうぜん)として合す。ついにようやく蘇る、云々。目を張っていわく、なんぞここに至れる、と。衆扶(たす)け帰って門に入れば、すなわち粉白黛緑(たいりょく)の者、紛(むらが)り集まって顧み問う。大いに驚いていわく、われは僧なり、なんぞここに至れる、と。家人もって妄(もう)となし、共に耳を捉(と)ってこれを悟(さ)ます。憎またみずから申解(いいわけ)せず、云々。酒肉はすなわち拒み、夜は独り宿す、云々。諸僕紛(むらが)り来たって、云々、入りまじって会計を請う。公子は託するに病に倦(つか)るるをもってし、ことごとくこれを謝絶す。ただ、山東の長清県のことを問う、云々。翌日ついに発して長清に抵(いた)る、云々。弟子は貴客の来たるを見て、云々。答えて言う、わが師はさきごろすでに物化す、と。墓所を問うに、群れ導き、もって往く。すなわち三月の孤墳にして、荒草なおいまだ合(おお)わず、云々。すでにして馬を戒(そな)えて帰らんとし、嘱していわく、汝の師は戒行の僧なり、遺(のこ)すところの手沢(しゅたく)よろしく恪守(かくしゅ)すべし、と、云々。すでに帰り、云々、灰心木坐して、ついに家務を勾当(とりしき)らず。居ること数月、門を出でてみずから遁れ、直(ます)ぐに旧(もと)の寺に抵(いた)り、弟子に謂う、われはすなわち汝の師なり、と。衆その謬(あやま)れるを疑い、相視て笑う。すなわち返魂の由を述べ、また生平のなすところを言うに、ことごとく符す。衆すなわち信じ、居らしむるに故(もと)の榻(とう)をもってし、これに事(つか)うること平日のごとし。のち公子の家より、しばしば輿(かご)と馬をもって来たり、これに哀請するも、暗(いささ)かも顧瞻(こせん)せず。また年余、夫人紀綱(めしつかい)を遣わして至り、餽遺(きい)するところ多し。金と帛(きぬ)はみなこれを却(しりぞ)け、ただ布袍(ぬのこ)一襲(ひとかさね)を受くるのみ。友人あるいはその郷に至り、敬してこれに造(いた)るに、その人の黙然として誠篤なるを見る。年わずか而立(じりゅう)にして、すなわちその八十余年のことを道(い)う」。(大正三年十月『人類学雑誌』二九巻一〇号)

 

          三

 

『今昔物語』巻二〇に「讃岐の国の女、冥途に行きしが、その魂還りてほかの身に付きける語(こと)、第一八」あり。芳賀博士の攷証本に、その出処として『日本霊異記』巻中、「閻羅王の使いの鬼、召さるる人の饗(あえ)を受けて、恩を報いる縁」を出し、類話として『宝物集』巻六を引きおる。まず死人の魂が他の屍体に入れ替わった譚の本邦で最も古く記されたのは、件(くだん)の『霊異記』(嵯峨帝の時筆せらる)の文だろう。

『今昔』のも『霊異記』のも長文ゆえ、『宝物集』のばかりここに引こう。いわく、讃岐国に依女という者あり。重き病を受けて命終わりぬ。父母悲しみのあまりに祭をなしたりければ、鬼ども祭物を納受してけり。鬼神の習い祭物を受用しては空しくて止むことなきがゆえに、同名同姓のものに取り替えてけり。故(もと)の召人の依女を返し遣わすに、物騒がしく葬送を疾(と)くなしたりければ、犬烏食い散らして跡形なかりければ、今の召人が体(むくろ)に故の召人の依女が魂を入れてけり。すなわち蘇生して物を言うに、形はわが娘なりといえどもわれをも見知らず。物言えるも替われり。故の依女が父母このことを伝え聞きて、行きて見れば、形はわが娘にあらずといえども、われらを見知りて泣き喜び、物言う声違(たが)うことなし。このゆえに四人の父母を持ちたり。諸法の空寂なること今生すらかくのごとし。いわんや流転生死の空寂推して知り給うべきなり。 (大正四年一月『人類学雑誌』三〇巻一号)